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もっと「自由」に思い描ける人生でいい ― ゴールベース資産運用を全ての人のために

自由に思い描けるからこそ、商売も人生も面白い。


「資産運用」をあたりまえにしていく株式会社Fan。ネットとリアルを融合したIFA事業を掲げる同社では、富裕層のみならず資産形成層にも適切な金融サービスが提供される社会を創る。資産運用を気軽に相談できる身近な窓口となる店舗「投資信託相談プラザ」など日本全国に9拠点を展開するほか、2021年からは、金融システム向けAIを自社開発する気鋭のFinTech企業AlpacaJapan社と協業。投資未経験者にも分かりやすい株式投資AIロボアドバイザー「Alpaca ROBO」を協同展開している。


代表取締役の尾口紘一は、新卒で日興コーディアル証券(現 SMBC日興証券)に入社し、FA(ファイナンシャル・アドバイザー)として資産コンサルティング業務に従事。2008年に地元富山県でFanを設立した。自身も講師を務める資産運用セミナーは開催数500回以上、延べ参加人数2万名以上という実績を持つ同氏が語る「自分なりの起業」とは。





1章 Fan


1-1. 「資産運用」をあたりまえに


東は宇都宮から、西は佐賀まで。富山県富山市に本社を置くFanは、2022年1月現在、東京・名古屋などをはじめとする全国9つの主要都市に支店や店舗を構える。在籍するIFA(独立系投資アドバイザー)は総勢54名。いずれも大手証券会社出身者を中心とするプロフェッショナルばかりだ。


富裕層向けに金融サービスを提供してきた従来の対面型証券に対し、インターネットの普及や手数料自由化という追い風を受け、1990年代末以降に勃興したネット証券。さらに、先行き不透明な社会情勢も相まって将来の資産形成への不安感が高まるにつれ、資産運用に触れる層の裾野は少しずつ広がってきた。


しかし、掲げるビジョンに対して、尾口は正直な心情を吐露する。


「資産運用を当たり前にするって、すごく難しいんですよ」


収入や私生活がある程度安定し、これから資産を形成していこうとする30~40代。いわゆる「資産形成層」と呼ばれるマス向けに対しても、金融サービスを提供していこうとする同社。だが、その道のりはなだらかではない。


実際、同社の店舗に来店する資産形成層の悩みや関心事は、「つみたてNISA」のように小額かつ長期的投資の始め方や、漠然とした将来の資産への不安などが多い。


サービスとして付加価値をつけやすい富裕層、あるいは手数料率の高い保険業と比べ、資産形成層へのサービス提供は発生する手数料が少ない。特に、店舗型IFAとしてそれを実現するにはビジネスモデルとして収益化が難しい構造がある。


同社の領域に参入しようとする企業は少ない。しかし、だからこそ成功例を作ることに意味があり、可能性があると尾口は考える。


「一口に資産運用と言ってもFXや仮想通貨などもありますが、弊社では『ゴールベースの資産運用』を掲げています。商品の販売ではなく顧客の人生のゴールを定め、そのためのプランを提示し、長期的、継続的にサポートする。その浸透を図ろうとしています。つまり、証券だけでなく、保険も不動産も住宅ローンも、ライフプラン全般のアドバイスができれば十分付加価値をつけられると思っています」


尾口が描く世界観は、同社が展開する資産運用の相談専門店「投資信託相談プラザ」が、資産形成層にとっての「新しい資産運用の相談窓口」となる未来だ。


ショッピングセンターなど街中にありふれた存在として、Fanがリアルな店舗展開の先駆けとなる。


「実際、証券会社とかに相談に行かない理由って、1番は『敷居が高いから』と回答されています。その考え方がすごく邪魔なんです。だから、店舗も高級路線ではなくて、なるべくポップな感じを目指していますし、資産運用自体をなるべく簡単に分かりやすくするサービスも必要だと思っていて」


AIとFinTechの掛け合わせで次世代を拓くAlpacaJapan社。そして、SBI証券との3社協同プロジェクトとして実現した「Alpaca ROBO(アルパカロボ)」がそれにあたる。


ユーザーには日本株個別銘柄の「強気シグナル(買い時)」「弱気シグナル(売り時)」が毎営業日配信され、それを参考に銘柄選びができるほか、ポートフォリオの提案機能もある。


株式投資の経験がない人でも、簡単で楽しい。ネット証券とも、従来のロボアドバイザーとも違う。AIを活用した提案型の株式投資サービスだ。投資とは縁遠い人にこそ触ってほしいものになっているという。


「弊社のサービスが勝ち残っていけるかどうかはこれからですが、そういう時代に入ったじゃないですか。ここ3、4年でポイント投資が一気に広まったり、投資が普及するきっかけが広がってきていることは間違いないので、それに対する第2第3ステップのサービスとして認知されれば可能性は十分あると思っています」


今こそ次の段階に入るべき時代が来た。そう信じ、ITの活用によって「資産運用を手軽に、身近に、簡単に、楽しく」していく。


最適な情報を提供し、顧客の資産運用・資産形成を支援する。風を送りだす扇風機のファンをイメージし、Fanという社名を選んだと尾口は語る。同時にそこには、サービスを愛してくれるファンを大切にしたいという思いも込められている。


誰もがやりたがらない挑戦だが、より多くの人、なおかつ尾口にとって身近な人たちの人生を豊かにする挑戦でもある。


答えはまだ見つかっていない。それでもきっと、Fanは金融業界に新しい風を吹かせてくれる。




2章 生き方


2-1. 商売の原点


海に面する富山県でも、港町で知られる伏木という町に生まれた。少し高台にある家は海から歩いてすぐ、300~400メートルほどの距離にある。2階の窓の外に目をやれば、日本海にそそぐ川が海とぶつかるあたりの景色が一望できた。


地元富山県で起業した尾口は、今でもよく帰るという実家周辺の風景のなかの記憶を辿る。


「子供の頃はそういうところで釣りなどをして遊ぶことが多かったですね。魚がたくさん釣れた時なんかには、買ってくれるんじゃないかなと期待して魚屋さんに持って行ったりして。本当は店の人も絶対買いたくなかったと思うんですけど、買ってくれましたね(笑)。100円くらいもらっていました」


どちらかと言えばやんちゃな方だったという。人より体が大きかったこともあり、ちょっとしたガキ大将のような存在だった。放課後みんなで遊ぶときには、遊びを考える側であることが多かった。


たとえば、おもちゃのピストルでBB弾を打ちあったり、ゲームセンターに行ったり。お小遣いはもらっていたがすぐに無くなってしまう。100円玉1つだとしても、それを使っていかに楽しい時間を過ごせるかをいつも自然と考えていたという。


「もともと一番初めに商売っぽいことをやっていたのは、小学校1、2年生の時だと思うんです」


ある日、電車で2、3駅先まで遊びに行った時のことだった。近所の街では見かけない、中古ソフトの買取ショップというものに出会った。父に買ってもらったゲームソフトなどを持って行けば、1,000~2,000円というなかなかの金額で買い取ってもらえる。


当時はファミリーコンピュータやゲームボーイなどの家庭用ゲーム機が、一世を風靡した時代。クラスの友達もみんなが夢中になっていた。その友達からソフトを500円ほどで買い取って、1,000円で売れば手元に500円の儲けが残る。この大発見に目をつけたのだ。


「高価買取の一覧が載っているチラシとかがあったので、そこから半額くらいにしたものを買うよみたいなチラシを自分で作ったんですよ。で、クラスで配って。そしたら先生に見つかっちゃって、お母さんが学校に呼ばれてすごい怒られました(笑)」


友達は知らないお金を増やす方法があるということ。それを自分の発想から生み出し、実践してみる面白さ。幼い頃から商売というものの一端に触れつつあった尾口。もしかしたらそこには、両親の仕事の影響もあったのかもしれない。


幼少期、父と2人の姉と


「父は50歳くらいまで親戚の石油会社で働いていて、そこが不動産事業に乗り出して別会社をつくった時に社長になって。不動産業とかトランクルーム事業みたいなことをやっていました」


まだトランクルームという業態が今ほど普及していなかった頃だった。地方ではなおさら流行らないという声もあったらしい。それでもやってみたいと行動を起こしたのが父だった。従業員は当初3、4人いたようだが、やがて父1人で経営していた。


サービス名は「グリーントランクス」。人気少年漫画『ドラゴンボール』の登場キャラクター「トランクス」から取った名前だ。まさかそんなに自由な決め方があっていいなんて思いもしなかった。


自分が思うように事業を描き、つくっていた父の姿が印象に残っている。


「出社する時間とか、ある程度自由に組めたりするじゃないですか。逆に母が市役所の公務員だったので、すごく真逆に見えたんです。1人でやりたいように働いていることとかにも、自由で良さそうだなぁとか思ってましたね」


自分なりに考え、自分なりに進める。その自由が、経営という仕事にはある。


一方、母も市役所でいち早く昇進し、管理職に就くなど仕事には精力的に取り組んでいたようだった。しかし、意にそぐわない異動も数回あったらしい。やりたい仕事ばかりできるわけじゃない。給与も良く安定した仕事だが、話を聞くとどうにもならないこともあるのだと思わされた。


正反対な仕事をしていた両親、その背中を見て育った。幼い尾口が憧れたのは父のような自由な働き方、経営者だった。


幼稚園、芋掘りにて



2-2. 自由な環境に身を置きたい


両親が共働きだと、幼いながらに1人で時間をつぶさなくてはならない。幼稚園のサッカースクールに入ったきっかけもそうだった。


以来それなりに上達もしたが、小学校6年間を終えたタイミングであっさりと見切りをつける。サッカーそのものというより、環境が合わないと感じていたという。


「走るとかほかの運動なら1番になれるのに、サッカーだと自分より上手い子がいたりして。かつ上の学年の人もいて何かあると言われて窮屈で。そもそも練習もサボってましたし、そういうのが嫌だったんでしょうね。練習前に走ったりとかもすごい嫌で。なんで掛け声出して走らなきゃいけないのかなとか、すごい卑屈に感じてましたね(笑)」


少しでも目立つ振舞いをすると上から目をつけられる環境や、無条件に課されるきつい練習は窮屈で肌に合わない。だから、中学からはソフトテニス部に入ることにした。絶対的にチームスポーツであるサッカーよりは、個の力で闘えそうなテニスの方が向いているのではないかと考えたからだ。


1年生で県の大会で3位になり、3年生になるとキャプテンを務めた。もともと強い学校ではなかったため、強くなったと言っても県大会止まりだ。それでも、キャプテンとして自分なりに部を率いるのは面白かった。


自分なりの練習を考え、試合で結果を残す。そうしていくうちに、強豪校の目にも留まるようになった。同じ市内にある強豪中学の先生から、転校も視野に練習参加の誘いを受けたのだ。数年後、君が高校3年になる年には地元富山で国体が開催されることになっている。その晴れの舞台を本気で目指すつもりがあるのなら、考えてみないかということだった。


「嬉しかったんですけど、それを私は断ってるんですよ。今はサッカー選手とかでも、当たり前のように小学校から親元離れる人たちっているじゃないですか。そういう決断ができなかったんですよね……。おそらく信念がなかったんだと思います」


いずれはプロのテニス選手に。当時、サッカーでは無理だと悟った夢を思わないでもない。しかし、転校後の生活を考えると、厳しいスパルタ指導が待っていることは間違いない。きっと強くなるための練習としては普通なのだろうが、キャプテンである今の自由な環境に面白みを感じている自分はどうだろう。


サッカーの練習が嫌になっていった過去の自分がいたように、またテニスすら楽しくなくなってしまうようなイメージはどうしても拭えない。上手くなりたいという思いとは裏腹に、どうしても転校を決めることはできなかった。


普通に考えれば、チャンスだったのかもしれない。それでも、自由がある環境の方が合っている。


昔から課されて何かをやるよりは、自らが起点となって進める環境の方が生き生きとしていられる自分がいた。




2-3. 起業ブーム世代


高校に進学しても、テニスへの思いを失ったわけじゃない。高校を選ぶ時には、テニスの強い進学校を選んだし、進路相談では先生に「プロのテニス選手か、経営者になりたいです」と話していた。


しかし、大学受験が差し迫る頃には、テニスプレイヤーとしての実力の限界も見えてきた。「将来は経営者になれたら……」と淡い思いを抱きつつ、明確なイメージは湧かないまま大学生になった。


初めての1人暮らし。神奈川県横浜市に住みはじめる。


たまたま見つけたのは、2階部分だけが貸し出されている一軒家だった。1階では小学生向けに絵の教室が開かれているという少し変わった物件だった。床は畳でおしゃれでもなんでもないのだが、横浜でありながら少し田舎な感じもする雰囲気になぜか惹かれたのだ。


見知らぬ土地だが、仲が良かった高校の友達5、6人も引き続き同級生だ。彼らと一緒に海へサーフィンしに行ったりと、はじめはサークルにも入らず気ままに過ごしていた。


「大学2年の夏休みに、名古屋とかにいた友達が遊びに来て、1か月くらい私の家に3人でいたんですよ。最初は『ストリートファイター』っていうゲームばっかりしていたんですが、そろそろ働いた方がいいんじゃないかって話になって。ノリでボーイズバーみたいなところでアルバイトを始めたんです」


こじんまりしたその店で、3人揃って働きはじめた。時給は1000円。仕事中は入学式で着たスーツに身を包む。


店のメインターゲットは女性客というよりも、キャバクラやクラブで働く女性との同伴で利用する男性客だった。接客要員のアルバイトとしては、女性に代わり男性客と会話の相手をすることが求められている。必然的にやってくる男性客の仕事の話を聞くことが多かった。


「基本的にそういうところに来る方って経営者の方が多いんですよ。それこそ『どうして起業されたんですか』とか聞くことが多かったです。あんまり入りすぎると、その人も女性とのデートを楽しみたいので難しいんですけど。自分なりに改めて起業とかを意識するきっかけになりました」


何かビジネスに繋がることを自分でもやってみようか。そう思い始めた頃、ちょうど横浜にある音響の専門学校に通っていた高校の同級生(現在、Fanで取締役 経営企画部長を務める山本氏)と再会した。


起業や経営に興味があるのだと話すと、めずらしく話が盛り上がる。それまであまり賛同されたことがなかっただけに意外だった。山本君はもうすぐ卒業だが、その後何をするかは決めていないと言う。それなら2人で何かやってみようと、すっかり意気投合することになる。


「そこから当時アルバイト先の先輩が紹介してくれた造園業の手伝いをしたり、ホームページ制作に乗り出したり。2人で乗り気になって、山本も学費を稼ぎながらそういう専門学校に入り直して、私も資格取得のために勉強しながらという感じで。ポータルサイトを作ったりと、仕事になりそうなことを2人で作っていった。でも、なかなかお金にならないんですよね」


広告掲載料などはいくらが妥当なのか、掲載企業の広告費とそれに対する対価の考え方など問題に多々直面した。思い描いたような事業にたどりつけないばかりか、やればやるほど自分たちの甘さを突き付けられる。


起業を夢見る気持ちに嘘はない。しかし、そこへ向かう自信はすり減っていくようだった。


大学時代、友人たちと


「実際その頃ってホリエモンのブームもあって、起業自体ブームだったんですよ。起業を目指す学生向けのオフ会みたいなものも開かれていて。ただ、参加してみると自分の会社を持っていて将来総理大臣になりたいとか、『Winny*』を無効化するプログラムを作ったとか、そういう話を聞くうちに自分には無理だなと。自分には営業くらいしかないのかなって思うようになりました」(* 2002年公開のP2P型ファイル共有ソフト。著作権侵害のファイル交換に多用され、開発者が逮捕されるなど騒動となった)


明確な将来のビジョンと行動力。社会人にも劣らない技術知識や開発力。たぐいまれな能力を持つ同年代と比べると、自分には何もスキルなんてない。もう少し早くに気づきたかった事実だった。


一旦就職せざるを得ないのか。


いずれにせよ起業するなら両親に伝える必要があると思った。就活が始まる前に、母に手紙を書いた。


「このままできるか分からないけど、とにかく卒業したら山本と事業をやりたいと母親に手紙を送ったんですよ。そしたらものすごい長文で反対だということが永遠と書かれていて。舐めているという感じで言われちゃって。仕送りを受けていたこともあって、就職しなさいと。さすがにそこには逆らえなかった」


将来どうするにせよ、今は就職せざるを得ない。それをここまで約2年間をともに過ごした山本君に告げるのは申し訳なかったが、話し合いの末、まずは別々の道を歩もうという話になった。


いくら自由を望んでも、今の自分には自由に働くための力がない。たしかにビジョンも説得力も欠けていた。とはいえ、すぐに諦めることもできず、卒業ぎりぎりまで山本君と事業の可能性を探る。だが、結局は花開かないまま卒業を迎えることとなった。




2-4. 富山へ


まずは目の前の仕事を頑張ろう。自由を手にするためには、必要な努力があるのだ。


大学3年時に取得していた宅建やAFP、簿記2級の資格を活かすべく、就職活動では不動産、金融、商社といった業種にエントリーした。


選考を進めるなかでは、各業界に求められる資質のようなものが見えてくる。なかには正直肌に合わなさそうだと感じる業界もあり、現実的な選択肢として最終的には日興コーディアル証券(現 SMBC日興証券)のFA(ファイナンシャル・アドバイザー)職を第一志望とした。


「証券会社に関しては、それまでの自分なりの価値観でお金ってなかなか増えないと分かっていたので、お客様の資産が1円でも増えていれば、自分はきちんと仕事ができたと自己評価できるっていうのは分かりやすいなと思ったんですよ」


さらに、FA職は出来高制の契約社員だ。会社が配属先を決め、かつ全国転勤が基本の総合職と違い、配属支店も自ら選ぶことができる。新卒でありながら独立性の高い働き方が特徴だった。


当時は東京での起業が難しくなり一度富山に戻りたいという思いがあったし、都心の電車通勤スタイルにも馴染めていなかった。だからこそ、迷いなく富山支店を志望し、なんとか内定を得ることができた。


入社してみると、FA職の同期たちはそれぞれが何かしらの野心を持ち、独立意識の強い人たちが集まっていたという。


「たとえば、飛び込みを300件するとか、組織に染まらないとできない仕事ってあると思うんですよ。そこに自分の意識が出ると、すぐきつくなっちゃうじゃないですか。でも、そういうものが初めの半年~1年は必要な仕事だとも思うんです。だけど私たちFA職って自分で決めてる人たちだから、比較的自我を持っていて」


かたや総合職の同期は、入社してまもなく上司に厳しく管理指導される毎日が待っている。社用車は先輩が使っているので、営業範囲も限られている。一方、FA職は自分の車で好きなエリアへ赴き、自分なりに考えたやり方で営業できる。こちらの方が自分に向いていることは明白だった。



日々やるだけのことをやっていたが、入社後2、3か月は思うように成績が伸びず、挫折もあった。思い描いていた将来の経営者像と現実の乖離。それがあまりにも受け入れ難く、もがき苦しむように毎日をやり過ごしていた。


結果的には、良いお客さんと偶然出会えたことに救われたという。


おかげで1年目の表彰を目前にして、成績は同期中3位にまで上り詰めていた。あと数百万、わずか数百万で1位になれる可能性がある。


誇れる方法ではないと自覚していたが、できることはやりつくすことにした。


「親戚のおばあちゃんにお願いして1位を取ったので、ちょっと卑怯なんですよね。でも、こういうことをしてでも数字を取るっていうのを、上司とかは分かっている。たとえば、その3、4か月とかの期間に対する思い入れとか、1位になりたいとか、ある人と無い人っているじゃないですか。私は昔から独立を思い描いていたので、プライドもあって負けたくなかったんですけど、ここで負けたら独立も何もなくなっちゃうと思って。どうしても取りたくて。一方で結果的におばあちゃんにお願いせざるを得なかった自分はずっと残っていて、反省も含め恥ずかしさもありつつ、でも表彰されると次も頑張ろうと思えるようになって……」


少しずつ行動が変わり、結果を残していく。すると周囲の評価も変わってくる。そればかりか学生時代に起業の真似事をしていた経験が役に立ち、褒めてもらえるようなシーンもあった。


次第にそれらは積み上がり自信となっていく。改めて起業を目指せるのではないかと、考えるようにもなっていった。


社会人2年目に立ち上げたフットサルチームのメンバーと



2-5. 起業はみんなのために


証券会社での仕事にも慣れてきた頃、新たな挑戦に乗り出すことにした。


「24歳くらいの時、仕事がちょっと順調に滑り出したのもあって、友達と当時流行っていたフットサルチームを作ったんですよ。男女ミックスで、アメーバブログとかでメンバーを集めたりして。その人数が50~60人規模にまで増えていって、社会人サークルみたいな感じになって、そこが自分のなかの中心になっていったんです」


尾口がキャプテンを務めたが、サッカー経験は小学生止まりだ。次第に自分より上手い人が増えていくにつれ、試合には出られなくなっていった。


それでも気にしない。練習場所の確保に、ビブスの洗濯。みんなに楽しんでもらうための仕事を引き受けつづけた。もはや試合そのものよりも、その後にある仲間との飲み会の方が楽しくなっていたのかもしれない。


「その頃から、こうやってみんなで遊びができるようにしていることって、会社の仲間集めと同じなんじゃないかなと思いはじめたんですよ。チームにしても人数が多くなって、役割とか決めていきながらやるじゃないですか。そういうことが会社の経営に近いんじゃないかなと」


はじめはただ試合をすることが目標だった。それが手を尽くして仲間を集め、少しずつ大きな目標を掲げるようになる。チームとして強くなる方法に知恵を絞るだけでなく、役割を細分化してより良い運営を実現しようとしていく。


「自分たちのフットサルコートを作りたいね」。そんなことを言い出す人がいれば、「いいね」と歓迎される。このメンバーでより大きなビジョンを描けることに、誰もが熱狂しているようだった。


これこそがチームとして何かを成す楽しさなのだろう。会社経営もきっとそうだ。1人でやる以上の意味がある。


再び起業と真剣に向き合う。今度は自分のためだけじゃなく、みんなのためにという思いがそこにあった。


「24、25歳くらいと言えば、みんな社会人として落ち着いてきて、それなりに楽しい生活をしだす頃だと思うんですけど。たぶん富山は東京と比べるとあまり競争社会がないので、楽しいは楽しいんですけど将来のビジョンがないんですよ。そういうところがもったいないというか、なんか変えたいよなぁとか思っていて。自分が模範となれるように、先駆けて成功例を作ってあげられたらという思いもあって」


自由であること。だから、起業はきっと面白い。それだけじゃなく、仲間ありきの起業なのだということ。その思いが、たしかに尾口の背中を強く押した。


2008年、リーマンショックが世界の金融市場を揺るがす。国内も例に漏れず、会社は業績悪化による早期退職の募集をかけていた。三井住友グループの傘下に入るタイミングで、人員が減らされるという方針であるらしかった。手を挙げれば、退職金として1,000万規模のお金が手に入る。さらに、ほぼ同時期に楽天証券がIFA事業に参入していた。


きっかけが重なり、尾口は前へと進んだ。


2008年12月、富山の地に設立された株式会社Fan。時代は対面証券からネット証券へ、大きな変革が起きつつあった。そんな新しい時代に、ついに自分なりの事業を描くときが来たのだった。




3章 起業を考える人へ


3-1. 地方で起業して思うこと


起業して約13年。これまでの道のりを振り返り、尾口は何を思うのだろうか。


「自分が起業してみて、それなりの規模になって。経営も安定してきてっていうのは少しずつ感じているんですけど、自分の辿った道は正解だったのかどうかって分からなくて。結構右往左往した感覚はあるんですよ。大きな原因がたぶん地方なんですけど……」


日夜競うように新たなスタートアップ企業が生まれ、そこに投資したいと考える投資家やVCがひしめいている東京。対して、地方で創業したベンチャー企業はほぼ自己資金や銀行からの借り入れで事業を展開していくことになる。


その決定的差異は資金面ではなく、投資家の考え方を借りながらビジネスモデルを作っていけるか否かに現れると尾口は語る。


「たとえば、会社がサービスの広告を出すって普通だと思うんですけど、そんな選択肢すら気づくまでに時間がかかったんですよ。投資家がいれば『こういうことをしたら』とか意見がもらえるはずなんですけど、その機会が地方には少ない。地方限定の広告になるとそもそも媒体等も選択肢が少ないのも要因でした。私も経営者仲間はいますけど、そういうことを相談できる人は少なかったです」


過去の学びや知恵を次世代へと伝えていく投資家。さまざまな業態で同じように試行錯誤する経営者仲間。集客方法や売上目標、人員計画など、いわゆる基本的な戦略とされるものから、経営上の意思決定にまつわる些細な悩みまで。その相談先を、多方面に構築できる点が東京で起業することの強みとなるという。


「今考えると、地方の創業ってそこにデメリットがあるのかもしれない。私が起業した当時に比べれば、今はだいぶ平準化されてるのかもしれないですが、投資家の話を聞けていたらもっと変わってたんじゃないかなとかは思いますね」


それでは学びを得た今、まさに起業する立場であったとしたらどうだろうか。尾口は数秒悩みながらも答える。


「今だったら地方では起業するけど、投資家は東京から引っ張るとかだと思います。でも、そもそも好き嫌いがあると思っていて。自分の会社なのに自分の会社じゃないのって嫌じゃないですか。だから、そもそも私はそういう選択肢に至らなかった可能性もあって。少なくとも、自分たちがやりたい世界観をビジョンに落とし込んでおくことは大切だと思います。『起業したい』からスタートしてしまったので、今振り返るとそういうところが弱かったなと思います」


振り返った道が正解だったのかは結局誰にも分からない。それに正解が1つとも限らない。しかし、少なくとも目指す方角に向かい、前進してきたとは思いたい。だからこそ、ビジョンが存在するのではないかと尾口は考える。


何を持って世の中を良くしたいのか心に問いつづけ、自分なりのビジョンを自由に描いてみる。きっとそれが道しるべとしてあることで、正解は自分自身で創る人生を歩むことができるのだろう。



2022.1.31

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


子供の頃、母親から渡された幾枚かの100円玉を握りしめ、ゲームセンターでいかに楽しく時間をつぶすかを考え抜いたこと。


友達と遊んでいて相手のボールを紛失してしまった時、自分のせいではないにせよ、すぐに弁償して持って行っていた母親の姿と、そこまでしなくてはいけないのだと子供心に衝撃を受けたこと。


何気なく昔の記憶を辿ると、意図せずともお金にまつわるエピソードは多く出てくる。「たわいもない話ですが」と前置きしながらも、語られる尾口氏の過去には、同時に自分なりの気づきや思考の跡が残されているようだった。


自由に思い描ける楽しさ、商売の面白さに触れ、いつも自分なりに歩める方を選んできた尾口氏。その願いは、常に叶うものでもなかった。能力が足りないことも、自信が足りないこともあった。稼ぐ力が足りないことも。考えてみれば、お金だって人生を自由にする要素の一つである。


「資産運用」をあたりまえに。掲げるビジョンは、「身の回りの人たちのために」という思いが起点になっている。それが成し遂げられた未来では、今よりずっと多くの人が人生の自由を手にすることになるだろう。


挑戦は容易ではない。多くのIFA企業がそうであるように、富裕層を顧客とする方がビジネスモデルとしては利益が出やすい。しかし、あくまで尾口氏は考え抜くことから逃げない。難しい、だから現状のままでいい。では終わらせない。


自由とは、自分なりに思い悩むことが増えることでもあるように思う。発想を自由にするよりも、誰かが定めた枠組みで生きる方がゴールも明確で、道のりは整備されている。それでも、そんな道を選ぶことはしない人がいる。


「それでいい」で終わらせない。「自分には関係ない」で終わらせない。


きっとそんな人こそが、新しいあたりまえを創っていくのだろう。


文・Focus On編集部





株式会社Fan 尾口紘一

代表取締役

1982年生まれ。富山県出身。神奈川大学卒業後、日興コーディアル証券(現SMBC日興証券)に新卒FAとして入社、資産コンサルティング業務に従事。2008年に富山県でFanを設立。現在は資産運用を気軽に相談できる『投資信託相談プラザ』を全国に展開。自身も講師を務める資産運用セミナーは開催数500回を超え、延べ2万人以上が参加。所属金融商品取引業者等はSBI証券、楽天証券、ウェルスナビ、AlpacaJapan、ソニー銀行。資産運用に加え、保険、不動産、住宅ローンなど、ワンストップで対応するコンサルティングサービスを展開している。

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