Focus On 大石裕明

未来の製造業を作って、平均寿命を2倍にしたい ― 抑圧された人生だったから言える。人間が好きだということ。


自由に選択できること。そこに、人間にとって最も根源的な価値がある。


「未来の製造業をつくる」というミッションを掲げる株式会社Catallaxy。2018年にインキュベイトファンドより出資を受けた同社では、現在、金属加工取引プラットフォーム「Mitsuri」、そして日本一わかりやすい製造業紹介メディア「Fabit」を運営し、日本の産業の屋台骨を支える業界の課題を解決すべくサービスを展開している。高校在学中からプログラミングを学び、これまで計8社にて社外CTOとしての役割を担ってきた同社代表取締役の大石裕明が語る「自発的な意思がもつ力」とは。




プロローグ


この世界の成り立ちは、奇跡にも似ている。


人々の意思。それは、すべて違う色を帯びている。一色だって同じ色はない。それが交差し、連鎖し、価値が生まれていく。その連続が歴史をつくり、数多の経済活動を生み出してきた。


自分の意思だってそうだろう。これからの歴史、価値を創り出す一部なのだ。


誰か一人のためではなく、人類全体のために富を創出すること。そのための新しい秩序を構築する。


そう、それはずっと探していたものだった。


生きていく上で、拠り所となる、自らの信念と言えるもの。心の底から湧き上がる感情。人と誠実に向き合うために絶対に必要なもの。秘められた情熱は力強く燃えている。


あくなき探求の先は、人類の未来へとつながっていた。


生き方の道しるべ、哲学を見出し歩く大石裕明の人生。


1章 生き方


1-1.  母の声


くすんだ灰色の雲の下、どこかで声がする。


古い県営住宅団地がいくつも立ち並ぶ一角。子どもが激しく言い争っている。誰かが殴られる。いつもの光景だった。その横を、何も視界に入っていないかのように大人が通り過ぎていく。おそらくもっと大事な関心事についてあれこれと考えている。つまり明日の生活費とか、自分のささやかな娯楽のことだとか。ここではみんなそうだった。


遠くから一人、自分も変わらぬ日常を目に映していた。


千葉県千葉市。なかでも田舎寄りの町にある団地に住んでいた。東京までは1時間から1時間半ほどかかるらしい。聞いたことはあるだけで、そんな遠くには行ったことがなかった。田舎の空には緩慢な雲が広がっていて、反対に、町や人の顔ぶれは狭い。団地の住人には、やくざの子どもやアジア系のハーフの子どもがちらほらと。いろんなタイプの人が生活する場所だった。


同級生には悪ガキが多かった。何かを貸すことになれば、戻ってこないと覚悟しておいた方がいい。借りたものは返さない。悪いことに、大人にやってはいけないと言われていることは大体やっている。3mもある高台から飛び降りてみたり、喧嘩で相手に手や足を出したりする。そんなことは正直、日常茶飯事だ。


でも、絶対にしてはいけないと母にきつく言われていた。「よそ様に迷惑はかけるな」。耳にたこができるくらい聞いたその言葉を、頭の中で復唱していた。


だから一緒に遊んじゃいけない。


団地の前の道端に、一人で座り込み地面に目を落とす。目についた小石や木の枝をもてあそぶ。からからと小さな音がする。特にそれが楽しいわけでもないけれど、少しは何かの気が紛れそうだった。


急に、母の声が聞こえた気がした。振り返ればいつもの声がする。「何時だと思ってるの!」。頷きながら立ち上がり、気づけば家に向かって駆けだしていた。


ドアを開ければ、また母の声がする。姉と弟がそれを聞いている。家では母はいつも会話の中心にいた。このあいだのテストの結果についての話。


こちらに気づいて、話題が飛んでくるからふと構える。裕明はいつも90点以上だから偉いよね。そう、いつも90点以上だ。勉強は昔から好きだった。


静かに頷き、部屋の机へと向かう。次は次のやるべきことがある。小学校の宿題。次もテストは90点以上を取る。そうすれば母も満足するだろう。


それから友達みんなが羨望のまなざしを向けてくると分かっていた。


……油断はできない。机の上に体重をかけて、教科書のページの開きを強くした。というか、油断などあってはならなかったのだ。




明日もまた同じようにやって来る。いつもと同じ空の下。団地の前の駐車場で、地面を蹴る音を響き渡らせていた。


1周100メートルほどある敷地を、もう何周走ったか分からない。自分の限界も、自分の意志もそこにはなかったのかもしれない。頭の中は、もうすぐ先の運動会のことでいっぱいだった。目の前に、徒競走のゴールテープが浮かんでくる。それを誰よりも早く切るのをイメージする。ただそれだけを想像して、ほかの思考はどこかに追いやった。


1番以外取ったことない。絶対に次も1番になる。そのための自主練だった。


でも、万が一2位になったとしたらどうなるだろう?スローモーションで誰かの背中が先を行き、自分はゴールテープのない白線の上を走り抜ける。呆然とする自分。がっかりしている母の顔が向けられる。瞬間、耐えがたい恐怖に全身を侵食された。


喉がひゅうと鳴る。前に踏み出す足に力を込めて、余計な感情は後ろに置き去ろうとした。もっと早く、もっと遠くに行きたかった。そうすれば安心できるかもしれない。


走っても走っても不安はぬぐえない。気づけば辺りは暗くなっていた。疲れ果て、限界が訪れるまで走るのをやめない。


すべては母のためだった。


姉とともに。


雨のにおいが満ちている金曜日だった。音はすべて雨が吸収していた。


辺りに人の姿は見えない。当たり前だ。こんな悪天候のなか出歩く人はほかにいない。さっきから髪が額にはりついて気持ち悪かった。傘も持たずに団地の周りを一人歩いていた。


それでも今日はこれでいい。というかこれがいい。


遠くの方からかすかに声がする。また、母が呼んでいた。濡れた体を引きずって家に戻る。出迎えてくれた手には、タオルが持たれていた。


濡れた体は拭かなくたっていい。雨に打たれて、風邪を引いてしまいたい。そう思っていた。そうすれば明日のサッカーの練習は病欠できる。


次の日は期待とともに目が覚める。でも、いつも小さな目論見は成功しなかった。休めたとしても、結局ほとんど仮病みたいなものだった。


悪いことをしているのは分かっている。本当は罪悪感で胸がいっぱいだった。だから、3カ月に一回くらいしかやらなかった。というかやれなかった。そうしなければ、自然な風邪と思われなくなる。誰にも、わざと風邪を引こうとしているなんて知られてはならなかった。


サッカーを習い始めたのは、小学校低学年のころからだった。親が習い事をさせたがり、野球とサッカーで友達が多かった方を選んだだけだった。土曜日は毎週練習。時間通り集合し、決められた練習をさせられる。しかも、低学年はなぜかボール拾いを避けて通れない。何もかもが決められていて、その通りに動くのを強制される。練習中は、いつも早く終わらないかと考えてばかりいた。正直行きたくはなかった。


でも、辞めるなんて選択肢は自分にない。


練習に飽きた友達は簡単に辞めていくけれど、自分にはできない話だと分かっていた。まして勝手にサボるなんて考えたこともない。そうでもしてみれば、母がなんて言うか分からない。そうしたときの母の表情は容易に想像できた。


振り返ると、母は責任感が強い人だった。良くも悪くも無関心だった父とは反対に、絶えず3人の子どもに気を配り、成人まできちんと育てなければと考えていた。食事は正座でと決まっている。しつけの厳しい家庭だった。


昔から母は子どもに期待を寄せてくれていた。テストは90点以上。スポーツも1位が当たり前だった。


勉強も、運動も、なんだって頑張らないといけない。サッカーの習い事だってそうだった。大きな期待はいつしか重くのしかかっていた。


もしもそれに答えられなかったら?悲しむ母の顔を見ることになる。あぁ、自分が悲しませてしまったんだな。傷つけてしまったな。心は罪悪感でいっぱいになる。想像しただけで耐えられそうになかった。


だから、自分が頑張ればいい。結果を出しつづければ、心に平穏が訪れる。


どこかに自分の意思は封印し、ただ喜ぶ顔を見るため努力する。それが幼い日々の日常になっていた。


家族旅行にて。


1-2.  期待と本音


母の実家は、建築会社を営んでいた。


なんでももともと母方の曽祖父が北海道の開拓をしていた人で、そこから建築系の会社を創業したのがはじまりらしい。北海道では雪が降るあいだ、家を建てられない。だから冬のあいだも仕事をするために、関東に出てきたという。当時は叔父が社長をやっていて、母は役員だった。


実家からは歩いて10分。そこには、何やらたくさんの工具や建築板金、重機などが雑多に置かれている。これは何に使うんだろう。不思議に見ていると、名前や使い方を教えてくれる。小さいころよく預けられていたので、すっかりそういったものが身近で当たり前の存在になっていた。


「普通の家にはそんなものないよ!」。そう言われて驚くことになるのは、もう少しあと中学生くらいになってからのことだったことを覚えている。




会社には、Windows95のパソコンが導入されていた。触らせてもらうと、すぐにソリティアやマインスイーパなどのゲームに夢中になった。簡単にクリアできそうで、意外と失敗してしまう。悔しくなって、何度もリスタートのボタンを押す手が止まらない。画面に張り付いているうちに時間はあっという間に過ぎていた。


次なる興味の対象は、インターネットだった。ゲームの攻略サイトを調べたのがきっかけだった。母の実家にはファミリーコンピュータがあったので、同時にゲームにもはまり込んでいた。インターネットもゲームも、当時から慣れ親しんでいたものだった。


攻略サイトがあれば、もっと勝てる。勝利を知らせる電子音はやめられない。テレビの画面には、敵を倒してレベルアップした勇者の姿がある。思わず一人、誰にも知られないようにガッツポーズをする。勝った自分は、ゲームの中ではヒーローだ。悪を打ち倒し世界を救って称賛される。勉強やスポーツで1番になったときにも似ている。その感覚が好きで、いつしか家でもテレビの前が自分の定位置になっていた。


3歳のころから、ありとあらゆるゲームをやった。なかでもお気に入りは、誰かと対戦して勝敗が決まるものだった。たとえば、NINTENDO64の『大乱闘スマッシュブラザーズ』。格闘ゲームはすぐに勝敗がでて分かりやすかったから好きだった。格闘ゲームは短い時間ですぐに称賛を得られるから好きだったのだろうか。


だからコンピュータよりも、生身の人を相手に戦うことはもっと燃えてくる。ちょうどそのころ、仲良くなった友達といつも一緒に「スマブラ」をやっていた。自分の持ちキャラはカービィで、友達はピカチュウだった。


画面に踊るピンクと黄色。手に汗にぎる闘いだ。コントローラーを操る指先は、素早く動く。お互い牽制しあって、ここぞという場面で必殺技を打つ!ついに相手は場外へ飛ばされていく。本気になりすぎて、たまに喧嘩みたいな雰囲気になることもある。でも、いつものことだ。「もう一回!」。最後はいつもなんだかんだ笑い合っていたものだった。


「今思うと、その子がいなかったら、僕はまともにコミュニケーションができなかったかもしれないですね。他人の家に行ってあいさつできなかったり、勝手に冷蔵庫空けちゃう子みたいな。家のしつけも厳しかったけど、彼のおかげで社会性があるのかも」


小学校の運動会にて。


その子と過ごした時間は長い。何となく気が合って、いつも遊ぶ仲になっていた。ゲーム以外にも、いろいろな話を共有した。


話を聞けば、彼は自分と同じものを背負っていたみたいだった。


親からの期待。先生や友達の期待。頭が良くて、スポーツもできる子だった。1番を取ると、次も1番になることを期待されるのだ。その次も、またその次もだ。何かが積み重なっていく。周りの目線がどんどん気になってくる。そのうち何のために走っているのか分からなくなってくる。自分は何を追いかけているのか、そして何に追われているのかも。


小学校3年の運動会のとき、直前に友達は気持ちが悪くなって行けなくなった。それ以来、その子は不登校になっていた。


自分もその感情を知っている。誰にも打ち明けたことはなかったし、言葉にしたこともなかったが、たしかに同じだと思った。ずっと黙ってやり過ごすものだと思っていた。でも、こうして気持ちを分かり合える友達がいる。それにどれだけ救われたことだろう。


一緒にゲームをして、笑い合う。ただそれだけで、忘れたい何かを忘れさせてくれる。そして得たかった何かも同時に得られていたのかもしれない。その時間だけは嘘やごまかしがない。心は軽く、二人の笑い声は弾んでいた。


周りの期待に応えること。そう、当時はそれが重要だった。親や先生からは優秀であることを期待され、周りの友達からは羨望が向けられていた。それが誇らしいことでもある。褒められることも当然嬉しい。


でも、勉強も運動も、一度も自分が好きで選んだことはなかった。


「こんな子じゃないと思ってた」


ふいに母の声が脳内をこだまして、ハッとした。心臓を掴まれたような感覚だった。いつだか母に言われた言葉が勝手に再生された。言葉が胸に刺さったときの痛みもともに。


たしか何か言葉を口にしたときだった。でも、それは母が期待する自分の性格にはそぐわなかったようだった。


期待は裏切りたくない。顔色をうかがっているうちに、いつしか母に反応される元となる自分の情報もできれば出したくなくなっていた。最善の選択肢は「喋らないこと」だ。こう言ったらどう思われるだろう。どんな反応が返ってくるだろう。そんなことを気にして悩む必要はなくなる。家でも学校でも、どんどん口数は少なくなっていた。


ひたすら従順に。周りの期待を叶え、生きていく。周囲は優等生だと思ってくれていただろう。


それでも、言葉にならない自分の感情は、静かに心の底に溜まっていった。それを手に取って眺める機会もない。次第に重なり形が見えなくなって、振り返って思い出すこともできなくなっていく。辛かったはずのことが気にならなくなって、楽しさや嬉しさといった感情も共に連れ去られてしまったみたいだった。


たまに、家で一人になると、少しだけ涙がこぼれる。


本当は、我儘を言ってやりたいことを選べる友達が心底うらやましかった。


やりたいことでないことを強制されるのはうんざりだった。でも、じゃあ自分のやりたいことって何なんだ?……考えたとしても、当時は分からなかっただろう。心が発する声は、どんなに耳を澄ましても聞こえてこない。あるのはただ、静けさだけだった。



1-3.  ブッタとシッタカブッタ


野山を駆けまわっていた子どものころ。足が速くて、勉強ができる。そして、ゲームの腕には一日の長がある。でも、喋らない。


学校内では目立つ存在だった。というより、当時は結果で目立つことにかけていたといっても過言じゃない。みんなが注目する成績をたたき出し、誰よりも注目を集める。それがいつしか頑張る目的になっていた。


周りの期待を裏切ってしまうのは、震えるほど恐ろしかった。そんな自分は想像したくもない。


小学4年生くらいになると、クラスの注目の的も扱いが変わってきたようだった。周りの不良たちにいじめられるようになっていた。従順で大人しい性格だったし、あまり喋らない。いじめの標的にするにはちょうど良かったのかもしれない。


でも、さすがにそれは困る。何か自分も変わらないといけないのかもしれない。少しずつだが、そう思いはじめていた。




手を伸ばした先、その本に触れたのは、心を許せる唯一の友達の家だったように思う。『ブッタとシッタカブッタ』という子ども向けの漫画本を、何気なく手にしていた。表紙には、仏陀に扮する豚の絵が力の抜けるタッチで描かれている。


本を開くと、ブッタは語りかけてきた。


「お前は周りの期待を満たすために生まれてきたわけじゃない」


言葉は、何か特別な響きをもっていた。そして自分の胸に、深く深く突き刺さった。鳥肌が立つ。


「   」


世界が一瞬、静止した。


それから回りはじめる。これまでのことが走馬灯のように思い返されては、ひとつひとつが言葉に照らしあわされていく。


考えたこともなかったようなことばかりが書かれている。気づけば深く読みふけっていた。それは、自分らしく生きることについて説かれている本だった。


それ以来、ブッタの言葉が頭を離れなくなっていた。


何度も何度も読み返した。たぶん100回は読んだ。四六時中、何をしていてもブッタは語りかけてきた。勉強しているときや食事のとき、夜、布団の中にいるときでさえ。「お前は周りの期待を満たすために生まれてきたわけじゃない」。そうだ、その通りだと思った。なんで今まで気がつかなかったんだろう。


ずっと見ないようにしてきた自分の感情が少しずつ、しかし確実にあふれ始めた。気づけばコップには並々と水が注がれていて、その上どこかで蛇口が一気に開け放たれた。


期待に応えるためじゃなく、自分のために生きたい!世界が音を立てて変わっていった。



最初は服装から変えよう。近くの商店街に服屋がある。入ったことはなかったが、不良っぽい生徒がそこで買い物をしているのをいつも見ていた。恐る恐る覗いてから、意を決し入って行く。何度も店の前を通っているが、今までは素通りしたことしかなかった。


よく分からないまま、直感で選んだ服をレジに持っていく。心臓がうるさく音を立てている。まるで今にも胸を突き破って出てきそうだった。


購入したのは、流行りのB系ファッションの服だった。家に帰って、袖を通してみる。鏡に映る自分、悪くないんじゃないか?けっこう気に入った。だんだん勇気が出てきて、そのうち髪を茶色に染めた。


学校に行くと、誰もが驚いた顔をする。注目を集めるのは慣れっこだったが、好奇の目で見られるのは新鮮な体験だった。でも、気にすることなんて何もない。最初の違和感さえ乗り越えれば、あとは簡単だった。


先生は校則違反だと怒る。でも、何を言われようが関係ない。全部無視だ。こっちは全身にエネルギーが満ち溢れている。


とにかく自分という人間を表現したい欲求に駆られていた。


「悪いことはしなかったけど、今までの反動で期待に応えない方に、従順じゃない方に振れちゃって。テストで悪い点数取っても何も思わなくなったし、バイク乗ったりとか、反社会的になりましたね(笑)」


親や先生からは評価されなくなった。が、それでよかった。手にしたものがあるから怖くはなかった。新しい世界は自由という名の幸福に包まれていた。空にかかった雲が風に流されて、太陽が顔を出す。ようこそ貴方の世界へ。自分を祝福しているようだった。




今思えば、自分が変化することができたのは運の要素が大きい。


本と出会えたこと。高学年になると、なぜかいじめっ子が揃って転校していったこと。3兄弟のなかでも一番干渉を受けにくい真ん中に生まれたこと。そして何より、一番大きかったのは、小学2年生のとき県営住宅から普通の分譲マンションに引っ越したことだろう。


団地には少年院に行った友達もいた。団地外の人からは「闇」と例えられ、避けられていても仕方のないような環境であったことは間違いない。「あそこの子とは遊ぶな」。そうやって遊ぼうとした友達が離れていったとしても驚くことない日常だった。


偶然にも、闇から抜け出せたことは幸運だった。


努力というよりは、結局、自分自身はいろいろな運のめぐり合わせだ。いずれにせよ、世界は鮮やかな色に染まりだしていた。



1-4.  サッカー部部長


地元の中学校は、不良の巣窟だった。


あとから聞いたところによると、県内でも有名な暴走族の拠点が地元にあったらしい。いじめや校内暴力。学校内では年中非常ベルが突然鳴りだしていた。


物騒な人とは、関わり合いたくはない。見た目は変わったが、自分は不良になったわけじゃない。悪いことは悪いことである。


入学早々、緊張の瞬間が訪れる。


「おい、お前」。生徒たちの声で騒がしい教室。一人のところに、急に不良に話題を振られた。一瞬ひるむ。でも、気を取り直しポーカーフェイスで返す。すると普通の反応が返ってきて、会話が続いた。どちらともなく冗談で笑い合う。


なんだ、普通だ。


見た目を変えたおかげで、なんだか今までにない度胸もついたようだった。吹っ切れたみたいに、自分に勇気が湧いてくるのが分かる。中学校では、自然と不良たちにも認められ、友達として付き合えるようにもなっていた。


それから3年の中学校生活はひたすらゲームをするか、サッカー部の仲間と過ごす日々だった。親に言われて塾にも通いはじめたが、勉強するより友達と喋りに行っていたようなものだった(成績は1番に舞い戻った)。


中3のときには、サッカー部の部長をやらされることになった。立候補したわけじゃない。ただみんなに期待されたから、しぶしぶ応えることにしただけだった。


でも、部長になるならどんな部活がいいだろう?改めて考えてみる。小学校のときのサッカーの習い事みたいに、いわゆる体育会っぽい雰囲気にはしたくなかった。いやを強制されていた身からすると、「絶対に部活は来いよ」とは言いたくはない。上下を厳しくし、誰かをパシるのも違うと思った。


今の自分には貫ける意志がある。


そうだ、強制がよくないんだ。部活で強制はしない。自分がされて嫌なことはしないと決めるのは早かった。


部員は3、40人。おおかた不良だったが、なぜか不良は部活には真面目に集まる。もちろんなかには来なくなる人もいたが、それはその人の自由だ。やりたくないのなら、やらない方がいいに決まってる。


貫く意志があれば叶えられるものらしい。苗字の大石からとって、みんなは「おっちゃん!」と呼んでくれる場になっていた。先輩も後輩も関係ない、居心地の良い空間をつくることができたと思っている。


部活が終われば、決まって「したぱん」だ。坂の下(した)にあるヤマザキパン(ぱん)の前にたまって、いつまでも時間を潰す。「お前、バク天できる?」。パンを食べながら、しょうもないことに話の花を咲かせていた。


みんな普通の中学生だ。建設的な話題が上ることなんてない。もちろん当たり前のように将来なんて何も考えていなかった。ただ、楽しい時間がこのまま続いていくのだと想像し、毎日はその通りになっていた。


中学校の卒業式にて。


1-5.  高校生活


門を抜けると、立派な校舎が自分を見下ろしている。


千葉東高校。県内でも有数の進学校だ。特にその高校に思い入れがあった訳ではなかったが、偏差値順に上から見て、たまたま自分のレベルに合っていたので受験した。結果は合格。塾での成績もずっと良かったので、高校受験で苦労することはなかった。


おそらく同級生は優秀な生徒が集まっている。でも、負ける気はなかった。


それには最初が肝心だ。なめられないように、堂々と自分を出していこう。気合いを入れ直し、大股で校舎に足を踏み入れた。


すぐに肌で感じ取る。不良がたくさんいた中学校とは、全然違う雰囲気だった。うるさくないし、みんな都会的な感じだ。何より服装が違う。シャツ出しも腰パンも茶髪も、自分しかいなかった。廊下を歩いていると、それだけでぐいぐいと注目が自分に集まった。


よしよし、目立ってる。少し違和感があったが、胸をはり、視線の中を通り抜けていった。


授業が始まれば、クラスの友達も自然とできた。友達はみんな気さくだ。新鮮で不思議な感覚だった。クラスのヒエラルキーのようなものもない。こんな環境があったのか。悪い心地はしなかった。


でも、数日過ごして分かったことがある。最初に感じた違和感。どうもここ数日纏わりつくこの感覚の正体だ。自分は目立ってるんじゃない、浮いているんだ。


「ボス猿みたいな環境から、そういうのって寒いよねという環境になって、行ってから分かりました。カルチャーショックというか、恥ずかしいことだと気付いて。東京寄りのお上品な人たちと触れると、自分はなんてカッコ悪いんだと思ったんです」


みんなの会話の節々から伝わってくるものがあった。ダボダボのズボンを腰ではくこと。ギリギリ落ちるか落ちないかのだらしなさがカッコいいと思っていた。「そういう格好はダサくない?」。なんだか、刺さるものがある。自分を遠めに見てみる。確かにそうだ、理屈が通ってる。ぐうの音も出なかった。


これじゃあただの井の中の蛙だ。


教室の真ん中で、急に恥ずかしさが込み上げてきた。見渡してみると、なんだかみんな大人びて見えてきた。必要以上に肩肘張ってるのは自分だけだった。向けられる視線、それは「メッセージ込み」。


トイレの鏡に映る、自分の髪を触る。何度も染髪を繰り返し、なんだか傷んでいるような気もした……これはだめだ。


入学から一週間後。髪は黒に戻して、シャツは制服の中にしまった。腰パンもしない。


自分のスタイル、自分の表現。そう思ってきたけれど、戻してみれば何も困りはしなかった。なんてことない。これでやっと、本当にみんなに馴染んでいくことができるだろう。自然体で過ごす高校の日々が始まる気がした。



いくつも季節が過ぎ、また春がきた。


友達との帰り道。急に聞き慣れない単語が飛びだして、耳を疑った。


大学?受験……??


手にしたことのない単語が並んでいた。正直進学なんて、まったく考えていなかった。というより、卒業後はどうやってお金を稼いでいくか考えていたくらいだった。


最初は半信半疑で聞いていたが、どうやらみんな本気らしい。友達はそのつもりで自分の未来をどうするか話していた。帰りの電車に乗り込むと、どこかの知らない大学の広告が目に飛び込んでくる。大学。大学に行くのか、本当に?でも、その先は一体どうするんだろう?


高校3年生になるころだった。


親にも相談してみると、どうせ大学に行くなら医者になるのが向いているんじゃないかと言われた。安定していて、経済的にも恵まれるだろうとも。


確かにそうだ。勉強して、医者になる。悪くない。白衣を着て、病院に勤務する自分をイメージしようとした。「今日はどうされましたか?……」。イメージはここで止まる。


そして、どうする?お金のために働くのだろうか?……だめだ。将来なんてものは、あまりにも漠然とし過ぎていた。


未来を考えるのはどこか途中で放棄し、とりあえず受験勉強だけはすることにした。図書館で参考書を広げていたある日、偶然、近くにある一冊の本が目に留まった。


『金持ち父さん貧乏父さん』。可愛げのあるイラストを開けば、お金と仕事の話が書いてあるらしかった。なんだか気になってぱらぱらとめくってみる。


「金持ちはお金のために働かない」


どういうことだ。読み進めれば、自分がまったく知らないことばかり書かれていると分かった。経済の知識なんて、ろくに学んでこなかった。いつになく興味を引かれて、あたまから読み直す。いわく、お金持ちになるには、ビジネスオーナーかインベスターになる必要があるということだった。


ビジネスを立ち上げて、お金が生まれる仕組みをつくる。もしくは、有望な投資対象に投資することでお金を増やす。労働という強制に縛られるサラリーマンとは違う、自由に働きお金を稼ぐ生き方があるんだ!頭を殴られたみたいだった。


将来は医者じゃない。経営者か投資家になろう。そう思ったのはその時だった。初めて、未来へと繋がる道の輪郭が見えた心地がしていた。


「お金というよりかは、強制されない状態に憧れがあったんでしょうね。習い事にせよ、金銭面にせよ、誰かの期待を背負うことにずっと悩んできた。抑圧されてきた人生だったので」


そうと決まれば、目指すべき未来のために何をしよう。たとえば経営者になるとして、何をすればいいんだろう。どんなことで起業すればいいんだろう。


『金持ち父さん貧乏父さん』には、ファイナンシャルインテリジェンス(会計知識)の重要性が書かれている。ということは、会計士になるのが一番の近道なんだろうか。分からない。しかしとりあえず、候補の一つとしては考えておくことにした。



もう一つ。自分の仕事選びに影響を与えてくれたものといえば、インターネットの存在も大きい。


出会いは小学生のとき、母の実家のWindows95だ。中学生のころには、当時流行っていた「Cabos(カボス)」というファイル共有ソフトに触れるうちに、必然的にネットワークやサーバーに関する知識がついていた。


そんなにパソコンに詳しい友達は、中学にはいなかった。パソコンを駆使してはJ-POPのヒットソングをCDに焼いてあげれば、友達は喜んでくれる。友達の友達へ、評判は伝わっていく。物珍しさからか興味を持ってくれる人も多かった。おかげで学校内では、ちょっとしたヒーローみたいになっていた。


高校1年生になるころには、Webサイトの仕組みにも触れていた。きっかけは、大好きなゲームの攻略サイトを開いていたときのことだった。


このサイト見にくいな。ふとそう思った。攻略情報を調べるためにいつも使っていたが、改めて見るとすごく使いにくいし、ダサかった。もっと見やすいサイトはないかと調べるが、ネット上に満足のいくサイトは存在しないみたいだった。元のページに戻るも、なんだかもやもやする。


じゃあ、自分で作ってみようか?もっと使いやすい攻略サイトがあっていいはずだ。インターネットでは調べればたいてい方法が見つかる。それらしいキーワードで検索してみると、どうやら「ホームページ・ビルダー」というソフトがあればいいらしいと分かった。


必要なものをそろえ、初歩的なプログラミングのようなものを試みる。自分のサイトを作り、公開してみる。すると、ネット上の知らない誰かが反応して、掲示板にコメントを残してくれた。


電子の海を介して、見知らぬ人に影響を及ぼすことができるんだ。その感覚が嬉しくて、気づけばどんどん深く入りこんでいた。


プログラマーとして働くのもいいかもしれない。


『金持ち父さん貧乏父さん』を読んだときにも、自然とそう思っていた気がする。そうだ、そうしよう。新しいことへの挑戦が、こんなに心躍るものだなんて今までは知らなかった。


未来は形を帯び、ひとつずつ形と色が付けられていく。


今まで考えたこともなかったことについて日々考える。でも、それは不思議とわくわくした。その先に、見たこともない、進むべき未来が待っている。そんな確信めいたものがある。


『金持ち父さん貧乏父さん』に則って、自分が進む道を探していこう。もちろん大学もだ。そう心に決めていた。



1-6.  大学生活


夢中でキーボードを叩く。画面に踊る文字を書いては消し、書いては消す。もうかれこれ数十分になる。はたから見たら、きっと何をしているのかさっぱり分からないであろう単調な作業を、ひたすら繰り返していた。


理論上は正しいはずなのに、なぜか思うような結果が出ない。だめだ、もう一度調べ直すか……。そう弱音がこぼれそうになった矢先、ふいに画面が切り替わった。やった、できた!


真夜中の会社の執務室。一人喜びと達成感に浸る自分は、寝袋の上にいた。東京の大学に通いながら、プログラマーとして働いていた。


大学入学時、会計士という道も捨ててはいなかった。でも、プログラマーとして働きはじめてみてすぐに分かった。勉強とプログラミングを天秤にかけてみれば、プログラミングの方が戦略的に有利だ。プログラマーには需要がある。学生という身分の自分でも、こんなに働くことができるのだ。将来性を感じた。会計士は大学に入ってすぐにあきらめていた。


働きはじめたのは、生活上の理由もある。大学に通うにはお金がいる。受験当初、学費の安い国立大学を目指そうとしたが、高校の友達がみんな行く千葉大学は受験しなかった。なんせ高校から歩いて10分くらいの場所にある。さらに4年も同じ景色を見ることになるのは、なんとなく嫌だった。


何より自分は、将来起業を考えている。起業するなら、東京の大学を出ておいた方がいいだろう。そう考えて、東京大学を第一志望とした。が、あえなく不合格。仕方なく、滑り止めとして受けていた私立の学習院大学経済学部に進学を決めた。東京大学系の教授が多いと聞いていたことも決めた理由の一つだった。


問題は、私立の学費と生活費の工面だった。実家は頼れそうになかった。


正直、賃貸で一人暮らしの家を借りる余裕もない。大学入学当初、ホームレスになりかけ、慌てて住み込みで働けそうな仕事を探していた。当時はとにかく勘を頼りに仕事を選んだ。


大使館のメッセンジャーの仕事では、貿易書類をバックに詰め込んで、自転車で配達して回る。が、プログラミングと天秤にかけてみて一週間くらいで辞めることにした。不動産営業も結末は同じだ。オールドスタイルに染まってしまいそうだったし、カフェで何もせずに時間をつぶすことも釈然としなかった。カフェ店員として働いたこともあるが、将来自分がカフェを経営するイメージが湧いてこなかったので辞めてしまった。


「辞めさせてください」。


怒られることくらいわかっている。どれも1週間くらいで自分に向いているかどうかを判断しては、その仕事へ別れを告げる。決まって「なんで辞めるのか」と、とうとうと怒られたものだ。それでも、やりたくない仕事はしたくない。自分の思いには素直でいたかった。


最終的に辿り着いたのは、やはりプログラマーだった。条件がそろっている。何よりいいのは、仮眠室を使わせてもらったり、寝袋を持ち込むことができること。住む場所はこれで確保できた。仕事は、共同通信の47NEWSのサイト運営などが割り当てられた。


働きながら大学に通う。将来は起業したい。とにかくやりたいことは決まっている。でも、具体的に何で起業するかなんて分かっていなかった。それでも今日一日は未来にとって意味がある。そう思えていた。


大学生のころ。


授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。みんなそれぞれの用事へと向かっていく。自分はパソコンに向き直り、はたと考える。


しかし、起業はどうしよう?自分にできることは何だろう?答えを探し求め、考えつづけていた。当時の自分にできることといえば、プログラミングくらいしかなかった。


高校時代出会った、あの運命的な本のことを思い出す。『金持ち父さん貧乏父さん』。頼りの綱だ。ヒントはきっとそこにある。とにかく立ち止まったなら、本の内容に則って行動しよう。


ビジネス、お金、経済……。考えてみれば、自分は経済のリテラシーが全然ない。そもそも経済のリテラシーって何だ?堂々巡りになりそうな思考をたぐりよせる。自分はもっと経済のことを学んだ方がいいのかもしれないと思うに至った。


Googleの検索窓に「経済学」と打ち込んで、ネット上の情報を流し見る。経済学の中にもさまざまな思想がある。そのなかで偶然、オーストリア学派と呼ばれる一つの近代経済学系にたどり着いた。


「オーストリア学派は強制を否定する」


言葉に、吸い込まれた。


「マルクスもケインズも干渉することを良しとするんです。政府という組織が税金を徴収して、還元することを良しとする思想で、そこでは徴収は全体の富を増やすことにつながると考えるんです。でも、そこがどうしても強制と切り離せない。納税って強制の一つなので。オーストリア学派は、強制を否定するんです。そこが僕の今までの経歴ともつながるんですが、その通りだよねと。哲学的な部分から共感するものだったんです」


自分が生きる上で大切にしたい価値観を、こうまで言葉に換えてくれる思想があるなんて思いもしなかった。歴史と伝統が築かれてきた経済理論の数々が、抑圧されてきた10代の自分の思いを呼び起こす。いままでになく、心が強く揺さぶられた。


強制は善ではない。自由主義の下、世のなかに富を創出することこそが善である。


オーストリア学派においては、富とはお金のことではない。貨幣は交換媒体でしかなく、富を増やすとは、いいモノといいサービスを増やすことなのだという。それなら自分も、経営を通じて、社会にいいモノといいサービスを創造していきたい。目指すべき未来が、また一つ明らかになった。


一つ調べれば、さらに未知なる概念と出会う。


どんどんのめり込んでいく。本格的に研究したいと思いあれこれ探求していると、ミーゼス研究所という一つの研究機関にたどり着いた。現代自由主義思想の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが立ち上げた、ミーゼス・インスティテュートの日本支部だった。


迷うことなく、門をたたいていた。


「そこから大学生活では、ひたすら研究と勉強をして。あらゆる本という本を読み漁ってました。何か信念が欲しかったでしょうね。起業にしても、生き方にしても」


思い返せば中学生くらいから、一つのコンプレックスを持っていた。


自分には、信念や哲学がない。


抑圧された自分を解放し、自分らしく生きていきたいと思った。しかし、それだけでは足元は定まらないような気もしていた。


生きていくうえでのなにか指針のようなもの。誰かに決められたものじゃない。ほかでもない自分が道を描き歩けるようになりたかった。


たとえば、人と話すとき、なんとなく意見に賛同できないことがある。けれどその理由は言葉にできないことがある。それは、誠意をもって相手と接していると言えるのだろうか。なんとなく。ではなく、自分の物差しを持ち、主観的な価値判断で人と対話することに憧れのようなものがあった。


強制を否定し、自由主義を提唱するこの経済学は、まさに自分が大切にする価値判断と重なっている。


自由とは、人間にとって最も根源的な価値である。そうだ、そう生きるのだ。信念となる人生哲学を見出し、未来に向かっていく原動力がますます燃えるようだった。


もっと知りたい。


汐留のアルバイト先のデスクは、寝袋と買い込んだ本が高く積み重なり隠されていく。銀座のブックファーストや丸善、Amazonは何度通ったことだろう。


寝ても覚めても研究だ。ただ経済の知識を吸収するのではない。自分自身の哲学を探求しているようなものだった。


本の山に埋もれながら、ひたすら活字の海を泳いでいた。



1-7.  就職


これから中国経済は大きく伸びる。中国には日本の10倍のマーケットが広がっている。経済情報を目にすれば、最新の情報は中国の話ばかりだった。触れるたび、中国で働きたいという憧れが大きく募っていた。


いつかは自分自身で経営がしたい。そう思いながら、まずは目の前にあるチャンスを掴んでみたいと思っていた。同じ富を生み出すにしても、日本より中国の方が純粋にチャンスが多そうだ。だから就職活動では、中国で働くチャンスがありそうな中国資本であるキングソフト株式会社を選んだ。


大陸の景色は新しい。さらに、あちこちから迫ってくる耳慣れない言葉の応酬に圧倒された。入社して5か月後、希望通り北京の地に降り立つ。


現地にある大手インターネット企業「奇虎360(チーフー サンロクマル)」に出向する形で、2カ月間プログラミングの仕事をすることになっていた。中国インターネット業界の頂点ともいえる企業だ。そのオフィスに自分の席が用意されていて、優秀なエンジニアたちと肩を並べて仕事ができる。なんだか誇らしい。期待ととともに、支給されたパソコンの電源を入れた。


仕事中。ふと隣を見ると、思わず目を疑った。同僚の開発スピードは信じられないくらいに早い。しかも開発されたものを見ると、質の面でも自分とは歴然とした差があった。これが世界トップのエンジニアたちのレベルなんだ。まるで自分だけが、ぽつんと取り残されているようだった。


これじゃあまた井の中の蛙だ。高校に入学したときの自分を思い出し、焦りが募る。プログラマーとしての腕の未熟さを痛感した。2か月後。ビザの関係で一時帰国することになった際には、その思いはますます強くなっていた。


もっと技術を磨きたい。そのための環境に身を置いていたい。


ちょうどそのころ、希望していた2度目の中国出向ができるかどうか怪しくなっていた。思い切って環境を変えてみようか。そう思い、転職をすることにした。


自分の「やりたい」という思いには、素直に従っていたかった。



次の会社では、プログラマーとして技術漬けになりたかった。それなら今度はきっと参考にするべき人がいた方がいいだろう。頭に浮かんできたのは、プログラマー界の有名人、田原義典氏だった。


田原氏が働くのは、親子向けのおでかけ情報サイトなどを運営するアクトインディというベンチャー企業だ。


五反田駅からほど近いオフィスビル。採用面接に向かうエレベーターの中、ゆっくり登っていく階数表示を見上げる。数字が大きくなるごとに、まるで自分の思いも大きくなっていくようだった。


「田原さんと一緒に働きに来ました」。


単刀直入に思いを伝えてしまった。「給料は下がることになりますがいいですか?」と聞かれたが、迷いはない。間髪置かずに「全然いいです」と答える。面接官は笑っていた。


結果は無事に採用。当時住んでいた家から通うには遠すぎたので、懐かしい寝袋生活をスタートさせることにした。気合いは十分だった。


「『よく分からないので画面を見させてください』って言って、ひたすら3時間くらい画面に張り付かせてもらったり。邪魔にならないように、今何の操作をしたかとか中腰でメモ取ったりしてて。僕の今のPC環境は、ほぼ田原さんの再現なんですよ。技術者の人の普通の学び方ではないと思いますけど。まぁ、一直線でしたかね」


求めていたのは技術的な学びだけじゃない。将来は起業を視野に入れていたので、ビジネス面にも興味があった。


当時会社は20名ほどの規模だった。ここなら自分の手に取るように経営が見える。チャンスは掴みに行きたい。入社して二日目。会社の3年分のBS(貸借対照表)とPL(損益計算書)を見せてもらうと、コストがかさんでいた営業チームに目が行った。どうにか改善しようと、営業専属エンジニアにしてもらった。


技術を体得しながら、どうすれば事業が良くなるか考える。必死に頭を悩ませて、一つの問題を解決したのもつかの間、次は新たな問題が目の前にある。組織は拡大していき、自分が会社に影響を及ぼしているという手ごたえを実感した。


この会社に骨を埋めてもいいかもしれない。いつの間にか、どんどん会社が好きになっている自分がいた。



1-8.  起業


順調に拡大していく組織。しかし、それとは裏腹に、次第にもどかしさも感じるようになっていた。


仕組みや分業が増え、横のつながりは希薄になっていく。自分の意思もストレートに反映されにくくなっていた。20人だった会社も、60名ほどの社員を抱えるようになっていた。


パソコンの画面越しに、人の増えたオフィスを見渡してみる。入社したときとは、ずいぶん景色が変わってしまった。


思い返してみれば、そもそも自分は、経営を通じて人類のために富を生み出したいと思っていたはずだった。自分でビジネスオーナーになる。そうして『金持ち父さん貧乏父さん』の考え方に則りたかったはずだった。


このままサラリーマンを続けていく自分をイメージする。なんだか本の内容とはどんどん乖離していく気がした。このままではダメだ。


当時は会社勤めと並行し、受託開発で月10万円ほどの収入を得ていた。これか……これならすぐに起業できそうである。プログラミングも大好きだ。何よりも、やりたいことでビジネスオーナーになれる。


思えば行動は早い。強制ではなく、人は本来自由にやりたいことをやるべきであるはずだ。会社に辞表を提出し、独立することを決意する。2015年7月、合同会社Catallaxyとして会社を登記した。


最初はシステム開発会社としての起業だった。社名は、オーストリア学派の経済学者であり自由主義思想家のフリードリヒ・ハイエクによる造語から取った。


Catallaxyはギリシア語katallatteinを語源に持ち、経済という言語に置き換えられるべきものとして提唱された言葉である。意味は「ポジティブ・サムな秩序」。一方の利益が、他方の損失になるゼロ・サムな関係ではなく、どちらも得をするポジティブ・サムの秩序を構築したいという思いを込めた。


経済学でいうリカードの法則においては、人類は自発的に交換してきたからこそ、両者が得をし、飛躍的な繁栄を成し遂げてきたといわれている。つまり、ポジティブ・サムな秩序とは、各個人の自発的な交換により織りなされる秩序のことだ。そこに強制はなく、自由から生まれる秩序のなかで人は真の豊かさを手に入れる。


それは、まさに自分の生き方や信念と合致する。歩んできた人生と、これから描きたい未来のあいだに起業がある。自分が獲得した理想。それを一人きりで実現したいんじゃない。いずれみんなを巻き込んで、社会をよくする新しい秩序をつくりたいという思いが、おそらく頭の片隅にあった。


だからこそ設立する会社には、自分自身の人生の結実としての信念を「Catallaxy」と注ぎこんだ。



とはいえ、独立した際にはまだ、何か大きな事業イメージがあったわけではなかった。一人で粛々と、目の前の受託開発を無難にこなす日々がしばらく続いた。


翌年になると、前職で仲が良かった浅沼秀平と連絡を取り始めていた。当時浅沼は大学生で、キャリアに悩みながらも「エンジニアになりたい」という気持ちを持っていた。目指したい方向も一致している。一緒に働きはじめるまで、時間はかからなかった。


まもなく浅沼の人望のおかげで、ますますたくさんの仕事が舞い込んでくるようになる。紹介の仕事だけで、月の売り上げが100万、150万と増えていく。それらの仕事に忙殺されているうちに、気づけば銀行口座の数字は見たこともないくらい大きくなっていた。


事業としては順調な成長だ。会社の買収やCTOの打診もある。起業の走りだしとしては、文句ないだろう。


しかし、これがやりたかったことなのか?立ち止まってみれば、そこに喜びはなかった。かけらほどの喜びもない。


忙しさはときに大切なものを隠してしまう。「やりたいことをやりたい」「遠くに行きたい」と願って独立したはずなのに、自分は忙しさに満足し、全然遠くになんて向かえていなかった。そんな隠されたストレスが、きっと自分を蝕んでいた。


さらに大きなお金を稼いでみて初めて、自分がお金自体にはあまり興味を持てないことにも気がついた。「受託開発は麻薬」という言葉がある。月々の安定した売り上げに依存し、やめられなくなるという意味だ。まさに自分のことなんじゃないだろうか。急に恐怖が込み上げてきた。


自分が人生で本当にやりたいことを必死に思い出す。


自由主義経済学で語られるような、人類のために富を生み出すことがしたい。そんな事業をどうしてもやりたい。そうせずにはいられない。自分の思いに嘘はつけない。どうしても。




2018年、けじめとして受託開発事業を撤廃することにした。こんな気持ちを抱えたままじゃ、一緒に働く浅沼にもクライアントにもいずれ迷惑になると考えていた。


当時、受託開発をやめるならと、自分たちの技術力を見たこともない金額で買ってくれるという申し出もいくつか舞い込んできた。ありがたい話だ。でも、すべて断った。


ずっとやりたかったことがある。


そして今こそ、それをはじめよう。


母の実家の建設会社で見た建築資材。かわいがってくれた職人さんたち。多くの町工場が抱える悩み。数ある産業のなかでも特にレガシーで、IT化が進んでいない製造業。自分のルーツとして身近な産業には、解決できる課題が山積していることが分かっていた。


経済学を研究していたときも、過去、産業革命が一次産業と二次産業を発展させ、製造業における進歩が人類の生活水準の向上に大きく貢献したことを実感していた。


未来の製造業をつくりたい。そこに、これ以上ないほどのやりがいと使命感を見出していた。本腰を入れて、自社開発事業に一本化する。2017年も終わりに差し掛かるころだった。




まず、3日でサービスを作った。製造業にスポットライトを当て、これまで交わることのなかった工場と工場、工場とヒトが交わることにより、新しいイノベーションの芽が生まれることを目指す。日本一わかりやすい製造業紹介メディア「Fabit」のスタートだった。


たくさんの人に会い、不器用でも自分の思いを伝えた。15社、20社を回り、全員に出資を断られた。でも、本当にやりたいことをやれている実感がある。これまでにない喜びがそこにはあった。


2018年4月、ついに自分の話に共感してくれる投資家と巡り合えた。インキュベイトファンドの赤浦氏だった。一緒に事業を作り上げていきたい。熱い思いをぶつけあった末、出資してもらえることが決まった。


起業してみて分かったことがある。これまでの自分を支えてくれた両親、姉弟、友人たちなど。すべての人たちに対して、感謝の気持ちが芽生えた。さまざまな奇跡が折り重なった末、いまの自分がある。それは確実だ。だからこそ経営においては、人を大切にしたい。


「未来の製造業をつくる」。株式会社Catallaxyは、新たに製造業のスタートアップに舵を切った。


2019年5月、インキュベイトファンドのピッチイベントにて。

2章 Catallaxy組織の考え―


2-1.  ルールではなくレール


抑圧された人生を経て、自由主義的な哲学に触れたことで世界が変わった。今では「自分らしく生きたい」という自らの信条と、経済成長・経営の理論とが一貫するものとして自らの中にある。それはもちろん、Catallaxyという組織の在り方にも反映されている。


「組織に強制が介在すると、各々がパフォーマンスを最大限発揮できずに、単純に無駄が生じます。だから、弊社では『やらされ仕事はない』ということをいつも言っています(※契約による縛りは合意のもと行われているので、強制ではない)」


社員、ユーザー含めた各々が、強制なき自発的な行為・交換を通じて秩序を構築するからこそ、個々のパフォーマンスが最大化できる(Win-Win)。だから同社では、ルールというものは存在しない。代わりに、たくさんの「レール」を敷いている。ルールという言葉からは「変えてはいけない」、「破ってはいけない」というイメージが想起されるが、レールとは「則らなくても良いもの」として扱われているという。


「たとえば、弊社のエンジニアがDjango(PythonのWebフレームワーク)の動かし方のレールを作ってくれたおかげで、僕はDjangoの構築をしたことがなくても1分でDjangoを動かすことができました。レールに則ることのメリットは、業務のショートカットが行えることですね」


大枠となるレールが何本もあり、各人が必要に応じて自由に選択する。このレールを使わなければならないという強制はない。今あるレールが適切であれば使えるし、より良い別のレールを作れば、それもまた組織にとっての貴重な財産となる。その蓄積を大切に、組織を進化させていく。


もちろん既存のレールも柔軟に修正される。誰もがレールを編集、破壊、再構築できるようにすることで、レール自体の陳腐化を防ぐ。それにより同社では、何よりも大切にしなければならない価値の最大化を可能にする環境がつくられていくのだ。


Catallaxyのメンバー。


経営を通して社会に富を生み出していく。その過程では、守るべき哲学を大切にしながら、組織を拡大させていくことになる。たとえば組織が3階層になったときには、中間管理職の役割が重要になると大石氏は考える。


「僕はプロ野球が好きなんですけど、けっこうプロ野球を参考にしているところがあって。CEO(監督)がいて、コーチがいてプレイヤーがいる。コーチっていうのは、選手よりも年俸は高くないんですよ、別に。でも、コーチは選手に寄り添う役として、それぞれの個性を引き立たせるとか自発性を引き立たせるとかっていう存在として重要で。中間管理職っていうのはそういう位置づけであって、選手に寄り添う必要があるのかなと思います」


個々の役割が分業になっていくなかで、自主性を尊重しながらも企業としての方向性を全社員まで浸透させる。そのためには、中間管理職としてのコーチを機能させるため、監督からコーチへの教育や意思伝達がきちんと行われる必要があると考えている。


監督から伝えられた意思をコーチは選手に伝えていく。この循環があるからこそ、強固なつながりとなり、会社として向かうべき方向性に向けた一体化が生まれる。


自ら役割を認識し、組織のために必要な行動を考える。自ら望んでやりたいこと、やるべきことへと取り組み、責任をもってやり遂げる。その相互作用の総体として企業が成長していく。Catallaxyでは、そんな自発的な人の営みが発展していく組織の在り方を創造していく。



3章 Catallaxy未来


3-1.  未来の製造業をつくる


途方もなく長い人類の歴史のその始まりから現在に至るまで、人類の生活水準の向上に最も大きな貢献をしたのは、18世紀の産業革命であると言われている。


21世紀を迎えた今、製造業には、人類がもっと豊かで自由に生きることができる未来を実現する力がある。それは、大石が経済学を研究するなかで実感したことだった。


たとえば、たった一本の鉛筆を作る工程を想像してみる。黒鉛、スギ、金属、ゴムといった成分を集める、それだけでも世界中にいる数百万人の協力が必要になる。木を切る木こり、木こりの道具を作る職人、材木を運ぶ人など、数え上げていけばきりがない。


驚くべきことは、これらの無数のプロセス全てを指揮する存在はいないということだ。市場はそれ自体で機能しつづけ、数百万人の自発的な行動と協力の連鎖により、次々と目的が達成されていく。そこでは、一方の利益が他方の損失になるゼロ・サムな関係ではなく、どちらも得をするポジティブ・サムの秩序があちこちで構築されている。


この自由と創造のプロセスこそが、人の営みの基盤となっている。


18世紀後半、イギリスから始まった産業革命が一次産業と二次産業の成長に大きく貢献したことにより、人類の平均寿命は飛躍的に伸びはじめた。およそ36歳で人は死ぬ。そこから100年ほどのときが経ち、現在では平均して70歳、80歳まで生きる未来がある。その歴史を鑑みると、製造業の底上げは、そこにひもづく人類の生活水準を飛躍的に向上させることが分かる。


「僕が未来の製造業をつくりたいのも、まさにその理由からです。未来の製造業が作れたら、人間の平均寿命が今の倍の150歳まであがるのではないかと考えています。ビット(デジタル)の世界はこの20年飛躍的に成長しましたが、アトム(アナログ)の世界はそこまで進化したとは言い難い。18世紀の産業革命のような飛躍的な成長の余地がまだまだあると考えています」


人がより長く生きられるようになれば、必然と選択肢の数が増える。誰しも長く生きることが善であるとは言えないが、選択肢が芽生えることそのものは、素晴らしいことであると大石は考えている。




現在、製造業が抱える課題は多い。なかでも、もっとも大きな課題はあらゆる面において閉鎖的で、業界としてオープンになっていないことだ。さらに技術が専門的なため、業界関係者以外の素人にはわかりづらく、コストの面から参入障壁も高い。世界に誇る技術、製品があるにもかかわらず、IT化の遅れによって、それを活かせていない現状がある。


製造業とITが結びつくことで、実現できることはたくさんある。省人・省エネを達成し、より短いリードタイムで高品質な製品を生み出されるようになるほか、マスカスタマイゼーション*の構築にも繋がっていく(*マーケティング、製造業、コールセンター、経営戦略論における用語で、コンピュータを利用した柔軟な製造システムで特注品を製造することを指す。低コストの大量生産プロセスと柔軟なパーソナライゼーションを組み合わせたシステムのこと。https://ja.wikipedia.org/?curid=1817027より)


Catallaxyでは、「未来の製造業をつくる」というミッションを掲げている。それはつまり、製造業のソフトウェア化をすることである。「すべての産業がソフトウェア化する」と言われることもあるが、製造業も例外ではない。Catallaxyはその推進役となる。


労働集約型の生産体制から、ITによって効率化された無人工場へと移行する。それにより、産業革命以来の大きな進歩を成し遂げる。


人々が今より多くの自由と選択肢を手にする未来、Catallaxyは次なる人類の繁栄を見据えている。



2019.07.18

文・引田有佳/Focus On編集部



編集後記


「自分のやりたいことをやる」とは、何なのか。


かつて私たちは共通化された幸福を得るのために、横並びに「やるべきこと」をやり生きる時代があった。「高学歴・高収入・高身長」。三高はそんな時代の象徴であったのかもしれない。


その逆潮をいくかのように、今「自分のやりたいこと」を求め生きる声が高まっている。働き方が多様化し、個人が何を考えどう生きていくのかが重要視される流れの中。多くの人が「自分のやりたいこと」を手にするためのヒントを探し求めている。同時に社会では、そう生きるための仕組みを創り出す動きが加速している。


自分はやりたいことをやっている状態なのか?自分の心に従って生きているのか?と自問自答しながら、心に従い、自由でいることを求める人が、かつてないほどに増えているように思える。


2019年の新作映画『トイ・ストーリー4』においてもそうだ。心の声を聞くバズ・ライトイヤーの姿を描くことで、心の声に従いたくも、うまくいかぬ現代に生きる人の心にカタルシスを生んでいる。観客の感じる生き方への苦悶こそが、現代の様相を描き出している。


社会は個人の意思を優先させるべく、プライベート時間の確保や、労働時間や場所など物理的な自由を作り出すことを前提にした仕組みを生み出している。「働き方改革」の掛け声により、物理的な仕組みが担保されていくことがそうだろう。


しかし、そうした途上の仕組みの上で考える「自分のやりたいこと」。それを選択できるほどの自由。自分の自由な意思とはなんなのかという思考。それらは、本当の自由といえるのだろうか。私たちは本当に自らの意思による選択を手にすることができているのだろうか。私はこの時代に語られる、やりたいことをする自分の「自由」に違和感を拭えない。


何かを放棄した上での自由を語っているときはないだろうか。


「自由に行動するとは、自らの欲求に合致し、しかも意識をもって行動することである。そしてこのことは決定根拠の法則によって斥けられるものでは決してないのである」J(1403)。(中略)それは言わば、人聞が理性に則った熟慮によって自己の本来の働きを意識し、かつ意識することを通じて今度は逆にその自己の本来の働きが人間自身を完全に必然的に決定するのだが、そのような仕方で決定されること自体に人間の自由が存する、というような自由の概念なのである。

―京都大学大学院文学研究科 脇坂 真弥「人間的自由の深淵 - カントの自由概念を中心にして」より


自由に行動するとは、意識を持ち理性に則って、自らの欲求に合致させることであるという。つまり、裏を返せば、理性の伴わぬ単なる欲求は自らの意思による自由な行動とはいえないのである。


これこそが違和感の正体であろう。「理性の伴わぬ単なる欲求=自己の自由な意思」と認識し、自らの自由を主張し、行動する。それでも「自由な意思」のもと生きていると思って行動するが、理性的な意思のもとに生きる自分と出会えず困窮する。「自分らしさ」の負のサイクルにはまっていく。社会に存在する個人のための物理的仕組みは、欲求のみが独り歩きする「自分らしさ」を誘発させる装置になっている場合もあるように思えてならない。


理性に則った熟慮によって自己の本来を意識する。欲へ従う自分に身を委ねるのではなく、理性を伴う自分の意思に従うことこそが、自分のやりたいことをやっている状態といえるのだ。だから、自由だと思っていることであっても、その実、欲でしかないことがありそうなのだ。


真に自由に生きるためには、欲だけに自らの意思を引きずられないよう、自分の意思・理性の法則を見出し、やりたいことを進めるための道筋を選択していくことが必要になる。やりたいことのため、レールにより自らの理性を辿っていく。意識的にレールを歩むことで、人は理性と欲求の一致した状態を生み、自律的な人生を手にする。本当の自分の意思を求める人間にとって、レールは必要なツールなのだ。


大石はレールを見い出し生きてきた。自らのやりたいことを求め、それを叶えるために寝泊まりする家さえ手放し生きてきた。大石にとって、やりたいことを前にして、ふかふかのベッドで寝たいという欲は二の次のことなのである。社会において心の声に従って自由に生きるため、そうして築いてきたレールの一つ一つが積み重なって、真に自分の意思のもとに生きる人生をつくりだしている。


そうすることは怖くない。むしろ、正しく自分の意思に従うことができるから喜びなのだ。


私たちは正しく自らの声を聞いて生きていきたい。欲ではなく心の声を聞き、自律的意思としての自由を手にして生きていきたい。大石は、そのための勇気を提示してくれている。



文・石川翔太/Focus On編集部



※参考

脇坂真弥(2000)「人間的自由の深淵 - カントの自由概念を中心にして」,京都大学,博士論文,< https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/156979 >(参照2019-7-17).




株式会社Catallaxy 大石裕明

代表取締役社長

1990年生まれ。2013年に学習院大学経済学部卒業後、キングソフト株式会社入社。在籍中にNYSE上場企業である北京の奇虎360社にプログラマーとして出向。2015年に多数のWebシステム開発を個人で請け負ったことで合同会社Catallaxyを設立し、代表就任。2年で計8社のスタートアップや中小企業の社外CTO的なポジションを務める。その中でも、実家である仁科建設株式会社のWebサイト作成を請け負ったことで、二次産業×ITの可能性に気づく。2018年より、製造業紹介メディア「Fabit」と金属加工取引プラットフォーム「Mitsuri」を運営。株式会社Catallaxyに改組。

https://catallaxy.me/