僕の人生は日本酒が変えてくれた ― 誰も他人にはなれない。自分の人生は自分を究めることしかできない。

世界はこんなにも、いまだ知らない魅力や可能性で満ちている。


日本酒の未来にあるべきものを追求し、その可能性に挑戦していく株式会社Clear。月間およそ30万人が訪れる国内最大の日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」を運営し、日本酒の魅力や楽しみ方、酒蔵に眠る奥深いストーリーなど、質の高い情報を発信している同社。2018年には、プレミアム日本酒ブランド「SAKE100」をスタートさせたほか、総額7500万円の資金調達を実施した。同社代表取締役の生駒龍史が語る「自分の人生を究めること」とは。



目次

プロローグ


1章 生き方

  1-1.  東京都府中市に生まれる

  1-2.  母親が天職だと思う

  1-3.  社会の存在

  1-4.  高校デビュー

  1-5.  個性

  1-6.  大学で手にできたもの

  1-7.  社会のクズ

  1-8.  日本酒「香露(こうろ)」との出会いが人生を変えてくれた


2章 大切にしていること

  2-1.  「長所短所」という言葉は存在しない


3章 Clear

  3-1.  日本酒の未来をつくる


編集後記



プロローグ


透明なその一滴。その尊さに気づいて、人生がまるっきり変わってしまった。


酒蔵を巡り、それぞれの日本酒の個性を知る。そこにあったのは、到底語り尽くせないこだわりと、人の思いだった。


今、見えている世界の美しさがすべてとは限らない。いつどこに自分にとって大切なものが隠されているかは分からない。


ものの魅力、人の可能性。物事の見え方捉え方が違うと、世界はこうも違って見える。同じ国、同じ時代を生きているのにもかかわらず、ときにそれは残酷なほどの違いがある。


目を見開いて、心で感じよう。手に取って、口にしてみれば思いがけない発見がある。人は見出すことで驚き、感動し、心動かされる。それほど素晴らしいことはない。


自分の人生が深みを増し、熟成されていく。だから、この仕事は辞められない。日本酒とともに生きると決めている。


未知へと挑戦し、新しい世界を拓いてきた生駒龍史の人生。


1章 生き方


1-1.  東京都府中市に生まれる


線路沿いの斜面で、草花が小さく揺れている。風が吹き抜けた。青空の下を走る京王線の車両は、春の草花の色鮮やかさとの相性がいい。その先は遠くて近い山の方に向かっていた。


東京都府中市。いくつかの幹線道路に囲まれた町の一角。辺りには家々が低く身を寄せ合うように並んでいる。都心に通う人が多く住む、いわゆるベッドタウンだ。いつだか近くに大きなスーパーもできた。静かで住みやすくて、たくさんの家族が暮らしている。僕が生まれ育ったのは、分倍河原(ぶばいがわら)という駅のある町だった。


改札を出て、道幅の狭い商店街を抜けると住宅街が見えてくる。買い物をする主婦。近所を散歩する老夫婦。夕暮れ時になれば、子どもの足音が駆け抜ける。


急いで帰らないと。暗くなる前に帰ってきなさい。家に向かう足取りは、父と母の顔がちらつくたびに小走りになる。小路を曲がると、どこかから食欲をそそる匂いが漂ってきた。踏み出す足に力を込め勢いよく家に駆け込めば、ただいま!おかえり!といつもの声がかえされる。ここは、安心する匂いがする。


リビングではまさに夕飯の準備中だ。手を洗い、待ちきれないとばかりに食卓につくと、父と母、5歳上の姉の顔がある。誰ともなく話し出す。4人家族は、昔から仲が良かった。


いつものように父はNHKのニュース番組を見ている。テレビをつけているときは四六時中そうだった。アナウンサーは淡々と今日世の中であった出来事を読み上げはじめる。横目に、家族の今日あったことの話もはじまっていく。今思えば少し古いタイプの父親だったが、おかげで社会の動きはいつも身近にあった。


「昨夜未明、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国は……」。アナウンサーの声は自然と耳に入ってくる。画面には、近くの国の偉い人が映し出されていた。


いつのことだったか、教科書で同じ国の写真を見たことがある。ページには「朝鮮民主主義人民共和国」と書いてあった。おかしい。その国の名前はたしか「北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国」じゃないのかな。授業中、しばらく先生が話しているのを聞いていて、はっとした。


ニュースのせいだ。ニュースではいちいちそう読み上げるから、ずっとそれがあの国の正式名称だと勘違いしていた自分がいた……。それほどまでにNHKは自分の日常だったと気づいたのは、もう少ししてからだった。


窓の外が暗くなってくれば寝る時間だ。「おやすみなさい、お父さん」。挨拶をして、布団に向かう。父と会話するときは敬語だ。おはようございます。おやすみなさい。自然と父との会話はそうなっていた。


父は定時制の夜間高校で、教育指導と世界史の指導を担当している(もともとは出版社で働いていたが、母とデートする時間が取れないからと、働きながら勉強して教員免許を取ったらしい)。


その仕事のせいかもしれない。小さな子どもとは生活リズムが合わないから、物理的な距離は離れていたようにも思える。接点の多少が、精神的な遠さに繋がり、より自分を畏まらせていたのかもしれなかった。


悪いことには悪いと言う。父はかちっとした性格だった。でも、特別しつけが厳しかったかというとそうでもない。


両親はともにビートルズ世代で、音楽が大好きだった。父のイメージといえば、家でギターを弾いている様子を思い出す。ギター、バイク、車。当時の世代の人たちの定番だ。出かけるときはよくバイクの後ろに乗せてくれたし、週末には、家族を車で府中の伊勢丹へ連れて行ってくれた。


父は普段から明るく気さくな人だった。やりたいことはやらせてくれる。父が怒る姿は、数えるほどしか覚えていない。家族想いで、外では仕事を全うする。料理や家事をしている姿はあまり見たことがないけれど、いずれにせよ努力家の父の姿には自然と尊敬のまなざしを向けていた。


幼少期。


1-2.  母親が天職だと思う


「私は母親が天職だと思う」。いつかは忘れてしまったが、母が自分で言っていた。


子どもが好きで、とにかく優しい。他人に対しても、誰に対してもとても献身的な人だった。電車でどこかへ出かけるとき、駅の階段で重い荷物を持っている人に出くわせば、いつも率先して手を差し伸べに行く姿を見てきた。


山梨県で地元の町工場を営む一家に生まれた母は、三兄弟の末っ子だった。大学に入学するときに上京。それまで母自身、大切に育てられてきた方なのだろう。その朗らかな優しさは、子どもに向けられていた。


優しかったのは母だけじゃない。歳の離れた姉も、まさに母の性格を受け継いでいた。勉強を教えてくれるし、親に怒られたときはなぐさめてくれる。地震が来たときは、そばに来て守ってくれるほどだった。姉はいつでも味方でいてくれた。


「母と姉のおかげか、何かをしてもらうということが、比較的身近にあったかもしれないですね。末っ子ってどうにかなると思ってるのかな(笑)」


どちらかといえば、自分はゆったり育てられた方なのだろう。勉強家でしっかりしていた姉と比べると、幼いころは毎日楽しく気ままに生きていた。いつも機嫌がいい子だったと、母には聞かされている。それには理由があることも。


たとえば、子どもなりに何かの拍子に泣き出すことがある。すると母は、自分を膝の上に寝かしつける。そうすればすべてがおさまる合図であることも分かっていた気がする。母の手には耳かき棒が握られていた。


横向きになったあたたかい母の世界に身を委ねれば、直ぐ。耳かきをしてもらう心地よさに意識はさらわれていた。


張り詰めていた何かはしぼんでいく。あたたかさに包まれて安堵している自分がいる。そういえば、何が悲しくて泣いていたんだっけ?ふわふわとした意識の淵をさまようところで意識は途絶える。耳掃除をされれば、いつも一瞬で泣き止み寝てしまっていた。


素直な子どもだった。愛情深い両親と姉のおかげで、素直でまっとうに育つほかなかったのかもしれない。眠りに落ちた我が子のことを、きっと母は微笑みながら見守ってくれていた。


自分が楽しく素直でいれば、周りにいる人はあたたかく見守り、笑顔になってくれることを知っていた。小学校に入れば、休み時間にはみんなの笑いの中にいた。というか、そうしていることが幸せだった。


「ブラジル!」と誰かが叫ぶ。自分はその音の響きから、とっさに考えた踊りを披露する。音の響きに身を委ねることがカギだ。そうすれば、次の瞬間にはみんなの爆笑をさらっている。当時は、いろいろな国名の言葉の響きから想起される踊りをする遊びにハマっていた。今度は別の誰かが違う国名を叫ぶので応える。変顔をしたり、ダンスを踊ったり。人を笑わせるのが好きだった。人に嫌われるよりは、誰だって好かれていたい。人が悲しむよりは笑っていてほしい。


幼少期。


教室では友達と笑い合うのが楽しくて、一方で勉強にはあまり意識が向いていなかった。


チャイムの音が流れて席につく。机と教科書とにらめっこ。授業中は上の空。当然、テストで良い点をとることもなかった。それでも気にしない。家に帰ればテストはすぐに机に放りだされ、自分は友達と遊ぶため家を飛び出している。そんな調子だったから、通知表を開けば「3」の数字が並んでいた。それでも明日も楽しい毎日が待っている。


意識が向かないのは勉強だけじゃない。運動神経もあまりよくなかった。友達と走っていると、追いつくだけで必死になる。そもそも運動に向いている体型じゃなかった。気づけば、盛りつけてもらうご飯の量はどんどん増えていき、それを平らげてしまう自分の体は人より少し大きくなっていた。


そんなんだから、徒競走ではみんなの背中ばかりを追いかけている。野球では空振り三振。サッカーでもボールを奪われる。どれもあまり上手くはできなくて、仕方なく部活はマイナーな剣道部を選んだ。剣道であれば、走らなくてもいいと思っていたのかもしれない。


勉強ができなくたって、運動ができなくたっていい。会話を広げればその中心に自分がいる。喋ればみんなを笑顔にできる。そうすれば、決まっていつも友達の笑顔が周りに溢れていた。楽しく平和に生きる日々を過ごしていた。


「剣道も正直強くなくて、地区大会の2回戦で負けるくらい。根性がなかったのか、小さいころから何かを達成した記憶が一個もなかったんです。ちらっと始めてみて辞めたものが多い。気が多くて、口が立つだけ。僕は起業して初めて自分が輝き出したくらいの人生だと思ってます」


人より何か秀でるものがあるわけじゃない。眼鏡をかけていて、正直やや太っていた。女の子にモテるような外見でもない。今思えば、小学校生のころは平凡だったように思う。それでも、ゲームやミニ四駆、ハイパーヨーヨーで遊んでいれば幸せに違いない。友達もみんな仲がいい。いつもみんなの笑顔を見ることができていた。


よく晴れた日、一人鼻歌混じりの登下校。ふと横手にある家の塀が目に入れば、試しに登ってみたくなっている。両手を広げ、一歩ずつ歩き出す。見下ろせば、地面より少し高い場所を危なげなく渡っていく自分の足がある。


一歩、一歩、わくわくして止まらない。


怖いものなんて何もない。明日も一歩を踏み出せば楽しさが待っている。込み上げてきた楽しさとともに、勢いよく飛び降りる。そのままの足で、またどこかの楽しさを見つけていた。


中学校の友達と(写真中央)。


1-3.  社会の存在


新しい制服に袖を通すのは新鮮な気持ちだ。


鏡の中からは、中学生になったらしい自分がこちらを見つめている。地元の市立中学だったので、友達の顔ぶれが大きく変わるわけじゃない。中学生の生活はどんなものが待っているんだろう。これから始まる楽しい日々への期待に胸をふくらませていた。


教室へ向かう廊下を歩けば、景色は違って見えていた。みんながだいたい同じようだった小学校と違って、すれ違う上級生はなんだか大人びている。どこかの教室では、先生に強く反抗している生徒がいる。自分とは関係のない出来事だが、聞き慣れない言葉の応酬に、なぜか気持ちはさざめきだった。


部活は引き続き、剣道部に入ることにした。部員の声と竹刀の音が鋭く響き渡る体育館。練習終わり、片づけを終えみんなで帰ろうとしていると、いつも一人だけ輪から外れたところにいる人がいることに気がついた。


「一緒に帰ろう」。友達がいれば楽しませるのが自分の自然だ。声をかけて巻き込めば、仲良くなれるはず。「……」。全員の視線が集まる。無言で周りに止められた気がした。なんとなく居心地が悪くなり、つづく言葉を飲み込んだ。仲間外れにされているから、ひとりぼっちなんだと気づいたのはその時だった。


「なんで仲間はずれにしたりするんだろう?」


よくよく学校を見渡せば、仲間外れやいじめは至るところで起きていた。ひどいときには恐喝のようなものもある。クラスでも部活でも、強者と弱者の線引きやヒエラルキーは明確なようだった。なんだこの異様な空間は。小学校までとは全然違う。どうやらその地域では一時、暴走族が台頭した時代があり、その下の弟妹世代にあたる子どもたちには不良たちが多かった。それも一つの要因であるようだった。


人によって態度を変えるなんて理解できない。みんなで仲良くすればいいはずなのに。


自分は絶対にいじめには加担したくないと思った。


むしろそれは自分がどうにかしないといけないという衝動にも変わっていた。一人のけ者にされる友達を、そのまま放っておくことなんてできない。「あんな奴ら友達辞めた方がいいよ」。二人きりになったとき、いじめられている子に声をかけた。誰かを虐げて、調子に乗っている奴らのことは許せない。自分は違う、間違っていると、その子の目を見て訴えた。相手は戸惑いながらもコクコクと頷いてくれた。


間違っていることがあれば、自分の大事なものを曲げるのもおかしな話だ。いじめがあったとしても、毅然とした自分でいた。困っている人に手を差し伸べるのは当たり前だろう。両親だってそうだった。そうすることが、高貴で不可侵な精神のように感じていたかもしれない。いけないことはいけないこと。おかしいことはおかしいことだ。それを受け入れては自分自身が間違った存在になってしまう。


しかし、現実はなかなか思うようにいかないこともある。


後日、教室に入ると、肌に突き刺すような冷たい視線を浴びた気がした。昨日と様子が違う。あんなに仲良く話していた人たちも、気まずそうにして目を合わせてくれない。勘違いだろうか。そうではないことは一日過ごせば確信に変わる。今度は自分がいじめの対象になっていた。助けたその子が口を割ってしまったようだった。昨日までとは明らかに違う。知らない土地に来たみたいに、何もかもが変わってしまっていた。


どうやって家に帰ってきたのかは分からない。衝撃を受け、チャイムと同時に逃げるように立ち去った。見慣れた我が家がこんなにも頼もしく思えたことはない。自分の部屋に駆け込んで、息を吸い込み吐き出した。抱えたことのない気持ちを持て余し、心は一向に落ち着かなかった。


いじめてくる同級生の顔が浮かんでくる。頭を振り払っても、振り払っても離れない。自分がしたことに後悔はない。いじめに屈するつもりもなかったが、彼らに勝てる自分もいなかった。


あぁ、そうだ。自分は何も持っていないのだ。頭がいいわけじゃないし、運動ができるわけでもない。部屋の鏡には、いかにもパッとしない太った眼鏡が映っていた。


中学生のころ。


平和な生活は突然終わりを迎える。描いた理想のようにうまくはいかない。そんな、「現実」の社会に放り出された気がした。現実とはこんなものなのか。世の中には決して抗えない階級格差が待っていて、自分はその底辺にいる。鏡の姿の自分と友達の姿を照らし合わせても、確かにそうなのかもしれないとも思わずにはいられなかった。許せないのは社会か、学校か、友達か、それとも自分の方か。いずれにせよ学校に通うのは、日に日にしんどくなっていった。


足取りも弾むわけがないいつもの通学路。何気なく学校に向かう足を止めた。見上げると曇り空が広がっている。今にも降り出しそうだ。まるで今の自分の心の中みたいに、雲はよどんだ色を重ねていた。


学校から帰れば、いつも母のもとで涙が降りやまない。当時の自分にとって、家庭という居場所があるのは幸運だった。やはり家族はいつも味方でいてくれた。学校以外の時間で遊んでいた近所の友達の存在も同じく救いになっていた。気が合う彼はゲームを何でも持っていて、よく一緒に遊んだ。その時間だけは、友達がくれる安心からいつもの自分を取り戻せていて居心地がいいものだった。


学校が落ち着かない場所になりつつあったころ、見つけた居場所はほかにもあった。


中学3年生のとき、親にパソコンを買ってもらっていた。スイッチを入れると、独特の電子音とともに「Windows98」のロゴと文字が浮かび上がる。ダイヤル回線でインターネットに繋がると、そこには知らない世界が広がっていた。


始まりは、ドラクエの攻略サイトにアクセスしたことだった。友達に教えてもらったチャットや掲示板を開くと、そこには顔も知らない人たちのコミュニティがあった。お互いハンドルネームで呼び合って、ゲームや日々のこと、たわいもない話で盛り上がった。


なかには遠い外国に住んでいるという日本人の女の子もいる。「今、こっちは●時だよ」。時差というものの存在も初めてリアルに体感した。


このパソコンの先にはたくさんの誰かがいる。自分が社会や誰かと繋がっている気持ちがする。それは、息が詰まりそうだった毎日を忘れさせてくれていた。小さな社会の出来事を前に、こんなに広い社会があるのだとワクワクさせられていた。いつしかそんなインターネットが大好きになっていた。


パソコンのことを知っている人は同級生でも少ない。自分だけが知っている広い社会がある。だんだんと中学校には、足が向かなくなっていた(高校受験が近づいて、学校の授業がそこまで重要ではなくなっていたこともある)。


画面にメールの受信を知らせる通知が光る。会ったこともない、いつものあの人との繋がりの合図だ。クリックすると、画面が切り替わる。黒い画面に映る自分は見ないようにして、夢中でカタカタとキーボードを叩いた。パソコンの世界は入れば入るほど留まることはなかった。


いつの間にか、家の外は静かな夜に沈んでいる。暗がりの中、家々の明かりが一つまた一つと消えて寝静まる。小さく灯る自分の部屋だけが、明け方まで世界の裏側まで繋がっていた。



1-4.  高校デビュー


社会がなんたるかは分かった。そうであるならば、高校からは切り替えていこう。


美容院に行って、伸びていた髪を短く切った。初めてつけてもらうヘアワックスも、社会で生きるには重要なエッセンスだ。それから眼鏡もやめだ。これからは、コンタクトに。服は当時流行っていたサーフ系ブランドの真っ赤なTシャツだった。


分かりやすい高校デビューだ。でも、当時はまだ太っていたし服装もダサかった。それでも装備だけは揃えていくことで、これからの高校という社会での生き方は変わるかもしれない。


我ながらちぐはぐだ。入学式に向けて気合いを入れている。気合いも入れすぎることはない。しっかり準備万端でいこう。ここからは、これまでとは違う環境であることは一種の確信めいたものがあった。


その確信に導いてくれたのは、たしか父だった。


「クラスメイトにはメジャー/マイナーという概念がありません。そこには個性があるだけです」。


中学も終わるころ、高校進学に思案する自分に父が持ってきてくれた学校案内。そこには「在校生の声」というコーナーがあり、こう書かれていた。リベラルな校風というものらしい。すごく素敵だと思った。


嫌気がさしていた地元を離れ、私立高校を受験する。担任の先生に相談しても、「生駒くんには絶対に合います」と太鼓判を押してもらった。小論文を書いて、面接を受ける。いつになく努力した自分がいる。おかげで無事合格を手にすることができた。





桜の花がほころぶ季節。ついに待ちに待った入学式の日。


緊張しながら体育館の席についた。一人、また一人と新入生が集まってくる。


前を行く生徒を思わず二度見した。髪形がモヒカンだった。衝撃を受けていると、今度はピンク色の坊主頭の人が視界に入り、驚きが上書きされる。


周囲を見渡せば、自分の恰好なんて霞んでしまうほどのビジュアルがあちこちにある。圧倒された。私服の学校なので服装も自由だ。個性。唐突にその二文字が頭を駆け巡った。たしかにみんな違って面白い。それでいて不良のような生徒はいないようだとも思った。


今日から三年間、一緒に時間を過ごすクラスメイト。初日の教室で自己紹介が始まった。


前に立つ生徒は、「水生生物が好きです」と話している。見た目だけじゃなく、中身まで個性的なようだ。そんな話聞いたことがない。その日から彼のあだ名は「学者」になった(彼は将来、本当に学者になった)。


次の人は手品が好きらしい。いきなり手品を披露していて、ぎょっとした。(もちろん彼のあだ名は「マジシャン」になった)。


引かれたりしないんだろうか。心配していると誰かが声を上げた。「それめっちゃ面白いね!」。そうだよ、その個性は面白いよね。その後も、教室は笑いに包まれていた。


まるで漫画みたいだ。いろんなキャラがいる。そして、何よりもそれでいいのだ。個性があるほうが面白い。不安より、ワクワクする気持ちの方が勝ってきていた。


そこに個性があるだけ。メジャーもマイナーもない。クラスのヒエラルキーのようなものは、ここには存在しない。個性があるままに尊重されている。


自分もここでなら楽しくやっていけそうだ。自分の番が来て立ち上がる。いくつもの顔が、興味深そうにこちらを向いていた。


教室の窓からは眩しい光が差し込んでいる。高校生活は期待以上になりそうだ。



1-5.  個性


個性を発揮していい。そうと分かったはいいが、実際は個性を発揮すると言っても一筋縄でいかないものだと分かったのも直ぐだった。


自分は何をしよう。バンドや音楽もかっこいい。でも、周囲ではバンドや楽器をやるのが流行っている。だから、自分は頑なにやらなかった。ロック研究会?みんながかっこいいと思うものは選びたくない。自分は人とは違うんだ。そう思えるものが良かったのかもしれない。


放課後。廊下を歩いていると、どこかでギターをかき鳴らす音がする。後ろ髪ひかれる思いもしながら、脇目に過ぎていく。


生物室へと向かう。自分の足取りは少し誇らし気だ。白衣をはおり、銀色のナイフを握りしめる。目の前には動物の死体が置かれていた。部活の名前は地学研究部だが、中身は生物寄りで、死んだ動物を解剖し骨格標本を作るのが主な活動内容だった。バンドのみんなは知らない世界に、自分がいる。


どうにか周囲に負けない個性を自分も獲得したかった。それでも父のそばにあったギターを見ていたし、かっこいいバンドにも惹かれていたのは内緒の話だ。




個性を見つけようと思うと、自分の興味がなんたるかにアンテナが立つのだろうか。


あるとき本屋で、一冊の本を手に取った。


表紙には『プロカウンセラーの聞く技術』と書かれている。当時は「カウンセリング」という言葉がブームになっていて、コンビニでもよく心理学の本が目についていた。何かが自分のなかに引っかかっていたのだろう。そのままレジに向かって買っていた。


何気なく読み始めたつもりが、気づけばぐいぐいと文字を追っていた。


カウンセリングとは何か。カウンセラーはどう話を聞くのか。なんでもカウンセラーは、避雷針にならなければならないと書いてある。避雷針は雷が落ちやすくなるけれど、その電気を地球へと流している。カウンセラー自身がストレスを溜めないようにするということらしい。なるほど。


傾聴の仕方や、オウム返しなどの話し方。ほかにも考えたこともないようなことがたくさん書かれている。素晴らしい技術だと思った。これを使えば、人間関係が良くなる。


苦労した中学の人間関係の記憶が浮かんでくる。許せないと思うことばっかりだった。でも、そうしていつまでも怒りに身を焦がしていても、自分だけが世界に取り残されるばかりだ。


自分も臨床心理士に、カウンセラーになりたい。人を助けるような仕事がしたいと、そのとき思った。


「人を助けてあげたいというのは、自分が助けてもらいたいの裏返しだったのかもしれないですね。高校は平和だったけど、イケてる人はやっぱりイケてるんですよ。なんで自分はそうなってないんだろうって、持たざる者としての自分を強く自覚してたんです。自分はもっとできるとか、めっちゃ自己評価の水準が高いのに、そこにいない自分を、他者を通して見せつけられていたのかも」


教室でみんなが何かに盛り上がっているのを見ると、なぜかは分からないが嫌な気持ちになることがある。


俺は違う。俺はもっと……。言葉にできない感情がそこにある。でも、自分には何ができるだろう?一体何があるんだろう?あったとしても足りないものばかりだった。


勉強や運動、何かを頑張ろうとしてみても結局続かない。何かをやり切った経験はない。解剖をしていても気持ちは満たされていなかった。高校の友達と過ごすのは楽しかったが、みんなの姿はなんだかキラキラと眩しく見えていた。



高校の学校行事や受験勉強は、生徒の自主性に委ねられている。だから受験指導も熱心じゃない。高校2年3年と、結局勉強は真面目にしていない。臨床心理士になりたい。そのために大学は心理学部に入ろうと思い、勉強も真面目に始めようと思っていた。


「先生、僕もセンター試験を受けてみたいです」「もう終わったよ馬鹿」


びっくりしすぎて言葉が出ない。先生は半笑いだった。


センター試験終了後から始めた勉強。大学入学試験の結果は目に見えていた。たしかに本に影響を受けてはいたが、準備が足りなさすぎる。結局、大学で学びたいと思うほどの強いモチベーションはなかったようだとも思った。浪人確定。我ながらふざけた息子だ。それにいくらかかるのかも知らなかった。


浪人生活で通った立川にある河合塾。浪人生はどうも、仲良くたむろするらしい。いつも同じ顔触れの人が同じ場所で話に花を咲かせている。俺は違う。ここでも発動するのが、自己評価の水準の高さだった。ひたすら予備校でたむろしている人と自分は違うと思っていた。


イヤフォンで耳をふさいで、一人自習室の机に向かう。もくもくと、自分は大学に向けて勉強している。……はずが、実際は彼女ができて、二人で過ごしていた時間の方が長い。当時は急激に背が伸びて、体重も一気に落ちていた。少しずつ洋服にも気を遣い出したので(高校入学のときの恰好は振り返ればダサかった)、高校3年になるころには、彼女を作れるくらいには見た目のモデルチェンジが完了していた。


彼女のおかげで安心できる日々。


結果、2度目の大学受験でも心理学系は全滅だった。代わりに、日本大学法学部の新聞学科に合格。広告やジャーナリズムを学べるのも面白そうだと入学を決めた。ニュース番組を見つづけていたおかげか世界情勢にも興味が湧いていた。




予備校から帰宅すると、父が頭を悩ませている。ちょうどそのころ、父は転職活動をしていたようだった。


定時制高校の教師として働いていたが、もともとは大学の教授になることが夢だったらしい。これまでのキャリアを考えると、現実的には難しい選択だ。努力家だと思っていた父でも、なかなか苦労しているようだった。


それでも最後は、京都のとある大学で教職課程を受け持つことになった。間近で見てきたからこそ父の努力を知っている。夢を掴んだ父は、母と一緒に京都へ引っ越していった。


夢に向かって努力するとはこういうことだ。見送る父の背中は物語っていた。比べて、自分は今まで一体何をしてきただろう?一人きりの家で自問する。大学になんとなく入る自分と、主体的な夢をつかみ取り大学に就職する父。怠惰な自分が急に恥ずかしくなってきた。


父はやはり尊敬に絶えない。言葉で伝えるんじゃなく、結果で示して教えてくれた。


どんなに大人になったとしても挑戦する権利と、成長する可能性がある。挑戦と成長。そう、自分もそんな努力に憧れていた。



1-6.  大学で手にできたもの


父の未来に向かう背中は、大学生活の始まりにも影響を及ぼす。自分は何に挑戦するのだろう。大学で何をして、その先に何を手にしているだろう。


焦りは大学生活を華々しくさせた。


ディスカッションの授業があれば、自分の右に出るものはいない。みんなが自分の言葉に耳を傾けている。


幼いころから口のうまさは自分でも認めるほうだ。それっぽく言論を作ってまとめるのはなんてことない。答えの決まっている問題は、自分より上手くできる人がたくさんいる。でも、答えのない問題なら持たざる者でも答えを創り出し、一番になれる。だから好きだし得意だった。


勇気を出して軽音サークルにも入った。高校の終わりからは大学を思い、素直に友達に頼んでドラムを教えてもらっていた下準備もある。大学では経験者としてロケットスタートを切る。狙い通り、サークル合宿ではベストドラマー賞に選出された。みんなの称賛を受けるのは心地がいい。


ファッションが好きになり、見た目は前より磨かれた。彼女もいる。注目、称賛、羨望。昔と違って、多くのものを手にできた。


コンプレックスが自分を突き動かし、一目を置いてもらえる存在にもなれた。ちょっと挑戦すれば得られるじゃないか。それ自体はなんとも気持ちがいいものだ。


それでも、今その場所は空っぽになりつつあった。代わりにあるのは更なる焦燥。何かを手に入れるたび理想はその分高くなる。自己評価が高いんだろう。いつまでも理想と現実の差分に歯ぎしりしている自分がいた。





手にしようとして手にできた現実を尻目に、理想を手にするべき未来は近づいてくる。


ある日の大学で、サークル内でかっこいいと言われている先輩と会った。先輩はリクルートスーツに身を包み、見るからに疲れた顔をしている。就職活動がうまくいかないらしい。苦労話を聞かされた。


ギターが上手くて、金髪で革ジャンしか着なかった先輩。今はその先輩が髪を黒く染め、現実の社会に打ちのめされている。


なんだ。ここにいて、音楽が上手くてもダメじゃん。なんだか愕然とした。自分がかっこいいと思い、必死で手に入れようとしていたものは、所詮社会ではこの程度だったんだ。


それならここにいてはいけない。思っていた理想を手にできて一時の満足を手にしていたってしょうがない。大学から外に出て、自分から何かを始めよう。もっと社会で戦えるような何かを。きっとそれは自分が情熱を注げるものであるはずだった。


大学時代。


携帯会社のコールセンターでのアルバイト。ファッション誌の読者モニターのアルバイト。ライターのアルバイト(京王沿線のおでかけスポットやグルメ情報を発信する「街はぴ」というコミュニティサイトが新しくリリースされるということで、その記事を書く人を募集していた)。とにかく目につくものをやってみることにした。


いろいろなことに手を出して、これというものを探した。でも、そうそう何かを見つけられるものじゃない。就職活動の時期になっても、正直いまいちしっくり来ていなかった。急にやりたいことは何かを言われても、そんなもの分からなくて途方に暮れていた。


新聞学科だったので、なんとなく近いところで出版社の選考を受ける。当時好きだったファッション誌を作りたいと思った。そうか、それが自分のやりたいことなのか。ファッションも好きだし、良いじゃないか。


それでも、あえなく不採用。


せっかくやりたいことが見つかりかけたと思ったのに、やりたいことというものはこんなに簡単に終わってしまうのだろうか?モチベーションを失って、就活は迷走しはじめていた。


IT業界を受けたと思えば、不動産業界を受けてみたり。やりたいことかも分からずに、目についた企業にエントリーしていった。


どこかのIT企業の選考で、グループディスカッションに参加した。同じグループの就活生は、正直あまりイケていなかったと思う。口は立つ方だが、ここでみんなを論破しても仕方ないことも分かっている。そうとなればやることは見えてくる。「足の引っ張り合いじゃなく、この4人の結束が会社を変えると思ってもらえたらいいじゃん!」。そう扇動していたら、社員に評価されたらしい。


後日、内定通知を受け取った。一次選考しか受けていないのに、見初めてもらえたようだった。社員は4、50人、売上8億円ほどのベンチャーSI企業だった。


IT。ベンチャー。なんとなくかっこいい響きだ。いいじゃん、ここで俺はやってやろう。これが俺の挑戦だ。


入社初日のキックオフMTGで、「僕は30歳までに部長になります!」と大見得を切った。その規模のベンチャーではけっこう難しいことも先輩たちを見て分かっていた。でも、本気だった。向こう見ずでも何でも構わない。せっかく拾ってもらったからには何でもやってやろう。そう意気込んでいた。



1-7.  社会のクズ


「そんなの報告じゃない」。一日の終わり、上司に業務報告をするとそう言われ、やり直しを命じられた。


作業に終わりが見えない。パソコンをにらみつけ、必死に頭を悩ませる。時計の長針が何周もしていくうちに、同期は一人また一人と帰っていく。焦りはどんどん大きくなった。


やっとのことで完成させたころには、とうに日が暮れていた。駅のホームに停車する電車に駆け込む。電光掲示板には「最終」の2文字が踊っている。入社2日目からこれか?思わず天を仰いだ。一息ついた体は、今にもその場に溶け出しそうなくらい疲れ切っていた。


営業として仕事の基本を叩きこんでもらい、感謝している。しかし、入社して数日が経ち、徐々に周りを冷静に見られるようになってきた。ほかの新入社員と比べて、明らかに自分は厳しく指導されている。どうやら自分は期待されているらしい。入社時、やる気に満ち溢れる自分の様子を見て、直属の上司は人一倍しごいて成長させようとしてくれているようだ。期待されている分、怒鳴られるのも日常茶飯事だった。


威勢の良さ、理想、挑戦心に反比例するように動く心があった。


なんとかついて行こうとしていたが、次第に、会社に行こうとすると耳鳴りや吐き気に襲われるようになった。怖かった。体が震え出す。なんとか重たい足を引きずって家を出る。これ以上ないほどに気持ちは憂鬱で、朝日が痛く染みるようだった。


平日は時間の流れが途方もなく遅い。反対に、土日は一瞬で過ぎ去っていく。休日に彼女と会っている時間は、唯一幸せな気持ちになれた。日曜日。手を振って彼女と別れる。背を向けて歩き出した途端、こぼれ落ちる何かがある。


それが自分の涙だと気がついたのは、一拍遅れたあとだった。


限界だった。体と精神がついていかなかった。ネガティブな思考が渦巻く頭で、それでも必死に考えた。こんなに早く辞めてはいけないんじゃないか。ついていけない自分が問題なのだろうか。


でも、体調を崩したら元も子もない。家訓も健康第一だ。たぶん、辞めても大丈夫だ。なんとなくそう思えた。リスクに対しての許容心は強い方だった。


入社して1か月半後、辞表を提出した。



とはいえ、これからどうやって暮らしていこう。


会社は辞められたものの、自分の人生はぐだぐだだ。さすがに会社で働く自信は失っていた。もう一度同じことになったらどうしよう?だって1か月半だ。挫折と敗北感しかなかった。当時はまだ起業家やフリーランスという言葉も知らない。サラリーマンという社会との接点である唯一の道を外れてしまったとしか思えなかった。


いつまでも家でぐだぐだしている息子を見て、母もさすがに甘やかしすぎたと思ったのかもしれない。もしかしたら自分のせいだとも。母は息子に対し、急に厳しくなった。「そろそろ何かしたら?」。たしかに、正論だ。


とりあえず、大学のときからお世話になっていたコールセンターのアルバイトを始めてみようと思った。大学時代の上司に相談してみると意外にもすんなりと、そんな自分を受け入れてくれた。過去に実績も残していた。トークには自信がある。クレーム対応では大きな案件を任されて、それなりに活躍した。社会人への復帰の道もいい走りだしのようにも思える。


でも、所詮バイトだ。昇進も限られている。夢がなかった。


年が明けたころ、一人暮らしを始めた。当時付き合っていた彼女の後を追うように、近くに安アパートを借りたのだ。そのころから少しずつ、自分で何か事業を起こすことを考えはじめていた。


「新卒の会社を辞めて、自分は社会的にくずだと思ってたときに、彼女がそろばんの塾でバイトをしていて。『私とそろばん塾を開業しようよ、最悪私が養ってあげるよ』と言ってくれたんです。その言葉にすごく救われたんですよ。すっごく心が楽になって、希望が見えて。何か自分でやるっていうことに対しての見方がポジティブになったんですよね」


いわゆる転職市場での自分の市場価値なんて信じられない。それなら、何かビジネスを始めるという道がある。昼休みに本屋に通い、起業に関する本を読み漁った。当時はまだ、不動産かFXか株くらいしか選択肢はなかった。でも、元手がない。元手がなくても始められるビジネスじゃないとだめだった。


ちょうどそのころ購読していた堀江貴文さんのメルマガに、並行輸入品の輸入販売ビジネスが紹介されていた。いわゆる「せどり」と言われるやつだ。当時は円高だった。本屋でも、専門の指南本が売られていた。


これならできそうだ。インターネットさえあればいい。試しに海外のeBayで商品を仕入れて、ヤフオクで売ってみる。さくっと5、6万円儲かってしまった。信じられないが、画面に映る金額は嘘じゃなかった。


リスクもあるが、挑戦してみたい。2か月後、コールセンターのバイトは辞めて、個人事業として専念することにした。


海外との英語のやり取りは難しく、詐欺も多い。儲かったり、儲からなかったり。あとになって、最初の成功はラッキーでしかなかったと分かった。貯金はみるみる減り、あっけなく底をつく。


かといって、会社に戻るのは自分のプライドが許さなかった。


「安く海外のブランド物が手に入るよ」。会社を辞めてそんなことを急に言い出すと、たいてい怪しい友達だとみなされる。友達は静かに周りから引いていく。いつしか視界に映るものは、パソコンの画面ばかりになっていた。


最後の追い打ちは、長い間支えてくれた彼女から誕生日に別れを告げられたことだった。


最悪だ。何もかも失った。これで本当の一人きりだ。今度こそ、人生が終わったと思った。いっそ全部が嘘だと言ってほしかった。でも、嘘だとしたらどこからだ?これまでの自分の意思決定、努力について考えた。支えてくれた人の顔、両親や友達やその他の人々も。


結局、俺は持たざる者でしかないのか?失敗を繰り返した先、人は成功を掴むんじゃなかったのか?質問に答えてくれる人はいない。どこにもいなかった。



1-8.  日本酒「香露(こうろ)」との出会いが人生を変えてくれた


足元がぐらぐらと揺らいでいる。不穏な地響きが広がっていた。


2011年3月、ちょうど東日本大震災が起きた。ニュースが伝える被災地の映像を呆然と見ていた。


自分の人生どころか日本が終わりそうだ。そう考えると、お金も生活の安寧も、大好きだった彼女さえも失った今、世間体も何も気にならなくなった。重荷がなくなったのかもしれない。手の中には何もない。だから逆に、失うものも何もない。だったら、思い切ったほうがいいんじゃないか。ふとそう思った。


失ったものが100だとしたら、今度は新しいものを100入れられるということだ。


さらに背中を押してくれたのは、Twitterで繋がった知人たちだ。気づけば周りには、リスクを取って面白いことに挑戦している人たちが多くいた。彼らの言葉がフラッシュバックする。そうだ、自分も思い切ってやってみよう。


覚悟を決めて、以前よりも仕事に打ち込むようになった。


なんとかバイトで食いつなぎながら、ネット通販の勉強を本格的に始めてみた。ちょうどWebサイトを作れる大学の同級生がいたので、二人で協力し、ようやくオークション販売から脱したビジネスを始めることができた。とはいっても、中身が大きく変わったわけじゃない。仕入れたものをWebで売る。当時は楽器などを売っていた。


すべてを捨てて、仕事に没頭していると景色は目まぐるしく変わっていく。喜んだり、打ちのめされたり。安心したり、焦ったりを繰り返した。世界がこんな風に見えるなんて知らなかった。


ふいに友人の高橋君が声をかけてくれたのは、秋も深まるころだった。


「日本酒に強い酒屋を継ぐんだけど、これからはネットの時代だから、龍ちゃんの持ってるECのスキルと、俺の日本酒のスキルを掛け合わせられないかな」。


話は面白そうだったが、あいにく日本酒はあまり好きじゃなかった。「絶対美味いから、一本飲んでみて」。そう言われれば断れない。当時住んでいた安アパートに、高橋君はにこにこしながら数本の酒瓶を携えやって来た。


目の前に、何種類かの瓶が並べられる。見たことのない銘柄ばかりだ。高橋君は持ってきたお猪口に注いでくれた。どれも同じような透明の液体だ。違いなんて分かるのか?そもそも日本酒が美味しいものだとも思っていない。半信半疑で口にした。


瞬間。驚きで声を上げていた。


「びっくりするくらい美味しかったんです。それまで日本酒って、辛くてきついものだと思ってたのに、すっごく穏やかで丸い味だった。旨みとコクが超ハイレベルに調和したような、香りもほのかに上品で、すとんと一段落ちるような丸みのある落ち着いた味わいがあって」


それが、人生を変えてくれた日本酒「香露(こうろ)」との出会いだった。



これはいけるかもしれない。話はがぜん面白くなってきた。その日にはもう、日本酒に心を掴まれていた。


高橋君は「これと同じ酒が家にたくさん在庫がある」と言うので、早速オークションで売りはじめる。並行輸入品の販売と並行し、日本酒も取り扱うようになったのだ。


ネットで調べてみると、どうやら海外では市場が盛り上がりつつあるということ、酒蔵の代替わりが進んで新しい動きが盛んになっているということを知った。当時日本酒について知っている知識はそのくらいだった。


事業計画も書けないし、いわゆる財務3表も読めない。会社のお金の流れが分からないし、銀行での口座開設のやり方や、法人と個人の違いすら知らなかった。


何もかも分からない。でも、それが逆に良かったのかもしれない。自分に成功体験がないからこそ、失うものは何もなかった。失うものがないなら、挑戦するリスクは何もない。こんなに良いものだと分かれば、挑戦するのみだ。


「日本酒との出会いがなかったら、僕は今この場にいないし、金の儲からない転売屋になってたかもしれないし、どこかの会社に就職してたかもしれない。本当に日本酒のおかげで人生が変わった、そこから生まれ変わったんだと思っています」


世界は急速に広がっていく。気づけば大きな渦の中にいて、そこにいることを面白いと感じている自分がいた。


その年の暮れ、偶然、北米でサブスクリプションビジネスが流行っているという情報をキャッチした。友達も、日本酒とサブスクリプションは絶対に合うと言う。


それなら、日本酒のサブスクリプションサービスを立ち上げよう。日本酒定期購入サービス「SAKELIFE」の始まりだった(※2014年にサービスを譲渡、現在同社は運営に携わっていない)。


バイトを辞めて、コワーキングスペースを借り、住まいも都心に移した(お金はないので友達とのルームシェアだった)。年明けの2月、クラウドファンディングサイトで100万円を調達し、なんとかサービスをリリースすることができた。


2013年2月、日本酒に特化したスタートアップとして株式会社Clearを設立。


日本酒のより良い未来をつくりたい。この産業が未来どうあるべきかを切り拓いていく存在となりたい。未来に挑戦していく思いは、Clearという形となった。


2018年、日本酒花見にて。


2章 大切にしていること


2-1. 「長所短所」という言葉は存在しない


リスクを取って挑戦し、結果を出す人が周りにいてくれた。だから、自分もそうしてみようと思えた。身近な家族や友人たち、スタートアップ起業を志す仲間たち、その人たちのおかげで今がある。


しかし、それは誰かの姿に憧れ、モノマネして自分を近づけようとすることではなかった。


挑戦することで人生を切り拓いてきた生駒には、大切にする考え方がある。


「僕がすごく大事にしている考え方は、自分の人生は自分を究めることしかできないということです。コンプレックスを抱えていて誰かに憧れる。でも、他人にはなれないんですよね。僕が誰かに憧れても絶対になれないし、逆もまたしかりだと思うので」


彼女にはあんな良いところがある、彼にはあんな良いところがある。そう思って、自分なんてと卑下してしまう人がいる。でも、無理に他人に近づこうとするよりは、自分の良さを見つめ、考えていくことが幸せに生きる道なのではないかと生駒は考える。


コンプレックスを持っている人は、きっと他人の良いところが見える人なのだ。その素晴らしい能力は大事にしながらも、他人のものではない自分自身の人生こそをしっかり深めていくことを忘れてはならない。


誰一人、同じ能力を持つ人はいない。同じ人はいない。人にはそれぞれ苦手なことがあり、得意なことがある。短所があるならば、長所を伸ばしていけばいいのだ。


「短所ってなんでしょう。僕は長所短所って言葉は存在しないと思っていて、人間の個性がそこにあって、使われる文脈によって長所として出るか短所として出るかっていう違いでしかないんじゃないかと。『短所を直せ』っていうのは単に個性を殺してるだけなので、短所が出ないような文脈に自分を置くことが大事だと思います」


たとえば、足が悪い人に走れと言っても、早く走ることはできないだろう。けれど、もしその人が絵が上手いのだとしたら、その人を校庭に立たせるのではなく、ただキャンパスと筆を持たせればいい。


「誰かと比べて自分は劣っている」。そうやって自分の持っていないものばかりを嘆く必要はない。他者との比較による焦燥が原動力になることは確かだ。しかし、同時に自分が成すべきことを粛々と進めていくことも重要である。


個性自体には、良いも悪いもない。かけがえのない自分を大切にすることで、幸せに生きられる人生を見つけることができる。本当に目を向けるべきなのは、自分自身であるはずだ。


2019年5月、同社のプレミアム日本酒ブランド「SAKE100」より『深豊』が、ミシュラン1ツ星の名店「ふしきの」にて提供された。


3章 Clear


3-1.  日本酒の未来をつくる


日本酒は人生を豊かにしてくれる。


生駒がそう信じ、日本はもちろん世界へと日本酒を広めていきたいと考えるのは、日本酒ほど多様性に富むお酒はないからだ。料理との相性、造り手の個性、造られている土地。深く知れば知るほど、その楽しみ方の幅の広さに驚かされる。日本酒には、悲喜こもごも人々の人生に必ず寄り添ってくれる懐の深さがある。


近年では、海外輸出の増加や、「純米」「大吟醸」「特別本醸造」など国内での特定名称酒の需要増加など、日本酒産業にとってポジティブな情報が増えつつある。しかし、まだまだ日本酒は本来のポテンシャルを活かしきれていないと生駒は考える。


創業当初は日本酒定期購入サービス「SAKELIFE」を運営し、毎月厳選されたこだわりの日本酒と、隔月で酒器や酒の肴、酒の楽しみ方を伝えるメルマガを届けてきた。しかし、事業を成長させていく中で、そもそも日本酒を買ってもらう以前に、まずは日本酒を知り、関心を持つ人を増やさなければならないと感じるようになっていた。


「SAKELIFE」をサービス譲渡することを決意し、新たに日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」をリリースしたのは、2014年のことになる。日本酒の魅力の伝え手として、専門用語の解説、日本酒にこだわるお店の紹介、楽しみ方、酒蔵のストーリーなど、さまざまな角度から日本酒に関する情報を発信している。


さらに、「100年誇れる1本を。」というテーマに掲げる日本酒ブランド「SAKE100」では、すべての商品をClearと酒蔵でオリジナル開発し、高品質・高価格なプレミアム日本酒だけを販売している。2019年4月には、1本15万円で発売開始した第4弾商品『現外 -gengai-』の予約販売分が12時間で完売となるなど、市場でも高く評価されているのだ。


伝統産業である日本酒は、果てしなく長い歴史がある。培われてきた大切なものに敬意を表しながら、一方で、スタートアップとして新規参入するClearだからこそできることがある。


「『伝統』は長い時間をかけ、消費の最前線にさらされ続けてきたからこそ、伝統となりえたと我々は考えています。救われる、守られる存在ではありません。これからも伝統として日本酒産業を発展させたいと考えるからこそ、従来の商流、慣習にとらわれることなく自由な発想で消費者へアプローチしていきます」


日本酒の可能性を広げ、日本酒の新しい歴史を紡いでいくこと。それがClearの使命である。


日本酒が100年、200年と成長を続ける産業であるために。ひたむきで強い意志をもちながら、Clearは未来に向かい常に挑戦を続けていく。


(文・引田有佳/Focus On編集部)



編集後記


「1+1=2」


・自然数1に自然数1を加算すると自然数2になる。

・りんごを一つ持っていると、友達が一つリンゴをくれました。あなたが持っているリンゴは2個になります。

・1人で遊んでいると部屋に友達が遊びにきました、部屋では2人で遊ぶことができます。


それぞれの人にそれぞれの理解のしやすさがある。


りんごが好きだからりんごで理解すると良かったり、友達と遊ぶことを想像して理解するほうが良かったり。人に依り理解の過程も様々である。


この「1+1=2」の問題は誰しもが自明のものと捉えており、誰しも1+1を2に導いていく力があるだろう。しかし、世の中の事象はそうもいかない。


何かの目的のために、人の生きる道で用意される変数は1でもないし、演算は足し算でもないかもしれない。同時に期待される答えは、そもそも数式でも表せないものである可能性もある。そして、その事象の構造を理解する過程も、人の数だけあるだろう。


それこそが人間社会であり、人が世の中の事象を理解して、自分や何かをより良い何かに導く過程と結果なのである。


そうだとすると、何かの目標に向け、人が生きる過程は何か一つの方程式で表せるものではないだろう。1+1の学び方、理解の仕方でさえ人の数だけある。しかし、私たちはそれを教育上の便宜を求めてか、優劣を決める軸に当てはめては長所と短所と表現して処理を図ってきた歴史がある。


優劣とは何かの一元的な指標であり、その一元的な指標をもとに表された状態の問題である。勉強の指標(偏差値や点数)が、社会における価値といわれる何かとの相関性が高いとも言えない。算数の点数が高ければ、営業の成績が高いという因果関係も一概にあるとは言えないことを私たちは知っている。


ここに、教育心理学者リー・ジョセフ・クロンバックが提示した概念を見てみたい。


ATIつまりAptitude Treatment Interactonは,1957年に当時アメリカ心理学会長の要職にあったクロンバック教授の会長演説の中で提唱された概念であり,イリノイ大学で同教授の薫陶を受けて帰国された東洋教授による訳語“適性処遇交互作用”によって我が国へ紹介された。クロンバックによれば,それまでの法則定立型の心理学では個人差は邪魔者であり,その影響を如何に小さくおさえるかが研究方法の基本となっていたが,そのような流れを汲む実験心理学と,一方では個人差そのものが関心事であった差異心理学ないしは相関心理学との統合が心理学に新しい展開をもたらすはずであり,この統合を可能にするのがATI,つまり個人差の要因と実験処理要因との統計学的交互作用というパラダイムである。

―慶應義塾大学文学部教授(現:早稲田大学教育学部 教授) 並木 博


どのような学習者に対しても優れた手法であれば有効であるという従来の教育手法の考え方に対して、「適性処遇交互作用」という概念の元、学習者個々の適性・個性に応じた手法があり、それによる最適化を望むべきであるという研究である。(研究としては、議論の余地があるようだが現代社会のひとつの在り方を示している。)


個々の状態を無視して教育の効果の最大化の理論を重ねる手法は、個人の状態を鑑みると有効とは言えない場合もある。私たちは何かの正解のために、決まった方法論のもと答えを手にしてきたのではなく、個々の道があって手にしてきたことを多かれ少なかれ経験してきているはずである。


これは人の学習の過程への言及ではあるが、社会状態を反映しているように思える。人も、社会も何かの決まった指標や方法論をもって人の道を創り出そうと試みてしまう。だが、人間の生きる世界を見て取るとそうではない。多様な目的と多様な有効な過程が個人の数だけあり、何かの指標に当てはめて正解不正解を導くことは個を潰すことに繋がることさえあるだろう。


生駒氏も誰かに正解とされた指標に向かっては闘い、その過程において新たな自らの道を切り開いてきた。そうして切り開いてきたからこそ、生駒氏は怖れることはない。


未知が訪れたとしても、自分が、自分たちがどう対応していくか、そこが重要だとわかっている。それを長所や短所で片付けることはしない。長所や短所という言葉は、それはもはや誰かが築いた指標でしかない。誰かのテーブルのもと、適正化を目指すことが人間社会ではないからこそ、個として何かを論じ、信じ進められるのである。


誰も見ぬ新たな未来のために何かの指標で語る必要はない。指標がないような世界にさえ立ち向かうためにも、必要な力がここにあるのだ。


Clearの挑戦を正解に導いてきた先人はいない。生駒氏の歩いてきた道、それがあるからこそ、誰も見ぬ世界を創りだせるのだろう。


(文・石川翔太/Focus On編集部)



※参考

並木博(1993)「ATI研究の20年 : 教育心理学への開眼」,『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学心理学教育学』36(1993),pp.75-80,慶應義塾大学大学院社会学研究科,< https://core.ac.uk/download/pdf/145730933.pdf >(参照2019-6-11).




株式会社Clear 生駒龍史

代表取締役CEO

1986年生まれ。東京都出身。日本大学法学部卒。2年間の社会人経験を経て独立。「日本酒の可能性に挑戦し、未知の市場を切り拓く」をミッションに、日本酒に特化した事業を展開。2013年にClear Inc.を創業し代表取締役CEOに就任、現職。

http://clear-inc.net/