Focus On
日下瑞貴
アセンド株式会社  
代表取締役社長(CEO/COO)
メールアドレスで登録
or全身全霊でやりたいことをやる人だけが発するエネルギーがある。
「創造性高く遊ぶように働ける環境を創る」というビジョンを掲げ、個人が最もポテンシャルを発揮しながら働くことのできる世界を実現していく株式会社マツリカ。次世代型営業DXプラットフォーム「Mazrica」をはじめ、営業やマーケティング領域における現場ファーストな業務支援プロダクトを複数開発・提供する同社では、後発の国産SFA/CRMながら特徴的なコンセプトのもと顧客ビジネスの成長を支援している。
代表取締役の黒佐英司は、ニューヨーク州立大学バッファロー校を卒業後、積水ハウス株式会社にて個人向けの企画提案、法人・資産家向けの資産活用提案、海外事業開発において企画営業及びマネージャーに従事。のち成長期のユーザベースにて、営業開発チームの立ち上げから営業・マーケティング・CS部門の統括責任者などを務めたのち、2015年に株式会社マツリカを共同設立した。同氏が語る「エネルギーの源泉」とは。
目次
熱気と一体感に包まれる文化祭前日の教室、目を輝かせながら公園で遊ぶ子どもたち、野心だけを胸に若者が集まる大都会、どれにも共通するのはあふれる人のエネルギーだ。
人がやりたいことに向かい、時間も忘れて夢中になっている。本来の創造性が解放され、伸び伸びと楽しみながら努力する。そんな状態にあるエネルギーこそ、人間のポテンシャルを最大限に引き出し、世界を素晴らしいものに変えると黒佐は考える。マツリカの事業は、誰もが仕事においてエネルギー満ちあふれた状態で働けるようにすべく生まれたという。
「子どもと同じように遊びたいから遊んでいるだけという状態、純粋に自分がやりたいからやっているだけという状態だからこそ、そこに生まれるシンプルで強いエネルギーがあると思っていて。会社組織の場合、全部が全部個人がやりたいことをやるというわけにはいきませんが、それに近しい状態になるための手助けや支援をテクノロジーでできるんじゃないかと思ったんです」
企業の営業活動やマーケティング活動を効率化、高度化するSaaSプロダクトを複数展開する同社。主力事業である次世代型営業DXプラットフォーム「Mazrica」をはじめ、同社サービスの根底にある思想は、従来主に管理する側を楽にするためにあったSFA/CRMなどのツールを、現場目線でも使いやすく、使うメリットのあるツールにするということだった。
「前職時代、営業組織の責任者として一通りのツールについて情報収集したのですが、最終的に何も導入しないという選択をしたんですよ。なぜなら、営業管理ツールとか顧客管理システムとか、『管理』という言葉がついているものは当たり前ながら管理者のためのサービスになっている。でも、毎日入力したり使うのはメンバーで、その人たちは無理やり入力させられている、使いたくなくても使わされているという状況なんだろうなということを想像して、この課題を解決したいと思ったんです」
現場ファーストなユーザー体験を実現するために、同社では二つのアプローチを取る。一つは入力の煩わしさを最小化し、できるだけ自動でデータが蓄積される状態をつくること。もう一つは、使うことで業務の役に立つという実感が得られることだ。
「従来のプロダクトはきれいにデータが一元管理できて、状況把握がしやすくなり管理者はすごく役に立つんですよ。時間も効率化されるのですが、営業メンバーからすると役に立っていなかった。入力することできちんと業務の役に立つという状態になるように、社内外の顧客情報を自動で集約したり、AIが過去事例を解析し、リスク分析や行動提案を行うなどの機能を充実させています」
現状のサービスを改善・発展させつつ、その先にはさらに広域な展開を見据えていると黒佐は語る。
「今は営業やマーケティング、CSなどいわゆるフロントサイドかつ売る側の人たち視点のプロダクトなのですが、ミドルサイド・バックサイドの業務にかかわる人たちの支援もやりたいと思っています。まず領域を広げることと、あとは地域も日本だけでなく世界でも同様の課題が存在するので、広げていく必要があると思っています」
ユーザーが「使いたいから使う」サービスづくり、それは当たり前になりすぎてどこか二の次とされてきたテーマなのかもしれない。ツールを負担に感じることなく使え、やりたい業務に集中できる。社会に眠る潜在的な人のエネルギーを解放するマツリカは、その障壁となる課題と対峙しつづける。
男3兄弟の次男として生まれ、真面目な2人のあいだでは自分が一番不真面目だったと黒佐は振り返る。
両親は子どもの意思を尊重してくれる人だった。人として最低限の注意以外はあれこれ口出ししないうえ、「勉強しなさい」と言われたことは一度もない。唯一記憶に残る教えのようなものと言えば、自信を持って人前に立つことを促してくれた母だという。
「遊園地とかに行くと、ステージ上に観客を巻き込むアトラクションがあったりするじゃないですか。『誰かこれやりたい人は手を挙げて』みたいな、ああいう時に『行け行け、やれやれ』と背中を押してくる母だったんですよ。だから、小さい頃から前に立たされるというか、パッと前に出て行ってみんなの代表をやるみたいな機会は多かったかもしれないですね」
はじめは戸惑いや恥ずかしさがあったのか、それすら最初からなかったのかは分からない。いずれにせよ気づいた頃にはそうすることが当たり前になっていて、誰かに言われたりしなくても進んで手を挙げるようになっていた。
加えて、小学校3年生の途中で転校したことは、偶然にもさらなる後押しとなった。
「夏休みに引っ越して2学期から別の小学校に転校したのですが、前の小学校の方が少しカリキュラムが進んでいたんですよね。それによって2学期がスタートした時に周りから『すごい、これ全部分かるんだ』と驚かれて。ちょっとした自信というか、こんなことで称賛されるんだと思った記憶があって」
もともと3月生まれだったので、同級生と比べて体はやや小さい方だった。スポーツや勉強がものすごくできたわけでもない。
それが一転、転校してからは成長が追いついていき、周りと差がなくなったことも相まって自信がついたのかもしれない。小学校高学年になる頃にはむしろ人よりよくできることも増えていき、そんな自分が何をすべきなのかと考えるようになっていた。
「あまり目立った活躍もなかったところから、転校して以降は急激に勉強やスポーツができるようになって、自信がついたのか何なのかは分からないのですが、『生まれてきたからには人の役に立たなければいけない』みたいなことを考えはじめたんですよ。自分の中でたくさん想像をして、それが自分の使命だと強迫観念のように感じるようになったんです」
幼少期
たとえば、父から「日本人の死因で一番多いのはガンで、しかも完全に治す薬は見つかっていないんだ」と話を聞けば、それならガンの特効薬を自分が作ることができれば、多くの人の命を救えるのではないかと想像する。
あとから思い返せば、父はよく社会の課題や出来事について教えてくれていた。そのためか、身の回りというより人類や地球や世界のために役に立つことをしなければというイメージがあった。
「学校から帰る時間とか、一人になるといろいろなことを考えていたんです。世の中でなんでこれがこうなっているんだろうとか、人は何のために生まれているんだろうということとかを考えて。そんな問いを人に聞いても答えが出なかったりするので、自分の中で仮説を立てたり、ストーリーを作って結論づけたりということをやっていた気がします」
両親から聞く話では、幼少期はよく一人で勝手に遊んでいる子どもだったようだ。身の周りにあるものをおもちゃに見立てたり想像したりして遊んでいたからか、一人で考えを巡らせる機会は多かった。
学校の勉強は将来何の役に立つのか、本当に必要なのか。それが当たり前とされていたとしても、日常の中でふと浮かんだ疑問に対し、自分なりの答えを探しつづけた。
「自分で考えるので、学校のルールを守らないんですよね。本当に宿題をやらないし、掃除の時間はサボるし。だから、本当に不真面目というか、親が先生に呼び出された回数も兄弟の中では圧倒的に多かったと思います」
ある時、小学校のイベントで300円まで許されたおやつが禁止され、代わりにおにぎりを持ってくるルールになったことがある。子どもにとっては一大事だ。みんながただ衝撃を受けるなか、それならと手を挙げて「おにぎりの具としてチョコレートとかガムを入れてくるのはありなんですか?」と質問して先生を呆れさせた。
実際、母にお願いして作ってもらった「おやつ入りのおにぎり」を当日持っていくと、本当にやっていたのは自分一人だけだった。
「小学校の通知表に、先生が定性的なコメントを書く欄があるじゃないですか。あそこには担任が変わっても毎年同じことを書かれていて。良い部分としては『発想力・アイデア』みたいな話で、悪い部分としては『協調性がない』ということをもう毎年書かれていました。普通だとか言われたことにとらわれず、自分でやりたいことをやるという子どもではあったと思いますね」
目の前に置かれた材料で思考しなさいと言われても、そもそもなぜこれが置かれているのかと考え出している。本質を見て、アイデアを出そうとする。そして、率先して手を挙げる。いつからかそれが習慣のようになっていた。
2-2. 人のエネルギー
中学に進学しても、学校のルールには変わらないスタンスだった。むしろ勉強やスポーツでますます結果を残せるようになった分、余計に厄介な生徒として先生からは認識されていたかもしれない。
「いわゆる生意気な子どもというか、勉強もスポーツもできるけど宿題はやってこないし、何も言うことを聞かないしで先生からすると困るじゃないですか。それで先生に怒られても言い返したり、論破してしまったりするような中学生だったんですよね。だから、先生にすごく嫌われていて」
2年生の時には、生徒会の選挙が行われるということで生徒会長に立候補した。生徒からの票を集めて当選することができたが、裏ではあまり良く思っていない先生もいたようだと友だちから聞いたりもした。しかし、中学3年生の時の担任の先生だけは違っていた。
「何が変わったかと言うと、3年生の時の担任の先生はそんな自分を承認してくれたというか、中学のスターだと言ってくれて、実際そういう扱いをしてくれたんですよね。それで何が変わったというわけではないのですが、すごく自分にとっては良いきっかけになったことの一つですかね。やっぱり『自分はこれでいいんだ』と思える後押しにはすごくなったと思うんです」
昔からあまり承認欲求は強くない方だったが、自分のありのままの性格や言動を、先生は一つの才能として認めてくれているようだった。
「自分はこれでいいんだと思えた時に、小学校から考えていた『人の役に立つにはどうすればいいのか』みたいな問いに対して、手段として『起業する』ということを決めたんですよ。結局より多くの人を幸せにするとか、役に立つとなると大きなお金が必要だし、一緒にやってくれる仲間が必要だと考えて、会社を作った方がいいんだろうなと思って」
人の役に立つ何か大きなことをするのなら、きっと一人の力では足りない。父やテレビなどで得られる情報から、当時そう理解したのだろう。起業するためにはもっと成長しなければと調べていると、スイスにある世界中から生徒が集まる高校のことを知る。その時、短絡的だが世界を見てみたいと強く思った。
「担任の先生は『スイスの高校に行こうと思うんですよね』と話したら、それも後押ししてくれて。結局授業料がものすごく高いということで、さすがに難しいという話になったので、地元愛媛県でトップの進学校である松山東高校に行くことになりました」
本当に行きたい高校ではなかったため、正直前向きな気持ちで入学したわけではない。進学校なので勉強ばかりの真面目な人たちが集まっていて、自分には合わないのではないかという不安もあった。しかし、その予想は良い意味で覆されることになる。
「本当は進学校なので学校としてはみんな東大に行ってほしいと思うのですが、勉強したい人はすればいいし、したくない人はしなくていいという高校だったんですよ。学校自体がすごく生徒の自主性を推奨していて、ルールも全然ない。しかも、そこに集まってくる生徒も人間的に面白い人たちばかりだったんです」
学校はイベントごとにも力を入れることで有名で、特に1年間で最も盛り上がるのは生徒が作り上げる運動会だ。1,000名を優に超える全校生徒が4つのグループに分かれ、競い合う。ただスポーツをするだけでなく、伝統の応援合戦はショーのようなものでゼロから作り上げるほか、グループ毎の衣装や巨大なやぐら、企画に至るまで全てが生徒たちの手に委ねられていた。
毎年4月から始まる半年ほどの準備期間、主体となって進めるのはグループごとの実行委員だ。なかでも幹部として中心的に動く3年生の実行委員になったことは、一生忘れられない思い出になった。
「本当にああいうことを学校は容認していいのかという話でもあるのですが、当時『作業場』と呼んでいたアパートやもう少し大きい倉庫のようなところを先輩たちから受け継いでいて、学校が終わったあとは同じグループの3年生10人ぐらいで毎日毎日ずっと作業していたんですよ。泊まる人もいるし、毎日が合宿のような空気感で、3年生だから受験勉強をしなければいけないはずなのにそれも言われないんです」
その半年間は、全員運動会のことばかり考えている。普通の進学校なら絶対に許されないであろうことが許されていて、そこにかける全員の熱量は何にも代えがたいほど心地よいものだった。
「もちろん毎日毎日本当に作業していたかというと、半分はみんなでわいわい遊んでいたりもするわけですよね。遊ぶときは遊ぶけど、特に開催が迫ってくると最後の追い込みでものすごく真剣に毎日やるじゃないですか。その真剣さみたいなものに触れる、もちろん部活とかもやっていましたけど、それとはまた違う毎日一緒にいる仲間と真剣に向き合っている瞬間、人間のエネルギーみたいなものをすごく感じたんですよね」
人生でも初めて感じるほどの充実感。仲間たちの輪の中で、それぞれが誰に言われるでもなく心からやりたいことをやっている。時間と労力と思いを注ぎ、一つのものを作り上げようとする。その瞬間、人のエネルギーや熱量というものが集まり躍動するさまが、目に見えるようだった。
高校時代、友人たちと
幸運なことに、高校では自分と同じように将来起業したいと考える同級生が周りに何人もいた。これからどんな勉強が必要で、どんなことをやろうかと日々話すなか、思考はますます現実的になっていく。卒業後の進路選択も起業ありきで考えた。
「その時の私の選択としては、大学に行きたくないなと思ったんですよ。なぜかと言うと、当時はまだインターネットがぎりぎり出てきたぐらいの頃でSNSのような情報源もなかったので、大学ってバイトやサークルですごく遊んでいるイメージだったんです。18歳から22歳という、ものすごく重要な期間を4年間遊んで過ごすのはもったいないと思って。すぐには起業できなくてもビジネスをやった方いいと思ったので、大学には行かないと親に伝えたんですよね」
いつも通り何も言われないだろうと想定していたが、父からは「遊んでも何をしてもいいから大学には行った方がいいぞ」と説得される。両親から何かを反対されたことは初めてだったので、ひどく新鮮だった。
それなら大学に行きながら今後について考えるかと思い直し、改めて広く情報収集した結果、どうせなら米国の大学に行き、人とは違った経験を積んでみたいと思えた。
「これもインターネットの時代ではなかったので、本屋さんで情報を集めて。留学ガイドブックとかを見てどんな大学があるかとか、どうやったらアプライできるかとか、本に書かれていたことに沿って受験した感じですかね。それ以外の情報がないので、あまり選ぼうという発想でもなくて、この辺かなみたいな決め方でした」
なんとか出願から入学の手続きを終え、ニューヨーク州にある総合大学への編入を目指し、まずは附属の語学学校で英語を学ぶことになる。
いわゆる受験英語は一定学んできたが、現地での会話は全くの別物だ。慣れない言語での授業に、膨大な小テストやペーパー(小論文)の提出に追われながらも、暇を見つけてはニューヨークの大都会マンハッタンに足を運んだ。刺激的な街で遊びや買い物を楽しむうちに、もっと自由に使えるお金を増やしたいと思い、自分なりのビジネスを始めてみることにした。
「当時日本に店舗のなかったファッションブランドの新作を毎月買って仕入れて、それをオークションで日本に販売するということをやりはじめて。ほかにも発毛剤とかどんどん手を広げて、自分で顧客リストみたいなものを作って直接やりとりしたりして。ビジネスとも呼べないものですが、お金を稼ぐということがどういうことかは学べたんですよね。ただ、自分が会社を作るときに何をやるかというアイデアはなかったんですよ」
大学時代、ニューヨークの地下鉄駅にて
結局卒業後も答えは見つからず、一旦は起業に役立ちそうな営業力を身につけようと考えた。いわゆる営業会社と言われるような環境を探し、積水ハウスへと入社する。売れば売った分だけ給料が増える環境で、誰より時間を使わずより多くの契約を取った。しかし、新卒ながら言われたことに従わず、自分なりのやり方で仕事をするので先輩からは良く思われなかった。
「中学生の時の話に近いのですが、少し上の先輩からは嫌われて。別にそれは全然いいと当時は思っていたのですが、3年目くらいでマネージャーになって、その先輩が部下になったりしてすごく苦労したんですよ」
論理だけでは人は動かない。なかなか思うようにいかずに悩んでいた頃、マネージャーを統括する立場の上司と初めて関わり、一緒に仕事をすることになる。最初の2日間は様子を見ていたのか、3日目に個別に呼び出された。
「何を言われるかと思ったら、『なぜお前はルールを守らないのか』とか『こういうところがいけない』ということを一方的に5分間ぐらい言われたんです。それを受けて自分は『それは偏見です』と、その人とは話したこともなかったので自分はこう考えているという話をしたら、『そうだったのか』と一瞬で受け入れてくれたんですよ。その人とは20歳くらい年が離れているのですが、結果的にものすごく仲良くなって」
20代半ばの若造が言うことに耳を傾け、正しいと思えば全て受け入れてくれる。その懐の深さや人間力のようなものには衝撃を受けた。
仕事について腹を割って話して以降、年齢差も忘れて友人のような仲になり、毎日ご飯を一緒に食べに行ったり旅行に行ったりもした。そうしてさまざまな角度から深く話す時間を持つことは、自分について改めて俯瞰するきっかけになった。
「どこかずっと身の周りよりも全人類のことが大切で、もちろん身の周りの人も大切に決まっているのですが、少し距離を置いて遠ざけていた自分がいて。その人はそのことに気づかせてくれたんです。それはそれでいいのだけど、身の周りの人も好きになるとか大切にする、そしてそんな自分を消さずに素直に出していいんだと思えるようになった出会いでしたね」
思い返せば、それまで会社では自己開示もろくにせず、ただ正しいと思うことを言うだけだった。けれど、少しずつ自分から周りの人を食事に誘ったり、積極的にパーソナリティや価値観を出していくと、周囲との心の距離が縮まって人間関係がうまく回るようになった。
自分がどんな人間かを知ってもらうと、発言の背景や真意を理解してもらえるようになる。すると、仕事も嘘のように円滑に進み出したりする。
人は人から学び、その思いは波紋のように周囲に影響し合う。人がかかわり合うこと自体、そこにある種のエネルギーが生まれると言っていい。あるべき人とのかかわり方を学べたことで、世界の新たな一面を見たようだった。
人間力に触れながら働くうちに、6年が過ぎていた。3年で辞めて起業するつもりで入ったが、思いのほか居心地がよく長く働いてしまった。気づけば30歳だ。ちょうど部署異動による恩師との別れもあった。そろそろ当初の目標に立ち返るべき時だと思った。
「何も決まっていなかったのですが、辞めようということをまず決めて。ただ、まだ起業して何をしたいというものがなかったんですよね。じゃあ、営業はできるけれど経営は見ていないなと思って、一旦転職するのもありかなとふと思ったんです」
まだ転職すると決めたわけではなかったが、とりあえずエージェントに登録しておくことにする。どんな会社があるのか見ておければくらいの気持ちでいたのだが、言われるままに職務経歴書などを用意するうち、あっという間に日程が組まれて面接することになった。
偶然にも1社目で出会ったのが、当時まだ20名規模のユーザベースだった。
「いわゆるスタートアップがどんなものなのかも分かっていなかったのですが、要は経営陣の近くで働けるので経営を学べるんじゃないかとエージェントさんは薦めてくれたわけです。ユーザベースは共同創業者が3人いるのですが、3人一人ずつ順番に出てきてくださって、トータルで2時間くらい話したのかな。ほかにも何社か面接は入っていたのですが、最初の面接でその場で決めました」
それまでいた会社は、まさに伝統的な日本企業である。ITスタートアップでは、人も文化も何もかもが全く違う。もちろん話を聞くだけでは分からない部分もあるが、分からないことが面白いと思える何かがあった。さらに、最大の魅力は組織にあった。
「従業員とも話す時間があったのですが、『良いことばかり言ってもなんだから、会社の悪いことも話そうよ』という流れになったんですよ。その時に、『仕事が楽しすぎてずっとやってしまうから、自己研鑽の時間が取れないんだよね』みたいな話があって、すごく新鮮で。この人たちと一緒にいたいと思ったんです」
言葉の端々に、仕事への前向きな姿勢が見て取れた。実際、入社してからもミーティングでは全員がオープンで建設的な雰囲気のなか議論を交わしている。その素晴らしさや面白さ、楽しさを知り、魅了されていた。夢中で働きつつ、やがてお客さんと接する仕事を任され、貢献していくことになる。
「それまで代表がトップ営業をしていたのですが、営業をやってみるかという話になり、営業チームの立ち上げから始めて。そこからは徐々に人が増えていくなかで、CSとかマーケティングとか新しいチームの立ち上げを最初の1~2年でやり、組織も100人近くになっていくにつれ、営業やマーケティングの全体責任者などをやっていきました」
ユーザベース時代、同僚たちと
自分のやるべきことは、一人でも多くの人を幸せにすることだ。それが昔から変わらない信念だった。そのために起業を志してきたが、起業はあくまで手段でしかない。ユーザベースという会社で仲間と一緒に働くことは、信念の実現に繋がるのではないかと考えた時期もある。それほど楽しく充実した毎日だったが、やがて新しい挑戦へと目を向けるようになった。
「スタートアップにあるあるだと思うのですが、創業時の写真とかを出してきて、感動ムービーのようなものにして年末みんなで振り返ったりするじゃないですか。昔はオフィスがマンションの一室で、炊飯器が真ん中にあってみたいな、それを見た時に全然泣けなかったんですよ。どちらかと言うと、その時自分がいなかったことが悔しいなと思ったんです」
創業メンバーのエネルギーが集まり、毎日が合宿のように事業を作っていたであろうあの頃、その場で一緒に苦楽を共にしていたかった。今では組織も100名を超える規模になっていた。組織の成長は良いことである一方で、どうしても経営陣と従業員のコミュニケーションも変わってくる。
そんな様子を見ていると、改めて自分自身で会社をやりたいという思いが強くなった。
「それからは高校の同級生で、のちのマツリカの共同創業者である佐藤とビジネスアイデアを考える日本一周の旅に出たりしながら、何個も事業アイデアを作っていって。同時期に、もう一人の共同創業者で当時同僚だった飯作とも、社内で何か面白い新規事業をやりたいねと話していたんです。ただ、会社が上場準備期間に入って、あまり予実を狂わせられないということで、急に新規事業をできるタイミングではなかったんですよね」
当時無数のアイデアから絞り込まれたのは、現在マツリカのメイン事業の元となるようなアイデアだった。今できないのなら、自分たちの手で作ってみるのはどうか。そう意見が一致し、別々に壁打ちしていた2人を集め、3人で会社をスタートさせることにした。
2015年4月、株式会社マツリカを共同設立。誰もがワクワクやりたいことに没頭し、創造性高く働ける。祭りのようなその状態を創ることを「祭り化」と名付け、社名にも思いとして込めた。
祭りは一人では起こりづらい。仲間が集まるからこそ、エネルギーが満ちあふれた状態は創られる。一人ひとりが「今、自分がここにいる理由」を知りながら、素直に意見を出し合う。そんな環境を一つでも多く創ることにより、世界を変えていくことにした。
起業にせよ何にせよ、もっともっと好きなことに全力で取り組むこと、シンプルにやりたいことをやるということを誰しも思い切ってやってほしいと黒佐は語る。
「自分自身が小さい頃からそうしてきて、やりたいことを好きなようにやって偏見を持たれたり嫌われたりもしたのですが、それも含めて今の自分を形成していると思える。何より自分の好きなことをやるからこそ全力でやれるし、エネルギーが満ちあふれる状態が作られると思うんです」
失敗することや何かを失うことなど、リスクは考え出してもきりがない。現実にそれが起こった場合を想像すると、実はそこまで困らないということもあり得る。批判を恐れずやってみることで、自分自身でもまだ知らないエネルギーが湧いてくるかもしれない。
特に、仕事ではエネルギーの大きさが成果を左右することがある。やりたいことは、人が迷っても立ち返っていく信念から生まれてくる。個人目線で考えるならば、仕事は自分の信念を実現するための一手段とも言える。
「会社のビジョンやミッションがあるとしても、自分個人としての信念を持つことが大事だと思います。自分の信念として『これをやるために生きている』というものが明確に決まっていると、絶対にブレようがないんですよ。何をすべきか、どちらを選ぶべきかという問いも全ての行動がそこに帰着するし、いわゆるモチベーションの源泉みたいなもので言うと困ることがないですね」
たとえば、「一人でも多くの人を幸せにする」という信念には終わりがない。終わりがないからこそ、どこかでやりきってしまうということがなく、生涯の原動力になる。型にとらわれず、仕事を通じて自分を表現していくことで、働く誰もが生き生きと日々を過ごすようになっていくのだろう。
2024.12.24
文・引田有佳/Focus On編集部
努力を努力と思わず、時間を忘れてやりたいからただ夢中でやっている。そんな状態にあるエネルギーの力強さは、周囲はもちろん、しばしば自分自身の想像さえも越えていく。
マツリカが実現しようとするのは、そんな状態が社会のあちこちで作られる未来だ。事業はそのための手段であり、働く誰もが惰性や義務感から解放されるために必要なテクノロジーの在り方を追求している。
いかに潜在的な能力を引き出し、可能性を開花させるのか。人の根源的な在り方に迫る挑戦であり、多様な価値観が認められる現代においてもなお普遍的な問いだ。
動機や信念がなんであれ、一人ひとりの内から自然とエネルギーが湧き立つ状態こそ、本来望ましい。それらエネルギーが最大化されるほど、人類は限界を越え、非連続的な成長を遂げることになるのだろう。
文・Focus On編集部
▼コラム
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
世界をもっと素晴らしいものにする、人のエネルギーとは|起業家 黒佐英司の人生に迫る
株式会社マツリカ 黒佐英司
代表取締役CEO/CPO
1982年生まれ。愛媛県出身。ニューヨーク州立大学バッファロー校卒業後、積水ハウス株式会社にて個人向けの企画提案、法人・資産家向けの資産活用提案、海外事業開発において企画営業及びマネージャーに従事。2011年に株式会社ユーザベースに入社し、営業開発チームの立ち上げを担当。以来、営業部門、マーケティング部門及び顧客サポート部門の統括責任者を歴任し、SPEEDA販売促進・保守、営業・マーケティング戦略の立案及び執行を担当。2015年にマツリカを共同設立。