目次

誰もが使えるAI技術を「電話」から ― 人に恵まれ、人の力を信じる人生

今、挑戦できる幸運を意識することが、人や組織を前進させていく。


「最高の技術をすべての企業に届ける」というミッションを掲げ、「電話」を起点としたAIプロダクトを展開する株式会社IVRy(アイブリー)。同社が開発・提供する対話型音声AI SaaS「IVRy」は、誰もが安価かつ簡単に電話自動応答システムを作成できるようにする。現在47都道府県で95業種に導入され、累計アカウント発行数は3万件を突破*(*2025年3月末時点)。さらに、蓄積される通話データをAIと掛け合わせ、新たなサービス価値を拡充しつつある。


COOである片岡慎也は、オハイオ州立大学を卒業後、ロジスティクスコンサルタントとして従事。のち、アスクルにてtoC向けEC事業の立ち上げやPdMなどを担ったのち、急成長期のグリー、メルカリにて米国進出事業の立ち上げ、サービス開発、組織づくり、HR、経営などに幅広く携わる。2021年よりトラボックスの代表取締役社長を経て、2024年4月にIVRyへジョインした。同氏が語る「人生の幸運」とは。






1章 IVRy


1-1. 最高の技術をすべての企業に届ける


電話口から機械の音声案内が流れ、要件ごとに指定の番号を押すことで、最適なオペレーターへと転送される。膨大に発生する企業と人とのコミュニケーションを効率的かつ円滑にするシステムとして、IVR(電話自動応答)はここ数十年多くの企業活動を支えてきた。


業種によっては不可欠とも言える機能だが、導入には数百万から数千万円というコストがかかる比較的重厚なシステムだった。対話型音声AI SaaS「IVRy(アイブリー)」は、月額2,980円から誰もが手軽にノーコードで使うことができるサービスだ。シンプルでありながら機能は豊富で、応用の幅が広い。あらゆる業種、企業規模に対応可能であるだけでなく、同サービスの真価は「音声対話データを起点とした新たな価値創出」にあると片岡は語る。


「今までは蓄積できていなかった会話のやり取り、音声データが、IVRyを通して付随的に溜まり、その音声データをAIが解析していくことで新しいビジネスチャンスが見つかることもあります。たとえば、実は毎週のこの時間にこんな電話がたくさん来ていたから、事前にこういう案内をしたらいいんじゃないかとか、こういうニーズがあるので広告を出しましょうなど、新たな付加価値を出すような提案ができることが、このサービスの一つの価値だと思っています」


同社のビジョンにある「Work is Fun(働くことは楽しい)」という言葉の通り、人が人にしかできない業務に時間を使い、本来の介在価値を発揮するからこそ、仕事において「楽しい」と感じる瞬間は増えていく。


従来多くの時間を奪われてきた電話というメディアがAIやシステムに置き換わり、人が担うべき価値創出に時間を使えるようになる。労働生産性が向上し、人手不足という社会課題の解決に寄与する。そんな世界観を描いて、同社では社会に必要な機能を実装していく。


2023年からは、大規模言語モデル(LLM)を活用した音声対話AIの機能開発に注力し、飲食店の予約受付を24時間365日体制で無人化したり、AIによる電話代行サービスを展開したりと、AIを活用したプロダクト開発を積極的に進めている。


これまでさまざまな領域の事業に携わってきた片岡だからこそ、その可能性とやりがいを感じているという。


「たとえば、エンターテイメントとかショッピングとか一人ひとりの体験を変えていくtoCサービスって、すごく身近だしやりがいを感じやすいんですよ。ただ、社会的インフラとなる大きなプラットフォームに対して、面で解決策を提示して一気に変えていくtoBならではのダイナミズムみたいなものはすごく楽しいし、社会的価値をより出していける。toCを経験したからこそ、今はそう感じているんです」


電話という古典的かつ普遍的なプラットフォームは、大手から中小まであらゆる企業で利用されている。だから、電話を事業の軸とするIVRyは、技術の恩恵を何より広く社会に提供できる可能性を秘めている。


2025年現在、同社の組織は200名を越えた。社会に必要とされ、事業成長に伴い急拡大を遂げたからこそ、今後は仕組みや制度の整備、カルチャーの浸透など組織面の強化にも注力していく必要があると片岡は語る。


「強い会社にはカラクリがあると思っていて、そういったカラクリを代表の奥西や私の思い、それからメンバーの思いを踏まえながら、IVRyらしい形でこの会社に根付かせていきたいと考えています」


最大のカラクリとして、片岡はバリューの存在を挙げる。同社では2024年5月にバリューを刷新した。新たに明文化された3つのバリューとともに、IVRyは社会に必要とされる技術を広く普及させていく。




2章 生き方


2-1. 考え過ぎるより動いて前へ


外でわんぱくに遊んだかと思えば、女の子と一緒におままごともする。流行りのミニ四駆の改造に夢中になったり、友だちと自転車で遊びに出かけたり。何をするにも無邪気に楽しんでいた幼少期、振り返ってみれば母の存在は特別大きかったと片岡は語る。


「母親は信じる心を教えてくれましたかね。幼少期だけの話ではないですが、中学生ぐらいの多感な時期には学校に呼び出されたりとか、学業的に非常に厳しい時があったりとか、どんなことがあっても常に信じてくれていた。励ましつづけてくれたので、そのおかげで素直に育った、愛を受けてすくすくと育ったんだと思います」


あたたかく育ててくれた母だけでなく、人には恵まれてきた人生だった。小学校高学年の頃に通っていた塾の先生もまた、褒めながら伸ばしてくれる人だった。


「たまたま家から自転車で2~3分くらいの距離に塾ができて、第一号みたいな生徒として入ったんです。本当に八畳一間みたいな感じのマンションの一室で、毎日きちんと勉強するようになって。成績も上がったので親も喜んで、親が喜ぶから自分も嬉しくて、だから当時は勉強していましたね」


門戸を開いたばかりの塾に入ってくれた生徒たちを前にして、先生も張り切っていたのだろう。一つの宿題をやり遂げたかと思えば、すぐに次の宿題が待っている。日に日に重たい宿題を浴びるように課せられるのだが、それらを先生の言う通りにこなすうち、自然と成績はついてきた。


それまで全く勉強してこなかったわけでもないが、塾に通い出したからこそ毎日きちんと机に向かうようになり、努力が結果として返ってくるという体験もできた。勉強のやり方を学べたこと自体、のちにも活きる財産となった。


「教えたらその分努力して、素直に受け取っていたので、今になって分かることですが先生も嬉しかったんだろうなと思います。4人ぐらいいる生徒の中でもおそらく一番きちんとやっていたし、成績の伸びも良かったので。うまく褒めて育ててもらったおかげで、小学生ながら自信に繋げてもらったのかなと思います」


幼少期


塾に通ったことで、一定学力には自信がついた。おかげで中学に上がってからも、しばらく勉強では苦労しなかった。しかし、反面惰性で勉強しなくなり、もっぱら当時好きだったバスケットボールをしたり、友だちとのびのび遊ぶようになる。


「正直ぐうたらした学生で、中学ではほとんど勉強した記憶がないですね。そんなに勉強しないグループにも属していて、中学2年の途中で学力が下がった時にようやく少し危機感を覚えたんです。その時も母親はすごく悲しんでいて、でも怒られながらも自分を信じてくれているような姿を見て、もうそろそろやばいぞと思いはじめて」


支えてくれている母を思うと、遊んでばかりもいられない。気づけば高校受験が迫る時期になっていた。中学3年にもなると、少しずつ進路を意識せざるを得なくなってくる。志望校がどこだとかいう会話も耳に入ってくるが、そもそも高校どころかその先の将来のイメージも何もない状態だった。


そんな時、ふと黒板の横に置かれた高校一覧の冊子が目についた。何気なく手に取って、ぱらぱら眺めていると、近場の高校名に並んで「小山高専」という見慣れない学校名が目に入った。


「高専って何をやるんだと思って調べたら、年間で休みが半分以上あるんですよ。そのうえ私服だと書かれている。どんな学問があるんだろうと思って見ると、建築学とか物質工学とか機械工学とあるなかで、なぜかは分からないけれどその時『自分の家を作りたい』と思ったんです。自分の家を設計してみたいと、だから小山高専の建築学科へ進むことにしました」


地元である栃木県宇都宮からは電車で約30分。小山高専は家から通える距離にあり、十分現実的な選択肢だった。人とは少し違う進路であることも、なんとなく面白そうで気に入った。唯一学力面が厳しそうだったため、そこから猛勉強することになるのだが、なんとか晴れて合格を手にした。


誰に相談したわけでもなかったが、自身の選択に迷いはなかった。


「ある意味私はずっとそうなのですが、決めたら行動する、考えるよりも動けのタイプですね。おそらく思っていることはすぐに試して、その結果を見て次に繋げる方が絶対に進歩が早いなと、肌で感じていたんだと思います。考え過ぎることって意味がないよねということは、今でもずっと思っています」


思いつけばすぐにやってみて、結果をもとに次へと繋げる。幼い頃に好きだったミニ四駆や、スポーツにも近しい感覚だ。頭の中でイメトレばかりしていても上達しない。だから、実際に動かしてみて、気づいたことを修正しつづける。その方が性に合っていると、昔から思ってきた。


もしかしたら、母や塾の先生のように安心と自信を与えてくれる存在が身近にいたからこそ、臆せず行動できていたのかもしれない。正解のない未来に悩むより、動きつづけて答えを探す方が好きだった。




2-2. 広い世界、そして9. 11後の米国


念願叶って、高専で建築を学びはじめる。決して真面目な生徒ではなかったし、手先が器用なわけでもなかったが、クラフトマンシップのようなものに触れられる世界がそこにはあった。頭の中にあるものを形にしていくプロセスは楽しいものだった。


「建築って意匠デザイン系と構造系があって、いわゆる図面を引いてデザインする人と計算する人なのですが、私は意匠デザイン系の研究室に属していました。でも、いざ就職するぞとなった時に、そういう就職口ってすごく限られているんですよね。設計事務所に入るためには大学に行かなければいけないし、大学に編入するにはクラスで3位以内とかにならないといけないのですが、下から2~3位だったので行けるわけがなくて」


当たり前だが世間は甘くない。とはいえ、高専の良さは学校推薦でほぼ100%就職できることでもある。いくつか紹介をもらったなかで、建築系の会社から内定をもらった。


ちょうどその頃、偶然宇都宮に「駅前留学」のキャッチコピーで一世を風靡した英会話教室ができた。興味本位でしばらく通ううち、さまざまな人の縁があり、高専の卒業旅行では知り合いを訪ねて単身オーストラリアへと渡ることにした。


忘れもしない1999年の年末、オーストラリアの街中にある小さな売店で買い物をしていた。商品名を英語で伝えるが、中国人らしき店員のおばさんはこちらの発音が通じていないのか一向に売ってくれない。何度か訴えるが態度は変わらず、徐々にいじわるなのかと思えてくる。結局最後まで客として相手にしてもらえず、異国の地で自分は些細な買い物一つできないという現実に打ちのめされた。


「それまで宇都宮ですくすくと育って、正直何の不自由もない人生で。少し勉強ができない時もあったけれど、一番行きたい学校に行けてそこそこ褒められながら育ってきているなかで、オーストラリアで買い物一つできないわけですよ。衝撃を受けて、『世界超広いじゃん』と、そこで悔しいと同時に面白かったんですよね。こんな世界があるんだと、『なんだったんだ今までの俺は』と20歳の時に思ったんです」


このままでは自分はだめだと、わけもない危機感に駆られつつ帰国する。就職は3か月後に迫っていた。しかし、入社した先で自分は何をやっていくというのだろうか。将来について何も考えていなかったことを改めて自覚した。


オーストラリア旅行を経て、心の中には漠然と、しかし強く「世界を股にかけるビジネスマンになりたい」という思いが浮かんでいた。そのためには、まず英語を話せるようになる必要がある。英語で何かを学び、いつか海外で仕事をしたい。就職を辞めて、海外の大学へ留学したい。そう心に決めて、すぐに親に伝えた。


「たしか両親からは強く反対されたりはしなかった気がします。ただ、高専の研究室からすれば、学校推薦の内定を断ったら翌年度からはそこには行けないわけなので、教授には謝罪しなければいけなくて。入社するはずだった会社にも直接謝りに行くことになったんです」


宇都宮から東京までは、緑とオレンジの鈍行列車に乗って片道約1時間40分。東京なんてめったに行かない母と二人、ボックス席の対面に座りながら大した会話もなく電車に揺られた。本当なら学校推薦でもらった内定を辞退するなんてありえない。母とともに深く頭を下げ、再び帰路についた。


「親としては就職が決まったなんて、ものすごく嬉しかったはずなんですよ。母親も一般的な安定志向の人なので、当時の私の判断は意味が分からなかったと思うんです。それでも支えてくれるんですよね。一緒に電車に乗って往復して頭下げてくれた。あの時は、人生でもトップクラスにつらくて申し訳なかったです」



留学することだけが決まったまま高専を卒業する。ひとまず何から始めればいいのかと調べていると、当然だが留学にはかなりの費用がかかるという事実に気がついた。両親に相談すると、全くそんなお金の余裕はないということを初めて知ることになる。


「考えてみたらそうなんですよ、決して裕福な家というわけでもなかったので。でも、行くんだと決めているから、まだまだ世間知らずなので自分で働いてお金を貯めると言って。昼は工場で丸い電球を作って、夜は飲み屋で働く生活を1年ぐらい続けたのですが、数百万円しかお金が貯まらない。そんなんじゃ全然足りなかったのですが、とりあえずもう行こうと留学斡旋業者にお金を払って学校を紹介してもらったんです」


最終的には親族にも支えてもらいながら、なんとか米国進学が決まる。20歳の3月に高専を卒業して以来、ようやく留学生活のスタート地点に立ったのは約1年半後のことだった。


しかし、お世話になったアルバイト先などの面々にも盛大な送別会を開いてもらった矢先、4日後に出国を控えた2001年9月11日、世界を揺るがす「アメリカ同時多発テロ事件」が起きた。


「飛行機が飛ばなくなってしまって。それでもとりあえず成田空港に向かったら、ギリギリ私の便から飛ぶことになって、なんとか予定通り留学に行くことができたんです。振り返っても、本当に豪運だったと思います」


想定外なタイミングで訪れることになった米国で見たものは、まさに空前のナショナリズムの高まりだった。


「人種も国籍も違う人たちが、全員でアメリカをなんとか立て直そうと共通敵みたいなものを作って、一つになっていく。その瞬間その場にいられたことは、ものすごく幸運でした。組織のまとまり方とか、その強さ、共通の目的を持つことで良くも悪くも人の集合体というものがどういう風に動いていくのかを見ることができた。すごく勉強になりましたし、価値観に大きく影響を受けたと思います」


悲惨なテロ事件の混乱と、そこから懸命に前を向いて行こうと団結していく米国社会は、目に見えない力に導かれるように、強く一つの方向へとまとまりつつあった。移民が多く、バックグラウンドもさまざまな人々が、共通目的に向かい一つになる。人の「集」の強さのようなものを目の当たりにしたことは、貴重な経験として心に残るものだった。




2-3. 運がいい


留学して最初に向かったのは、ワシントン州シアトルだった。コミュニティカレッジに併設された英語学校に入学し、まずは英語を学ぶところから始めた。


「最初は全く英語が喋れなかったんですよね。でも、やっぱり思いがあって来ていたし、来るまでのストーリーもなんとなく紆余曲折あったから、すごく粋がっていて。留学生クラスにいたけど、日本人から話しかけられても英語で返したり、無視したりしていたんですよ。今考えると、尖ってて笑っちゃいますよね」


幸い現地の友人ができたおかげで英語力は格段に伸びた。さらに、面倒見の良い英語学校の先生には、ホームステイ先の環境があまり良くなさそうだと心配してもらい、次のホームステイ先が見つかるまでの半年間無償で家に住まわせてもらったりもした。


考え過ぎず行動してみた先では出会いがあり、人がきっかけとなって道が開けることが多い。留学先でもそうだった。人に助けられるほど、自分の運の良さを実感する。人との出会いに恵まれたことこそが、人生最大の幸運なのかもしれない。


コミュニティカレッジで学んだあとはオハイオ州立大学へと編入。同大学で定評のあったサプライチェーン・マネジメントとマーケティングを専攻し、無事に卒業することができた。


「就職に関しては、その時もう26歳なので相当焦っていたんですよね。だから、いわゆる日系の伝統企業に入って下から積み上げていこうという考えはなくて、外資系なのか、当時はそんな言葉もなかったけれどベンチャー企業のような小さくても実力のみで生きていける世界に行こうと思っていました」


在学中からいくつか面接を受けてみたりもしたものの、ピンと来るような会社はなかなか見つからない。現地で留学生向けの就活イベントに参加して、いくつか内定をもらうことはできたが直前まで悩んでいた。


結局、最後は帰国後に自分で履歴書を送った物流系のコンサルティングを手掛けるシステム会社へと入社することにした。魅力に感じたのは、やはり人だった。


「当時の執行役員で今は社長になっている方が最初の面接官だったのですが、ファンキーな面白い方で。普通は面接というとビシッとしなければいけないと思うのですが、破天荒な考えやアクションをしていた私も受け入れてくださって、馬が合った感じです。大学で学んできた物流も活かせるし、英語を使いそうなコンサルティングの仕事もあったのでいいなと思ったんです」


オハイオ州立大学の卒業式にて


入社後は新卒としてがむしゃらに仕事を覚えていこうとした。懇切丁寧に教えてくれる人がいる環境でもなかったので、自分から話しかけて教えてもらう。周りはほぼ10歳以上年上の人ばかりだったこともあり、いろいろな人に優しく育ててもらいつつ、コンサルタントや社会人としてのいろはを学んでいった。


「今考えると、おそらく全然仕事のアウトプットは出せていなかったと思いますね。ただ、いろいろな物流の倉庫や現場を見学させてもらって。どういう風にみんながオペレーションをしているのかとか、導線を設計しているか、そこにおけるコストの分析だとか、メインのコンサルタントの横にちょこんといさせてもらいながら、提案書作りをサポートしつつ勉強させてもらいました」


1年後にはお客様に誘われ、BtoBの通販事業を展開するアスクルへ転職。新規事業として、現在の「LOHACO」の前身となるBtoCのEC事業立ち上げに携わり、いわゆるPdMのような業務を経験した。


上司に恵まれながら3年ほど働いたのち、やはりグローバルな仕事がしてみたいと新天地を探すことにする。留学して以来、日本発のサービスを海外に広めていきたいという思いが自分の中にあった。


「これは留学生あるあるなのですが、留学すると現地でよく『日本ってどういう国?』と聞かれるんですよ。それに対して日本人はほぼ全員そうだと思うのですが、びっくりするぐらい答えられない、日本を知らないんです。世界ではみんな自分の国に自信を持っているから恥ずかしくなって、改めて勉強すると日本がものすごくいい国だと気づくんですよね」


世界に出て初めて、再認識する日本の素晴らしさがある。日本という国や国民性、サービスも自然も全て好きだと思えたからこそ、「日本のサービスを海外に伝えたい」という思いはいつしか自分のドメインになっていた。


だからこそ、グリーという会社で初めてのグローバルチャレンジを経験できたことは、本当に幸運だった。


「当時はガラケーの時代だったので、そこでのゲームを外に対して開放するオープンプラットフォーム構想があって、今でいうApp Storeのようなものですね。私はその立ち上げメンバーとして入らせてもらって、会社自体がものすごく伸びているなかでスマートフォンが登場してきた。じゃあ、ガラケーでうまくいったモデルをスマートフォンに置き換える、かつグローバルのプラットフォームを作ろうということを、米国の会社をM&Aしながらやろうとしていました」


入社当初100~200名の規模だった会社が、1,000名規模にまで拡大しグローバルへ挑戦する。優秀な人材が集い、切磋琢磨する組織では、一定の熱量のうねりが作られていくようだった。9.11後の米国と同様、一つの目的に向かい会社が盛り上がるタイミングに身を置けた幸運を感じつつ、目の前の仕事に没入していった。


「世界は本当に難しかったです。留学の時も感じましたが、カルチャーも育ちも商習慣も違う人と同じ目標を持って困難を乗り越えていく、一つのプロジェクトを作っていくということはやはりものすごく難易度が高いですね。ただ、海外の優秀な方々と一緒に働けた、世界レベルを肌で感じられる距離感で働けたことは、良い意味で自分に危機感を持てたので本当に良い経験でした」


最終的にサービスはリリースはしたものの、その後の展開を成功させるには至らなかった。グローバルチャレンジはそう簡単にうまくはいかない。自身の力不足や現実を思い知らされつつも、そんな挑戦の当事者として参加できたこと自体、得難い経験だったと思えるものだった。




2-4. 熱量うねる組織で、もう一度


昔から会社に必要なことはなんでもやるスタンスで、役割にはこだわらず担ってきた。グリーを離れたあとは、かつての同僚に誘われフリークアウトでセールスやプロジェクトマネジメントなどに幅広く携わる。充実した時間を過ごしていたが、やがてもう一度グローバルチャレンジをしないかと声がかかったことをきっかけに、メルカリへと入社することになる。


当時のメルカリはまだ40名にも満たない組織だった。けれど、そこには「これから絶対に大きくなる」と誰もが確信できるような熱量のうねり、ふつふつと浮き上がってくる何かがあった。


「やっぱり経営者ではない人が、その会社に対してどういう目をして、どういう言葉を使いながら自社の事業やビジョン・ミッションを説明しているか。それが生き生きしているんですよ。自分事になっていて、かつ矢印がお客様とか社会を向いている。それをすること自体が自分のミッションだという風に、創業者のような語り方をする状態が、そういう小さいフェーズで熱量がある会社にはあると思っています」


入社から1か月後には「USメルカリ」が立ち上がり、出張ベースで日米を行き来する生活が始まった。創業者である山田進太郎氏ははじめから世界を目指していた。だからこそ、創業翌年には米国へ進出し、そこから数年かけて日本版と並行してプロダクト作っていくことになる。


現地のユーザーと同じ空気を吸い、同じものを食べ、同じ生活をする。1年の半分ほどを米国で過ごしながら、CtoCサービスを展開するために必要な感覚を養った。PdMとしてはペルソナを自分に乗り移らせるように感情移入してサービスづくりをする方だ。しかし、日本に拠点を置くUSチームのメンバーが40名ほどまで増えた頃、それまでのやり方の限界に気がついた。


「異職業種のメンバーが増え、自分がプレイングマネージャーとしてパンクしているなと思ったタイミングがありました。自分でPdMとしてものづくりをすることを諦め、同じような姿勢や思いを共有できる組織を作りたいと思い、マネジメント側に一気に意識を変えた。どうしたら最も成果が出る人の集合体、チームを作れるかという考え方に思いっきりシフトしたんです」


具体的に取り組んだのは、主にカルチャー作りだ。メルカリのコーポレートカラーと言えば赤だが、US版は青である。当時メルカリ東京オフィスの一部を間借りしていたが、その壁を青く塗り、「USメルカリ」のロゴを貼った。毎週金曜15時からは音楽を流してお酒を飲み交わし、米国をカルチャーごと持ってきたかのように組織を作っていった。


「隣のチームからすればたまらなかったと思いますが、そんなこと言ってる場合じゃないと。グリーの時に失敗しているから、圧倒的にやりきらないとUSなんて勝てないと知っているので。日本に社会人が何万人いるか分からないけど、海外で働きたい人なんて山ほどいる。その中でも当時ものすごく目立っていた会社であるメルカリで闘っている数十人はその代表だと。ここにいることの幸運とか、東京にいながら海外に挑戦できることの素晴らしさや重要性、希少性というものを何回も何回もみんなに伝えながら組織を作っていきました」



ビジョンリーダーのような存在として組織を作る。その働きが誰かの目に留まったのか、のちにはメルペイの人事責任者として声がかかり、やがて経営にも参画していく。素晴らしい会社にいられることに感謝しながら働くある日、数年来の知人からのオファーが舞い込んだ。


「物流領域で事業を展開する会社の代表のオファーを受けて、海外まで行って物流を学んだこと、それまでジェネラリストとしていろいろな役割を担ってきたこと、そういういろいろな点がその会社の代表を務めることで線として繋がるイメージがあって。そんなチャンスはそうそう回ってこないし、これはもうフルスイングする場所だと感じて、オファーを受けさせていただいたんです」


当時は業界向けのSaaS事業を拡大していこうとしていて、同時にそのための組織を作っていった。しかし、ITが根付いていない業界にDXの価値を浸透させていく難しさ、限られた利益をいかにITに投資してもらえるかという挑戦は、頭では分かってはいたもののそれ以上に高い壁だった。


「挑戦自体楽しかったし、日本のインフラである物流を良くしている自負もあって、本当に優秀な方々に入社いただいたのですが、経営戦略の変更が必要となり採用した代表としての責任を感じました」


会社のビジョンやミッションに共感してもらい、自分の夢のように思ってもらうためには強いアトラクトが必要になる。それだけ人の人生に影響を与えるということは、当然ながら責任が伴う。人を一人採用するということは、その人の家族の人生をも背負うことである。考え過ぎかもしれないが、採用とはそういうことなのだととらえるようになった。


代表を退任し、一度はメルカリに出戻りしていたが、2024年4月にIVRyへとジョインする。きっかけとなったのは、やはり人の縁だった。


「私が代表をしていた時代にスカウトを送って面談していた宮原さんという方が、その後IVRyでVP of BizDevを務められていて、宮原さんの紹介で代表の奥西さんに一度会っていたんです。それから数カ月後にもう一度相談があると言われて、IVRyの電話だけじゃない、電話の奥にある音声データというものを軸として新しい事業を作っていくという話とか、電話というレガシーなチャネルを使うからこそ最高の技術を全ての企業に届けられるというミッションが思いっきり腑に落ちて、この夢は素晴らしいと思えたんです」


同時に、代表の奥西氏には、新規事業を作ることにおいて類まれな才能があるとも感じた。その才能を活かすことに集中してもらうためにも、それ以外の組織づくりなど裏側全てを受け取ることができればと入社を決めた。


これまでの経験を活かすことができる挑戦であり、人の熱量が高まりゆく組織を作り上げるという何よりフルスイングしがいのある挑戦だ。今後国内での事業が発展していけば、その先には世界を目指せるポテンシャルもある。夢はIVRyとともに、新たな世界へと動き出した。




3章 環境を選ぶ人へ


3-1. 人生でフルスイングできる機会はそう多くない


人生の中でも特に比重を置いてきた問いは、いかに人とチームを作り、共通の目的を達成していくかにあると片岡は振り返る。


「最初は自分でどうにかするという個人の馬力も絶対に必要なのですが、共通の夢や目標を持っている人を信じて任せ、一緒に成長していくということが、大きいことをやろうとすればするほど必要になってくる。一定まで行くとチームプレーでしか絶対に成し得ない到達点があるので、チームづくりの観点はやはりとても意識していますね」


ばらばらな方向を向いている人々を一つにする。チームづくりは、大きな目標達成において欠かせないプロセスだ。企業であれば、ビジョンやミッションを自分事のようにメンバーに感じてもらうため、入り口となる採用時のアトラクトが重要になる。


「候補者の方とお話する時に意識して伝えることは、解決しようとしている課題の大きさだと思います。今解こうとしている課題が世界や日本において、どれぐらいの意味合いを持っていて、その領域が今どういう状況にあり困っているのか。それに対して自分たちに何ができるのか。これはチャレンジする価値がありますよということをお伝えするようにしています」


逆に、環境を選択する側だとしても、大きく困難な挑戦に向かうことに躊躇する必要はないと片岡は考える。なぜなら、一度きりの人生、自分がフルスイングできるような挑戦ができる環境と巡りあう機会は、意外にもそう多くないからだ。


「誰しもフルスイングできる環境ってなかなか出会えない。この仕事に対して自分は思いっきり振りかぶれる。後先考えず、足がつってもいいからフルスイングするような経験を人生で何回してきましたか?と聞かれたら、多くの人はそんなにないと思うんです。だから、もしそれができる環境が目の前にあるのなら、やらない選択肢はないかなと思いますね」


思い描いた挑戦をしたいとき、必ず挑戦できるとも限らない。だから、迷ったらより挑戦的な方を選択し、思いっきりやってみる。考え過ぎるよりも、飛び込んでみた環境で出会ったきっかけを次に繋げていけばいい。


環境、仲間、ほかにもさまざまな条件が揃った今は、二度と来ない幸運なのかもしれない。




2025.5.8

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


フルスイングして挑める環境に、人はその人生で何度巡り会えるのだろう。「やりたい」と思ったときに、必ずしも「やれる環境」があるとは限らない。当たり前のことながら、見失われがちな観点かもしれない。そこには自分自身だけでなく、周囲も含めたさまざまな条件やタイミング、さらには運といった要素も絡み合っている。


留学に行きたいと願った際、経済的な理由で苦心した経験を持つ片岡氏は、そんな現実の重みを知っている。だからこそ、「今ここで挑戦できる」環境への感謝と、限りある時間への覚悟がベースになっている。


フルスイングするには、自分の意思だけでは足りない。その瞬間に、振れる場所が目の前にあるということ。その希少性を受け止め、一球一球を無駄にしないように振りぬくことが必要になる。


自分が今どんな場所にいて、何に挑んでいるのか。どんな条件に恵まれているのか。そういった問いに立ち返ることで、はじめて尽くせる「本当の全力」があるのだろう。


文・Focus On編集部





株式会社IVRy 片岡慎也

COO

栃木県出身。2006年、オハイオ州立大学のマーケティング&ロジスティクス科を卒業し、ロジスティクスコンサルタントとして株式会社フレームワークスに入社。のちアスクル株式会社にて、今の”LOHACO”の前身となるBtoC EC事業の立ち上げ、PdM/Mktg/BizDevなどを担当。グリー株式会社では、アメリカで事業立ち上げ&開発のPdMを担う。株式会社フリークアウトでの営業責任者を経て、2014年に株式会社メルカリに入社。PdMとして日本向けプロダクト責任者、アメリカ向けプロダクト組織の日本拠点長などを経て、株式会社メルペイにてHRとビジネスオペレーションを管掌し、経営に携わる。2021年トラボックス株式会社の代表取締役社長として運送会社向けSaaSの立ち上げ後、2022年9月にメルカリに戻り、Principal Product Managerとして法人向け事業のGrowth and 事業立ち上げを担い、2024年4月にIVRy入社。

https://ivry.jp/company/

https://ivry-jp.notion.site/Shinya-Kataoka-353bda1de91346b3b390f55684b5f18b


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