Focus On
守岡一平
株式会社shabell  
代表取締役CEO
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or技術の先端のその先へ。人や社会を動かす可能性が待っている。
AIを用いた次世代のコンピュータグラフィックス(以下、CG)で、人の目に見えるあらゆるものを誰の手でも作り出せる世界を実現していく株式会社EmbodyMe。同社プロダクトである「Xpression」の技術論文は、2018年、CG技術のトップカンファレンスSIGGRAPH Asia Emerging Technologiesに採択。2019年には、米国のトップアクセラレータ「Techstars」に同社が採択されるなど、世界でも注目の研究開発が進められている。慶応義塾大学在学中に未踏ソフトウェア創造事業に採択されたのち、ヤフーに入社。世界に先駆けてフェイスエフェクトARアプリをリリースし、40か国以上でストアランキング1位を獲得、グッドデザイン賞を受賞するなど多数の実績を持つ、同社代表取締役の吉田一星が語る「社会を変える技術」とは。
目次
新しさへの欲求が私を、人を、駆り立てる。
遠く離れた人とリアルタイムで会話したい。声や文字だけでなく画像や映像を届けたい。もっと多くの情報を、不特定多数の人に。インターネットを肌身離さず持ち歩きたい。バーチャル世界にリアルな自分を存在させて、人の可能性を広げたい。
そこにあなたがいて、私もいる。たとえば、VR世界ではそれが当たり前になる。現実とは別の、もう一つの世界。どこまでも広大で、限界とは無縁の世界。
つい2、30年ほど前は、それはインターネットのことだった。顔も名前も知らない誰かとの交流。面白くて刺激があって、いつまでも浸っていたいものだった。
思えばいつも、人生は技術の進化とともにあった。
新しいデバイスが世に出ては、自然と手に取ってきた。面白くて、知りたかった。10年、20年と時が経つにつれ形を変えながら、たくさんの不可能を可能にしてきた技術の正体を。
技術が進化を加速させ、さらに誰かが技術を進化させてきた。その先端に触れていると、人や社会のダイナミズムを感じられる。遠い昔から、誰かの探求心が歴史を大きく動かしてきたことを。
広がる技術の最先端を感じつづけてきた吉田一星の人生。
遠く黄河の向こうから、重々しい地響きが聞こえてくる。
乾いたむき出しの大地を踏みしめる、幾千幾万の軍勢。その指揮を執る人物はきっと、類まれなる知力と武力、カリスマ性を兼ね備えていたのだろう。たった一声で民衆の心を動かし、一つにする。国にはさらなる豊かさを、近隣諸国との戦には必勝を。
見渡す地平は、一面黒く染まっている。敵国の兵士たちだ。
ついに戦いの幕が切って落とされた。土煙がもうもうと舞い、視界を悪くする。誰ともつかぬ雄叫びがして、金属同士がぶつかる音が響きわたる。空には大量の弓矢が飛び交って、あたりに雨のように降り注ぐ。倒れた兵士たちが、地面に次々と積みかさなっていく……。
三国乱世のその時代、絶え間なく続いた戦は、3000万を優に超える命を奪ったという。中国全土で、およそ7割の人が死んでしまったことになる。
千里にわたり屍連なる人の営み。その一部始終を、広漠たる空だけが全て見下ろしていた。
ピコピコと鳴る電子音が、悠久の中国文明を感じさせるBGMを奏でる。小さな四角い液晶に表示される文字や中国の武将のドット絵に、さっきから固唾を飲んで目を近づけ浸っていた。
1989年4月21日。のちに世の小学生たちを虜にすることになる、次世代のゲームマシンが発売された。名前は「ゲームボーイ」。勉強はサボらない。という親との固い約束の末、当時最新のゲーム機をなんとか買ってもらうことができたのは最近のことだった。数本あるソフトとともに、それは自分にとって宝物のように大切にしたいものになっていた。
ゲームに初めて触れたのは、小学校の友達の家にあったファミコンのマリオだった。えんじ色のコントローラーを握りしめた瞬間、不思議と胸が高鳴ったことを覚えている。
でも、自分は最初のクリボーでいつも死ぬ。どうやらアクションゲームが苦手らしい。それよりも得意だったのは、『信長の野望』や『三國志』など歴史シミュレーションゲームだった。特に『三國志』は、飽きることなくプレイするほど好きだった。
後漢末期から三国時代。群雄割拠する一国の君主となって、中国統一を目指して策略を巡らせる。内政で国力を高め、優秀な人材を登用する。支配勢力を広げるには、戦争を仕掛けるだけじゃなく、計略や外交という道もある。
はじめはわずかな領地しか持たなかったのに、戦略次第で広大な大陸の支配者になることもできる。あるいは反対に、統治に失敗すると反乱が起こったり、味方に裏切られる可能性もある。
本当にあの戦乱の時代を生きた一人になったような気分になってくる。ゲームをしているとき、自分はその中にいる。ドット絵は滑らかになり、目の前に景色が広がっていく。中国の歴史が大きく動いていくダイナミズム。世界のありようが面白く、しょっちゅう親の目を盗んでは、武将として国をつくっていた。
「日本史は小さな国の中の話だけど、中国は全然スケールが違うと思って。中国4000年の歴史とも言いますけど、ほかの国に文明がなかったころから文明があって。ものすごく大きいし統一も大変ななかで、国が一緒になったり分裂したり、上にはいつも攻めてくる民族がいたり。今の現実世界の中国でも完全に同じだなと思って。あれだけ広い土地を統一するためのテクニックが、4000年で出来上がっているんだなと思ったんです。インターネットや言論を統制しながら人心は掌握していたりと、飴と鞭のバランスをすごくよく心得ている。ほかの国と全然違うと思うし、そんじょそこらのインターネット二十数年の歴史より、中国4000年の方が勝っているんじゃないかと思っていて(笑)。インターネット技術そのものが自由であるという我々の常識は、中国からすると間違っていて、実際インターネットを統制することが中国では機能しているし、中国の広大な土地を統治する意味では正しいことなのかもしれません。世界史のなかでも、中国の歴史は面白いと思いますね」
ゲームをきっかけに、中国史に興味を持った。
三国志を題材とした吉川英治の歴史小説や、横山光輝の漫画を読むようになっていた。おそらく歴史の勉強になるからと、親も買いそろえるのを許してくれた。
読めば読むほど気持ちが高まって、もっと知りたくなる。小説や漫画を開くと、動乱の時代のざわめきが耳の中に響いてくるものだった。
どうやら遠い昔の時代は、王様一人の事情であらゆる歴史が動いていたらしい。世継ぎの失敗が、一国を亡ぼすという末路に至ることもある。誰かの思惑と思惑がぶつかり合い、予想もつかない未来へと向かっていく。たった一人の武将の活躍により、中国全土が動いていく。大きな歴史のうねりの中で、社会が変わる。
そのダイナミズムに圧倒された。
自分が目の前のことにあくせくする気持ちとは反対に、そこでは一人の力で社会が動く。ゲームや本の中には、想像しきれないほど大きな世界が広がっていた。
土曜日の朝が来た。ランドセルから教科書とノートを取りだすと、机に置かれた塾の教材の上に積み上げた。
窓の外は穏やかに晴れているようだった。注ぐ朝日が家の中に広がって、そこら中を薄ぼんやりとさせていた。眺めていると、欠伸が一つ出たのでかみ殺す。
積み上げられた宿題を一つ手に取った。ノートを開き、鉛筆を手に握る。重たく閉じそうになる瞼は抗いがたい。一度、つぶった目の中心に力を込めてから、無理やり見開いた。
眠いけれどやるしかない。小学校の勉強に塾、習い事。やるべきことは沢山あった。時間はいくらあっても足りないものだった。今日は宿題の山を減らしたら、塾の予習復習が待っている。それからピアノの練習もある。
とにかく目の前にあるものを終わらせよう。いつも通り、粛々とやればできるはずだった。
やるべきことに追われ、なんとか終わらわせられるように机に向かう。そしてつかの間、ゲームを手に取る。
親の目を盗んでは電源を入れる。緑がかった四角い液晶に光が灯る。まだ終わっていない宿題のドリル。今度の漢字の書き取りテスト。九九の暗記の小テスト。どれも不思議と頭から消えている。
ゲームの中に広がる世界。そこは今自分が生きる現実の世界とは違う。画面の中では自由に選択したり、世界を意のままにしたりすることができる。新鮮な驚きに満ちた、あの感覚。いつしかそうしてゲームの中に浸る時間が何より代えがたいものになっていた。
成績が落ちては怒られるから勉強には一応励む。塾や習い事にもきちんと通う。でも、できるだけ早く終わらせて、またあの世界に戻りたい。何をしていても頭の片隅に、現実とは別にある、もう一つの世界のことを思っていた。
3歳
ゲームはもう一つの自分の世界。そんな体験は、ほかにもあった。小学生の時、ピアノの教室で触れた「音楽」がそうだった。
左手の指で鍵盤を一つ押す。ポーンと「ラ」の音が響く。
今度は「ド」と「ミ」と「ソ」を同時に押すと、耳に馴染んだ和音が鳴った。さらに今度は三つのうち一つだけ、少し離れた場所にある黒鍵を混ぜてみる。すると、想像以上に透き通ったきれいな音がした。
思わず目をつぶって、何度も鳴らして確かめた。なんとなくこれが気に入った。合わせて右手でメロディーを弾くと、いくつもの音が重なって、繊細で心に染みるような短い音楽になった。
目を閉じていても、音は感じることができる。なぜかそれが嬉しい。
ピアノの先生が手本で弾いてくれる曲を聴いていると、ときどき鳥肌が立つことがある。そんな音楽を受け取ると、自分からも発してみたくなる。先生みたいに曲を弾いてみたくて、同じように鍵盤に向き合う。楽譜をにらみながら、ゆっくり音符を追いかける。いつしかそこにもう一つの世界が広がっている。でも、一つ間違えるだけで、曲の美しさは損なわれてしまうのだ。
ため息を一つ吐く。簡単そうに見える曲でも、指は思うように動かない。アクションゲームが苦手なことといい、自分は手先が不器用なのかもしれない。
ピアノは嫌いじゃないのに、うまく弾けないともどかしい。
親に言われて始めたヤマハ教室は、不思議と嫌な気はしていなかった。でも、教室の帰り道は、いつも行く前より暗い気持ちになっている。
そんな自分の様子を見ていてくれたのか、あるとき先生が、別のコースを紹介してくれた。標準的なピアノの練習ではなく、作曲を習うコースのようなものが存在するらしい。試しに申し込んでみると、試験に合格できたので、小学校の途中からはコースを切り替え、少し遠い場所にある教室に通うことになった。
授業は何かしら曲を作り、発表する形式だった。ピアノを弾くテクニックは求められないから、気負わずできる。なんとなく鍵盤を鳴らし、頭の中に浮かんでくるメロディーに耳を澄ませる。それを楽譜に書き込んでいった。作曲の理論などは分からない。とにかく自由に直感で作った曲の数々を、先生は「クラシックよりもジャズっぽいね」と評価してくれた。
作った曲を自分で弾ける自信はない。あくまで作る方が好きなのだ。目の前にある現実を切り離し、頭の中に広がる世界に意識を集中させる。すると音が流れ出し、やがてメロディーになる。その感覚に身を任せ、曲という形にする。
そうしているときが、ピアノや音楽の中に自分が混ざり合う気がして心地よかった。
ピアノが始まるまで、わずかな時間があれば毎週のお決まりがあった。
ピアノ教室までの通り沿いの本屋の入り口をくぐる。迷わず漫画雑誌コーナーに赴き、平積みされている今週号の『週刊少年ジャンプ』を手に取ると、慣れた手つきで巻末あたりを開く。
『王様はロバ〜はったり帝国の逆襲〜』や『ボンボン坂高校演劇部』、『とっても!ラッキーマン』などのギャグ漫画が好きで、毎週読んでいた。読めばシュールな笑いが必ずそこにある。ギャグ漫画はたいしたストーリーはないけれど、その感覚が好きだった。
塾も習い事も家から遠い場所にあったので、いつしか道すがらある本屋に立ち寄るのが日課になっていた。そこでこっそり好きな漫画を立ち読みすることも、当時の楽しみの一つだ。
今週号も面白かった。
満足して雑誌を戻す。塾の時間が迫っていた。急いで歩みを進めたその時、雑誌コーナーの一角に、見慣れないタイトルがあるのが目に留まった。
『Yahoo! Internet Guide』
何かに呼ばれるように、手に取り開いてみると、よく分からないカタカナやアルファベットがたくさん並んでいた。パソコン、Webサイト、プロバイダー……。よく分からないが、新しい技術についての専門雑誌であるようだった。
パラパラとめくっても、あまり理解できない。しかし、何度も登場する「インターネット」という単語が気になった。
「インターネットが社会を変える!」。大げさな感じでそう書いてある。誌面の文章からは異様な熱気と興奮がゴツゴツと感じられた。どうやらそれが全世界を巻き込んだ最新のトレンドになりつつあるらしいということだった。
ここにある言葉はよくわからない。でも、ここにも社会を大きく動かす何かがあるのかもしれない。そう思っていた。
それから本屋に行くたび、インターネットやパソコン系の雑誌コーナーに足を運ぶようになった。知らない情報に出くわすたびに調べる。調べた先の雑誌でまた新たな情報に出会うので、さらにまた別の情報源を探す。
なんて広い世界だ。好奇心の先にまた好奇心。果てしなく次を広げるものがある。
今、指先で掴んだ「インターネット」という世界は、終わりが見えない。中国の歴史の胎動のそれと似た、途方もなく大きな可能性を秘めているような気がしてならなかった。
ここにも広い世界がある。
社会が大きく動きつつある感覚がする。その先端を追いかけると、今よりもっと面白い世界が待っているんじゃないだろうか。理屈じゃなく、そう感じていた。
中学受験も無事終わり、私立中学への入学を間近に控えていたある日のことだった。
渋谷の街の雑踏で、目に留まるものがあった。SHIBUYA109前に人だかりができている。特設イベントが開催されているようだった。気のせいかもしれないが、「インターネット」という単語が耳に入ったような気がして足を止めた。
人の隙間から様子を伺うと、そこには何か、白い箱のような機械が展示されていた。モニターに接続された本体と、三日月形のころんとしたコントローラーのような物。新しいゲーム機だろうか。
「インターネットはテレビで見よう!」
なんてキラキラした言葉だろう。それがどんな可能性を秘めた言葉であるか今は知っている。
興味を引かれてよくよく見ると、「ピピンアットマーク*」という見慣れない名前が書いてある。説明によると、家庭用ゲーム機でありながらモデムを搭載し、ダイヤルアップ接続でインターネットに繋がるマルチメディア機であるようだった。(*1996年、Appleとバンダイが共同開発したMacintosh互換のゲーム機)
これがあればゲームもできるし、インターネットにも繋がるんだ。
ドキドキと心臓が音を立てはじめる。吸い寄せられるように、体験スペースにあるコントローラーを手に取った。全体的に丸みを帯びたフォルムは、「ようこそ」とよく手に馴染んでくる。まさに未来のマシンという感じだ。面白そうだ。ここに世界がある。
パンフレットを大事にしまって帰路につく。
税別6万4800円。帰り道、パンフレットに小さく書かれた値段に目を見張った。そんな値段、手に入れられる値段じゃない。でも、これを使えばいろいろなことができそうだ。「メモリ」、「フロッピーディスク」、「CD-ROM」。見たことのある単語がいくつか並んでいる。その言葉の先に期待と想像が膨らんでいくことは、もう止められなかった。
そうとなれば、考えることはひとつ。なんとか買ってもらえる方法を考える。そして、はたとひらめいた。
中学の合格祝いに買ってもらおう。
ちょうど難関である麻布中学校に合格したお祝いで、親から何かしら買ってもらえるという話が出ていた。これしかない。家に帰ると、パンフレットを開いて見せながら親に頼んだ。突然で驚かれたが、勉強になるかもしれないと理由をつけて、なんとか買う許可をもらうことができた。
パンフレットによると、ピピンアットマークの販売は、電話注文か加盟店でしか取り扱いがないという。普通には買えない。未来だ。ここに未来がある。指定の電話番号を押して、受話器から聞こえる発信音に全神経を注いでいた。
数日後、オレンジと黒の四角い箱が配達された。
ピピンアットマーク。最先端の技術がこの中に詰まっている。
のちにその機械は、「世界で最も売れなかったゲーム機」や「Appleとバンダイの黒歴史」と酷評されることになるとは露ほども思わなかった。時代を先取りしているかのような感覚に、ただただ酔いしれていた。
小学2年生
1996年の春。憧れのインターネットに繋がる機械を手に入れた。
「ピー」と鳴った後に、電話番号を発信しているような音が鳴っている。何かの機械音。つづいてテレビの砂嵐に似た音がしたかと思うと、やがて唐突に訪れる静寂。
突然、異音が鳴り出して飛びあがりそうになった。
繋がったのか?それとも、壊れてしまったのだろうか?
分からない。ダイヤルアップ接続というものを試すのは初めてだ。説明書の通り家の電話線と繋いだが、果たしてこれでいいのか自信はない。汗で滑りそうになる手で、コントローラーを握りしめた。
とはいえ、しばらく待ってみるしかなかった。そもそも機械の起動からしてそうだが、沈黙している時間がやたらと長い。壊れているのではないかと疑いたくなるほどに。さっきから画面に少しでも動きがあるたびに、じりじりと募らせた期待が弾けそうになっている。
テレビ画面に、真っ白なページが現れた。
繋がったみたいだ……たぶん。まず何をすればいいんだろう。
ふと、何度も立ち読みしていた雑誌『Yahoo! Internet Guide』のことを思い出す。そうだ、インターネットと言えば「Yahoo!」に決まってる(その年の4月、国内初の商用検索サイト「Yahoo! JAPAN」がオープンしたばかりだった)。覚えていた短いURLを、一文字一文字確かめながらゆっくりと入力する。最後にもう一度見直して、恐る恐る確定ボタンを押した。
たっぷりと時間をかけて切り替わる画面。そして、「Yahoo!」という赤いロゴが目を引いた。口から感嘆のため息のようなものが漏れる。下には青い文字がリスト状に並んでいる。ここからいろいろなホームページに飛べるようになっているはずだった。
ディレクトリ型検索エンジンが主流だった当時、ホームページというもの自体、数はまだ少なかった。首相官邸やNASAなど、企業や公共団体が作ったわずかなホームページ。あとは、名前も知らない誰かの個人サイトが点在しているだけだった。
誰かが作ったホームページにアクセスし、いろいろな人が足跡を残して去っていく。掲示板という仕組みを初めて知ったのもこの時だった。自分も無意味な言葉を書き連ね、残しておいた。自分という存在がこの場所を訪れた証拠だ。
カクカクした文字に、原色の背景。数字は、自分が何人目の来訪者であるかを告げていた。
まるで初めての街を訪れた人のように、何もかもが新鮮に映った。しかも、この空間は1分1秒ごとに拡大を続けているという。世界中の人がネットにアクセスし、繋がり、日増しに新しいホームページを作っているのだと思うと、今までにない不思議な感覚がした。リンクからリンクへとホームページを巡っていくと飽きない。それだけで時間があっという間に過ぎている。時計を見て驚いた。
これが正真正銘のインターネットなんだ。
ピピンアットマークで繋がれる。この機械こそ、あらゆる可能性を秘めている。そう思った。
まだ見ぬ知らない世界。なんでもできる世界。それが今、自らの手で触れられる場所にある。こんなにも心躍るような興奮と感動は、生まれて初めてだった。広がっていく可能性が、尽きない興味を掻き立てていた。
日々情報が更新され、形を変えていくインターネット。その全容はとらえどころがなく、無限にも思えるものだ。でも、未来の機械がもたらした衝撃は、それだけでとどまらなかった。
CD-ROMを読み込むと、長いロード時間の末に始まる物語。『ビクトリアン・パーク』。ピピンアットマーク用に発売されていたそのアドベンチャーゲームが大好きで、何度も遊んでは楽しみ、感動していた。
まるで絵本のストーリーをたどるかのように展開する、立体で描かれるグラフィックと奥行きのある世界。不思議と胸に響いてくる優しい音楽が流れ出し、気がつけば、暗闇のなか煌々と輝く遊園地に、一人たたずんでいる。
主人公の自分は、夢の中で夜の遊園地「ビクトリアン・パーク」に迷い込む。宝島、不思議の国のアリスの世界、ドラキュラ城……。遊園地のアトラクションを巡り、謎を解きながらストーリーを進めていく。そこでは、自分が何者であるかを探すまで家に帰れない。
自分を見下ろす大きな観覧車は、とても綺麗だ。素直にそう思った。どうやら3DCGという技術であるらしい。あとから知ったことだが、当時はちょうど3DCGの勃興期だった。
視覚を驚かせる仕掛けも凝っていて、まるで自分がそこにいるかのような手触り感がある。驚き、喜び、感動させられる、ゲームでこんな体験ができるなんて。プレイヤーをゲームの世界に入り込ませていく演出は、今まで触れてきたゲームとは別物のようだった。
これからは3DCGの時代なんだ。
当時3DCG技術に触れていられたのは、ゲームだけじゃない。オンラインコミュニティ『フランキー・オンライン*』もその一つだった。(*1995年、ハイパー・メディア・クリエイター高城剛氏がプロデュースしたパソコン通信サービス)
そこに足を踏み入れたユーザーは、インターネット上に広がる3DCGの街並みを目にすることになる。メールを送るには街の郵便局に行く必要があり、デパートに行けば買い物ができた。ユーザーは、何気ない日常生活を送るかのように時間を過ごすことができる。今でいう『Second Life*』の走りのようなものだった。(*2003年、米国Linden Lab〔リンデンラボ〕社が開発したPCゲーム。3DCGで作られたインターネット上の仮想世界の中、ユーザーは好みのアバターで現実とは別の生活を送ることができる)
次世代のパソコン通信の先駆けでありながら、アナログ的な人の温もりと親しみを感じさせる不思議な空間。利用ユーザーは少なかったが、逆に秘密を共有する仲のようでもあり、ワクワクさせられた。
またあの場所へ行きたい。いつしか暇さえあればインターネットに接続するようになっていた(思う存分遊んでいたら、電話代がかさんで親に怒られた。まだインターネットは従量課金制の時代だった)。
心が思うまま自由に動き回るあの感覚を、思い出さずにはいられない。
もっとこの世界を知りたい。楽しみたい。生きていきたい。
3DCGやインターネット。先端をいく技術には、いつも自分を刺激する何かがあった。
中学生のころ、母と
放課後、秋葉原の電気街を歩いては、新しいガジェットなんかを見て回る。それが日常になりつつあった中学校生活。
蛍光灯がちかちかと瞬いて、店先のショーケースや棚を照らしている。何かの電子部品やパーツのような物体が、両側に所狭しと並べられていた。それらを興味深そうに品定めする人々の横に並んで、自分も一つ手に取ってみる。何かは知らないが、眺めていると新たな発見があったりして面白い。
エネルギーはインターネットの世界で使っている。だからか、授業中はたいてい居眠りをしている。夜は普通に寝ていたにもかかわらず、なぜだか無性に眠かった。塾にも変わらず通っていたが、興味の対象は完全にバーチャルの世界に移行していた。
迷路のような細い路地を抜けた先、大通りに出ると、今度は家電量販店やチェーンの飲食店がそびえて並んでいる。
今日はゲームソフトを見たい気分だったので、大型の電気屋の入り口をくぐった。階数表示は見なくても把握しているので、慣れた足取りで店内を進む。
ふと、目立つ場所に飾られた新製品らしきパソコンが目についた。リンゴのマーク。Appleの最新型だ。このときめきは知っている。思わずスクリーンをのぞき込み、触れてみる。世の中的にはWindows95の時代だが、ピピンアットマークユーザとしては、やはり憧れずにはいられなかった。
そうだ、パソコンが欲しい。
こんなに高いものは無理だろうけど、中古で安いパソコンだったら、なんとか買ってもらえるかもしれない。急遽目的地を変更して、中古のパソコンを扱う店に足を向けた。
当時熱中していくうち、正直ピピンアットマークでは満足できなくなっていた。ネットをしていても文字はぼやけて見にくいし、拡大しようとすると今度はページの一部が見切れてしまう。性能としてはパソコンの劣化版だということを、早いうちから知っていた。
マルチメディア機と呼べばかっこいいが、要はゲーム機としてもパソコンとしても中途半端(強気の価格設定だったピピンアットマークは、その後、販売開始から約1年経ったころ、バンダイに累計250億円の損失をもたらして製造中止になる)。
当然ながらそんな未来が見えていたわけではなかったが、いずれにせよ、パソコンが欲しくなるのは自然な流れだったように思う。数日かけて、なんとか親の承諾を得られそうな金額のパソコンに目星をつけた。再び交渉(どうしたら買ってもらえるかは心得ている)。教育に良い影響がある面をアピールしたおかげか、無事に買ってもらえることになった。
もらったお金を握りしめ、秋葉原行きの電車に乗る。ゆっくりと動き出した車両が、みるみる加速していく。意気揚々と前を向く、自分の気持ちを乗せて。
人生で初めてのパソコンは、Appleの「PowerBook 190cs」だった。
晴れてますます快適なインターネットライフを手に入れた。
もはや生活の中心はインターネットにある。長期休みともなれば、パソコンいじりがたくさんできると心躍らせている自分がいる。
アンダーグラウンドな感覚のするネット世界。得体のしれない個人サイトには、いかにも怪しいリンクがたくさん貼ってある。面白いけれど真偽は不確かな情報が転がっていて、いつまで見ていても飽きなかった。
そのうちに、自分もホームページを作ってみたくなった。HTMLを勉強すればできることも知っていた。入門サイトを見ながら、一つ一つ見よう見まねで打ち込んでいく。ゲームの情報サイトのようなものを作ろうと、ネットの片隅で見つけた情報を自分なりにまとめてみた。誰かが足跡を残せるように、掲示板も設置しておいた。
最後にファイル転送ソフトを使って「アップロード」する。このボタンを押すと、自分のホームページが全世界の誰もが見られる状態になる。そう思うと、やけに緊張するものだった。
1日、そして2日待つ。反応がない。やたらとアクセスカウンターの数字が増えたと思ったら、自分が何度も開いていたせいだった。
それでも数日経つと、ようやく誰かが感想を書き込んでくれていた。嬉しくなって、さらにページを更新した。こちらの情報が充実していくにつれ、それに対する反応も増えていった。アクセス数が増え、掲示板には連日質問が寄せられた。
自分が作ったものに、興味を持ってくれる人がいる。
いつしか顔なじみも生まれてきた。(顔も名前も、というか何の素性も知らない相手だが、)ハンドルネームには親近感が湧いている。互いの存在が感じられ、そこに仲間意識のようなものさえ生まれてくる。しばらく連絡が途絶えれば心配になるし、久しぶりに会話できれば嬉しくなった。
ネット上でこんなにダイレクトに人と交流できるなんて。いや、ネット上だからこそできるのか。いずれはこれが普通になっていくのかもしれない。
面白くなってきてからは、サイト運営だけでなく、プログラミングやゲーム作りにも手を出しはじめた。ゲームは買うのが当たり前だったけど、今や簡単なものなら自分で作ってネット上に公開することもできる。そこで何かを作るのは息をするのと同じくらい、自然なことにも感じられるようになっていた。
インターネットは奥深く、知れば知るほど世界が広がっていく。実際、自分が学び尽くすより速く技術の世界は進歩して、テレビや雑誌を見ていても、社会に与える影響が大きくなりつつあると肌で感じられるほどだった。
初めて知った時よりも、ますます大きくなる技術の可能性に惹かれている。
だって、インターネットが社会を変えている!
高校に進学しても生活はあまり変わらなかった。中高一貫の学校だったから、受験勉強もしていない。学校のあと塾に行く。家ではパソコン、ゲーム。相変わらずの毎日だ。
でも、一つだけ新しく増えた習慣がある。
だだっ広いフロアに足を踏み入れる。大きめの音量で流れる音楽が、天井に、床に、並んだCDラックに反響している。ちょうどサビの部分にさしかかり、曲は最高潮の盛り上がりを見せていた。最近流行っているJ-POPだ。
ジャンルごとに並べられたCDは、新譜から名盤まで膨大な数がある。見知ったJ-POPの棚に目を通す。見上げると、発売されたばかりの新譜があったので思わず手に取った。最近よく目にする名前だったから、気になっていた。
いくつか目についたものを視聴コーナーに持っていき、大きなヘッドフォンを耳にあてる。
流れ出すイントロに、当たりの予感がした。自分が好きな感覚だ。思わず小さくリズムを取っている。数えきれないほどある音楽のなか、ときどき強く心に訴えかけてくるようなものがある。そんなCDを見つけた瞬間は、毎回新しい世界との出会いのようで嬉しくなった。
放課後、何かのきっかけでCD屋に立ち寄って以来、そこでお気に入りの音楽を「探す喜び」を知ったのだ。渋谷のタワーレコードやHMV、TSUTAYAに足しげく通いつめるようになっていた。
数週間、数か月と通っていると、店頭の目立つ場所に並ぶアルバムやアーティストの顔ぶれを覚えてくる。
それとともに、音楽のトレンドが少しずつ移り変わっていくのもなんとなく分かるようになってくる。わずかな知名度しかなかったアーティストも、何かのきっかけで大ブレイクする姿を、棚のひしめき方で見ることができた。そうしていつか、一つの時代を創りあげたと評価されるほどのアーティストになるのかもしれない。
多くの人が熱狂するような音楽を作りだし、歴史に名を残したアーティストたち。音楽の世界にも、人と社会のダイナミズムのようなものがあるのだと思った。
気になりだしてインターネットで調べてみると、今日まで繋がる歴史の変遷があることを知った。最先端だと思っていた音楽も、いつかの年代の流行のリバイバルであったりするらしい。面白い、そんな世界を初めて知った。
はじめはJ-POPから映画やドラマ音楽のサントラなどを聞いていたが、少しずつ知らないジャンルにも手を伸ばしはじめた。視聴コーナーに何枚もCDを持ち込んで、良い音楽はないかと探すようになっていた。
その日、手に取ったのも、全く知らないアーティストのアルバムだった。
再生を始めて数秒、不思議な浮遊感に意識を持っていかれた。4つ打ちのリズムが疾走し、やがて反復する電子音がメロディーを奏でる。思わず体が乗っている。いくつもの音が重なっては消えていく。鮮烈で、やみつきになりそうだった。
「テクノ音楽」。ジャケットの説明を読むと、どうやらダンス・ミュージックの部類に入るものであるらしかった。海外のクラブシーンにルーツを持つという音楽は、たしかに日本人が元々持つ感覚とは少し違うものがあるのかもしれない。
ピコピコと鳴る電子音が、なんだか耳に心地よくて気に入った。もっと聴いてみたい。テクノ、ハウス、ゴアトランス……。いろいろあるようだったが、定番と銘打たれたものからまとめてTSUTAYAで借りてみることにした。
ただただ楽しい気分にさせられる曲もあれば、陰鬱なムードをたたえた曲もある。音楽ごとの世界観も幅広い。歌詞もないのに、曲の魅力が感じられる。繰り返し聴いていて分かったのは、このテクノ音楽はとてつもなく可能性を秘めていて、面白いということだった。
1990年代後半は、日本でもテクノ音楽やトランス音楽のブームが始まっていて、「石野卓球(電気グルーヴ)」などのアーティストが注目されていたころだった。
流行はすでに始まっていた。そして、その波に自分も乗ってみたいと思った。その音楽は耳だけでなく、ただひたすらに体全体で楽しむことができるものだったから。
テクノ音楽がもたらす高揚感に乗っているうちに、気づけば高校生活も半ばを過ぎていた。
西暦2000年を迎えた世界では、ITバブルが崩壊したことがもっぱら話題となっていた。楽天やソフトバンク、ライブドア。ニュースを見ると、名の知れた企業の株価が急落したとかしないとか、盛んに報じられているようだった。
一人のインターネットユーザーとして社会を見るならば、あまり変化は感じていない。ようやくISDN回線が普及しはじめたくらいで、いまだインターネットは電話線の先に繋がれたものだった。
当時の世の中の大半の人が思い浮かべるネットのイメージは、「Yahoo! JAPAN」のようなポータルサイトにとどまっていただろう。表に見えるそうしたわずかな光の部分以外、裏には底知れない世界がうごめいていることを知る人は少なかった。
大学受験が近づき、インターネットとテクノ音楽があれば楽しい。そんな日々も、終わりを迎えつつあった。自由な校風の高校での過ごしかたも少しずつ変わりはじめていた。
何せ同級生のほとんどが東京大学を志望している。医学部や京大を目指したり、何かしらの事情がある人を除いたほぼ全員が、基本的には同じ未来を向いている。足並みそろえた受験生活の始まりだった。
しぶしぶ勉強に手をつけるものの、志望大学のようなものが特にあったわけではない。文系を選んでいたが、なかでも自分がどんな学部に興味があるのかはよく分かっていなかった(そんなこと、これまで考えてもいなかった)。
勉強中、ふいに集中が切れたので、学校から配られた受験用の冊子を開いてみる。先輩たちの合格体験記が綴られていた。碌に目も通さずパラパラとめくった。やはり圧倒的に東大が多い。たまに早稲田や慶應の名前があると珍しくて目についた。
「慶應義塾大学総合政策学部/環境情報学部」。聞いたことがあったなと、それを見てふと思い出す。湘南藤沢キャンパスにあり、通称SFCと呼ばれていたはずだった。日本のインターネットの礎を築いた人物として有名な、あの村井純*氏も教えている。(*1984年、村井氏が東京工業大学と慶應義塾大学間で個人的なデータを移動させるため、双方の大学に許可なくネットワーク接続させたことが、日本のインターネットの起源となっている。のちに「JUNET」として、学術組織を結ぶ研究用のコンピュータネットワークとして発展した)
調べてみると、やはりコンピュータやプログラミング関連の講義も充実しているようだった。なんとなく面白いんだろうなという気がする。
でも、学校も親も「まずは東大」と想定しているだろうことは予想がつく。あえてそれに逆らうほど、自分は将来何かやりたいものがあるわけでもなかった。今、目の前で楽しめていれば、それでいい。
そうだ。好きな世界はあるけれど、それが一体将来の何に繋がるんだろう?
全国模試で書かされる第一志望には、ひとまず東京大学と書いておくことにした。あとの欄には私立で経済系の学部をいくつか埋めておく。選んだ基準は、ただなんとなく消去法のようなものだった気がする。
学校を卒業した先の未来、社会や会社とのかかわりなんて想像も及ばない。とりあえず大人の言う通り、東大にしておけば間違いないだろう。進学も就職も、どこか自分とは遠い場所で起こる出来事であるようだった。
3月、貼り出された数字の中に、自分の受験番号は見つからなかった。
不合格。落胆したが、どこかで予感もしていた気がする。中途半端な気持ちで勉強していたのは、自分が一番感じていたところだった。
浪人確定。でも、幸か不幸か、同級生は東大志望率が高いだけでなく、伝統的に浪人率も高い。3、4年浪人して東大へ行った人の話も聞いていたこともあったから、次に進めばいいだけという感覚だ。
気持ちを切り替えて、もう1年つづく勉強に備えることにした。
浪人生活はいたって規則的なリズムで過ごした。
人通りもまばらな渋谷の早朝。いつものカフェに行き、決まってブレンドコーヒーを注文して席につく。カバンから参考書やノートを取り出して、目の前に積み上げる。それから分厚いディスク収納ケース。借りてきた音楽を焼いた自作のCD-ROMが詰まっている。曲順もこだわり、自分だけのお気に入りアルバムを、何枚も作ってあった。
ポータブルCDプレーヤーに今日の一枚をセットして、再生ボタンを押す。
イヤホンから耳に音楽が流れ込んでくる。目をつむる。世界が音楽だけになる。そうしていると、さらに曲の心地よさが感じられるようだった。
もはや勉強よりも、音楽を聴くことの方がメインになっていたかもしれない。店が閉まる夜の22時ごろまで、そうして一日中カフェの机に向かう。定期的にTSUTAYAでCDを借りてきて、自作のCD-ROMコレクションを作る。そんな日々を1年続けた。
とにかく音楽を聴いたり探したりしているのが楽しかった。しっかり勉強に集中できていたのかは、正直怪しいところだ。
2年目も第一志望は東大だったが、早稲田と慶應の学部もいくつか受けていた。合否が出そろったとき、選択肢の中から、改めて自分一番行きたい進路はどこかと考えた。
心に浮かんだのは、慶應SFC。日本のインターネット発祥の地。やはり、ここだろうなと思えた。
よくよく考えてみれば、自分の好きな世界をもっと深められる場所と言ったら、ここ以上に打ってつけの場所はない。もはやインターネットは、高校以前の勉強よりも親しみを感じるものになっていた。
慶應SFCには、インターネットと先端技術の世界が待っている。
心から好きな世界に浸っていられる。何より望む環境がそこにあるはずだった。
高校生のころ、父と
緑に覆われた広大なキャンパスに、浮かび上がる白いコンクリート打ちっぱなしの建物。小田急江ノ島線の湘南台駅からバスで20分ほど行くと、近未来の研究施設のようなキャンパスにたどり着く。
陽光差し込むガラス窓越しの教室では、ノートを広げる生徒はいない。一人ひとりが自分のパソコンを開き、事前に配布された資料を画面に映しながら、講義に耳を傾けている。カタカタと鳴るキーボードの音が空間に反響し、波打っていた。
手元のパソコンの液晶を見つめる自分は、教授の目を盗んで、さっきから個人的な調べものに熱中している。
「アナログターンテーブル おすすめ」。検索窓に打ち込むと、あふれるほどの情報がヒットする。知りたいことがあればいつもそうしているように、目を皿のようにしてページをチェックしていった。
大学1年のころ、聴いていた音楽の影響でDJや曲作りに興味が向いていた。自分もあんな風に、人を熱狂の渦に巻き込むような音楽を作ってみたくなったのだ。
どうやら機材をそろえ、レコードを買って来ればできそうだと分かった。最初は多少値が張るが、アルバイトでお金を貯めればなんとかなりそうだ。購入ページをブックマークして保存しておいた。
ようやく目線を上げる。朗らかに。授業は全く聞いていなかった。前に立つ教授の姿を視界に収めると、自然とその姿に、DJとして活躍する想像上の自分を重ねている。
まずは、アルバイト探しかな。DJになるための計画を具体的に考えはじめた。幸いSFCでは必修が少ない。自由に時間割を組むことができるから、自分の時間を作りやすかった。
授業はそっちのけで、今後への期待に胸をふくらませていた。
迸る興味に従った結果、新しい世界が見えてきた。
辺りがしっとりとした夕暮れに包まれるころ、今日の収穫とともに帰宅した。渋谷のレコード屋を回って買い込んだ選りすぐりの音源を抱えていた。一日歩き回った足元は、疲労で少しふらついている。
部屋の床に散らばるコードの合間を歩き、いつもの自分の定位置にやっと腰を落ち着けた。壁際には音楽関係の機材が積み上げてある。DJや曲作り自体は最低限の機材さえあればできるのに、始めるうちにあれこれ試したくなっていて、気づいたときにはこの有り様だった。知らない人が見れば、何に使うのかも分からないであろう機材が山とある。
買ったばかりの黒い円盤を、袋から慎重に取り出す。一瞬それは、窓から差し込む夕日を受けてきらりと輝いた。恭しくターンテーブルにセットすると、目をつむって視界を閉ざし、聴覚に意識を集中させた。
偶然見つけた曲だった。やっぱりいい。空気を震わせる音楽にしばらく浸っていた。
雑然と並んだアナログレコードの中から、欲しかった一枚を見つけ出したとき。あの代えがたい感動。流れ出すサウンドからあふれ出す心満たされる感覚。内なる衝動や感情を曲に落とし込み、昇華できたような体験。当時はそういったもの全てに酔いしれていた。
曲を作れば作るほど、その奥深さも見えてきた。全く同じ曲でも、ミキシングやマスタリング*次第で、音の感じ方はがらりと変わる。(*ミキシングは、複数のトラック間のバランスを調整し、一つの曲にしていく作業のこと。マスタリングは、ミキシング後の曲の聞こえ方を最終調整すること)
クラシックの時代からメロディーやハーモニーなど音韻に関する理論は確立されているが、ドレミファソラシドで表せないリズムや音そのものの部分については体系的に説明するのが難しい。
ジャズ、ヒップホップ、R&Bなどの黒人音楽やそれに大きく影響を受けたテクノやハウスは、リズムがより重視され、全体としての乗れる感覚、リズムの心地よさはグルーブ感とも言われる。ドラムの打ち方についてはある程度は理論として説明可能なものの、全体のグルーブ感を説明するのは難しい。なにしろ同じ曲でもミキシング・マスタリングの腕次第でグルーブ感が全く変わってしまうのだ。
もちろん基礎的な音楽理論も大切だ。もっと以前から学んでおけばよかったと思うこともあった。それでも生みの苦しみを乗り越えた先、思いもしなかった魅力を秘めた音楽が作れることがある。あるいは自分では大して評価していなかった曲が、意外にも人に喜ばれることも。発見するたびに可能性は広がっていた。
絶対的な尺度もなければ、終着点もない。けれど、たしかにこの世には良い音楽というものが存在する。人々を熱狂させ、記憶に残りつづける音楽。それを操るDJとして、高みを目指してみたかった。
DJと言えばクラブミュージック。そう、クラブだ。そこに行って自分の音楽をプレイしてみたいと思った。
最初は始め方が分からなかったので、やはりインターネットで調べる。掲示板に募集を見つけた時、心が跳ねた。「初心者歓迎」。これだ。これに応募すればDJになれる。数秒のあと、結論はすぐに出た。応募するしかない。
「DJ ISSAY」。名前は本名からそのまま取った。
想像上のイメージが、現実となる時が来た。
重低音が地面から体に響く。集まった人の波が揺れる。めまぐるしく動き、色を変えるライトの光を背後から、頭上から、横からも感じている。
人工的な音が洪水のように場を満たし、熱気を全身に浴びる感覚。初めてのパフォーマンスは、無我夢中で過ぎていた。
気づけば、明け方の薄ぼんやりとした渋谷に立っていた。興奮冷めやらぬ自分に吹く風は、やけにひんやりとして気持ちよかった。
きちんとできたのか。分からない。一つだけ確かなことがある。もっとこの世界に浸りたい。夢の中、脳の一部分だけ覚醒させたみたいに、それだけははっきりと頭にあった。
DJとして高みを目指すには、何より場数を踏んで技術を磨く必要がある。それには少しでも名前を売って、多くのパーティに呼んでもらうしかない。コネクションを作り、そこから別のクラブのパーティに呼んでもらうきっかけにした。
ネットで仕入れた情報によれば、DJ同士の交流もある。一度自分のイベントに来てもらった人のイベントには、こちらからも顔を出す。そういう礼儀の部分も大切だった。地道に人脈を広げ、営業する。高校までは交友関係の広い方ではなかったが、DJとしてやっていくには、どれも不可欠なことだと思い必死にやった。
Club AsiaやAIR、Yellow、Womb、Ageha。少しずつ大きなフロアに立てるようになっていく。夜はあらゆるクラブに出掛けて行って、昼はバイトの時間以外、ほとんどDJとしての練習や曲作り。浸るように、日々を過ごした。
何より優先させたい世界がここにある。自分は音楽が好きだ。
精神を集中させるほど、新たな音楽の世界が見えてくる。
持ち時間もあとわずか。次に繋ぐ曲をヘッドフォンで聞きながら、手元の機材のつまみとボタンを操作していった。迷いなく手は動く。DJとして活動を始めてから、2年以上が過ぎていた。
卒業後も、これを仕事にしていければという情熱も今は持っている。しかし同時に、現実はそう上手くいくものではないことも分かっていた。有名クラブのメインフロアを沸かせるような人気のDJも、なんとかアルバイトで食いつなぎながら身を立てている。そんな姿を目の当たりにするたびに、自分の立ち位置を自覚させられるようではっとする。表の華やかさとは裏腹に、見えないところに想像し得ない厳しさは潜んでいる。
疲れて明け方帰宅して、眠りにつこうとしたその時、翌日はバイトのシフトが入っていたことを思い出す。
当時はずっと、家庭教師のオンライン版のようなアルバイトをしていた。Webカメラ越しに生徒と向きあい、30分ほどの授業中、質問に答えたり課題を出したりするというものだった。
すっかり太陽が昇ったころに起きだして、寝ぼけた頭で習慣的にスーツを着込む。遠隔授業なのに、なぜかスーツを着なければならないルールがあった。電車に乗って、教室のある目白まで向かう。遠隔授業なのに、教室に出向かなければならないというアナログさ。どうせならアバターでいいのにと首をかしげることもあるが、なんとなく長く続けていたアルバイトだ。
大学生活にも決まったリズムができてきた。しかし、そこに大学は登場しない。正直あまり大学には行けていなかった。
理由は明確だ。何せ遠かった。湘南藤沢キャンパス。神奈川県のなかでも山や海に囲まれるエリアだ。最寄り駅には3本の路線が通っているが、そのうち2本では終点の駅になっている。できれば行きたかったけれど、クラブやレコード屋、バイト先もみんな都心にあるのに対し、大学だけが自分の主たる生活圏を大きく外れていた。
望んで入学したはずだったのにと罪悪感も覚える。が、仕方ない。それ以上に打ち込みたいものを見つけてしまったのだ。
それでいい。人生を捧げるほどの情熱がなければ、成しえないことがある。
仲間のDJだって、みんな必死にやっている。
……でも、一体いつまでやれば辿り着けるんだろう?
ふとしたときに、不安が押し寄せる。目を背けていたものが頭を支配する。作れば作るほど、自分の実力のなさを痛感する機会は多くなっていた。
儲からないと分かっていても、険しい道のりだと知っていても、人生全てをかけてきた先人たちが創り上げてきた音楽の世界。それぞれが積み上げた努力の結晶が、その人の世界観となり、一つの音楽としてこの世に生み出される。
優れた音楽と出会ったとき、以前の自分なら、ただ純粋に心躍らせてきた。でも、今では少し違う。いい音楽にちょっとした口惜しさも覚えている。
トップの中のトップに上り詰め、初めてDJだけで食べていけるような世界。どれほど自分が本気で向き合っても、一向にたどり着ける気がしない。焦りは膨らむばかりだった。
「DJって気軽に始められるし、当時でもターンテーブル2台そろえて、レコード買いさえすればできたんです。最近ならPC1台あればできるし。だからこそ、プロとアマチュアの実力の差がすごく離れてはいるんですよね。最初の方って、アマチュアの人はそこに気づかない。自分でもできると思っちゃうので、気づくまでに逆に時間がかかるというか。でも、本当は素人が気づかないところに、あらゆる意味でものすごい差がある」
プロとアマの差は、ちょっとじゃ分かりにくい歴然としたものがある。DJも曲作りも、数年やってきた今だからこそ、分かったことだった。
さらに、2005年くらいから、DJ業界も大きく変わりつつあった。
「Beatport(ビートポート)」というWebサイトが誕生し、わざわざレコードを買いそろえなくても、手軽に音源をダウンロードできるようになっていた。今ではすっかりメジャーなサービスとして成長し、根付いている。自分も試してみたものの、何かが違う感覚だった。店に足を運び、気に入ったレコードを探しだす喜びを求めていた自分には、しっくり来なかった。
レコード屋に向けようとしていた足が止まる。なぜだか心の底から沸き上がっていたものが、枯れてしまったことに気がついた。いつも頭の中に浮かんでは流れていた曲のアイディアが、今や聞こえない。仕方なく、そのまま引き返す。情熱は次第に冷めて、最後は手放すしかなくなっていた。
この世界で、本気の人と肩を並べてやっていくのは簡単じゃない。それでもやりたいと切望する人だけが、たどり着ける場所がある。
はるかな高みにあるその場所へ、半端な思いで上れるわけがない。気づかないふりをすることを、辞めた。
久しぶりに湘南方面へと向かう電車に乗った。駅から駅へ、揺られる電車のリズムは変わっていない。終点に到着することを告げるアナウンス。ゆっくりと電車が止まり、開いたドアから踏み出した。
音楽活動以外にも、もう一つ向き合わなければならない現実があった。
大学の単位だ。今、何より自分に必要なものだった。いくら興味関心に従い没頭することが奨励されているSFCといえども、さすがにやり過ぎたかもしれない。気づいたときには留年が確定していた。卒業できないのはまずいと、慌てていくつも授業の履修を申し込んでいた。
大学生活も後半に差し掛かっている。好きな音楽やアーティストの動向は追いかけつつも、DJとしての活動は少しずつ減らしていた。いくらか真面目に大学に通い、集中的に単位を取るつもりだった。あの緑のキャンパスに戻る時が来た。雨が降ると近くの牧場の臭いが立ち込める、あの自然豊かなキャンパス。
久しぶりに会う友達と、並んで授業を受ける。自分はやはり、インターネットやソフトウェア、Web、プログラミングなどに興味があったから、それらの領域を中心に学べるように時間割を組んでいた。
「GREEやってる?」
授業が終わった後、友達に聞かれた。
存在は知っていた。2004年くらいからサービスが開始されていた、ガラケーでは世界初のSNSだ。日記やチャットでユーザー同士が交流したり、着せ替えを楽しめるアバターなどのコンテンツが用意されていた。同時期にmixiというサービスも登場している。音楽活動に打ち込んでいたころに始めたものの、いまいち面白さが分からずにアカウントを眠らせていた。
インターネット発祥の学部であるからか、やはり大学は情報感度の高い人が多い。キャンパスにいる時間、次第にSNSの話題が上ることが増えつつあるという肌感があった。
しかし、そんなソーシャル系サービスの流行は、常に進化しつづけるインターネットの地殻変動と、それによって生じる大波に比べれば、全体の中のほんの一部を示す事象に過ぎなかったのだ。
「Web2.0」
2005年9月、世界で初めてそれを一つの概念として提唱したのは、米国IT関連の出版社、オライリーメディアの創立者ティム・オライリー氏だった。
ほんの10年ほど前のインターネットは、限られた情報の発信者が作成・整理したホームページを、受信者が一方的に見る。ただそれだけだった。今では誰もが情報の発信者になることができる。SNSや動画共有サイト、カスタマーレビュー、Google検索。双方向の情報のやり取りを実現していく流れが確立されつつあった。
日々インターネットと向き合っていれば、嫌でも実感する。そして今、自分がその波に乗り切れていないことは事実だった。
ピピンアットマークでの原初のインターネット体験に始まり、3DCGゲーム、テクノ音楽。考えてみれば、これまでは常に先端技術の可能性の広がりを、肌で感じられる場所に立っていた。ただ純粋に好奇心に従っていただけだが、結果的にそうなっている。
なぜ、今、SNSをはじめとする新しいブームが起こっているのだろう。
本屋のITコーナーを眺めていても、平積みされた書籍のあちこちに、「Web2.0」という文字がある。社会がまた変わる。もしかしたら、その大きな節目があるのかもしれない。
久しぶりに大学に来るだけで、こんなにも感じられる。だったら、もっとはっきりその流れが見える場所に行こう。改めてそう思った。そして、この目で見届けたい。技術が進化し、社会が大きく動いてくさまを。
大学でも面白いことがしたいという思いは、ずっと持っていた。SFCには、そのための環境は十分に整っている。
最小限の必修科目。自由度の高いカリキュラム。いくつものジャンルを横断する研究室。文系理系の垣根もなければ、既存の学問の枠にもとらわれる必要もない。
1、2年生のときに所属した村井純研究室は、まさにそうだった。研究領域は「インターネット」。関わるものであれば、なんでもできる。所属する学生は50人以上。なかにいくつもの研究グループが分かれていて、そのうちの一つを選ぶことになる。自分はプログラミングができるところを探していて、斉藤賢爾(さいとうけんじ)講師のグループを選んだ。2003年当時から仮想通貨やブロックチェーンを専門に研究していた方だった。
斎藤氏が考案する複雑な技術についていくのは難しくも面白かったが、DJ活動が忙しくなってからは、すっかり顔を出せなくなってしまっていた。
3年になり大学に戻ったころ、今さら戻るのも気まずく感じた自分は、別の研究室に入ることにした。
広範囲な領域をカバーする研究室が多いのに対し、ソフトウェアやプログラミングに特化していそうなところは意外と少なかったので、選択に時間はかからなかった。
萩野達也・服部隆志研究室。現代社会のかかえるあらゆる課題をITで解決すべく、ソフトウェアシステムについて研究を行っている場所だった。
研究活動は面白かった。そこは、Webで使用される各種技術の標準化を目指す非営利団体「World Wide Web Consortium (通称W3C)*」と距離が近く、W3C関連の技術を使った研究に取り組んでいた。(*1994年、ロバート・カイリューとともにWorld Wide Web〔WWW〕を考案し、「ウェブの父」とも呼ばれる英国の計算機科学者、ティム・バーナーズ=リーによって創設された団体)
インターネット創始の雰囲気を肌で感じながら、技術の最先端を追いかける。面白そうな技術があれば、触ったり動かしたりしてみないと気が済まない。研究室に入り浸り、夢中でキーボードを叩いた。
大学生のころ
最初はプログラミングの実力もそこまでなかったが、次第に慣れてくると、自分の作りたいものを作ってみたいという欲求が大きくなっていた。
Web2.0という社会の波に乗り、自分も何かサービスを作りたい。作るとしたら、どんなサービスがいいだろう。二番煎じではつまらない。どうせなら、まだ世にないものを生み出してみたかった。
MyspaceやWikipedia、ブログ。国内外で新しくサービスとして登場していたものを、順番に洗い出していく。それまでホームページと言えば、「index.html」などのファイルにHTMLを打ち込んでいくやり方しかなかったが、今はブログやSNSのように直接Web上で文章を入力し、気軽に発信できるものが増えていた。
Web上に残した文章は、インターネットにアクセスしさえすれば、どこにいても見返すことができるようになる。紙と違って整理や検索も簡単になるから便利だ。なんならブログをメモ帳代わりに使っている人もいた。
そうだ、メモだ。調べてみると、まだメモ系のサービスは作られていないようだった。
ニーズはあるはずだ。というか、自分が使いたい。インターネットであれこれ調べながら、構想を練ってみる。いつでもどこでもメモして取り出せる。今でいうEvernoteに近いものだった。それをプロダクトとして作ってみることにした。
調べて作り、動かす。動かない。原因を調べて、また試す。今度は別のエラーが明らかになる。無限にも続いていきそうな作業に没頭していると、時間という感覚がなくなる。でも、全く嫌じゃない。むしろその過程にこそ、自分の求めているものがあるんじゃないかという気がしていた。
技術を使い、自分で何かを作る。ただそれだけのことが、こんなにも面白い。音楽活動のときと同様に、寝食を忘れて向かうほど、生活の大部分を占めるようになっていった。
このままエンジニアを仕事として生きていくだろう。漠然と考えていた。いざ就職活動の時期になった時、一番に頭に浮かんだのは昔からよく知るヤフーだった。黎明期のアングラなインターネット世界で、唯一の光だった場所。迷うことなくエントリーし、幸いにも内定を得た。
卒業までの期間、そのまま研究室内で開発を続けることもできたが、ふとある制度のことを思い出した。
「未踏ソフトウェア創造事業(現 未踏IT人材発掘・育成事業)*」。エンジニアであれば、一度は名前を聞いたことがある。(*https://www.ipa.go.jp/jinzai/mitou/portal_index.html)
経済産業省とIPA(独立行政法人 情報処理推進機構)が主催している。ITを駆使してイノベーションを創出できる独創的なアイディアと技術、能力をもつ若い人材を発掘・育成することを目的に、2000年より開始されていた事業である。
応募テーマが採択されれば、専門知識をもつプロジェクトマネージャー(PM)の支援を受けながら、補助金をもらい、実用化に向けた開発を進めることができる。何より自分が作りたいものを提案し、自分で作ることができるのだ。
今、作っているものの可能性をもっと広げることができるかもしれない。面白そうだ。受けてみない手はない。挑戦してみたい。
ちょうど開発を始めていたメモのサービスがある。それを提案書に落とし込み、応募した。
数日後、結果を知らせるメールが届いた。早く見たいけれど怖くもある。息をのんで開封すると、「採択」という単語が目に飛び込んできた。詳細を読む。どうやら現実だった。あとから考えると、ある程度プロダクトを作った状態で持っていったことが大きかったようだった。
未踏の開発期間はおよそ9か月。その間、北海道と京都で開催される合宿がある。中間発表を経て、最後は成果報告会で全体に向けて発表する機会がやってくる。自分はインタラクション系の研究者である河野恭之PMのもとについていた(合宿は美馬義亮PMのグループと合同だった)。
合宿には、その年に採択されたクリエータだけでなく、歴代のOBも参加してくれる。各分野で先端をいく研究者や技術者たちと交流し、自分のテーマに対し、貴重な生の声をもらうことができるのだ。
電子音楽アーティストの渋谷慶一郎氏、IoTデバイスの先駆者でありIAMAS(情報科学芸術大学院大学)教授を務める小林茂氏、Live2Dというイラストを動かす技術の会社経営者である中城哲也氏、ユーザインターフェイス研究者の渡邊恵太氏。名前を挙げればきりがない。ほかにも、まだ名の知られていない凄腕のエンジニアたちもいる。
研究自体も未知のジャンルやキャッチーなものが多く、自分以外の発表を聞いているだけでも面白かった。
そのなかで、自分は何を作るのか。それによりどんな社会の問題を解決するのか。交わす議論は、常に新しい技術への野心に満ちている。思いもしなかった角度からの指摘を受けたり、既存のやり方にとらわれない独創的な発想を聞くたびに、脳に電流が走ったような衝撃を受ける。
これが技術の最先端か。
想像以上だった。間近で触れられたことによる刺激は計り知れなかった。
未踏で時間を過ごすほどに実感が湧いてくる。インターネットを介して繋がる人、技術、未来。どうやらパソコン越しに、とんでもなく大きな世界が口を開けて待っている。
技術で社会を動かす担い手になる。その可能性を示してくれているようだった。
社会人1年目、ハワイにて
2008年、ヤフーに入社した。
同期も先輩も、話してみると衝撃を受けた。自分と同じ、あるいはそれ以上のインターネット好きがほとんどを占めている。一日何十回とつぶやきを投稿するTwitter廃人のような人が多くいて、そんな人たちと普通に机を並べて仕事しているというのは、なんだか嬉しく不思議な感覚でもあった。
今までの人生、ほとんど出会えなかった人たちだ。会話の内容が全然違う。話しているうちに、つい盛り上がり、お互い饒舌に語り合っていたりする。さすがだ。そこまで深く考えて会社を選んだわけではなかったが、結果的には良い選択だったと嬉しくなった。
ちょうどそのころ社会でも、新しい技術の登場が世間を騒然とさせていた。iPhoneだ。自分も、発売されたばかりのiPhone 3Gを買った。
ガラケーと比べると、操作感はまるで違う。用意されているのは、タッチスクリーンとホームボタンだけ。タップ、スワイプ、フリック入力。Appleは電話を再発明したのだとスティーブ・ジョブズは熱弁する。日本ではまだ奇異の目で見られているデバイスだが、ここに新しいインターネットの可能性が詰まっていることは確信できた。
「マップ」というアプリを開き、試しに目的地に会社名を入れてみる。即座に示される道順と所要時間。2本の指を使えば、地図は拡大縮小も自在だ。こんなデバイスを持ち運ぶ時代が来るなんて、一体誰が想像できただろう。
メールにカレンダー、AppStore。アプリも自分で作ってみたかった。
ふと、近々会社で歓迎会の予定があったことを思い出す。新入社員は一人ずつ余興を用意しなければならないことになっていた。ちょうどいいタイミングだ。これなら作りたいものを作れるからと、早速実行に移すことにした。
考えたアプリ名は「Kamehameha」。iPhoneを両手におさめ、「かめはめ波!」と叫びながら、思いっきり横に突き出す。そうすれば、漫画『ドラゴンボール』に登場する「かめはめ波」を誰でも撃てる(実際には、画面に表示された「気」が、おなじみの効果音とともに発射される)。簡単なものだが、夢は詰め込んである。開発期間は2、3日だった。
当日。みんなの前で披露した「かめはめ波」は、無事十分な笑いを取った。初めてにしては面白いものを作ることができて満足していると、異変は数日後に起こった。
おかしい。アプリのランキングだ。個人でAppStoreに公開していた「Kamehameha」が「1位」と出ている。目を疑った。
調べると、どうやら一部のネットで話題になって、ブログやニュースサイトで取り上げられているようだった。予想もしていなかった。
日に何度も順位をチェックする。変わらず「1位」だ。夢じゃない、これは現実なのだ。結局、「Kamehameha」は1、2週間ランキングの1位の座を独占しつづけた。
多くの人がアプリをダウンロードし、楽しんでくれている。SNSにも、次々とユーザーの反応が上がっていた。信じられない思いでそれを見た。
自分が作ったものが、意図せず世の中を動かした。数字は、実感を伴い教えてくれた。自分の技術で、社会は動かせるのだ。
アプリはメディアでも取り上げられた
http://www.appbank.net/2011/06/28/iphone-application/270364.php
新卒時ヤフーでの配属部署は、地図検索に関わるチームだった。2008年当時は、分散処理技術である「Hadoop(ハドゥープ)*」が登場してきたころであり、米国ヤフーが技術を持っていた。自分はそれを使って面白いことができないかと考えて、上司にあれこれ提案しつつ先端技術を取り入れながらの仕事を進めていた。(*大規模データの蓄積・分析を分散処理技術によって実現するオープンソースのミドルウェア。Google社が論文として公開した。https://oss.nttdata.com/hadoop/hadoop.htmlより)
通常業務のほかにも、社内にはエンジニアが楽しめるイベントがある。「Hack Day(ハックデー)」と呼ばれるものだ(2013年からは、社内版とともに公開版も開催されている)。
Hack Dayは世界各国のヤフーで開催されているハッカソンであり、24時間で作品を仕上げて発表する。日ごろ培った技術に、エンジニアの自由なアイディアとチャレンジを掛け合わせると、思わず審査員をうならせる斬新な作品やサービスが生まれてくる。まさに作る楽しさがそこにある。
2009年の大会で、自分は「翻訳ルーペ」というiPhoneアプリを作った。
iPhoneのカメラで英語を撮影するとOCRで認識し、画像をテキストに起こす。それを翻訳、検索、メモできるようにした。日常生活で意味の分からない英単語に出くわしたとき、携帯やパソコンでの入力作業を不要にするこのサービスは、現実の文字が直接コンピュータに繋がっているかのような感覚を生み出すというものだった。
結果、この作品で優勝を勝ち取ったことをきっかけの一つに、画像処理技術の面白さにのめり込んでいくこととなる(「翻訳ルーペ」は実験アプリという位置づけで、リリースされた)。
「いわゆるAIや機械学習の中でも、画像処理は面白いことができるなと思いました。画像処理など視覚を扱う分野はコンピュータビジョンと呼ばれます。やはり視覚が人間の感覚の大部分を占めるので、そこが一番応用範囲として広いのではないかなと。2012年にディープラーニングが注目されたきっかけも、画像認識ですし」
ARでエアコンのリモコン操作を可能にするサービス。CDジャケットを認識すると曲名が分かり音楽が聴けるようになるサービス。口の形を認識すると入力キーボードが変化したり、予測入力変換ができるサービス。遠隔会議の参加者が、実際にその場にいるかのような感覚で会議ができるサービス。毎年Hack Dayのたび、画像処理系のネタをいろいろ考えては、作品に落とし込んでいった。
そうした活動を続けていくうち、あるとき社内の画像処理チームの目に留まった。ありがたいことに声をかけてもらったので、本業務のほかにYahoo! JAPAN研究所での研究開発のサポートも兼務することになった。そこではステレオカメラ*を使って奥行きを認識する技術など、コンピュータビジョン系の研究開発に携わる(*異なる方向から複数台並べたカメラの見え方の差を利用して、前方の対象物について、形や大きさ、奥行き距離など立体的に情報を記録するカメラのこと)。
興味を引かれた技術を深め、作りたいものを作ってきた。それが今や仕事とともに技術の幅も広がって、ますます面白いことになってきた。
コンピュータビジョン、機械学習、検索、分散処理。機会に恵まれ、先端技術の可能性に触れられる。毎日は作る喜びに満ちていた。
新しいデバイスやガジェットが登場するたびに、その技術には少なからぬ影響を受けてきた。でも、今度のは間違いなく過去最大だ。
ヘッドセットを装着し、胸を高鳴らせながらゆっくり目を開けた。視界いっぱいに、ありえないほど真っ白な空間が広がっていた。
ちょうど目の前には、「Oculus」という文字がふわふわと浮いている。それからいくつものモニターのような物があり、それぞれ違ったテイストの異世界の様子を見せている。
首を左へ回せば、一緒に視界も左へ回る。右も、上も下も同じだ。完全にバーチャルなもう一つの世界に、正真正銘、自分が存在しているのだ。鳥肌が立った。
2013年ころ、VRヘッドマウントディスプレイ「Oculus Rift」に初めて触れた。
視界全てが取り込まれる臨場感。自由自在に仮想世界を移動し、現実さながらの迫力や恐怖、興奮を体感できる。それは人間にとって、音声や文字、画像、映像に次いで新しい情報の表現手段となるだろうと予感させてくれるものだった。まさに、人間とコンピュータを繋ぐ技術だ。
間違いなく、その世界に自分がいる。技術の進化はここまで来たのかと、興奮が体中を駆け抜けた。
2013年にリリースしたARアプリ「怪人百面相」。
絵画「モナ・リザ」の顔の表情を自分に反映し、リアルタイムで動かしている
やはり人間の感覚にまつわる技術は面白い。会社で続けていた開発でも、相変わらず視覚や画像認識の領域を深めていた。
スマホのインカメラを起動して、顔の表情を画面に映す。何度も繰り返してきたように、喜怒哀楽の感情を込めた顔つきを作っていく。開発中のアプリのデモ画面上、かわいいアニメキャラクターは、自分の表情にリアルタイムで連動して動く。笑い、怒り、そして悲しそうな顔をした。
あらゆる顔に変装できるARアプリ「怪人百面相」をリリースしたのは、VRを体感したのと同じく2013年のことだった。オバマ大統領からモナ・リザ、柴犬まで。変装したいマスクを選ぶと、有名人やキャラクターの顔になった自分がそこにいる。カメラの前で表情や頭を動かすと、変装した自分の顔が同じ動きをする。このアプリは、その年のグッドデザイン賞を受賞した。
それから約2年。自分は新作アプリのリリースに向け奔走していた。
ユーザーの表情を読み取る技術を進化させ、今度はアバターの表情や動きが変化する「なりきろいど」というアプリを開発中だった。直接顔を出さなくても、アバター同士で通話、チャットや動画投稿ができる。感情を表現しあいコミュニケーションが取れるようになる。VTuberの走りに近いものだった。アバターとなるキャラクターのビジュアルには、未踏時代にご縁があった中城哲也氏の協力を得て、「Live2D」というアニメーションを動かす技術を使用した。
ヤフーの事業としてリリースする以上、ただ将来性があり面白い技術というだけでは足りない。収益性や本業とのシナジーなどクリアすべき基準がある。その点、前作は実験アプリという立ち位置を取っていたためにリリースがしやすかった。
だが、今回は違う。直近1年ほどは社内をめぐり、一人で各部署を説得して回ったが、思うような協力は得られずにいた。なんとかリリースまでたどり着いたのもつかの間、そうこうしているうちに、技術の開発競争は世界規模で進んでいたことを知ることになる。
2015年、数秒で消える写真や動画を共有するSNS「Snapchat」がリリースした新機能「レンズ」はまさに、「怪人百面相」に近しい、ARを利用したリアルタイムのフェイスフィルターだった。これが話題となり、世界中でARフェイスエフェクトの流行が巻き起こっていく。同年中には、顔認識カメラアプリ「SNOW」がリリース。2016年に入ると、動画用のフィルターアプリ「MSQRD」を手がけるMasquerade TechnologiesをFacebookが買収した。
世界のIT企業やスタートアップがしのぎを削り、表情認識などの技術を活用した新サービスを続々と世に出している。しかも、しかるべきタイミングに大きく資金を投入し、一気にユーザー数を伸ばしていた。
世界は動いている。加速する技術の波は、予想を超えるスピードで流行や新しい価値観を生み出し、今にも社会を塗り替えようとしていた。
自分も同じような技術を開発し、世界に先駆け3年前にリリースしていたはずなのに、あっという間に後発スタートアップの背中を追いかける形となっている。
どうする。自分に問いかけた。社内にいては、そもそもそんな社会のダイナミズムに参加する権利がないのかもしれない。少なくとも自分が実現しようとしている技術ではそうだった。
会社を作る。少しずつそれが、選択肢として現実味を帯びてきていたときだった。
この分野で先端を行くには、やはりそれしかない。
起業するために、8年務めたヤフーを退社することを決意した。
ヤフーで働いていたころ、浅草にて
これまで研究開発してきた技術やプロダクトを携えて、方々出資を募って回る。起業に向けた情報は、昔から変わらずインターネットを使って調べ尽くし集めた。
インキュベイトファンドの村田祐介氏に出会ったのは、共通の知人の紹介だった。
これまでの自分の実績に触れながら、映像技術やAR/VRの未来について語り合った。自分はこの領域で、世界の先端を行く研究開発に全てを注げるつもりであることも。
「ぜひやりましょう」
返ってきた言葉は、予想を超えて嬉しいものだった。その場で握手を交わす。出資が決まった。起業だ。自分の技術で、社会に打って出る。最初の恐れを乗り越えた先、実感はあとからついてきた。
2016年6月、株式会社EmbodyMe(旧 Paneo株式会社)を創業。
起業当初は、顔写真一枚から自動的にリアルな人の3Dモデルを生成するVRコミュニケーションサービス「EmbodyMe」の開発を進めていた。実際、2017年には、Steam、Oculus Storeでの配信も行った。
かつてMicrosoftがOSでパソコン時代の覇者となったように。また、Googleが検索エンジンでインターネット時代の勝者となったように。EmbodyMeは来るVR時代を制する企業となるべく、アバター(バーチャル世界の人)の技術を中心に据えていた。
事業を進めていくうちに分かってきたこともあった。VRという領域が人の生活に浸透するには、まだ時間が必要であるということ。EmbodyMeの事業には、ヘッドマウントディスプレイなどデバイスの普及という壁が立ちはだかっていた。
しかし、EmbodyMeが目指す技術はヘッドマウントディスプレイだけに限定されるようなものではなく、それをはるかに大きく超えたところにある。
EmbodyMeが目指す、現実の人と区別がつかないようなリアルなアバター、それが誰でも簡単に作れるようになれば、映画やテレビ、広告などの映像制作、ゲームやビデオチャット、SNSなど様々な領域に変革が起こるようになる。
技術開発を進めていく中で、ディープラーニングを使った全く新しい映像生成手法に大きな手応えを感じていた。これを発展させていけば、人はもちろんのこと、場所や物、動物などあらゆるものを、簡単に作り出せるようになるはずだ。
「誰もがAIで目に見えるあらゆるものを自由自在に作り出す世界を実現する」
2018年、ビジョンを刷新。それを、世界のどこよりも早く成し遂げると誓った。新たな技術が登場するたび、人間の歴史が大きく動いてきた。EmbodyMeはまさに、その未来の起爆剤となる。
草木がうっそうと生い茂るジャングルを、一人の少年が駆け抜ける。そこに猛然と襲い掛かる一匹の獣の姿。しかし次の瞬間、猛獣は人間の言葉を発し、何事もなかったかのように少年と会話を始める……。
2016年公開の映画『ジャングル・ブック』のワンシーンだ。
ディズニーがアニメ化したことでも知られるラドヤード・キプリングの名作小説を実写化した本作は、ジャングルの動物に育てられた人間の少年モーグリと動物たちの絆や葛藤、冒険を描いた物語である。
映画としての感情体験もさることながら、何より観客を驚かせたのは、最新鋭の技術によって作られた精緻なCG映像だった。風に揺られてそよぐ緑も、迫力をもって流れる滝も、地平線に沈む夕日も、現実としか思えない映像世界のなか、人間以外のほぼ全てがCGで作られていた。
毛の一本一本までをモデリングし、アニメーションとして動かし、光源を配置する。制作には、CGデザイナーだけでも800名規模の人の手を要したという。さらに、最終工程のレンダリング*に至っては、5万台のパソコンを使って分散処理がなされた。仮にこれを1台のパソコンで処理しようとすれば、4200年もの時間がかかってしまうからだ。(*主に3次元空間の物体を2次元の画像にすること、または合成の作業で完成したものを最終的な映像に出力すること。https://school.dhw.co.jp/word/cg/rendering.htmlより)
まさにディズニー屈指の最新技術と、数百億円規模の予算があってこそ生み出せる映像だ。当然ながら求めるクオリティが高ければ高いほど、制作にはさらに膨大なコストがかかってくる。
EmbodyMeでは、「誰もがAIで目に見えるあらゆるものを自由自在に作り出せる世界」の実現を掲げている。現実と区別がつかないようなリアルな映像を、誰もが簡単にリアルタイムで作れること。それを可能とすべく、ディープラーニングを使った映像生成技術の研究開発を進めている。つまり、未来のEmbodyMeの存在により、800名の人の手と5万台のパソコンがなくとも、『ジャングル・ブック』のような世界が作りたいと思ったその場で現実のものとなる。しかも『ジャングル・ブック』のクオリティをさらに大きく超えた、現実と区別がつかないレベルのCGでだ。
「AI、ディープラーニングによるCG技術は今までの手法とは全てが根本から異なります。今までハイクオリティなCGって作るのがものすごく大変だったんですけど、今のCGを超えるハイクオリティな映像を、誰でも簡単に作れるようになるポテンシャルを秘めています。まだまだ技術としては初期段階で、おもちゃの域を完全に抜け出せていませんが、いわゆるイノベーションのジレンマでいう破壊的技術であり、今後10年の間のどこかで、今までのCG技術が置き換わる瞬間が来るはずです。その際に、技術的中心となる企業になることを、ビジョンとして掲げています」
iOS用アプリ「Xpression」
2018年5月にリリースしたiOS用アプリ「Xpression」は、その第一歩である。
AIを用いて有名人などの顔を乗っ取って、現実さながらのフェイクビデオを簡単に作ることができる。同アプリは、映像中の人物の表情を自由自在に動かせる技術として、「世界まる見え!テレビ」、「バンキシャ」など多数のテレビ番組、米国の芸能メディア「Billboard(ビルボード)」でも取り上げられるなど、国内外で瞬く間に話題となった。
さらに、2020年1月には、音声か文章を用意するだけで、動画の中の人に好きなセリフをしゃべらせて、新しい動画を自動的に作れる技術をリリースした。
最初にリリースした「Xpression」では、スマートフォンのカメラの前で自分の表情を動かす必要があったのに対し、今回の技術ではそれすらも不要となる。
この技術を使えば、たとえば、文章を用意するだけで、大量の異なるバージョンの広告動画を自動的に作ってABテストができたり、アナウンサーがニュースを読み上げる映像を自動的に作って24時間放映できたり、父親からのテキストメッセージを父親の顔で自動的に読み上げるビデオがSNSやスマートスピーカーで届いたりする。
現在は、顔の表情を動かす動画を作成するにとどまるが、今後は頭部全体、全身、そして人以外のあらゆるものを生成するところまで到達することを目標としている。
「とはいえ、研究としては初期段階です。あらゆる映像を作り出す部分がすべて置き換わるような最終的なゴールに到達するためには多くのステップが必要で、順を追ってやっていかないといけないと思っています。まずはそこまでクオリティが求められないエンタメ領域や広告領域を攻めたいと考えており、技術向上につながるデータを集めるという意味でもまずはアプリを作りました。1年、2年という話ではなく、長期的な成功のビジョンから逆算して考えています」
EmbodyMeが目指す技術が実現された未来では、どんな世界が待っているのだろうか。
たとえば、テレビ番組の制作現場では、タレント本人を呼んで撮影する必要がなくなるかもしれない。簡単な編集作業をすれば、ディレクターが好きなセリフを自由にタレントに喋らせることができるし、どのような演技をさせることもできる。亡くなった人や、実在しない絶世の美女に出演してもらうこともできるし、背景となるロケ地まで赴く必要もなくなる。大幅な制作費の削減に繋がるだけでなく、個人のクリエイターが映画のように壮大な映像作品を作ることもできるようになるだろう。
さらに、EmbodyMeの存在によりコミュニケーションの在り方も変わる未来も考えられる。
就職面接の際には、あらかじめ撮っておいたスーツ姿のビデオを使って、寝巻き姿でオンライン面接に臨むことも可能となる。近年注目されているVRでいえば、遠隔地にいる相手とVR空間上でコミュニケーションを取る際に、本人そっくりの立体映像が話しているような体験を実現できるようになる。会議、テレビ、恋愛……対面が必須であったコミュニケーションも、全て同世界で取って代えることができる。
EmbodyMeの技術は、映像、ゲーム、エンタメをはじめとするあらゆる業界を塗り替える。それだけでなく、日常生活に関わるさまざまな分野の基盤となることが期待されている。
未来、技術の進歩が社会を大きく変える。その先鋒に、EmbodyMeは立っている。
2020年1月、EmbodyMeは音声やテキストから動画を生成できる技術をリリース
遊ぶようにつくる喜び。技術と経験を武器に、フラットに競い合う面白さ。エンジニアの祭典ともいわれるソフトウェア開発イベント「ハッカソン」という文化が、日本に根付いて久しい。
毎年数多くのハッカソンが開催され、優れたアイディアやプロダクトが世に生み出されているが、日本では海外と違い、そこからエンジニアの起業に繋がっていくケースは少ない。
日本ではエンジニアの起業がまだまだ少ないことを、課題に感じていると吉田は語る。
「もちろんエンジニア出身で起業している人はいますし、ビジネス側が開発を勉強して成功しているケースもありますけど、日本全体を見ていると、なかなかエンジニアの起業に繋がらないことが課題意識としてはあって。特に、技術で何かしら課題を解決するっていうところだと、より少ないなと思っています」
吉田自身、ヤフーに在籍していた当初は起業を考えていたわけではなかった。たしかに社内でも自分のサービスは作れる。ただ偶然自分が作りたいサービスが社内では立ち行かなくなり、起業を決意することとなった。その結果、想像していたよりも、日本のエンジニアを取り巻く起業環境はずっと恵まれていることを知ったという。
自分の手でプロダクトを作れるということ。それによる投資家受けの良さ。
また、日本の起業家は、スタートアップの本場、米国シリコンバレーに比べると、シード期の資金調達がしやすい。そもそも起業家を志す人が少ないので、競争自体が緩やかである面は大きいのかもしれない。ましてエンジニアであれば、なおのことであろう。
エンジニアであるだけで、そうでない場合よりも起業のハードルは低くなっていると吉田は語る。
さらに、技術的な課題を解決する起業だからこそ、はじめから国内だけでなく世界というフィールドで戦うことができる。
2018年7月、EmbodyMeは、米国NVIDIAのAIスタートアップ支援プログラム「NVIDIA Inception Program」のパートナー企業に認定されたほか、10月にはFacebookによるスタートアップ支援プログラム「FbStart」の「Accelerate」コースに採択。2019年2月には、米国のトップアクセラレータ「Techstars*」に採択され、3か月間ロサンゼルスにオフィス拠点を移し、海外展開を促進してきた。(* Y Combinatorとならぶ米国トップアクセラレータの一つ。採択率は1%以下で、今まで1000社以上のスタートアップを輩出した中でも、日本企業としては過去2社目の採択となった)
海外の起業家と話してみると、根本から発想が違っていることに気づかされることがある。起業を志すにあたり、米国や中国は別にして、そのほかの国では国内需要がほぼゼロに近い。海外のマーケットを目指すしか選択肢はなく、グローバルに展開しやすい領域となると、必然的に技術が絡んでくることになる。だからこそ世界には、技術的な面白いスタートアップがたくさんあった。
対して日本では、ある程度の国内需要がある。慣習も自国独自のものが多く、日本人しか日本語を話さないという言語の壁が、そのまま世界へ戦う日本のスタートアップの参入障壁となっている(国内のみを想定したビジネスではじまる日本と、国外展開をはじめから想定している世界のスタートアップでは、事業展開のハンドリングも異なってくる)。
起業家としても、ドメスティックな課題を解決する発想が生まれやすい土壌が整っているし、海外で成功したビジネスをそのまま日本に持ってきて成功を手にすることもできる。日本の独自文化や言語の壁は、逆に海外企業が日本に参入する際の障壁になるので、それはそれで恵まれているともいえるが、企業価値1000億円を超えるようなユニコーンを目指すなら話は別だ。
国内需要の総量は決まっている。だから、事業を大きく拡大するには必ず頭打ちになるときが来る。その時に企業を成長させるには、事業の周辺領域にサービスを拡大していくしかなくなってくることも現実あるだろう。
技術で勝負するからこそ、エンジニアははじめから世界を見据えた飛躍を目指すスタートアップを作ることができるのだ。
「日本人のコアな技術者ってそもそも起業という選択肢はまったく頭の中にないと思うんです。しかし、一生技術者でやっていくという覚悟が決まっている人ならいいんですが、それ以外の道を考えているなら、起業という魅力的な選択肢があるということを知ってもらいたいです。もちろん大変なことも多いのですが、もし一歩踏み出すのを迷っている人がいたら背中を押したい気持ちはありますね」
起業することで広がる技術の可能性。それはすなわち、社会そのものの可能性を広げることでもある。
日本から、今より多くのエンジニアが起業を志す未来。そこではきっと、さらに加速する技術進化のダイナミズムが社会を塗り替え、誰もが想像し得ない世界へと誘ってくれる。
2020.03.11
文・引田有佳/Focus On編集部
インターネットへの興味は「勉強」なのか?勉強とは興味と切り離されたものなのか。
吉田氏のインターネットへの興味と、技術習得の過程を人生のポイントとともに辿っていくと、こんなにもシンプルに興味(それだけでなく興奮もある)に突き動かされているのかと驚かされる。誰しも人生で「好きなもの」に出会い、探求してきた過去があると思うが、私たちはこれほどまで自分の好きなものを求められただろうか?そして、これから新たにそういった興味の対象に出会ったときに、私たちはここまでそれを求められるだろうか?
人から見れば「勉強」という分類にされることもあろう技術も難なく習得し、その高みを目指すべく探求し、気づけば世界レベルの技術の最前線に立っている吉田氏。それでも、「受験勉強」となると学習・習得の扱いは違っている。
しぶしぶ勉強に手をつけるものの、志望大学のようなものが特にあったわけではない。文系を選んでいたが、なかでも自分がどんな学部に興味があるのかはよく分かっていなかった(そんなこと、これまで考えてもいなかった)。
[1-3. 音楽と勉強と将来 本文より]
誰に言われずとも技術の学習を続けていた吉田氏も、「受験勉強」となれば腰が重かった。結果的に、勉強がはかどることもなかったという。技術に向かう姿勢とは大きく違う。寧ろ、技術の学習は「勉強」という区分として吉田氏自身とらえていない。
技術の学習においては、「何故そうなるのか?」という純粋な興味がはじめにあり、学習によりそれを実現する新たな技術に手にする。その過程で触れる新たな技術があれば、さらに好奇心を刺激されるというサイクルが発生している。
学習とその効果は、興味や好奇心によってその様相が異なっている。どのように付き合えば、私たちは学習の効果を最大化できるのだろうか。こうした視点から、私達が物事へ取り組む際に発生する学習、勉強という行為の効果を整理したい。
上記図からも分かるように、吉田氏の勉強の行為の先にあるものは大学入学であり、大学入学という行為は吉田氏に意味、色付けされた想像をもたらしていない。一方、技術習得においては、その学習の先に見える世界を描き、同時に興奮を与えられている。また、その連鎖は幾重にも重なっていき誰に言われずとも自律的に学習を重ねていく。ひとつクリアすれば、また次を本能的に欲している。
生物は好奇心があることによって情報に対しての欲求を持ち,能動的に環境に働きかけ,自らにとって必要な学習を適切なタイミング,程度で行うことが出来る
―九州工業大学大学院生命体工学研究科 下 尚紀
好奇心により引き出された学習は本能的行為となり、学習に最適化がもたらされる。一方、義務的な行動により好奇心を伴わない学習であれば適切なタイミングや程度を選択するという学習の機能が働かなくなるのだ。
吉田氏は幼い頃からダイナミズムへ夢を描き、その未来に心躍らせている。幼い頃、与えられたものを「こなしていた」という違和感を認めていたからこそ、対比される広い世界のダイナミズムの夢への欲求や興味はより鮮明なものとなっていったのだろう。
だから、私たちは好奇心に従いたい。違和感の正体を認識し、反対に自分の心が惹かれているものはなんであるのか。それを一つ一つ認め、夢を描き、探求してみる。そうすることで、自然体で学習し未来を形にしていく自分がそこにいるようになるのだろう。
好奇心は、私たちの生きる社会を未来に進める原動力なのだと吉田氏は教えてくれる。
未来とは人の好奇心の中にあるのだ。
文・石川翔太/Focus On編集部
※参考
下尚紀(2008)「拡散的好奇心と特殊的好奇心を用いた効率的学習方法に関する研究」,九州工業大学,博士論文,< http://hdl.handle.net/10228/00006831 >(参照2020-3-10).
株式会社EmbodyMe 吉田一星
代表取締役CEO
1983年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学卒業後、ヤフー株式会社に入社。コンピュータビジョン、機械学習、検索、分散処理などの研究開発に関わり、コンピュータビジョン、VR/ARの技術を世界に先駆けてスマートフォンに応用したサービスを複数立ち上げた。2016年に株式会社EmbodyMeを創業。受賞歴に経済産業省のInnovative Technologies採択、未踏ソフトウェア創造事業採択、グッドデザイン賞受賞、Hack Dayで過去3回優勝など。