Focus On
堀江健太郎
株式会社ワンダーラスト  
代表取締役
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or逆境も割り切れない人間の心も、経験した分だけ自分の武器になる。
「働きがい」を科学し、サービス業で働くシフトワーカー(正規・非正規雇用)の潜在能力を解放すべく事業を展開する株式会社HataLuck and Person。同社が開発・提供する店舗サービス業に特化した店舗マネジメントDXツール「はたLuck®︎」は、店舗で働く人の「働きがい」を高め、労働生産性を上げていく。GDPの約6割を占めるサービス産業に従事する人々の仕事体験価値を向上させることで、活気ある業界の未来を実現しようとしている。
代表取締役の染谷剛史は、新卒でリクルートグループへ入社。HR領域の求人広告営業に従事したのち、マーケットプロデュース部門でWEB・モバイル系新商品開発に携わる。2003年からは、株式会社リンクアンドモチベーションにて大手小売・外食・ホテルといったサービス業の採用・組織変革コンサルティングに従事。2012年、同社執行役員への就任を経て、2017年に株式会社HataLuck and Person(旧 ナレッジ・マーチャントワークス株式会社)を設立した。同氏が語る「信念」とは。
目次
日本のサービス業の発展に大きく貢献した手法の一つに「チェーンストア理論」がある。米国で生まれ、1960年代に経営コンサルタントである渥美俊一氏が提唱したことで、国内でも広く知られるようになった。多店舗展開を進めつつ経営活動を本社に集中させることで店舗業務の標準化・効率化を図り、店舗拡大を可能にするという優れた理論であり、その功績は計り知れない。
しかし、昨今の潮流においては時代にそぐわない点が生まれつつあると染谷は語る。
「1970年代、80年代の日本は高度経済成長期で、みんなが金銭的、物質的に豊かになりたいと思っていた。日本人の価値観に大きなベクトルが存在したんですよ。ただ、今ってバラバラじゃないですか。十人十色、百社百様、その中で働きがいとかやりがいも一人ひとり違う。こんなにも働く動機が複雑になってきているなかで、このチェーンストア理論のヒューマンリソースの部分だけは書き換えないといけないということは、自分の信念だったんです」
人は組織の部品ではないし、軍隊的な指揮命令系統で動く組織というものも現代にはそぐわない。なぜなら、働く人の価値観が多様化しているからだ。特に店舗では、正社員として画一的に採用される本社より、年齢も立場もモチベーションもさまざまなアルバイト人材が集まってくる。
だから、店舗の運営はとても難しい。現場で採用した人の働き方に合わせて、生産性・従業員エンゲージメントを向上させ、同時にオペレーション実行力の高い店舗をつくることが求められていると染谷は考える。
店舗マネジメントDXツール「はたLuck®」は、小売・飲食・サービス業など店舗サービス業に従事する人々の業務を効率化し、仕事を通じて働きがいや幸せを感じられるよう開発された。個人のスマートフォンにアプリをダウンロードするだけで、シフト管理やコミュニケーション、教育、評価など必要な機能をオールインワンで使えるようになる。
「人口が減少していく社会では、一人ひとりの生産性を上げることが求められる。生産性を式で表すと、分母に総労働投入時間、分子に仕事の付加価値となるので、労働時間を削りながら付加価値を高めると生産性は上がるんですよね。だから、まずはそのための機能を作ることから始めました」
「はたLuck®」
店舗組織をより良くするアプリの構想は、当初顧客の要望ではなく、染谷自身の組織人事コンサルタントとしての長年の経験とフレームワークから演繹的に必要な機能を割り出していったという。
具体的には、スタッフ同士で星を贈り合える機能は、感謝・応援・激励などの気持ちを伝えることで相互理解やチームワークの醸成に繋がるほか、ミニボーナス機能は一人ひとりの働きぶりを評価できる仕組みとなる。各店舗の業務データが可視化されることで、優れた店舗のナレッジ共有・学習も効果的に行えるようになっている。
2021年からは、三井不動産グループが管理・運営する全国約40の商業施設に「はたLuck®」が導入され、10万人ほどのスタッフ全員が使うツールとなった。
「これは入退館に使う従業員証にもなっているので、いわゆる『ららぽーと』などで働く人全員がダウンロードしてくれているんですね。ただ、別に入退館証が作りたいわけではなくて、豊かなコミュニティを創造する活動であるということを僕は大事にしたいんです」
スタッフは各店舗に雇用されているため、「ららぽーと」に雇用されているわけではない。けれど、「ららぽーと」というコミュニティをともに作り、より良くしていくチームである。全員を繋ぐデジタルツールの存在が、時給以外のインセンティブとして施設に貢献しようというマインドや一体感を育む。そんな世界観を同社は目指している。
だからこそ、純粋な業務効率化に繋がる機能だけでなく、一人ひとりの夢を実現したり、チャンスと出会えるプラットフォームとして、スタッフ限定のさまざまな独自コンテンツやインセンティブも用意されているという。
「『はたLuck®』の『ラック』は、業務を楽にする、楽しくするの『楽』から名付けられていて、使うことでもっと頑張ろうという気持ちになってもらいたい、最終的には幸せになってもらいたいということが、プロダクトに込められている思いです。そのためにいろいろなチャンスと出会えるツールとして、今後も機能を拡張していきたいと考えています」
たとえば、働く一人ひとりの頑張りが履歴として記録され、オファーをもらえたり、あるいは信用スコアとして金融サービスが利用できたりする世界。そんな風にHataLuck and Personは、店舗サービス業に従事することが個人のモチベーションや幸せに繋がり、社会を活気づけていく未来を描いている。
正義感のある一人の行動が、大勢を救う力になることがある。アニメや漫画に登場するヒーローがまさにそうだろう。どんな窮地に陥っても勇気を失わず、強くてカッコいいヒーローは少年時代の憧れだったと染谷は振り返る。
なかでも心掴まれたのは、宇宙が舞台の近未来戦争と人間模様を描いた不朽の名作『機動戦士ガンダム』だったという。
正義があり、悪がある。そこで描かれるのは、単純な勧善懲悪のストーリーじゃない。敵役にも、過去があり主義主張があるのだ。対する主人公アムロもさまざまな体験を経て、心揺らぎ、葛藤しながら、自身が戦うべき理由を見出していく。
「やっぱり単純明快な物語ではないんです。それはやっぱりいまだに覚えています。複雑な主人公の心理と、人間の弱い心ってあるじゃないですか。それに負けそうになるんだけれど、みんなに怒られて、戻ってきたり。『そんなことあるの?』みたいな、子ども向けに作られたアニメというよりは、大人が観ても面白い深いアニメが好きだったんですね」
単純にエンタメとして楽しむだけでは終わらずに、観たあとは心にずっしりと重みが残る。思わず「なんでなんだろう?」と考えずにはいられなくなるような作品が昔から好きだった。
現実は物語のように甘くなく、ときに理不尽だ。もしかしたら子どもなりにそれを感じていたからかもしれない。生まれつき体が弱く、当時は保育園にも小学校にもろくに行けなかった。みんなは外で元気に遊んでいるにもかかわらず、いつも家で寝ていなければならなかった。
「扁桃腺肥大と喘息を持っていたので、まず保育園にもほとんどいけないくらい体が弱かったんです。かつ3月30日生まれで学年で一番最後の日なので、ただでさえハンデを負っているのに、体も小さければ脳の発達も1年違うわけですよね。小学校3年生くらいまでは、本当に成績表は全部『がんばりましょう』でした」
スポーツができて女の子にモテる。たとえば、それが単純明快な理想像だとすると、自分自身そうはなれないと分かっていた。反対に、5つ下の弟は何の疾患もなく健康で、まさにスポーツ万能な人気者。自分にないものを全て持っているようだった。
「相対化したら、やっぱり兄貴なのに悔しいという思いはあったと思います。だけど、どうにもならないというか。だから、普通田舎で生まれると長男の方が期待されるものですが、小学校の途中くらいまでは、弟の方が期待されているような感じも受けていました」
保育園時代
幸いなことに、小学校3年の後半ぐらいからは学校へ通えるようにもなってきた。病弱なわが子をなんとかしたいと、母がスイミングスクールに通わせてくれたからだ。おかげで徐々に体力がついてきて、喘息の症状に悩まされることも少なくなった。
「いまだに忘れられないのですが、その時担任だった図画工作の先生に、図工の授業で作った版画か何かの絵を褒められたんですよ。あとで校長室に飾られるという話にもなって、それがおそらく小学校で初めて褒められた経験だったと思うんです」
誰もが分かる形での称賛は、大きな自信となった。定年間近だった担任の先生は、自身の集大成として何か思いを込めて支えてくれていたのかもしれない。よく放課後の教室で、先生と二人、道徳の授業で習ったことについて対話していた記憶が残っている。
「嬉しいですよね。だって誰からも期待されていなかったから。やっぱり人って期待されると変わるんだなと思うようになったのは、その時からです。だから、今もうちの会社でお客様への伝え方も『期待してあげましょう』と言っていて、サービス業の現場で働く人たちは、だいたい偏差値教育という一つの評価軸の中では認められたことが少ない人が多いと思うんですよね。だからこそ、きちんとやっていることを少しでもいいから認めてあげたり、期待してあげると結果は変わると思っているんです」
もともとアニメなどを通じて正義について深く考えたりしていたからか、暗記型の小学校の勉強は難しくなかった。むしろ少しずつ複雑な問題が増える高学年のテストでは、クラスの中でも高い点数を取れるようになってくる。
ほかにも水泳で学年選抜に選ばれたり、書道では小学校の部で五段という段位を取ったり、目に見える形で成果を残すにつれて、周囲の見る目が変わっていくのが分かった。最終的には、学級委員長としてみんなの前に立つことも違和感なく思えるほど自信がついていた。
「やっぱりいじめとかあるじゃないですか、そういうときに必ず中立の立場で意見をするということはやっていました。先ほどお話したガンダムのように、いじめている側だけじゃなく、いじめられている側にも何か問題があるんじゃないかと考えるんです。クラスの揉め事が起きたりしても、必ず中立の立場で仲裁するようになっていましたね」
人も世の中も、そう簡単に割り切れるほど単純じゃない。だからこそ、どちらの味方でもあるというスタンスでいたかった。昔の自分ならみんなに意見することもできなかっただろう。なんなら教室にいてもいなくても分からないような存在だった。
けれど、人は何かのきっかけで見違えるほど変わる。期待してくれる人が1人でも傍にいるならば、きっと誰もがそうだろうと身をもって学んでいた。
小学校時代
2-2. モノの豊かさ、心の豊かさ
1980年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも謳われた日本経済は社会を豊かにした。平均所得が上がり、家にはクーラーがつき、車を2台所有する人も増えた。しかし、その裏では格差が広がり、自殺者数が跳ね上がったのもこの時代でもある。
華やかに見える日常は、実のところある種の歪みの上に成り立つものだったのだろう。バブル崩壊の足音が迫る頃、入学した中学校は荒れに荒れていた。それはまるで、間もなく日本が暗雲たちこめる時代に突入していくことを暗示しているようでもあった。
「僕たちの上の世代までは、もう校庭内をスクーターが走り回っているし、夏休みにガラスが割られまくっているしという感じなんですよ。なんかこう社会が急激な経済成長を遂げて物質的に豊かになっていく一方で、精神的な闇のようなものが広がっているというか、経済の発展と精神のバランスが良くない時代に突入しているなということは、なんとなく荒れている先輩とかを見ていても思っていたんです」
いわゆる不良と呼ばれる先輩たちは、授業中に平気でタバコを吸い、学校に刃物を持ってきたりする。先生たちをはじめ周囲が手に負えない存在として認知するなかで、それでもやはり「不良=悪」だと決めつけることは間違いだと感じていた。
「生まれていきなり不良だったわけではないですよね。だとすると、彼らの環境がそうさせているとしか思えないわけですよ。経済発展の中でなんとも言えないところにすぽっと落ちてしまった家庭で生まれてきて、放置されてしまった子がおそらく不良になっている。そう思うと、不良の先輩とも普通に話せていたんですよね」
見た目は怖くても、話してみれば意外と心根のいい人だと分かったりするものだ。とはいえ、彼らと同化しても卒業後の進路に困ることは目に見えている。将来やりたいことは分からなかったが、少なくとも地元茨城だけで生きるとしたら世界が狭くなりすぎるように感じていた。
「どうせならみんなと違う方向に行って、この悶々とした日々とか狭い価値観から脱したいなと思って。染谷家は全員理系でもあったので、それなら高専に行こうかなと。バブルもはじけてしまって結構お金もないしということで、国立だったら授業料もものすごく安いので親も背中を押してくれて、国立の高専である小山高専を目指すことにしたんです」
高専時代、毎日片道2時間弱かけて通学した
小山工業高等専門学校(通称、小山高専)は、県境を越えた栃木県小山市にある。改めて勉強に気合いを入れて、なんとか学年3位に入ることができたので推薦枠を使って合格できた。
入学してみると、そこには全く新しい世界が広がっていた。
「国立だから貧乏な家の人もいるのかと思っていたのですが、まず電気屋の御曹司が多い。しかも小山市よりもっと大都市である宇都宮から来ている人がいたりとか、5年制だから1番上の先輩は20歳で、だいぶ大人な先輩がいたりして、世界がガラッと変わりましたね」
学科は電気工学を選び、なかでも通信を専攻することにした。電流やWi-Fiなどの電波は目に見えない。目に見えないからこそ存在を証明することが難しく、それゆえに面白いと感じたからだった。
「教授もNTTとか民間企業から来ている人が多かったので、話すことも面白くて。暗記型の教育というよりは実ビジネスに繋がる教育という感じがあって、ものすごく面白かったですね」
部活は中学と同じくテニス部に入ったが、とある怪我をきっかけに自分なりに理想とするテニスができなくなってしまったため途中で退部。切り替えてアルバイトに熱中していくことになる。一つは、ディスカウントストアの電気売り場で家電を売る仕事。もう一つは、地元に唯一存在したPaul Smithなどのブランドを扱う洋服屋で、大人相手にスーツを売る仕事だった。
「洋服も好きだったので、洋服屋の店員になりたいなと思って。飛び込みで頼んだら働かせてもらえることになったんです。当時だと1着8万とか12万くらい、今で言うと20万くらいなのかなと思いますけど、それをスーツからシャツ、ネクタイ、ベルト、靴まで一式揃えて買ってもらえるかということをやりがいにしていました」
店長はしばしば雑誌に載っているような魅力的なスーツを買いつけて来る。数か月後届く商品の写真を眺めながら、常連の誰々が買ってくれそうだと盛り上がるのも楽しいものだった。実際にはその通り売れることもあれば売れないこともあり、販売という仕事の奥深さを実感したりもした。
「やっぱり人との距離感とか、テレビを売るにもスーツを売るにも相手がまず何を実現したいんだろうとか、ただ売るのではなくて何をしたいのかを聞き、それに合わせて自分の中で組み立てて提案するという部分が両者には共通していたと思います。『売ろう』と思うと買ってもらえないんですよ。そういう心理というものが人にはあるんだなと、『買っていただく』という感覚を学べた経験でした」
お客様と相対するたびに発見があり、学べるものがある。働く楽しさ、そしてそこにある豊かさを存分に味わえる日々だった。
高専卒業後は、大学に編入学する道を選ぶつもりだった。未知のものを解き明かす理系の学問は好きだったが、一方で周囲のように寝食を惜しまずプログラミングに没頭するほどでもない。それよりはむしろ、テレビを売ったり洋服を売っている時間の方が好きだった。
「基本的に受験できるところが国立大学の理系学部なんです。だから、阪大とか九大とか東工大とか見に行くと、さらにマニアックな人がいるんですよ。これは勝てないと思って。だったら僕はこういう人たちが作ったものを売る方が楽しいんじゃないかと思うんですよね。それで経済経営を学べる大学を目指そうと考えたんです」
Windows95が発売され、世の中は来たるデジタル革命に湧いていた。本場米国では、インターネットをはじめとした通信技術の研究者が、ビジネスの世界に進出しているという話も耳にする。日本ではまだ理系人材といえば研究者になるイメージが強いが、今後はその流れも変わるかもしれない。
ちょうど信州大学に理系人材が経済を学ぶ学科が作られ、1期生を募集していると知り、面白そうだと強く惹かれていた。
高専では代々成績優秀者は国立理系のトップ校に行くと決まっている。親や学校の猛烈な反対に遭いながらも自身の意志を貫き通した進路選択は、人生最初の岐路となった。
「行きたいなら自分で学費も生活費も出すという条件付きで、父も最後は折れて。風呂なし共同トイレで家賃2万2千円の下宿所のようなところで暮らすと決めて、奨学金をもらいながら生活費も稼ぐ。一応お米だけは仕送りで届いたので、それを持っておかずをもらいに友達の家を転々とする。本当に売れない芸人さんのような生活でした」
そもそも3年次で編入しているため単位が足りない。やりたい勉強だったため苦ではなかったが、朝から勉強漬けで同時に生活費も稼がなければならなかったため、当時1番稼ぎが良かった営業のアルバイトを始めた。
「家庭教師のトライの営業だったのですが、社員が常駐していない支社だったので大学生が切り盛りしていたんですよ。そうすると僕は今まで販売をやっていたので結構売ることができて、支社長になるんです。でも、後輩が入ってくると自分と同じようにはできないんですよ。毎日全国支社のランキングが出て評価されるので、僕の言ったことがその後輩を追い詰めてしまって、次の日から来なくなる。いわゆる組織崩壊を起こすわけです」
売れていないことは事実。しかし、「なぜ僕のようにできないのか」という叱り方では、当然感情的な反発を招いてしまう。当時はそんなことも分からなかったため、ちょうど大学で学んでいた組織論に解決策を求めた。
組織とは、チームを率いるリーダーの仕事とは、マネジメントとは何なのか。一つひとつ勉強し、覚えた知識をアルバイト先で実践していくと、実際に良い結果が生まれだした。
「目に見えないコミュニケーションというものの威力だったり、リーダーは信念を持たないといけないということ、この信念は人に乗り移っていくこととか、そういうものを失敗から勉強し、実践していくと、理論とアウトプットが繋がってさらに勉強が面白くなるわけです。僕にとってはバイトが実験場だったので、実験をやってお金をもらえるというこれ以上に楽しいことはないと思いながら、すごく濃い経済学部での2年間を過ごしました」
信州大学に入学し、引っ越しを終えた日
目に見えないものを証明していくという観点では、通信も組織論も変わらない。むしろ人とのコミュニケーションや組織の問題に向き合っていく方が、電気工学のプログラミングよりも自分には合っているとも思える。だからこそ、就職活動ではHR領域を扱うリクルートのリクルーターと出会い、そのまま迷わず入社する決断ができた。
「毎日接する組織も、1か月あれば2~3回なんらかの事件が勃発するんですよ。それが綺麗事ではないというか、人間と人間ってなんでこんなに分かり合えないんだろう、伝わらないんだろうとか、でも人間だからこそまだ立て直す希望はあるよなとか、単純じゃないところがやっぱり面白いなと思えていたんです」
入社の前年には、大手証券の一角を成す山一證券が自主廃業し、つづく北海道拓殖銀行も経営破綻した。これからまさに社会人になろうとするタイミングで、「リストラ」という言葉が初めて列島を駆け巡ったのだ。
「良い大学を出て、良い会社に入れば一生安泰」という一つの神話が崩れるさまを目の当たりにして、会社をどこか冷めた目で見るようになった最初の新卒世代だった。
「おそらく僕の世代はみんな思っていたと思います。会社は自分の人生より命が短いから、会社に入ることをゴールとせず、いつクビを切られるか分からないと思って、自分のスキルを磨こうとか、自分を高めつづけなければならないという価値観の世代でした」
配属された営業部では、3年以上リクルートと取引のない会社だけを担当するという難易度の高いミッションを与えられ、求人広告の飛び込み営業をしていくことになる。1日100件のノルマをこなそうとするも、名刺を破られる、塩をかけられる、罵声を浴びせられるといった反応のオンパレードだ。
ゴールデンウィークには「こんな仕事に意味があるのだろうか」と考えている有り様で、溜まったフラストレーションを発散すべく車を運転していたら、ブレーキ操作を誤り大事故になってしまう。幸いにも怪我人は自分しかいなかったが、生きているのが奇跡だと思えるような状態だった。
営業所に行って説明すると、上司は怒りながらも諭すように話をしてくれた。
「あの時死んでいてもおかしくないわけだから、まず命あることを大切にしなさいということと、もう一つは初めて『仕事の意味づけ』という話をしていただいたんですよ」
当時のメイン商材は、アルバイトの求人情報誌だった。担当エリアは上野で、飛び込みをしている。なぜ飛び込みをするかと言えば、求職者は自分で仕事を探しに飛び込みはできないからだと上司は言う。
上野の求人を読者に届ける。その仕事がなければ面白い求人が掲載されず、企業は人を採用できない。それにより、上野はどんどん面白くない町になっていく。だから、お前の責任で上野の求人情報を読者に届けろ。そう仕事の意味を叩きこまれ、コルセットを巻きながらも営業に行くと、たしかに相手の反応が変わってきた。
まずコルセットを巻いていて単純に心配される。加えて、上司の受け売りながら自分がどんな思いでこの仕事をしているのか説明すると、「若いのにすごいな」と話を聞いてもらえることが増えていく。単に広告を売りつける営業マンだと思われていた以前と違い、人として認めてもらえるようになり、別の社長を紹介してもらえることさえあった。
入社から半年後、初めての受注が決まる。既存顧客を任された同期は初日から受注していたりもするなかで、おそらく同期の中では1番遅かった。
与えられた環境にはときに理不尽さもあったが、恵まれた一面もあった。当時はまだ社内でもめずらしかったパソコンが一人一台与えられていたのだ。どうやら文系理系のハイブリッド人材だったため、実験的な部署に配属されたようだった。
そのパソコンを使い、営業に行った回数をはじめ時刻や天気、誰とどんな会話をしてきたかといった記録を事細かにつけていくと、次第に商談に至る確率や成功法則が見えてきた。
「営業を科学するということを僕はやらされていて、それで論文を書けと。リクルートって新規事業提案制度の『Ring』のように、いろいろ提出して自分たちをPRすることができるんですね。それで論文を書いたら商品企画の部長の目に留まり、本社の商品企画に呼ばれるんですよ」
入社して1年半、異例の早さでの抜擢だった。商品企画では、まだ紙媒体が主流だった時代、iモードを使った最先端のデジタル商品を世に出そうとする0→1の過程に携わることになる。今はまだ紙の方が高く売れる、しかし今後必ず時代はデジタルに切り替わる。そのとき覇権を握るための戦略が、本社では盛んに議論されていた。
「ビジネスってこうやって勝っていくのかとか、そこまでやってリクルートは支配力を保っているのかとかを目の当たりにして。市場を支配することの重要性と、企業は社会に貢献する存在であるという大命題。それを実現するためにどんな戦略をもって市場への影響力を大きくしていくかという、この二面性がリクルートは秀逸で。ほかにもいかに会社を動かしていくかなど、そういうことを若いうちに学ぶことができたので良かったですね」
本社勤務で貴重な経験を積んだあとは、ヘッドハンターから声がかかった株式会社ディジットブレーンへと転職した。リクルート出身の代表率いる新進気鋭のベンチャー企業だったが、1年半後に倒産してしまうことになる。
「もう社長は解任されるわ、銀行から再生団が乗り込んでくるわ、そしたら部長陣も不正をやっていたことが明らかになるわで、ぐちゃぐちゃになったんですよ。でも、その再生チームの人から声をかけられて、君のチームは真っ当に働いてくれているチームの一つだから、最後に会社更生法を適用するか生き残れるかを決する半年間を一緒に支えてほしいと言われて、残って手伝うことになったんです」
リーダーである部長陣は不在だったが、残ったチームメンバーには新卒もいる。マネージャーとして責任を持って取り組まなければならないと、改めて合宿を開き、膝を突き合わせて議論する。原点に立ち返り組織と事業を一新していくと、なんとか半年ほどで売上をV字回復させることに成功した。
しかし、時すでに遅し。翌年の2月に弁護士団が現れ、会社更生法適用という結果になった。顧客への謝罪や、怒号飛び交う債権者集会なども進めていく。
会社の敗戦処理というものを26歳にして一通り経験した。そこでは一定量の仕事をこなし、受注できたか否かに一喜一憂していた頃とは全く違う、一言では形容しがたい景色が広がっていた。
「半年間、倒産していく会社の中で仕事をして、その中には新卒もいれば、50代60代で再就職できない人たち、中堅でなんとかこれからの処理をしないといけない人たちとか、いろいろな人が同じフロアにいて。絶望感とかやるせない気持ち、ぶつけようのない怒りとか、いろいろなことが渦巻いているわけですよね。その時にやっぱり会社って結構人の人生を狂わすなと、会社と従業員の関係ってそんなに単純なものじゃないよなということは本当に感じましたね」
ある種究極の状態に置かれた会社で働いた。結果としては、その経験とリアリティが次なる環境で活きてくることになる。知り合いの紹介で、リンクアンドモチベーションという会社と出会い、もう一度組織というものに向き合ってみたいと思った。
「僕が入った時のリンクアンドモチベーションは、社員数が38名で売上2.1億円の誰も知らない会社でした。でも、惹かれるものがあって。個人を重要視するのか会社を重要視するのか、事業成果の最大化なのか個々人のモチベーションなのかとか、どちらも大事だけれど相反してしまうものをいかに統合していくかという哲学などを学んでいきました」
2005年、コンサルタントとして担当した最初の大型プロジェクトは、のちに日本経済史を揺るがした粉飾決算として語り継がれる「カネボウ事件」だった。不正会計に加担した公認会計士が所属する中央青山監査法人を立て直すべく、流出が止まない会計士や職員の退職を最小限に食い止め、新たに200名を採用するという難題を任されたのだ。
2年間の奮闘の末、なんとか180名ほどを採用し、みすず監査法人と名前も変えて再生し、生き残る道を切り拓いたかに見えた。しかし、最終的には「身売り」という決断が下され、組織として解体されることが決まってしまう。
コンサルタントとして納得がいかず、当時二人三脚で動いていた同法人のパートナーで、のちにHataLuck and Personの監査のヘッドも務めてもらうことになる、工藤氏に直談判しに行った。
「工藤さんは『今なら派遣社員も含めて全員の雇用が守られる』と言ったんですよ。EY新日本監査法人が我が会計事務所をほしいと、全員の雇用を守ると言っていると、そこまで彼は引き出していた。この機を逸したらもしかしたら誰かがクビを切られるかもしれない、それを染谷は分かってほしいと言われて」
再生させたつもりが身売りという結果になり、悶々とせずにはいられない。しかしながら、最も大切なのは全員の雇用を守ることである。それがパートナー陣の決断だと理解した。
「雇用を守るという正義に対して、会社を売るということは僕にとっては反正義だったんですよね。会社は売り物じゃないみたいな感覚もあるし、でも資本の論理で言ったらそうなるんだと。組織とか会社って売り物としての側面もあって、生きている人の人生を守るために売るという決断があるんだと知るわけなんですよね」
前職での会社の倒産と、日本を代表する監査法人の最期を見届けたこと。どちらも組織人事コンサルタントとしては、唯一無二の厚みとなった。
「コンサルタントとして経営者と対峙するときに、血の通ったコミュニケーションができるというか、『それやったら本当に潰れますよ』と言える。おそらくそんなコンサルタントは、リンクアンドモチベーションの中では僕くらいしかいなかったので、名だたる大手企業の経営統合に抜擢されて、結構売れっ子になりました」
2012年には同社最年少で役員に就任し、海外事業含む新規の事業開発分野を牽引していくことになる。数多くの経営者とともに修羅場をくぐり抜け、それなりに貢献してきた自負もあるなかで、最後にして強烈な衝撃となったのは起業家である溝口勇児氏との出会いだった。
2014年、溝口氏をはじめ出資事業に携わるメンバーと
当時出資事業を通じて支援していたFiNC(現 FiNC Technologies)の創業者であり、初めて対峙したスタートアップ起業家でもあった。
「彼から受け取ったものは、『なんでこの事業を始めたの?』と聞いた時に、『もし自分にアイデアがあったとして、ほかの人も同じことを考えていて、それをやって成功しているのを日経新聞で見るくらいなら死んだ方がマシ』と言っていたんですよ。この言葉を、目の前の当時25歳くらいの新進気鋭の起業家から言われた時に、一応社内ではそれなりのポジションで、それなりの企業のコンサルもやってきて、それなりの人に会ってきているんですよ。でも、本当に衝撃でした。それと同時に、これが起業家なのかと思って」
今まで接してきたのは大手企業だったため、社長たちは創業者ではなく、起業家でもなかった。とんでもないエネルギーを秘めた起業家という存在と、スタートアップとの出会い。それ以降、自分はその覚悟で仕事ができているのかと自問するようになった。
自分自身の手でそれをやれなければ死んだ方がマシだと思うようなものは何か。答えとして導き出されたのが、サービス業に特化したコンサルティングカンパニーだった。
「日本の産業構成が思いっきり変わってきて、第3次産業が伸びつつあるなかで、サービス業の就業者数は3,700万人いて、日本に6,500万人いる労働力人口の半分以上を占めている。そのなかで、当時リンクアンドモチベーションは7社しかサービス業を支援していなかった。本当に『日本を元気にする』ということをやれているのかということで、2016年1月にこの社会課題に切り込むべく、自分がトップとなって立ち上げた部隊でした」
満を持して新規事業として立ち上げたものの、当初はなかなかうまくいかなかった。
サービス業の店舗は物理的に離れているため、本社で一斉に行う研修とは相性が悪い。当時はまだオンライン上でのコミュニケーションも普及しておらず、加えて半数以上がアルバイトだったりもするなかで、どのようなコンサルティングで課題を解決するのかという壁にぶつかっていた。
活路を模索していた頃、開催していたセミナーを通じて「ひふみ投信」で知られるレオス・キャピタルワークス株式会社代表の藤野英人氏と出会う。藤野氏は起業を勧めてくれた。思うように受注ができない現状、疲弊していくメンバー、研修という武器の限界に加え、2016年12月にグループ会社への異動の内示が出たことをきっかけに、一歩踏み出すことを決心した。
翌年3月、ナレッジ・ マーチャントワークス株式会社(現 株式会社HataLuck and Person)を設立。さまざまな面で藤野氏の支援も受けながら、「はたLuck®︎」のプロダクト開発に乗り出した。
ちょうど「不惑」の40歳。これまで培ってきた組織を科学する視点と、ITを使った社会課題解決をする会社。迷わず覚悟を持ってやり遂げようと思える挑戦が、そこにあった。
2017年、当時のメンバーと新たな門出を祝して
単純にはいかない人の心理や組織、あるいは社会というものを解明しつづけてきた人生だったと染谷は語る。コンサルタントとして企業が売り物になるさまを目の当たりにした時も、自身が経営者となりコロナ禍などの逆風を経験した時も、何より支えになったのは信念の存在だったという。
「どうしようもなくつらい状況や危機に陥ったとき、自分の支えになるのはやっぱり何を成したいのかという信念であり、それを本気で信じつづける、やりつづけるということが台風の目のように人を巻き込んでいくんですよね」
信念をもって巻き込んだチームを作る。一人では難しくても、そのエネルギーが世界を少しずつ変えていく。
「結局、従業員もお客様も投資家も、全て自分の信念に良い意味で巻き込まれている人たちだと思うんです。だから、その渦をどう作っていくかが大切で。そうして巻き込まれた人たちと一緒にこの問題だらけの世界を解決していこうとする人が、一人でも多くなっていくと社会はどんどん良くなっていくように思いますね」
最初は誰も信じるものなどなく、人生をかけて成すべきだと信じつづけるからこそ、いつしかそれ自体が信念へと変わっていくのかもしれない。
「自分自身は何のためにこの時代に生まれてきたのかということを考えることと、それを諦めないこと。見つけて信じ、やりつづけることが自分の人生になっていくのかなと思います」
人生のシナリオは自分で描いていくものであり、いつから描きはじめてもいい。だから自分がどんな人生を描きたいのかを考え、何より大事にした方がいい。やがてそれが信念となり、人や社会を動かすようになる。
2024.8.28
文・引田有佳/Focus On編集部
単純明快で理解しやすいものが求められている時代かもしれない。より短い時間で、より多くを得られ、満足感がある。そんなコンテンツがもてはやされ、消費されていく。
けれど、本来世の中は複雑だ。誰もが答えを探しているが、そもそも答えなんてものは存在しない場合もある。だとしたら、複雑にもつれあう事象や人の心というものは、誰かが一つひとつ向き合い紐解いて、答えを見出していかなければならないことになる。
ときに自身の信念や哲学に立ち返り、ときに多くの人の心を動かしていく必要もある。複雑さと向き合うことの人間的意義に目を向ければ、そこには課題が解決されることのみならず、悩み葛藤しもがいた本人だけが得られる唯一無二の経験がある。
HataLuck and Personは、サービス産業における店舗組織の課題解決にフォーカスする。そこで働く人がより楽しく、より働きがいを持ちながら日々を送れるように、必要な仕組みを創造している。人や組織の複雑さと向き合ってきた染谷氏だからこそ、その答えを導き出していくのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社HataLuck and Person 染谷剛史
代表取締役CEO
1976年生まれ。茨城県出身。1998年、リクルートグループ入社。中途・アルバイト・パート領域の求人広告営業に従事。新人賞を受賞。マーケットプロデュース部門に異動し、WEB・モバイル系新商品開発に従事。2003年、株式会社リンクアンドモチベーション入社(東証一部上場)。大手小売・外食・ホテルといったサービス業の採用・組織変革コンサルティングに従事。2012年には同社執行役員に就任。以後も新規事業開発(グローバル事業立ち上げ、健康経営部門の立ち上げ)を経て、サービス業に特化した組織人事コンサルティングカンパニー長を担う。2017年、株式会社HataLuck and Person(旧 ナレッジ・マーチャントワークス株式会社)を設立し、代表取締役に就任。多店舗展開型企業の経営・組織変革を目的にサービス産業に特化したプロダクト「はたLuck®︎」の開発・提供を行う。