Focus On
大嶋翼
株式会社メディカルフォース  
代表取締役
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or既存の世の中に疑問を抱くなら、新しく自分で変えればいい。
テクノロジーとデザインで未来から選ぶ社会を実現すべく、3DCG/VRによるバーチャルインテリアで住まいとの出会いを演出していく株式会社カラーアンドデコ。物件写真と間取り図から、空間に魅力ある暮らしのイメージを加え、販売を促進する同社のサービスは、購入希望者にとっても、理想の未来や暮らし方から家を選ぶことを可能にする。
代表取締役の加藤望美は、23歳からデザイン会社を起業し、女性向け大手ブランド、コスメ、アパレル、エンタメ企業などに対し、広告クリエイティブ、マーケティング、Web制作を支援してきた。12年間経営したのち、マーケティング×インテリアで不動産売却を高める手法「ホームステージング」を日本に広めるべく、株式会社ホームステージング・ジャパンを設立。2019年、同社内で3DCG/VR技術を採用した事業をスピンアウトし、株式会社カラーアンドデコを設立した。同氏が語る「挑戦と好奇心の原点」とは。
現在だけでなく10年後、20年後の未来に、どんな家で暮らすのがベストか考えてみる。たとえば、高齢者がいる家庭なら足腰が悪くなっても対応できること。子どもを持つ予定のある家庭なら十分安全に配慮されていること。
物件そのものだけでなく建材やデザイン、さらにはライフスタイルまで、事前に想像できるからこそ選択できる未来があると加藤は考える。
「後悔のない暮らしをしてもらいたいので、家を選ぶ時に自分がそこに住んでいる姿だったり、未来を見てからきちんと選べるようなことを実現していきたいと思っています。不動産を買う場合も、借りる場合も、いかに契約させるかではなく、いかに幸せになれるかというところで人に寄り添いたいですね」
カラーアンドデコでは、何も置かれていない物件広告写真や3D図面に国内外メーカーの家具を3DCGで配置したバーチャルインテリア写真・オンライン3Dシミュレーターを提供する。
正確なサイズの家具を配置できるのみならず、スマートフォンで撮影した写真をもとに最短3時間で画像制作可能と利便性も高い。さらに、床や壁の建材施工シミュレーション、中古物件のリフォーム・リノベーションのイメージ提案など幅広い活用シーンがある。
物件の魅力や可能性を最大化することで、消費者が自分に合った商品を選択する機会を提供するとともに、賃料引き上げや空室期間の短縮化にも貢献する。不動産・住宅業界企業と消費者双方に新しい価値をもたらすサービスとして注目されているのだ。
「競合他社サービスもありますが、単にビジュアル化して選べれば便利だよねとか、不動産会社がより早く売ることができたり、利益を得るための販促ツールとしていいよねというものが多い。私たちはその物件を選んだ人が最終的に幸せにならないと意味がないと思っているんですよ。だからこそ、リアルにもこだわった暮らし方の再現を大切にしています」
バーチャル上で表現された家具は全て購入できるほか、今後はワンクリックで購入できたり、そのまま施工会社と相談ができたりと、リアルと繋がる体験を拡充すべく、開発が進められているという。
「最終的には暮らしを良くしていく楽しさを、自分たちでクリエイトしてもらいたいと思っているんですよ。選ぶ時もそうですが、自分の未来を自分で作っていくというところまでサポートしていきたいなと。そのためのツールや方法、デザインを提供していきたいと思っています」
住宅を通じて幸せになるということは、買ったり借りたりすることで終わるわけじゃない。むしろそこからが本当のスタートで、暮らしをいかに良くしていくかは考えつづけるものだ。カラーアンドデコはそんな人の営みに寄り添い、未来を可視化し、選択可能にする基盤となる。
同社サービスにより、3DCGのインテリアイメージが付加された物件写真
家から最寄りのお店までは車で30分。近所に住む人には毎朝全員「おはようございます」と挨拶するのが当たり前。たまに連れて行ってもらえる都会では、きらびやかな看板に感動してしまうほど、まさに「山奥」という言葉がぴったりの田舎で育ったと加藤は語る。
「私の小学校時代はクラスメイトが7人で、全校生徒が32人だったんですよ。2学年が一緒の教室で背中合わせになっていて、前と後ろに黒板があって。先生1人が前の授業の合間合間に後ろで授業をするという、よくニュースとかで取り上げられているじゃないですか。あれです(笑)」
生まれは福岡県だが、3歳の時、両親の離婚を機に母の実家がある大分県日田市へと引っ越した。都会まで働きに出て、月に1度しか帰れない母に代わり、幼い頃は祖父母が育ててくれていた。
「小学校時代はとにかく学ぶことが好きで、勉強も好きだしなんでも1番になりたい人でした。よく勝気と言われていて。やっぱり母と離れて1人だったから、おそらく寂しくて、目立ちたかったんじゃないですかね。でも、祖父がすごく愛情を持って育ててくれたので、ものすごく感謝しています」
いつも祖父母はあたたかく見守ってくれている。勉強など何かを教えてもらったことこそないものの、やりたいと言ったことは全てやらせてくれた。小学校の青年団の募集も、作文コンクールも、絵画のコンテストも、とにかく片っ端から応募して、賞をもらうため自分なりに奮闘する。
比較的自由な学校で、先生もあまり口うるさく指導するよりは、むしろ意見があれば言わせてもらえるような環境だったことは幸いだった。
「授業を受けていても『なんで先生はこんな教え方をしてるんだろう』とか、『もっとこうすれば生徒が聞きやすくなるのに』みたいなことをずっと考えたり。自分からやりたいと言って、ときどき先生をやらせてもらったりもしていました。おそらく全部自分で考えてやらなきゃいけない環境があったから、(当たり前とされるものに対して)疑問に思うことは多かったですね」
幼少期、田舎暮らしだった頃
田舎で暇だったからかもしれないが、なんでも疑問を抱いたり興味が湧いたりしたことは「やってみたい」と思う。昔から好奇心はひときわ強い方だった。
「今の私を作ったものは、祖父の影響がすごく大きいと思っています。田舎ってすごく隣の目を気にするから、みんななるべく隣と同じことをしようとするのですが、祖父はなんでも新しいことにチャレンジする人だったんです」
新しく店を開業してみたり、自分の農園で育てた花を下町で売ってみたり。祖父は70歳近くだったにもかかわらず、今で言う新規事業のようなことに積極的だった。村で唯一ツインファミコンを持っていたのも、祖父が「新しいものを買ってあげたい」と買い与えてくれたからだ。
古くて歴史あるものよりは、新しい商品や広告などをテレビで目にしては、自然と惹かれていく。特に、ほかの人がやらない新しいことや、新しく生み出すことには常に興味があった。
一方で、祖父とは両極端の性格をしていた祖母は、多くの大人たちと同様に人目を気にし、よく「もうやめときなさい」と心配していたものだった。
「これをすると誰かから何か言われるんじゃないかとか、人からどう見られるかをすごく気にしていたんです。その影響もすごく強く受けていて。このマインドから抜けるまではすごく大変でした。それこそ手放すことができたのは大人になってしばらく経って、30代までかかりましたね」
当時は幼かったため詳しく知らないが、挑戦心あふれる祖父の行動に対しては、周囲からいろいろな声があったようである。狭い田舎というコミュニティで、制約を受けることなく事業を拡大することは簡単ではなかっただろう。
やはり田舎では、出る杭は打たれるような風潮がある。けれど、それは本当に必要なものだろうか?無駄なしがらみがなければ、祖父や自分ももっと思う存分チャレンジできたかもしれない。
考えてみれば、世の中にはおかしいと思えるようなことがたくさんあった。みんながそれを良しとしていても、より良く変えられる余地はきっとある。それによりみんなが楽しく暮らせるならば、自分自身の手で変えていくべきなのだろうと昔からなんとなく思っていた。
母の再婚がきっかけで、中学以降は福岡へと移ることになる。新しい学校ではバスケットボールのかっこよさに憧れて、未経験ながらバスケ部へと入部した。県大会優勝を何度も果たすような名門チームだったが、とにかく上手い下手はあまり考えない。せっかく始めたからには、できることをやってみようと決めていた。
「1年生は最初の準備運動と筋トレのようなものだけやるんですけど、あとはずっと上級生の練習を立って見ていないといけなくて。それが何になるのかさっぱり分からないし、良いも悪いも分からなかったんですが、嫌なことがあっても練習に行かなきゃいけないんだったら、これはやろうと思ったんです」
周りは小学校からの経験者ばかり。実力で言えば、間違いなく1番下手だった。けれど、プレイさせてもらえない環境に音を上げて、次第にちらほら欠席者が出始める。当時は1人だけ田舎育ちだったことなどもあり、クラスメイトからいじめを受けていた。それでも、何があっても練習は休まなかった。
「泣いてましたよ、毎日。でも、学校も休まなかったです。自分に負けるようなイメージだったんですよ。今考えてみれば、もう少し楽に生きても良かったかなと思います。結局1日も休まなくて。そしたら顧問の先生が上に引き上げてくれて、1人だけ上級生の練習に参加させてもらえることになったんです」
部活で引き上げてもらって以来、気づけばいじめは止んでいた。クラスでも時間が経つにつれ、味方になってくれる人が現れた。諦めなければ手を差し伸べてくれる人がいる。当時はそう学んだ時期でもあった。
「部活の顧問が2年生の時に担任をしてくれていたんですが、先生はおそらくいじめのことも全て知っていたと思います。その先生はすごかったですね。先生の教えは今でも通じていて、『できない子はいない』と私はずっと思っていますね。どんな人でも伸ばしてあげられる可能性があるんだと」
パスのボールも取れなければ、周りのチームメイトに迷惑をかけてばかり。それでも先生の指導のもと毎日練習していると、上達の兆しが見えてくる。
「不思議なんですけど、上手い子たちの中に入ると上手くなるんですよね。だから最後の方は、1つ上の学年と一緒にスタメンで試合に出させてもらったり、成功体験ですよね。まずはできること、言われたことをやる。それで大丈夫だと」
中学時代、バスケットボール部の練習風景
スタート地点では大きく遅れていたが、めげずに続ける。そのうち、いつしか次世代のエースになり得る選手として期待されるようにもなっていた。試合でも活躍し、自信もついた。しかし、中学2年の途中から家庭の事情で転校することになり、泣く泣くチームを離れざるを得なかった。
引っ越し先は、県内でもより中心地に近い町になる。転校先のバスケ部はあまり強くなく、正直元いたチームとの落差を感じずにはいられなかった。
勉強面でも以前は宿題をこなすだけでクラスで1番が取れていたが、ここでは塾通いが当たり前の同級生たちに差をつけられる。特に、学校で習う範囲ならまだしも、受験特有の引っ掛け問題などはお手上げだった。
「私は塾も行ったことがなかったし、そこで思いましたね。お金がある家庭の方が良い学校に行くんだなと。でも、それっておかしくない?と、中学時代はずっと思っていました」
高校受験では、第一志望にこそ合格できなかったものの、滑り止めの進学校へと入学する。しかし、文字通り朝から晩まで受験を意識しなければならない生活に、開始早々嫌気が差していた。
もともと新しいことを知ることや、学ぶ意欲はある方だ。そんな好奇心はどこへやら、好きだった勉強のモチベーションが日に日に落ちていく。教え方一つでこうも変わるのかと思うほど、当時は学ぶ意義が見出せなくなっていた。
「進学する高校を間違えたなと思いました。結局偏差値で選んでしまったんですよね。本当に興味があったのは、デザインとかものづくり系の専門学校だったんです」
進学した高校の偏差値は70近く。一方で、興味を持ったデザイン系の学校は45ほどの偏差値だった。先生からは通り一遍なアドバイスしか得られない。いわく、いわゆる「良い学校」へ進んでおいた方がいいということだった。
「小学生の頃は学校の先生になりたかったんですが、そこで先生はやりたくないと思いました。やっぱりリスクを取らないじゃないですか。先生って無難な選択しか勧めないんだなと思って。この人たちと同じ考えを持っていたら、新しいことはできないよなと」
次第に学校のことは忘れ、興味の赴くまま過ごすようになる。一時はモデルという職業に憧れたことがあり、世界的なモデルの登竜門「エリート・ルック・オブ・ザ・イヤー」という大会への出場を目指したことがある。
そこではモデル志望の若者としてテレビのドキュメンタリー番組に密着されながら、取材担当者から飛ぶ鋭い質問に答える機会があった。
「『あなたはモデルになれなかったら、何になりたいのか』と聞かれた時に、私は『起業して女性社長になりたい』ということと、『デザイナーになりたい』と2つを答えたんです。口に出したこともなかったし、思ったこともなかったですよ。とっさに答えて、私ってそうなんだと思って」
17歳という年齢でどうなりたいかと問われても、まだ何も分からないという人が大半だろう。ただ、少なくとも反射的に口にした言葉は、自分の本心であるように思われた。
「私は17歳の時から自分は自分でやっていける、成功すると思っていたんですよ。バスケがそうだったように、地道にやっていればうまくいくんじゃないかという自信があったので。人生も仕事も、私は絶対うまくいくとずっと思っていたんです」
学校の授業も、進路選択も。何のための勉強か教えてくれる人がいないことも、裕福な家庭ほど良い進学先に行けることも。田舎から出てもなお、世の中にはおかしいと思うことがたくさんある。
新しいことが好きな自分は、もっともっとチャレンジしていきたい。まして「普通に」生きるつもりもなかった。それならいっそ社長になり、おかしいと感じる社会をより良く変えていくようなことがしたい。できることから愚直に向き合っていけば、その先にきっと未来を切り拓けると信じていた。
高校時代、クラスメイトと
デザインやクリエイティブな事柄への関心は、さかのぼれば小学生の頃からだ。作ること自体に大きな喜びを感じてきた。一方で、それにより誰かに喜んでもらい、評価されたいという思いが先行していたことは否めない。
「文章を書くことが好きだったし、詩とかも好きだったんですよ。でも、当時は褒められたいがためにやっていただけで、自分が本当に感動したから詩にしますみたいなことはなかったですね。心から感動したり、心から何かができるようになったのは、やっぱり大人になっていろいろな呪縛が取れてからです」
学校の勉強は無視して遊び歩くようになっていた高校時代、自然と惹きつけられたのはアンダーグラウンドな世界だった。音楽やファッションなど、その道のクリエイターとして個人でブランドの名を掲げ、世に売り出そうとしている人たちがいると知ったのだ。
「ファッションデザインの学校なんかに行くと、今で言うインディーズというか、各個人でブランドを作って音楽やファッションを売り出している人がいたりして、すごくかっこいいなと思って。そういう自分を表現したりする人たちにすごく憧れていましたね。なんでこの人たちはそういう風に自分を表現できるのに、私は表現できないんだろうとずっと思っていました」
憧れる存在のようになりたくて、いろいろと模索してみたこともある。けれど、結局人からの評価やどう思われるかという思考が邪魔をする。純粋に「心からいいと思える」とは何なのか、その後も数年悩みは続いていくことになる。
「高校卒業後はそのままダラダラした生活を送っていたんですよ。ずっとくだらない毎日を過ごしていたんですが、おそらくそんな生活が私はすごく嫌いなんですよね。半年ぐらい遊んで、ある日ふとなんか好きじゃないなと思って。とにかく今のままじゃいけないから働こうと思ったんです」
まずは求人誌を手に入れて、目ぼしい会社を見つけては電話をかけてみる。業種や職種の希望があったわけじゃない。とにかく社会に出てやってみる。それだけを考えて「ここで働きたいです」と伝えていった。
結果として分かったことは、当時はどこでもまず一言目に「Excelはできますか?」と聞かれるということだった。当然Excelなんで触ったこともない。「できないです」と答えては、お断りされるというやり取りが数社続き、どうやらこれを習得しないことには先に進めないらしいと分かってきた。
「父にパソコンがほしいと、自分で買うから3年ローンの保証人にだけなってほしいと頼んで。当時100万くらいですかね。パソコンもWindowsとかMacとか全然知らなかったので、デザイナーになるならMacだろうくらいの気持ちで、『Power Macintosh G3』という機種と、IllustratorとかExcelのようなソフトを一緒に3年ローンで買って。説明書を見ながら1週間でExcelを覚えてから、いろいろ企業さんに連絡していきました」
なんとかパソコンスキルを習得したことで、働き口は間もなく見つかった。18歳、初めての就職先はBtoCの営業会社だった。
「そこでまた勝気な性格が出てくるわけですよ。どうやったら営業ってできるんだろうと思って。教えてもらえる人が周りにいなかったので、本屋に行って営業にまつわる本を全部読んだんです。そこから本が好きになったんですよね」
営業と名のつく本から、心理学の本に至るまで。3か月で100冊以上を読破した。頭にあったのは、とにかくまず与えられた仕事をきちんと全うすることだけだった。
「そんなこんなで半年でナンバーワンになったんですよ。歩合だったので、収入も1,000万円を超えて。でも、その会社の営業は儲けが最優先で、このまま続けても社会のためにならないなと思って、辞めてしまったんです」
勢いで会社を辞めたが仕事の当てがあったわけじゃない。目指すものも見つからないまま、中途半端にしばらく過ごすことになる。ちょうど福岡に新しく三越がオープンするタイミングだったのでインフォメーションスタッフとして働いたり、キャンペーンガールのような仕事もした。
広告代理店の知り合いに誘われて事務として働いてみたりもしたが、結局事務仕事は向いてないように感じて1年ほどで辞めてしまう。
「やっぱり自分で何かやりたいなと思って。デザイナーになりたい思いは変わらなかったので、じゃあもう東京に行こうと。右も左も分からないし、誰も知り合いはいないけど、とりあえず東京に行くことにしたんです。20歳ぐらいの時だったと思いますね」
思い切って上京し、できることから始めてみることにする。とにかくデザイナーとして仕事を得ないことには始まらないので、タウンページを見ながら営業したり、飛び込みでピンポンを鳴らしていったりもした。インターネットが使えるようになってからは、さらにいろいろな人や企業に会いに行く。
数を打てば当たるもので、最初は小さな名刺の仕事をもらうことができた。まだまだデザイナーとしては未熟だが一生懸命こなすうち、今度はチラシの仕事をもらい、さらにはカタログを任せてもらえるようになっていった。
「デザインは独学でした。Excelと同じです。当時は今みたいにネットに情報が落ちていないので新宿の電気屋さんに毎日通って、『月刊DTP』みたいな月刊誌が出ていたんですよ。そういう本とかをよく買いに行ったりしましたね」
小さな成長と実績を積み重ねるうち、とある大手企業からの仕事を評価されたことをきっかけに、瞬く間に依頼の幅は広がった。化粧品やアパレル、エンタメなど、女性向け業界を中心に名だたる大手企業から依頼が舞い込んでくるようになったのだ。
個人事業主としてスタートしたが、売上規模の拡大に伴い法人化し、やがて10名ほどの社員を抱えるようになる。デザイン会社の社長になるという夢を叶えたのは、23歳の時のことだった。
デザインの勉強をしていた20代の頃
当初は漠然と、年収1,000万円稼ぐ女性起業家になりたいと思っていた。しかし、目標には意外にも早々に手が届き、目標設定が甘かったと気づくことになる。売り上げは上がり、社員も増えた。その先が見えないまま7、8年が経つ頃、葛藤はますます大きくなっていた。
「やっぱり広告は企業さんのことをバリューアップさせないといけないので、自分が本当に良い商品だと心から思えていないというジレンマがあって。26歳で子どもを産んでからなおさら、世の中のために何ができるだろう、何が良いことなんだろうとすごく悩んだ時期が4、5年ありました」
事業を通じて生み出す価値が、本当に世のため人のためになっているのか分からない。人を喜ばせるようなことをしたいと思ってきたが、それが何なのか一向に答えは出なかった。道が見えないまま経営を続けていると、やはり売上も落ちてくる。
そんななか再婚や出産と、新たな人生の転機を過ぎて、住んでいたマンションを売る機会があった。
「その時に『ホームステージング』という概念と出会ったんです。インターネットで調べていたら、海外ではもう当たり前にそれをやっていると」
せっかく内覧に訪れても、何もない空間には生活感がない。購入希望者にそこでの暮らしやライフスタイルを想起させるインテリアコーディネートは、物件との出会いを最大限演出し、より魅力的にする。
実際に海外の情報を調べつつ、「ホームステージング」の概念を取り入れた家を売りに出してみると、当初の査定金額よりも500万円ほど高く売ることができた。
「インテリアで家の価値を高めたことで、買ってくれた人もすごく喜んでくれたし、私たちも大切な家を良い形で譲り渡せて、すごく良い取引だったと思って。でも、日本には『ホームステージング』という言葉すらないという状況で、これはやるしかないと思ったんです」
売主と買主双方に価値を生む。間違いなく社会のためになる事業だと確信し、2013年に株式会社ホームステージング・ジャパンを夫婦で設立。夫がCEOに、自らはCOOとして日本の「ホームステージング」第一人者になろうと奮闘していくことになる。
ホームステージング前の自宅(左)とホームステージング後の自宅(右)
勢いづいて起業したものの、はじめは仕事なんて来ない。そもそも「ホームステージング」を日本では誰も知らないのだから当然でもあった。
仕方なくまずはホームページを立ち上げて、マンションに1件1件ポスティングする。倉庫もないので家具は全て自宅に押し込んで、寝る場所しか残らないような状態だった。わずかに来る反響もトラブル続きで、毎日壁にぶちあたる。2、3年のあいだは食べるのにも苦労した。
「諦めなかったですね。おそらく世間一般的にはもうやめた方がいいと思われていたでしょうが、よく起業の本にも『9割以上に反対される』と書いてあるから、そんなもんだろうと聞き流して。逆に、人に賛成されない方がそこにチャンスがあるんじゃないかと、変なことを思っていました(笑)」
事業に転機が訪れたのは、野村不動産アーバンネット株式会社(現・野村不動産ソリューションズ株式会社)との提携だった。
偶然、同社内に米国で「ホームステージング」を学んだ担当者がいて意気投合。プランや価格帯を調整しながら売り出すと、大手のブランド効果もあり認知が急拡大した。さらに、テレビ番組「ワールドビジネスサテライト」にも取り上げられ、サービスは軌道に乗っていった。
しかし、リアルでステージングするとなると費用は20~30万円ほどかかるうえ、当時は都内で家具の在庫を抱えていた関係上、対象も都内近郊の物件に限られた。海外ではそんな課題に対し、ITを活用して低コスト化する「バーチャルホームステージング」のサービスも先行していた。
海外事例を全く同じようにコピーするつもりはないが、今後より広く「ホームステージング」の概念を普及させるため、何らかの形でテクノロジーを活用していく必要性は感じていた。
「もう1つ、やっぱり私は世のため人のために仕事をしたかったというところがあって。主人はどちらかというと、自分の周りの人たちを幸せにすることで満足する方だったのですが、私はそれより多くのことをやりたい、日本を変えていきたいという思いが昔からあったので。新しいチャレンジということで、カラーアンドデコを設立したという経緯です」
2019年、事業をスピンアウトする形で株式会社カラーアンドデコを設立。誰もが手軽にバーチャル上で暮らしを想像し、家選びができるようにする。さらに、バーチャルとリアルをきちんと紐づけ、豊かな暮らしを夢物語で終わらせない。そんな未来を実現すべく、カラーアンドデコは人と社会、地球のためになる価値を創出しつづける。
かつては人目を気にし、誰にどう思われるかという不安にとらわれがちだったと加藤は振り返る。ネガティブな自分の感情に心が支配され、無意識にそんな心を守るため、行動が制限されてしまうことがある。
しかし、本来自分のためよりも、誰かのためや世の中を良くするために行動する方がはるかに楽しい。特にカラーアンドデコを設立してからは、強くそれを実感しているという。
「昔は雑念のようなものがいろいろあったけど、物事をすごくシンプルにとらえられるようになってきて。もしかしたら経営とかいろいろなことをやってきてスキルが上がったということなのかもしれないですが、自分の過去とか感情は置いて、シンプルに物事を考えたり言葉を発したりできるようになりました。これを習得すると人生がすごく楽になるんです」
悩みや問題は尽きないもので、一切消えてなくなるようなことはない。それでも前に進んでいくために、ときに悩みは一旦脇に置くことが必要な瞬間がある。
「いろいろ悩んだり、壁にぶつかったり、戸惑ったりマイナスな感情ってすごくあると思うんですよね。私も悩むことが少なくなったと言いましたけど、悩みが少ないんじゃなくて、やっぱり隣に置くんですよね。隣に置きつつも走りつづけるということ。おそらくそれが上手くいくコツなのかなと思っているんです」
たとえば、夜の20時までは一旦考えるのをやめておく。あるいは、邪念は家に置いておくつもりで、オフィスに来るあいだは一旦手放すと決める。人それぞれの切り替え方法があるだろうが、時間と場所を決めて悩むようにしていると加藤は語る。
「昔から1時間以内とか悩む時間は決めています。あとは体調のせいにすることもすごく大事ですね。だいたい悩みがあるときって具合が悪いときで、寝不足とか、女性ならいろいろな波もあると思うので。『体調が悪いから悩みがあるな』と思っていると、ほとんど8割方の悩みは1週間くらいで消えますよね。『これがもし来週まで続いていたら本格的に悩みはじめよう』とか思ったりするようにもしています」
悩みや問題は、日々頭の中に在りつづける。けれど、それは決してコントロールできないものじゃない。必要なときに取り出して、必要なときに考え対処すればいい。そうして手にしたブレない心が、新しいチャレンジに踏み出す自分を何より支えてくれるのだろう。
2023.11.21
文・引田有佳/Focus On編集部
まだ駆け出しの20代だった頃、本がメンターだったと加藤氏は語る。営業の仕事も、デザイナーになるべく単身上京した時も、頼れる人がいたから成長や決断ができたわけじゃない。
頼れる人がいる選択の方がより良く思えたり、「これなら大丈夫だ」と確信できる理由を求めたり。あるいは、「もう少し力をつけてから」「もう少し知識をつけてから」と、そう何かしらの理由をつけて、一歩踏み出すことを先延ばしにしてしまう人も多いのではないだろうか。
しかし、できることから愚直に向き合いつづければ大丈夫だと加藤氏は信じていた。というより、信じることで退路を断ち、あえてゼロから切り拓く環境に身を置いてきたとも言える。それこそ望んでいた自己成長や未来を手にするために必要なことなのかもしれない。
未来は自分の手で創り出すものだ。そんな加藤氏の信念を体現するかのように、カラーアンドデコも数多くの暮らしの未来を創り出していくのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社カラーアンドデコ 加藤望美
代表取締役CEO
1978年生まれ。福岡県出身。23歳から広告、デザイン、WEB制作会社を起業し、12年間経営。女性をターゲットとする大手ブランド、コスメ、アパレル、エンターテイメント企業を中心に、広告、マーケティング、WEBサイト制作・運営などに携わる。2013年、株式会社ホームステージング・ジャパンを立ち上げ、「マーケティング×インテリアで不動産売却を高める手法」を日本で初めてサービス提供。2019年、3DCG/VR技術を活かしたバーチャルインテリアにより、不動産・住宅選びや暮らしづくりを提案していくべく株式会社カラーアンドデコを設立。