人類の進化はロボットではじまる ― 劣等感しかなかった僕だからカメになれたのだと思う

誰より大きな劣等感が、弱い自分を強くする。


乗れるロボットを追求する外骨格クリエイター集団であるスケルトニクス株式会社。エンターテイメント分野に特化した唯一無二の動作拡大型スーツ「スケルトニクス®」を開発・製造・販売する同社は、2010年8月に高専ロボコン全国優勝を果たした沖縄高専のメンバーにより発足し、2013年に創業。以来、全世界からの驚きと興奮、称賛をもって迎えられ、グッドデザイン賞や文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦など多数の賞を受賞してきた。人類の進化を創造し、人類とロボットの未来を切り拓く。同社代表取締役の廣井健人が語る「可能性の拡張」とは。



目次

プロローグ


1章 生き方

  1-1.  お調子者

  1-2.  負けたくない

  1-3.  なんで日常は終わってしまったのだろうか

  1-4.  ランク5の劣等感

  1-5.  でこ広い

  1-6.  ウサギとカメ

  1-7.  サッカー強豪校「背番号12番」

  1-8.  就職と上京

  1-9.  ロボットとの出会い


2章 社長交代

  2-1.  楽しいロボット


3章 スケルトニクス

  3-1.  人間の拡張と進化


編集後記



プロローグ


いつも表情を変えない、強くてかっこいいロボット。


武骨な体躯の向こうに敵が立つ。相手の攻撃をいとも容易くはねのけて、機敏な動きで攻撃を繰り出す。気づけば打ち倒された敵が地面に伏している。どんなときも変わらず負けない安心感。小さな子どもだったころ、そんな姿に誰より興奮し憧れていた。


物心ついたころから自分にあった劣等感。周りと比べて、いつも自分はひどく低い位置にいるような気がしていた。追いつかぬ背中を見上げて手を伸ばす。それでも手は届かず空をきる。それが当たり前になっていた。そんな現実は耐えられなかった。


今の自分ではない、ロボットみたいに強く特別な自分になりたかった。


目の前の誰かに勝ちたい。一番になりたい。人に好かれたい。そう思ったら、その場でじっとしているなんてできない性格だった。ほかでもない劣等感に体は突き動かされていた。


誰かを見返すには、ただ努力するしかない。たとえそれが、孤独な戦いだとしても受けて立とう。


自分に足りないものを、できる方法を必死に考える。雨が降っても台風が来ても、やるべきことは変えない。大切なことは、人より多く努力することだけだ。苦しくて逃げたくなることがあったとしても、好きなことだからこそ続けられるものがある。


一つ成長を実感するごとに、一つ壁を超えるごとに、小さな自信がついていく。まるで自分の存在が拡張していくみたいだ。ガンダムのように、強くて負けない自分を想像する。どこかの物語のヒーローのように、覚醒して全身が金色になる。想像を現実にする。きっとそれが自分を変えるということだと信じていた。


自分自身の可能性を広げてきた廣井健人の人生に迫る。


1章 生き方


1-1.  お調子者


あのころ住んでいた団地の前には、海が広がっていた。


高低差のある地形から、広い太平洋を一望できる。曲がりくねった軌跡を描く海岸線。波は岩礁にあたり、はじけ、静かにまた海へと戻っていく。陸地には、起伏の激しい山々が海のすぐそばにまで迫ってきている。自然がつくり出した荒々しい地形のなか、そこに控えめな様子で町がある。


リアス式海岸の恩恵を受け、そこでは魚がよく育つ。海と山の合間にたたずむ家々。古くから漁業が栄えた町だった。紀伊半島のほぼ南端に位置する和歌山県すさみ町。幼い廣井はそこに住んでいた。


ダンプカーの運転手だった父と、専業主婦だった母のもとに生まれた廣井。親族がこぞって住む団地の中に家を構えていた。


家がある団地の裏には公園が、右手にはゲームセンターが入っている旅館があり、子どもたちの定番の遊び場だった。団地のそばに住む20歳上になる腹違いの兄と、その子どもとはよく一緒に遊んでいたことを思い返す。


親族とはよく、みんなで食事をしに行ったものだ。家族や親族、団地に住む友達と。世界はあたたかく閉ざされていて、そのなかで子どもたちは自由に遊びまわっていた。




父は仕事で、いろいろな形の重機を自由自在に乗りこなす。子どもの目線から見上げる車体は大きく、豪快だ。これに乗れば何でも倒せるんじゃないか。やりたくなったら止まらない。頼んでみればきっと父は乗せてくれる。運転席横の特等席へ招かれたとき、特別なひとときに興奮したことを覚えている。武骨で強そうな姿に憧れていた。


当時は欲しいものは何でも買ってもらえたし、旅行のたびにどこへでも連れて行ってもらっていた。父にとって、母は2人目の奥さんだった。父の連れる息子(兄)と歳が離れていたためか、孫のようによく甘やかされた。


「ゲームボーイのポケモン初代は、赤も青も黄色も持ってたし、そのあとゲームボーイカラーも買ってもらって、NINTENDO64も買ってもらって。旅行するにしても、船に乗ったりヘリコプターに乗ったり。県内だったと思うんですけど、どこに行ってたんでしょうね。分からないけど、船に乗ってめっちゃ酔ってたのを覚えています」


おそらく自分から乗りたいと言ったのだろうか。記憶はあいまいだ。確かなことは、父がたくさんの望みを叶えてくれたということだった。


そんな父子の様子を見かねてか、反対に母は厳しかった。一度は「だめ」と母から言われることは決まっていた。それでも、結局父が許してくれる。小さいときは、何でも許してもらえるんじゃないかとどこか思っていたかもしれない。やりたいことがあれば心の赴くまま行動していた。



今日は家の外で食事をしよう。大人も子どもも連れだって、親族みんなで近くの料理屋に行く。机を囲み、美味しい食事を満喫していると、そわそわと体は勝手に動き出す。心は食事だけを向いてはいられない。変わらない店内の風景よりも、もう外の世界が気になりだしている。


大人たちの会話は終わる気配がない。冗談を言って笑う顔、笑いながら怒って言い返す顔。みんなの笑顔を見ているのも楽しいが、それでも目に入るものが気になってくる。


動き回る店員と、静かに食事をしている客。あちこち視線を動かすも、椅子に座っている場所からむずむずしてくるようだ。もう耐えられない。「ごちそうさま!」。自分の分を食べ終われば、目にもとまらぬ速さで一人店の外に飛び出した。


母が静止する声も耳に入らない。走って飛んで、外で遊び回っているのが楽しかった。


「じっとしていなさい」。母によく言われたことだった。当時は体にエネルギーが有り余り、とにかくずっと動いていたかった。あちこち外を走り回っては、暗くなっても家に帰らない。しまいには早く帰って来いと怒られる。でも、当時はそれさえも楽しんでいたのかもしれない。最後は許してもらえることを知っていた。


「幼稚園では、すごいお調子者と言われてました。みんなでドッチボールをやっていても、前に出て寝転んだりしてたみたいで、覚えてないけど同級生に言われます。みんなが笑っていて、たぶんそこで一番注目を浴びたかったのかな」


その場の注目を集め、みんなが笑う中心に自分がいる。そうして友達とくたくたになるまで遊ぶ日々。一つの場所に落ち着かず、たくさんの新鮮な世界を目に映していたかった。ときには怒られることがあっても、多少のことは父が許してくれる。行きたい場所に行って、遊びたい遊びを楽しむ。


海と山の狭間にある町で、無邪気な子どもの目に映る世界は自由にあるがままに広がっていた。



1-2.  負けたくない


団地での幼少期は温かくも濃い思い出ばかりだ。同い年から中学生くらいまでの子どもたちのなかで、年齢に関係なく大勢で遊んでいた。礼儀や上下関係のようなものも知らない。幼稚園児が中学生に向かって「お前」と言ってしまうくらいの関係だった。


どこにいても自由に心に従い生きていた廣井にとって、団地の遊びも重要だった。遊びでもどうせなら、勝って注目を集める立場でいたい。自分の思い通りでありたい。勝ち負けがある遊びなら、少しでも優位に立ちたかった。それには年齢も関係ないはずだと思っていた。


「夏にカブトムシとクワガタ対戦するんですけど、中学生のお兄ちゃんが持ってきたカブトムシの背中の羽の部分に、自分のクワガタ刺したりとかしてました。めっちゃ泣かされたけどやってましたね。勝ちたいし、負けたくないが大きいですかね」


強気な自分がいたのは、ガテン系の仕事をしていた父や兄の影響もあるかもしれない。親族や周りの雰囲気。みな勝ち気だったようにも思える。


特に口惜しさを味わったのは、近くに住む従兄弟の存在だった。いつも、大きく目の前に立ちはだかっていたことを覚えている。


家にいると、それは前触れもなしに訪れる。ふと虫の知らせを感じ取る。大きな笑い声が聞こえてくるだろう。ほらそうだ。家に従兄弟が遊びに来た。その瞬間、背中には嫌な汗が流れている。今にも床を踏みしめる地響きが聞こえてきそうだ。逃げ場はない。じっと動かず、そこにいる。足が地面に張り付いてしまったみたいだった。


遠目にも大きな体は、近づいてくるともっと迫力がある。顔には大きな笑顔をたたえ、体はまるで、山から降りてきたばかりの熊のようだった。聞けば誰もが納得するだろう。従兄弟は普段、趣味で猟銃を携えイノシシを狩っていた。


「俺が鍛えてやる」。そう言ってはじまる。投げられたり、従兄弟は会うたび毎回いじめてくる。親族みんなの前で泣かされる。幼稚園児の力では、20歳の大人には到底かなわない。しかも熊ならなおさらだ。怖くてたまらない。大きくて抗えない存在には、負けを受け入れつづけるしかなかった。


しかし、感情は徐々に変化する。ふとした瞬間から、純粋な恐怖に支配されていた心に反骨心のようなものが芽生えはじめる。いつも負けていては悔しい。強気な自分がひそかに反旗を翻す。灯った火は小さく、しかし確かに燃えていた。負けたくない。なんとかして勝てないかと考えるようになった。


やられたらやり返す。やられる前にやる。何度挑んでも大きな壁のような従兄弟の体はびくともしなかった。挑んでは泣かされる。ひたすらその繰り返し。今思えば当たり前の話だが、当時は真剣だった。願っても願っても、従兄弟に打ち勝つことはできなかった。


「学習しなかったんでしょうね。怖いもあるけど、勝ちたいが上みたいな」


いじめられるのは嫌だと心が言っている。こんなにも自分の思い通りにならない世界があるのだろうか。泣かされるのも屈辱だ。なんとかして勝ちたいと願っても、結果は変わらなかった。圧倒的な力を前にして、自分の非力さを痛感する。それでも覆したくて必死に努力した。


敵いそうもない何かに挑んでいくこと。負けても立ち上がるあきらめない心。あとになって思えば、従兄弟に鍛えられたのは、そんな風に大きな壁に立ち向かっていく精神力だったのかもしれなかった。



1-3.  なんで日常は終わってしまったのだろうか


いつもと同じ毎日が過ぎていくはずだった。


その日は家にいた。何をするでもない。ただ、あたたかい何かに包み込まれているような心地がする昼下がりだった。


かすかに母が自分を呼ぶ声がする。おもむろに返事すると、どうやら外出しようとしているところのようだった。一緒に出掛けるのだろうか。それにしても、聞いてない。突然だ。今日はどこかに行く予定があったっけ?


よく見れば、母は大きな荷物を持っている。「なんでそんな荷物を持っているんだろう?」。疑問を挟む間も与えられない。何かの予兆を感じさせるものがそこにあったのは事実だった。実体を伴わないそれは、母から自分の足元へひたひたと迫ってくるようで、思わず足を止めていた。


もう一度、母が強い口調で自分を呼んだ。拒むことも許されぬ母の合図とともに何かが纏わりついた。いつもと同じ玄関のはずなのに、違って見える。吸い込まれそうなほど暗く、不自然なさま。そこを出てはいけない。


母の背の向こうにある世界は、これまでと違う何か大きな恐ろしいものが待ち構えているような気がした。今玄関を出てしまえば、その先は同じ景色ではないはずだ。「行きたくない」と、言葉が先に口をついて出た。でも、なんで行きたくないんだろう?自分でも理由が分からなかった。


母の背中は我儘な子へのため息に満ちている。繋がれた手は母の固い意志を表しているようでもあった。ずるずる前へと引っ張られていく。一歩、一歩、そのときは近づいていく。家の外に踏み出す。行きたくない!もう一度、強く思った。今度はもっと明確で、きっと本能に近いものだった。


瞬間。空の手でドアノブをつかんだ。それでも母の手が強いに決まっていた。引っ張られ、反射的にこちらも手に込めた力を強くする。結んだ手から、母の怒りが全身に伝わっていた。なんで怒られているんだろう?訳も分からず怖かった。


あたたかい部屋に早く戻りたい。ただそれだけでよかったのに。何かに縋っていたかった。そのときばかりは、許してもらえなかった。


抱えられて運ばれた扉の向こうの世界は止まって見えた。視界の端には、ご近所さんが遠巻きから様子を伺いに来ているのが見える。玄関が見えなくなる。頭の中で景色だけが動いていった。


説明は何もなかったように思う。父と母が離婚した。小学校に入る少し前のことだった。日常は唐突に終わりを告げた。


気づいたときには新しい家にいて、眠りから目覚めたところだった。全身を包み込む倦怠感。泣き叫び、そのうち疲れて果て眠ってしまったのかもしれない。目に映るのは、見慣れない天井。ここがどこなのかは分からない。


空っぽな自分がいる。どこかから、知らない町の音が聞こえていた。





お父さんとお母さんは、なんで離婚したんだろう。その答えが知りたかった。


いつからか「なんで」という言葉が口癖になっていた。何に対しても、「なんで」「なんで」と繰り返し聞いていた自分がいる。周囲の大人たちは面倒だっただろう。3文字で尋ねられ、ひとしきりきちんと説明する。納得できないと、また3文字で尋ねられるのだから。とにかく理由が知りたかった。


新しい土地には、心よりも先に体が勝手に慣れていく。


和歌山県田辺市。母と二人きりの生活がはじまった。幼稚園の卒業式に出られなかったのは残念だったが、引っ越してからも何度か幼稚園に遊びに行ったことがある。友達は何も変わらずそこにいた。


一つシャツのボタンを掛け違えているような、かすかな違和感。何かが変わってしまったのは、自分の方であるようだった。



1-4.  ランク5の劣等感


4月。田辺市にある公立小学校に入学した。


顔見知りに囲まれていた幼稚園時代から、誰も知り合いのいない小学校へ。慣れない環境に一人ぽんと放り出された。心は寂しく、人との付き合い方も分からなくなっていたのかもしれない。


グループに入っていくのに、声のかけ方なんて分からない。変に声をかけて嫌われるのは怖い。どう思われているかが気になってしょうがない。人から見られる自分を気にするようになっていた。はじめのころは、友達を作るのも苦労した。みんなの会話が盛り上がっていても、しばらくは端の方で様子を伺っていた。


たまたまその日は、男子だけが集まる場に居合わせていた。小学生の共通の話題なんて限られている。誰々は誰のことを好きらしい。もっぱらこれで小学生男子は一日過ごすことだってできる。たいていクラスに決まって一人、マドンナ的な人気の子がいる。みんなはその子の話で盛り上がっているようだった。


気になる異性の話は平等で全国共通だ。ふいに自分にも話が振られてくる。好奇の視線が一斉に集まる。焦った。その手の話は誰かとしたことがない。数秒言葉を探して、とっさに頭に浮かんだ顔と名前を口にした。


「おぉぉぉー」


驚きの声。自分の発言に、みんなは盛り上がる。自分はその子が一番だと思っていたが、みんなはどうやら違うらしい。あれこれ質問されるので、一つ一つに答える。今までにない、心がそわそわするような感覚があった。


秘密を共有した者同士のきずなは深まっていく。授業中や休み時間、何気ない瞬間に目配せしあうようになる。そこには不思議な連帯感が生まれていた。結果的に、みんなと徐々に打ち解けていくきっかけとなった。


「その子のこと、僕は小1から中3まで好きだったんですけど、9年間で三言くらいしかしゃべってないんですよ(笑)。ふいに『廣井って身長いくつ?』って聞かれて。成長期なので身長伸びるじゃないですか。それ答えて終わったくらいしか覚えてない。それ以上無理でしたね」


自分を出すのには躊躇する。出した自分がどう思われるかと気にしてしまっていた。結果的にその子と接した機会は少ないまま、ともに過ごす期間は終わりを迎えていた。


でもそれで良かった。僕は、みんなが知らない彼女の魅力を知っている。そうか、これは自分だけが知っていることなのか。人と違う自分はかっこよく、なんだか特別に思えていた。



学校の中にある公園でブランコや一輪車に乗って遊んだり、両手を灰色にして泥団子を作ったり。友達ができると、外で遊んでいることが多かった。


小学校にもなれば遊びの幅は広がる。それでも欲しいものを買ってくれる父はもういない。厳しい母は、相変わらず甘やかしてはくれない。みんなが持っているゲームも自転車も、決して自分の手にできるものではなかった。


せっかく友達と仲良くなっても、グループでただ1人自分だけが持っていないものがたくさんあった。


放課後、友達とそれぞれ家へと向かう帰り道。みんなは悠々自転車のペダルを漕いでいる。それでも一緒に帰りたい。速度を合わせるため毎日必死でついていく。ボクサーのトレーニングみたいだ。歩くというより、ほとんどいつも走っていた。なんで僕だけ背中を追いつづけないといけないのだろうか。友達に何か差をつけられている気がしてしょうがなかった。


おかげで足腰が鍛えられたのだろう。年に一度の小学校のマラソン大会は、6年間上位でゴールした。しかも、そのうち3回は優勝だ。たしかに結果は嬉しかったが素直には喜べない。それよりきっと、みんなと同じように自転車を買ってもらえた方が嬉しかっただろう。


幼稚園で一番に注目を浴びていたあのころ、昔はどんな気持ちで過ごしていたんだろうか。いつからか失くしてしまったものがあるような気がしていた。


「母子家庭で何も買ってもらえなかったから、人と同じじゃないなと思ってました。みんなが持ってるランクよりも、自分は下なんだなという勝手な固定概念があって。0から100だとしても、自分は5とかだと思ってたんです。小学校のころは、幼稚園とは全然違いますね」


みんなははじめから持っていて、自分には絶対に手に入らないもの。なんで自分は持っていないんだろう。当時、心の底にずっとあるその感情の正体を言葉にできてはいなかった。


自分はランク5なんだろう。ランク100の友達を前にすればそれは自明のことのように思えていた。周りに対しての劣等感。どこから来たのか、気づいたときには心には越えられない壁への悔しさが占めていた。


その壁を超えるにはどうすればいいんだろう。何が必要なんだろう。


自分が特別な存在になったかのように感じさせてくれるものがあればいいのだろうか。特別な自分であれば、周囲からの視線も変わるのだろうか。小さかったあの頃のように、みんなに好かれる特別でいたい。


もう思い通りに生きられないのだろうか。心の赴くまま生きていくことはできないのだろうか。日常がなくなった気がしていた。もう戻ることのできないところにいる。最底辺だという劣等感が廣井を覆っていた。


小学校の卒業アルバム。前日に母親に前髪をぱっつんにされ大泣きしている。


1-5.  でこ広い


学校の勉強はあまり興味がなかったが、体育と社会だけは成績が良かった。特に好きだったのは歴史だ。


歴史の教科書をめくれば、そこにはさまざまな人の物語がある。なんでこんな出来事があったんだろう。なんでそんなことをしたんだろう。考えはじめると止まらない。


興味を持って調べると、歴史は答えがある。「なんで」が解消される。だから自然と物語を追っている。なんで。なんで。なんで。一つ一つをひも解いていくのは面白かった。


さらに、昔の人は名前もかっこいい。「なんとかのなにみち」。なんだか複雑ですごそうだ。一時期、本気でミドルネームが欲しい思っていたこともある。


「歴史上の人物では豊臣秀吉が好きですね。もともと高い位だったわけじゃないけど、そこから成り上がっていく。頭がいいからこそ、自分のプライド捨ててまで下からいって。やっかみとかすごかったと思うけど、それにも対応してちゃんと上がってくところがすごいなと思って。自分の劣等感と重ねてたのかな」


たとえ上司から「猿」と呼ばれても、めげずに努力し、ついに最後は天下を取った。低い身分から人知れず努力をつづけ、周囲を見返していった。秀吉の生きざまは勇気をくれるものだった。


当時はちょうど、自分も不本意なあだ名をつけられていた。


廣井という苗字とかけて「でこ広い」。小学校の途中から、そう呼ばれていじられるようになった。大人になれば笑い話だが、小さいときはやたらと気にしてしまう。笑っていても喧嘩のときも、言われるたびに心はざわついた。


今思えば、軽いいじめのようなものも含まれていただろう。変に答えて嫌われたくもない。仲の良い友達との関係性が変わっていくのは嫌だ。みんなに好かれる自分でいたかった。集団の中にいると自然と人の顔色を窺い、バランスを見て自分の役割を変えるようになっていた。


周囲に合わせて、立ち居振る舞いを変えていく。相手の喜びそうな自分を考えて出していく。その場にいられるためにも、そう生きていくしかなかった。


でも、本当はいじられる弱い立場のままではいたくなかった。周囲を見返してやりたい。劣等感や反骨心が燃えていた。どうにかして現状を変えたいと心の底では思っていた。



小学校の高学年からは、ひたすらスポーツに打ち込んでいた。自らやりたいと言ったわけではない。母からやりなさいと言われたからだ。


「母が夜勤でいないときがあるので、部活に入れた方がいいんじゃないかということで。器械体操と少林寺と陸上をやってましたね。器械体操は市の体操教室みたいなところに誘われて入って、陸上は毎週土日の体操がないときに。少林寺は週に2回くらい夜にあったと思います」


日々の生活はそれなりに忙しく、何かに追い立てられるように毎日が過ぎていった。器械体操では別の学校に友達もできた。世界が少しずつ広がりつつある感覚がする。


それだけやれば、実力もついてきた。何かに打ち込めば結果がついてくる。学校では体育の授業では一目置かれるようになる。「すごい」と人から言われるのは心地よかった。この感覚だ。ランクアップだとも思えていた。


自分のランクが少しだけ上がってきた。人より劣っているように思えていた自分から、徐々にかすかな自信がつきはじめた。


学校ではいまだに「でこ広い」でいじられる。もっと人から好かれる自分になるには、どうすればいいんだろう。頭ではずっと考えつづけていた。


自然と思いついた秘策があった。


「学年に一人、番長がいたんですけど、毎年僕は番長が変わるたびに前年の番長と仲良くなるんです。番長入れ替えで落ち目じゃないですか、そこをたぶん行ったんでしょうね。毎日遊ぶようになったり家に行ったりとかそういう付き合いができた。狙って行ってたのかもしれないですね」


元番長と仲良くなれば、学校での力関係も良い方向に変わってくるかもしれない。まずは、相手の好きなものや得意なものの情報を仕入れた。どうやらサッカーが好きらしい。そうと分かれば隠れて練習し、一緒に遊べるようにした。


翌年、6年生のころの元番長は、学校の近くに住んでいた。それならばと毎朝家まで迎えに行って、一緒に登校するようにした。小さなことが積み重なる。ただそれだけで周りの目線は変わってくる。


努力をすれば、自分のランクを上げていけそうだ。確信に近いものだった。


人から好かれたい。どうすれば好かれる自分になれるか考え努力する。自分を変えていく。抱える劣等感が、自分を突き動かす原動力になっていた。


小学校の卒業アルバムの文集。


1-6.  ウサギとカメ


中学校に入学してすぐ、サッカー部に誘われた。


小学校の元番長の好きなスポーツだったから、こっそり練習をしていた廣井。気づけばサッカーが大好きになっていた。部活でやるのも楽しそうだと思い、入部することにした。


サッカー部の先輩はやんちゃな人が多かった。というより、サッカー部自体がモテるグループだった。学校で王子様と呼ばれる人もいる。しかも、自分以外は全員サッカー経験者という環境だった。


ひとり初心者の自分。また下からのスタートだ。でも、臆することはない。努力して少しずつランクを上げていけばいいと分かっていた。


「最初は下手だったけど、やってると周りが思ったより下手で。半年くらいで一番うまくなったんです。でも、自分自身はしゃべらないのがかっこいいみたいに思ってたので、あんまりモテず(笑)」


学内で一際注目の集まる部活の中で、自分が一番になった。ウサギとカメの寓話のようだとも思った。しかし、だからといって満たされた気持ちにはならなかった。外部との練習試合をすれば、チームはだいたい負けていた。


負けるのは悔しい。そのたび一人で自主練を重ねるも、仲間も同じ気持ちだったわけではないようだった。


試合中思い通りにならないと、思わず仲間への文句が口をついて出る。でも、それだけ切実に勝ちたかったのだ。なんだか気持ちがみんなと離れた場所にあるようだった。


違う学校と試合をしていると、ときに小学校時代に仲良くなった昔の番長と再会することもあった。相手は強いチーム。懐かしく気軽な気持ちで声をかけると、向こうは人が変わったように見下してくる。あんなに仲良くしていたのに嫌だな。何にも自信がなかったころの自分の記憶が蘇り、距離を置くしかできない自分にもどかしさが募った。


やっぱりチームでも勝たないといけない。



中学では、とにかくサッカーが上手くなりたかった。それから本当は、モテることも大事だと思っている。思春期にありがちな話だ。前髪とえりあしを伸ばし、髪にはワックスをつける。カッコつけたくて、ちょっとしたことでも先生に反発したくなる。でも、意識しすぎて女子と話すのは苦手だった。


いわゆるスクールカーストでは、一番手か二番手、二つのグループのあいだを行き来していた。一番上に行けばみんなからの注目が集まるが、二番手にいた方が自分らしくいられて楽だった。誰かについていくのではなく、自分で主導権を握ることができることが安心させてくれていた。


「中学のころ、たまにお父さんのところに遊びに行ったりすると、『髪の毛長いから顔見えないな』とか『お前しゃべらないな』とか言われたりしてました。男友達の前では明るいけど、ほかでは暗かったんじゃないですかね」


本来の自分という人間はどこにいたのだろうか。努力してサッカーが上手くなった自分。モテたかった自分。あるいは、友達の前の明るい自分。黙っている自分。当時は何かの狭間を揺れ動いていたのかもしれない。


それでも、不思議とこのときばかりは自分だと言えるものとの出会いもあった。


名作SFロボットアニメ機動戦士ガンダムシリーズのなかの一作『機動武闘伝Gガンダム(製作:サンライズ)』だ。出会いは小学校のころだったが、父からのお小遣いで手に入れて、本格的にゲームをやりだしたのは中学からだった。


ぴちぴちの専用スーツを着て、パイロットが機体に乗り込む。普通のガンダムでは、コックピットに座って手元を操作するが、Gガンダムは違う。操縦者が右手を動かせば、右手が動く。左足を踏み出せば、同じように左足の動きが一致する。体と連動し、意のままに操ることができる大きな機体。だから乗り込むのは、基本的に格闘家と決まっていた。


単純な勧善懲悪と思いきや、ストーリーにも深みがある。主人公が戦いを挑んでいくのは実の兄で、兄弟対決が繰り広げられる。物語が進んでいくと、黒幕として兄を操っていたのは、実は自分の師匠だったことが明かされる。


物語の世界の中では、さまざまな登場人物の歴史と人生が描かれていた。それもまた魅力に感じていた。


気づいたときには、強くてかっこいいガンダムの世界に引き込まれていた。自分が主人公だったらと想像すると、心が躍り出す。不思議と心が惹きつけられる。何かは分からない。けれど確かなものが、そこには存在しているようだった。



1-7.  サッカー強豪校「背番号12番」


そもそも将来は何になりたいんだろう。高校受験を前にして、はじめて考えていた。浮かぶものは何もない。あるとするならば、とりあえずサッカーがしたいという気持ちだけだった。


家の近くには6つほどの高校がある。しかし、学力的にどこなら入れるという話ではない。中学時代はテストもほとんど勉強してこなかった。当時その中の一校に、偶然サッカーが強い同世代が集まるといわれていた高校があった。どうせなら自分もそのサッカー部に入りたい。その一心だけで、初めて塾に通い出すことになる。


勉強は嫌いだった。テスト勉強も一夜漬けでしかしたことがない。それでも合格しなければ、目指すべきサッカー部がある高校には入れない。


自分はそこでサッカーがしたいんだ。それだけを考えるようにして、なんとか勉強机に向かった。果てしなく思える塾の課題や入試の過去問。勉強のために徹夜することも初めての経験だった。


「その高校に行きたい、サッカーがしたいだけでしたね。単純にサッカーが楽しかったし、初心者から中学の部活に入って、周りがみんな経験者であるなかでやっていけて。実力もたぶん1番2番くらいになれていたので、そこまで行けた楽しさもあったのかもしれないです」


数か月の格闘だった。勉強だって努力すれば自分はできるのか。晴れて志望高校である地元の工業高校の電子科に入学にした。


学年に女子は二人。ほぼ男子校だ。電子科を選んだのは、単純にそこが一番入りやすかったからだった。内容に興味があったわけではない。とにかくサッカーがしたかった。


授業で覚えているのは「はんだごて」くらい。授業はいつも聞いているふりをして、机の下では漫画やゲームに明け暮れる日々だった。


高校のころ。


ついにサッカー部に入部する日がやってくる。入部希望者の集団を見て、目を疑う。そこには、幼稚園で仲の良かった友人が3、4人たまたま集まっていた。偶然の再会。あのころの懐かしい感覚が蘇ってくる。一番に注目を浴びていたころの優越感と、小学校以降の劣等感が入り乱れた。


まず小手調べに入部希望者で練習試合をする。スパイクの紐を結びなおし、勢いよくグラウンドに駆けだした。試合開始のホイッスル。初めて会った人同士、一緒にボールを追いかけた。


その時点で、お互いの実力は明らかになる。自信とは裏腹に、自分はまったく歯が立たない。悔しいが、上手い人が集まっているというのは本当のようだった。


新入部員は約20人。もともといたメンバーと合わせると、部活全体で3、40人になる。試合に出られるレギュラー枠は11しかない。監督に選ばれた特別なメンバーだけが、ベンチに入ることができる。


廣井は当然、ベンチ外だった。


「大会があってもベンチに入れるのは20人くらいで、大会で言うベンチ外は、上の観客席にいるんです。試合に出たいのに出られない。上手い人からは下手とか言われるし、みんなが試合のとき外で練習していたり。僕は納得できなかったから、最初の半年くらいめっちゃ自主練してて」


みんなの背中は遠くにあった。上手い人たちに比べ、自分の実力は足元にも及ばない。けれど、いつか彼らと肩を並べ、さらには追い越していく。なぜかは分からないが、そうなれる自信があった。


自分も試合に出たい。馬鹿にしてくる上手い仲間を見返してやりたい。劣等感に火が付いた。


見返すための行動は、毎日毎日、人より多く練習するだけだ。2時間の部活が終わってから追加で1時間。帰宅してからも近所で1時間。体は疲れてへとへとになる。途中で辞めたくなることもあった。でも、辞めたらきっと後悔するような気がしていた。


雨の日も台風の日も関係ない。ポジションは右サイドバックだったので、クロスの練習や走り込みをする。パスの飛距離を伸ばすために筋トレも必要だ。自分に足りないものを考えて、できる練習は何でもやった。





半年後。強い西日にさらされる乾いた季節のことだった。当時は少しずつ、試合で使われることも増えていた。試合で使われるかは監督次第。その言葉には特別な響きがあった。


チームは大きな大会を控えていた。ある日突然、監督に名前を呼ばれる。返事をして、その顔を見る。「次の試合に出ろ」と監督は言う。一瞬の間のあと、喜びが全身を電流のように駆け抜けた。


努力は報われるんだ。つらい努力は、すべてこの日のためにあったと言っても過言ではないかもしれない。その日以来、3年間メインの選手として試合に出場しつづけた。


「A選、B選という区分けがあって、僕はベンチ外の控え組Bで。最初はそこでも出られなかったけどどうしても出たかった。ウサギとカメじゃないけど、上手くて試合に出ている人はだんだん練習しなくなるんですね。半年経ってA選で試合に出られるようになって、そこからはずっとフル出場でした」


最初のころベンチ外のときは、ユニフォームすらもらえなかった。それが今ではどうだろう。自分の名前が入ったユニフォームがある。部屋で一人、誇らしげに広げてみる。背中に入った「12」の数字。普通はチームのサポーターが背負う番号を選んだ。サッカーをしている人なら、誰もが一瞬目を引かれる。人とは違う、特別な感じだ。面白いなと思い選んだものだった。


3年間、頭を占めていたのはサッカーのことしかない。当時はテストで初めて0点を取ったこともある。答案はすべて埋めたのに、逆にそんな点数が取れるだろうか?それでも勉強ができるようになりたいなんて思いもしなかった。


進学か就職か、選択しなければならない時期。高校3年生になっていた。工業高校だったので、周りは就職する人が多かった。


将来の夢は特にない。なんとなく進学したいと思っていたが、母子家庭なので家にはあまりお金がない。それならば就職だろうか。どちらにしても、進学するなら自分で稼いだお金で行こう。


給料がよさそうな会社はないか。選んだ就職先は佐川急便だった。足腰には自信がある。テキパキとした働きぶりの「佐川男子」、なんだかモテそうでもある。


学校からの推薦枠は1枠で、その枠はサッカー部が持っていた。希望者の中には学力的に敵わない人もいたが、サッカーの実力が上だという理由で、幸いにも自分がその枠をもらうことができた。


新しい世界は自分の努力で開けていく。確信を伴って、グラウンドを走り抜けていた日々だった。



1-8.  就職と上京


佐川急便の新入社員研修がはじまった。


大卒も高卒も、数百人の新人が四国の田舎に集められる。日常とは隔離された生活だ。朝6時に起床して、点呼がある。そこからみんなでランニングや訓練をして、社是や社歌を覚える。一週間後、最終日には試験が待っている。


自衛隊に入ったら、もしかしたらこんな生活に近いのかもしれない。なんとか無事合格することができたのは奇跡に近い。でも、自分はこのままやっていけるのか?安堵のため息ともに、帰路につく胸には不安を抱えていた。


ベテランの先輩たちにもまれながら働いた1年目。結果的に、不安は的中することになる。2、3年働くつもりでいたが、心が折れてしまった。なんとなくで選んだ仕事は続かなかった。


もともと進学費用を貯めたいという動機で入社したこともある。当時はちょうど、貯金と稼いだお金を合わせれば、奨学金で進学できる見込みがついていた。仕事は辞めて、学校に行こう。何よりもう一度、サッカーがやりたかった。





入学したのは、大阪にあるスポーツと医療を学べる専門学校だった。生徒は数百人。さまざまなコースがあるなかで、サッカーの選手かインストラクターになれるコースを選んだ。


そこには高校サッカー部の友人も一足先に入学していたので、同学年と一学年上の両方に友達ができる。年上で社会人経験があった自分は、最初から同級生を引っ張っていく目立つ立場でいられた。おかげで以前より、自然と自分を出せるような感覚があってやりやすくもある。大好きなサッカーに打ち込める環境で、気安く付き合える友達がたくさんできていた。


一日のスケジュールはサッカー漬けだ。朝9時から練習をして昼休み。昼からは試合をするか、もしくは座学で授業を受ける。放課後はアルバイト。ひたすらにその日々が繰り返される。でも、当時はそれが楽しかった。


「一回社会人を経験してるからか学ぶのがすごい楽しくなっていて、このときはたぶん一番毎日勉強してましたね」


勉強がこんなに面白いものだということも初めて知った。いまだかつてないほどに夢中になることができた日々。好きだからこそ自然と学ぶ。興味あることの勉強は、こんなにも楽しいものだったのか。


専門学校のころ(左上)。


卒業後の進路は深く考えていたわけではない。インストラクターになるための資格は取っていたが、いざ就職活動をはじめてみると、給料が低いと感じてあきらめることにした。


これでサッカーはやり切った。でも、ほかに興味のあるものもない。卒業後は何をしようかと考えるうち、修学旅行で一度行ったことがある東京の景色が浮かんだ。上京してみるのもいいのかもしれない。それに、和歌山の田舎から出て大阪を知ったら、次は東京に行くしかないとも思っていた。


求人サイトを眺めては、遠く離れた東京での仕事を想像してみる。上司や同僚、そこで働く自分の姿。ネット上の情報からイメージできることは限られている。それでもいくつか、サッカーに関係する仕事が目についた。


サッカー関連の雑誌を販売している出版社、サッカーチームの求人サイトを運営する会社にスポーツショップ。履歴書を書いて書類審査を受け、面接に呼ばれて志望動機を話す。なんだかベルトコンベアに乗せられているみたいだった。そこには自分の意思も現実感もない。いくつか受けてみたものの、どの仕事にも自分が特別やりたいと思えるような何かは見い出せていなかった。


3月。卒業の季節。


就職先は決まらず春を迎えた。仕方ない、先に上京しよう。初めて住む東京。右も左も分からないが、まずは家を探さなければと、目についた不動産屋さんに入って行った。事情を説明する。「新宿だったら何でもある」と不動産屋さんは言う。しかし、都心に住めるようなお金はない。新宿に出やすく、なおかつ家賃が安い物件を教えてもらった。


幹線道路にほど近く、生活に必要なものは十分そろっている。選んだ町は、江戸川区にある篠崎という町だった。東京の端の端、すぐそばに流れる江戸川を渡れば千葉県だ。都営新宿線に乗れば、40分ほどで新宿に着く。とにかく魅力は家賃が安いことだった。


1年ほどはアルバイトとして働きながら、仕事を探していた。やりたいことはよく分からない。当時の自分にとって唯一明確だったのは、お金がないということだった。


「母子家庭だったし、物心ついたときからそんなにお金を持ったことがなくて。豪勢に使うとか、通帳を見て『めっちゃ持ってるじゃん』という感じがなかったんですよ。なんでそうなのかなと考えたときに、単純にお金のことを知ってみようかなと思って。絶対生きてく上で切り離せないものだし、学校で学べないし。転職サイトで見つけたFXを取り扱ってる会社を受けたんです」


お金について知るには、お金にかかわる仕事が一番だ。その点、経済によって変動するFXは、お金だけでなく経済についても知ることができそうだった。正社員にはなっておきたいし、将来どうなるにせよお金は貯めておきたい。給料が良かったことも決め手になった。


「あと、面接受けに行ったときに、僕22、3歳だったんですけど、同い年の人がそのタイミングで会社の執行役みたいな役職になってたんですよ。そこで劣等感だと思うんですけど、同い年でそうなってる人が目の前にいるから、自分も頑張ればこの会社でそうなれるんじゃないかなと。年齢で評価する会社じゃないんだなっていうのを感じました」


努力すれば、下から上がっていける可能性がある。


東京に出てきてから1年。そこで働く自分の姿を、初めて想像できた。



1-9.  ロボットとの出会い


内定をもらい、晴れて会社員として働き出す。


配属されたのは、お客様対応をするサポートセンターの部署だった。一生長く働くつもりではなかったが、やりたいことを見つけるまでお世話になることにした。


自分がやりたいと思える仕事は何なんだろう。日々頭から離れることはなかった。


それでも、やりたいことは見つかりそうにもない。やりたいことが見つからないのなら、自分で会社を作ればいいとも考えた。起業を意識しはじめたのは、そのころからだった。ただ、作ると言っても作りたいものがない……。サッカー以上に熱量を注げそうなものは思い浮かんでこなかった。


当時の上司はよく、そんな自分の相談に乗ってくれた。


「そこの社長さんとか上司の人と仲が良かったので、いろいろ話してるなかで、これからロボットが来るだろうとか、ブームとか市場を作っていけるとか聞いたりして。単純にずっとガンダムが好きだったりしたこともあって、それで面白いなと思ったのがスタートですね」


強くて特別なロボットはかっこいい。思えば、昔からガンダムは変わらず大好きだった。中学のころ夢中になった『Gガンダム』。ずっと何をやりたいか探していて、たどり着いた分野は自分にとって、いくらか懐かしいものだった。


自然と興味が湧いてくる。気づけば情報を集めている。学ぶのが楽しい。そう思えるものなら、きっと熱量を持って打ち込めるだろう。やると決めたからには、一回やってみる。だめだったらまた考えればいい。


FXの会社を辞め、ロボットに関わる会社に入ったのは、それから間もなくのことだ。もっと深くロボットに関わることのできる職場を探し求め、2017年からは歌舞伎町にあるロボットレストランの営業として働いていた。将来起業することも視野に入れ、お金を貯めたいと思っていた。


ど派手なネオンの看板がきらめく夜の歌舞伎町。なかでも一際目を引く奇抜な佇まいで、連日ひっきりなしに外国人観光客が訪れる。営業は、昼間はホテルや旅行代理店へ行き、観光客向けのツアーを企画してもらう。夜にお店が開いてからはお客さんをショーに招待したり、実際に店の手伝いもした。


歌舞伎町という土地柄か、職場にはさまざまな人種が集まっていた。体に刺青が入っている人や、逮捕歴のある人もいる。理不尽なことで罵声が飛んでくることもあるが、それさえ耐えられれば仕事は刺激的で面白いものだった。


「歌舞伎町なのでみんなキャラがすごいんですよ。理不尽なことで、『てめぇ何やってんだよ』とか言われたり。直属の上司もけっこう強い人で、お客様と打合せしても、一緒に仕事してても意味ないなと思ったら『もういらなーい』とか言ったり。僕はずっと横で見てたので、そこまで素直にいらないとか言えるのすごいなと思って。みんな個々で自分を持っていたから、そこで自分が気を遣ってても意味ないなと思いました」


幼いころは、誰もが素直に感情を表に出していた。


理解できないことには、躊躇わず「なんで」と声を上げた。嫌なことがあったら泣き叫び、大人に褒められると嬉しさを隠せなかった。心が痛んだらその場に立ちすくみ、愛してほしいときは言葉と体で訴えた。


しかし大人になる過程で、周囲を窺い失われてしまった声がある。


昔から劣等感があり、人に嫌われないようにと意識してきた自分がいる。自分の行動が人からどう思われるかと気にしたり、好かれるためならと自分の素直な感情を抑えて、生きてきた。


でも、ロボットレストランではそんなことに注意を払う人はいなかった。それぞれが自分の感情や意見を素直に外に出していた。なんて素晴らしいことなんだろう。厳しいのは、遅刻や礼儀など人として基本的なことだ。見た目や言い方は怖くても、言葉の中身は間違っているとは思えなかった。


もちろん会社の外では、ときに人に合わせて態度を変えることも必要になる。それでも、今まで喉の奥で止まっていた言葉が、そこに詰まるような感覚はない。言うべきときにきちんと言葉が出てくるようになっていた。自分の素直な感情が、自然とあふれるようだった。


自分だけの心が生み出す大切な言葉の数々を、きっと人は忘れてしまうべきではない。


「僕自身楽になったし、仕事においても下手でずっと行ってたけど、今は人にもよるけど同じ目線でいけると自分が思えたので、商談もけっこうやりやすくなりましたね。成果もあがるようになったし、足元見られなくなりました。あと若いからとか、年齢がどうとか言われることもなくなりました」


表面上は厳しい言葉をぶつけられても、その裏にある愛すら分かるようになってくる。まるで自分という存在が拡張していくみたいだった。感情に素直になり、仕事が上手く回りだした。


特別自分は仕事ができたわけではない。しかし、そこでも努力をすれば仕事ができるようになっていった。


当たり前のことを当たり前にやっていく。自分の気持ちに従って、ただそれだけを守る。そのうちに、会社の偉い人たちに認めてもらうことができた。最終的には、営業部長として働いていた。



起業したい。それは、ずっと心にあった思いだった。当時から休みを使って、何度かビジネスコンテストにも応募していた。


描いていたのは、もちろん大好きなロボットに関わる事業を立ち上げていくことだった。


ビジネスを考えていくうちに気づいたこともある。ロボット開発者たちの多くは、お金が無いために、面白いアイディアや独自の工夫を活かしたロボットを完成させることができないでいた。


ロボットレストランを退職し、この問題を解決するために構想したのが、ロボットに特化したクラウドファンディングやEC機能を担うWebサイト「KaraKuri」だった。ロボットが当たり前になる社会を作りたかった。


「やるってなったけど、もともとシステムの開発依頼してたところが急に作ってくれなくなって、ダメになってしまったんです。納期間近になっても全然できてなくて。そのころロボットレストランは退職してたので、飯食っていかないといけないしどうしようかなと思って」


起業の夢は頓挫してしまったが、ロボットから離れたくはなかった。ゼロベースで考えなければならないが、不思議と不安はない。下から上を目指すスタートは慣れている。なんとかなるような気がしていた。


まずは、もう一度ロボット関係で働きたい。そう思ったとき、廣井が相談したのがスケルトニクスだった。出会いはロボットレストランで働いていたころにさかのぼる。当時、営業を通じて社員と知り合い、それ以来の親交があった。


パワードスーツで人間の身体機能を拡張する。進化した人類を創造する。スケルトニクスのビジョンは、子どものころ憧れた『Gガンダム』の世界観と一致する。人間の身体をはるかに上回る大きな機体。それを、自分の手足のように動かせる。人間が自由と強さを手に入れる。


スケルトニクスは、世界中ほかにはどこにもない。面白くてかっこいい、唯一無二のロボットだった。


迷うことはなかった。それは、心が決めたことだから。


廣井がスケルトニクスのメンバーになったのは、2018年3月のことだった。



2章 社長交代


2-1.  楽しいロボット


ロボットと人が共存する社会。


その言葉からイメージされるものといえば、現状では産業用ロボットが主になるのかもしれない。ロボットが医療や介護の現場で使われる。人の生活を効率化してくれる。そんな「便利」なロボットの存在も重要だが、人の生活を「楽しませてくれる」ロボットはまだあまりない。


スケルトニクスに入社した当初、廣井はオペレーションマネージャーとして各地のイベントを回った。実際に3m級の巨大外骨格スーツを身につけ、機体を動かしパフォーマンスを披露する。多くの観衆の驚きと注目を浴びるなかで、確信したことがある。


「スケルトニクスは一目見て『すごい』と思うし、動くと『おー』となってお客さんが集まる。一番に『楽しい』という感情を引き出せるのがこれだなと思っていて。何よりロボットを着れる、操作できる、歩けるようになる、そしてロボットになれる。この『ロボットになれる』がそうそうないと思うので、魅力に感じています」


特許技術「三次元閉リンク構造」を採用するスケルトニクスは、電気を使わず、装着者の手の指一本に至るまで、ダイレクトに動作に反映する。巨大な体に似合わない、機敏で自由度の高い身体動作。人がロボットになれる。そのダイナミックで斬新な発想に、思わず誰もが惹きつけられ笑顔になる。


最近ではアーティストのツアーで踊ったり、ファッションの一部として女優の水原希子氏が着用し、ファッション誌に掲載されたりと、広くエンターテイメント領域において活躍の場が広がっている。


2018年12月、廣井は初期開発メンバーの一人である阿嘉倫大(あか・ともひろ)氏とCEOを交代。阿嘉氏と役割分担し、廣井がCEOとして開発以外の業務を担うようになった。技術者である阿嘉氏が、技術に集中するためにも引き受けた役割だった。


外装パーツをカスタマイズしたり、さまざまなギミックを増やしたり。スケルトニクスは、人を飽きさせず、楽しませる存在でありつづけるために進化をつづけている。そうして会社が拡大していくことももちろん大切だが、廣井には目標とすることがある。


「ゆくゆく産業用以外でもロボットの普及が進んだときに、『ロボットって楽しいよね』『ロボットを作りたいよね』という人を増やしたい。やっぱり好きじゃないと学ばない、僕がそうだったので。すすんで勉強する人を増やしていくのと、人がロボットを使うリテラシーを上げていきたいと思っています」


スケルトニクスが多方面で活躍し、ファンが増えていくことで、ロボットが多くの人の目に触れていく。より多くの人の「楽しい」という感情を引き出せる。そうなれば必然的に、ロボットを好きになり、関心を持って勉強したいと思う人も増えていくのではないかと廣井は考える。


「こんなロボットを作りたい」。スケルトニクスという会社自体、開発メンバーの純粋な思いからはじまっている。誰かの憧れが原動力となり、人とロボットが共存する未来が創られていくのだろう。


2019年、香港の人気アーティストである鄭伊健(イーキン・チェン)氏のコンサート「WITH EKIN LIVE CONCERT 2019-鄭伊健演唱会-」にスケルトニクスが出演。6日間合計7万2千人に向けてパフォーマンスした。


3章 スケルトニクス


3-1.  人間の拡張と進化


目に見える制約をものともせず、知恵と創造により繁栄を手にしてきた先人たち。若き日のスティーブ・ジョブズの言葉は、今も私たちに深淵な人類の進化について示唆してくれている。


『人間は生き物の中でも移動性に優れているとは言えない。しかし、自転車という道具を使うと、人間は自分のエネルギーだけで最も効率的な移動ができる動物となる。つまり、自転車は人間にとって能力を拡張する道具である。そしてコンピュータとはまさに知性にとっての自転車、知性を拡張する道具である(“Bicycle for the Mind” 〔知の自転車〕より)』


パーソナルコンピュータが人の知性を劇的に拡張したように、人間にはまだ、あらゆる進化の可能性が残されている。


人の身体機能を拡張する外骨格ロボット「スケルトニクス®」は、エンターテイメントの分野からロボットが身近な社会を創る。そこにはきっと、想像もつかない未来が待っている。


「スケルトニクスって、もともと『拡張』というテーマで作られてるんですよ。ロボットが広がっていくと新しい仕事ができる、新しい遊びができる。そうなったら、新しい感情が生まれるとか、人間に今ないものが拡張されていく世界ができるんじゃないかと思っていて。そしたらまた新しいものができるじゃないですか。それって豊かになるだけじゃなく、単純に楽しくなるんじゃないかなと思うんです」


たとえば人間がサイボーグになれば、自分で自分をメンテナンスできるのかもしれない。不具合のあるパーツを交換して、オイルを差す。それは一体どんな気持ちなのだろう。どんな制約を越えられるのだろう。SFではよくある話だが、そこにはまさに人間の可能性が拡張された世界がある。


創造的でわくわくするような未来を現実のものとできるか。


身体機能の拡張によって「進化した人類」を創造し、「進化した人類による世界」を演出する。スケルトニクスは、そのための挑戦をつづけていく。


(文・引田有佳/Focus On編集部)



編集後記


努力はするべきものである。


何かを得るために自己成長を求め、努力することは良いものであるし、すべきものである。そう学校教育で教えられるように、私たちは努力を善と捉えている。


しかし、本当にそう言えるのだろうか。


日本で教えられる努力は、それ以上でも以下でもないことも多いのではないだろうか。努力は「努力」という言葉として、大人から子どもたちに伝えられている。それによって、子どもたちはおしなべて希望の未来を手にすることはできたのだろうか。


ここで、努力への視点について触れた研究に着目したい。


市川(1998)は,日本の教育界では努力の大切さが子どものころから強調されていることを指摘している.この市川の指摘を考慮すると,本研究の結果は,奈須(1993),学習成果が上がらない生徒に努力するよう指導することはより深刻な能力帰属に陥りかねないという指摘を支持するものといえよう.つまり,生徒によって努力観は異なるため,努力を強調しすぎると,努力を自分の能力の一部と考え無力感に陥る可能性があることを示唆している.今後も,原因帰属理論にとどまらず,日本独自の努力観というものを検討する必要がある,

 (中略)

つまり,従来の研究では,自己効力感が高い生徒は,自己制御学習方略をよく使用し,成績も良いことが示されてきた.ところが,本研究では,自己効力感が高い生徒は自己制御学習方略の使用を面倒だと感じ,あまり使用しない傾向にあることが明らかになったのである.

―広島大学大学院教育学研究科 森 陽子


努力は「努力」という言葉で端的に捉えるものではなく、「正しい努力」をすることが必要とされるものであるようだ。


そして、何かが出来なかったときに自分が「できている」「できる」と思ってしまうと、自己制御学習方略*(「自己制御学習方略」については、以下同氏の論文を引用する)を選択しない可能性が高いという。


「学習目標を達成するために,自己の認知と行動を学習者が自ら活性化させ維持する学習,すなわち学習過程(あるいは学習行動)を自分で制御する学習」


ただ、「努力をしろ」と教えることは、教育の結果としての誤りを生む可能性がある。


努力というパフォーマンスが目的になると、努力している姿に到達点が置かれ、いつしか、努力の先に求めていたものが失われてしまうこともあるだろう。


子どもというものは、努力を見られ褒められれば、その努力と言われる過程を大人たちにより見せたくもなるものである。


その点、廣井氏の重ねてきた努力においては、その過程に目をやる人はいなかった。人知れずこっそりと、人一倍の努力を重ねて望む未来を手にしてきた。


自己を高く見積もることもしない。今の位置が低くとも、正しく自分の置かれた場所を見極め、一歩一歩ひとりでに努力を重ねる。そうであるからこそ、廣井氏は自らの努力を正しい方向に導くことができたのだのだろう。


ウサギとカメの寓話から謂われる現代のカメは、努力することの本質を教え、私たちに未来のために歩む勇気を与えてくれている。未来が遠く見えても恐れることはない。一歩一歩、自らの足で踏みしめてゆけば未来はその手に近づいてくる。


(文・石川翔太/Focus On編集部)



※参考

森陽子(2004)「努力観,自己効力感,内発的価値及び自己制御学習方略に対する有効性とコストの認知が自己制御学習方略の使用に及ぼす影響」,『日本教育工学会論文誌』28(2),pp.109-118,日本教育工学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjet/28/2/28_KJ00003730596/_pdf >(参照2019-3-12).


森陽子(2003)「自己制御学習における学習方略について」,『広島大学大学院教育学研究科紀要』52,pp.53-58,広島大大学院教育学研究科会,<  https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190312214326.pdf?id=ART0007921439 >(参照2019-3-12).




スケルトニクス株式会社 廣井健人

代表取締役社長

1991年生まれ。和歌山県出身。スポーツ・医療の分野で選手やトレーナーを養成する専門学校を卒業後、上京。働きながら起業を志し、ロボットレストランで営業として働いたのち、2018年3月にスケルトニクス株式会社に入社。同年12月、同社の代表取締役に就任した。

https://skeletonics.com/