Focus On
龍岡実
株式会社パックシステム  
代表取締役
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or理想を抱き、人の役に立つことをする。それ自体が人生を導いてくれる。
「フードビジネスの利益率とスケーラビリティを最高水準に」をミッションに掲げ、食品産業が抱える課題を解決する株式会社Goals。同社が展開する飲食企業向けクラウドサービス「HANZO」シリーズは、飲食店のバックヤード業務をAIで自動化し、業務効率化や適正なコストコントロールを可能にする。
代表取締役の佐崎傑は、新卒でワークスアプリケーションズに入社し、ソフトウェアエンジニア・事業責任者として従事。各業界のリーディングカンパニーに向けた業務改善に携わるなかで、企業の根幹ともいえるサプライチェーン領域の課題解決から社会に貢献する道筋を見出し、2018年に株式会社Goalsを設立した。同氏が語る「1つにピンを留める覚悟」とは。
日本のフードビジネスの現状を垣間見る、分かりやすい数値がある。農林水産省の統計によると、本来食べられるにもかかわらず廃棄される食品は年間で523万トンにも上り、このうち50%以上は事業起因で発生しているという。いわゆる「食品ロス」問題が、多額の経済的損失を生んでいることは明らかだ。背景には1つの大きな要因があると佐崎は語る。
「一言で言うと、サプライチェーンに非効率な部分があるからだと思っているんです」
食品産業のサプライチェーンは、大きく分けて製造・流通・外食(小売)という3つの業界で構成されている。
かねてから指摘されてきたことでもあるが、これまで3業界は互いに十分な連携が取れていなかった。半年後や1年後にどれくらい注文があるかも分からないまま、見込み生産という形で生産計画が作られるなど、自社のアセットベースで計画が決められることが一般的で、結果的に非効率が生じていた。
Goalsの外食企業向けクラウドサービス「HANZO」シリーズは、このような課題、そして食材価格の高騰や人手不足など現代の外食産業が直面するさまざまな課題解決に資するものとなっている。
たとえば、店舗の食材発注から適正な仕込み量の提案、売上予測、人員配置計画など、現場オペレーションを改善しコストを最適化する。
「僕たちはサプライチェーンの横の繋がりを、ソフトウェアやデータによって作っていくということをやっていきたいと思っています。具体的には、外食企業における最終消費者の需要データをきっちりとつかんで、川上にフィードバックする。それにより、無駄なく生産して届けて売っていくというサイクルが回るような仕組みを作っていきたいんです」
現在「HANZO」は、「肉汁餃子のダンダダン」、「牛たん とろろ 麦めし ねぎし」、「福しん」など多数の飲食チェーン店に導入され、発注業務にかかる工数削減に成功するなど業務効率化に貢献している。
さらに、同社では今後のサービス拡充を見据えた研究開発も進められているという。
「もう一つの取り組みとしては、どうやって小売の需要予測をサプライチェーンに還元していくかという研究開発をしています。これは人工知能学会の方と一緒に論文を発表したりもしているのですが、サプライチェーン全体の効率化において需要予測の精度をいかに高められるかは肝だと考えているので、大きなトピックとして力を入れているところです」
高精度な需要予測は、それ単体で経営を改善できるわけではない。仮に明日100名の来客が予測できたとして、そもそも100名では売上が足りないという場合もあるだろう。適切な広告宣伝やコスト最適化など、需要予測を活かして裏側を支えるさまざまな機能も同時に充実させていくことが必要だと佐崎は考える。
今後、中長期的な展望としては、製造・流通という川上方向へ展開し、フードサプライチェーン全体を最適化していくことを目指すという。
食品産業全体の在るべき未来を描くGoalsは、社会に普遍的な「食」というテーマから日本経済変革の一手を打っていく。
父は地元である岡山県で、産業用コンピュータのハードウェアを作る企業で創業期から取締役として働いていて、祖父も食品製造の企業を営む人だった。身近な家族に「経営者」という存在がいた。しかし、だからと言って将来をイメージしたり起業を意識することはなかったと佐崎は振り返る。
父は家ではあまり仕事について語らなかった。何かを言われた記憶もないし、何かを押し付けられたようなこともない。
ただ、どうやらいつも進んでリスクを取って、次々と新しい挑戦へと向かっている。子どもの目線からも、そんな父の背中は楽しそうに見えていた。影響されたとすれば、そんな風に好きなことや挑戦へと向かう姿勢の方かもしれない。
「リスクを恐れるというよりは、チャレンジして、失敗しても笑い話にできるような家庭だったかなという気はしています。今振り返ってみると、子どもにも好きなことをやらせてあげようという、そんな雰囲気はあったんじゃないかなと思いますね」
決められた何かをするよりは、自分なりに好きなことを一生懸命やればいいんだろう。子どもなりにもそんな風に解釈し、のびのび過ごしていた。
もちろん人として真っ当に育ってほしいと願う母親からは、ときに厳しく注意されることもある。最低限守るべきこととして、人を嫌な気持ちにさせたり、犯罪めいたことはしなかった。
しかし一方で、「危ないからやめなさい」と忠告されるたび、同時に未知への好奇心のようなものが湧いてきた。
「今思い出したことなんですが、家の近所の住宅街に大きい道路があったんですよ。片道2車線か3車線くらいで、その先に駄菓子屋さんというか、ちょっとした子どもが行くような店があって。絶対にここを1人で渡るなと母親に言われていたんです。死亡事故もたまにあったので。なんですけど、たぶん3歳か4歳くらいの頃にガン無視して1人で渡って行って、おもちゃを買って帰って(笑)。『これどうしたの?』『さぁ?』みたいな感じで怒られたりしていて。それでも最後は許されるような雰囲気があったんでしょうね」
大人に禁止されるほど無性にやってみたくなり、自己判断で行動してはよく怒られた。長男だったので、親は心配していただろう。それでも最後には、子どもの意思を尊重してもらえているような感覚があった。
幼少期
多少の危険やリスクは、チャレンジしがいのあるもののように目に映る。昔から良くも悪くも自分で考えて、やってみることを楽しんでいた。幼少期といえば、記憶に残る好きだった遊びがある。
「手を動かすことは結構好きだったイメージがあって。粘土や段ボールで何か作ってみるとか、自分で考えて何かを組み立てていくことがすごく楽しいなと思っていた覚えがありますね。ミニ四駆みたいに出来上がりが決まっているものじゃなくて、適当な材料を自分で切ったり貼り付けたりして、謎の作品を作ってみるじゃないですが、自分で考えてアウトプットを決めるような感じが昔から好きでした」
まずは、家にある紐や段ボールや粘土など、材料となりそうなものをかき集める。何も決まっていないゼロの状態から手を動かし組み立てて、ああでもないこうでもないと試行錯誤していると、だんだん自分なりの理想の完成形が見えてくる。
単純に完成図が決まっている既製品のおもちゃでは味わえない。その過程が何より楽しく、飽きずに1人で没頭していたことを覚えている。
「小学生の頃やっていたことでいうと、勉強はそんなに真面目にやっていなくて、水泳と剣道をやっていて。平日は習い事をいくつかやっていましたけど、あとはずっと友だちと遊んでいるという感じでしたね。その頃から日帰りで1時間くらい電車に乗って、友だちと一緒に四国まで行ったりしていた記憶があります」
「どこか行こうと思ってる」と、きっかけは電車好きな友だちのふとした一言だったりする。それも見知った岡山の町ではなく、少し遠出しなければ行けないような未知の目的地だというから興味をそそられる。話を聞いた瞬間、迷わず「一緒に行く」という言葉が口をついて出ていた。
いつもと違う電車に揺られ、聞いたことのない駅名をいくつも通り過ぎた先、目的地である町で降りてみる。観光地でもなんでもない、ただ見たことのない街並みを歩くだけでも発見がある。ぶらぶら歩きつつご飯を食べたりして、行きとは反対方向の電車に乗って帰る。
自分たちで考えて、行ったことのない場所に行く。小学生なりのささやかな冒険だ。それが何よりわくわくする体験だった。
「今にも通じることなんですが、すごく自分のモチベーションになるものの1つとして、やったことがあるかないかという軸があるなと思っていて。たぶんそういう性質は子どもの頃からあったのかなという風に思います。どういうところから自分のモチベーションが来ているのか、しっかりと考え出したのは社会人になってからですけどね」
自転車で普段より少し遠くまで行ってみたり、山の中にある湖まで行って釣りをしてみたり。作ったことのないものを作ってみることもそうだ。自分で考えて、やったことがないことをやってみたかった。
見たことのない景色、初めての挑戦、ゼロから理想を考えていくこと。そこにある楽しさが、子どもの頃から大人になった今でも自分を駆り立てている。
部活の試合で勝ちたい、友だちと楽しく笑っていたい。理想的な自分を思い描いては、そう都合よく期待した通りにはならないと知り、落胆する。思春期にはめずらしくないありふれた葛藤ともいえる。なかなか思うようにいかない感覚は、学生生活を通していつも傍にあるものだった。
「やっぱり僕は理想だったり、本来こうあるべきだという姿や目的を明確にしたりしていくことが絶対好きなタイプなんですよ。それがたぶん、まぁ当たり前なんですが、やっぱり自分が思い浮かべる理想と現実にギャップがあって常につらいという感じが、中学生から大学生くらいまでずっと続いていた気はするんですよね」
それなりに器用貧乏だったともいえる。ある程度までならそこそこの努力で達成できてしまい、その先まで深めることなくすぐに飽きてしまうようなところがあった。
だからこそ、将来のイメージがつかず、もやもやとすることも増えていった。加えて、当時好きだったギャンブル漫画の影響で、将来に悲観的になっていたのかもしれない。次第に「頑張りたくない」という思いが強くなっていった時期だった。
「やっぱり頑張りたくないとか働きたくないとか。今は真面目にやっているんですが(笑)、当時はそういう姿が理想になっていたんだと思って。まぁ斜に構えていたところもあって、頑張るとかって別にそんなにかっこよくないよねとか、そういう思いもあったのかもしれないですよね」
中学時代、剣道部にて
勉強も部活もそこそこに、何とはなしに友だちと遊んだりする日々。なかでも友だちとのバンド活動は、数少ない熱中したものだった。
ちょうど当時はバンドブームの時代でもあった。先輩たちがライブハウスで演奏するというので観に行ったことをきっかけに、そのかっこよさに魅了されたのだ。当初は純粋にやったことがない世界への興味が大きかった。だが、実際ギターに触れてみると手を動かしながら技術を磨く過程も面白く、性格的にも合っているようだった。
途中でメンバーの入れ替わりはありつつ高校生になっても継続し、そのうちライブハウスを借りるようにもなった。運よくオーディションに合格し、プロの前座として演奏する機会を得たからだ。代わりにチケットを売るノルマが課されるが、好きでやっていることだったため、なんだかんだ楽しくもあった。
「すごくラッキーだったんですが実際にプロの方と話をする機会もあって、やっぱり東京でやってらっしゃる方が多かったので、高校3年の夏くらいに東京に行ってみるのも面白そうだなと思ったんです。それまで遊んだりバンドをやったりで『あれ?そろそろみんな受験勉強している気がする』と、その頃気がついて(笑)。やばいと思って勉強しはじめて、東京の大学で行けるところに行ったという感じでした」
大学受験はなんとか切り抜けて、岡山から東京へ単身上京した。一人暮らしで全てを自分でやらなければならない環境に置かれてみて、改めて親に感謝する。一方で、大学では入学早々から目標を失っていた。
「誰からも管理されない環境に置かれて、逆に何をやったらいいんだろうと。大学生になってからの方が、より分からなくなった部分がありました」
起床はいつも太陽が高く昇ってからで、そこから学校に行くか否かと考える。気分次第で講義には出たり出なかったり。たまにバンドでギターを触り、友だちと海に行ったりもする。我ながら堕落した生活だとは自覚しつつ、変化を起こす気にもなれない。典型的なダメ大学生として過ごすうち、1年ほどが経っていた。
「19歳くらいの時かな、仲が良かった友だちがインドに1人旅してきたと自慢してきたんですよ。『まじインドに行ったら人生観変わるよ』的なことを言う人がいるじゃないですか(笑)。それを聞いて『変わるはずないだろ』と思って、行ってみたんです。初めての1人での海外旅行で、インドを1か月か2か月くらい放浪して。ものすごく楽しかったんですが、やっぱり人生観は変わらなかったですね」
思った通り、インドで自分の何かが変わる感覚はしなかった。とはいえ、知らない国を旅することは間違いなく心躍る経験だ。
アジアから南米へ、あるいは米国まで、大学2~3年のあいだに合計で10か国以上を訪れた。どこの国でも目的は決めずにぶらぶらとして、飽きたら電車や飛行機で場所を移動する。新しい街に着いたら今日はどこに泊まろうかと宿を探しながら、現地の人と一緒にお酒を飲んだりする。
しかし、どれだけ異国の地を踏んでも、知らない文化や価値観に出会っても、相変わらず心には理想と現実のギャップが存在していることはどこかで分かっていた。同時に、直視しきれていない自分がいることも。
住む場所が変わっても、環境が変わっても、それから世界各国を放浪してみても人生観は変わらない。結局根本的な自分が変わらない限り、変えられない何かがあるのかもしれなかった。
大学時代、ボリビア・ウユニ塩湖にて
このまま一生海外を放浪していられればよかったが、さすがにそうも言っていられない。就職活動の時期が近づいていたからだ。しかし、この先の人生を考えるべく過去を振り返っても、到底やりたいことなんて浮かぶはずもなかった。
その頃自覚しはじめていたのは、理想に対して一貫して「頑張っていない」という事実だ。つべこべ考えず、1つのことから逃げずに本気で向き合ってみる。そんな経験がないことを課題として自覚して、ひとまず大学生活の後半からはそれまでの殻を破るような経験を求めて行動することにした。
「とりあえずあんまり細かいことを考えるのはやめようと。理想みたいなことを考えても仕方がないので、とりあえず決められた制約とか枠の中で、いろいろ考えずにやれることを最大限やってみようというようなマインドに段々となってきていて。家電量販店のお客さんに営業するアルバイトを始めたんです」
2000年代も中盤に差し掛かっていた当時、それまで郊外中心に出店していた家電量販店が、相次いで都市部にオープンするようになった。地上デジタル放送へ移行した時期でもあり、何よりテレビが売れていた。
アルバイトはテレビや大型家具を購入して手続きを待つお客さんの元へ行く。冊子片手に営業し、契約を取ってくることがミッションだった。
「ひたすらやっていたら結構成績は良くて。1件でも多く契約を取るために何をすればいいかということを必死に考えて、社員の人たちとも議論したり、教えてくれとお願いしたりしていました。契約を取ることにこだわることも楽しかったんですが、決められたルールの中で自分がいかに成果を出せるかにこだわってやってみて、いろいろ工夫していくなかで実際に結果が出せたということがすごく楽しかったですね」
アルバイトだけでなく、どうやら企業のインターンシップというものがあると知ったのも同時期だった。世の中を見てみたいという興味にも動かされ、いくつか探していたところ、期間は1か月間で日給1万円というユニークなインターンを行う会社がある。のちに新卒入社することになる、ワークスアプリケーションズとの出会いだった。
インターン参加中は週5で8時間拘束され、その間、学生は実務に則したロールプレイングを体験することになる。ソフトウェアの企画から開発までを再現した内容で、まずはお客さんの困りごとから課題を抽出し、解決するための企画に落とし込む。実際にプログラミングしながら製品のプロトタイプまで作ったら、最後に社員の前で発表するという流れだった。
「ものすごく楽しかったです。やっぱり幼少期も好きだった、自分なりにどういうアウトプットがあったらいいかと制約のない状態で考えて、それを手を動かしながら形に落とし込んで作っていくというプロセスは改めてものすごく面白いなと思いました」
企画自体もそうだが、一つ一つのプロセスも意外と面白い。もちろん最初に考えるやり方はあるものの、企画したアウトプットを最速で実現するために、手を動かしながら細かく考え直す作業を繰り返す。少しずつアウトプットが動いたり目に見えて出来上がっていくたびに、小さな達成感が積み重なっていった。
そのまま入社する選択肢も考えたが、ほかの業界や企業を知らないまま決断できるほどではなかった。いわゆる就職活動もやってみることにして、どんな事業領域が自分には合っているのかと調べ始める。しかし、答えは一向に出なかった。
「皆さんもご経験あると思うのですが、正直調べてもよく分からないじゃないですか。なので有名なところとか給料の高いところのような浅い軸で見ていましたね。当時はそういう保守的な考えもあって、結構悩んでいました」
最終的に残った選択肢は2つ。ベンチャー企業であるワークスアプリケーションズか、数万人規模の大企業だった。
「もちろんチャレンジしてみたいという思いはあったんですが、当時の自分にそんな自信はなかったので、まぁイメージしやすい大企業の方がいいのかもなと思っていたんです。でも、親と話した時に『将来の不安はどうでもよくて、本当に面白いと思えるようなことをやるのがいいと思うよ』と言ってもらえて」
本当は想像しやすい世界よりも、まだ知らない世界の方が心惹かれる自分がいる。自信がないだけで、0から何かを生み出せるような人間になりたいという思いがあった。ワークスアプリケーションズならそれが叶うだろう。両親に背中を押してもらえたことで、思いに正直に決断する心が決まった。
決められた制約の中でやれるだけやってみる。その結果、自分なりに挑戦してみたいと思える目標が漠然とだが見え始めていた。
ようやく全力を注いで頑張りたいと思えるものと出会えた。だからこそ、入社したその日からとにかく仕事に振りきると決めていた。
「いやもう本当に楽しかったですね。今まで一貫してもやもやしていたものを振りきって、とにかく仕事ができるようになりたいと。それだけしか考えずに、自分が少しでも成長するために何をするべきかということだけ考えて、熱中して働いていました」
はじめはソフトウェアエンジニアとしてプログラミングを学びながら、製品を作る仕事に携わることになった。まだできることが少ない新人時代は細かいバグ修正などに取り組みながら、少しずつお客さんに近い仕事を任せてもらえるようになる。
「僕が入社した時の社員数は1000人くらいだったので、それなりに分業は進んでいたんですが、やっぱり新しい製品だったり大きな課題があるときは結局開発がお客さんのところに行かないと話にならないんですよね。課題が何で、それをどう解決していかないといけないかって、結局最後は作る人が決めないといけないので」
ワークスアプリケーションズが主として扱うサービス・製品は、いわゆる基幹システムと言われる領域になる。人事や会計、バックオフィスなどの業務を効率化し統合したERPパッケージとして主に大企業に導入されていた。
導入後は会社全体の業務オペレーションに影響が発生する、かつ、最低でも数年単位で使ってもらうソフトウェアのため、顧客へのインパクトが大きい。すなわち、商談相手は企業の中でもそれなりに高い役職に就く人である場合が多かった。
「あるときアサインされた導入案件に行ってみると、50歳くらいの人事部長の方が出てきたんですね。僕なりに課題をドキュメントにまとめて、ほかの人にもヒアリングした状態でこういう風にしていこうと思いますということを持っていったら、全く資料も見てもらえないし、話も聞いてくれない状態で(笑)。当時新卒3年目で、まだまともにお客さん先に出たことなかったんですよ。一発目がそれで、これはやばいと」
相手の温度感は想定以上に高い。話を整理してみると、課題は提案自体というより、実は受注時点にあった。顧客が期待していた運用は長らく実現できていない状況で、PJTの背景等もっと上流から検討し直す必要があったのだ。
「まずは相手に信頼してもらえないとプロジェクトが始まらない状態で。相手は人事として30年くらい経験を積んでいて、業界でも結構顔が利くような方だったので、人事のテクニカルな話をしても全く聞いてもらえない。なので、もう戦略としては体力で勝負することにしたんですよね」
とにかくオーダーされたことに対して、最速でアウトプットを返す。課題の定義からデータ形式に至るまで、細かいラリーが続いた。相手もハードワーカーだったので、突然ミーティングの要請が来たりする。もちろん即レスで承諾し、手が空いている時には相手側の手伝いを申し出た。
若手ゆえにできることは限られているが、逆に若手だからこそできることもある。全力でぶつかっていくうちに、次第に相手も信頼してくれるようになってきた。初期段階としてソフトウェアの要件定義をかなりしっかり固めたことにより、のちのプロジェクトはほぼ問題なく円滑に着地させることができた。
「まぁ結局は気合いでやったというだけなんですが、今までやったことのなかった仕事で成果を出せたということはすごく印象に残っていますね。結局作るだけはだめで、お客さんがどう困っていて、改善のためにどうソフトウェアに反映させていくかが重要だと、そのプロジェクトをきっかけに学ぶことができたので、開発者としてはすごく成長できたなという思いがあります」
もちろん仕事をする中で細かい浮き沈みはあった。けれど、一貫して力を出し切りコミットできたのは、ワークスアプリケーションズ創業者である牧野正幸氏から学んだ影響が大きい。
「(牧野さんの言葉で)好きな言葉があって。『人間は上手くいっているときには実は成長していない。できることをやっているから、それは上手くいく。苦しいときにこそ人間は1番成長するんだ』と、本当にその通りだなと思っていて」
今までに経験がないことや、できないことをやるのは誰だってつらい。大変だからとあきらめてしまえばそこで終わりだが、成長の機会だととらえれば前向きに仕事に取り組める。そうして乗り越えてきた大小さまざまな経験が、本当に自分の糧となってきた実感がある。
特に7、8年目以降、事業責任者として数百人規模の組織をマネジメントしていくようになってからは仕組みづくりに奔走し、失敗を重ねながら多くの学びを得た。
幸運だったのは、よき先輩に恵まれたことだった。とにかくプロフェッショナルとして仕事ができるようになりたい一心で、先輩の良い部分を少しでも吸収し、自分を少しずつ成長させていく。そのサイクルを繰り返すうち、自然と視座も上がっていった。
「最後の先輩として、代表である牧野さんと一緒に働かせていただくことになったのですが、それが起業しようと思ったきっかけになりました」
創業から約20年、牧野氏がゼロから立ち上げた会社はいまや数千人が働く組織へと成長を遂げている。道なき道を切り拓いてきた人の間近で働くと、意思決定やリスクの取り方など節々から特別なものを感じた。
それは自分のお金で仕事をしたことがないサラリーマンには、到底できないような考え方だったりする。想像だが、創業経営者だからこそ身につくものなのではないかと思えるものだった。
「決断するって怖いじゃないですか。リスクが高くなればなるほど誰でも怖いですよね。そのジャッジメントを腹をくくってできるんだと、いろいろな面で感じました。それまで先輩から学んでいくときは、その先輩よりできるようになりたいと思ってやっていたんです。この部分は負けているけど、こういう部分は先輩よりできるようになったかもしれないと。でも、最後の先輩に勝てるイメージは1ミリもなかったんです」
このままサラリーマンという制約の中で頑張っても、おそらく身につかないであろうその力を得るためには、自分も会社をやってみるしかない。次第にそう考えるようになっていった。
Goals創業時、共同創業者であるCTO多田と
では、何をやろうかと考えてみた時、自分の中に軸はいくつかあった。そのうち最も重要だと感じたのは、社会貢献に繋がるものであることだった。
「自分がモチベーション高くどんどん成長していくためには、やっぱり人の役に立っている実感を持つことはすごく大事だなと思っていて。それって僕だけじゃなく周りの人もそうだったなと思ったんですよ。そういう方って平たく言うと優秀な方なんですが、そういう方と一緒に同じテーマを持ってやっていきたいなと思ったので、その中心になるものが社会貢献だと思ったんです」
社会貢献にもいろいろな形があるが、自分がやってきたことを活かしながら、その延長線上で世の中の課題を解決していけるもの。なおかつ、与えるインパクトがより大きくなりそうな領域で事業を考えていた。
「10年間働いてきて、1番面白い領域だと思ったのがサプライチェーンという領域だったんですよ。なぜかと言うと、仕入れて作って売るって会社を運営していくうえでのほぼ全てじゃないですか。その1%の改善が会社だったり世の中に与える影響ってものすごく大きいなと思っていたんです」
たとえば、仮に業界トップシェアの大企業の生産性が5%が改善したら、日本経済へのインパクトは計り知れないものがある。サプライチェーンという切り口で産業の生産性を改善していくと決めた。だが、ソフトウェアの実現性を考慮すると、業界は絞った方がいいだろうという仮説があった。
そこから先は、実際に会社を作って検証のなかで業界を絞り込んでいくことにした。まずは業界のリストアップから始める。日本の花形産業やソフトウェアに力を入れている産業、すなわち機械関連や電子部品の製造業や金融、それから食品・外食も当初から候補にあった。
調べていく過程で市場規模や業務プロセスも洗い出し、課題も推測できる。仕組みで解決できそうな業界はプロトタイプを作り、実際に業界の当事者である企業の役員クラスにレビューしてもらっては試行錯誤していくことを繰り返した。
「サプライチェーンって領域としてものすごく広大なので、プロジェクトの投資金額が大きくなるんですよね。下手すると会社の売上の数%くらいになるので、いかに素晴らしいものを作ったとしても、お客さんがそのリスクを承知でチャレンジしていただけるかという点がすごく難しいポイントになると考えていました」
フィードバックとしてはかなり好感触だった。「これは絶対役に立つ」と言ってもらえたこともある。けれど、「あなたが上申してプロジェクトオーナーになってもらえますか」と問うと下を向かれてしまう。
それもある意味当然で、会社の運命を握るような話だったからだ。フィードバックをいただけるだけでも、ありがたかった。
食品・外食業界は、そのなかで最もポジティブに「やりたい」とチャレンジする意向を示してくれた業界だった。
「あとあと気づいたのですが、外食産業ってほかの重厚長大な産業に比べるとすごく若い業界なんですよね。つまり、創業経営者の方が今でも経営されていらっしゃる会社が多い。となると先ほどの牧野さんの話に繋がるのですが、リスクが取れる。いいものを作るだけではだめで、お客さんと一緒に変えていける業界だと思えたことが1つのきっかけになりました」
もちろん成功確率だけで選んだわけではない。偶然だが、祖父も食品関連の仕事をしていたことや、共同経営者でありCTOを務める多田も家族が海外で飲食店経営をしていたことなどの要因が重なった。縁あって素晴らしいお客様にも恵まれたこともそうだ。
日本の食品は海外で売ってもクオリティが高いと評価されている。これからの日本の成長にとって、極めて重要や役割を果たすであろう食品業界だからこそ、自らリスクを取りチャレンジしてみたいと思えた。
社会貢献に繋がる未知の挑戦へと踏み出していく。Goalsは、その思いを体現する器として始動した。
過去には働くことや頑張ることに対して斜に構えていた自分がいる。けれど、仕事を通じて決定的に変わった意識がある。それは今も常に忘れず考えつづけるものであると佐崎は語る。
「すごくこだわりがあるんですが、仕事をする理由って社会貢献ということにしかないかなと僕は考えているんです」
究極を言えば、全ての仕事は世の中をより良くしていくためにある。だからこそ、それを達成することを目的に置くことで、自ずと需要や成長はついてくる。
「やっぱりせっかく頑張って仕事をするからには、人の役に立つというのはすごく重要なことだと思っていて。これから起業する方でも、これから仕事を始められる若い方も、それぞれご興味ある分野はあると思うんですが、そこでどう世の中を良くしていくべきなのかとか、どう自分が関わりたいかというところを考えて領域を決められると、働きつづけるモチベーションにもなるし、やりがいにも繋がると思っています」
働くこととは、社会に貢献することと等しい。そんなマインドセットが自然な状態になった背景には、新卒で身を置いた環境の影響も大きいという。
「まさにミッションがそうだったのですが、社会貢献のなかでも経済というところにピンを留めて会社全体が作られていて、そこにすごく共感していたんですよね。僕自身の経験則として、すごく働くモチベーションに繋がるなと感じましたし、頑張る目的を見出せていなかった過去があるからこそ、それが今まで感じていた課題感を1番解決してくれる分かりやすいキーワードだったのかもしれません」
誰もがはじめから社会についての理想を描けるわけではないだろう。お金持ちになりたいとか、成長したいとか、自分にベクトルが向いた理想も悪くはない。しかし、プラスアルファで世の中に意識を向けると、翻って得られるものが多くなる。
それが自分にとって道なき道であったとしても、どこか1つにピンを立てる覚悟さえあれば道に迷うことはない。理想と現実は常にかけ離れているが、きっと社会に対する理想そのものが道しるべになるのだろう。
2023.9.7
文・引田有佳/Focus On編集部
将来の選択肢がますます多様化する現代、何かを頑張る理由は人それぞれだ。しかし、それゆえに迷いが生じることもある。ぼんやりとした理想はあるが現実とはほど遠く、目標を見失いがちな学生時代だったと佐崎氏は振り返る。
何か1つを本気で突き詰めた経験がないからこそ自信が弱く、自信がないからこそますます新しい挑戦にも消極的になる。そんな風に負のサイクルに陥ったことのある人も、少なくはないかもしれない。
細かいことを考え過ぎても前には進みにくくなる。まさに佐崎氏がそうしたように、何か1つ覚悟を決めて最大限やりきる経験が、自分で考えて努力する楽しさや、成長する実感など、人生に価値あるさまざまなことを教えてくれることがある。迷いや葛藤を経てたどりついた「社会貢献」という唯一無二のキーワードもそうだ。
サプライチェーンという領域にピンを留め社会課題に挑むGoalsも、その過程でさまざまな社会貢献の道を切り拓きつつ、変わらず進みつづけるのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社Goals 佐崎傑
代表取締役CEO
岡山県出身。2008年にワークスアプリケーションズに入社し、ソフトウェアエンジニア・事業責任者を経験。同社で各業界リーディングカンパニーのバックエンド業務の改善に携わる中で、企業の仕入・製造・販売を司るサプライチェーン領域の課題解決が日本社会を大きく成長させる可能性を感じ、2018年7月にGoalsを創業。