Focus On
沖有人
スタイルアクト株式会社  
代表取締役
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or人とは違う創意工夫が、新しい社会の選択肢になる。
エリアの新しい価値を創造し、世界と地域と人を繋いでいく株式会社エリアノ。同社が独自に企画設計するデザイントレーラーハウス「スタイルキャビン」は、キャンプ場やゴルフ場、道の駅、商業施設など幅広い場に対応し、事業多角化の環境構築、空地の有効活用に資する空間を提供する。そこではただ空間を作るだけにとどまらず、継続性のあるビジネスモデルの構築やテクノロジーの活用をもデザインすることで、地域に関わる人を増やし、価値を高めていくモデルとして注目を集めている。
共同代表CROの勝呂祐介は、早稲⽥⼤学⼤学院理工学研究科修了後、久米設計やキャピタルメディカ(現・EUCALIA)、プランテックグループにて一級建築士として設計デザイン領域とビジネス開発双方に従事。中国における新興都市開発や国内での新規施設開発、新規事業開発などプロジェクトに多数携わったのち、2019年に株式会社エリアノを創業した。同氏が語る「未来に繋がるスペースモビリティ」とは。
海が見える、星空が見える。澄んだ空気に乗ってくる鳥の声と、朝日のまぶしさで目を覚ます。都心で暮らしていると忘れそうになる、そんな心地よい感覚の数々を、今、必要最小限のスペースで味わうという選択肢がある。
ホテルや旅館のように肩肘張った旅行に赴くでもない。けれど忙しない日常から距離を置き、ひと時の開放感に浸るには十分な空間と設備がある。エリアノが提供するデザイントレーラーハウス「スタイルキャビン」なら、知られざる魅力を秘めた日本各地の土地に息吹を吹き込むことができると勝呂は語る。
「日本っていわゆる建物が作れる都市計画区域というものが、だいたい国土の25%くらいなんですが、そのなかでも実際に建物を作っているエリアというのは数%しかないんですよ。つまり、だいたい国土の95%くらいが空き地なんですよね。不動産価格もどんどん上がりつづけていくなかで、『動かせる』トレーラーハウスを起点に空間を作る。ある意味、建築や不動産に対する挑戦だと思っています」
トレーラーハウスとは、タイヤのついたフレーム上に建物が乗った構造物で、車による牽引で移動が可能という特徴を持つ。法的には車両扱いを受けるため、建物が建てられない場所でも活躍し、さまざまな用途に対応できる可能性を秘めている。
光、風、空を感じられるアウトドアリビングスペース
エリアノでは、従来のトレーラーハウスにあるどこか野暮ったいビジュアルイメージを払拭し、一級建築士の手による妥協のない優れたデザイン性、心地よさを追求した空間を最小コストで実現。現在は宿泊、トイレ、店舗、オフィス、サウナなどラインナップの幅を広げつつ、全国各地に展開している。
「私たちは基本的に売って終わり、置いて終わりというスタイルは採用せず、継続的に関わらせていただくような形を取らせていただいています。やはり場所というものは、関わりつづけていく人がどんどん増えていくからこそ、空間の価値も上がっていくと思っているので、継続性があることで事業者さんにとっても喜んでいただけますし、私たちも利益を出させていただける。そういったビジネスモデルに、今はより力を入れています」
たとえば、都心部から1時間半ほど離れるだけでも、潜在的な魅力的を持つエリアは多くあると勝呂は語る。
既存の宿泊施設や別荘地に、新たな選択肢として「スタイルキャビン」を設置してもらう。それにより少ない初期投資で、また訪れたい、土地に関わりつづけたいと思ってもらえる人を増やす。ただ空間を提供するのみならず、地域の課題に即した企画デザインやビジネス展開の支援、行政・関係機関協議、運営までをもエリアノが担う。
長野県の栂池高原へ「スタイルキャビン」が納車されていく様子
利用者目線でも、トレーラーハウスは新たな価値を生むツールとしての可能性を秘めている。
「社会的な流れの中でも別荘に泊まる、あるいは所有するというモデルがこれからトレンドとしてより育っていくと思っていて。その先駆けとなるような機会を提供していきたいと思っているんです。技術でいうとNFTであったり、シェアモデルなどを関係させながら、所有のハードルを下げたり、権利移転がされやすくなるような仕組みを作っているところです。それにより、空間の所有をより身近にすることができる」
本来投資としてトレーラーハウスを所有する場合、複数人での所有にはSPC(特別目的会社)の設立など煩雑な手続きが必要になってくる。しかし、自律分散型のエコシステムであるNFTを活用した所有の仕組みを構築することで、管理コストを軽くしながらより多くの人の参加を促せる。まだ仕組みとして未整備な面はあるものの、場所に関わる人を増やし、その価値を高めていく同社のミッションと合致する技術といえる。
エリアノは「動かせる」という選択肢の創出という切り口から、今後もマーケットに挑戦しつづけていくという。
「今はトレーラーハウスを中心に扱っていますが、今後は動産とみなせるあらゆるものを駆使しながら、空間そのものの価値を高めていくようなことをどんどんやっていきたいと思っています。そうすることで東京一極集中ではなく、ここで過ごしてみたいと思ってもらえるようなエリアや人を増やすことに繋がり、かつここで挑戦してみたいという人を増やすことにも繋がると思っています」
2022年末には、農林水産省後援の農山漁村に新たなビジネスの創出を促すビジネスコンテスト「INACOME(イナカム)」のファイナリスト進出が決まった同社。2023年はそれを実現していくフェーズとして、スタイルキャビン事業を通じた農林水産地の活性化にもコミットしていくことになる。
眠らせたままにしておくにはあまりにも惜しい。そんな素晴らしい可能性を秘めた場所に、トレーラーハウスをはじめとするさまざまな動産、そして継続性のあるビジネスモデルを掛け合わせる。
既存の場に「動かせる」という選択肢を創る。それにより、社会・地域・スペースに変化や新陳代謝を起こし、そこに多様性や活力、魅力を創出する。そんな「スペースモビリティ」システムを提唱し、エリアノは新たな社会実装に挑みつづける。
「動かせる空間」に人が集まり、エリアの魅力が高まっていく
何もない土地に道路をつくる。ただそれだけでも、できるだけ渋滞を少なくするための工夫が施されていたりするように、暮らしのなかで何気なく目に映る街並みも道路も建物も、背景にはそこで生きる人々のより良い毎日を思い、設計する人たちの仕事ぶりが隠れている。
都市インフラ全体のコンサルティングを手掛ける会社に勤めていた父も、日々そんな事柄に苦心しながら働いていたのかもしれない。交通関係のアナリストとしていつも遅い時間まで働きながら、休日にはよく一緒に遊んでくれていたと勝呂は語る。
「キャッチボールをしてくれたり、よく一緒に運動してくれた記憶がありますね。それから父は数学や工作が得意だったので、手作りのおもちゃを作ることがものすごく好きで、小学校までは一緒に作ったり遊んだりすることが多かったです。家には市販のおもちゃがものすごく少なくて、できあがったもので父や弟と一緒に遊ぶことが好きだったんですかね」
少し複雑な立体パズルや、手作りパチンコ。今で言うDIYが好きだった父の作るおもちゃは、子どもたちの遊び心をおおいにくすぐるものばかりだった。勝呂自身、気づけば工作道具を手に取って何かを創り出すことを楽しむようになっていた。
兄弟は弟が2人。母は日中フルタイムで働きながら、3兄弟を育ててくれた。今思えば、当時の両親は相当に忙しい毎日を送っていたはずだと勝呂は振り返る。
「父も母もかなり大変な生活をしているなかで、『こうしなさい、ああしなさい』みたいなものはなかったんですが、『目の前のことをまず頑張りなさい』という風にはよく言われていましたね。なので、学校が終わってから習い事に行って、習い事から帰ったらまた勉強してと、自分なりには努力していたんだと思います」
もともとは勉強も全く得意ではなく、それどころか授業中にじっとしていられず先生を困らせたりと、大人が手を焼くタイプの子どもだったという。
外で遊びまわっているうち危険な遊び方でケガをして、救急車を呼ばれたこともある。そんな子をなんとか落ち着かせようと母親が始めさせたのが、プールにピアノ、そろばん教室などの習い事だった。
「小学4年生の時、父の転勤で兵庫県宝塚市に引っ越したんです。そこで出会ったピアノの先生の教え方がうまかったのか、それ以来ピアノにどんどんのめり込んだんですよ。それまでは一緒に歌いましょうみたいな音楽教室にいたんですが、バッハとかモーツァルトとかシューベルトとか、いわゆるバイエルを教えてもらうようになって楽しくて。宿題以上のことを自分でもやろうと思って、どんどんピアノを練習していった経緯があって」
教則本の中から1曲こなしては、次の1曲へ。はじめは指が思うように動かないと思っても、練習を続ければ少しずつ弾けるようになってくる。
目の前にある課題をクリアしようと進んで練習するうちに上達を実感できること。何よりピアノを通じて表現すること自体、楽しく好きになっていった。
幼少期、家族と
中学3年まで続けたピアノと同じくらい、当時大好きになっていたものがある。転校先の小学校で、周囲の友だちがこぞって始めていたサッカーだ。時代はちょうどJリーグが開幕した頃でもあった。
「山の上にできた新興団地みたいなところに当時通っていた小中学校があって、片道だけで階段が260段あるんですよ。だから、通学路で非常に足腰が鍛えられたなという思い出があって、今でも結構体力があったりして。そんな通学路なので、やたらとみんな持久力が高いんですよね(笑)。小中ともサッカー部だったんですが、走りで勝つのでだいたい他校との試合にも勝つことができて」
一段、また一段と毎日のぼる険しい道のりは、気づかないうちに体を丈夫にしてくれていたようだ。おかげでチームとしては普通より多くの勝利を経験できた。
勝つことが楽しく、自信にもつながる。中学校に上がってもチームメイトはほぼ同じ顔ぶれで、サッカーのみならず勉強においても、高め合い切磋琢磨できるような関係が心地よい、大切な仲間になった。
「小学校までは『自分は勉強ができない』、『周りのみんなの方ができる』とずっと思っていたんです。でも、中学校に入学して最初のテストでいきなり学年5番くらいを取ったんですよ。その時の成功体験があってから、自分はこうやって勉強すればできるんだという風に意識が変わって。小学校から母がものすごく頑張ってくれた教育が、ようやく中学校になって花開いたような感じだったのかもしれないですね」
自分にはできないと思い込んでしまったり、努力しても一向に前進しないように感じることもある。しかし、なんとかしがみつくようにでも努力を続けていけば、結果が塗り替わる瞬間はどこかでやってくる。あんなに苦手だと思い込んでいた勉強も、ピアノでもそうだった。
できないと感じることも、いずれはできるようになる。だから、まずは目の前のことを頑張っていくのがいいのだと当時からなんとなく思えていた。
高校時代
中学では勉強の成功体験を得られたので、高校受験では名のある学校に挑戦してみたかった。いくつか受験し、早稲田大学の附属高校に入学することにする。一学年は約600人で、雰囲気はザ・男子校。その人数規模もさることながら優秀な学生が多く集まっていて、入学時は圧倒された。
「中学校まではサッカー部の副キャプテンで、勉強もまぁできた方だったんです。それが高校に行ったら全然レギュラーにもなれなくて。当然なんですが、スポーツも勉強もできて、かつ遊び上手な人が世の中こんなにいっぱいいるんだと思い知らされたような、外の世界を初めて知ったような、そういう体験だったかなと思います。かなり挫折しましたね(笑)」
全く新しい環境に来たことを実感しつつ、ひとまず目の前の勉強や部活に淡々と取り組んでいくことにする。
宿題も多く楽ではなかったが、大学受験を意識しなくてよい環境だった分、教育方針は自由にアレンジされていて面白い。いわゆる詰め込み型の授業ではなく、一つひとつの出来事をもっと深堀りするスタイルであったり、物事の本質や、裏側にある背景がどうだったのかを教えようとしてくれる先生もいた。
人間としても魅力的で型にはまらない先生たちに囲まれながら、毎日を夢中で生きるうち、忙しくも充実した毎日が過ぎていった。
「高校3年生のときに『コーポラティブハウス』というカテゴリのマンションに引っ越したんですよね。どんなものかと言うと、ある建築家と住む人が一緒に対話しながら、区分所有のマンションの一部をデザインしますというもので。ものすごく大変なんですが、その一連のプロセスを体感した時に、建築ってこんなにいろいろな空間にできるんだと思ったんですよ」
もともと将来なりたい職業など明確なイメージは持っていなかったが、その経験をきっかけに、ふと自分が小学校の卒業文集に「建築家になる」と書いていたことを思い出す。
当時はアイデアがなく両親と対話して決めたのだが、あとになって振り返れば、作ることが好きだった父の影響である可能性が高い。というより父自身、おそらく建築家になりたかったのかもしれない。
いずれにせよそのことが頭に浮かんで以降、大学進学の進路を考える際にもしっくりときた。
「それなら、とりあえずまず建築学科に行ってみようと。附属校は基本的に成績順に好きな学部を選べるようになっているので、自分は早稲田の理工学部建築学科を最初に書いて、進学したんです。入ってみると、(高校よりも)もっと挫折しましたね(笑)」
早稲田大学理工学部建築学科での製作過程
「何かと言うと、だいたい建築学科に来る人って2通りあって。両親や近しい人で建築に関わっている人がいるパターンが1つ。もう1つは、ドラマとかテレビ番組に影響を受けたような人なんですよね。早稲田は前者がものすごく多くて、そういう人たちってやっぱり子どもの頃から建築関係の英才教育を受けているんですよ。学部1年目から絵がうまかったり、スケッチができたりとか」
建築デザインに関して、並々ならぬ熱意と実力を兼ね備えた同級生たち。それも入学したときからじゃなく、もっと小さい頃からだ。一方自分は、ようやく高校3年で関心を持つようになったばかり。しいて言うなら工作は少し得意だが、お世辞にも絵なんてうまくなかったし、周囲と比べると秀でたものは何も持ち合わせていなかった。
「アルバイトも少しはやりましたが、ほぼ課題で毎日終わっていましたね。忙しかったです。できる人は課題を聞いた瞬間に『こういうものを作ろう』と思うわけですけど、自分はそこまで優れていなかったので、必死に考えて。新宿の世界堂に行って、材料と課題文を見ながら閉店時間まで悩んだりして、そこから材料を買ってきて、深夜3時くらいまで課題をやったりするわけです」
授業についていくのは楽じゃない。とはいえ、同級生の存在は刺激として受け取って、見よう見まねで一つひとつの課題になんとか食らいついていく。毎回粘り強く取り組んでいった分、学期末には悪くない成績を収めることができていた。1つの成功体験だ。しかし大学では、それ以上の大きな財産を得ることができたという。
「幸せだったことが、同じ学部でものすごく仲が良い友人10人くらいのグループができたんですよね。だいたいみんなデザイン系と都市計画系に進んだのですが、一緒に飲み食いしながら語り合って、高め合えるような仲間ができたことが、その後に良い影響を与えたのかなと感じています」
入学間もない頃、教室で席が近かった数人で集まりファミレスに行った。そんな偶然から気づけばいつも集まるようになり、以来ずっと互いに感性を刺激しあう良き仲間となった。
「当時早稲田の建築学科はほかの大学と少し違って、作品主義な学風があって。結構みんな変わったものを作れというような教育をされていて、比較的創意工夫しながらオリジナルの空間を作ろうというモチベーションを持った人が多かったように思います。なので、集まった友人たちもそういったオリジナルな感性のデザイン、空間づくりみたいなことを志向している人は非常に多かったと思いますね」
大学、そして大学院までの6年間、おおいに学び、刺激を受け、切磋琢磨に時間を捧げた。
就職活動ではそのまま建築設計に携わる仕事を探したいと考える。同級生の主な就職先は、比較的規模の大きい建築設計事務所かアトリエ系の個人設計事務所、あるいはゼネコンなどだが特に希望はなかった。
ひとまず新卒の就職活動という貴重な機会を活かすべく、建築設計以外の業界企業についても見て聞いてみたいと考えて、証券や広告、そのほかさまざまな企業の説明会などに足を運んだりもする。世にあるビジネスの可能性の幅広さや面白さを体感できた貴重な時間となった。
「最後に拾っていただいた会社が、久米設計でした。当時は建築設計の中でも少し変わったことをやりたいなと思っていて。今思えば、高校でも大学でも周りにできる人が多くいたので、同じことをやっても勝てないなと思ったことが大きかったのかもしれないですね。いかにほかの人と違うことをやって、次のスタンダードになっていくものを見定めていくかということを考えていました」
純粋に建築デザインの技量で勝負するなら、自分より優秀な人はいくらでもいる。人と同じことをしても勝てないのなら、人がまだやっていない変わったことに挑戦し勝負するべきだ。建築設計というフィールドで、自分に何ができるのか。社会に一歩踏み出していきながら、同時にそこでいかに闘っていくかを考えていた。
大学時代、大切な仲間と
日本では考えられないほど広大無辺な土地に、突如現れるタワーマンション群。周辺は人が住みやすいよう緑の草花や、道路、インフラ設備など、必要になるありとあらゆるものがデザインされ配置される。
中国は重慶市に1つの都市を作るという一大プロジェクトに手を挙げたのは、入社1年目のことだった。
「当時からビジネスが好きだったので、自分がこれから身を立てていく上で何が必要かと考えたときに、海外のマーケットを見ようと思ったんですよ」
日本であれば1つ建物を作って終わり。しかし、経済成長期にある中国では同時に100メートルのタワーマンションを100棟建てるような計画がざらだった。何もない森や田畑を開墾し、街や都市という単位で建築を考えつくりあげていく。大きなマーケットへの憧れと期待もあり、配属希望を申し出た。
「実際やってみると、『現実は甘くない』ということだったと思っています。100メートルのタワーマンション100本を建てるような計画ということは、逆に言うとそれだけ田舎だということで、上下水道インフラが整っていなかったりするわけですよ。基本的には現地に出張して1、2か月くらい滞在して日本に戻ってくるような生活をしていたんですが、出張のたび下痢とか体をすぐ壊してしまっていたので生活は大変でした」
とはいえ、数万人もの人々が将来住まう街を作るという経験は、日本ではなかなかできるものじゃない。仕事には夢があったし、毎回プロジェクトの成果物を引き渡す瞬間の達成感は得難いものだった。
まるで空に向かって成長するタケノコのように、建設されはじめた高層マンションが伸びていく頃、仕事自体は終わりを迎え、次なるプロジェクトが始まることになる。
「中国のプロジェクトでは、日本でいう自主設計のところまでは携われない、いわゆるデザイン監修みたいな形でプロジェクトに入るので、最初の2、3年くらい携わったあと実際に都市ができあがるところを見届けることはできないという弱点があって。ものすごくタフな仕事だったのと、やっぱり建築ってできあがるまできちんと見届けたいという思いがあったので、4年目くらいから社内で転籍をさせていただいたんですよね」
希望した転籍先は、医療福祉設計部という部署で、主に病院や老人ホーム、介護施設などを担当し作っていた。
「もともと母の家系が医療系だったので、何か家系と繋がりがあるかなという思いと、その頃から後期高齢者の社会問題が語られだしていて、病院や介護施設は今後伸びるんじゃないかと考えて、転籍させていただいた経緯がありました」
新たに携わったプロジェクトは、千葉県の海沿いにある養護老人ホームの建築設計だった。養護老人ホームとは、経済的に余裕のない高齢者の方が少ない費用で入所できる介護施設のことであり、日本では決して数は多くはないものの、恵まれない状況下で暮らしてきた人に安らぎをもたらす重要な施設だった。
「入所者はやっぱり身寄りのない人が多かったので、人と人との繋がりを作ることがすごく大事だったんですよね。そういった仕掛けがあるような空間づくりを心掛けて、結果的に意図した通りになってくれたので、それはすごく良かったなと感じますね。実際、空間があることでその人たちの生活が変わるんですよね。建築でこれだけ大きく生活を変化させる貢献ができるんだと感動しましたね」
1つのプロジェクトを率いる立場としての成功体験であり、かけがえのない記憶でもある。
設計した建物ができあがり、そこに理想的な人の営みを見届けて、ようやく1人で人の生活や人生に影響を与える空間づくりを最後までつくりあげられたようだった。
設計事務所で働くかたわら、グロービス経営大学院への入学を考えはじめたのは2011年頃のことだった。やはり創意工夫して人と違うことをやりたいという思いから、建築のみならずビジネス面をも設計できるようになりたいと考えていた。
「MBAの体験に参加したのが2011年で、本格的に入学したのは2013年でしたね。当時2011年は震災があったじゃないですか。それで純粋に建物を作るだけだと人を満足させることに対して中途半端で終わってしまうなという思いがあって、建物とその背景にあるビジネスや仕組み、数字など全般的なコーディネートに携われるようになりたかった。そのためには、やはりビジネスを学ぶことが必要だなというところから、グロービスは選択肢の一つとして有効だったと思っています」
同時期には仕事としてもこの領域を深めるべく、医療介護領域で経営支援を行う株式会社キャピタルメディカへと転職した。
介護施設や病院を経営する同社では開発職として、とある介護施設の構想から運営に至るまで全体を俯瞰する立場から携わることとなった。建物や空間そのものだけでなく施設のベッドや介護用品にいたるまで、人がそこで生活することや入居の意思決定をしてもらうために必要なあらゆるものを整えていく。まさに希望していた通りの空間づくりを経験できた。
「当時は良い上司に恵まれたという、その一言に尽きると思っています。建てるだけじゃなくて、血を通わせることがすごく大事なんだと身をもって知ることができて。人とのコミュニケーションにも長けた方だったので、その方につきながら必死に頑張って、学ばせていただきました」
「誰のためにその空間を作るのか」という問いが大きな意味を持つことも、当時学んだことの1つである。
利用者や働くスタッフ、地域で暮らす人など、さまざまな視点から構想し、あるべき空間を描いていく。その過程では、ゼネコン担当者はもちろんのことスタッフとも密にコミュニケーションを取る。ときには自ら入居案内をしたりしながらも、施設を中心に始まる人と人の営みの全体像をイメージしていった。
「今もそうだと思うんですが、金太郎飴みたいな介護施設がものすごく多いんですよ。でも、ホテルなども同じだと思いますが、やっぱり絵となるような空間のコーディネートや、ハイライトとなる空間を作っておかないといけないと思っていて。たとえば、事務所の空間もすごくこだわって作りましたし、リビング的な部屋も、普通の介護施設ではありえないような空間づくりをどうすれば決められた費用の中で作れるのかということを考えながら、力を入れてやらせていただいていましたね」
キャピタルメディカ(現・EUCALIA)社で働いていた頃
その後、キャリアをよりニュートラルにすべく建築に強みを持つ戦略コンサルティングを手掛ける企業へと転職。何か大きな実績となるような仕事に携わるべく、外資系コンサルティングファームのオフィス移転プロジェクトに手を挙げた。2年ほどかけて全体コーディネートを統率するとともに、裏にある数字面もシビアに詰めていくという経験を積むことができた。
「新しいことを自分でやりたいという気持ちはグロービスに通ってからずっとあって。いつか自分の会社をやりたいと思っていました」
のちにエリアノを共同創業することになる2人は、それぞれグロービス時代と大学時代の同期である。何か自分たちのビジネスをつくりたいという思いが合致して、会社員として働きながらも3人で継続的にミーティングを重ねていた。
100個、200個とアイデアをぶつけ合う中で、今までの常識にとらわれない新しい可能性を感じるものの1つとして、トレーラーハウスという空間づくりのアイデアは生まれてきた。
「私も彼らも地図に残るような仕事をしてきたわけです。でも、丈夫な建物を作ることは良いことである反面、人口が減っていくなかでは地方には別の需要、つまりもっと短命でもいいので『場を作りたい』というニーズがあるかなと思っていて。それを実現する選択肢がないなという風に感じていました。大きな空間を作るのではなくて、1番小さな空間でビジネスになるものを考えてみたときにトレーラーハウスが出てきたという経緯がありました」
何か大きな建物を作るということは、その先20年30年と運営しつづけなければならないということでもある。当然、金銭的にも人員的にもコスト面でのプレッシャーは大きくなる。それまでに地方の案件を手掛けてきたなかで実感してきたことでもあった。
選択肢は新しい建物を作るだけじゃないはずだ。ちょうどその頃リノベーションが流行しはじめていたのも、既存の空間をいかにうまく使うかという思考への転換があるように思われた。
「裏返しに言うと、新しい建物を建てるというニーズはそこまで大きくないのかなと。一方でリノベーションするにしても古い建物は当然構造も傷んできますし、特別寿命を長くしているわけではないので、それは一時的な手段なのかなとは思っているんですよね。でも、もう1つそこで別の選択肢を提供できるのであれば、それは1つの社会問題の解決に貢献できるのではないかと思ったんです」
トレーラーハウスは人が泊まれるほどの空間を備えながらも、法的には自動車に分類される。そのため、建築基準法ではなく道路運送車両法の適用を受けることになり、一般的な建築物に求められる建築確認申請などの法手続きが不要になる。柔軟な空間づくりを実現するには最適な手段だ。
しかし、いざ実物を探してみると、ほしいと思えるようなデザイン性に優れたトレーラーハウスがどこにもないということが分かってきた。それなら自分たちが参入してみるチャンスがあるということかもしれない。
思わず目を留めてしまうような高いデザイン性と機能性、人が心地よいと感じる理想の空間にある特徴をあまねく備えたデザイントレーラーハウス「スタイルキャビン」は、そうして生まれてきた。
建築設計の領域で培った空間づくりの手法と、エリアや人、ビジネスの新たな可能性を融合させる。2019年6月、株式会社エリアノは設立された。
ここ数年で今までにない価値観や生活様式が浸透したように、企業を取り巻く外部環境は常に予測不能な変化にさらされている。
2019年にエリアノを創業したときも、わずか半年ほどで社会は新型コロナウイルスの感染拡大により様変わりした。事業の足場を固める前に訪れた突然の社会変化、しかしそこでは悪いことばかりでもなかったと勝呂は振り返る。
「起業してすぐコロナになって、まず営業ができなくなったということはありました。でも、結果的にいいこともあって、オンライン会議が普及したというところですね。私たちは地方のお客様がすごく多いので、『話は聞くけど地方に来てほしい』という反応だったところが、逆に『じゃあまずオンライン会議で』と気楽に言えるようになったことは、(商談のハードルを下げる意味で)非常に良かったことでした」
オンライン会議やテレワークが飛躍的に普及したことでも、密を割けた宿泊施設としてグランピングなどに注目が集まったことも、同じく空間を提供する手法であるトレーラーハウス市場にとっては結果的に思わぬ追い風となった。
「幸せなことに最初に実績もないなかで機会を提供いただいたのが、神奈川県横須賀市にある『ソレイユの丘』という公園でした。結果的にこれ以上ないチャンスをいただいて、僕たちもしがみつきながら必死にやってきて実現できたというところで、ものすごく人気な公園だということもあり、おかげさまで高い稼働率で運営させていただくことができました」
チャンスを提供してくれた人や企業には、感謝してもしきれない。だからこそ、期待に応えるべく目の前のことを淡々と積み重ねてきた。
当時を経て今、改めて話を聞いてくれる人の価値を実感していると勝呂は語る。
「一緒に創業した仲間もそうですが、私は創業したとき、近くにいる人にすごく助けていただいたという経緯がありまして。新しく何かに挑戦するときは、やっぱり1人で始めるのではなく、いろいろな人にコミュニケーションを取るということがすごく大事だなと感じていますね。ぜひこれから会社を始めたいと考える人がいたら、別にまとまっていなくてもいいので、まずは近くで信頼できる人に腹を割って話す、話を聞いてもらうということをやってみたらいいんじゃないかなと思います」
急激な社会変化にもまれながら、それでも変わらず自分たちの事業の価値を信じてきた。実際このプロダクトがあることにより、町や地域や場所そのものが変わることを期待してくださる人は多くいる。それは、事業を発展させていく過程でより鮮明に分かってきたことだった。
予測のつかない外部要因があるとしても目の前のことを淡々とやる。まずその第一歩として、身近な信頼できる人に思いやアイデアを話してみる。もしかしたらそこから始まる何かがあるかもしれない。
神奈川県横須賀市にある「長井海の手公園 ソレイユの丘」にて
自然に溶け込むよう設置されたスタイルキャビン
2022.12.16
文・引田有佳/Focus On編集部
― 動かす空間という選択肢 ―
デザイントレーラーハウス「スタイルキャビン」の実例は
こちらから詳しくご覧いただけます。
自分の手で線を引き、計算し、形作った建物が地図に残ること。建築という仕事に携わる醍醐味ともいえる経験を味わってきた20代。その過程では、次第に建物のみならずそこに集う人と人を繋げる力に目が向いていった勝呂氏。
周囲との力の差を痛感しても、歩みを止めず目の前のことを淡々とこなす。勝てる領域にアンテナを立て、ビジネスを学ぶ。建てる、壊す、再生するに並ぶ新たな「動かす」という選択肢は、人とは違うことに挑み、勝ち筋を見出してきた勝呂氏だからこそ、たどりついたプロダクトともいえるかもしれない。
都市には都市の、地方には地方の「場」のニーズが生まれるが、それを解決しうる既存の選択肢は存在しなかった。だからエリアノは、「動かせる」ことの価値を軸として「場」に新たな価値を創出しつづける。
世の中では誰かの小さな創意工夫が積み重なり、時に新しい社会の選択肢をつくることがある。理想と現実の差にとらわれず、目の前のことに淡々と取り組みながら、自分なりの挑戦を続ける人の元にこそ、ひらめきは訪れるのかもしれない。
文・Focus On編集部
株式会社エリアノ 勝呂祐介
共同代表 CRO/一級建築士、MBA(GLOBIS)
1982年生まれ。東京都出身。早稲⽥⼤学⼤学院理工学研究科修了後、株式会社久米設計での設計担当、株式会社キャピタルメディカ介護事業部での開発担当、コンサルティングファームを経て、現職。新規施設開発及び新規事業開発の複数プロジェクト経験を持つ。(新規介護施設の建設及び企画・オペレーション開発、オフィスの新規及び移転プロジェクトのPM業務、新規事業開発のコンサルティング業務等)
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