Focus On
佐崎傑
株式会社Goals  
代表取締役CEO
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or知る人ぞ知るヴィンテージ・アンティークウォッチ専門店FIRE KIDS(ファイアーキッズ)は、1995年に横浜・白楽で創業した。少なからぬ歴史を刻み、時計好きのあいだで愛される名店だ。
創業者であり現在顧問を務める鈴木雄士は、四半世紀のあいだ店頭に立ち、創業オーナー兼店長として時計愛好家たちと対話しつづけてきた。2022年、同店は鈴木から新オーナー(以下、A氏とする)へと事業承継。名は明かさない意思を持つA氏は、創業メンバーとしてスタートアップ企業を上場へと導いたのち、今、ライフワークのために生きると決めている。経験豊富な2代目店長を据えるとともに、内装やHPをリニューアル。変わらぬ価値をとどめつつ、新生FIRE KIDSとして始動した。
時計に魅せられた新旧オーナーの人生、そして来たる2025年に表面化する中小企業の後継者問題に対する1つのアンサーとして、互いにとって理想的な事業承継を実現させた2人の生き方と意思決定について全2編(前編・後編)でお届けする。
>>前編
『老舗ヴィンテージ時計専門店の事業承継 ― いつかは自分の店を持つという夢を叶えて』
街のちょっとしたおもちゃ屋や駄菓子屋が、どうしようもなく少年少女の心をときめかせるように、好きなものに囲まれる空間の尊さを、時計屋は大人にも教えてくれる。
物欲や所有欲とも言えるが、人によってはもっと生きがいとも密接につながることがある。それを買うことを目標にして何かを頑張るプロセスなのかもしれないし、純粋に持つことでわくわくできるアイテムなのかもしれない。
A氏自身は、憧れのようなシンプルなエモーションから何事も始まりやすい方だと語る。
「時計は僕が小さい頃好きだったものに、ある意味すごく近い存在で。飛行機が好き、車が好きみたいな男の子特有のロマンを感じるし、少年時代のわくわくを思い出させてくれる大人のプラモデルみたいなところがありますね」
好きなもののために人が集まると、そこに熱量や場のエネルギーのようなものが生まれてくる。時計好きでもない人が接客する店と、お客様以上に店員が時計好きな店。両者を比較してみれば、どちらが顧客体験として優れていると記憶されるかは言うまでもない。
これからFIRE KIDSが目指す姿も、そんな「好き」が集まる場であるようだ。
「まずは時計の良い体験を味わってもらい、時計好きの人口が増えたらいいなと思います。時計なんて不要不急だし、アンティークなんてなおさらそうで。でも、そこにロマンがあるし、人生って不要不急が楽しいよねという話だと思うんですよ」
時計は時を刻むのではなく、人生を刻むのだとA氏は考える。何かしらの思いとともに購入される時計。単純に時間を刻む精度よりも、その体験からいかに生きる喜びを感じられるかが重要になることもあるだろう。
FIRE KIDSを承継した時、そんな風に人の心や人生にかかわる素晴らしい業界であるにもかかわらず、いまだ業界自体が小さな世界にとどまっているように見えていた。新しい視点を加えれば、まだまだできることがある。
だから、時計業界を再定義し、時計にまつわる新たな価値観を創造していきたいと考えるようになったという。
「そもそもこれまでアンティークウォッチの定義はあいまいな部分がありました。クラシック音楽はこの時代と決まった認識があるように、それが時計にもあっていいだろうし、そういうものをヴィンテージと呼ぶ再定義、新しい価値創造をもっと進めていきたいと思っています」
若い世代にもヴィンテージ時計の価値を届けたい。しかも、ただ届けるだけじゃなく、人生を刻んでほしい。時計を通じて、FIRE KIDSはかけがえのない豊かさを提供しつづける。
戦後の団塊世代だった両親は、懸命に働きなんとか家庭を築いていた。はるばる北海道から身一つで上京してきた父。生まれた家は戦前裕福だったそうだが、当時はもう違った母。幼少期の家庭環境は、お世辞にも恵まれているとは言えなかった。A氏にとって、貧乏は身近にあった。
「何かに依存して生きるって、結局常に不安であるということですね。そうじゃなくて自分で自分の身を立てて、それを貫けるような生き方ってないのかなと考えて。つまり、サラリーマンとして生きるのは怖いなと、小さい頃から思っていました」
大人になった今なら、両親なりの苦心の上に成り立つ生活だったのだろうと分かる。けれど、子どもながらに感じられるのは、毎日が不安に満ちているということだけだった。
「子どもにも分かりやすいところで言うと、給食費が遅れることですね。半年くらい未入金で。先生から僕の家だけまた遅れていると、『そんなのお金入れておけばいいじゃない』と言われて」
家の状況を理解しはじめるきっかけは、先生からの言葉だけじゃない。両親の喧嘩をよくよく聞くと、だいたいはお金にまつわる言い争いだった。
当時の感情は今でも刻まれている。だからこそ、いかに生きるかを人一倍意識しつづけてきた。どうすればそうではない人生を送れるかと考えてきた過去がある。
「一つの戦略は、良い学校に行くことでした。きちんと勉強することは大事だと思って。小学4年くらいまでは真ん中より下くらいだったのですが、そこから勉強したら成績が伸びて、中学校の最初のテストで10番以内に入れた。ここで勝負だと、偏差値を上げるというのは中高時代1つの挑戦でしたね」
良い学校に行って、良い仕事に就く。仕事に求める条件は稼げることと、依存しないこと。中学2、3年くらいの頃、そんなイメージに結び付いたのは弁護士という職業だった。そのために勉強し、大学は法学部を目指す。
シンプルな目標を立て、純粋にそれを追いかけた。しかし、大学受験には失敗。法学部への現役合格は叶わなかった。
苦しい浪人生活のなか偶然手に取ったのは、世界でベストセラーとなっていた名著『7つの習慣』だ。その内容に、人生が変わるほどの衝撃を受けたという。
「1番驚いたことは、『あなたは自分の葬式でなんと言われていたいですか』という話ですね。死ぬとき、まして自分の葬式なんて全く想像がつかなかったんです。終わりを思い描くことから始めるとか、主体的であるとか。当たり前の話なんですが、その後1個1個の行動にインスパイアされていきました」
それまで受けてきた教育は、どれも「こう生きなさい」という模範を示すものばかりだった。生き方や人生は、そうやってある程度決められていくものなのだと思ってきたが、漠然とした不安がそこにはある。
何度も何度も読み返し、そのたび気づきは確信に変わる。本から発される、「自分の人生は自分でつくれる」という揺るぎないメッセージ。A氏はそう受け取った。そんなことは誰も教えてくれなかったことだった。
人は自由に生きられる。人生は自分で決められる。自分で選んだことに精一杯に取り組んで、違ったのなら自分の意思で辞めればいい。だから、思いっきりやってみればいいのだという発見が、のちの人生の指針となっていった。
1年間の浪人生活を経て、無事に志望大学へと合格する。しかし、そこで待っていたのは法律の勉強のリアルだった。
「職業の中身というものも知らないでとりあえず大学に入って、いざ授業に臨んだ時に、端的に言うと向き不向きなんですかね。授業中の記憶がないんですよ。今振り返ると、誰かが決めたルールを解釈することが性に合っていない。ルールは作るものだと(笑)」
高校までの勉強は、5教科9科目で上位何%に入れるかを競い合う。好成績を獲得することは、良い大学に行くためのチケットとなる。分かりやすいゲームのような感覚でもあった。
しかし、大学は通過点でしかない。次は社会人が待っている。そこでは単純にテストの点数を上げればいいという話ではない。仕事にするために法律を学ぶ必要があるのだが、早々に自分には向いていないと気づいてしまった。
「想定外というか、入った意味を見失いましたね」
季節はまだ初夏である。大学1年の5月か6月頃のことだった。徐々に授業を欠席することが増えてくる。けれど、その道が違っていたのなら辞めればいい。本から学んだ通り、自由に思いっきりやればいいのだと、A氏は新たにエネルギーの向かう先を探していった。
「合同懇親会っていうのをやりはじめて。はい、略して合コンですね(笑)。我々の大学は需要があるのかもしれないと気づいたんです。でも、正直あまり楽しくはなかったですね。そもそもお金が減っていくし不毛だし。健全な友達集団だったんですけど、何も積み上がらない感じはしていて。ただ、若いうちしかできないからやりきってみようと」
楽しいイメージがあり始めたものだが、やってみるとそんなことばかりではないと分かってくる。ときに笑い、ときに落ち込みながらも、とにかく空き時間を埋めることが目的かのように、アルバイトと合同懇親会を繰り返す日々を1年ほど続けていった。
***
「大学2年の時、僕が人事や組織開発をやり始めたルーツなんですが、20年くらいの歴史あるテニスサークルを承継したんです。コンセプトは、テニスをやらないテニスサークルですね。そしたら名簿上500人くらいのサークルにはなって」
存続の危機にあったテニスサークルの運営を、好きなようにしていいからと先輩から任された。一から立ち上げることも検討していたが、せっかくだからと友人と共同代表としてやってみることにした。
人も集まり、滑り出しは順調かのように見えた。だが、次第に課題が見えてくる。テニスをしないからこそ集まっても明確な目的がなく、全く人が定着しないのだ。A氏にとって、初めて組織づくりを意識した経験でもあった。
「どうしたら組織ってできるんだろうということが分からなくて。サークルをうまく運営するために、当時は組織づくりの本を読んで勉強したような気がします。結局やっぱりミッションとかが大事で、それに沿った活動をみんなが信じてできるかという話などは、あとになって知ったんですけども」
共同代表である友人と、よりよい場をつくるため議論を重ね、できることはやり尽くす。携帯電話もない時代、メンバーの家に電話しては父親に怒られたりもした。数々の困難を突破していき、結果としてみんなが楽しみ盛り上がる場が生まれると、そこに湧き上がる喜びがある。まさに青春の日々だった。
それでも努力むなしく、メンバーは増えては減りを繰り返す。結局、1年ほどで友人が勉強のため抜けることになり、サークルは道半ばで解散することとなる。挫折であると同時に、組織づくりは面白いという発見でもあった。
それ以降、どうやら自分はコミュニティをつくることが好きだということが分かってきた。
「社会人になってからも、いろいろとコミュニティをつくることに成功するんですが、意識していたことはテニスサークルの失敗から学んだエッセンスですね」
A氏がコミュニティをつくる動機は、シンプルに「楽しいから」であるという。熱量高い人が集まり、楽しむことで、その場のエネルギーが高まっていくのを感じられる。それが何より楽しいのだと語る。
学生当時、組織は大きくなればこそ楽しくなるはずだという考えは間違っていた。実際は反対で、楽しくやるからこそ組織は大きくなるのだということ。良いと感じる人が増えれば増えるほど、自然と人は集まり、さらに楽しいことが持ち込まれるようになる。
熱量を持って楽しくやっていると人は集まる。A氏にとってそんなコミュニティをつくる能力が、誰にも負けない強みであると思えるようになっていく。
大学生活を振り返ってみると、法学部で挫折し、合同懇親会で挫折し、サークル運営で挫折した。学んだことはあるものの、志を持って叶えたわけじゃない。迷走している自分にも気がついていた。
何のために自分はここに来たのだろう。就職活動も差し迫る頃、答えを求め大学のパソコンルームであてもなく検索していた。
「当時インターネットの掲示板が盛んでいろいろ検索していたんです。そこに『熱いやつ求む』って書いてあって、連絡したんですよ。それが大学で起業家サークル的なものを立ち上げるという話だった」
ビジネスなんてまともに触れたこともなかったが、歓迎されていたので学生起業家の集まりに参加する。すると、そこでは聞いたこともないビジネス用語が飛び交っている。衝撃だった。
その後、サークルの活動を通じて、今では大物として知られるような新進気鋭の若手起業家たちとも交流する機会があった。
「超かっこいいなと思いました。社会課題を自分ごとに捉えて、世の中をこうしたいと語っているんですよね。そんな生き方ってすごいと思って。自分と2歳くらいしか変わらない人が学生起業家とかやっていて、中身空っぽの僕からするとどうしてこの違いが生まれたんだろうと思いました」
アントレプレナーの生き方はかっこいい。自分もそんな生き方がしたいと、切実に思った。
「ただ、すぐ起業しようとはならなかったです。すごすぎるなと思って、自分はまだできないと。そういう方々に比べると亀みたいな感じなんですが、彼らみたいなすごい人に勝っていく戦略はずっと考えていました」
まず決めたのは、30歳で起業するということ。そのくらいであれば、自分でも実現できるのではないかと考えた。
***
大学3年の夏には時間があったので、就職先探しも兼ねてバックパッカーとしてカンボジアを旅することにした。当時イケてる人はみな、バックパッカーを経験しているような風潮があったこともおそらく多分に影響しているだろう。
気軽な気持ちで渡った東南アジアには、衝撃的な光景が広がっていた。市場の周りにあふれる子どもたち。手足がなかったり、まだ小さい妹や弟を背負っていたりする。何より無垢な瞳で「Give me one dollar.」と声をかけついてくる子どもの姿があった。
「運命だけでこうなっているんだと、何をすればこの状況が良くなるのかと旅中ずっと考えました。帰ってくる飛行機の中で号泣しながら、ここで見た光景を解決することを人生のミッションにしてみたいと決めたんです。『教育×社会課題』っていうキーワードで、アントレプレナーとして課題を解決していく。それを自分がやりたいと思えた」
教育は組織づくりとも密接にかかわる。好きであり、手応えを持っていた領域でもあった。さらに自分が多大な影響を受けた本『7つの習慣』のような教育を、機会として広めたいという思いもある。だから、そのための戦略を立てることにした。
「21歳の時に、人生のマスタープランをつくりました。30歳で起業して、40歳で学校をつくり、50歳で財団をつくりたいと。今のところ30歳で起業して、組織・人材開発の責任者として会社を学校に見立ててやってきて、その通り実行してきたつもりです」
1社目は外資系企業に就職することにした。いずれ起業するならグローバルスタンダードを見ておきたかったし、「30歳で起業する」と豪語するような学生は、日系よりも外資の方が歓迎されたからでもある。
そこでは組織というより個人事業主的な働き方が主であり、組織で進める仕事も経験すべく、数年後には日系大手企業へと転職。起業するために、営業力も身につけておきたかった。
「対極な環境を経験して、結局1人でできることは小さいなと思いました。目の前の個人の仕事だけ見ていると、とってもバーチャルというか、貢献している実感や喜びが少ないなと。どちらかというとチームで何かを成していく方が僕は好きだし、オフィスの場のエネルギーも好きだなと思って」
2社目の日系企業では、正社員やアルバイトを問わず、チーム一丸となり本気で作り上げる文化があり、熱狂があった。主体的なスタンスは1社目でも求められていたはずだが、そこに人が集まり、熱量高く同じ方向へ向かう場のエネルギーに何より心動かされていた。
人の源泉に火をつけ、才能を解き放つ。その組織で大切にされているどの手法や哲学も、自身の探究テーマと重なり心地よく、起業後もお手本となるような学びに満ちていた。
英語で「セレンディピティ」という言葉がある。日本語で「思いがけない幸運を偶然手にする力」などと訳される、その言葉が好きだとA氏は語る。起業につながるきっかけは、まさにこの「セレンディピティ」によるものであるようだった。
「僕は自分で起業することを決めていたんですよ。株主も決まってあとは社名だけという時、会社を退職する2か月前にBさんが現れた。彼と出会わなければ、自分で起業していました」
大きな夢を語る人はいるが、実際に行動する人は少ない。B氏はまさに本物と思える人物だった。誰もが分かっていながら目を背けていた業界の課題に、真正面から切り込んでいくその姿。既存プレイヤーの存在をものともせず、本質的に必要だと思われる打ち手を選択する。
果敢に挑んでいく様子は、まさにアントレプレナーの生き方であり衝撃的だった。
「僕がやるよりも、彼がやることを実現した方がいいと思えたんです。その背景には彼のビジョンの大きさだったり、行動ですよね。僕は恥ずかしいくらい敵わないと感じました」
共同創業に踏み出したのが30歳の時。人生のマスタープランの通り、有言実行することができた。B氏はビジョンを語り、プロフェッショナルな仲間を口説き集める能力に長けている。組織として優れた基盤が、たしかな成長を促していくさまを目の当たりにしていった。
「FIRE KIDSを完璧なチーム経営体制に変えているのは、その原体験があるからですね。僕自身は時計を売ることも仕入れることもできない。M&Aをやろうと思えたのは、仲間さえいれば事業はなんとかなるということを知っていたから。そのスタンスで行けば、なんとかなると」
優れたチームさえあれば、事業はうまくいく。全くの異分野でも、できるはずだと思える所以がそこにある。A氏自身、組織・人材開発の責任者をはじめとする要職を担いながら、確信を深めていった。
***
数名で創業したスタートアップ企業は、数年後に上場。A氏は力を尽くした自分へのプレゼントの意味を込めて、記念に何か購入したいと考えていた。
「時計がほしいとかではなくて、偶然YouTubeを見ていたら芸人さんが銀座の『THE HOUR GLASS』に時計を買いにいく動画があって、それが僕の運命を変えたんです」
もともと少し研究家肌な気質があるという。動画をきっかけに興味をそそられ、初めて時計屋に足を踏み入れる。時計の美しさはもちろん、ヒエラルキーや構造など学べば学ぶほど素晴らしさに感嘆した。1か月ほどかけていくつかの店に足を運び、探究。自分がほしい時計とは何なのかを突き詰め、死ぬまで売らないつもりで特別な1本を購入した。
「素晴らしくて、その時間が豊かだったんですよね。時計って資産価値があって美しい以外にも、これ自体が文化であり歴史が詰まっていて、アート的な側面もあるし資産的な側面もある。テクノロジーの側面もあって、さまざまな観点が味わえるんですよ。知れば知るほど時計にハマりましたね」
気づけばプライベートで時計の学校に通うほど、その豊かさに魅了されてしまった。まさにライフワークと呼べるほどの情熱との出会いだ。
そんな折、創業期からの中核として貢献し、役員に就任していた仲間と1on1で話す機会があった。退任し、好きなことや趣味のために生きていくことにしたということだった。
「あ、いいんだなと思いました。僕もそれ時計でできるなと。何より会社の取締役からあっさり身を引くという選択が、かっこよすぎて痺れますよね。その在り方がすごいと思って。僕もそうありたいと改めて思いました」
いさぎよく身を引くその姿は、自身が昔から探していたかっこいい生き方と重なるように思われた。自らの意思を貫いている。それほど自分の中にある人生観に忠実に生きることは難しい。特に、経営者は事業や会社と人格を一体化させやすく、そこに執着が生まれる原因にもなる。背中を押される思いだった。
また、人生のマスタープランの存在も無視できない。教育×社会課題というミッションに基づき、この領域において50歳で財団をつくるため、大学院で博士号を取りたいという思いがあった。
これまではひたすらビジネスで力をつける意味でも、目の前のことに邁進してきた。起業という挑戦に一区切りがつき、今、ようやく人生の後半戦だ。FIRE KIDSとの出会いはそんな折のことだった。
ライフワークのために生きていく。自分でかっこいいと思える生き方、大切にしたい価値のために働く挑戦を、ここFIRE KIDSで成し遂げる。
A氏が初めて購入した思い出の時計
時刻は最も美しく見える10時8分前後で止めているという
M&Aは双方さまざまな思いを交わす大きな経営判断だ。今回FIRE KIDSの譲受にあたって、決め手はどこにあったのだろうか。情緒的側面と現実的側面の2つがあるとA氏は語る。
「情緒的なことで言えば、おもちゃ屋のような空間です。店に入った時のわくわく感、鈴木さんがつくった世界観が僕は抜群に好きだったんですよ。そのうえで自分がこういう世界をつくる側になるのか、現実的に承継するのかという点においては、ビジネスマンとしてお金でチームと時間を買うという発想の方が早いことと、自分ならうまく経営できるという自信があって、この人とやることでうまくいくと思えたからですね」
M&Aは結婚のようなものだとA氏は考える。特に、小規模な個人経営店においてはそうだろう。承継が目的ではなく、誰から承継するかが重要になる。だからこそ、意思決定の決め手は、前オーナーである鈴木氏とチームの存在そのものとなったようだ。
「チームさえあれば立ち上がるという信念があるので。鈴木さんだけでなく、チームがいる状態から始められるということは、何年間かショートカットできることになる」
もちろん終始一貫し、迷いが生じなかったわけではない。財務DDにおいては、専門家から率直に「儲かる気がしない」と指摘されたこともあるという。事業計画をシミュレーションし、改めて自分の心に問い直した時、それでもやりたいと思えた瞬間がある。
A氏にとっても初めての事業承継。新鮮な気づきであったようだ。
「ロマンとそろばんの関係というか。そろばんを弾けば弾くほどロマンがなくなることもあります。収支だけで見ると、やめるという意思決定の方が合理的だったりする。でも、この手のM&Aでは、ロマン側つまり自分の心がなんと言っているかの方が大事だと思うんですよ。どちらかだけでもダメですけどね」
そもそも目的に立ち返ると、お金ではなくライフワークのためである。それならロマンが勝ってもいいのではないかとA氏は考えた。そろばんは自分で書き換える気概があればいい。
一方で、主観が入りやすいからこそ、法務など専門家の存在の重要さも実感したという。きちんと耳を傾けたうえで、意思決定することが肝要になる。
「最後に決める人が決める、でも意見は聞く。基本、僕の意思決定のスタイルはそうですね。渋沢栄一の言葉に『蟹穴(かにあな)主義』というものがありますが、自分の甲羅の大きさを知ってそこに住みましょうという意味で。大きすぎても小さすぎてもダメで。時計は僕の知らない世界なんです。だから、分からないことは聞いた方がいいし、そうしないとうまくいかないと思っています」
蟹が自分の甲羅に合わせて穴を掘るという習性から転じ、自分の身の丈にあったものを認識し、磨きつづけるという心がけを意味するそうだ。M&Aにおける意思決定も、蟹穴を知ったうえで自問を重ねることが必要になるのだろう。
リニューアルしたFIRE KIDS店内の様子
未来に向けて、新生FIRE KIDSはいかに歩むのだろうか。今後の展望についてA氏は語る。
「この事業をどうしたいかというと、100年続く会社をつくりたい、寿命よりも長く生きるものをつくりたいという思いがあって。これまで自分が抜けたらコミュニティが衰退することって結構あったんですよ。だから、FIRE KIDSは100年続く会社にするぞと、社員には常に言っています」
時計は人の寿命よりも長く生きるものである。親から子へ、子から孫へと受け継がれていくこともある。それだけ長く続いていく会社であることが、時計という商品を扱うことに対する責任であるとA氏は考える。だからこそ、累計100万個の時計を仕入れて販売するという思いから、商品IDを100万番まで対応できるようにしているという。
その過程ではもちろん、「ヴィンテージ時計といえばFIRE KIDS」と名が挙がるようにする。そのために、1年後、10年後のマイルストーンも設定されている。実現できると強く思えるほど、同社にはほかにない強みがある。
「大事なことはお客様にとってどういう存在でいるか。アイデンティティの部分で、僕みたいな時計愛好家で、なおかつお金儲けは考えていない人がやれるということがFIRE KIDSの価値なんですよ。時計愛好家による時計愛好家のための店づくりを打ち出して、一生使える時計をリーズナブルに提供する、お客様に最良の時計体験をしてもらうことは、うちでしか実現できないと思います」
当たり前ながら企業は売上を上げることが、存続の必須条件としてある。しかし、新生FIRE KIDSでは、A氏がこれまで培ってきたビジネス経験と資本がある。それが、純粋な時計好きの理想を追求することを可能にする。
「ビジネスは社会の負を解決するものですが、自分が好きなことで『あれ?おかしいな』みたいな気づきがあるとしたら、それを気づいた人がやるだけで良くなることはあると思います。好きなことで理想を追求するだけでも価値提供につながるんだということですね」
事業承継、しかも異業種への参入は、ともすれば敷居が高いとも思われがちかもしれない。けれど、そこに自分なりの課題意識や理想、何よりロマンがあれば、業界を変える原動力に十分なり得る。
子ども時代に見た夢を取り戻すように、私的感情に突き動かされる瞬間を大切にする。そこに人生の豊かさがあり、大人になった今だからこそ挑戦できる価値があるのだろう。
2022.6.3
文・引田有佳/Focus On編集部
組織やコミュニティというものに興味を惹かれ、以来誰より学び探究してきたから今がある。A氏はそこで人の思いや行動がどう作用するのかを自身の目で見つづけてきた。
いわく、好きなもののために人が集まると、そこに場のエネルギーのようなものが生まれてくるという。人々が心から楽しむほどに場のエネルギーは高まり、それを心地良いと感じる人が増えれば増えるほど、場のエネルギーはさらに高まっていく。結果的にもっと多くの人が集まることにより、さらに楽しいことが持ち込まれるようになる。
そんな風にコミュニティは正の循環をたどることでやがて発展する。だからこそ、まず好きなもののために人が集まっていること。それが、良いコミュニティに必須の条件であるとA氏は信じている。
A氏がFIRE KIDSで実現しようとしていることもそうだ。時計に夢中だった旧オーナー鈴木氏のもとで育ったメンバーをはじめ、今回の承継を機に、何より時計を愛する精鋭人材が新たに加わり、最高のチーム体制により看板が支えられている。
FIRE KIDSはただの時計店にとどまらない、時計を買いに来る人も売る人も、いずれも真の時計好きが自然と集うコミュニティに近い空間なのかもしれない。人の熱量が伝播していく力を信じるA氏だからこそ、時計好きが織り成す理想の場をつくりだすことができるのだろう。
文・Focus On編集部
>>前編
『老舗ヴィンテージ時計専門店の事業承継 ― いつかは自分の店を持つという夢を叶えて』
FIRE KIDS
住所:神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-10-12
営業時間:10:00-19:00(月曜定休)
電話:045-432-0738