Focus On
坂根千里
株式会社水中  
代表取締役社長
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or知る人ぞ知るヴィンテージ・アンティークウォッチ専門店FIRE KIDS(ファイアーキッズ)は、1995年に横浜・白楽で創業した。少なからぬ歴史を刻み、時計好きのあいだで愛される名店だ。
創業者であり現在顧問を務める鈴木雄士は、四半世紀のあいだ店頭に立ち、創業オーナー兼店長として時計愛好家たちと対話しつづけてきた。2022年、同店は鈴木から新オーナー(以下、A氏とする)へと事業承継。名は明かさない意思を持つA氏は、創業メンバーとしてスタートアップ企業を上場へと導いたのち、今、ライフワークのために生きると決めている。経験豊富な2代目店長を据えるとともに、内装やHPをリニューアル。変わらぬ価値をとどめつつ、新生FIRE KIDSとして始動した。
時計に魅せられた新旧オーナーの人生、そして来たる2025年に表面化する中小企業の後継者問題に対する1つのアンサーとして、互いにとって理想的な事業承継を実現させた2人の生き方と意思決定について全2編(前編・後編)でお届けする。
目次[前編]
>>後編
『老舗ヴィンテージ時計専門店の事業承継 ― 好きなことで理想を追求することが価値になる』
「2025年問題」という言葉を耳にしたことがあるだろうか。いわゆる団塊の世代が75歳以上となるその年、経済産業省の発表によると、中小企業・小規模事業者の経営者のおよそ6割以上が70歳を超えるといわれている。
そのうち後継者が決まっていない企業は約半数の127万社。現状のままいけば、後継者不在による廃業・倒産により、日本全体で約650万人の雇用と約22兆円のGDPが失われることになる。
未曽有の経済的混乱を控える今だからこそ、将来を憂う中小企業経営者にとって事業承継という選択肢の重要性が増している。FIRE KIDSの看板を20年以上守りつづけてきた鈴木も、もちろん例外ではなかった。
「コロナと持病の椎間板ヘルニアの悪化がリンクして、不安になっていた時期がありました。承継の話が出てきた時は光が差したというか、最終的に決まるまで分からない部分はありましたが、そういう流れに乗って身を任せたいなと思いましたね」
鈴木の場合、事業承継という選択の背景には3つの理由があった。
限られた人生のなか、今より家族のための時間を作りたいという思いがあったこと。50歳を過ぎ、自身の健康面に不安があったこと。そして何より後継者が育たなかったことだという。
「1番ベストな承継の仕方だったと思います。理由は新しいオーナーさんに資金力があって、なおかつ時計が大好きな方でそれに投資していいというお気持ちがあったこと。それから自分の代わりに新しい店長を探して立たせてほしいという条件も自分の中にあって、今回野村という素晴らしい人材を選ばせていただけたので」
理想的な承継が行われたFIRE KIDS。鈴木自身はもともと55歳でセミリタイアしたいと漠然と考えていたと語る。それをどんな形で実現させるかというイメージはなかったが、周囲に話はしてあった。
店を買ってくれる人がいないかどうか。そんな相談をしていたところから、知り合いを通じて新オーナーとの縁がつながった。
「名残惜しさとかは全くないわけではないですが、店がなくなってしまう方が寂しいじゃないですか。それよりも誰かが引き継いで看板が残って、さらに店がより良く評価されるようになれば、それはありがたいことだなと思います」
長年大切にしてきた店は、既に自分の分身のような存在になっている。その経営の担い手が変わっても、店の価値が後世に残ってくれるならそれが何よりだと鈴木は考える。
時計界の最高峰ロレックス社もそうであるように、創業者が退いても名店として変わらないブランドを継承してきた例は山ほどある。
「事業承継で悩まれている方や参考にしたい方がいれば、ぜひサンプルにしていただけたら嬉しいですね」
FIRE KIDS創業に込められた思いと、未来にわたって変わらない価値。それらを鈴木の人生の歩みのなかで振り返っていく。
開店当時から店に置かれ、親しまれてきた人形
まだ家庭のテレビがブラウン管で、そこに東京オリンピックの様子が映っていた時代。経済成長の証のように盛大に催された五輪が閉幕し、第2次高度経済成長が始まりつつあった頃、鈴木は生まれた。
当時を経験した世代にとっては、懐かしの趣味と言えるものがある。昭和の一大ブーム、仮面ライダーカードをはじめとするコレクションだ。鈴木ももれなくそのとりこになっていた。
「収集癖があったんですよね。小学1年生の時に仮面ライダーカードが大ブームで、小学2年生になると切手ブームが来て。ほかにも一升瓶の蓋とか、いろいろ集めてました」
一袋数十円のスナックは味気なかったが、その中にランダムでついてくるカードは数百種類存在する。限られたお小遣いをつぎ込み集めたカードの束は、さながら子どもたちにとって戦利品のようだった。
夢中になったものの記憶は忘れない。初めて収集したものは仮面ライダーカードだが、もっと幼い頃から鈴木にとっては興味をそそられる対象があったという。
「5歳の時に母親の時計を分解して、中の機械を取り出して、なぜかお風呂場の水で洗っていたんですよ。完全に時計は死にましたよね。すごく怒られた記憶があって。それが時計屋になるきっかけではないんですけど、気になっちゃうとね(笑)」
惹かれたものは集めたり、手に取らずにはいられない。中学生になると、鉱物採集に夢中になっていた。博物館が主催する鉱物採集バスツアーに参加して、年配の大人の中に1人混じったり。大学生以上が読むような専門書を読んでみたり。かと思えば、高校以降はバイクや車に魅せられていく。
「ものそのものが好きだということもあるかもしれないですが、全てに共通しているのは、何かに夢中になっている状態が好きなのかもしれないですね。何か集めるとか、集中してやっているとか。今だとオタクって言葉が普通に使われるじゃないですか。振り返ってみると、オタクだったんだと思います」
趣味の世界に没頭する一方で、学校の勉強は好きになれなかった。尾崎豊の歌の歌詞ではないが、どちらかというと集団行動は苦手だったと鈴木は振り返る。
現在の鈴木のコレクション
高校生当時は本気でレーサーを目指すほど、バイクには特別な情熱を注いでいた。パーツをバラバラにして、部屋で夜な夜なエンジンをチューニングする。より速く走れるようにと飽きずに研究に打ち込んだ。
「高校で進学先を聞かれた時も、自分は親と学校の先生に『レーサーになる』と言っていたんですよね。ライセンスとか取って、レースに参加して行って、ヤマハのTZを買ってレーサーデビューしたかった。それで稼げるとか、有名になるとかってことは全くないですね。スポーツ選手と同じで、結局選手生命って短いじゃないですか。その時夢中になっている人って、そんなこと考えていないと思うんですよね」
集中して運転していると、その瞬間、全てが研ぎ澄まされたような状態になる感覚がある。将来の夢と聞かれれば、間違いなくレーサーだった。
しかし、向こう見ずな性格が災いする。
前しか見ずに全速全開で走っているうちに、免停が重なり、ついには累積で2年間バイクに乗れなくなってしまった。レーサーになるという目標をあきらめざるを得ず、心にぽっかり穴が開いたようだった。
「ほかに進路も決めていなかったので、目標もなく空洞のような時期がありました。ただ、もともと美術部で絵を描いたりすることが好きだったので、デザインの専門学校に入ることにして。それ自体嫌いなことではないので苦ではなかったんですが、仕事となると好きなことを絵にできるわけじゃない。このまま就職したら、好きなことができるわけじゃないんだなと思って、その道じゃないと思うようになりました」
クライアントの求めるデザインを制作することが、デザイナーの仕事であり価値である。期待されるものがあり、それに応える必要がある。もし自分の商品を自由にデザインできるなら楽しそうではあるものの、もちろんそう簡単にいくものでもない。
ずっと何かに夢中になり、生きてきた。だから、それ以外のために生きるなんて考えられなくなっていた。次に自分が夢中になれるものはなんなのか。それを見つけ、好きなことを仕事にしたかった。
趣味の車
バイクや車にかける思いは不完全燃焼のまま、デザインにも夢中になれない。20代は先の見えないはじまりだった。
「自分はその頃フリーターだったんです。当時はフリーターという言葉もなくて、22、23歳でアルバイトしている人なんていない時代だったんですよね。みんなどこか会社に勤めていて」
久しぶりに会う知人と話すことがあれば、なぜ就職していないのかという話になる。純粋に不思議に思われていたのだろう。正直に話すのはなんだか格好悪く気が引けて、フリーのデザイナーだと自称したこともある。すると絵を描いてほしいと頼まれて、実際にうまいねと褒められたりもした。
「でも、それは言い訳みたいなもので。親にも『お前は何になりたいんだ』って結構言われていたんです。職を転々としたり、きちんと会社に勤めていなかったので。そういうときは『俺はいつか社長になるから心配するなよ』って、全然なんの根拠もないのに言っていました(笑)」
鈴木がフリーマーケットに参加するようになったのは、ちょうどその頃だ。最初はただ見学に、興味本位で覗いてみただけだった。目についた商品を物色して掘り出し物を見つけたり。店の人との会話が弾んだり。それが思いのほか楽しく、気づけば出品する側として申し込んでいた。
家にあるいらないものをかき集め、友達からも不用品を譲り受ける。ただそれだけで土日2日間の売上は10万円にもなった。初めてにしては結果は上々だ。夢中になるのに時間はかからなかった。
「フリマはお客さんとの駆け引きがあって、『これは徳川家康が使っていた壺です』とか言うと、相手は嘘だと分かっていても『へー、すごいね』とか乗ってくれたりする。当時は古着とかも流行っていたし、いろいろな商品を車に詰めるだけ持って行って。売って軽くなったら、ほかの人から仕入れてまた詰め込んで。フリマは仕入れる場所でもあるし、売る場所でもあるんですよね。それが楽しくてしょうがない感じでした」
やがて友達の父親が経営する印刷会社で働くようになり、平日はサラリーマン、土日はフリーマーケットと、二足の草鞋を履いているような状態になった。どちらかと言えば、月曜から金曜の自分は仮の姿で、土日の方が本当の自分であるように思えていた。
「フリマをやっている人のシンボルがあって、ウエストポーチをレジ代わりに使うんですよね。それがだんだん重くなってくる。小銭もお札も増えて、すごく働いた感があるんです。今まで自分は勉強と仕事が嫌いだったんですよ。それが働くってこんなに楽しいんだと気づいた。自分で働いて稼ぐことがこんなに楽しいんだってことに、気づかせてもらえたのかもしれないですね」
働く楽しさを教えてくれたフリーマーケット。そこで鈴木は時計とも出会うことになる。
「古い時計が並んでいたので、ちょっとつけさせてもらったら『めちゃくちゃ格好いいな』と思って。もともと安いものですが交渉して値切って買ったりして。使ってみたら時間が狂ったり、雨の日に曇りはじめたり、腕から外したら腕が真っ黒になっていたりするんですよね。洗浄して綺麗にして売っているわけではないので、使いながらの欠点が出てくるんです。でも、それを直して使ったりしていると余計愛着が湧いてきて」
ほどなく純粋に好きで時計を買いはじめる。買った時計は使うことも、売ることもできるからいい。場所を取らないし、時計好きな男性にアピールしやすい商品だ。何より自分が好きで説明できるので、積極的に扱うようになった。
夢中でフリーマーケットに精を出すうちに、お客さんからは「お店やられてるんですか?」と聞かれることが増えてきた。「お店の場所を教えてください」と言われることもある。もしかしたら自分はものを売ることが得意なのかもしれないと思いはじめていた。
「自分のセールス力みたいなものがフリマで活かされて、売上が大きくなってきたときにやっぱり店をやってみたいなという思いにつながりました」
どうしてもフリーマーケットでは単価の安い時計を雑貨的に売ることが主流になる。本格的な時計屋を目指すなら、いつかは卒業すべきであると分かっていた。
30歳で独立して店を持つ。それが最初の目標になった。
「自分の中で決めごとがあったんですよね。30歳くらいになったら独立しないとダメだよなと。今考えると生意気ですが、でも若いからブレーキもないし、独立しておきたいなと思って。29歳と10か月で店を持つことができました」
サラリーマンとして働いていたのは25歳から30歳までの約5年間。当初はサラリーマンとの兼業という形で店をはじめたが、ほどなく退職して店に専念することにした。
大好きな時計に囲まれながら、自分の店を育てていく。何より夢中になれる世界が、そこに見つかっていた。
鈴木とFIRE KIDS、念願の店を持った頃
横浜・白楽にFIRE KIDSが開店した当時、時計市場ではまだ「アンティーク」という言葉も定着していなかった。古時計、あるいは中古品という扱いで、高校生くらいの若者でも1万円ほど出せば買えないこともないという時代。今のようにプレミアがつく以前はそれが普通だった。
インターネットもなければ、専門の雑誌もない。ましてYahoo!オークションのような個人間売買の仕組みもないからこそ、お店がつける値段が全てである。
たまにある雑誌の時計特集を見ては、自分の感覚を頼りに時計を選び、コレクションしたものの中から売ったり買ったりしながら少しずつ店の形を固めていった。
「好きなことを仕事にすることができて、自分としては縁というか、うまくマッチングしたんだと思います。お客さんにも『いいよね、好きなことを仕事にして』と言われることがありますが、あまり仕事という意識もなくて」
自分の好きなことに没頭しながら、どうすればお客さんが喜んでくれるかを考えつづける。心の底から店の経営を楽しんでいると、自然と仲間も増えてきた。
「藤田さんという方だったんですけど、最初はお客さんだったんですよね。『壊れていてもいいから安く売ってよ』と言って壊れている時計を買っていったら、その時計を直して文字盤に色を乗せてこんな風に遊んでみたよって持ってきて、すごい人だなと思って。その藤田さんに自分の内装イメージを話したら、ラフスケッチを描いてくれて、俺がつくってやるよと。その代わりお酒をおごるという条件だったんです」
英国にある渋いパブのようなレンガ調。鈴木のイメージした店の内観は、そうしてお客さんの手作りでつくられた。店主と客という立場から仲良くなり、よく一緒に飲みに行くようになっていたという。店自体も何かと手伝ってくれていたのだが、若くして病のために帰らぬ人となった。
「藤田さんは時計好きで、絵もうまいし家具もつくれるし、すごく才能のある方でした。人見知りで、仲良くなるには時間がかかるんですが、藤田さんがいたからFIRE KIDSが立ち上がったかなと思いますね。ロケットでたとえると発射の段階で、今いるメンバーが人工衛星で、安定軌道に乗せて管理してくれている」
困っていたから応援したいと思ってくれたのだろうか。店を訪れ、ファンになってくれた常連さんが、いつの間にか店側の人間になっている。
雇用計画も何もなかったが、気づけばそうして1人2人とメンバーが増えていた。お客さんもメンバーも、仲良くなった時点で境界線はなくなっていたのかもしれない。
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20年以上続いた店の歴史においては、予想もしない事態に見舞われる瞬間もあったという。
「一度テレビに出たんです。(店のある)六角橋商店街が紹介されて、うちの店もその中のランキング18位で。次の日、六角橋商店街が原宿のようになって、交差点も渋谷のスクランブル交差点のようでしたね。テレビってすごいですね。1日で預かった修理用の時計が17本くらいあったんです」
かつてない賑わいを見せたその日の夜、明け方5時頃に電話があり、取ると相手は警察だった。なんと店が泥棒に入られたという知らせだった。
慌てて店へ向かうとガラスは割られ、損害額は1000万円にも及ぶと分かった。
「お客さんにどう映ったかは分かりませんが、翌日はブルーシートを張って営業して、なんとかしのぎました。結婚式と葬式を一緒にやっているみたいな気持ちでしたね。保険でなんとかなったんですけど、今となっては思い出ですね」
さすがに心が折れそうになり、店も畳むことも考えたと鈴木は語る。踏みとどまらせてくれたのは、やはり仲間の存在だった。
「自分が落ち込んでいたら、もう1回やろうよって声をかけてくれて。みんなの支えですね」
幸い店は元通りになったほか、兼業していた仕事が穴を埋めてくれたこともあり、問題なく復活することができた。さらにその経験から学び、セキュリティ体制を万全にしていくことにもつながった。
助けてくれる人の存在があったから、今がある。FIRE KIDSと鈴木は、そうしてこれまでの年月を重ねてきた。
「自分が困ると助けてくれる人が現れるんです。甘えてはいけないですが、それで助かったことも非常に多いです。今回のDDを支えてくれたのも、実はうちの家内なんです。自分は分からないことも多く、パソコン系も苦手なんですが、家内がその辺やってくれて」
多くの人の協力があり、積み上げてこられたもの。事業承継も、縁あって新オーナーと出会うことができた。経営から離れた今、今度は新オーナーやメンバーに手柄を立ててもらいたいという。
「新オーナーが言ってくれた『3代、4代続いていく店にしたい』という言葉がいいなと思いました。今までの流れも踏まえつつ、これからパワーアップしてリニューアルしていく。新店長にも活躍してもらいたいですし、手柄を渡したいですね。自分がしゃしゃり出ていくようなことはしたくないと思っています」
FIRE KIDSという店名の通り、火の玉小僧だった若き日の鈴木が積み上げてきた時計店というかけがえのない財産は、その歴史を止めることなく、今、新オーナーの手に引き継がれている。
2022年3月、同店はリニューアルオープン
30歳で念願の店を持ち、人生の一部として店を育ててきた。現在までの過程は必ずしも良いことばかりではなかったが、いずれにせよ悲喜こもごもの思い出がつまっている。
今回事業承継のディールを進めるにあたっては、そこにどんな感情があったのか。まず、新オーナーの第一印象について鈴木は語る。
「夢中になっちゃう人なのかなと思いました。時計にハマったのも去年からで、そこから時計の学校に通って、短期間にいい時計をいろいろ買ったと聞いて。お店での体験や接客をお客さん目線で考えられていて、理想の時計店をつくりたいという思いがある。利益ばかりじゃないし、もし店がうまく立ち上がったらお金は自分の懐ではなく、2店目の出店に使うと。本気を感じました」
これまでのFIRE KIDSでは、どちらかと言えば拡大よりも安定維持を考えてきたという。経営の世界でも実績を残してきた新オーナーの手腕により、店がどう生まれ変わるのかを楽しみに見守りたいと思えたようだ。
「自分は承継してもらえるのであれば嬉しいという方向で進みつつ、逆に相手がどういう風に最終的な意思決定をするのかという流れが見えない部分もあったので、そういう不安はありました。他社の承継の話もあると聞いていたので」
無事双方にとって満足のいく形で承継を終え、現在鈴木はFIRE KIDSの顧問という立場にある。店へのかかわり方は変わるが、時計への思いや情熱は変わっていない。
「仕入れるという行為が買い物している感覚なんですよね。瞬間的にいろいろな時計を買う疑似体験のようで。1週間自分でつけておくこともできますし、手元に残すこともできる。そうやって楽しんできたので、この先時計ビジネスを立ち上げたりはしないですけれども、趣味の時計としては続けるかもしれないし、バイヤーで動ける形になったらFIRE KIDSに卸すこともできるかもしれないですね」
自分がいなくても店が回る状態になったときは、きっと子どもが独り立ちしたような気持ちになるのかもしれない。寂しいけれど嬉しいような、嫁に送り出したような心境だという。
荷を下ろした鈴木は、今後の人生をどう過ごすのか。
「新たなことをやっていきたいと思っていますね。チャレンジしていって、誰かを喜ばせるとか感動させることを仕事にして、それがライフワークになればと思います。あとはヘルニアの手術をして治したら、レーサーとして復活したいという思いもあります。趣味が仕事になっていく、所ジョージさんのような生き方がいいなと思います」
人生をマラソンのように無理なく、けれどできるだけ速く走り抜ける。それだけ夢中になれる世界は多い。
原動力は誰かに褒めてもらうことなどではなく、あくまで自分自身で目指すゴールテープを切れるかどうか。その挑戦に向かって、第2の人生を謳歌しようとする鈴木がいる。
2022.5.27
文・引田有佳/Focus On編集部
休日になるたび意気揚々とフリーマーケットに出店していた20代から、念願の自分の店を持った30代以降も、鈴木氏の周囲にはいつも人が集まっている。「タダでいいから手伝わせてほしい」とそう言って、利害を求めない人たちがやってくる。
好きなことを仕事にし、誰より夢中になっているその姿が、人には輝いて見えるのだろう。夢中になっている人の周りには、その輝きに惹かれた人々が集まってくるというわけだ。
今回の事業承継も人一倍夢中になる2人が出会ったからこそ、惹かれ合い、理想的な着地が実現したのかもしれない(新オーナーであるA氏の人生や生き方については、後編で語られる)。
好きなことに夢中になっている人は、人を自然と惹きつける。夢中になっている人は魅力的だ。鈴木氏の人生は、1つの真実を教えてくれる。
文・Focus On編集部
>>後編
『老舗ヴィンテージ時計専門店の事業承継 ― 好きなことで理想を追求することが価値になる』
FIRE KIDS
住所:神奈川県横浜市神奈川区六角橋1-10-12
営業時間:10:00-19:00(月曜定休)
電話:045-432-0738