目次

地域医療を止めないデジタルインフラへ ― 商売は、行き届いてこそ価値がある

喜ばれる仕組みをつくれば、誰かの日常になる。


「すべてのハートと専門医をつなぐ」をビジョンに掲げ、医療業界の課題にテクノロジーと仕組みの力で挑む株式会社コルシー。同社が展開する心電図の遠隔判読サービス「CORSHY(コルシー)」は、医師不足が深刻な地域の医療現場が、負荷なく迅速に心電図の判読を行えるようにする。現場の業務効率化だけでなく、医療資源の最適化に貢献するプラットフォームとなっている。


代表取締役の堀口航平は、新潟大学大学院自然科学研究科を修了後、新卒採用支援事業の立ち上げに従事。のちエムスリーキャリア株式会社にて、全国の医療機関に向けた医師採用支援や、新規事業である病院事務長向け転職支援サービスの立ち上げを担った。現在コルシーの代表医師である佐野との出会いをきっかけに、2018年1月に株式会社コルシーを創業した。同氏が語る「理想的な商売」とは。






1章 コルシー


1-1. すべてのハートと専門医をつなぐ


地域医療における医師不足は、年々深刻化している。自治体によっては、患者はいるものの医師が足りないために病棟を閉じざるを得ないという事態も既に起きている。前職時代、奄美大島や佐渡島のような僻地の病院に伴走支援するなかで感じたのは、人材紹介の仕組みだけでは解決しきれない課題があるということだったと堀口は語る。


「どの地域でも医師が足りないと言われていますが、効率化できることはまだまだあると感じていました。ファックスなどアナログな書類のやり取り自体が悪いわけではないですが、アナログな業務が多いことで人手不足が深刻化している面もある。オフラインで働ける医師を確保するために高いコストを払う必要性が生まれていて、この構造をどうすれば解決できるのかという問いが、事業の出発点でした」


同社が提供する心電図の遠隔判読サービス「CORSHY(コルシー)」は、健診・診療を問わず、心電図のデータを送るだけで、循環器の専門医が判読を行い、結果・所見をデータ入力し返信してくれる。結果は、最短1日から指定期日までに受け取ることができ、日々の業務への負荷は最小限に抑えつつ、業務を効率化できるようになる。


紙やデータで送られてくる心電図は、同社のクラウド上で一元管理される。判読を担うのは、全国の契約医師たちだ。2026年現在、判読される心電図は年間50~60万件、それ以外のデータも含めると80万件にも及ぶという。


「主力として判読を行う契約医師は、勤務医の方が多いです。本来なら忙しくてアルバイトなんてする暇がないと思われていた先生たちですが、オンラインであれば家にいながら働けるのでいくらでもやりたいと言ってくださる方もいます。ほかにも、留学中で日本の医療資格が使えず一時的に医師として働けない方や、産休中の方まで、柔軟な働き方を実現するプラットフォームとして機能しています」


サービスを展開するうえで同社が重視するのは、インフラになることだ。そのために、心電図は紙でもデジタルでも、各病院の状況に合わせ柔軟に受け付けている。


「昔ある経営者の方が話されていたことですが、AppleがなぜiPodで電子ミュージックの世界で覇権を握ることができたのかという問いがあって。ポイントは、CDを取り込めるようにしたことだそうなんです。他社はミュージックサイトで音楽を買えるようにしたけれど、AppleはとにかくCDを簡単に取り込めるようにした。今までいちいちCDやMDを入れ替えていたところ、一台のiPodに何万曲も入るという衝撃があったから、結果的にプラットフォームとしても成長した。つまり、アナログに寄り添うことでデジタルを浸透させるという考え方を、弊社も大切にしています」


今もまだ「遠隔医療」という言葉すら馴染みのない医療機関が、全国には多く存在する。現状のサービスを磨きつつ、今後もコルシーは現場の課題と向き合いつづける。


「医師不足を解決できる手法をつくりたいと考えてきて、オンラインで一定の糸口を見つけたので、今後はオフラインについてもできることを探したいと思っています。僕自身、地方が好きなんですよね。地方って今、すごく魅力的になってきていると思います。教育も娯楽もあり、北海道の山奥でもNetflixが観られる時代になっている。最後に残るのは、医療だと思っていて。医療の課題が解決できれば、どこでも安心して住めるようになる。医療を地方のデメリットにしたくないという思いがあります」


どこに住んでいても、安心して医療を受けられる社会。コルシーはその当たり前を、インフラとして地域に根づかせていく。




2章 生き方


2-1. 商売が「行き届く」という価値


古い歴史をさかのぼれば、実家は7代続く商売の家だったという。もとは富岡製糸場の出入り業者だったところから、食品商社や貿易関連の事業などを経て、徐々に資本力が弱まっていき、堀口が生まれた頃には街中の小さなスーパーマーケットを営んでいた。まだ大手チェーンが進出する前の時代、群馬県高崎市で最初に生まれたスーパーとして地域に根づいた店だったと堀口は語る。


「幼稚園くらいの頃には、自分の家の商売がどういうものかということは分かっていたと思います。玉ねぎを袋に詰めたり、カップラーメンの品出しを手伝ったり。休みの日にはスーパーの休憩室で過ごして、父とよく市場にも行きました。あとは僕のタイムカードがあったんですよね、時給は300円くらいでしたけど(笑)。家庭というよりも、そこが自分の育った場所でした」


商売人の跡継ぎらしく、父はひょうきんで顔も広い人だった。子どもには言葉で教えるよりも、とにかく何でもやらせて経験させてくれていた。


「年に数回、商店街のちょっとした出し物のような形で、お客さん向けの抽選会が行われていたんです。決められた予算の中で、当たりくじを何枚入れて、商品をどれくらい仕入れていけば抽選として成り立つか。それを取り仕切る役割を、小学4年生くらいから任されるようになって。商店街の人も大らかだったんでしょうね。『子どもなのにすごいね、偉いね』と言ってもらえて、楽しかったなという記憶は鮮明に残っています」


子どもながらに友だちを呼んで仕事を手伝ってもらったり、景品となるおもちゃの商社へ仕入れに行ったり。そうして自分が設えたものに対して、お客さんがお金を払い、楽しんでくれる。次のイベントでも、その抽選を楽しみにお客さんがまた来てくれる。継続するからこそ「仕組み」と呼べるものになるのだと、初めて肌で感じた経験だったのかもしれない。それらが回っていく様子が、たまらなく面白かった。


そんな環境で育った影響か、昔から人前で話すことが苦ではなかった。学級委員など前に立つ役割は、率先して引き受けたりもした。「若いのにすごいね」と大人から言われることが、素直に嬉しかった。


「日常的にスーパーの手伝いをしているとき、駐車場もないような街中のスーパーだったので、高齢者の方が荷物を持って帰るのに苦労していることがよくあって。おばあさんが買い物袋を自転車に積んだり、運ぶのを手伝ってあげていたんです。そうすると感謝されたし、その大変さも実感できた。当時のそんな原体験は、今の事業にもつながっていると最近よく感じています」


小学校時代、商店街の祭りの日


地域に愛され、頼りにされるスーパーだったが、大手資本の攻勢は少しずつ強まっていた。北関東一帯に広く展開するいくつかのスーパーを訪れると、規模も品揃えもレベルが段違いだと分かる。小学6年生で「廃業が決まった」と親から言われたときには、どこか納得感すらあった。


幸いにもそれから食べるものに困るようなことはなかったが、毎年行っていたスキー旅行がなくなったりと、子どもながらに生活の変化は露骨に感じていた。苦労する親の姿を間近で見ていた分、当時は自分が将来商売を始めるとは思ってもみなかった。


「中学以降は、自分が起業するといったイメージは全くなかったですね。当時は平成の大不況で、『リストラ』という言葉が叫ばれ始めた時期でもあったので、スーツで出かける友だちのお父さんがかっこよく見えたりもして。自分もいつか、東京タワーと目線が同じくらいの大きなビルで働いて、リストラもされないようなエリートサラリーマンになるんだと、固く心に決めていました」


廃業後、生き方を変えるのに苦労していた父とは対照的に、母はすぐに環境に順応していたようだった。過去に糖尿病を患った経験を活かし、管理栄養士の資格を取ったりと、家計のためにたくましく働いていた。


もともと母は東京・葛飾の出身で、江戸っ子らしいシャキシャキとした性格の人だった。月に一度は祖母を訪ねがてら東京へ連れて行ってくれ、方言を直し、世の中のことについてよく話してくれていた。田舎者にするわけにはいかないと、母なりの思いがあったのかもしれない。


「中学1年の頃、街中を母が運転する車で走っていると、以前は常連さんだった人の姿が見えたんです。その方はうちのスーパーがなくなってしまったから、家から遠い駅前にあるデパートのスーパーまで買い物に行こうとしていたようで、それを見た母が『あぁ、あの人こんなところまで買い物に来てるんだ』と申し訳なさそうに言っていたんですよ。幸い夜逃げするような事態にはならなかったとはいえ、それでも商売や事業が止まることによって行き届かなくなるものは間違いなくあるんだなと思ったことは、今でもはっきり覚えています」


誰かの日常に根を張り、当たり前を支えていく。だから商売は、止まらず行き届くことに価値がある。その感覚を、家業を取り巻く人や街並みから学んでいた。


実家のスーパー(オレンジの看板の店)と商店街の街並み



2-2. 仕組みをつくる


初めて高専について知ったのは、母が持ってきてくれたチラシがきっかけだった。


どうやら自転車で30分ほどで通える場所にある、5年制の学校だということを知る。詳しく調べていくと、制服もなければホームルームもない、大学に近い雰囲気だと分かった。留年には気をつけなければならないが、自分で授業を選択することができ、大学受験の心配もない。何より自由にアルバイトができる点に惹かれ、進学を決めた。


「高専に入ってバイトをしながら、留年しないように頑張って、編入で国立大学に行く。当時の家の経済状況を考えると、それが一番コスパが良いと思ったんです。機械やロボットが面白そうだという思いももちろんあったのですが、正直な決め手はそこでしたね」


実際に入学してみると、高専は思った以上に自由な場所だった。機械工学科だったのでバイクに夢中な人もいれば、アニメに没頭している人もいる。各々が自分のベクトルを持っていて、好きなことに明け暮れていた。


そんななか飛び込んだのは、大手餃子チェーンでのアルバイトだった。


「商売に触れた経験はあるし、自分はできるものだと思って入ったら、企業が決めたオペレーションの中で、お金をもらいながら働くというのはものすごく大変なことで、毎週のように鼻を折られていました(笑)。最初は調理補助で入ったので餃子を作って焼いたりしつつ、途中からは人当たりがいいからとホールも任されて、店の外で餃子のテイクアウト販売をしたりと、すごく濃い時間でしたね」



食べ盛りだったので賄いには大いにお世話になりつつ、2年半ほど働いた。当時アルバイトは生活の中心で、飲食業の面白さに触れることができたので、次は居酒屋でも働いてみることにした。あるとき、その店の店長に紹介された仕事は、一つの転機になった。


「群馬の郊外にある温泉旅館が人手不足だということで、友だちを5人くらい連れて手伝いに行ったんです。そしたら働きぶりを評価してもらえて、『今度、年末年始なんだけど20人くらいお願いできない?』という話になり、そこから派遣の元締めのような役割を担うようになったんです」


高専の友だちに声をかけ、働き手として引き連れて行く。旅館ではフロアで携帯も持たされ、アルバイトながら取り仕切りを任されるなど、信頼された分やりがいもあった。


「その旅館では人材派遣を使っても、ご高齢の方や日本語が話せない海外の方しか集まらなくて、毎回能力もバラバラ、かつゼロから教えなければならないので困っていたそうなんです。一方、高専生は普段は忙しいので長期休みなどにまとめて働きたいというニーズがあったので、そこをうまくマッチングさせることができたんですよね」


発想の土台となったのは、それまで飲食店のアルバイトで見てきた光景だった。雇う側は常に店の営業が回るかどうかを考えているが、多くのアルバイトが気にしているのは、自分がいくら稼げるかだ。そこにニーズのミスマッチがあるからこそ、結果として、いつもシフト表に頭を悩ませる店長の姿があるのだろうという感覚があった。


温泉旅館でも、雇う側と働き手のニーズのミスマッチは起きていた。だから、働き手が「これなら働きたい」と思える状態や環境をいかにつくるかが、マッチングの成否を握るはずだと考えるようになった。


「温泉旅館からはすごく感謝されましたし、働いている学生からも感謝されて、『初めてのアルバイト代で欲しかったものが買えました』と言ってもらえたり。どちらにとっても嬉しい仕組みであることが、プラットフォームビジネスにおいては重要なのではないかと感じたんです。どちらかにバランスが偏ってしまうと、どちらかを集めるのが大変になってしまう。その考え方は、今でも大事にしています」


人と人をつなぎ、関わる全員が喜ぶ仕組みをつくること。それは最初の起業とも呼べる経験であり、原点として残るものだった。




2-3. 事業で社会を変える意志


高専で機械工学を学ぶなか、興味は機械よりも人間工学へと向きつつあった。義足や人型ロボット、高齢者の歩行解析など、人の動きと機械が交わる領域に面白さを感じ、卒業後はその研究ができる新潟大学への編入を選ぶことにした。


とはいえ、当時大きく心を占めていたのはスノーボードだった。トリノオリンピックでスノーボードクロスという競技を目にして以来、憧れから自分も本気でやってみたいと考えていた。新潟ならスキー場もある。夏はアルバイトでお金を貯め、冬は苗場スキー場にこもる。そんな生活を続けながら、少しずつ進路への考えも変わっていった。


「大学時代から、自分はエンジニアという職業には向いていないのかもしれないと思い始めていました。プログラミングは好きだったのですが、機械系は0.1ミリの誤差を評価される世界なので、そういう細かい部分がとにかくダメで。自分は細かな精度が求められる世界より、大きく動かす世界の方が向いているんじゃないかと感じていたんです」


そんな折、ふとしたきっかけからソーシャルビジネスやグラミン銀行などの仕組みに興味を持ち、大学4年生の冬にバングラデシュを視察するスタディツアーへと申し込んだ。


「バングラデシュでは、グラミン銀行がつくったマイクロクレジットの現場を見たり、NPOや企業の話を聞いたりしました。当時はボランティアや支援活動に興味があったのですが、仕組みとして社会に根づき、継続的に人々の生活を変えていくのは事業なんじゃないかと感じて。その方法ももしかしたら起業なのかもしれないと、その頃から思い始めたんです」


ちょうどツアーの企画者であり、アテンドをしてくれていた大学教授の先生に、いつか経営者になるにはどうすればいいかと、率直に相談してみた。


「その先生は真剣に話してくださって、『方法はいろいろあるけれど、君がもしマーク・ザッカーバーグの大学の同級生だったら、今頃FacebookのCEOだったかもしれないよ』ということを言われたんです。要は、最初から経営者として小さな会社を大きくするのか、大きな会社に入って下からのし上がって経営者を目指すのか、どちらがいいのかと。その話を聞いてから、なんとなく起業や小さな会社に入っていく方に気持ちがシフトしていきました」


大学院時代、スノーボードスクールの先輩と長野県白馬村にて


就職活動が始まると、ベンチャー企業も視野に入れつつ広く企業を見ていくことにした。しかし、大勢の学生とともに1か所に集められ、企業のブースを回っていく合同説明会は肌に合わなかった。当時の新潟でベンチャー企業への就職はまだ一般的ではなかったこともあり、どう進めようかと悩んでいたとき、偶然出会ったのが「逆求人」イベントだった。


「当時はFacebookを使って就活をする、いわゆる『ソーシャルリクルーティング』のような新しい就活スタイルが流行りはじめていた頃で、学生がプレゼンして企業側がブースに来るという、立場が逆転した合同説明会を開催している会社があったんです。その新潟版をやろうと手を挙げた学生がいて、先輩が『堀口君が好きそうなものがある』と紹介してくれたので参加してみたんです」


ありがたいことにイベントでは高い評価を受けることができ、東京で開催される全国大会にも推薦された。学生起業家を集める逆求人イベントだったが、温泉旅館でのアルバイトのエピソードを起業としてプレゼンできると言われ、参加することにした。


東京のイベントでは、名だたるベンチャー企業の経営者がブースに足を運んでくれた。「商売センスが抜群」とコメントに書いて残してくれた人もいて、自分がこの世界でも通用するかもしれないと感じた瞬間でもあった。


ただ、ある経営者からは「卒業後はなぜ起業ではなく就職するのか」と問われ、考えさせられた。当時は自信がなく「まだ未熟だから」と答えると、目的を持って会社に入らなければ「いずれ起業する」と言うだけの人になってしまうと諭された。会社のリソースを使って事業を立ち上げる。そんな経験を積むフィールドを提供するつもりでブースに来ているのだと言われ、その言葉はとても腹落ちするものだった。


「じゃあ、事業立ち上げをすぐに経験できる会社に入ろうと思って。当時、新潟の逆求人イベントで出会ってからずっと口説いてくださっていた名古屋にある中古住宅会社の人事の方がいたんです。中古住宅には興味がなかったのですが、来年から住宅とは関係ない領域で事業を立ち上げるから一緒に始めようと言ってもらい、入社を決めました」


エンジニアではなく、事業をつくる側として生きていく。求めているのは経営者という肩書ではなく、事業を動かす力だった。その違いを自覚したとき、踏み出すべき一歩目が見えてきた。




2-4. 地域医療のために自分にできること


入社後に取り組んだのは、地方学生を対象とする人材紹介事業の立ち上げだった。「逆求人」ほど尖った学生だけでなく、もう少し一般的な地方の学生も含めて集め、カジュアルに企業と出会える機会をつくる。大手就職サイトが一強とされる時代、新しい切り口を出せれば面白いと考えた。


新規事業は社長と二人で進めていたので、学生面談から営業、イベント運営、ホームページ制作まで、当時は何から何まで手を動かした。


「社長と二人で、何をつくろうかというところから始めて、何度もピボットを繰り返しました。ニーズの読み違いもあったし、全然うまくいかなくて。僕は就活でうまくいかなかった学生たちのために何かしたいという思いが強かったのですが、それって企業が欲しい人材と働きたい人材のマッチングになっていないので、事業として成り立たないんですよね。そういったことも、やりながら学んでいった1年間でした。事業を立ち上げるということを広く経験させてもらえた時間だったと思います」


2年半ほど在籍し、名古屋から関西、仙台へと拠点を増やしながら事業を拡大しようとしたが、思うようにいかない日々だった。当時、面談する学生の多くは2~3歳下だったが、このまま自分が年齢を重ねていくにつれ、その差は開く一方であることを思うと、将来への危機感もあった。


最終的に転職を決意し、いくつかの会社を受けた末に選んだのが、医療×人材領域に特化したエムスリーキャリアだった。医療・福祉への関心と、今度は規模の大きな企業の中で事業立ち上げを経験したいという思いが、決め手になった。


「エムスリーキャリアは医師や薬剤師の転職支援をメインの事業とする会社だったのですが、僕は新規事業部に入ったので、先生方のキャリアコンサルタントではなく、病院側に伴走する営業担当をしていました。全国の病院を回って、なんとか1年間に1人お医者さんを招聘しましょうと。そうしないと病院経営が立ち行かなくなってしまうような、地方の医療現場の厳しい状況を肌で感じる仕事でした」


その後エムスリーキャリアでは、病院経営層の転職支援サービスの立ち上げも経験した。上司と二人で始めたサービスが、最終的には10人ほどのチームに育ち、年商1億を達成するまでのプロセスを経験できた。


大企業と言っても思いのほか風通しが良く、フラットな組織カルチャーに触れつつ、そこでは既存の仕組みに頼る限界も見えてきた。


「地方の病院の方からは、『東京の会社でしょう』という目線にさらされることもありましたし、人材紹介で解決できることには限界があるなと、当時はひしひしと感じていました。人を動かすことで助けられる範囲には、どうしても限界があると実感したんです」



3年近く在籍し、年収も着実に上がっていった。傍から見れば順調なキャリアだった。それでも週末になると、群馬に帰ってスノーボードに向かう生活の中で、ふと有休を数えている自分に気づくことがあった。このまま東京で働きつづけることへの迷いが、じわじわと浮かんでくるようになった。


「今でも覚えているのですが、当時虎ノ門にオフィスがあって、帰り道、ビルの合間で夕日に照らされる東京タワーが見えたんです。その光景を見た瞬間に、東京タワーと同じ目線のビルで働きたいという、子どもの頃に憧れていた世界に自分がいると気づいたんですよね。あの時に一定満足した自分がいたんだろうなと思うんです」


東京での生活は刺激的で楽しかったが、一つの到達点には来たような感覚があった。


まず頭にあったのは、群馬に帰りたいということだった。東京を出て地元で独立すれば、生活コストも下げられる。地方創生という言葉が叫ばれていた頃でもあったので、伝統工芸に関連した事業や、もう一度自分でスーパーマーケットをやるのも面白いかもしれないと漠然と考えていた。


「そのとき以前お世話になっていた人材エージェントの方とお話しする機会があって、相談したんです。群馬に帰って地元の名産品の輸出などをやりたいと話したら、はっきり言われたことを覚えていて。『そんなものは誰でも思いつく。今あなたは医療業界にいて、ほかの人より詳しいのに、その業界で勝てるビジネスをつくれないなら、知らない業界で勝てるわけがない。自分だからこそ勝てるビジネスや強みを、まずは考えてみたらどうですか』と。それでハッとしたんです」


地元で縁あって佐野宏和医師(現 コルシー代表契約医師)と出会ったのは、ちょうどその頃だった。心電図を遠隔で判読するサービスで、医師不足の課題をビジネスで解決できる。話を聞いたとき、面白いと直感した。自分ならできる、むしろ自分にしかできない事業だという確信もあった。


「営業として全国の病院を回ってきたので、病院側の動き方や意思決定の感覚は手に取るように分かっていました。あとは、医師の紹介手数料に何百万もかけるほどのニーズが現場にあることも知っていた。それをデジタルの力で提供できれば、その予算感に見合うビジネスになるはずだと、実感を持ってできると思えたことは大きかったです」


2018年1月、佐野医師とともに株式会社コルシーを創業した。地域に医療を行き届かせ、安心して暮らせる社会をつくる。事業で社会を変える道筋が形になった。


佐野医師と、本社を置く群馬県前橋市「ばばっかわスクエア」にて



3章 面白がる力


3-1. 触れた数だけ、見えてくる


さまざまな業界や領域に触れてきた経験が積み重なると、ある日突然「これってあの話と同じ構造だ」と気づく瞬間が訪れることがある。人生で大切にしているものは、「パターン認識」だと堀口は語る。


「名古屋の喫茶店には、コーヒー回数券の文化があるんです。10杯分の値段で11枚綴りの回数券を買えて、レジ横の壁とかにお客さんの名前と一緒に貼ってあるんですよ。仮に1杯500円だとすると、本来5,500円分のコーヒーを5,000円で飲めることになる。それって行動経済学的にも、5,000円を払った瞬間にしか痛みがないから、都度払いよりも結果的に通う回数が増えるという仕組みになっているらしくて。それを自分の事業の料金プランにも応用しているのですが、そんな風に『これは同じ構造だな』と思えるようなデジャブ感は、日常のあちこちにあると思っています」


こうした気づきや着想は、どうすれば生み出せるのか。一つは、意識的にアンテナを張りつづけることではないかと堀口は考える。


「いまだに新聞は紙面で読んでいます。県外に行ったとき、朝コンビニに寄ると必ず地方紙を買うようにしています。あとは、テレビもすごく好きですね。最近のネットニュースは能動的に見ることが多いと思うので、自分が興味のある情報しか入ってこない。テレビや新聞、雑誌、つり革広告もそうですが、偶発的な情報収集を大切にする。なんでも面白がって興味を持つことがいいのではないかと思います」


たとえば、「起業したいけれど、何をしたらいいか分からない」という悩む人は多い。そんなとき、まず考えるより先に何かに飛び込んでみるのがいいと堀口は考える。見聞きしたものの中に共通性が見つかれば、それが事業の種になる。


「よく就活中の学生さんにも、『好きな映画のジャンルを決めるときに自己分析しないでしょう』という話をするのですが、自己分析より先に、まずいろいろなものに触れることが大切だと思っています。映画をたくさん観て、自分がどういう映画が好きかという共通点を探っていくように、触れてきたものの数と、そこへの興味の深さが、いつかパターンとしてつながってくる。起業もキャリアも、同じだと思っていますね」


触れた数だけ、パターンは増える。そしてある日、点と点が線になる。出会うもの全てに興味を持ち、面白がっていく。その積み重ねが、いつか自分だけの地図になる。



2026.6.29

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


商売とは、誰かの日常に行き届くことだ。堀口氏の歩みは、その一点に貫かれている。幼少期に家業の廃業を経験し、止まった商売が誰かの生活を変えてしまう現実を見た。高専時代には、人と人を繋ぎ、関わる全員が喜ぶ仕組みをつくる手応えを知った。その2つの原体験が、地域医療という止まることを避けなければならない領域への挑戦に結びついていく。


エリートサラリーマンを夢見た時期も、医療人材領域で既存の仕組みに限界を感じたことも、全てが今の事業の土台になっている。


コルシーが取り組む心電図の遠隔判読は、医師不足という現実に向き合い、医療を届けきるための仕組みだ。デジタルとアナログの双方に寄り添い、どの地域にも確かに根を張ろうとする。いかに喜ばれる仕組みをつくるのか。商売とは、その問いに向き合いつづけることなのかもしれない。



文・Focus On編集部



▼コラム|2026.6.30 公開予定

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株式会社コルシー 堀口航平

代表取締役社長

1988年生まれ。群馬県高崎市出身。2013年新潟大学大学院自然科学研究科修了。新卒採用支援事業の創業に携わった後、医療系人材紹介会社エムスリーキャリア株式会社に転職。全国の医療機関に向けた医師採用支援を行うと同時に、新規事業責任者として病院事務長向けの転職支援サービスを立ち上げ。地域医療への課題意識を強める中、地元高崎で代表医師の佐野に出会い、2018年1月株式会社コルシーを創業。

https://corshy.co.jp/


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