Focus On
楓博光
株式会社サポーターズ  
代表取締役
メールアドレスで登録
or努力さえ続けていれば、応援してくれる存在は現れる。
「隣の人の夢を応援する」というミッションを掲げ、家の購入に必要な住宅ローンにかかわる人と企業の課題を解決していくiYell株式会社。住宅事業者・金融機関・エンドユーザーの三者に向けた各種サービスを提供する同社を含むiYellグループでは、クラウド型住宅ローン業務支援システム「いえーる ダンドリ」をはじめとする住宅ローンプラットフォームを構築。最適なローン商品の選択や業務の効率化のみならず、事業者のファイナンス支援や集客・ブランディング支援、DX推進など多方面から業界をより良く変革しようとしている。
取締役兼共同創業者の小林紀雄は、大学卒業後、ハウスメーカーにて営業に従事。2010年より、SBIモーゲージ株式会社(現 SBIアルヒ株式会社)にて累計1,500件以上の融資実績を残し、複数支店の支店長を務めたのち、2016年にiYell株式会社を共同創業した。同氏が語る「楽しい仕事にあるもの」とは。
目次
家を買うなら住宅ローンは避けて通れない。しかし、初めての購入で自信を持って住宅ローンを選べる人がどれだけいるだろう。金利に返済方法、どの金融機関から借りるのか、人それぞれ異なるライフプランがあるなかで最適解を見つけるのは至難の業だ。
米国をはじめ多くの先進国では、家選びと住宅ローン選びにはそれぞれのプロがいるという。約9割の人が不動産会社に「お任せ」してしまう日本と違い、お金周りの専門家にアドバイスを受けながら選択できる。
なぜ、こうも業界構造が異なるのか。その背景について小林は語る。
「要因としては、エンドユーザー側の金融リテラシーが高くないことと、日本は住み替えが頻繁に起こらないのでほとんどの人が初めて家を買いますというマーケットなんですよね。米国だと2回も3回も住み替えるので、家もローンも金融資産であるという見方が強い。そうするときちんと住宅ローンを選んでくれる人に相談したいというニーズが生まれるので、ニーズに応えるためにそういう業界が生まれるのですが、日本にはまだまだそれがないんです」
問題は、家を購入するエンドユーザーが最適なローン商品を選びづらいことだけでなく、家を売る住宅事業者にも機会損失が生じていることにある。
「住宅事業者さんからすると、自分たちが付き合いのある銀行さんが5~6個あるとして、そこに相談して全てで審査に落ちてしまったとなればもう打つ手なし、あの家は売れませんという話になってしまう。弊社の『いえーる ダンドリ』は、この機会損失を1件でも減らすことで、売上向上に繋げていくことができるサービスになっています」
iYellが提供する「いえーる ダンドリ」は、住宅・不動産会社の業務削減や売上増加など、事業成長に貢献するクラウド型住宅ローン業務支援システムだ。
物件とそれを購入しようとするユーザー情報を連携することで、ネット銀行、地銀、信金、フラット35など700社以上の金融機関から最適なローン商品をユーザーが選定することができ、住宅事業者の提携外の金融機関とも取引が可能になる。
それだけでなく、同社の専門家チームが審査前後の諸連絡など住宅ローン業務全体をサポートするため、住宅事業者は削減した分の時間で営業活動などに専念できるようになる。従来属人化しがちだった住宅ローン業務のサポートを受けながら、ユーザーの顧客満足度を高めることが可能になるというサービスだ。
「金融機関さんとしても、年間何万件という融資を行うなかで、個別に1社1社と『お客さんにこういう紙をもらってください』とお願いして、それがなかなか送られてこなかったりと結構大変なんですよね。弊社と提携いただくことで、iYellが全てのやり取りを取りまとめるので、1社とのやりとりで済むようになるうえ、1社1社への営業コストも削減できる。エンドユーザー、住宅事業者、金融機関という三者にメリットがあるプラットフォームとして運営しています」
「住宅ローンテックスタートアップ」として創業してから約8年、iYellはほかにも多様なアプローチから住宅ローンにまつわる課題を解決すべく、複数の新規事業を展開してきた。
「いくつかあるのですが、たとえば住宅事業者さんの『つなぎ融資*』を支援する『iFinance(アイファイナンス)』という事業では、弊社のグループ会社であるiYellBank株式会社が貸金業の免許を持って、工務店さんの融資のお手伝いをしています(*土地の購入から住宅の引き渡し前に発生する着工金や中間金などを支払うため、一時的に利用する融資のこと)」
仮に住宅ローンの審査・契約が滞りなく進んでも、家を建てる過程では建築工事費として大きな支払いが必要になる。家の工事が完成し、引き渡しが完了して初めて住宅ローンの融資は開始されるため、工務店側としてはその間キャッシュが出ていく一方になり、資金繰りが苦しくなるという課題があった。
つなぎ融資を受けることができれば、並行してもう一棟工事を進めることが可能になる場合もある。機会損失をカバーし、経営効率を高めることができるというわけだ。
ほかにも同社では、住宅事業者のブランディング・集客支援の一環として、YouTube上で運営されるチャンネル「ゆっくり不動産」のマネジメント事業も行っており、現在登録者数は75万人*を超えている(*2024年11月時点)。業界をより良い姿へと変えるため、ファイナンス、ブランディング・集客、業務効率化など多方面から事業を開発しつづけている。
「やっぱりこの業界の方々は、すごく尊いお仕事をされていると思うんですよね。『あなたの夢はなんですか?』と聞かれたら、多くの人が『マイホームを持って幸せな家庭を築きたい』と答えるじゃないですか。マイホームを持つって、最も多くの人が夢見ることの一つだと思うんです。それを作る方々、工務店さんもそうですし住宅・不動産会社さんも含めて、強く応援していきたいと思っています」
業界にはまだまだ未解決の課題がある。iYellでは今後も住宅ローンを起点とした網羅的な支援を実現していくという。
「今後は人手不足が顕著になっていくので、生産性向上や人材領域でお手伝いできることはないかと考えています。人材の育成や、一人あたりの生産性を上げることにおいて支援を模索しつつ、もちろん既存のサービスも引き続き全国的に使っていただけるよう展開していきたいと思います」
住宅×金融×テクノロジーというニッチな領域で知見とノウハウを有するiYellは、より多くの人の夢が叶うよう、業界全体を俯瞰しながら必要とされる一手を打ちつづける。
父の地元である福島県・会津若松は、四方を山に囲まれた盆地である。明治維新では幕府軍が敗走したのち、最後まで抗戦した地として知られる。冬には雪が深く降り、昔はほかの地域とも隔絶された。長い冬を耐え忍び、短い春を待ち望む。そんな歴史や気候は、独特の人の気質を育んだと言われている。
義理堅く、曲がったことを嫌い、仲間内では強固な絆で助け合う。祖父も父も、どこかそんなところがあった。下の兄弟が3人いたため、出産前後にはよく祖父母の下へと預けられ、その気質に触れることは多かったと小林は語る。
「ちゃんとしなさいとか我慢しなさいとか、そういうことを言われる機会は多かったと思いますね。会津若松って江戸時代ぐらいからの教育方針としてしっかりしたものがあって、『ならぬことはならぬ』という言葉があるんですよ。理屈ではなく『ダメなものはダメ、我慢しなさい』みたいな精神性がしっかり浸透しているようなんです」
かつて会津藩がその地を治めていた時代、子どもたちには「什の掟」という全7条の心得が教えられていた。年長者に背いてはならない、嘘をついてはいけない、そんな訓戒は最後に「なるぬことはならぬのです」と締めくくられている。「我慢すること」を精神的支柱とするような考え方は、地域に自然と受け継がれてきたものであるようだった。
「長男だからということはあると思いますが、ご飯を食べるときは『好きなだけ食べな』というよりは『きちんとみんなのことを考えて食べてね』という言われ方をされたり、あとは『他人に迷惑をかけるな』とはすごく言われましたね。何か気に食わないことがあっても我慢しなさいと、あれが欲しいこれが欲しいとかもおそらくほとんど言ったことがなかったです」
4兄弟を育てる母は明るい人だが、育児に追われて忙しそうだ。長男として生まれたこともあり、わがままを言えるような環境ではなかった。加えて、父は毎日朝から晩まで働いている。仕事について詳しく聞いたことはなかったが、家での様子を見る限り、苦労は多そうだった。
日頃からそんな家族の姿を見ていたからか、幼いながらに人の顔色を窺ったり気を遣ったりするようになっていた。
「やっぱり弟たちが泣いたりするじゃないですか。そういうときに、どうすれば笑ってくれるかな、機嫌が良くなるかなということは考えるので、すごく観察する癖はついたかなと思いますね。父親に対しても、父親の好きなことについて喋ると喜ぶので、自分で学んで話したり。人の感情をすごく見るというか、当時は少し気にし過ぎだったんだと思います」
会津若松の鶴ヶ城にて、母と兄弟と
どちらかと言えば内向的な子どもだったのだろう。放課後は小学校の友だちとは遊ばずに、もっぱら家の近所で仲が良かったいつもの面々と遊んでいた。当時は進んで新しい輪に入っていくよりは、見知った人たちに囲まれている方が安心できた。
ある時、小学校の同級生に誘われ少年野球チームに入ったが、やはり新しいコミュニティは少し落ち着かない感覚だった。
「野球そのものは楽しかったのですが、やっぱりどう接していいのか分からなかったんだと思いますね。同級生や知らない大人たちとのコミュニケーションの取り方が分からない。当時だとみんなジャンプとか読んでいたじゃないですか。ああいうものも買ってもらえていなかったし、テレビもあまり見せてもらえないしで共通の話題がなかったんですよね」
当時はまだ、なんとなく居心地が良くないかもしれないくらいにしか考えていなかった。しかし、小学6年生の時、学校で仲が良かった5~6人のグループでふざけていると、自分だけ変に気を遣われているように感じることがあり、それ以来自分と他者の違いを意識して、心配するようになってしまった。
「なんか俺おかしいのかなと、その時からいろいろなものを気にするようになってしまったんですよね。自我と言えば自我かもしれないですが、みんなと着ている服が違うとか、髪型が違うとか、そういうことを一切認識していなかった世界観から、一気に他人と自分の違いが気になる世界観に変わってしまったんですよ。やばい、もっと適応しないとと思って」
客観的に自分を見るようになったのは良いことでもあったのだが、少し自信がなくなった。同級生と共通の話題が少ないことも、心のどこかで引っ掛かる。
一方で、悩める思春期をひときわ照らしてくれた存在がいた。当時オリックスで頭角を現していたイチローだ。
「小学6年生くらいの時から大好きで応援していて。当時のイチローは全盛期で、今で言う大谷翔平のようなスーパースターですよね。首位打者でMVPで、すごい打率を出すトップ選手だったので、かっこいいなというところからのスタートで。その後のメジャーへの挑戦も、軒並み無理だと言われていたのに1位のタイトルをいくつも獲得して、それがものすごくかっこよかった。イチローが僕のヒーローだったんです」
野球をやっていたこともあり、その活躍は自然と追うようになっていた。毎週テレビの前で欠かさず応援し、インタビューが載った本などは何冊も読んだ。
イチローが日本人として初めてメジャーリーグへと挑んだのは、高校1年生の時だった。無理だと言われながらも我が道を行き、先駆者として見事結果を残した。「孤高の天才」と呼ばれたその背中が、当時は集団とはどこか距離を置いていた自分と重なったのかもしれない。テレビに映る雄姿に釘付けになりながら、何度も勇気をもらい、背中を押された存在だった。
小学校時代、少年野球チームにて
2-2. 続けていけば大丈夫
地元の中学校に進学してからは、ほとんど活動がないパソコン部に入ったので自由に気ままに過ごしていたが、勉強に関してはあらかじめ父から言われた方針があった。
「そんなに裕福な家でもなかったので、割と早い段階から『お前だけは大学に行かせる。ほかの兄弟に行かせるお金はないから、ちゃんと頑張れよ』ということを言われていて。だから、本当にきちんとやらないといけないな、言われた通り大学を卒業しないとなという考えは、社会人になるまでずっとあった気がします」
勉強は好き嫌い以前に、我慢してやらなければいけないもの。そんな感覚で取り組んでいたからか、成績は安定しなかった。中学最初のテストで学年10位を取ったかと思えば、1年の後半には100位近くまで落ちたりする。勉強量もスタンスも何も変えたつもりはないので不思議だった。
少し前まで問題なかったのに、なかなか思うような結果に繋がらない。このまま点が下がりつづけたらまずいのではないかと不安になり、一度担任の先生に相談してみたことがある。
「先生は『小林君はきちんとやっているから、必ず上がるから大丈夫よ』と言ったんですよね。そしたら次のテストで本当に9位に上がったんですよ。結果も出たし、その時の先生の言葉に少し救われた気持ちはあって。『このままでいいんだな』と『今のまま努力していけば大丈夫なんだな』と思えたことはすごく覚えています」
一人ずつ成績表を手渡される日、「ほら、言ったでしょ」と先生は笑っていた。驚いたが、どうやら先生の言う通り、自分はきちんとやれているようだと思うことができた。それ以降も急に成績が下がることはあったが、もうそれほど動揺はしなかった。
続けていけば、上がることも下がることもある。ただ、きちんと努力さえ続ければ大丈夫。そう自信をもらえたような経験だった。
「高校はたしか父親が行きたかったけど行けなかった大学があるという話を聞いていて、東京電機大学という学校なんですが、そこを意識しはじめるんです。それで最終的には、東京電機大学の附属高校に進む形になりました」
公立中学から私立高校に進学し、中学までの知り合いは誰もいなくなった。これまでの延長線上ではない全く新しい環境に飛び込むことになり、自分にとって今より居心地の良い世界があるかもしれないと期待した。
「試しに今までと違うアクションを起こしてみようと思って、高校1年の最初に少し積極的に喋りかけてみようとしたんですよ。結果は全然思うようにいかなくて(笑)。今振り返ると、当時はやはり変に気を遣いすぎていたのかなという感じはしますね」
たとえば、家族のように相手について深く知ることができれば、もう少し相手が喜びそうな話題も分かったのかもしれない。しかし、仲良くなることができなければ、相手について知ることができない。「鶏が先か、卵が先か」という話のようだが、当時は真剣に悩んでいた。
そもそも昔から感じていた共通の話題の少なさは、大きな壁に思えた。みんなが好きなものにはいまいち興味を持てず、逆に自分が好きなメジャーリーグなどにはみんなは興味がなかった。
「小学6年生の時に意識したみんなとの違い、合わせなければならないという感覚がずっとあって、いよいよ無理だと高校くらいからそれを受け入れたんですよ。自分の興味あることや好きなことが人と違ったとしても、別に構わないなと。そこからあえて一般と違うものを選ぶとか、反骨心のようなものに繋がっていったように思います」
興味関心が周囲と違うからと言って、必ずしも無理に話題を合わせる必要はないのかもしれない。変に自分を押し込めて苦しむよりは、人とは違う自分も一旦受け入れる。ただ、やるべきことに向かい努力を続けているならば、いずれうまくいくだろうと思っていた。
附属校からそのまま大学へと進学したあとは、偶然にもアルバイトが転機となった。
地元の人たちが集まるようなボウリング場で、接客の仕事を始めたのだ。こぢんまりとした店で、少ないアルバイト店員はもちろん常連客との距離も近い。そこで過ごす時間は、これまでになく楽しいものだった。
「すごくアットホームなボウリング場で、普通にお客さんが来ることもあるのですが、ボウリングのプロの人が所属していて、大会を開くことが多いんですよね。その大会を運営しながら、常連のお客さんたちとも仲良くなって。従業員に勝ったら景品がもらえますみたいな企画をするんですよ。あんまり弱いとたくさん景品を持っていかれてしまうので、自分も結構練習しなくてはいけなくて」
アルバイトの仲間や、常連の人たちと一緒にボウリングを楽しむうちに、自然と打ち解けていく。なかでも、自分より少し遅れて入ってきた年上の先輩を見て、人との距離の縮め方に衝撃を受けた。
「その先輩が結構カルチャーショックで。自分の中で人と仲良くなるには丁寧に、礼儀正しく接することがあるべき姿というか、ほどよい距離感という前提があったのですが、先輩はものすごくフランクだし、タメ口で仲良くなるんです。それでお客さんもみんな喜んでいる、これは何だと思って(笑)。あれは転換点でしたね」
先輩は自分よりあとに入ってきたにも関わらず、常連客とも即座に意気投合し、楽しんでもらっているようだった。こんな風に人と接すると、こんな関係性になれるのだと分かりやすく目の当たりにできたことは幸運だったのかもしれない。完璧とは言えなくても少しでもそれを会得できればと、見よう見まねで先輩の人との接し方を真似してみることにした。
「ボウリング場にとっては常連の会員さんが大事で、その人たちがいかに楽しんでくれるかで売り上げが決まるので、先輩はお手本のようなアルバイトだったんです。これをやらないといけないんだと思って、真似するようになって、そしたら本当にものすごく仲良くなることができたんです。余計な心配をせず人と関係性を築けるようになったと感じたのは、その頃からでした」
ほかにも大学生活では、あたたかいコミュニティに恵まれた。4年生から材料力学の研究室に所属することになり、1年間かけてチームで論文をまとめていく作業に参加した。
「そのゼミも楽しかったですね。研究もそうですが、チームメンバーで1年後のゴールに向けて進めていくために、本当に寝食を共にするというか、一緒に研究室に寝泊りしたり、ご飯を食べたり、銭湯に行ったりしながら日中は研究を頑張る。そういう体験が初めて積めたような気がしましたね。こういうのってすごくいいなと思いました」
部活動のように、一つの目標に向かいみんなで頑張る。そんな経験があまりできていなかったこともあり、アルバイトも研究室も自分にとっては新鮮だった。同時に、社会の中に自分を受け入れてもらえる場所があるのだと強く実感できた。
社会の中の自分を意識した大学を経て、その後の就職活動では「業界を変える」といったメッセージを掲げる会社に惹かれていた。あとから振り返ると、先駆者だったイチローへの憧れもあったのかもしれない。最終的には、「適正価格」をコンセプトに業界の問題を解決していこうとするハウスメーカーへの入社を決めた。
「結構迷いはなくて、大手では絶対に働きたくないと思っていましたね。おそらくそれまで一般的な価値観というか、みんなの好きなものが好きではなかったりしたことで、それがアイデンティティのようになってしまった部分はあるのかもしれません。世の中の大半の人は行かない方に行くのが良いことであるとか、価値であるという風にどこか感じていたんです」
実際に営業として働きはじめると、それまでとは一線を画したかのように楽しい毎日が始まった。
「もう全部が楽しくて。アルバイトの時もそうでしたが、自分がその仕事をして誰かに喜んでもらえる、価値を出せているということがすごく面白かったですね。しかも、仕事はルールがすごくシンプルで、努力したらした分だけ成果が上がるし、みんなに喜んでもらえるし、お金がもらえる。だから、新卒1年目から自主的に毎日23~0時まで働いていたりして、楽しくて仕方がなかったですね」
勉強は何かに役に立っている実感がなかったが、仕事は真逆だった。やればやるほど成果に繋がり、評価もされるようになる。ひたすら懸命仕事に打ち込み、「楽しかった」と満たされた思いで帰路につく。それはまるで、時間を忘れて友だちと遊んだ日の帰り道のような感覚だった。
「やるべきことをやっていると自分の中で思えていることが大事だったのかなと思います。その納得感や腹落ち感が、それまでは全くなかったに近いんですよ。なんで勉強しないといけないんだろうとか、なんで学校に行かなければならないんだろうとか、そういうことが一切吹き飛んで『これがやるべきことなんだ』という感覚はすごくありましたね」
会社の方針にも共感し、そうあるべきだと心から思えていたからこそ、目の前の仕事にも意義を感じられるし、自分がいるべき居場所だと確信できる。もちろん社会にはときに理不尽もあるが、そういうものなのだろうと思っていた。
義務感や閉塞感を感じていた世界を経験したからか、ほかでもない自分の意思で選んだ場所は、何より充実した世界だった。
2年ほどが経ち、家庭環境の変化から転職することにした。変わらず新天地に求めた条件は、業界を変えるような理念を掲げていることだった。
最終的には、SBIグループでも住宅ローンを専門に扱うSBIモーゲージ株式会社(現SBIアルヒ株式会社)とご縁があり、不動産仲介会社やデベロッパー向けの営業に従事していくことになる。そこでは、のちにiYellを共同創業することになるメンバーとの出会いがあった。
「SBIに入って、最初に僕に仕事を教えてくれたのが共同創業者の種田だったんです。その後はしばらく別部署で働いていたのですが、ある時新築マンションに力を入れるぞというプロジェクトに僕と種田が呼ばれて、そこの副支店長が同じく共同創業者で代表の窪田だったんですよ。初めてそこで3人で一緒に仕事をすることになって、ただ3~4か月後に東日本大震災が起きた影響で、一旦それぞれ異動になってしまって」
しばらく別々の仕事をしていたが、2~3年ほど経った頃、窪田が一つの新規事業を託された。もともと暗礁に乗り上げていた事業を軌道に乗せるため、社内から好きなメンバーを集めていいという話であり、窪田の声かけによって集められた数名の顔ぶれの中に、のちiYellを共同創業する3名が再び揃うことになる。
それだけではさすがに人員が足りないだろうということになり、社内のさまざまな部署から縁もゆかりもない有象無象のメンバーを集めてもらい、合計20名ほどのチームができあがった。
「その新規事業は以前からあった商品なのですが、当時200くらい店舗があるなかで、その店舗網をもってしても年間10件くらいしか売れていない商品だったんですよ。この商品の命運をかけて売ってくれというミッションだったのですが、当初は自分たち自身も『これどうやって売るの?』というマインドだし、もちろんメンバーも『これは売れないですよ』というマインドだったところからのスタートでした」
たしかに当時社内で主力とされていた商品と比べると、どうしても見劣りしてしまう。手数料が高く、審査も少し厳しい。表層的な部分だけ見るとそんな印象だった。しかし、市場を見渡すと、実はこんな商品を必要としている人はいるだろうと十分思えるものだった。
視点を変えれば糸口が見つかる。そうして一つ一つ現状を紐解きながら前へと進んでいくと、結果的には月間400件近く申し込みが入るほどにまで事業は成長を遂げた。
「やっぱり売れない理由を探すのではなくて、売るためにどうすればいいか考えようという話になって。少しずつ自分たちのマインドを変えていくところから始めたんです。そうすると営業マインドとして、実績がないから自信がない。自信がなかったら売れないよねという話にもなり。大事なことは、メンバーがどういうモチベーションや状態でいるかであって、どういうチームづくりをすると成果が出るのかということをすごく体感できた経験でした」
最初は社内から「大変だね」と言われていたにもかかわらず、自分たちのマインドやチームづくりを変えたことで、多くの人から問い合わせをもらったり、「いいね」と言ってくれるお客様が増えた。このまま行けば順調に利益も増えるだろうと思われていた折、ちょうど会社が買収されたことによる方針転換があり、チームは解散されることが決まってしまった。
「メンバーで共通の目標を掲げて、大事にする指針を作り、しっかりKPIを追いつつ、誰かの誕生日があればお祝いをしたりということを続けていたら、本当に有象無象のバラバラなチームがすごくまとまってきて、数字もどんどん出るようになったんです。『このチーム最高だね』とみんなが言っていたタイミングでの解散だったので、やっぱり不完全燃焼感があったんです」
個々のスキルはそこまで高くなかったとしても、チームで一体となることで、想像を超えるような大きな力を発揮できる。それは、あの時あの場にいた誰もが確信したことだった。
「当時窪田にはメンターになってくださっている方がいて、その方と月1くらいでご飯に行っていたんですね。そのなかで新規事業の不完全燃焼感の話をぽろっとしたら、『じゃあ自分でやったら?』と言われたそうなんです。『お金なら僕がいくらでも出してあげるよ』と」
メンターから提示された条件は2つ。1つは、「わくわくさせてくれる」こと。もう1つが「仲間を2人集めてくる」ことだった。その日のうちに種田とともに集められ、「一緒にやらない?」と言われる。答えは、2人とも即答でイエスだった。
「純粋に面白そうだなと思えたこともありますし、これはあとあと知るのですが、『なんでその2人だったんですか?』みたいな話を誰かが窪田に聞いた時に、『2人はいつか起業したいと言っていたことを覚えていた』と、だから先に声をかけたと言っていて。自分としても人に言うくらい独立を考えていたので、すぐに決断できたということはありますね」
何をやるかより先に、誰とやるかが定まった。
そこからは各々アイデアを出し合い、メンターにも意見をもらいつつ、事業を作り上げていった。全く知見のない領域にチャレンジしてもうまくいきづらいだろうと考え、自分たちが専門性を有する住宅ローンに関連した課題を解決していくアプローチから模索した。
2016年、iYell株式会社を共同創業。住宅ローンスタートアップとして、既存の業界にある課題に対し、一つ一つ向き合っていくことにした。
共同創業時、窪田・種田とともに「初陣」を飲んだ日
社名の通り、家の購入体験にかかわる人と企業を「応援する(Yell)」事業を生み出すべく、iYellは成長を続けてきた。同社にとって「応援」は、事業のみならず組織を形作る重要なキーワードでもあるという。
「会社づくりや組織づくりという面においては、iYellに関わってくれた方もそうですし、iYellに入ってくれた従業員のメンバーの夢を応援したい。みんなが働きやすく、やりがいのある会社を作りたいと思っているので、そういう意味でも『応援』はかなりテーマになっているかなと思いますね」
仕事は、少なくとも1日のうち3分の1の時間を占めている。その時間に対してどんな感情で臨むのか、あるいはそこから何を得るのかは日々の幸福感を大きく左右する。
新卒時代から納得感を持って楽しく働けることの素晴らしさを実感してきた小林だからこそ、仕事が楽しいと感じられる状態にあり、なおかつそれが成果に繋がる組織や環境を作りたいと考えてきた。
「1日24時間のうちだいたい8時間を生活、8時間を睡眠、8時間を仕事とすると、この仕事の部分も楽しく有意義である方がいいじゃないですか。それって個人というより企業側の努力の話だと思うんですよ。企業が責任を取る必要があるんじゃないかと思っていて、そこにチャレンジしないといけない。まだ大規模に実現できている法人はあまりないんじゃないかと思っていて、誰かがやらないといけないという思いがあります」
一般的な資本主義における法人の利益追求と、雇われる個人の幸せの追求は、どちらかと言えば相反するものであると考えられてきた。長時間労働やサービス残業などの概念が生まれたこともそうだろう。
しかし、今ないからと言って、今後も実現できないと決まったわけではない。それを形にしようと奮闘した人が多ければ多いほど、未来が変わる可能性は高くなる。だから、iYellは挑戦する。
「法人も個人も幸せになるってどういうことなんだろうと考えつづけると、やっぱり個人の力ではどうしようもない世界に入ってしまうなと思っていて。同時に、法人の力だけでもうまくいかない。要は関係性の話だと思うので、雇用者と被雇用者の在り方としてどこを目指すのか、弊社ではその理想的な在り方を追求しているイメージです」
従来の発想にとらわれない新しい法人の在り方として、法人も個人も幸せになれる組織を作る。それでこそ事業の成果も最大化し、真に仲間を応援し合える組織になれる。きっとやり遂げられると信じ、ただ挑戦しつづける。その過程こそが意味を持ち、歴史を紡いでいく。
2024.12.5
文・引田有佳/Focus On編集部
なぜ、目の前のことに取り組むのか。限りある時間を費やし、生活の一部とするのか。動機づけは、未来や結果を大きく左右する要因だ。
社会人になる以前を一言で表すなら、「我慢と抑圧」だったと小林氏は振り返る。自分の意思というよりは、どちらかと言えば義務感のようなものが原動力だった。だからこそ、自身の思いが伴う努力の充実感を知っている。
自分自身で心からやるべきだと信じる状態であるのなら、たとえ他人にとっては苦難を伴う過程でも、何より楽しく生きがいを感じられるような時間になるだろう。些細な変化すら達成感や成長実感として見ることができ、求める結果に向かって一歩ずつ前進していると思える。そんな風にして人は本来持つ力を最大限発揮していくし、ときには実力以上の成果を掴むことがある。
それは一人よりも、互いに「応援し合える」チームである方が成し遂げやすくなるとするのがiYellという組織だ。誰かが迷ったり力及ばないことがあっても補い、支え合うことができる。何よりそこに「居場所がある」という安心感は、きっと見えない部分で人を強くするのだろう。
文・Focus On編集部
▼コラム
私のきっかけ ― 『最後の授業 ぼくの命があるうちに』著:ランディ・パウシュ
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
従業員も企業も幸せになる在り方を追求する|起業家 小林紀雄の人生に迫る
iYell株式会社 小林紀雄
取締役兼CTO
1985年生まれ。埼玉県出身。2008年、ハウスメーカーに入社し営業に従事。2010年からSBIモーゲージ株式会社(現 SBIアルヒ株式会社)に入社。累計1,500件以上の融資実績を残し、複数の支店の支店長としてマネジメントを歴任。2016年にiYell株式会社を共同創業し、採用や住宅ローン事業開発を主導。2020年に取締役に就任し、住宅ローンテック事業の事業責任者としてクラウド型住宅ローン業務支援システム「いえーる ダンドリ」を推進し事業成長に寄与。