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不動産投資が当たり前になる時代へ ― 業界への感謝を「透明性ある仕組み」で返す

できると信じる闘志を忘れずに、進むだけ。


「不動産投資をもっとクリアに」をミッションに掲げ、不動産投資プラットフォームを運営するPropally株式会社。業界にある「情報の非対称性」という課題を解消すべくサービスを開発・提供する同社の不動産投資アプリ「Propally(プロパリー)」では、高精度なシミュレーションや収支管理機能、エージェントオファー機能を通じて、投資家自身が物件やエージェントを比較・検討し、自分に合った選択ができるようになる。一方、エージェント側は広告費や仲介会社へのマージンをかけずに直接ユーザーにアプローチできるため、双方にとって合理的かつ透明性の高い取引環境を実現している。


代表取締役の齊藤郁織は、芝浦工業大学卒業後、株式会社オープンハウスグループへ入社した。東京城南エリアの営業を担当し、新卒最年少でMGRに就任。2020年度には全社MGR売上年間トップを獲得するなど実績を残したのち、2022年にPropally株式会社を設立した。同氏が語る「逃げない心」とは。






1章 Propally


1-1. 不動産投資をもっとクリアに


不動産投資には興味はあるけれど、よく分からない。そんな声は実は少なくないだろう。株式のように口座を開いてすぐに始められるものでなければ、手続きも用語も複雑だ。少し調べてはみたものの、途中で挫折してあきらめてしまう人も多くいる。


とはいえ、NISAの普及によって資産運用が広く一般化したように、不動産投資はまだまだ市場としてのポテンシャルを秘めている。普及を妨げている要因は、「情報の非対称性」と「不透明な契約プロセス」から生じる負のイメージにあると齊藤は語る。


「(自分が住むために購入する)実需用の物件なら『この色が好き』など直感で選べますが、投資用の物件は『利回りが何%』など数字が並んでいるので難しい。数字で判断すべきところなのに、初心者にはよく分からなくて離脱してしまうケースも多かった。じゃあ、どうやって買うのかというと、紹介や偶然かかってきた営業電話、中立的ではないポジショントークを信じて契約してしまう。これでは不透明すぎて、健全な投資は育ちませんよね」


不動産投資アプリ「Propally(プロパリー)」は、不動産投資を始めたい、あるいは既に行っているユーザーと不動産投資会社のエージェントをマッチングするプラットフォームサービスだ。


ユーザーは無料で「投資シミュレーション機能」「収支管理機能」「エージェントオファー機能」を利用することができ、収益最大化に向けて必要な機能と、最適なエージェントを比較検討する機会を持つことができる。


「特に、注力しているのはエージェントの精査ですね。やはりプラットフォームとして信頼性の高い仕組みを構築したいと考えているので、過去の業界経験年数や取引件数の実績をはじめ、一定の基準を満たしたエージェントしか登録できないよう、かなり厳正な審査をしています」


一方、エージェント側は「Propally」を利用することで、投資家に直接オファーを送り、顧客を開拓できる。従来発生していた広告費や仲介会社への中間マージンが不要となるため、その分ユーザーは物件をより安く購入し、より高く売却できる可能性が高くなる。これもまた、「Propally」が目指す「透明性の高い不動産投資」を体現する仕組みの一つだ。


「個人名を公に出したくないようなエージェントさんはそもそも登録できないので、きちんと実力もあり信頼できるエージェントさんにメリットが生まれる仕組みになっています。さらに、成約単価も『Propally』を使えば平均で約20~30%カットして取引ができるようになります」


不動産投資には、売却・管理・購入という3つの主要な取引がある。そのうち売却と購入に関する不動産テックは、長年実現が難しいとされてきた。ITに馴染みの薄い不動産会社と、アナログな業界に距離を置くIT企業。双方の歩み寄りは難しく、外部からの介入がなかなか進んでいなかった。


しかし、Propally代表の齊藤は不動産業界の前線に立ち、営業を経験してきた過去がある。それゆえ両者の立場を深く理解できるからこそ、これまで分断されていた領域を繋ぎ、一気通貫でサービスを提供できることがアプリの強みとなっている。今後はさらにプラットフォームとしての拡張を進めていきたいと齊藤は語る。


「現在は、投資対象の多くが区分マンションですが、今後は1棟ものや戸建て、ビルなどにも対象を広げていく予定です。最終的には、プラットフォーム上に集まる物件情報を活用し、証券化によって投資の機会をさらに開かれたものにしたいとも考えています。より多くの人が、不動産投資に気軽にアクセスできる未来を実現していきたいと思います」


健全な不動産投資取引が普及することで、もっと人や社会が豊かになる。Propallyは、そのための業界の在り方を、これからのスタンダードにしていく。




2章 生き方


2-1. 逃げて後悔するなら逃げない方がいい


「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」――子どもの頃は、父に言われてその言葉を何度も書かされていた。当時は意味も分からず反復していたが、それが有名な日本電産の創業者である永守重信氏の仕事の流儀だと偶然知ったのは、大人になってからのことだった。何事も徹底してやり抜く精神性は、もしかしたら経営者だった父が大切にしていたものだったのかもしれない。


子どもの目線から見る父は、とても厳しい人だったと齊藤は振り返る。


「小さい頃記憶に残っていることとしては、父親がものすごく厳しくて。単身赴任だったのですが、毎週金曜日の夜に帰ってくるんですよ。僕は言うことを聞かない子どもだったので、宿題をやらないとか悪いことをすると母親がカレンダーに正の字でカウントをつけていて、それを見た父親にいつもカウント分殴られていたという記憶しかないですね」


遅くまで家に帰らなかったり、親との約束を守らなかったり、なぜかは覚えていないが幼少期はよく怒られることばかりしていた。一方で、人と打ち解けることは得意な方で、外に出ればどこへ行ってもすぐに友だちができた。


「全員と仲良くできる方ではあって、誰かと誰かが話さないから繋げるとか、昔からそういう立ち位置だった気がします。父親と母親も誰とでもコミュニケーションを取れる性格だと思うので、遺伝はあるのかもしれません」


厳しく怖いことで知られていたとある同級生の親に対しても、難なく親しく付き合っているのが両親だった。そこから相手の親に気に入られ、幸か不幸か週に3回も家に呼ばれることになり、礼儀を教えられたりもした。


「母親は愛情深い人でしたし、父親はどれだけ大所帯でご飯を食べに行っても絶対にお金を払うような男らしい人間ではあったんです。小学校の時はそんな父親が畏怖の対象で、中学の時は逆らえなくて嫌いだったのですが、今となっては感謝していて。あとから振り返ると、いい教育だったなと感じています」


中学では足が速かったこともあり、熱烈にスカウトされてラグビー部に入ることになる。忙しくも楽しい部活生活を送りつつ、結局勉強はあまりしなかった。


「部活の顧問がものすごく厳しかったので、何かあったらすぐ坊主にさせられていたんですよ。万引きとかはしていませんが、ちょっと学校を抜け出して自販機の前でたむろするとかそういうことをして、バレると坊主にされる。やっぱり田舎だったので『悪いことがかっこいい』みたいな、そういう良くない風潮があるグループにいたので、勉強も『お前勉強してんの?だっさ』と言い合うような雰囲気だったんです」


そもそも大学に行きたいという欲求がなく、勉強の必要性を感じていなかったこともある。親への反抗もあり、中学3年間は本当に勉強しなかった。当時はただ、自分がやりたいことをやりたいと思っていた。


「今でもそうですが『力に屈したら意味がない』『男らしくありたい』という感覚は、ずっと自分の中にあったんですよね。もしかしたら父親がそういうタイプだったからなのか、自分が後悔しない選択をしたいということは思っていて。逃げることで後悔が残るなら、どうなってもいいからボコボコにされにいくというか、単純にかっこつけなだけなのかもしれないですけど(笑)」


逃げて後悔するくらいなら、逃げずにぶつかっていく方がいい。自分の選択に堂々としていく生き方は、父の背中から自然と学んだものだったのかもしれなかった。




2-2. 恩師との出会い


高校に入っても、それまでと同様に気の合う仲間と過ごしていた。変わらない生活、変わらない毎日、そんな自分を大きく揺さぶったのは高校2年生になり出会った恩師の存在だった。


「高校2年から担任になった先生が、本当に熱い先生だったんですよ。ある時、僕が何かやらかして、ものすごく怒られたんです。当時の僕は基本的に大人から見放されていたので、父親以外に本気で怒られるようなことがなかったんです。でも、その先生はストレスのはけ口にしているとかでもなく、本当に僕のことを思って怒ってくれているんだなと幼いながらにすごく感じて、この人は本当にかっこいいなと思いはじめたんです」


何を言われたかまでは覚えていないが、たしかに先生の思いは伝わってきた。のちに教頭という役職に就くことになる先生は、当時からどんな生徒にも分け隔てなく接する人だった。


そんな先生に諭されたことで、ほとんど手につかなかった勉強に対する興味も湧いてきた。試しに全教科に手をつけてみたものの、現代文や古典など暗記科目は頭に入ってこない。唯一手応えを感じたのは、先生の担当する物理だった。


「物理は『ma=F』という公式があって、基本的にはここから全て導き出せるんですよ。だから、暗記しなくてもそこから派生で考えていけるところが良かったですし、実生活で見えるものの動きとも関係しているので面白いなと。あと、そもそも暗記教科が絶望的にできませんでした(笑)」


暗記で終わらず、自分で答えを導き出せる物理は面白い。知らなかった面白さの発見が、さらなるモチベーションに繋がっていく。ちょうど時期を同じくして、大学に行きたいという意思を持つようにもなっていた。


「たまたま修学旅行の行き先がオーストラリアで、初めて海外に行ったんです。自分と違う国の人たちが、当たり前のように違う土地で生活していて、当たり前に違う風景が広がっていて、すごく刺激的だったんですね。自分の知らないことはたくさんあるんだなと、そこで気がついて。最終的には『世界で仕事をしてみたい』という思いと、そこに近づくためには東京に、東京へ行くなら大学に入るしかないなと考えたんです」


言語も違えば、文化も違う。これだけ日本から離れた国でも、同じように人々が生活している。どれも当たり前の事実に過ぎないが、意識しなければ想像すらできなかった。自分がいかに狭いコミュニティで生きてきたのかを、そこで初めて自覚した。


滞在はわずか3日間だったが、ホームステイ先の家族も、現地の学校も、街中も、あらゆる場所でカルチャーショックを受けた。自分は知らないことが多すぎる。そう実感するのと同時に、知らない世界への好奇心が強く掻き立てられた。大学進学という目標が定まったのは、ちょうどその頃だ。


「高校3年の時は本当に勉強しかしていませんでした。基礎学力がゼロだったので、本当に本気でやらないと無理だよと言われて、1日18時間くらい勉強していた気がします」


がむしゃらでもなければ受験には間に合わない。本格的に入試が近づくと、毎朝6時には起きて学校に行き、先生に1対1で質問させてもらったりもした。毎回付き合ってくれた先生には頭が上がらない、やはり熱い人だった。


急に人が変わったように勉強しはじめたので、親にはだいぶ心配されていた。それでも、食事や生活リズムを合わせて支えてくれたことに感謝する。興味のあることに対しては一気に集中するという自分の性質も、初めて知ったことだった。誰しも、狭い世界にいるだけでは分からないことがたくさんある。社会は言うまでもなく、自分自身についてもそうだった。


高校時代、友人と



2-3. 自分で稼ぐ苦労とリアリティ


物理をメインに受験できる東京の大学を探し、芝浦工業大学へと進学する。入学後は華やかな大学生活をイメージしていたが、実際は夢見たキャンパスライフどころか、すぐに安定した日常すら危うい状況になった。


「入学してから父親の会社の業績が急激に落ち込んで。5年に1回くらいそういう波があるのですが、その年は特に危なかったらしいんです。当初は大学の学費も出してもらう予定だったのですが、父親もクレイジーなところがあるので『裸一貫でやってこい』と言われて、突然1年間放り出されたんですよ」


学費に加え、日々の生活費から家賃と何から何まで自分で稼がなくてはならなくなった。居酒屋でオープンからラストまでシフトに入っていたが、それでも生活は回らない。しばらく鶏むね肉を大量に買い込んで、ひたすら親子丼を作ったり、豆腐にパン粉をつけて揚げたよく分からないもので食いつないだりもした。


「途方に暮れて六本木を歩いていたら、『スカウトやらない?』と声を掛けられて。完全歩合でやればやるだけ稼げるということで、当時の状況からするとやらない選択肢はないと、そこからは夜の街のスカウトの仕事で稼いでいました。年功序列がなく、完全な実力主義の世界を知ったという意味では大きかったですね」


生活がかかっているという必死さからか、幸い結果はついてきた。極貧生活から一転、一般的なサラリーマン以上に稼げるようにもなった。決して誇れる仕事とは言えないが、生活費に加えて、その先の目標があったのでしばらく貯金のために続けていた。


「将来は会社員になるイメージが最初からなくて、起業しようと考えていました。会社員だとどうしても天井が見えている気がして、もちろん人それぞれですが、僕の場合は経営者だった父親の影響が大きかったと思いますね」


当時は知識欲の赴くまま、近所のTSUTAYAで自己啓発本やビジネス書を端から端まで読んでいた。そのなかで日本企業の時価総額や経済の衰退を知り、これから日本が再起するにはインバウンドが鍵になるだろうと考えるようになった。


「今後は民泊が来ると思って、当時はAirbnbをやりたいと思っていたんです。そのための起業資金を貯めていて。あとは当時はChatGPTのようなものもなかったので、翻訳コストが高かったんですよ。だから、英語を喋れるようにならないといけないと思って、同時に留学費用も貯めていたんです。結果的にそのあとコロナ禍になったので、インバウンドはやらなくて良かったですね」



無事にある程度の資金を貯めることができたので、大学3年の1年間を休学し、留学へ行くことにした。迷わず選んだ行き先はオーストラリア。高校生の時に目にした風景を、ただもう一度見たかった。


「半年間は語学学校に通って、もう半年は現地で仲良くなった韓国人とタイ人の男の子と3人で旅行をしたり遊んだり、現地のミートアップイベントに行ったりといろいろなことをしていました」


何かを学んだり、MBAを取得したりと崇高な目的があったわけじゃない。ただ、見たい・知りたい・喋りたいという好奇心に従って、毎日を過ごすことに意味があると思っていた。そんななか語学学校で見た「世界の中の日本人」の立ち位置は、想像より厳しいものだった。


「せっかく留学しているのに日本人ってみんな固まっているんですよ。ほかの国の留学生からも『日本人って向上心がないよね』ということを言われていて、その印象をなんとか変えたいなということは当時ずっと思っていました」


いくら英語圏で生活していても、日本語を話していれば日本語脳になってしまう。自分で稼いだお金で留学に来ていたこともあり、限られた時間を無駄にしたくなかった。だからこそ、周囲には自分のことを韓国人だと嘘をつき、日本語で話しかけられないようにした。


小さなコミュニティではあるものの、日本人に対するステレオタイプを少しでも壊したかった。あとから日本人だと告白した友人たちには、「日本人だと思わなかった」と言われ、少なからず手応えを得る。固定化されたイメージも、自分の行動一つで覆すことができると学ぶことができた。


英語力も一定身につき、帰国後は起業に向けて本格的な準備を進めようと考えていた。しかしその矢先、留学前に「投資」として安易にお金を預けた人が詐欺だったことが発覚し、すっかり手元の資金を失ってしまった。


「起業するために貯めていたお金が全部なくなって、そこから急ピッチで会社に就職していくことになりました。当時は資金調達という概念もなかったので、まずはまたお金を貯めないといけないと思って。でも、いい経験にはなりましたね。正直真っ当な仕事で稼いだお金ではなかったですし、苦労もできたので(笑)」


自分の手で稼ぐ重みと、それを失う重み。どちらも経験できたのは幸運だった。苦労を力に変えて前へと進むこと。当時得た教訓は、その後の自分を支えてくれた。




2-4. 起業


はじめから起業を見据えていたので、就職先には実力主義かつ営業を学べる会社がいいだろうと考えていた。加えて、学べることが多そうな営業単価が高い商材を扱う業界として、不動産会社から探していくことにする。多くの会社を見たわけではなかったが、オープンハウスの最終面接で対面した荒井正昭社長は、それまで出会ったどんな人とも違っていた。


「人たらしというか、人間的魅力を感じる一方で、一瞬でも隙を見せたら飲まれそうな迫力があって。この人の近くで学びたいと思えるような覇気を感じたんです。人心掌握力的なものを盗みたいなとも思いました。会社としての成長率も圧倒的でしたし、最終面接を受けるまでは正直迷っていたのですが、その場で即決しましたね」


毎日社内では、至るところで順位が可視化されている。生易しい環境ではないことは知っていたので、入社後にギャップを感じたことはない。それより社長に近づくために結果を出したいという思いが強かったので、忙しさも楽しんでいた。


「僕は城南エリアを担当していて、港区や渋谷区といったいわゆる高級層を相手にする営業でした。熱量だけでは全く意味がなくて、きちんとロジックを立てて資産価値の変化を示したりする必要がある。やはり小手先のテクニックは通用しない世界だったので、かなり鍛えてもらったなと思っています」


1年目の目標は新人賞レースで競い合い、100人ほどいた同期の中で1位を取ることだった。残念ながら2位という結果に終わったが、最後まであきらめ悪く粘りつづけた1年だった。


「あきらめが悪いのは、自分がやりたいことから逆算して『できるまでやる』からで。あきらめが悪いというより、あきらめられないということなんです。新人は1位2位3位までに入ると2年目から昇格して、すぐマネージャーになれるんですよ。だから、そこに入らないといけないというロードマップを自分の中で引いていました」


オープンハウス時代、部下と


ほかにもマネージャ―に昇格してからは、成果を出すための「戦い方」が変わったことへの戸惑いもあった。プレイヤーからマネジメントへ。ギャップに直面し、当初は結果がついてこなかった。


「空回りしすぎて、2か月くらい売上ゼロを叩いていました。その時、たまたま1年目の上司だった先輩が、『お前、自信がないだろ』とメッセージを送ってくれたんです。僕は『こんなの成長痛ですよ』と虚勢を張っていたのですが、その先輩だけは『なんで素直にならないの?』と、『できなくてもいいから自信だけは持て』と言ってくれて。今でもその長いメールの内容は残していて、一番刺さった言葉でしたね」


営業としても人間としても尊敬する先輩に背中を押され、そこからは肩の荷が下りたような感覚だった。同時に、自分が抱えていた「根拠のない自信」は、単なる虚勢に過ぎなかったのだと自覚する。虚勢と自信は、似ているようで全く異なるものだった。


「虚勢はどちらかと言うと取り繕っている、自分を良く見せようと紛らわしているような感じですね。でも、本当の自信は、たとえ今結果が出ていなくても『絶対にできるという闘志』ですよね。そしてそれを部下にもきちんと伝えていくことが大切で。現状はこうだけど絶対ここまで行ける、だから一緒に頑張ってくれということを伝えないと、自信のなさは絶対に伝わってしまうんですよね」


うまくチームが回るようになり、数字もついてきた。営業に関しては自分なりに昇華させることができた感覚があり、マネジメントの経験も一定積むことができた。数年かけて起業資金としてあらかじめ決めていた貯金額も達成できたので、そろそろ準備を始めることにする。一度区切りをつけて退職し、起業に向けて動き出した。


「不動産営業をしているなかで、あまりにも情報が非対称すぎると実感していたんです。情報弱者が割を食うような構造が当たり前になっている。この業界の不透明性をどうにかしなければという思いが、事業アイデアに繋がるきっかけになりました」


もし独立して稼ぐことだけを考えるなら、不動産仲介を自分で始めた方がいい。しかし、どうせやるならお金のためでなく、業界を変革するような大義のために事業をつくりたいという思いがあった。


「不動産業界って、少しズルをしている営業マンが稼げてしまうような世界でもあるんですよ。その分、真摯に実力を積み上げている人が評価されないこともある。それを一営業マンとしても変えたいと思っていて。僕は不動産業界ですごくいい思いをさせてもらえて、すごく感謝しているんです。だからこそ、目先のお金のためではなく、この業界の構造を変えていくような挑戦がしたかったんです」


理系出身で同級生にエンジニアが多かったこともあり、ITと絡めて業界を変革させていくビジョンは描きやすかった。半年ほどの準備期間を経て、2022年にPropally株式会社を設立。業界を進化させるべく、思いを持って行動に移すことにした。




3章 アニメから学んだ人生訓


3-1. 人生のKPIは「どれだけ自分の感情が動いたか」


大学時代、周囲の友人の影響でアニメを観はじめたことをきっかけに、気づけば「変態的なアニメオタク」になっていた――。そう振り返る齊藤にとって、人生の学びとして真っ先に浮かぶのもアニメ作品だ。


それまでどこかステレオタイプな見方もあり、アニメには全く興味がなかった。だが、ある日友人の家に誘われて、『魔法少女まどかマギカ』を大スクリーンで観ることになる。


「観終わった瞬間に号泣してしまって(笑)。そこから人生が変わりましたね。結構アニメから学ぶことは多くて、アニメって感情を揺さぶられるんですよ。日常生活でそんなに泣いたり強く感情が動くことって、あまりないじゃないですか。でも、アニメは30分とか1時間の中で一気に感情を動かされるところがすごく好きですね。僕の中では『どれだけ自分の感情を動かすか』を人生の一つのKPIとして置いていて。アニメはそれを連続的に味わえるものなので、素晴らしいなと思っています」


素晴らしいアニメ作品は、観終わったあとに喪失感が残る。それほどの余韻が残るということは、すなわち感情が揺さぶられた証拠であり、「人生で本当に大切なこと」に触れた瞬間でもあると齊藤は考える。


「僕が一番好きな言葉は、『鋼の錬金術師』という少年漫画が原作のアニメに出てくる『痛みを伴わない教訓には意義がない』という名言です。やはり痛みを伴わない限り、本当の意味で物事を認識できなかったり、人生の方向性が定まらなかったりすることがあると思うんです。だから、まずは行動してみることが大事だと考えていますね」


物語は主人公であるエドワード・エルリックと弟が、幼い頃に亡くした母親にもう一度会おうとするところから始まる。2人は禁忌の錬金術に手を出し、その代償として自身は片腕と片足を、弟は全身の肉体を失ってしまう。やってはいけないことをやってしまった兄弟は、行動したからこそ真理を学び、失ったものを取り戻すための旅に出ていくことになる。


「作中では、どれだけとんでもない逆境や絶望的な状況でも、エドワードがあきらめずに進んでいく描写が何度も描かれていて。その姿にはかなり勇気をもらいましたし、自分もこうありたいと思わされました。だからこそ、やってみないと真理は分からない、自分は評論家にはなりたくないなと強く感じたんですよね」


どんな絶望の淵に立っていても、命がある限りは進んで行くことに意味がある。その先に幸せが待っていることを教えてくれた大切な作品であるという。


「失敗してもいいから突き進む。だから、ほかの人が80~90%の勝算がなければ進まない場面でも、僕は60%の勝算で進むことを選ぶようにしています。どれだけ負荷がかかっても、それは全て経験になる。むしろ、その経験が将来もっと大きな結果に繋がることの方が多いじゃないですか。だからこそ、逃げないことは本当に大事だと思っています」


経験の積み重ねが、少しずつ自分を強くする。逃げずに向き合えば向き合うほど、それだけ真理に触れられる。感情を動かし、失敗から学ぶ。そうして人は、前へと進んでいく。




2025.4.23

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


事業を通じて業界への恩返しがしたいと語る齊藤氏。事業にかける情熱や、負けず嫌いな一面も垣間見えつつ、その闘志を支えているのは「感謝」の姿勢だ。「多くの人に支えられて今がある」という思いは、決して謙遜ではなく、行動ににじむ実感そのものであるようだ。


九州の田舎から世界に触れ、生活のためにお金を稼ぐ苦労を知り、アニメの魅力とも出会う。多様な世界に触れるたび、自分の世界の狭さを素直に認め、そのなかで感じた悔しさや感動を、飾らず言葉にする。人生で出会った出来事や感情に自覚的であるからこそ、そのたび内面や人間性が少しずつ厚みを増していく。


闘志と感謝は、一見すると別々の感情のようでいて、実は互いを支え合い、強め合う関係にあるのかもしれない。真っ直ぐであることを恐れず、両方を持ち合わせている。だから、単なる情熱を超えた確かさが宿るのだろう。


文・Focus On編集部



▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)

勝率60%の道でも、あえて進む理由|起業家 齊藤郁織の人生に迫る




Propally株式会社 齊藤郁織

代表取締役CEO

1993年生まれ。大分県出身。2017年芝浦工業大学卒業後、株式会社オープンハウスグループ新卒入社。不動産業に5年間従事した後独立し、Propally株式会社を設立。オープンハウスGでは営業本部に所属。新卒最年少MGR就任。2020年度、全社MGR売上年間トップ獲得。東京城南エリア、当時年間歴代売上記録保持。

https://propally.co.jp/


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