Focus On
小松航大
株式会社ボーダレス・ジャパン  
「For Good」事業代表
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or人生の豊かな時間は、つながりの中にある。
「ビジネスとテクノロジーの力で、古い産業の未来をつくる」をミッションに掲げ、人と人がともに過ごす心豊かな体験を増やすべく事業を展開している株式会社Beer and Tech。同社は、フラワーとグリーンのオンラインストア「HitoHana(ひとはな)」の運営などEC領域から始まり、現在はオフラインの法人向け・空間緑化サービスにまで事業を拡大している。2025年からは三菱地所グループとの事業共創も推進し、バイオフィリックデザイン(人・空間・自然の調和)の科学的エビデンスに基づいたオフィス・商業施設・住宅の付加価値向上にも取り組んでいる。
代表取締役の森田憲久は、大学卒業後、設立数年のインターネット広告代理店に入社し、営業を中心に採用、システム要件定義、メディア部門のマネージャーなどを幅広く兼務した。のち営業統括に就任し、上場企業並の業績になるまで成長を牽引。グロービス経営大学院を卒業後、同社を退職し、2014年8月に株式会社Beer and Techを創業した。同氏が語る「自分の中に指標を持つこと」とは。
目次
目に見える豊かさが幸せの尺度になりがちな時代、「心の豊かさ」の価値を問い直す。「人生を彩る」という同社のブランドビジョンには、創業から一貫する思いが込められていると森田は語る。
「たとえば、意見が合わない人でも、仕事が終わって一緒に飲みに行ったらすごく豊かな時間があったりする。そういった人とのつながりや、人と時間を共有することで満たされる『心の豊かさ』にこそ価値があるのではないかと考えていて。自分の原体験も踏まえて本当に価値があると思ったものを、ブランドや事業として作り、体現できるサービスとして提供したいと思ってきました」
花と植物で、人生を彩るオンラインストア「HitoHana(ひとはな)」を運営する同社では、誰かに花を贈るときや、生活に植物を取り入れるとき、その買い物に胸が高鳴る体験があり、人とのより良いつながりのきっかけが生まれることを目指している。
単なるECシステムの構築や、提携花屋のネットワーク化にとどまらず、商品企画から販売・出荷までを自社で一貫して担うビジネスモデルを採用。フローリストが制作した商品を1点ずつ撮影・画像データ化し、蓄積することで、購買体験やデザインの改良などに活用している。
「サイトや商品の見せかけだけかっこよくても不十分ですし、逆に運営が堅実でも、面白みやデザイン性が低ければ選ばれない。センスの良さと、堅実なオペレーション。このハイブリッドをいかに積み上げていくかを意識しながら、事業を設計しています」

自社出荷×産地直送のハイブリッド型で、より新鮮なまま届ける仕組みを実現
花き産業のオペレーションに正面から向き合ってきた
同社が追求する「体験」の設計は、いまやオンラインだけにとどまらない。2025年からは、三菱地所株式会社のCVC「BRICKS FUND TOKYO」の資本参加を受け、お祝い花のおまとめサービス「HitoHana Collect」や、オフィス緑化などオフライン領域での協業を進めてきた。2026年7月には追加出資を受けて資本提携に至り、法人向けの空間緑化事業をさらに加速させている。
そこでは、植物の価値を単なる「空間の装飾」にとどめず、生産性向上やウェルビーイングの実現に寄与する存在として科学的に捉え直すべく、実証実験や共同研究を行っていくという。
「EC領域で培ったブランドや認知、オペレーションを活かして、施設のプロデュースや植栽の取り入れなど、空間緑化というテーマに大きく挑戦しています。空間を訪れた人が、『とてもリラックスできた』『家族や友だちと良い時間を過ごせた』と感じられるような体験・施設を増やしていきたいと考えています」
今後、生産者の高齢化が加速し、供給量の維持が難しくなる花き業界は、産業構造の転換を迫られている。Beer and Techでは、長期的視点として海外市場にも目を向けながら、産業の未来をつくるべくソリューションを展開していく。
「ヨーロッパでは、地理的に近いアフリカのケニアやエチオピアで生産した花を集約し、域内で流通させる体制を確立しているように、日本国内だけで生産者減少の問題を解決しきることは難しいのではないかと考えています。日本発で我々が作ったカルチャーやサービスを、アジア全体のサプライチェーンで再構築し、最終的にはアジアに冠たるブランドへと育てていきたいと思っています」
オンラインで培った「体験」への眼差しは、今、空間そのものをつくる可能性へと向かっている。花と植物を通じて心の豊かさに向き合うBeer and Techは、次の挑戦を描きつづける。

実家の前にずらりと並ぶビニールハウスには、父が育てた胡蝶蘭が咲いていた。若くして生産者として独立した父の会社には、同じように志ある若者が集まっていた。高校や農業大学を卒業したばかりの彼らは住み込みで働いていたため、実の兄とは別に、さらに年の離れた兄が身近にいるようだったと森田は振り返る。
「業界としては栽培技術やノウハウは隠すという方が多いのですが、父は惜しみなく教えるタイプで、その代わりにインターンのような形で働いてくれる若くてやる気のある人を集めていたんです。小さい頃はそういう人たちに『少年ジャンプ』を紹介してもらったり、高校生くらいになると麻雀を一緒にやるようになったり、ほかにもスケボーとかフリスビーとか、外の世界のものをいろいろ教えてもらっていましたね」
父が起業した1970年代は、まだ胡蝶蘭の栽培が今ほど確立していなかった。前例も乏しく、技術も自前で研究するしかない。苦労は多かったはずだが、父はそれを家庭で語らなかった。
「父は事業の大変さをほとんど家庭に持ち込みませんでした。花が売れないとか、オイルショックの重油高騰で生産コストが上がって儲からないとか、いろいろな局面があったと思うのですが、それをいちいち社会のせいにしたり、業界のせいにしたりは一切しなかった。前向きに、アイデアと工夫があれば楽しくやっていけるんだという感じで、はつらつと事業を営んでいたので、そんな親の背中には相当影響を受けていると思います」
そんな父の姿は、幼い頃から間近で見ていた。当時は自宅兼オフィスの広いスペースが遊び場だった。その辺にある段ボールを使ったり、かくれんぼをしたり、兄と一緒にユニークな遊び方を思いついては自由に形にすることが日常だった。

小学校時代、実家で栽培された胡蝶蘭と
幼稚園から小学校低学年にかけては、絵を描くことにはまっていた時期がある。ある日の休み時間も、教室でノートにすごろくのようなものを描いていた。サイコロを振り、特定のマスに止まるとキャラクターが出てくる、オリジナルのボードゲームだった。
1人で黙々と描いていると、ふと何をやってるのかと興味を持った友だちが声をかけてくる。1人が2人に、2人は数人になり、気づけばみんながゲームで遊び、楽しんでくれていた。
「兄との遊びもそうですが、サッカーとか野球とか、世の中で価値基準が決まっているゲームは、基本的にあまりやらなかったんです。どちらかと言うと、価値があるかどうかは自分で決めて、それに人が乗ってくれるかどうかを考えている子どもでしたね」
もっと楽しんでもらうには何が工夫できるかと考えて、人気漫画のキャラクターを描き足したりもした。それを喜んでもらえれば、自分も嬉しい。当時はそうして何かを作り、自然と人が集まるようなことを考えては楽しんでいた。
ほかにも小学6年生のときには、クラスの係決めでじゃんけんに負け、不人気な飼育委員を任された。うさぎや鳥の世話をするにも、普通にやるだけでは面白くない。だから、給食で余ったパンを集めてあげるのはどうかと思いついた。
「飼育委員のみんなで各教室を回って、学校中の余ったパンを全部集めてきて、うさぎにあげたんです。そういう変なことをやって盛り上げていると、クラスのみんなが気になって見に来るじゃないですか。人が集まったら、今度はみんなで草をたくさん取ってきて、うさぎ小屋をものすごくリッチな空間にしたりして。一度は可能性のなさそうなところに身を置いて、そこから自分なりに面白くユニークな価値を作って、結果的に人が集まる。そういうことを昔から繰り返していました」
誰かに決められた基準をなぞるより、基準は自分で作りだした方が面白い。それが認められ、自然と多くの人が集まるという成功体験が、さらにその先の自分を形作っていった。

小学校時代、友人とのスキー旅行にて
2-2. 世の中一般の尺度
野球やサッカーのような定番のスポーツには惹かれず、小学校高学年からは先輩に混ざってバスケットボールを始めた。中学でもそのままバスケ部に入ったが、実力は中間ぐらい。引退前最後の試合で出場できたのも、ほとんど負けが確定した段階だった。
「子どもながらに努力賞のようなものだなと思って。人一倍時間を割いたというほどではなかったとはいえ、真面目に努力したからといって必ず結果が得られるわけではないんだなと感じたんです。バスケ部の友だちとは仲が良くて、コミュニティとしては楽しかったのですが、自分が成果を出しきれないところで真面目に3年間やるだけでは生み出せるものは少ない。自分が何に時間を使うかは、もっと考える余地があるんじゃないかと思ったんです」
もともと「レギュラーが偉い」とされる空気に馴染めず、そのヒエラルキーの中に入りたくないという反発があった。もっと言えば、よくも悪くも世の中一般の指標で評価されたくないと思ってきた。にもかかわらず、気づけば分かりやすい評価指標がある環境でなんとなく3年間を過ごしていたのだと、振り返ったときに思った。
「そんなことがあったので、高校を選ぶときには、先生からは大学受験をしなくていい附属高校に行くのがいいと勧められたのですが、大人の評価指標で自分の青春3年間を使いたくないなと、自分なりの基準で環境を選びたいと思ったんです」
ちょうど兄が進学していた高校に、スキー部があった。しかも純粋にタイムを競う「競技スキー」だけでなく、ジャンプや回転など技の完成度で勝負する「フリースタイルスキー」を扱うユニークな部活だったので、そこで頑張ってみたいと考えた。
「偏差値とかいい大学に行けるかどうかはどうでもよくて、自分が好きなことをやれるところに行きたかった。高校3年間を無駄にしたくないと思っていたので、受験の直前に進路変更したいと先生に話したんです。『スキーなんて大学のサークルで好きなだけできる』と先生には反対されたのですが、そういうことじゃないと。自分が価値を感じる進路選択をしたいと思っていました」

志望校には無事合格し、スキー部にも入ることができた。高校2年生のときにはスキー検定1級も取ることができ、自分が意図した選択をして一つの結果を得られた満足感があった。
とはいえ、将来もスキーを仕事としていくほどではない。勉強にはあまり前向きにはなれなかったが、大学受験に臨むべく予備校に通いはじめることにした。
「高校は特別な進学校でもなかったので、先生も大学受験にあたってそんなに夢のような未来図は示していなくて、『それなりに頑張りなさい』というスタンスだったんです。それが予備校では学力が絶対的な価値とされていて、いい大学に入った人が有名企業に行って、今はこれだけ資産を築いているという話をされたとき、社会で分かりやすい指標としての学歴の存在を初めて実感したんですよね」
世の中には、一定抗えない指標があることを知る。ただ、それが自分のモチベーションにはなりづらかったので、あくまで自分なりの基準で大学を選ぶことにした。
「当時『ザ・モーグル*』という雑誌があったのですが、そこに『学生モーグル祭り』という大会についての記事が載っていて、後ろに出場大学とスキーサークルの名前が出ていたので、その中で学力が高かった大学を受けることにしたんです(*コブ(凹凸)が深く急な斜面を滑り降りるフリースタイルスキー競技)」
モーグルをもっと本気で頑張りたいという思いに従い、その中でできるだけ高い目標となる大学を目指すことにした。
また、当時はもう一つ、予備校の先生から影響を受けたことがある。英作文の先生が面白い小説を紹介してくれる人だったので、ふと家にあった小説を手に取った。勉強の合間に何気なく読んでいると、物語の面白さにのめり込んだ。同時に、そんな価値をゼロから生み出せる小説家という仕事にも感銘を受け、憧れるようになっていた。
社会には社会の尺度があると知りつつも、それだけでは終わらず、あくまで自分らしいユニークな価値を発揮したかった。進路も憧れも、少なくとも自分の中に物差しを持ちつづけようとしていた。

大学時代、学生モーグル大会に出場した日
大学に入った当初は、引き続きスキーに明け暮れたいという思いに加え、小説家になりたいという思いも胸に秘めていた。
「冬は雪山にこもってひたすらスキーをやりつつ、それ以外の時間で創作活動をやろうかなと思っていました。当時は志を立てて4年間本気でやれば、小説家になれるかもしれないという気持ちがあったんです。ただ、結局そうは言いつつ、大した努力はできなかったのですが(笑)」
3年生になるとゼミに所属するはずだったが、ゼミの面接より部活を優先してしまい、気づけば所属先を失っていた。スキーはオフシーズンだったこともあり、何か打ち込めるものはないかと探すなか、目を向けたのがビジネスの世界だった。父が経営者だったことから、「Business Contest KING」という学生向けのビジネスコンテストに参加してみることにした。
「学外の抜群に優秀な学生たちと出会って、すごいなと感化されて、知らない世界をもっと広げていきたいと思うようになったんです。そこから次は、2003年に始まった経済産業省発の『ドリームゲートプロジェクト』というプログラムに参加しました」
起業家マインドを醸成し、若手起業家を増やしていく。そのために、全国から集まった血気盛んな学生100人に、新進気鋭の若手起業家のかばん持ちをしてもらう。さらにその様子を、ジャーナリスト志望の学生30人が取材し、社会に届ける。そんな斬新な内容で話題になったプログラムは、のちに株式会社ユーグレナを創業した出雲充氏が当時責任者を担っていたものだった。
受け皿となる起業家の中には、オン・ザ・エッヂ時代の堀江貴文氏やサイバーエージェントの藤田晋氏、オークション事業を手掛けていた頃の南場智子氏など、そうそうたる顔ぶれも含まれていた。学生たちも個性的な面々が集まるなか、初めてベンチャー・スタートアップ起業家という人々を間近に見た。
「当時僕がインターンしていた会社では、いろいろな起業家をインタビューするメディアをやっていたので、取材に一緒に行かせてもらったり。まだベンチャーキャピタルも今ほど育っていなかった時代だったと思うのですが、その面談に同席させてもらったりもして、そこでスタートアップ起業家のメンタリティや、実際にやっていることを間近で見ることができたんです。それ以降、リクルートでもインターンをしていったりと、いわゆる起業したい若者が辿るようなコースに乗っていくことになりました」

若手起業家のそばでインターンをしていて何より衝撃を受けたのは、今までの人生で出会ったなかで桁違いに優秀な人が朝から晩まで猛烈に働いていたこと。そして、そんな人たちが社会からは大して評価されていないという現実だった。
「当時は五反田から都営浅草線で数駅先の、駅から歩いて15分くらいの民家をオフィスにしていたんです。ネットバブルがはじけた直後で、あまりお金がなくて、都落ちのような感じで。転職面接に来た人が『場所が分からない』と電話してきて、おそらく外観を見て『違うな』と帰ってしまったんだと思うのですが、そのまま来ないということもありました」
一方、リクルートでインターンをしていると、それだけで周囲から信頼される場面が多かった。たしかに実際、同じグループにいた同期は、外資系コンサルティングファームや大手総合商社、テレビ局の内定者など、いわゆる就活強者たちが集まっていた。けれど、何者でもない学生の自分が評価され、名もなきベンチャー企業は世間で認められない。そこには、どうしても違和感があった。
当初のインターン先の社長は「君には内定は出しておくから、内定があると思って就職活動したら気が楽でしょう」と言って、選択を委ねてくれた。就職活動を進め、いくつか内定をもらうなか、最終的に自分がどの会社に入るかを考えていた。
「気づけば、その企業が自分の将来のために有利か不利かという基準で選ぼうとしている自分がいたんですよね。面接を受けているときは、ずっと品定めされているような感覚が心地よくなかった。それなのに内定をもらったあとは、自分も同じように『3年後起業するために、この会社は何をしてくれるのか』と損得で選ぼうとしていることに気づいたとき、何か違うなと思ったんです」
本当に大切なことは何なのか、ふと立ち止まって考えた。既に有名になった企業ではなく、これから価値を作っていこうと情熱を持って経営する人のもとに、優秀な人材が集まらない。そんな現実が是正された方が、もっと社会のためになるのではないかという思いが湧いてきた。
「起業するなら、父が見せてくれたような素晴らしい生き方を体現したいという思いがありました。それなのに、最初から損得で会社を選ぶのは、なんだか格好がつかないなと思って。当時はまだベンチャー企業に就職するといっても、上場しているメガベンチャーに入るのが一般的で。もし自分がこの小さな会社に入って、キャリアを作ることができたら、学生が小さな会社でも成功できるというモデルケースになれるんじゃないかとも思ったんです。社会がまだ正当に評価していないものを、自分の力で証明してみたいという思いもあって、悩んだ末にインターン先の会社にお世話になることを決めました」
父が見せてくれた誇れる生き方には、ずっと感謝の思いが心にあった。いつか自分もそんな生き方を誰かに残したい。起業は、それを体現する方法だと思っていた。まずは尊敬する人のもとで働いて、力をつけることから始めることにした。

もともとインターンの頃から新規事業立ち上げに参加し、めまぐるしく働いていたが、新卒として入社後は事業のクローズ作業から始めることになった。
「2005年当時ベンチャーキャピタルから3億円を集め、新オフィスに移転し、注目されはじめたのも、つかの間、入社して最初にやった仕事は、立ち上げた新サービスの閉鎖でした」
当初はインターネット広告代理店として設立されたが、業界内の競争は年々激化していた。担当していた新規事業だけでなく既存事業含めた抜本的な見直しが必要とされ、ちょうど会社は当時黎明期だったモバイル広告への転換を決めていた。
「まだ参入している企業が少ないし、成果報酬型で売りやすい。PC広告からモバイル広告の代理店になろうということで、会社としてモバイルアフィリエイト広告の部門を立ち上げることになったんです。僕も事業を閉めたあとは、この部門にアサインされて、ひたすら架電をして営業する日々でした」
モバイル広告事業は急成長し、個人としても入社から1年ほどで営業成績1位になった。
しかし、当然順調なことばかりとはいかない。事業が伸びれば人が足りなくなり、成長が鈍化しても、人が辞めても、人が足りなくなる。仕事を任せてくれたクライアントを必ず成功させるために、常に営業やオペレーションの現場でマネージャーとして奔走する日々が続いた。「3年で起業する」という入社当初の思いは、いつしか薄れていった。
「なんとか組織を回していかなければいけなくて、辞めるタイミングがなかったというのが一つ。それに、成功する要素がいろいろある会社でも、社会に成果が認められ、見方が変わるまでは時間がかかるんだなと感じたんです。社長の優秀さは変わらないし、素晴らしいメンバーも揃っていたけれど、フェーズによって波もある。タイミングよく上昇気流を掴むことも重要だろうと思うなかで、正直なところ、今回はたまたまうまくいったとはいえ、もう一度これを自分でゼロからやるのはしんどいなと、当時は思っていました」

目の前の仕事に追われる日々のなか、あるとき事業戦略の策定を任された。とはいえ、戦略の立て方を体系的に学んだことも、経験もなかったので、大学院に通って学びながら作っていくことにした。
しかし、二足の草鞋を履く生活は多忙を極めた。
「仕事と大学院の生活が忙しすぎて頭痛がひどくなって、病院に行ったんです。そうしたら脳動脈瘤が2つ、右と左にありますと言われて。合計で年間2%の確率で破裂する可能性があって、いつ起こるかは分からないけれど、破裂するとくも膜下出血を起こして、7割くらいの確率で死ぬか障害が残る、という話をされたんです。当時30歳くらいだったので、10年で20%、20年で40%、30年経てば60%くらいの確率で破裂することになる。そうなると会社で偉くなるとか、お金をたくさんもらえるとか、ストックオプションを持っているから株価がどうだとか、そういうことはあまり意味がないかもしれないと思ったんです」
病気のことを告知されて数日は、呆然と過ごすしかなかった。初めて死を身近に意識し、いつ終わるか分からない命で、自分が何を残せるのだろうかと考える。当時は独身で子どももいなかった。身近な人への少しの悲しみ以外に残せるものがないとするのなら、何のために生きてきたのかという思いにも駆られた。
ただ、1か月、数か月と時間が経ち、偶然テレビで交通事故のニュースを見ていたとき、「いつ死ぬか分からない」のは何も自分だけでなく、誰の身にも起こりうることなのだと気がついた。
「当時の日記には、『命の長さは誰にも選べない。それは自分だけじゃないと気がついた。それでも人は自分の時間を誰かに分け与えながら生きている。そして僕も多くの人から時間をもらって生きてきた。そう思えた瞬間、友人が寄せてくれた心配の言葉も、会社のメンバーとの意見が合わない議論も、全てがあたたかく感じられました』という文章が残っていて。人は経済的な成功ではなく、他者とのつながりの中に幸せを感じること。生きた証は自分の中ではなく、誰かの記憶の中に残すものだと気づいたんです」
ともに過ごした人から大切な時間をもらい、成長させてもらってきたからこそ、今の自分がある。そう思うと、前向きな感情が生まれてきた。出世や金銭的な豊かさを追うのではなく、父のような素晴らしい生き方や影響を残したい。自分の原点に立ち戻ったとき、進むべき道は起業だと思った。
幸いにも、のちに受診したセカンドオピニオンの医療機関では、「脳動脈瘤はない」という結果が出た。それにより、ほどなくして不安なく過ごせる日々が戻ってきた。
2014年、株式会社Beer and Techを創業。たどり着いた「自分なりの尺度」を、今度は事業という形で体現していくことにした。

創業期、共同創業者の伊藤と
起業とは、自分が価値があると信じるものや、社会をこう変えていきたいという思いを、事業に乗せることだと森田は考える。
「父はいつも社会に対して不満を言わずに、自分だったらこうするという考えを貫いていました。それが社会に受け入れられるかどうかは、社会が決めることなのですが、少なくともそういう腹から思いが乗った事業、自分の信条を乗せた事業をやった方が楽しくできるのではないかと思っています」
思えば、やっていることは子どもの頃から変わっていない。ノートに描いたすごろくも、飼育委員としてうさぎの世話を楽しくしたことも、多くの人はやらないことに自分なりの工夫を加えて、周りを巻き込んできた。
それが今、花き業界の未来のための事業を形にし、共感してくれる人や企業と協働している。
「花き業界は、世間的に注目度が高いわけでも、分かりやすく価値を認められているわけでもなく、実態より価値が低く見積もられているアンダーバリューな状態だと思うんです。もっと社会に価値を認められるべきだと思えるもの、なおかつ僕が得てきた経験でできることがあるとしたら、それが花だった。Beer and Techが掲げている『ビジネスとテクノロジーの力で、古い産業の未来をつくる』というミッションも、子どもの頃から変わらず一貫してきた姿勢と通じている感覚です」
何を選び、どう続けるか。その基準を、いつも自分の中に持つ。そうあり続けることが、納得できる生き方になっていくのだろう。

2026.8.4
文・引田有佳/Focus On編集部
限りある命を意識して初めて、何に価値を置くべきかが見えてくることがある。肩書きも実績も、そこでは意味を失う。自らの命と向き合った瞬間、そう気づいたと森田氏は振り返る。
人とともに過ごした時間や、交わした言葉。その価値は、肩書きのように分かりやすく目に見えるものではない。むしろ、しばしばその大切さが忘れられやすい価値である。
誰かに花を贈る。誰かと過ごす場所を、植物で彩る。Beer and Techが扱ってきたのは、まさにこの忘れられがちな価値だ。オフィスや暮らしの中に置かれた一鉢の植物も、同じ何かを静かに伝えている。花はいつか枯れる。けれど、贈られた記憶は枯れない。人生を彩る同社の挑戦は、何気ない日々の価値を再定義していく。
文・Focus On編集部
▼コラム|2026.8.5 公開予定
私のきっかけ ― 『小説 上杉鷹山』著:童門冬二
株式会社Beer and Tech 森田憲久
代表取締役CEO
1981年生まれ。埼玉県出身。明治大学卒業後、設立数年のインターネット広告代理店に入社。営業畑で一貫してキャリアを積みながら、採用、システム要件定義、メディア部門のマネージャー等様々な部門を兼務した後、営業統括に就任。上場企業並の業績になるまで成長を牽引。グロービス経営大学院卒業後、同社を退職し、株式会社Beer and Techを創業。