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現場DXで働き方を変え、挑戦が報われる世界へ ― 自分だけの道筋を信じる力

100回負けても、いつか巡り合える成功がある。


「ノンデスクワーカーの才能を解き放つ」をミッションに掲げ、アナログな現場業務をデジタル化していく株式会社カミナシ。同社が開発・提供する現場DXプラットフォーム「カミナシ」は、さまざまな現場業務に従事する3,900万人*のノンデスクワーカーに向け、業務効率化や標準化、品質向上を支援するとともに、より良い仕事人生を実現しようとするサービス群だ。2025年には導入現場数が17,000箇所を超え、蓄積されるデータとAI技術を基にして、プロダクトとしてさらなる進化を遂げつつある。(*独立行政法人労働政策研究・研修機構「職業別就業者数」より同社算出)


代表取締役の諸岡裕人は、慶応義塾大学経済学部を卒業後、株式会社リクルートスタッフィングにて営業職として従事。2012年に家業であるワールドエンタプライズ株式会社に入社し、LCCの予約センターや機内食工場の立ち上げなど現場業務に携わったのち、2016年12月に株式会社カミナシ(旧 ユリシーズ株式会社)を設立した。同氏が語る「負け続きの半生」とは。






1章 カミナシ


1-1. ノンデスクワーカーの才能を解き放つ


スタートアップとしてフェーズを重ね、2016年の創業から間もなく10年という節目を迎える今、現場で働く人たちへの思いは変わらず一貫していると諸岡は振り返る。


「2022年に『ビジョン小説』というものを書いたことがあって、最近読んでいないなと思いつつ昨年末に社員と振り返りをしたら、自分でも驚くくらい、その通りの方向に事業が進んでいたんです。『現場で働く人たちの働き方をデジタルの力で変えていく』という軸は変わっていないし、実現しようとしている世界観も小説に書いたものから変わらない。今も昔も、それがカミナシの根幹だと思っています」


これまでIT化が進んでいなかった現場と、そこで働くノンデスクワーカーのために、事業をつくりたい。その思いは、諸岡自身が家業である空港関連の総合アウトソーシング企業で働くなかで生まれたものだ。


「現場には優秀な人もいて、その人たちのおかげで利益が出ていることもある。そうした個人の働きぶりがもっと認められるべきだと思っても、労働集約型の業界では、時給900円の労働力として一括りにされてしまうことが少なくありません。一人だけ時給を上げることは難しく、全員一律で上げるしかないという構造もあり、それがもったいないと感じた原体験がありました。だからこそ、産業構造や経済そのものよりも、『人』にフォーカスする考え方が自分の中で大きかったのかもしれません」


現場DXプラットフォーム「カミナシ」シリーズは、
帳票類をノーコードでアプリ化できる「カミナシレポート」をはじめ、
設備保全、従業員教育、コミュニケーションなどの各シーンに対応する製品群を提供している。


人にフォーカスするという思想は、「共通ID化」という設計にも表れている。現場では、複数人で1つのアカウントを共有しながら使うケースがいまだ多く見られるが、カミナシでは一人ひとりにIDを紐づけ、同時にそのID一つで複数システムを横断的に利用できる。


全員に個別のIDを行き渡らせるための認証・認可基盤の構築に着手したのは、創業から数年、マルチプロダクト化戦略が固まってすぐのことだった。技術的に難しい領域であり、上場後になってようやく完成させるSaaS企業もあるなか、意思を持って初期から投資しつづけてきた。


「事業戦略や思想としても、現場で働く人たちを名もなきAさん、Bさん、Cさんとして見るのではなく、一人ひとりにしっかり名前があり、IDを持つ存在として捉えています。個別IDがあることで、業務連絡を誰かが先に読み、既読がついて見逃されるようなこともなくなりますし、何より自分の頑張りやこれまでやってきたことが、きちんと可視化されるようになる。そういった部分に向き合うことこそ、働き方を変える上で必要になるのではないかと。現場と向き合ってきた自分たちならではの思想であり、投資すべき部分だと思っています」


現場で働く一人ひとりの存在を意識しながら、同社が見据えているのは「ノンデスクワーカーが挑戦し、報われる世界の創造」だ。


「長期的には、きちんと社会を変えたと言いきれるくらいのインフラになりたいですね。たとえばExcelって、既にインフラだと思うんです。空気のように当たり前に使われ、誰も珍しいと思わない。でも、現場にデジタルツールを導入すると、まだ物珍しがられて取材されることもあります。カミナシの製品が空気のような存在として現場に浸透し、それが当たり前になり、働き方そのものが変わっていく。そこまで実現させたいと考えています」


現場のデジタル化が当たり前になること。それは、これまで見過ごされてきた人たちの働き方が変わり、ポテンシャルが解放されていくことでもある。カミナシは、その当たり前を形にし、一つひとつ現場に積み上げていく。




2章 生き方


2-1. 何度でも前を向く


千葉県の成田山新勝寺にほど近く、100年続く羊羹屋がある。正月には全国屈指の参拝客が集まる神社の土産物として、古くから愛されてきた本店から分家し、曾祖父が店を開いたのが大正8年のこと。店には工場も併設されていて、放課後帰れば多くの大人たちがいた。気づけば「4代目の跡継ぎ」として育てられていたと諸岡は振り返る。


「幼稚園からサッカーをやっていて、小学3年生くらいでJリーグが開幕したこともあり、将来の夢はサッカー選手になる一択だったんです。でも、それを家族に話すと、両親や祖父母、いろいろな人から『お前は跡を継ぐんだろう』と言われて。当時は跡を継ぐのは嫌だなと思っていたので、じゃあ何ならいいのかという話になると、なぜか公認会計士ならいいと。よく分からないまま小学5年生のときの夢は公認会計士になっていました(笑)」


幼い頃、跡を継ぐことを素直に受け入れてはいなかった。家業よりも外の世界に目が向いていたのは、自由に自分の道を拓いた父の影響もあったのかもしれない。


もともと父は、学生時代に米国ボストンへ留学していた。まだ海外留学が一般的ではない時代、広い世界に触れた父は、羊羹屋を継ぎつつも新たな商売を探したいと考えた。転機となったのは、偶然飛行機で席が隣だった人との雑談だった。全日空が初めての国際線を就航させることに伴い、機内食の皿洗い需要が生まれているという話を聞きつけた。


その場で「やらせてほしい」と申し出ると、大正から続く家業の存在が信頼され、起業のチャンスを掴んだ。家族に優しく、仕事には厳しい。自信満々で自由を愛する父だった。


「父親からものすごく言われたのが、『お前は絶対成功する。100%幸せになる。なぜなら俺とママの子どもだから』と。普通に考えたら何の根拠もないし、意味が分からないのですが、それを昔から500回くらい言われていたので、どれだけ失敗してもいつか成功するんだろうなと思えるようになっているのは、父親のおかげかなと思いますね」



父が創業したワールドエンタプライズ株式会社は、空港運営に欠かせない機内食の皿洗いに始まり、のちには清掃・ビルメンテナンス、手荷物仕分けなど幅広い現場業務のアウトソーシングを手掛けていくことになる。


多くの労働力を必要とする事業でもあるため、1988年の創業当初から時代に先駆け外国人労働者を採用していた。会社は順調に成長していたが、当時は日本全体で急増していく外国人労働者に対する論争が高まりつつあり、やがて父の会社を名指しで批判する街宣活動が地元で巻き起こった時期があった。


「僕はものすごくメンタル的につらかったのですが、父親は一切動じず冷静な姿勢を貫いていて、1~2年で運動は収束していったんです。100年以上商売をやっている地元の街で、しかも店の前で叫ばれてビラを配られたら、普通は外に出るのも嫌じゃないですか。家族の前でだけだったのかもしれませんが、父は全く動じなくて、それが一番かっこよかったんですよね。今、自分もスタートアップ経営で大変なことはたくさんありますが、あれに比べたら大したことではないなという感覚はすごく持っています」


父の言う通り、穏やかな日常は戻ってきた。中学校に進学してからは、サッカー部に入りつつ、ゲームをしたり遊んだりと自由に過ごした。


なかでも当時は、親友に誘われてよくバス釣りに行っていた。釣りが得意な親友は、毎回必ず何匹も釣り上げる。その横にいて、なぜか自分の竿は全く動かない。100回通って、せいぜい釣れたのは4匹ほどだった。


釣りの日は毎回朝4時に起き、1時間ほど自転車を漕いでいく。最初はやる気に満ちあふれていたが、徐々にあまり気乗りしないまま付いていくだけになる。しかし、1匹でも釣れた瞬間の喜びは、全てを吹き飛ばすくらい大きなものだった。


「1匹釣れただけで、ものすごく嬉しくなるんですよね。小さなことを喜べるタイプなのかもしれません。それは釣りのおかげだと思います(笑)。ポジティブさは、やはり父親から来ているんじゃないかなと。諦めなかったり、なんとかなるだろうと楽天的に物事を捉えられるのは、おそらく父親譲りですね」


100回に1回だとしても、釣れたことを喜ぶ。型にはまらず、自分を信じて諦めない。父から受け継いだのは、そんな気質だったのかもしれない。




2-2. 自由でいることと、誇れる自分になること


釣りの親友とは、高校生のとき2人でゴルフ同好会を立ち上げた。ゴルフを始めたのは中学生のとき、プロゴルファーを目指していた従兄弟に影響されたことがきっかけだった。家族にゴルフ好きが多かったこともあり、気づけば夢中になり、のめり込んでいた。


「ゴルフが面白くて仕方なくて。何が面白いかって、全然うまくならないことなんですよね。中学2年生から今に至るまで25年以上やっていますが、周りからびっくりされるくらいうまくならない。それでも、ちょっとした拍子に何かが変わって少しうまくなる瞬間があって。いつか自分はすごいプレイヤーになるんだと思いながら、ずっとやってきました。ある意味、うまくいかないことが面白いのかもしれないですね」


学校には練習施設がなかったが、成田市にはゴルフ場が多くある。練習場所を求め、「無給で働くので、その代わり無料でコースを回らせてほしい」と片っ端から電話をかけていく。すると、面白がってくれる人はいるもので、あるゴルフ場に雇ってもらえた。しばらく続けていると、人員が足りないからとキャディを任されるようになり、月に8万円ほど稼ぎながらゴルフができる最高の環境を手に入れた。


充実したゴルフ生活を送る一方で、学業はすっかり疎かになっていた。期末テストの全教科平均は30点ほどで、先生からはどこの大学にも行けないだろうと言われていた。


「当時は学校の決められたルールの中で、人と同じ生活をすることに歯向かいたくなっていたのかもしれません。ただ、不良になるほどでもなく、ささやかに自由に生きたかった。とにかく縛られたくない、自由でいたいという気持ちが強かったですね。でも、高校2年の終わりぐらいから、自分でもこんな成績でどこに受かるんだろうと思って、さすがに受験勉強をしなければと、初めて予備校の入塾テストを受けに行ったんです」


結果は偏差値40台で、さすがに自分でも危機感が芽生えた。今から間に合わせるためには、要領よく勉強する必要があるだろうと考えて、私立文系に絞った上で古文・漢文は捨てることにする。現代文・英語・日本史の3科目で足りる受験先を探しつつ、集中して勉強していった。


「そこから1年勉強したのですが、ライバルの存在は大きかったと思います。高校の親友たちの中に結構成績がいい人がいて、勝ちたいなと思いながら勉強していったら、第一志望の大学に受かったんです。クラスでビリからの合格だったので、この頃が一番慢心していた時期ですね」



大学でも気ままに楽しく過ごしていたが、3年生のとき偶然組織人事系のコンサルティングファームが主催するインターンシップに参加した。補欠合格だったが、ぎりぎり参加できることになったので行ってみる。


プログラムではチームで与えられた課題に挑み、アウトプットを出す。その過程で、互いに自己開示しながらフィードバックを交わしていく。感極まり泣き出す人も多いなか、自分の流した涙は情けないものだった。


「正直、それまで何も頑張っていなかったんですよ。サークルの仲間と遊んで、バイトもほとんどせず、ダメ学生だったんです。周りの参加者を見渡すと、学生団体で世界的な議会に参加している人とか、メジャーデビューしたバンドのギタリストとか、人間的に面白くて自信があって、キラキラした人しかいなくて。2泊3日の合宿だったのですが、初日から帰りたくなりました。あまりに自分との差が大きすぎて、情けなくなって、号泣してしまったんです」


将来の目標もなければ、頑張りたいこともない。それでも焦ったりしていなかったのは、ちょうど家業が成長していたタイミングであり、最後には継ぐ選択肢があると、悪い意味での安心感があったのかもしれない。


どうしようもなく打ちのめされたあとには、ここから頑張ろうという思いが湧きつつあった。漠然としたイメージだが、もっとリーダーシップを発揮していかなければいけないと考えた。


インターンシップで知り合った人の学生団体で、フェスティバル運営を手伝ったり、自分も地元で学生団体を立ち上げ、ゴミ拾い活動やフリーペーパーを制作してみたり、高校の後輩の進路相談に乗る会を開いたりと、行動を起こしていった。


「とにかく自信を取り戻したかったんだと思います。それまではいい大学に受かって、上り調子の人生で、堂々と振る舞えている自分が好きだったんです。でも、そこから一気に落ちてからは、人前に出ても何をしていても自分が嫌いだったんですよ。将来に対しても、親が頑張って起業した会社を継ぐ、そういう能力が自分にあると思い込んでいたところから、底まで落ちてしまって。だから、自信を取り戻したいという思いがすごく強かったです」


結局、自信が完全に回復することはなかったが、それでもたしかに得たものはあった。


「やってみて楽しかったですし、意外とできるものなんだなと思ったんです。誰かに引き継いで継続していく活動にすることまではできなかったのですが、『やろうと思えば意外と叶うんだ』という手応えはありましたね」


誰かに言われて動くのではなく、自分でゼロから何かをつくる。そんな経験を重ねて、胸を張れる自分になりたかった。もがきながらの挑戦は、無から有を生み出す手応えを残してくれるものだった。


大学時代



2-3. 打席に立つために


就職活動では、リクルートスタッフィングへの入社を選んだ。経営者を多く輩出してきたリクルートグループであること、かつ抽象的なビジョンミッションを語る企業も多いなか、「自分たちは商売をやっている」とはっきり言い切る姿勢に魅力を感じたからだった。


「初日に新入社員60人くらいが集められて、いきなりロールプレイをやらされるんです。その成績順に一軍、二軍、三軍に分けると。一軍には明日からどんどん現場に飛び込んでもらい、三軍は1か月ロールプレイだけやってもらうと言われたんです。僕は学生団体の経験もあって少しずつ自信も取り戻しつつあったので、まぁ一軍だろうと思っていたら、三軍として真っ先に名前を挙げられて。ボロボロなスタートでしたね」


今思えば、基本のヒアリング要件を疎かにして、ノリとテンションだけで乗り切ろうとしていたのだから当然だった。当時はそんなことも分からず空回りばかりする日々だった。


想像していたような華々しいスタートは切れなかったが、配属後には一定売上を上げ、表彰されたこともある。それでも総合的に見れば、まだまだ何かを成し遂げられる人材にはなりきれていないと感じつつ、3年が過ぎた。


「面接のときに『3年で家業に戻りたいと思っています』と話していたこともあり、実際に3年経った頃に辞めることにしました。家業で働きはじめてからは、外での経験を活かして会社を新しい方向に変えていこうといろいろ試したり、それなりに楽しかったんですよね」


家業に戻ってからは、まず現場に入った。皿洗いやスーツケースの運搬、ホテルの客室清掃、なかでも機内食関連の業務が多かった。現場を理解しながら顧客とのやりとりも重ね、新しい現場の立ち上げやオペレーション構築を任されるようになり、機内食部門の責任者を務めた時期もあった。


自分自身、オーナーシップを持って動くことができ、知らない世界を学べる面白さもあった。しかし、良い時間は長くは続かなかった。


「自分がいてもいなくても事業は伸びていくし、気づけば父親がやっていることや決めることに反発するばかりになっていたんですよね。自分で何かを生み出したり、抜本的に変えるというより、既にある仕組みを批判して、手を加えるようなことしかやらなくなっていたんです」


家業で働いていた頃


当時、可愛がってもらっていた取引先の社長との会食で、率直な評価をもらう機会もあった。改めて自分を見つめ直すと、たしかにそこまで大した存在でもない。やはり何か新しいことを始めなければと、悔しさをバネに新規事業をやらせてもらうことにした。


「現場で働く方を集めるのに、当時はインターネットではなく、新聞の折り込みチラシを使っていたんですよね。これは1枠作るのに20万弱くらいの費用がかかっていたので、もっと安くできないかと考えて。Web上でお客様自身がデザインを入稿できるツールを作れば、価格を下げられるんじゃないかと当時の僕はひらめいたんです」


跡継ぎということもあり、大分甘やかされていたのだろうが、2,000万円ほどの予算を任され新規事業として動き出す。しかし、結果は散々なものだった。


新しいWebシステムとして全顧客に案内を送ったものの、誰も使おうとせず、直接「こうしておいてほしい」という電話ばかりかかってくる。やってみて分かったのは、顧客は誰一人インターネットから申し込みたいとは思っていないということだった。


サービスサイトは2週間ほどで使われなくなり、1か月後にはサーバー代がもったいないからと閉じることになる。


「新規事業は尻すぼみになって会社の周りの人からの信頼も失い、さらに自分への自信も失っていきました。でも、そのとき初めてインターネットを使ったビジネスを自分で考えて、『これからはインターネットやITなしではそもそも打席に立てないだろう』と感じたんです」


先の見えない状況のなか、立ち寄ったコンビニで雑誌を手にしたとき、偶然目に入ったのが「プログラミングスクールが海外で流行している」という記事だった。読んだ瞬間、「これだ!」と思った。父や周囲からは反対されたが、最終的には必ず起業につなげることを条件に承諾してもらった。


「『G's ACADEMY(ジーズアカデミー)*』という起業家・エンジニア養成スクールに入りました。父からは『その10か月でアイデアを練って起業できなかったら、ゼロからやり直せ。そのとき会社は弟に継がせる』と言われて時間的猶予をもらったので、新しくアイデアを考えていって。父が自分の会社を創業したのは32歳だったので、自分も32歳までには何か事業を始めたいという思いがありましたね(*2025年、『G's(ジーズ)』に名称変更)


家業を継ぎつつ、自分自身の事業をつくること。父と同じように、自分もそうしたいという思いは学生時代から芽生え、さらに大きくなっていた。しかし、まだ実績も構想も何もない。とにかく打席に立つために、必要な行動に向かっていくことにした。


父と、成田山新勝寺の祭りにて



2-4. 現場感覚という武器


スクールに入った2016年頃といえば、ITスタートアップが少しずつ注目されはじめていた時期だった。次々にVCが立ち上がり、エコシステムが形成されていく。名もなきスタートアップが誕生し、急成長を遂げていくさまを見聞きするたび、自分が立とうとしている世界にワクワクさせられた。


「アイデアは100個くらい考えて、信用金庫の方にプレゼンしたり、アクセラレーションプログラムに応募したりしましたが、箸にも棒にもかかりませんでしたね。当時は現場での経験があまりに大変だったので、実家のような領域からは離れて、BtoCビジネスをやりたいと考えていました」


家業で機内食やホテル清掃のオペレーションを請け負っていた現場には、独特の難しさがあった。人手不足、離職、言語の壁は言うまでもない。採算は1日単位で決まり、わずかな作業の手間がそのまま赤字につながっていく。家業がそれでも成長を続けられたのは、人がやりたがらない仕事を一手に引き受けていたからだった。


起業するなら、過酷な現場仕事とはできるだけ距離を置きたい。そう考えていた当時、500 Startups Japan(現 Coral Capital)が主催する起業家・起業志望者とエンジニアのミートアップイベントの存在を知り、参加することにした。


「当時の僕からすれば、周りはすごい人たちばかりでした。越境ECで東南アジアで起業していますとか、未踏プログラムに認定されたエンジニアですとか、自己紹介のとき『やばい、自分には何もない』と思って。だから、正直まだ何のアイデアもないけれど、自分がいた現場の世界がいかに課題にあふれているか聞いてほしいと言って、機内食やホテル清掃の話をしたんです。そしたら主催者であるVCの方含め、周りがすごく面白がってくれて」


それまで相手に教えられるばかりの立場だったが、現場の話となるとそれが逆転した。隣に座っていたAI研究者からは、実際に工場を見に行ってもいいかと聞かれ、翌日2人で家業の機内食工場へと足を運んだりもした。


「スタートアップの世界でよく言われる『自分だけが知っている真実』って、こういうことなのかもしれないと思って。その夜は興奮冷めやらずなかなか眠れなかったのですが、翌朝パッと目が覚めた瞬間、『あ、起業しよう』と思ったんです」


創業直前、卒業制作のコンテストで優勝した日


当初の事業アイデアは、卒業発表のテーマでもある「IoT温度計」だった。食品工場では食中毒リスクを避けるため、温度管理の徹底が欠かせない。当時は、温度計で測った数値を手書きで記録するというアナログな手法が一般的だったため、これをIoTで自動化できれば、現場の負担を大きく減らせるはずだと考えた。


ちょうど手探りでプロダクトの構想をまとめて応募した、アクセラレータープログラム「Open Network Lab」では80社中1位の評価を得ることができ、起業に弾みがついた。


「そこで『本当にスタートアップを起業できるんだ』と、扉が開いた感覚がありました。最終的にそこからは出資を受けなかったのですが、それでも連戦連敗だった自分の人生で、初めて一勝した瞬間だったんです。あのときいただいた出資表明は、本当に嬉しかったですね」


2016年12月、ユリシーズ株式会社(現 株式会社カミナシ)を創業した。しかし、実際にマーケットと対峙してみると、IoT温度計はほとんど受け入れられなかった。


知り合いのツテで紹介してもらった大手食品メーカーに商談へ向かうと、「ボタンを押せば商品ができあがるので使い道がない、それよりコミュニケーションツールがほしい」と言われ、早々にピボットを決めた。現場の状況を可視化するツールの開発に取り組んだが、のちにこれもニーズがあるわけではないと分かり、今度は落とし物管理サービスの構想をたたいたりと、想定以上に暗中模索の期間が続いていた。


「創業から半年経った時点で、何をやればいいか分からない状態になって、オフィスの中はお通夜のような雰囲気でしたね。そのとき初めて、会社をつくったことを死ぬほど後悔して、もうやめておけばよかったと思ったんです。何が一番つらかったかというと、仮説が何一つない状態になったことでした。起業家として終わるのは、お金がなくなったとか人が辞めたとかではなく、『これをやれば成功できるんじゃないか』という仮説がなくなった瞬間なんだなと、そのときに分かったんです」


一度は諦めかけた。しかしちょうどその頃、半年前からオファーを受け入れていた機内食業界のカンファレンスがあり、発表だけはやりきらなければと足を運んだ。起業当初のアイデアである食品工場向けサービス「スマートQC」についてプレゼンすると、来場していた経営者は想像以上に感動してくれた。「現場の課題を解決しようとする若者がいる、応援しよう!」と、強く背中を押してくれたのだ。


「そこで浪花節の男気のようなものを感じてしまって。正直スケールする見込みはないけれど、社長さんたちが本気で喜んでくれるなら、そこで終わってもいいから形にしたいと思いながら作ったものが、今につながるサービスの原型です。2018年1月に初めてお客様に提供を始めて、月10万円という費用を1社からいただいたことを覚えています」


連戦連敗の人生でも、たどりついた現場への確信は、のちのカミナシの土台となるものだった。ようやく動き出した事業は、現場とともに育ち、今につながる旗印となっていった。




3章 信じる者の力


3-1. 100回負けても1回の勝ちを信じられるか


人生で数々の失敗や挫折を経験してきた諸岡は、「ポジティブであること」について語る。


「『賭博黙示録カイジ』という漫画に、主人公の伊藤カイジというキャラクターが登場するのですが、どんなに失敗しても『俺はまだ本気を出していないだけだ、まだ打席に立っていないだけだ』と思いつづけているんです。世間ではそんなことを言っていると結局何もできないで終わると馬鹿にされることもありますが、僕は本当にそう信じている方がいいと思っていて。まだ巡り合っていないだけで、いつか必ず成功する。そう思いながら70歳になっても行動しつづけている人がいたら、かっこいいと思うんです」


失敗は終わりではなく、ただ「自分の番が来ていない」だけなのかもしれない。そう信じられるのは、なぜなのか。


昔から人と同じことをするのが苦手で、みんなが右を向くなら、自分は左に行く方が好きだった。分かりやすい多数派や、勝ちが確定している選択よりも、多くの人が選び取らない方に惹かれてきたという。


「ビジネスにおいても、人がやりたがらない仕事にこそチャンスがあると思っています。これは父の教えでもあるのですが、機内食の皿洗いの現場は24時間稼働だし、決して楽な仕事ではないんです。父が起業したときも、人集めに苦労したと聞いています。それでも創業から30数年、顧客との契約は途切れず続いている。誰も見ていない場所にこそ、チャンスは眠っているものだと信じています」


ポジティブであることと、人と違う道を選ぶこと。この2つは決して無関係ではない。打席に立つ日をいつまでも信じつづけるためには、誰も歩かない道でも前向きに進んでいく力が必要だ。その道のりを楽しめることが、人生を切り拓く力になるのだろう。



2026.8.20

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


人生を動かすのは、勝率よりも諦めない回数なのかもしれない。


羊羹屋の4代目として生まれながら起業家の道を選び、三軍スタート、新規事業の失敗、仮説のない暗中模索を経て現場DXに辿り着いた人生は、決して効率的な道のりではなかった。しかし、「うまくいかないことが面白い」と、諸岡氏は屈託なく語る。


華々しい成功体験よりも、うまくいかない時間の方が圧倒的に長い人生を、それでも楽しみながら歩みつづけられるか。自分だけの打席は、誰かに与えられるものではなく、諦めない回数の先にある。諸岡氏の言葉は、成功や失敗という二項対立を超えた先に、自分だけの道筋があることを教えてくれる。


文・Focus On編集部



▼コラム|2026.8.21 公開予定

私のきっかけ ― 『メディア買収の野望』著:ジェフリー・アーチャー




株式会社カミナシ 諸岡裕人

代表取締役 執行役員 CEO

1984年生まれ。千葉県出身。2009年慶応義塾大学経済学部卒業後、リクルートスタッフィングで営業職を担当。2012年に家業であるワールドエンタプライズ株式会社に入社し、LCCの予約センターや機内食工場の立ち上げなどに携わる。そのなかで感じた現場のペインを解決するため、2016年12月に株式会社カミナシ(旧社名:ユリシーズ株式会社)を創業し、ノンデスクワーカーの業務を効率化する現場DXプラットフォーム「カミナシ」を開発。

https://corp.kaminashi.jp/


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