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「かくあるべき」は存在しない ― 変幻自在な事業創造会社・アシロは次なる挑戦へ

世の中が決める「正しさ」を手放せば、人はもっと自由に生きられる。


特定の領域にとらわれず、関わる人を誰よりも深く幸せにすることを第一に、社会へ貢献するサービスを創る株式会社アシロ。主力事業であるリーガルメディア「ベンナビ」シリーズで培ったデジタル技術やウェブマーケティング力を活かし、同社では派生メディアやHR、保険領域へと積極的に事業を拡大。2021年7月には東証マザーズ(現 グロース)上場を果たしたほか、テクノロジー企業の成長率を称える「デロイトトーマツ 日本テクノロジー Fast50」を3年連続で受賞している実績を持つ。


代表取締役の中山博登は、大学卒業後、株式会社ワークポートへ新卒1期生として入社。営業職として従事したのち、株式会社幕末(現 イシン株式会社)を経て、2009年11月に株式会社アシロを設立した。同氏が語る「レールを外れることの意義」とは。





1章 アシロ


1-1. 究極の自走型組織


離婚や相続、刑事事件に労働問題など、法律問題は多岐にわたるものがある。それぞれに特化したリーガルメディアを運営し、各分野を得意とする弁護士と効率的にマッチングできるサービスでアシロは堅実な成長を遂げてきた。


さらにそこから離婚なら浮気調査、労働問題なら転職支援など、見えてきたニーズに対し、既存のリソースを活かす形で派生メディアやHR、保険など事業を拡大。顧客やユーザーと向き合い形を変えつづける同社は、現在次なる10年を見据えている。テーマは「究極の自走型組織」を作ることにあると中山は語る。


「僕がアシロという会社を作って結構大きくなった時に、一番嬉しかった出来事があって。ある日デザイナーが急に来て、『社長、このロゴかっこよくないですか』って今のロゴを持ってきたんです。そしたら、その翌日にロゴを変えていたんですよ(笑)。でも、その瞬間が一番嬉しくて、それぐらい自走してほしいと思っているんです」


従業員が自分の頭で考え、改善が繰り返される。あるいはニーズを拾い、新しい事業が生まれていく。そんな状態を最大化するためのプラットフォームとして機能していくことをアシロは目指す。


「いまだに社員にも言っているのですが、アシロは『明確なビジョンがない会社』なんですよ。あまり在るべき未来のようなものを明確にしていない。会社が社会に迷惑をかけないことは前提として、ただ在ることで人や社会を少しだけ前進させていて、かつ中で働いている人が成長できる会社であればいいなと。そのために熱くいたり、早くやったり、倫理観を高く持ったりすることが大事だよねという決まりのようなものだけがある」


社内規定と評価制度など一定のルールは設けつつ、既存の事業領域やプロダクトにとらわれない、柔軟な価値創造を可能とする組織としての在り方を磨いていく。


たとえば、ある日突然オフィスの前でたこ焼き屋を始める人がいてもいい。それが社会や誰かの幸せに繋がるならば、スピード感を持って挑戦してみてほしいと中山は考える。


「人って『やってはいけないこと』にとらわれるもので、極限レベルまで社員が暴れられるかどうか、それを制御できるかどうかが経営なので、社員には『もっと暴れてこい』とよく言っています。今は副業なども流行っていますが、『副業なんかするくらいなら、うちの会社で2つ事業やった方が楽しくない?』という感覚ですね」


会社は変幻自在であり、どんな形にもなれる。それを形作る人が代表でなければならないということもない。カルチャーとしての自走と熱量、形にこだわらない事業創造と深化。全ては人と社会の幸福のため、アシロは道なき道をあえて行く。




2章 生き方


2-1. 苦も楽も俯瞰する


家ではわがままを言わずに落ち着いて物静か、反対に小学校では授業中もじっとしていられず、よく喋る。大勢の輪の中にいて人一倍明るく見られることも多い一方で、大人になってからは一人でゆっくり過ごす時間も嫌いではなくなった。二面性があり、どちらも本当の自分であるように感じてきたと中山は振り返る。


幼少期の家庭環境に目を転じると、両親もまた正反対なパーソナリティを持っていたという。


「母は愛情深くて、よく覚えていることとしては、電車やバスに乗っていて赤ちゃんとか小さい子がいると絶対にあやしはじめる。慈悲深くて、ちょっとおっちょこちょいなサザエさんを想像してもらえると分かると思います。父はザ・昭和ですね。もう愛とか一切感じさせない、『巨人の星』の星一徹みたいな人でした」


日が暮れてから玄関を開ける音がしただけで緊張が走るほど、父の帰宅に家族は気を張りつめる。けれど、父自身の関心はもっぱら仕事に向いているようだった。土地や不動産を扱う会社で働き、のちには独立もした父は、四六時中仕事に邁進する人だった。


「小学校から中学校にかけて、毎年夏に家族で軽井沢に行っていたんです。軽井沢に父の知り合いがいて、3泊ぐらいの旅行に連れて行ってくれるのですが、実家がある京都から行くと車で11時間かかるんですよ。なぜかいつも母と姉は後部座席で、僕は助手席で、父からは『良さそうな土地があったら教えろ』と言われるんです」


小学生に土地の良し悪しが分かるはずもないのだが、必死に窓の外へと目を凝らす。当時は怒られたくないという一心でしかなかったが、今思えば父なりに伝えたいことがあったのかもしれない。


「要するに、これぐらい我々は一時も忘れずに仕事をやっているんだぞということを伝えたかったのか、単純に本当に良い土地を見つけたかったのか分からないですけども、父なりに商売の哲学や、商売人としてのエッセンスみたいなものを暗に刷り込もうとしていたのかなという気がします」


幼少期


子どもらしい無邪気で楽しい思い出と言えば、やはり中心にあるのは学校だ。しかし、のちにたくさんの友だちができる小学校も、入学して1、2年のうちはあまり居心地が良い場所とは言えなかった。一緒に登校する上級生にいじられたり、担任の先生に目を付けられたりしていたからだ。


「昔の教育だと思うのですが、要するに学校の先生からすると『右にならえ』と言ったときに、左を向いてる子がいると嫌なんですよね。全員に同じことをさせたくて。僕は当時落ち着きがなかったし、すぐに右を向かない子だったので、おそらくすごく目の敵にされたんじゃないかな。だから、通学中も軽くいじめられるし学校では先生に目の敵にされるしで、結構居心地が悪いなぁと感じていました」


何かと自分に自信が持てない時期だった。転機となったのは、3年生になり担任の先生が変わったタイミングだ。「右にならえ」で右を向けなくてもいい、細かく規律を守らせるより子どもの個を尊重する。学年中の生徒たちから愛される慈悲深い先生の在り方に、包み込んでもらえるような感覚だった。


「学年中から『うちのクラスの担任になってほしい』と言われるぐらい、優しさの塊みたいな先生と出会ったことによって、僕の人生は少し軽やかになったんじゃないかな。あのまま鬱屈とした、つらい状態だけを感じていたとしたら、もう少し歪んで、嫌な苦みのある大人になっていたんじゃないかと思います」


先生と出会って以来、毎日抱えていたもやもやが晴れていく。徐々に自分に自信が持てるようになったうえ、当時は体も大きくなりつつあったので、いじめ集団にも反撃できた。友だちに誘われ始めたサッカーではレギュラーとして活躍し、まさに学校生活はバラ色になっていった。


「いまだに思い出す景色なのですが、小学校5年生の時にサッカーチームの友だちのお父さんが夏の海に連れて行ってくれたんです。目の前に海がある古い畳の家で、みんなで飯を作って食いながら、当時ちょうど開幕したJリーグを集まって観て寝たという、心の底から幸せだと思える時間があって。あの時を超えるものはないくらいの心地よさ、最高潮のグルーヴ感、ストレスゼロの時間だったなという記憶が残っています」


監督の指示を受けつつ試合が展開する野球と違い、サッカーではピッチに立つ11人が各々で考え、行動する必要がある。それを5年ほど続けてきたチームメイトとは、言葉にしなくても自然と通じ合う関係性ができていた。


「誰が何に悩んでいるか、何が嬉しそうかみたいなことが全部手に取るように分かる。だから楽だしストレスがないし、自分が楽しむことに集中できたんでしょうね。普段の僕は誰が盛り上がっていなさそうかなどが無意識に気になって、その人たちを盛り上げたくて、結果僕自身が楽しむことを忘れてしまうような節があるのですが、そういうことが一切なかったんじゃないかという気がします」


常に自分と周囲を俯瞰して、そこにいる人の感情の機微などを自然と感じ取っている。もしかしたら、幼少期のつらかった時期を受け止めきれなくて、あえて一歩離れて見る癖がついたのかもしれない。気づいた時には、いつもどこか今を俯瞰する自分がいた。


サッカーを始めたばかりの頃、チームの仲間たちと



2-2. うまく生きることへの執着


丈を短くした学ランのジャケットに、太いズボンを合わせた学生服に身を包み、昼頃学校にやって来ては中庭で先生と取っ組み合いをする。一部ではあるものの、そんな不良学生たちが幅を利かせる中学校は荒れていて、耐えきれなかった担任の先生が1年で4回も変わるほどだった。


「僕たち82年生まれって、昭和と平成の境目みたいな世代なんですよね。昭和の時代は、そういう悪くて派手なやつらが番長を決めて、学校を統治していたんです。だけど、僕たちは体育会系が突然変異した世代で、体も大きいしすごく明るいスポーツマンたちがヤンキーを制圧しはじめるんです。そしたらヤンキーの居場所がなくなって、学校に来なくなったのが、中学2年生ぐらいのことでした」


不良に牛耳られていた学校が一気に落ち着きはじめ、平和で楽しい毎日を送れるようになる。


いわゆるヒエラルキーのトップに君臨するのは、自分を含むサッカー部や野球部、バスケ部のメンバーだ。だからと言って、いつも固定の顔ぶれだけでつるむわけじゃない。クラスでは目立たない、いわゆる物静かなタイプの友だちの家にも遊びに行くし、廊下ですれ違えば気さくに声を掛け合う。誰に対しても壁を作らないので周りには驚かれるが、それこそ自然な状態であるように感じていた。


「少しそこも冷めていて、明るくてヒエラルキーのトップオブトップだからと壁を作ることに対して、『そんなものって実は存在していないのに』とか、『自分もそこに乗っかっているのはちょっと恥ずかしい』みたいな感覚があったのかもしれないですね」


発熱していても行きたい気持ちが勝るほど、365日が楽しく過ぎる。クラスもサッカー部も最高の仲間に囲まれて、振り返れば中学校生活は非の打ち所がないものだった。だからこそ、高校では一層サッカーに力を入れたいという気持ちが沸き上がっていた。


「当時の僕はまだ中3の熱を残したまま、スポーツ科がありサッカー部も強いという隣町の高校に行くことを決めるんです。サッカーをやって、うまくなって、かつ楽しい仲間も作って、百点満点だった中学校生活のアップデート版になると信じて高校に行きましたね」


誤算は2つあった。幼稚園から一緒だった仲間たちと初めて別れた結果、新しい環境では気の合う友だちが全くできなかったこと。さらに、強いと聞いていたサッカー部に入部してみると、偶然にも未経験者が多い代だったことだ。それまでチームに恵まれていたからこそ落差を感じてしまい、次第に熱は冷めていった。


「サッカーは高校2年生の夏で引退して、代わりにスケボーとか少しアンダーグラウンドな世界に入っていきました。サッカーという情熱を失って、発散するところがない屈折した若者なりの居場所が、そういうアンダーグラウンドな遊びだったり、少しやんちゃな遊びだったのかなと思います」


高校時代、サッカー部にて


真面目に学校へ通い、部活に励んでいた生活から一転し、スケボーができそうな場所へと仲間と繰り出しては夜中まで帰ってこない。当時はヒップホップが流行した時代でもあったので、みんなで夜中に爆音で音楽をかけ踊ったりすることにもはまっていた。


真面目だった息子の道をなんとか正そうと、当時の母は母なりに一生懸命向き合おうとしてくれていた。しかし、その気持ちは分かったうえで好きなように振舞う。単純に楽しいからという理由もあっただろうが、何より高校生という「今」をどう過ごすかが、人生にあまり影響を与えないように感じていたからだった。


「今の世の中ではなかなか許容され難いことをやった原点で、レールから外れた原点でもあると思います」


それまでとは真逆の生活を経験したことで、新たに見えてきたものもある。


「思いっきりレールから外れる経験をしたことで、レールから外れることは誤差だなと思いました。世の中で言われる正しさというものは、そこまで正しいものではなさそうだと。それから『浮世』であることをなんとなく認知したのかなと思います」


戦国時代を生きた武将たちが、なぜ死を覚悟して次々戦場へ赴けたのか。それは、いつ命を落としてもおかしくない時を生きるなか、来世に転生すれば幸せが待っていると信じていたからだ。明日にも死が訪れるかもしれない無常ではかないこの世は「浮世」なのだから、あまり執着しすぎるものじゃない。そんな死生観が身近になる出来事も重なった。


「当時、バイクから1人振るい落ちて、死ななかったことがあるんです。その時になんとなく『まだお前は死なない方がいいよ』と言われているような気がして、同時にそんなに自分の命や生きるということを握り込みすぎてはだめなんだと、いつでも捨てる覚悟みたいなものを持っておくぐらいの方が良さそうだと認知したんじゃないかと思います」


世の中で「成功」とされるもの、つまり「うまく生きる」とか「幸せに生きる」とか「長く生きる」ことに執着し過ぎると、リスクを取りづらくなる。レールから外れることを極端に恐れ、一般的に「こうあるべき」とされる方を選ぼうとする。


しかし、実際そんなものは誤差でしかない。リスクを過大に評価して、目の前にあるものをあるがままに受け止められなくなってしまうのはもったいない。


本当はあの時死んでいたかもしれない。この命は当時の幸運の延長線上にあるものだ。それならいっそフットワークは軽くして、思うがまま生きた方が良さそうだ。自分と社会を俯瞰して出た答えは、その後の生き方を決定づけていった。




2-3. 若者よ、強烈に遊べ!


高校卒業後は浪人生として大阪に引っ越して、予備校の寮で生活しはじめた。


当時、寮生活で一番に仲良くなった友だちがいる。なんでも彼は福岡出身で、孫正義や堀江貴文を輩出したことでも知られる有名な進学校、久留米大学附設高校を卒業したのだという。


「京都のド田舎から出てきた僕は、関西のことしか知らないんですね。東京大学すら実際に存在すると知らなかった、あれ漫画で見るやつだろみたいな状態だったのに、いろいろ話していると彼は東大の文一を受けると言うんですよ。しかも彼の高校では何割かが東大に行って、そのあとはだいたい官僚になったり国全体を動かすんだという話を聞いて、すごく衝撃を受けて」


友だちの友だちなら、ほぼ自分も友だちということになる。友だちが国を動かすのなら、自分も動かせるに違いない。当時は根拠のない自信とともに、そう解釈をした。


国を動かす一部になるなら、このまま関西に留まっている場合じゃない。大学も関西しか受けるつもりはなかったが、迷わず全て取りやめて上京を決意する。


「当時2004年はITバブルがはじけてもう一度戻りつつある頃で、mixiとかSNSが流行ったり、ここから新しい経済が始まるというものすごいマグマが沸々としていた時代でした。そのチャンスに群がった、死んでもいいという覚悟を持った田舎者たちが東京に大集結していて、僕もその中の1人だったと思います」


当時はもちろんITの存在は知らないのだが、東京に出れば何かが変わると信じた若者の1人だったことには変わりない。大学にこだわりはなく、とりあえず都心の真ん中にあるからと、日本大学法学部へと進学することにした。


「大学時代は『強烈に遊べ』と自分に命令を出しました。要するに、もうここから卒業後は38年間ぐらい仕事しかできないと確定しているから、残りは4年しかない。あと、僕は22歳から26歳まで死ぬか死ぬ寸前まで自分を追い込んで仕事をすると決めていたので、その準備のためにもう飽きたと思えるくらいまで遊べという指令を自分に出したんです」


成人式の日、友人と


本能に従い、あるがまま自由にやりたいことをやる。将来の準備になりそうな営業系の成功報酬型のアルバイトだけはこなしつつ、時間を切り売りするのはもったいないからと、普通のアルバイトはしなかった。必然的に支出の方が多くなるが、借金も厭わない(在学中に完済した)。


それほど遊ぶことに全力だったのは、やはり卒業後を見据えていたからだ。


「結局ここで父の刷り込みが戻ってくるのですが、一丁前のビジネスマンでなければ価値がないぐらいの育て方をされていたので、自分にどういう才能があるかもよく分からない僕は、人の数十倍数百倍の努力をしないと勝てないんだろうなと思っていたんです。それだけは絶対にやろうと決めていました」


4年間遊び尽くしたところで、到底もう十分という心境に至ることはない。けれど、おかげで何より時間の尊さが身に染みた。


「今の若者に伝えられることがあるとすれば、やっぱり『借金してでも遊べ』ということです。今40歳の僕の1時間よりも彼らの1時間の方がよっぽど貴重だし、同じ300万が手元にあったとしても、おそらく価値が比べ物にならないと思うんですよね」


車や家を買ったり、保険に入ったり、いずれ多くの人がローンという形で数千万の借金を背負うことになる。大人にはお金があるが、時間がない。若者にお金はないが、時間がある。加えて時間を使いこなすだけの体力と、経験を味わい尽くす無知もある。


「20歳で300万ぐらいあったら旅行に行ったり、いろいろできますよね。ただ、できれば学生ローンからは借りない方がよくて、できればもう気合いで説明して、身内の人から金利を抑えた形で借りた方がいいかなと思いますが、それでも大学時代に時間を買いに行って、感動の連続を味わい尽くすことがすごく良い経験になるんじゃないかなと僕は思います」


大学という枠にとらわれずさまざまな場所へと足を運び、年齢や立場を問わず出会う人々と仲良くなる。就職活動も、当時はまず入り浸っていたバーで仲良くなった社会人に相談した。


いわく「君はリクルートに向いていると思うよ」とのことだったので、意気揚々と就職説明会に赴くも、集まる就活生の多さに愕然としてしまう。直感だったが、ここでは自分が埋もれると思った。


ちょうどその頃、偶然目を通したビジネス誌に人材輩出企業としてのリクルートに焦点を当てる特集があったので、今度は同社の卒業生である起業家たちに順に会いに行くことにした。


「それで当時インテリジェンス(現 パーソルキャリア)の説明会に行くのですが、ここもものすごい人だったので、ちょっと違うなと思って。調べていると、さらに孫の会社があるということで、今度はインテリジェンス出身の社長たちに会いに行ったんです。その中に、僕が初めて就職したワークポートという会社との出会いがあって」


当時ワークポートの従業員数は20名強、新卒1期生の採用を受け付けているということだった。理屈じゃないが「これだ!」と確信し、その日のうちに入社したいという意思が固まった。ベンチャーらしく前のめりな姿勢を面白いと評価してもらえたことが幸いし、当日中に内定をもらい、迷わず承諾した。


働く場所が定まったからには、あとは思うがままに働き尽くすだけ。浮世だからこそ、直感に従い突き進むと決めていた。




2-4. 起業


やりたいと思ったことには必ず手を挙げて、自ら仕事を取りに行く。身体の限界まで働いて、何度も失敗しながら鍛えられていく社会人生活が始まった。


「もう分かりやすくワーカホリックでした。今何時何曜日で何をしてるのかよく分からなくなるぐらいの働き方をして。インターン期間含め2年ほど働いたあと、ワークポートからイシン(旧 幕末)という会社に転職するのですが、そこでも無限に働いていましたね」


営業を任されつつも、自社で新卒採用を始めるとなれば手を挙げて、週末になれば採用イベントに足を運ぶ。自ら面接をしつつ、合間合間で営業先へ訪問し、採用した新卒には仕事を教える。会社にほぼ泊まり込みの生活である上に、客先の社長に呼ばれれば夜中でも飛んで行った。


今ならあり得ないような長時間労働がまだ許されていた時代だったとも言える。当時の自分を突き動かしていたものは、紛れもなく恐怖心だった。


「たとえばサラリーマン時代、いつも夜19時半ぐらいに営業先からオフィスに戻るんですよね。その時間帯は帰宅ラッシュなのですが、すれ違う人たちはこの時間に帰って何をするんだろうと思っていたんですよ。それでもたまに23時ぐらいに早く帰れることがあったりすると、街に明かりがついてるじゃないですか。まだ働いているライバルがいると思うと、ものすごく焦るんです。量だけは絶対負けないと決意しているのに、量で負けたら僕の存在意義はないんじゃないかと、今思えばよく分からないプレッシャーをかけ続けていましたね」


焦燥感に駆られ、がむしゃらに働く毎日。心の底にある父の存在が、なおさら背中を押すようでもあった。


「その頃には父へのコンプレックスというか、父はビジネスマンとして成功しない人間を認めないみたいな感覚が強い人だったので、あの怖かった親父に認めさせないといけないと。僕のためではなく、あのさみしい人のために『お前は立派になったな』と言わせなきゃいけないという勝手な使命感に駆られていて、一生懸命走り回っていました」



たまに帰省するたび、父は「給料明細を持って帰って来い」と言ってくる。はじめの頃は「なんや、こんなもんか」と発破をかけられるばかりでしかなかったが、社会人生活も3年目になると、ようやく父の反応が変わった。


「25歳の夏に帰って父が給与明細を見た時に、『お前顔つきも変わって、ええ感じになってきたな』と認められたんですよ。給料もぼちぼち貰いはじめたなと。『でも、あんまり人に雇われ過ぎると動けなくなるぞ』とも言われたんです。その時に、これはサラリーマンを辞めなさいという指令が入ったと感じたんです」


お盆休みが明け、東京に戻る。オフィスに出社したその足で、社長には退職して独立すると報告した。何をやるかは決めていなかった。けれど、父に言われたからにはそうしなければならない。3か月後、2009年11月に株式会社アシロを創業する。


「10月末には会社を辞めることになるのですが、当時は貯金が10万円しかなかったので、資本金が10万円だったんですよ。で、起業してまず最初に払わなくてはいけないのが、司法書士への登記費用で約23万円だったのですが13万円足りていない。これをまずなんとかしなければということでいろいろな人に相談すると、どうも今はiPhoneというものが売れはじめていると聞いて」


どうやら一台iPhoneを販売するごとに、4万円ほど入ってくるという。今の自分が活かせるものは営業力しかないだろうと、藁にも縋る思いで携帯電話を販売することにする。ある程度まとまったお金が用意できてから、改めて事業作りと向き合っていくことにした。


成果報酬型の営業、コスト削減のコンサルティング、のちには相続問題に特化したポータルサイトの販売代理店となったのち、2012年に初の自社サービスとして「ベンナビ離婚(旧 離婚弁護士ナビ)」を立ち上げたところから、現在へと続く基盤が築かれた。


「よく社内では『アシロのためにやるな、自分のためにやれ』と言っています。アシロのことを考えなくていいと、結果としてそれがアシロのためになるからと」


アシロにビジョンはないが、代わりに人それぞれの人生を自由に思うがまま生きてほしいという願いがある。そこでは世の中の常識や、いわゆる「成功」の物差しなどに縛られる必要はない。きっとそこに迸るエネルギーこそが、社会を前進させる強烈な原動力となると信じているからだ。


より深く、より広く、アシロは社会の幸福のために事業の価値を巡らせていく。




3章 成功を追い求める人へ


3-1. 「かくあるべき」というものは存在しない


限られた時間をどう生き、どう働くか。中山自身は、生き方の軸に据えるような価値観はないという。


「先日、時価総額で数千億ある上場企業の創業社長さんで、その方自身も個人で数千億円を持っていらっしゃる方にお会いする機会があって、『成功ってどうやったらできますか』と聞いてみたんです。そしたら『僕はまだ何も成功できていないので、中山さんが成功しているなら教えてください』と言われたんです」


お金を大量に稼ぐことが正しい、あるいはお金がないと幸せになれないなど、資本主義社会には多くの人が信じる価値観がある。


たとえば、目の前に物体が存在するとして「それは白だ」と認識する。本当は黒色かもしれないのだが、白だとする常識に従って、黒だと感じることはできなくなっている。疑問を抱くこともなく、まるで「右にならへ」で右を向いていたあの頃のように、知らず知らずのうちに私たちは植え付けられた価値観に従っていることがある。


「要するに、『これが正しい』というものを一生懸命みんな作りつづけていると思うんです。その方が統治しやすかったり、過ごしやすかったり、なんとなくそうやって決めつけて生きた方が楽なので」


成功を追い求めていたつもりが、いつしか人が決めた幻想を追いかけていないか。幻想に依存し、抑圧された状態で生きていくことが果たして正しいのか。一度自分に問いかけてみてもいいのではないかと中山は考える。


「僕はこれまでの人生で反面教師もたくさん見てきたなかで、今は『これが正しい』とか『これが良くない』とか、絶対的なものは存在しないと考えるようになっています。仏教的アプローチで言うところの、全ては空(くう)であるということですね」


あらゆる事物は相対的なものであり、絶対不変であることはない。昨日までは白だったものが、今日からは世の中で黒と呼ばれることもあるように、周りの状況や環境、時間など、さまざまな要因により事物や出来事のラベリングは移ろうものである。つまり、「かくあるべき」と言えるものは存在しないという考え方だ。


だからこそ、今は存在しているように見えたとしても、そんなもの実は存在しないということが起こり得る。


「人って周りの意見や、8割の人が進む方向に歩いた方が楽ですよね。ストレスもないし、なんの不自由もないし、悩まなくていいし。みんなが歩いていないところを歩くって、不安じゃないですか。でも、実はそもそもそんな不安すら存在しないんですよ。本当は怖いも何もないということで、そこに気づけるかどうかが結構重要だなと僕は思っています」


本当はただ佇んで生きているだけで幸せなのかもしれない。その上で、ぼんやりとでも前向きに、人や社会の幸せのために歩んでいく。道筋を決めるのは自分次第、どうせなら余計な執着は手放して、あるがままに自由な人生を生きた方がいい。



2024.3.18

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


世の中で「かくあるべき」と多くの人が信じるがゆえに、多くの人を悩ませる問題は無数にある。若者は○○をした方がいい、時間やお金はこう使うべき、結婚は、出産は、仕事とは……。価値観が多様化した時代とは言われるものの、まだまだ無意識に浸透した「最適解」の存在は根強いものがあるのではないだろうか。


レールから外れることは誤差でしかない。誤差でしかないことに悩んだり不安になる必要はなく、自分が価値を感じる生き方を大切に、あるがままにやってみるべきだと中山氏は考える。


「究極の自走型組織」を目指すアシロでも、そんな挑戦が歓迎される。自らあるべき未来を描き、やり遂げようとする意思。そのエネルギーが最大化されるほど、社会は強力に前進していくことになるだろう。


あるべき姿は自分で定義する。気負わず、まずは軽やかに動き出してみる。そこから始まる流れに身を任せてみる人生を、本当は誰もが歩むことができる。


文・Focus On編集部





株式会社アシロ 中山博登

代表取締役社長

1983年生まれ。京都府出身。大学卒業後、株式会社ワークポートへ新卒1期生として入社。営業職として従事したのち、株式会社幕末(現 イシン株式会社)を経て、2009年11月に株式会社アシロを設立した。リーガルメディア関連事業、HR事業、保険事業などを展開し、2021年7月に東証マザーズ(現 グロース)上場を果たす。

https://asiro.co.jp/

  

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