Focus On
尾口紘一
株式会社Fan  
代表取締役
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or誰もが等しく社会をより良く変えられる。
ソーシャルビジネスで世界を変えるべく、13か国で50事業以上を展開する株式会社ボーダレス・ジャパン。社会起業家を輩出しつづける同社にて、ソーシャルグッドなクラウドファンディングサービス「For Good」は2022年に誕生した。ただお金を支援するだけでは終わらない、自身のスキルを活かしたプロジェクトの応援など新しい仕組みを創出していく同サービスは、社会をより良くする一歩目をもっと踏み出しやすいものにする。
代表取締役の小松航大は、慶應義塾大学総合政策学部在学中、中東・アフリカ・南米を中心に世界26か国を旅した。学生起業、WASSHAでのインターンを経て、卒業後はボーダレス・ジャパンへ入社。「For Good」の立ち上げに携わり、2023年より事業代表に就任した。同氏が語る「踏み出す力」とは。
目次
知ることと行動することの間には、大きな距離がある。遠く離れた見知らぬ街で起きた出来事も、いまやSNSやメディアを通じて即座に知ることができる時代だ。しかし、社会のために何かすることは、どこか限られた一部の人のもののようにもなっている。
「社会課題解決の民主化」をミッションに掲げる「For Good」は、単なるクラウドファンディングという枠にとどまらない。誰もが社会課題解決に動き出せる社会にするために、新たな仕組みを生み出す挑戦だと小松は語る。
「社会問題、社会課題と言われるものを誰もが主体的に関わり、解決したり支えられたりする世界線を作りたいと思っています。何かしたいと思ってもなかなか行動に移せない。それって『行動したくない』からというより、『関わり方が分からない』『やり方が分からない』からなんじゃないかと思っていて。だからこそ、それを変える社会の仕組みを、資本主義の根幹である『お金』と『人』という観点から作りにいきたいと思っています」
ソーシャルグッドに特化したクラウドファンディング「For Good」は、2022年5月のリリース以来、業界最速で支援金額1億円を突破した。現在では約15万人が支援に参加、1,500以上のプロジェクトが立ち上がり、累計支援額は15億円を超えている*(*2025年1月時点)。
成長を支えた要因は、プロジェクト実行者への手厚いサポートにある。素晴らしい企画があっても、クラウドファンディングの仕組みに不慣れなせいで頓挫してしまうケースは少なくない。どんな人でもハードルを感じず始められる。「For Good」は、そのための設計やサポート体制を充実させている。
「『誰でも立ち上げやすい』というコンセプトが根幹にあるので、そこから必要なことをサービス化しているという部分を評価いただくことが多いですね。たとえば、手数料0円からプロジェクト立ち上げを始めることができたり、かなりしっかりと伴走する体制になっていたり。実は、業界の平均達成率は3~4割しかないと言われているのですが、『For Good』では8割以上*が目標金額を達成しています(*「いっしょプラン」を利用した場合)」
企画が固まったあとのフェーズから伴走するプラットフォームも多いなか、「For Good」ではプロジェクトの立ち上げ前から実行中、終了後まで一気通貫でフォローする。実現可能性を踏まえた企画立案から、成功しやすいタイトルづけ、過去の成功パターンを分析したマニュアル提供など支援内容は多岐にわたる。
また、伴走を担うのは「キュレーター」と呼ばれる専任メンバーだ。プロジェクトのジャンルや規模に応じて、適切な担当者がアサインされ、個々の強みを活かしたサポートが受けられる。
「プロジェクト申込みの段階で、最適なキュレーターをマッチングする。これは従来のプラットフォームにはないアプローチで、今後はキュレーターがカバーする領域も拡充していきたいと思っています。日頃からその問題に関心を持ち、行動している人が伴走することで、より深いサポートが可能になる。僕たちは、そうした点を大切に考えています」
過去に「For Good」を活用し、店を構えた人たちを趣味でリスト化
プロジェクト終了後もつながり、日本全国どこを旅しても仲間がいるという
プロジェクトを成功へと導く同社の伴走支援は、お金集めのノウハウだけで終わらない。ソーシャルビジネスの視点を踏まえた手厚いサポートもまた、「For Good」が支持される理由の一つだ。起業準備の一環や、ソーシャルビジネスを始める第一歩として「For Good」を利用する人も多いという。
「クラウドファンディングは、事業づくりや起業と似ていると思っていて。たとえば、リターン設計は商売を始めるとなったときのプライシングに似ているし、キャッチコピーやサムネイル画像の作成は、目を留めてもらうために創意工夫して広めていくことに通じる。3~6か月で1回の起業プロセスが学べるということも大きなメリットで、現在は学生さん向けのアントレプレナー教育や探究学習の一環として教育機関の方にも使っていただいています」
教育や起業の入り口としての役割に加え、今後クラウドファンディングは、社会問題に対してより多様な関わりを生み出す基盤へと進化していくと小松は考える。たとえば、同社ではお金以外の手段でプロジェクトを支援できる「グッド隊」という取り組みが始まっている。
「『グッド隊』ではSNSでプロジェクトの拡散を応援したり、企画力を活かしてプロジェクトの立案を支援したりすることができます。これまでのクラウドファンディングでは、プロジェクトを立ち上げるか、お金で支援するか、大きく2つしか関わり方がなかったんですよね。でも、もっと自分のスキルを使って応援するとか、第3の関わり方があっていいんじゃないかと思っているんです」
現在「グッド隊」には、SNSで日常的にソーシャルグッドな情報を発信しているマイクロインフルエンサーや事業者など、500名ほどのメンバーが在籍している。本業ではなかなかソーシャルビジネスに関わる機会がないという人も、すき間時間に自分のスキルを活かし、社会課題解決に関われる。
「このプラットフォームの価値は、『目の前の課題が解決されました』で終わらないと思っています。たとえば、ある地域で耕作放棄地の問題についてのプロジェクトが立ち上がったら、それを見た別の地域から『うちでもやれないか』と問い合わせが来る。社会を良くする連鎖が、そこから広がっていくんです。課題を見つけてSNSに投稿して終わりではなく、誰かが一歩踏み込んで関わることで、まだ表に出ていなかった課題が浮かび上がってくる。そういった循環を生み出すことにトライしていきたいと思っています」
ほかにもメディア事業や海外展開など、同社はさらなる事業基盤を構築しつつある。より多くの人が「自分にもできるかもしれない」と自然に思える社会となるように、「For Good」は0→1を支える仕組みでありつづける。
2024年12月にはオフィシャルメディア「For Good Magazine」がリリース
プロジェクトの背景や思い、実行者のその後のストーリーなどに迫る
家の目の前にある田んぼでは稲刈りが行われていて、車に乗ればすぐに美しくおだやかな瀬戸内海が見えてくる。夜にはウシガエルの声を聴きながら眠りにつき、朝が来れば山へと遊びに行く。香川県の田舎で生まれ育ったと語る小松だが、何より日常風景として心に残っているのは、二人三脚で車屋を営んでいた両親の姿だという。
「最初は車検から始まったらしいのですが、中古車販売から修理、新車販売まで何でもやっていて。僕はお客さんがいる横で宿題をしたり、隣で両親が車を修理しているのが当たり前という環境で育ちました。今になって振り返ると、経営や自分で商売をするということがすごく身近だったなと思いますね」
いつもは仕事場で過ごしていたが、両親が忙しいときには図書館に連れて行かれたので、幼少期から本をよく読むようになった。SFやミステリーなどの小説を中心に、気に入った作者やシリーズを見つけると母親にねだって買ってもらう。ほかにも科学系の雑誌を定期購読し、好きなだけ眺めたりしているのが好きだった。
「本は自分の知らない世界を見せてくれるというか、世界が広がることがすごく面白かったですね。あとは、登場人物一人ひとりがどう考えているかとか、その人目線で世界を見るような体験も面白くて。結構小さい頃からやりたいと思ったことをどんどんやってしまう性格だったのですが、それも全て好奇心がバックボーンにあるというか、知らないことを知りたいという小学生でした」
当時、広くて知らない世界を教えてくれたのは本だけではなかった。父親が若い頃に海外へワーキングホリデーに行っていたからか、家では毎年1~2回、留学生のホームステイを受け入れていた。
中国人の留学生からは中国式の折り紙のやり方を、サウジアラビアの留学生からは母国のご飯の食べ方を教えてもらった。アフリカから来た留学生は、日本のドレッシングにとても驚いていた。
留学生が来ると自分の部屋を使ってもらうので、部屋の雰囲気や匂いは少しずつ変わっていく。何かしら物がなくなっていて、同じ場所に別の何かが残されていたりする(おそらく交換という意味だろう)。とにかく毎回新鮮な驚きと面白さの連続だった。
「誰とでも偏見を持たずに接することができるようになったのは、もしかしたらその経験が大きかったのかなと思っていて。その後の人生でいろいろな国の人、いろいろな考えの人と話すとき、本当に一人の人間同士として話すことができたのは、おそらく当時両親が背中を見せてくれたことと、ホームステイを受け入れる経験をさせてもらえたことが今にすごく活きているのではないかと思います」
ほかにも人との接し方は母親から学んだ部分が大きい。どうやら人に貢献したり、自分以外の人々に良い影響を与えることを母親はポリシーとして大事にしているようだった。
「小学校低学年の頃に母親が『誰にでも平等に仲良くしよう』ということを言っていたのは記憶に残っていて。その時からみんなと公平に平等に仲良くするというマインドはすごく大事だなと思って過ごしていましたね」
仲間に入りづらそうにしている子がいれば、進んで話しかけて輪に引き入れる。周りの態度がどうであれ、相手と分け隔てなく接することは当たり前の感覚だった。
「一番印象的だったのは、よく人のことを噛んでしまう男の子がいたんですよね。普段はその子も含めて一緒に遊んだりしていたのですが、みんなからは嫌われていて。あるとき修学旅行の前々日くらいにその子がまた人を噛んでしまって、前日に先生からその子が修学旅行に行けなくなったとシェアされたんです。聞いたらお母さんが行かせないことにしたと。『それはちゃうやろ』となって、一緒に下校していた5~6人の友だちを集めて直談判しに行ったんです」
その子の家まで行ってピンポンを鳴らす。出てきてくれたお母さんに頭を下げて、みんなで「一緒に行かせてあげてください」とお願いした。
「そしたら目の前でお母さんが大号泣していて、結局その子は修学旅行に行けることになって。当日の朝みんなが集まった時も先生は『よくやったな、小松君』みたいな感じで褒めてくれたので、それはすごく嬉しかった思い出がありますね」
義務感というよりは、一人の友だちとしてただ一緒に修学旅行へ行くために。そんな風に誰かのために行動した結果、周りに感謝された経験はその後も何度もあった。誰にも公平に平等に、そうあることで人と通じ合い、知らない世界も広がっていく。母の言う通り、きっとそうするのが良いはずだと自然に思えていた。
幼少期
2-2. 出会うほどに知る無力感
比較的長く続けたスポーツと言えば、小学校から始めたサッカーだった。チームプレーという部分も性に合っていたのかもしれない。中学はまさにサッカー漬けの3年間を過ごした。
進学校だが偶然にも強いメンバーが集まった代だったため、地元香川では優勝。続く四国大会でも2位となり、全国という夢のような舞台への出場権まで得ることができた。結局試合前日はチーム全員が舞い上がり眠りにつけず、寝不足のなか初戦敗退という結果に終わったが、間違いなくそれは自身の視野を広げてくれる経験になっていた。
「そこまではサッカー選手もぎりぎり行けるかもくらいに思っていたのですが、これは無理だと思いました。全国のレベルは違い過ぎると。これからの人生で何をやるかは分からないけれどサッカーの道ではなさそうだと気づいたのが、ちょうど中学3年か高校1年ぐらいのタイミングだったかと思います」
部活の顧問にはサッカーありきの高校進学を勧められたが、自分の中にそこまでの情熱はないと、周囲と同じようにできるだけ偏差値の高い学校を選ぶことにした。高校では、サッカー以外にも夢中になるものができた。
「週末にたまたま友だちと2人で隣の徳島県まで自転車で行ってみようという話で盛り上がったんです。日曜日の朝6時ぐらいに集合して夜18時ぐらいまで、山を3つぐらい越えて行ったんですよ。そこから何を考えたのか2時間ぐらいカラオケをして、そしたら20時とかじゃないですか。店を出たら日が落ちていて、そこで初めて明日は学校だと気がついて(笑)。本当にノリでヒッチハイクでもしてみようと親指を上げたら、最初の車が止まってくれたんです」
果たしてそれでヒッチハイクができるかどうかは自信がなかったが、とりあえず道路端に立ち、2人で親指を立ててみた。すると、親切な農家のおじいさんが車を止めてくれ、そのまま香川まで送ってもらえることになった。
冒険のようだったその日の体験が忘れられず、次もまたヒッチハイクをしようと友だちと盛り上がる。翌週には早速ヒッチハイクで高知県へ、その後は名古屋や大阪と少しずつ距離を伸ばしつつ、未知との遭遇を楽しんだ。
「やっぱり拾ってくれる人たちって、尖っていて面白い人がすごく多いんですよ。いわゆる普通の家族もいれば議員さんがいたりとか、何社も会社を経営したあとにバイアウトして世界中を旅して今に至るスポーツカーの人とか、あとは刺青が入りまくっているヤクザとか、そういう普段なら関わることがないような人たちが面白がって拾ってくれて。香川の小さなエリアではなかなか見えなかった新しい景色を見せてもらえて、毎回自分の価値観を壊されるという体験がすごく面白いなと思ったんです」
高校時代、ヒッチハイクで辿り着いた大阪にて
世間一般で思われているイメージと、実際に会って話してみる人の印象というものはやはり全く違うことがある。大学ではもっと面白い人たちに出会ってみたい。そのためには東京に行くべきだろうと、塾の先生にも勧められた慶應義塾大学のSFCへと入学した。
「SFCは本当に型にハマらない人たちが多くて、まさにやりたかったことができたと思いつつ、逆に面白い人たちが多すぎて。大学1年の時にはアイデンティティが迷子になりましたね」
何かの分野で日本一になる。それがあたかも自然なことかのように思えるほど、多芸多才なな同級生たちが大学には揃っていた。津軽三味線、競技かるた、あるいはスポーツで全国優勝を経験した人や帰国子女。対して一般入試で入った自分は、サッカーが少しうまいくらいで、ほかにこれと言った特技も取柄もない。当時は自分が何をしていくべきかが分からなくなっていた。
「最初は少し目を逸らしました。1年生の時はいわゆる大学生らしいサークルに入って遊んだり、そこは地方出身者も多くて居心地が良かったんです。でも、ふとした時にものすごく虚無になって『何やってるんだよ、俺は』と。こんなことをするために東京に出てきたんじゃないなと思って、ずっとモヤモヤしていて。そこから、長期休みにはバイトで貯めたお金でちょくちょく海外に行くようになりました」
もともと海外に関心を持ち始めたきっかけは、中学時代の国語の教科書に載っていた「ハゲワシと少女」という一枚の写真だった。1993年、南アフリカ共和国の報道写真家によって撮影されたその写真には、今にも餓死しそうな状態でうずくまる一人の少女と、その少女を狙う一羽のハゲワシの姿がレンズ越しに捉えられていた。
写真は世界中に衝撃を与えるとともに、「なぜ助ける前にシャッターを押したのか」という激しい物議を醸すことになる。カメラマンは栄誉あるピューリツァー賞を受賞したが、4か月後に自殺した。そんなエピソードが題材として載っていて、心揺さぶられたことを覚えていた。
「それを見た時から、まず自分と同じような子どもでこれだけお腹を空かせている子がいるんだと、ぼんやりと貧困問題というものが心の片隅にずっとあって。自分に何ができるかは全く分かっていなかったのですが、将来国際的な何かをしたい、大学に入ったら何かしらの形で海外に行きたいという思いがあったんです」
最初はカンボジア、ベトナム、タイ、ラオスなど東南アジアの国々を順に回ってから、インドや中国各地を旅していく。たいしたお金もなかったので、バックパッカーとして路上のストリートチルドレンと交流したりしていた。
「路上でミサンガを売っている子たちに『そもそもなんでやっているの?』と話を聞くと、『お姉ちゃんを学校に行かせるために』とか『母親が病気だから』と言われて衝撃を受けるし、ミサンガを売るよりもどこかに助けを求めることができるんじゃないかと一緒に話したりするのですが、自分にできることはあまりなくて。結局数時間や数日一緒にミサンガを売るしかできない、自分は言うだけ言って何もできていないやつだなと。ワクワクしながら行って、モヤモヤしながら帰るということを何度か繰り返していました」
生まれた国や環境が違うだけで同じ若者である。等しく平和に健やかに生きられるよう、何かしなければと焦燥に駆られるが、そのたび今の自分にできることはないのだと現実を突きつけられる。異国を歩き、知らない人や世界を目の当たりにする感動を上回るほど、大きな無力感がそこにはあった。
自分の人生を何に使うべきなのか、職業として何を選ぶべきなのか。その答えを見つけるために、世界一周の旅に出ることにした。
「周りはそれこそやりたいことや就活先が決まる子とかも出はじめて。でも、自分はどの就活先にもピンと来ないし、かと言って何がやりたいかも分からない。そうなった時に、まずは日本国内で見える選択肢だけではなく、世界中のいろいろな選択肢を自分の目で見てみたいと思ったんです」
大学3年の1年間を休学し、アルバイトで貯めたお金を元手に出発する。何ができるかは分からなかったが、短期の旅行ではなくその地にしばらく留まり暮らしを体感するなかで、世界を知りたいと思っていた。
「まず東南アジアに行って、ベトナムをバイクで縦断したあと、インドはもう回ったことがあったので中東に行こうと思って。いきなり中東のバーレーンという小さな島国に行って、そこからドバイ、イラン、アルメニア、ジョージア、トルコあたりをずっと陸路で行きました。そのあとはドイツに向かって、3か月ぐらいワーホリで英語を勉強しながらヨーロッパを回ろうかなと」
中東では忘れられない出会いがあった。バーレーンを発つ飛行機を待つあいだ、待合室で座っていると10mほど先に大量の荷物を抱えたアフリカ系の女の子がいるのが見えた。見たところ年も近そうで親しみを感じ、重そうだからと席を譲ることにした。しかし、自分も重たい荷物を持っていたので手すりに座らせてもらう。
少しの間2人でたわいもない話をしていると、その子がたびたび近くにいる中東系の男性を気にして、暗い目をしていることに気がついた。
「気になって『なんでさっきからあの人のこと見てるの?』と聞いたら、返ってきた答えが衝撃的で。あの人が私のボスだと、アフリカから働きに来ていて数か月バーレーンの富裕層の家の中で監禁されながら家政婦のように働いて、暴力も振るわれるし、給料も支払われない。個人のパスポートとか書類も全部取られていて、ここからどこに連れられて行くかも分からない。ただ私はそんな奴隷みたいな扱いを受けるために生まれてきたんじゃないと、目をバシッと見ながら言われた時に、ものすごく衝撃を受けたんです」
とっさに「奴隷貿易」という言葉が浮かんだが、まさか歴史の教科書以外で目にするとは思ってもいなかった。ボスから引き離したり通報したり、必死にできることはないかと探したが、世界を放浪している自分の力ではどれも一時的な対処にしかならない。
結局別れる前にできたのは、2Lのペットボトルと乾パンを手渡すことだけだった。いつか絶対会おう。そう約束したが、連絡先も持っていない彼女とは二度と会えないだろうと分かっていた。日本では知り得ない現代の闇、それを自分の目で直視することの大切さに気づかされた体験だった。
「そのまま中東を巡ったあと、ドイツのハンブルグ空港というところに着陸した瞬間に『やっぱり違う』と思って。今はアフリカに行くべきだと。いろいろ決まっていた仕事もあったのですが、全部謝罪の連絡をして、そのままアフリカに行く一番安くて早いチケットを調べて、1週間後にモロッコに飛んだんです」
アフリカ大陸を北端から縦断していく。目的地のない旅の途中、エチオピアの路上では集団強盗に遭い、首を絞められながら死を覚悟する瞬間が訪れた。
「これは死ぬと思った時に、すごくあっけないなと、何もできないまま死ぬんだなと思ったんです。もう無理やり亀のような感じで地面に突っ伏していると、いろいろなところから手が伸びてきて全部盗られて。最後はものすごく蹴られたあと、視界の隅で6人ぐらいが暗闇のなか走り去っていくのが見えて、なんとか生き延びた。ボロボロになりながら宿に帰ったという感じでした」
大してお金もないバックパッカーとはいえ、高価そうなリュックを持った外国人に見えたのだろう。当然パスポートはなくなり、お金もわずかしか残らなかった。一時は体も心もボロボロだったが、数日経つうちに少しずつメンタルは戻ってきた。
大使館の人いわく、こういったケースでは99%の人は日本に帰国するという。しかし、帰りの航空券代は自己負担で、保険も適用されない。一度日本に戻っても自分は再び戻ってくるようにも思えたので、それならいっそこのままアフリカに残ろうと決めた。
「そこからは泊まっていた安宿で意気投合した韓国人のアーティストの子と、米国人のシリアルアントレプレナーと3人組で一緒に働いたり行動していて。そのうち現地でレストランを経営している家族がホストファミリーになってくれることになって、3週間くらい滞在させてくれたんですよ」
各地の壁に絵を描きながら、世界一周をしているアーティスト。20社ほどの会社を経営し、マイケル・ジャクソンとも友人である起業家。2人もまた、自分と同じく「面白い人が集まるから」という理由で安宿に泊まっていた変わり者たちだった。
アーティストがレストランの真っ白な壁に絵を描くあいだ、自分はその家の2人の子どもたちのベビーシッターとして相手をすることにした。
「強盗に首を絞められた時は、『なんでこんなことをするんだろう?』という怒りや悲しさのような感情がすごく強かったんです。でも、現地の子どもと話していて『将来の夢は何?』と聞いたら『誰よりも強くなる』みたいなことを言っていて、なんで強くなりたいのか聞くと、悪い人がいっぱいいて現地の人でも襲われたりするからだと。それを聞いて、外国人だけじゃないんだなということと、子どもたちにそんなことを言わせてしまっているこの社会ってなんなんだろうと思って」
たしかに強盗は許されざる犯罪だ。しかし、自分がもしアフリカで生まれていたとしたらと考える。お金を持っていそうな外国人が、夜に無防備にも出歩いているところを目にしたら、襲いたくならないとは言いきれない。
人への怒りは、次第に社会の不条理そのものへの憤りへと変わっていく。この仕組みをなんとかできないか、自分に何ができるのかと考えるようになりつつあった。
「3人で旅をしながら話すなかで、アーティストである彼女は『作る人』であり、ビジネスマンである彼は作る人と欲しい人をつないでビジネスにしている『つなぐ人』だと。『Cody(コーディ)、お前はどうなんや』みたいな話になって。お前は日本では割と賢めの大学に行っているかもしれない、だけどそれだけだと。お前は『just student』だなということを悪気なく言われた時に、たしかに自分は何者でもないなと思って。自分も与えられる側ではなくて作り出す側に回りたいと思うようになったことが、一つの大きな転換点でした」
旅も後半に差し掛かると、外部に刺激を求めることの限界を感じるようにもなっていた。旅はワクワクしながら始まり、いつもモヤモヤとして終わる。そろそろ自分の内にあるものに目を向け、行動していくべきなのかもしれなかった。
世界一周の旅にて、エチオピアで出会ったホームステイ先の子どもたちと
約1年ぶりに帰国した日本では、周囲は就職活動の真っ最中という時期だった。進むべき道は何も決まっていないが、少なくとも企業に就職するイメージはないと思っていた。
「結局何をしようかと考えた時に、世界にはいろいろな不条理があったけれど日本はやっぱり平和だなと思って。とりあえずこの世界の不条理を良い方向に変えていくために何かしたい、そのためには何をやるにもまずはお金が必要だろうと当時浅はかながら考えて、お金がいるということは起業だと、自分でビジネスをしようと決めたんです」
ちょうど一緒にインドに行った友人と話が合い、2人で起業することにする。まずは最低限のスキルを身につけるべきだろうと考えて、それぞれ別の環境で3か月ほどインターンとして修業したのち、自分たちのビジネスを作るべく動き出すことにした。
小さなアイデアはいくつかあったが、最初に始めたのはコワーキングスペース事業だった。当時は社会全体がコロナ禍の影響を受けており、東京の魅力的な飲食店が次々と潰れていた。一方で、留学生たちは友だちを作る機会がないと嘆いている。両者にとってメリットが生まれるよう、コンセプトある魅力的な飲食店が営業外となる昼の時間を借りて、学生たちが集まるコワーキングオフィスにしようと考えた。
見よう見まねの営業で3社ほどが契約してくれたが、最終的に事業としてスケールする未来はあまり見えなかった。友人と別れ、今度は1人でシェアハウス事業を立ち上げた。
「当時アフリカの方々が日本に1万6千人ぐらいいたのですが、その人たちが差別や偏見に悩む姿を見ていて、自分も逆の立場を経験をしていたので、その人たちの居場所を作りたいなと思ったんです。その事業は『NHKワールド』に取材されたりもして、自分1人の給料を稼ぐくらいならやっていけそうだったのですが、そこから先、爆発的に広めていくような未来があまり見えなくてクローズすることにしました」
朝から晩までカフェに籠って投資家向けの資料を作ったり、飛び込み営業やテレアポをしてみたり。力不足ゆえに馬鹿にされ、悔しさを味わいながらも数字を追いかける。そうしていると、そもそも何のためにやっているんだろうと目的が分からなくなる瞬間があった。
悩みつつ将来を模索していた頃、出会ったのが「ソーシャルビジネス」という概念だった。
「ある時YouTubeを見ていたら、ボーダレス・ジャパンの代表である田口が出ているTEDトークの動画がパッと目について。そのなかで語られていた『ソーシャルビジネス』という概念、要するに利益を追求するためのビジネスではなくて、社会問題を解決する手段としてのビジネスがあるという考え方を初めて知って。自分がやりたいことを言語化すると『ソーシャルビジネス』なのかと雷が落ちたような感覚だったんです」
大学時代に運営した「アフリカと日本をつなぐシェアハウス」
「人生の価値は、何を得るかではなく、何を残すかにある」という田口氏のメッセージも、まさに自分が抱えていたモヤモヤに向けた言葉のようだった。
調べていくと、当時ボーダレス・ジャパンでは「社会起業家採用」と銘打つ新卒採用を行っていて、ビジネスプランを書いてエントリーするということだった。同社の社内起業家は、一企業のような裁量権と独立採算を与えられながら、売上の1%を拠出する。「恩送り」と呼ばれるその資金は、次なる起業家の創業を支えていく。社内で次々にソーシャルビジネスが生まれる循環が作られている点も、経済モデルとして面白いと思った。
「じゃあ今まで自分が出会った社会問題のなかで、一番心を動かされたりやりたいと思うものはなんだろうと考えた時に、僕はアフリカの人身売買の問題を解決したいと思ったんです。アフリカから中東に出稼ぎに行く女性の方々を支えたり、そもそも出稼ぎに行かなくてもいいように現地で雇用を作りつつ、環境に良い影響を及ぼすカーボンクレジットを活用した事業を考えて、入社しました」
入社後は、いくらか修業として既存のプロジェクトに入ることになっていた。無数のアイデアや事業の種が社内にあるなかで、当時選んだのがクラウドファンディング事業であり、現在の「For Good」につながるサービスだった。
1か月後に決まっていたサービスリリースに向け、がむしゃらに走りはじめる。並行し、休日には自分のビジネスプランを練っていた。しかし、ヒアリングをすればするほど、一つの社会問題にはいくつもの問題や事象が紐づいていると見えてくる。自分の性格上、どれか一つを選ぶより全ての解決に向けて動いていきたいという思いがあった。
その点、クラウドファンディングという仕組みは、あらゆる領域にアプローチできる。まさに自分のためにあるような事業だと思えるようになっていった。
「それこそ小学生の時から『誰でも平等に分け隔てなく』という精神を大切にしてきたように、クラウドファンディングでも一方的に助けるとか助けてあげるというスタンスは嫌なんですよね。社会の仕組みに不条理があったとき、それに気づいた人がいて、一人では対処できないからとプロジェクトを立ち上げて人を巻き込んでいく。そのプロジェクトの成功に向けて僕たちは伴走して支援に入るという形なので、実行者と横並びで社会を見られる、一緒に解決していこうというスタンスがすごくいいなと思えたんです」
一方で、社会課題と聞くと「自分には関係がない」と感じている人もいる。かつての自分がそうであったように、そうした人でも主体的に関わりやすい仕組みであることも、クラウドファンディングの良さだと考えた。
「自然に寄付の一歩目に踏み入れられる。しかも、それが義務感ではなく、理想の未来を一緒に作ることだとワクワクしながら支援して、そのお金が社会でどう動いたのかまで体感できる。ただ流れてくるニュースを見たり、SNSでいいねだけして『でも、自分には何もできないな』と思って終わりじゃない。社会課題に気づく人と、それを支える人双方にアプローチしつつ、大きく社会を変えていけるという部分にすごく美しさを感じたんですよね」
サービスリリースから約1年、2023年に事業代表へと就任。自らの信念と事業が描く未来は重なっていた。
時代が進むにつれ、社会起業やソーシャルビジネスという概念もますます浸透しつつある。「For Good」は、いつの時代もそのフロントランナーとして在るために、必要な仕組みを創出しつづける。
2024年3月、東京都が主催するイベント
「DO! NUTS TOKYO 若者アンバサダーによるアイデア・ピッチ大会」の審査員を務めた
できるだけ即断即決で、悩んだならまず実行してみる。そうして得られたものを糧にして、これまで生きてきたと小松は振り返る。
「何より大事なのは、まず一歩踏み出すことだと思っています。僕自身、これまでその連続で、正直やってみて失敗したことの方がはるかに多いのですが、やりつづけるほどに失敗が経験として活きたり、成功に変わるということを人生の中で実感できた。逆に、踏み出さなかったときほど、あとから後悔したんですよね」
最初に一歩踏み出したのは、高校時代のヒッチハイクだった。大学生になり、バックパッカーとして海外を旅したり、場当たり的に稼ぎながら世界一周したりするうちに、それが自分にとって当たり前のスタンスになっていると感じるようになった。
「でも、そこからずっと踏み出しつづけられているかというと、そんなことはなくて。それこそ学生起業した時は、もっと大きく失敗しておけばよかったと今でも強く後悔しています」
死なない限り、大抵のことは経験になる。たとえば、アフリカで首絞め強盗に遭った時は死を覚悟したが、今では取材で語れる話になっている(もちろんそんな経験は積極的に推奨されるものではないけれど)。学生起業でも、どうせなら派手に挑戦して派手に失敗するくらいの方が、どん底から這い上がるときの落差があって面白い。人に迷惑をかけてしまうこと以外なら、自分の人生の厚みとして捉えられる。
「その時は自分なりに全力でやっていたつもりでも、あとから振り返ると『もっと臆せず行けたな』と思うことがありますよね。やっぱり一歩踏み出すことがまず大事ですし、踏み出すにしても、大きく踏み出すことが大事なんだと思っています」
大きく踏み出すからこそ、振り返った時に得られる学びも大きい。だからこそ、臆せず大胆にやってみる。一人ひとりが「踏み出す」ほどに、社会は少しずつ、けれど着実に前へと進んでいくのだろう。
2025.4.16
文・引田有佳/Focus On編集部
旅に出れば、何かが見つかる。そんな期待を胸に出発し、何も見つからずに帰ってくる人も多い。はるばる地球の裏側まで行ったとしても、答えはそう簡単に手に入るものじゃない。
世界一周の旅から小松氏が持ち帰ったのは、明確な答えではなく、割り切れない「モヤモヤ」だった。貧困や差別といった「遠い世界の現実」を、自分ごとのように受け止め、言葉にならない社会への違和感としてそのまま持ち帰ってきた。しかし、違和感を違和感のまま抱えつづけるということ自体、現実と向き合っている証と言えるのかもしれない。
地球上にあふれるさまざまな社会課題を、自分と地続きのものとして見つめている。「For Good」が掲げる「社会課題解決の民主化」は、誰もが自然にそうなる未来をつくろうとする。
問いを問いとして残し、社会について「モヤモヤ」しつづける。安易に答えを出して目を逸らずに、人生の中でも大切なものとして抱きつづける。そんな姿勢こそ、これからの社会に必要な理想なのかもしれない。
文・Focus On編集部
▼コラム|2025.4.17 公開予定
私のきっかけ ― 『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』編著:ハル・ビュエル
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
社会をより良くする第一歩をここから|起業家 小松航大の人生に迫る
株式会社ボーダレス・ジャパン 小松航大
「For Good」事業代表
1998年生まれ。香川県出身。慶應義塾大学総合政策学部卒業。WASSHAでのインターンを経て、2022年に「ソーシャルビジネスしかやらない会社」株式会社ボーダレス・ジャパンに参画。ソーシャルグッドなクラウドファンディングサービス「For Good」の立ち上げに携わり、2023年より事業代表に就任。中東・アフリカ・南米を中心に26カ国を旅した現役バックパッカー。
https://www.borderless-japan.com/