Focus On
朴貴頌(パク・キソン)
株式会社Azoop  
代表取締役/CEO
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or小さな仮説検証を重ねていけば、進むべき道は見えてくる。
現役医師ならではの視点で最適なタイミングでヘルスケアを届けるべく、「医療をすぐそばに」をミッションにサービスを開発していく株式会社flixy(フリクシー)。同社が展開する「メルプWEB問診」は、診察前の患者の待ち時間短縮と受付の業務負担を大幅に軽減し、2021年5月現在、全国1200件以上と日本一の導入実績を誇る。2020年3月には、東証プライム上場の株式会社JMDCグループへと参画した。
代表取締役の吉永和貴は、慶應義塾大学医学部在学中に友人と起業、プログラミングやデータ解析にのめりこんだ。卒業後、研修医として東京ベイ・浦安市川医療センターで2年間勤務したのち、2016年に株式会社flixyを設立した。同氏が語る「0→1を究める面白さ」とは。
古くなり過ぎたシステムや、立ち上がりが遅いパソコン。不便でも当たり前になりすぎて誰も疑問を抱かなくなっている体験が、実は身の回りにありふれている。病院やクリニックで診察を受ける前に記入する、紙の問診票もその一つだ。
現役医師である吉永は、そんな医療現場の課題に一石を投じる。
「もともと私が外来で診療していたときに、紙の問診票をスキャナーでスキャンして、PDFから電子カルテに内容を打ち込むという作業を自分自身でやっていて面倒だなと感じていたんです。自分が課題だと感じていたからこそ、ほかの医師にとってもニーズがあるんじゃないかと考えたことがサービスのはじまりです」
紙の情報をデータ化し、データから電子カルテ上へ転記する。それだけの作業でも、毎日数十人ともなれば医院にとっては大きな業務負担となっている。まして多忙な医師自身がそれを行うならなおさらだ。
そもそも体調が悪い患者にとって問診票の項目を詳細に記入することは難しく、医師にとっては十分な情報を取れないのであれば有効活用が難しいという。
「(どうせ事前に書いてもらうなら)最適なタイミングで病院や診療科の案内ができないかと考えたんです。患者さんも自己判断で風邪だろうと思って放置していたら手遅れになって重篤になってから来たとか、おなかが痛いから内科だろうと思って来たら尿管に石が詰まっていて、最初から泌尿器科に行っておけばよかったみたいなことが起こるので」
医師や医療機関の業務を効率化し、患者の健康を守る。医療機関向けWEB問診システム「メルプ WEB 問診」*は、そんな未来を実現するべくつくられた(*一般ユーザー向けには「メルプAI受診相談」が提供されている)。
患者は自宅でアプリを開き、チャット形式の質問に答えるだけでいい。所要時間は1分ほど。簡単に診療科と緊急度を確認できるほか、同時に問診票記入が完了するため医院に到着してからの待ち時間が短縮される。
一方、患者が回答した内容は自動で医療用語に変換され、医院の電子カルテに取り込まれる。受付の業務負担削減につながる上、質問項目は個別にカスタマイズが可能になっている。
医師ならではの視点を活かした専門性と、シンプルなサービス設計。それを両立し、あらゆる年代の患者にとって使いやすいUI・UXを実現した。
「インフルエンザの季節とかになると、30人くらい同じような症状の人が来るので私も同じことを毎回説明していて、ある程度パターン化されてくる質問があるんですよね。トリアージ*が自動でできて、最適な医療施設へと振り分けられればもっと医療は効率化すると思っています(*患者の緊急度や重傷度に応じた優先順位の振り分けのこと)」
最適なタイミングで医療を届けることを、テクノロジーで実現していく同社。診療科と緊急度の判定に加え、今後は疑われる病名の提示機能も開発中だという。医療法の制約上、あくまで診断のサポートという位置づけにはなるが、それでも特徴的な症状であれば9割5分ほどまで精度を高められるのではないかと吉永は語る。
「医療機関と患者と医師、この3つのプレイヤーのプラットフォームをつくりたいと思っていて。しかも、それが現場の課題に即したサービスであるということが大切だと考えています」
2021年、同社は医師向け薬剤比較アプリ「イシヤク」をリリース。2万種類以上もの薬剤特徴が医師の処方の観点からコンパクトに記載され、忙しい外来でも手軽に薬剤を比較できる。これも吉永自身が現場で感じた課題からつくられたサービスだ。
昨今、社会で叫ばれる働き方改革やデジタル化の波は、医療現場にも押し寄せつつある。実際、国が推進する働き方改革は一般企業よりも5年の猶予を経て、2024年から医療現場にも適応されることが決まっている。
変化にさらされる時代のなか、課題と愚直に向き合いつづけるflixyは、新しい当たり前を構築するための旗振り役となっていくのだろう。
色とりどりのパーツに囲まれて、ああでもないこうでもないと考える。少しでも速く走るミニ四駆や気に入る形のレゴブロック。納得いくまで模索していると、いつもあっという間に時間が過ぎていた。
一つのことに熱中すると時間を忘れてのめり込む性格は、今も昔も変わらない。幼い頃から、1人黙々と打ち込むものがあったと吉永は振り返る。
「レゴは小1くらいまでやっていて、その後はミニ四駆、ヨーヨー、ジャグリングと結構手を動かしたり、ものをつくったりすることが好きでした。ブロックを組み立てて一つのものをつくるみたいな作業が楽しくて。1人で朝から晩まで、ずっと家でやっていた記憶がありますね。熱中するとずっと同じことをやっているタイプでした」
たとえば、はじめは完成図の通りつくれたら、2回目には少し違ったアレンジを試したくなる。ミニ四駆の部品を削って軽くしたり、違う種類のモーターを端から端まで試してみたり。そうして完成した自分だけのオリジナルを、走らせては分解することを繰り返す。
試行錯誤し、結果がどう変わるのかを観察する。思い通りになると達成感を味わえた。実験するかのように遊びを楽しめたのは、優しかった父親のおかげでもあるという。
「小さいパーツ1つでも結構高かったんですが、父親はたぶん子どもが大好きな人だったので買って買ってとすごくねだっていましたね。母親も子ども好きだったと思うんですけれども、さすがに買い過ぎだからだめと言われるので、父親の方に泣きつくみたいな感じで(笑)」
子どもに甘いところもある父は、医師として働く人だった。絵に描いたように誠実で、いつも患者のことを第一に考えている。母も優しかったが、一方で勉強に関しては厳しかった。
「母親がすごく教育熱心でしたね。公文とか百人一首とか、あと世界の首都を全部覚えるみたいな記憶系を全部やらされていた記憶があります。その場でぱっと答えるみたいなことをひたすらやって」
小学校受験から始まり、放課後は毎日塾通いが待っていた。母の運転する車で移動中、ご飯を食べながらも勉強し、夜遅くに帰宅する。家では母が横につきっきりで勉強を見てくれて、土日も休みなく予習復習、宿題、テストと忙しい。
自由は少ないが、それ以外の日常を知らなかったからかもしれない。日々課されるものを淡々とこなしていくことにも慣れ、次第にそれが当たり前になっていった。
「勉強は好きでしたし、周りにライバルが2、3人いて、その人には絶対負けたくないみたいな気持ちでやってましたかね。塾でも毎回試験の結果が張り出されるんです、点数が順位表になっていたりして。昔の方が負けず嫌いだったのか、泣きながら暗記したりしつつも、正解できると達成感があって嬉しくて」
レゴやミニ四駆もそうであったように、あれこれ思考した末に得られた結果は、注いだ労力が大きいほどにひときわ達成感がある。まさに取り組んでいるその瞬間は泣くほどつらい勉強も、正解できたり、より良い結果に繋がれば嬉しくなった。
問いをこなし、分かりやすく解を追う。当時はそうして与えられた問いについて考え、挑む過程を自分なりに楽しんでいた。
幼少期、両親と妹と
受験を経て、地元鹿児島県にある中高一貫の私立ラ・サール中学校へと入学。当時はまだ将来については深く考えていなかったが、なんとなく医者になるイメージを持っていたと吉永は語る。
「家族は医者家系で、特に言わされていたわけではないんですが、『将来何になるの?』と言われたときに『医者になる』と言うと喜んでくれるので。ひたすらそれを言っていたら、自分でもなんかもうならなきゃみたいな気持ちになっていましたね」
親戚の集まりなどあれば、親同士の話題はしばしば仕事のことになる。自然と耳に入ってくる病院の話などは、1番身近な仕事のイメージだった。
ラ・サールでは同級生も医学部志望は多い。九州だけでなく全国から集まる生徒は寮に入ることになるが、県内から通う吉永は実家から自転車で通うことになった。毎日片道40分の道のりは、自由に寄り道もできる。なんだかそれだけのことが嬉しかった。
「中学ではサッカー部に入って、毎日部活と勉強という感じで。すごく優等生として扱われていたので、はみ出したいなという思いもあったような気がします。別にそれを行動に移したわけではないんですが、部活が終わるとそのまま自転車で家に帰って勉強してという感じだったので、周りの寮生とかは鹿児島の市の方に遊びに行ったりとかしていて、楽しそうだなと思っていました」
親の期待はきちんと勉強し運動もして、良い大学に入り、良い医者になること。そうすること自体に違和感はなかったが、自由奔放な生活を送る人の姿はまぶしく、うらやましいとも感じていた。
「(あとから分かったことですが)中学って結構中弛みの時期で、県外から入ってきた寮生とかは遊んでいるので、それほど勉強しなくても順位は上がってこなくて。私の場合、中学の勉強はずっと1番だったんですが、高校に入って自己流の勉強をしはじめるようになって成績は落ちましたね」
ラ・サール中高では伝統的に、通常の授業や定期テストとは別に、学校が塾のような役割も担っている。地方のため周囲に大手予備校がない。その不足を補うため、単純に勉強量は倍になるが、代わりにきちんとこなせれば上位の成績をおさめ、東大に入れるといわれていた。
結果は学校の歴史が証明している。しかし、ふと自分なりの勉強法を試してみたくなったのだ。
「もっと効率的にできるんじゃないかと思いはじめて。当時は東大の医学部を目指していて、合格した人の本を読んだんです。結果的にその勉強法はその人だから合っていたという話もあると思うのですが、その時は合格した人の通り勉強すればできると思って。いろいろな参考書を買って試して。でも、学校の勉強もある程度やらないといけないので、全部が中途半端になってしまったんです」
自己流の勉強法を試してみたかったが、それには時間が足りなかった。結果はふるわなかったが、初めての自分なりの仮説検証だった。
「これというきっかけがあったかはあまり思い出せないんですが、ずっと親の言われた通りにやってきたので、それが積もりに積もっていて。たぶん自我がようやく目覚めたのかなと思います。自分の方法を試してみたいという衝動が、最初に向いたのが勉強でした」
自分なりの方法や仮説を試してみる。それを考える過程は面白かった。
大学受験では東京にある医学部を受験した。早く東京に出たいという思いも、なんとなくだが明確にあった。その頃から、自分で意思決定したいという思いが少しずつ強くなっていった。
中学高校、サッカー部の仲間と
せっかく新しい環境に入ったのなら、それまでのように決まった毎日を送るのではなく世界を広げてみたい。一浪して慶應義塾大学医学部に進学してからは、自分の意思で選択していくことが増えつつあった。
「医学部って学生も百人単位で狭いので、高校生活の延長みたいな感じもして。医学部生だけの部活があって、みんなそこに入ることが当たり前になっているんですが、それだと交友関係も広がらないし、せっかく総合大学に入ったのでほかの学部の人たちとも話したいなと私は思って、英語のディベートサークルに入ったんです」
きっかけは、大学で留学生と話す機会があったときのこと。勉強して話せるはずの英語が、いくら必死に考えても一向に出てこない。ショックだった。横では帰国子女の友人が何気ない会話を楽しんでいる。
そこから英語を話すことへの情熱に火がついた。中学でジャグリングを究めようとして以来、久しぶりに出会った熱中の対象だった。
大学の英語ディベートサークルに飛び込んでみる。話す機会さえあれば、あとは場数を踏むことで慣れてくる。3年ほどは学業の傍らサークル活動に没頭していたという。
「あとは慶應の研究室にも入っていて、基礎研究をやっていました。最初のうちは研究者にも興味があって。それも自分の仮説検証なんですが、当時は研究ってひらめきの世界だと思っていて、そもそも自分が通用するのかなみたいなことも確かめたくて」
研究では、興味があった脳について扱うことにした。脳の中にある六層構造は、人が生まれるときに細胞の移動でつくられる。その発生段階や機能ができるまでの段階に遺伝子操作を加えることで、どんな層構造がつくられるのか、さらにそれを認知症や神経的な疾患のために役立てられないかと考えた。
「脳は結構興味があったので、面白そうだな思ってはじめました。ただ、研究自体はひらめきというよりは忍耐力の勝負だなということに気づきまして。かつ結構サイクルが長いなと。きちんと論文で形になるまで5年とか10年とか当たり前なので、私自身はもう少し短いサイクルで結果が出ることをやりたいなと思いました」
研究の世界にも偶然のひらめきはあるにはあるが、もちろんそれが全てではない。
先行論文があり、誰かがやり残した課題にいかに取り組むか。長い時間をかけて成果を論文にまとめていく作業は、人類にとって意義深い仕事ではあるが自分には合っていない。
より短いサイクルで仮説検証できる方が、情熱を注げそうだった。
大学も4年を過ぎると、他学部に所属するサークルの同期が卒業し、研究も終わりを迎えた。どちらの活動も落ち着いたタイミングで、何をしようかと考えていたところ友人に声をかけられた。
「同級生に学生起業した友人がいまして、その人に誘われたんです。『一緒に起業しない?』みたいになって。最初は会社のホームページをつくるということで私が担当したんですが、そこで初めてプログラミングをやったところすごくハマりましたね」
ちょうど5年生からは病院実習が始まる。日中は同級生と同じように病院で勤務し、それが終わり次第、夕方から夜中の2時頃まで毎晩プログラミングに明け暮れるようになった。
アプリ開発の世界には、今までにない面白さと発見が詰まっていた。
「0からサービスをつくって世の中に公開できる。ネット上で触れてもらえるということがすごく新鮮でした。医者の勉強は記憶勝負なところもあって、それまでやってきた暗記してテストにかいするみたいな感じとは全然違う世界で、それが楽しかったですね」
触りながら言語を覚え、簡単なものから試していく。プログラミングの技術を一定身につけたあとは、自由に自分なりのアプリを構想し、それを形に落とし込んでいった。
課題について解説してくれる先行者や教科書は存在しない。だが、それがいい。
自分なりに考え、試行錯誤しながら仮説を検証していく面白さ。最低限のプロトタイプでも、ネットを介し短期間で反応を得られる迅速性。思い描いた通りのものが完成した時の達成感。そこに夢中になれる全てがあった。
「0→1は誰も解いたことのない問題だからこそ、仮説検証をひたすら繰り返して、自分の仮説が当たっているかどうかを確かめたいんです。正解のない世界なので、そこをいかにハックするかが自分にとって楽しいみたいな感じですかね。かつどちらかというと、私はものづくりの方が興味があるので、プログラミングとのかけ合わせというところで1番好きになりました」
正解のない問いに立ち向かい、世の中の反応をもとに答えへと近づいていく。考えることは多いが、それだけやりがいを感じられる世界だった。
大学5年、主催した医療ビジネスコンテストにて
ビジネス、プログラミング、0→1という世界に触れて、新たな情熱との出会いがあった。同時に、当時は自分にはないものを持つ友人の姿にも刺激を受けていた。
ともに学生起業した友人はリーダーシップがあり、周囲を巻き込んでいけるタイプ。自分にはないものを持つ友人の姿はうらやましくもあり、次第に自分もやってみたいという気持ちに変わっていった。大学5年時にはビジネスコンテストを主催し、経験が自信に繋がっていった。
「大学を卒業する頃には、将来ヘルスケア分野で起業したいなとは思っていました。ただ、医師で起業していたり、それ以外の仕事をしている人のロールモデルが少なかったので、どこまで医師を続けてから踏み出せばいいのかみたいなことが分からなくて、結構いろいろな先輩たちに話を聞きました」
医師から起業した人は少なかったため、王道のキャリアの一つであるコンサルティング業界へと転身した先輩などに話を聞いてみる。
通常専門医として一人前になるには7年、最短でも2、3年はかかると言われている。そこまではやりきって、一区切りついてからほかの道に進んだ方がいい。そう語る人もいれば、やりたいのならいつでも進めばいいと語る人もいて、どうすればいいかと悩んだ。
いずれにせよ起業への思いはまだ漠然としたものだったので、一旦は就職し、まずは研修医として2年間の研鑽を積むことにした。
「3年目以降で起業したり違う道に行くかもしれないと考えて、結構大変な病院を選びました。総合内科のローテーションは、朝6時から夜11時勤務で、当直が月8回とか。教育が充実している分、労働時間も長くて。でも、1年目が大事だということは言われていたので、最初は頑張ろうと思って」
研修医として最初の2年は診療科目をローテーションで担当し、専門を選択していく時期でもある。
「私は3つくらい候補があって。いろいろな症状の人が来てどの病気か仮説検証していく総合内科と、画像診断でプログラミングと絡められそうだった放射線科。やることが分かりやすくオンオフもはっきりしている救急科に興味がありましたね」
医療とプログラミング、起業などさまざまな可能性を頭の隅に置きながら、目の前の仕事に向き合う日々。起業する領域についても考えていた当時は、ちょうどビッグデータという言葉が流行していた時期でもあった。
「ビッグデータの解析ができるようになれば、プログラミングとデータ解析、医療が分かることになる。そうすれば何かしら需要もありそうだし、起業にも役立つんじゃないかと思って。起業前に米国でコンピュータサイエンスの修士号を取るつもりでアプライしたんです。ただ、全部落ちてしまいまして」
米国の大学は秋入学であり、合否発表は4月となる。しかし、2年間の初期研修を終えるタイミングでもあった。4月から正式に入局する予定の医局が決まっていた。
同時並行はできない。悩んだ末、3月には医局への就職を辞退することとした。4月、不合格が判明した際にはフリーのような状態になったことをきっかけに、少しずつ起業へと舵を切ることになっていく。
東京ベイ・浦安市川医療センター初期研修の同期と
「学生の頃に参加したビジネスコンテストで、IoTのお薬管理サービスのプレゼンをして優勝したことがあって。チームのみんなはそれぞれ社会人になって、週末に集まったりはしていたもののプロジェクトとしては全く進んでいなかったので、自分が本腰を入れてやってみることにしたんです」
タバコ型のケースがiPhoneと連動し、あらかじめ中に入れておいた薬の飲み忘れ防止に音と光で知らせてくれる。そんなIoTサービスを本格的に開発していくべく、投資家に向けてプレゼンする機会を得た。
「8人の投資家の前でピッチをしたんですが、全員からズタボロに言われて。なぜアプリじゃダメなのかというところをすごく突っ込まれたんですが、明確に答えられなかった。(IoTなら審査員の受けが良いからと)コンテストで優勝するために逆算してつくられたプロジェクトでしたし、ハードの初期コストもすごくかかってしまう。ビジネス的にも成り立たなさそうだということが分かりました」
そもそも生活習慣病の中高年をサービスのターゲットとしていたが、高血圧の薬一つとっても朝1錠だけ飲めば済むよう改良されていて、わざわざケースを持ち歩く必要がない場合も多かった。
根本的なニーズと合わないプロダクトとなっている。何よりそこまでこの領域を突き詰めるだけの熱量もないと感じるようになった。
「今思えば、お薬の飲み忘れを防ぐということに対して、私自身あまり熱量がないということもあって、熱量がないとプロジェクトは続けられないなと思いました」
3か月ほど動いてみたもののチームは解散。現在もflixyでCTOを務める片岡悠人だけが残り、ゼロからアイデア出しなどを始めることに。「メルプWEB問診」は、当時の試行錯誤の過程から生まれた。
ほかでもない自分自身の課題感がサービスの形になっているからこそ、何より熱量を注ぐことができる。医師としての経験と自分なりの仮説検証を重ねた結果、ようやくたどりつくことができた場所だった。
株式会社flixyは2016年9月に設立された。
「あまり自分が起業家だと意識してはいなくて、死ぬまでずっと0→1をやっていたい。あと5、6個くらいはサービスをつくって、つくりながら死にたいなと思っています」
自分の意思で選んだ、誰も試したことがなく正解のない問い。そこに誰より早く仮説を打ち立て、世の中で試しつづける。正解と呼べるものを見つけたとき、何より大きな達成感がきっとそこにある。
自ら手を動かしながら試行錯誤する楽しさを感じていた幼少期から、事業やサービスを考える現在まで、大切にしているものは変わらない。さまざまな挫折などを経験しながらも、現在自身が最も才能を発揮できる領域を0→1に見出していると吉永は語る。
「0→1の面白さに気づいたのは、『メルプWEB問診』をはじめて1年くらい経ってからですかね。学生時代アプリをつくっていたときも楽しかったので、漠然とものづくりが好きだなとは思っていたのですが、振り返ってみたらミニ四駆もレゴブロックもそうで、ここは本当に自分が好きなところなんだなと」
思いがけないところから得意は見つかる。とはいえ、起業当初はビジネスについて右も左も分からず模索していた時期があるという。
「投資家の方とかにアドバイスをもらいに行ったところ、ビジネス系の分厚い本をまず読んだ方がいいと言われて、Amazonの成功事例とかを読んだんです。ただ、分かるけどどう活かせばいいか全く分からなくて。その時にまず質より量かなと思い、ちょっとTwitterでいろいろなものを見てみようという試みをやりはじめて、3か月後くらいにやっと点と点が繋がった感覚でした」
朝起きたらTwitterを開き、国内外のスタートアップ企業のニュースを見る。新しいアイデアの種や、それらを可能にする最新の技術動向をインプットすべく、毎日のノルマとして自分に課した。今でも続けているというその習慣が、日々生まれる直感の源になっている。
「無意識のうちにアンテナを張っている感じですね。このビジネスモデルはあの業界の記事から引っ張ってこられるんじゃないかとか、そこからうまくいくようになって」
数ある情報の中から物事の本質を抽象化し、一言で表す何かを見つけること。その抽象と具体の行き来が早いほど、ビジネスにより多くの視点がもたらされると、吉永は実体験から学んできた。
インプットする習慣により、思考のフレームワークを蓄積することができ、それが抽象的思考の助けとなるのかもしれない。
「あとはアイデアを探すというよりは課題に目を向けないと、なかなかmust have(絶対に必要なもの)にならずnice to have(あったらいいもの)で終わってしまう。人がお金を払うくらいにはならないので、自分にとって当たり前になっている作業でも、定期的に時間を取って振り返るようにしています。医療に限らずやっていることですね」
0→1を心から楽しむ吉永は、当たり前を疑い、発見した課題を深ぼる。解決可能な形にまで課題が明らかになってこそ、有効な解決策を考えることができるからだ。
インプットし、課題に目を向ける習慣。それができれば、あとはあきらめず最後まで淡々とやりきるのみだ。
2020年3月、JMDCグループにジョインしたflixy。当時はちょうど0→1のフェーズが終わるタイミングであり、吉永自身は次なる起業も見据えはじめた頃であったという。
「それまでずっとCTOと2人で、資金調達なども特にしないままやっていたんですが、当時は問診のサービスだけで上場という選択肢がイメージになく、なおかつ一生『メルプ』だけやるという気持ちでもなかったので、売却を検討しはじめました」
興味を持ってくれた候補は複数あり、話し合いも進んでいたが、最終的な意思決定は以降の関係性の違いなどを踏まえたものだったと吉永は語る。
「JMDCが子会社をあまり締め付けない方針で、やりたいことを尊重してもらえる環境だったことが大きいです。代表の松島がのびのびさせた方が本人の能力を最大限発揮できるという考え方なので、そういったバランスになっているのかなと。人をよく見られている方なので、その人の特徴に合わせた関わりを親会社としていると思います」
組織のフェーズが変われば、企業としての闘い方も変わる。0→1から1→10、1→100とグロースしていく企業経営の手法を学ぶ意味でも、大いに意義があったようだ。
「弊社の場合は、JMDCグループのPMIの方がCOOとして入ってくれていて。もともと社内起業のような形で組織を100人まで広げた経験を持つ方なので、フェーズごとに起こる問題や採用計画のアドバイスをもらえることがすごく良くて。おかげで組織化が進みつつあります」
実際、グループインという選択は、新たなサービス開発の可能性を広げるうえでもメリットがある。
「たとえば、問診で得られたデータをどう活用していくかというときに、製薬会社の方に話に聞きに行きたいと思ったら、本社の方がすぐに繋いでくれる。壁打ちがすごくやりやすいですね」
今後は海外展開も視野に入れながら、グループ体制のリソースを活かす。その事業拡張性が起点となり、flixyの成長は加速している。
今もこれからも小さな仮説検証を大切に、問診から始まる一連の医療サービスを進化させていくflixy。その道の先には、新しい時代に即した医療のサービス体験がつくられるのだろう。
2022.5.18
文・引田有佳/Focus On編集部
死ぬまで0→1を続けたいと明確に語る吉永氏。しかし、昔はどちらかと言えば、自分の意思は表に出てこない方だった。少しずつ取り得る選択肢や、そうありたいと願った選択肢について試してみる。その小さな積み重ねで、自分なりの生き方を見つけてきた。
0→1はある意味、広い世界と繋がることでもある。自分の意思から生まれた選択肢について、推測で終わらない。行動し、結果を世の中に対して問う。吉永氏はそれをとにかく小さく素早く行う。
最適なタイミングで医療を届けるflixyの挑戦も、同じようにつくられた。誰も解いたことのない問いへ向かいつつ、あくまで医療現場の課題に応えるものになっているかどうかを純粋に追求する。
0→1の起業も、人生も、小さな仮説検証の繰り返しだ。そうすることでこそ、自分なりの道を正解に近づけることができるのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社flixy 吉永和貴
CEO 内科医
1988年生まれ。鹿児島県出身。慶應義塾大学医学部卒。学部時代に医療情報配信のサービス開発をきっかけにプログラミングならびにデータ解析にはまる。2014年卒業後、東京ベイ・浦安市川医療センターで初期研修終了し、2016年9月に株式会社フリクシーを創業。