Focus On
中川阿美
Babydoor株式会社  
代表取締役社長
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or目的や目標の存在は、人生を前へと動かす原動力になる。
「AIと人間が共存する社会を創造し、少子高齢化社会のビジネスインパクトを最大化する」をミッションに、防犯カメラ画像解析を主軸に事業を展開している株式会社Opt Fit。同社が提供するフィットネスジム向けAIカメラ「GYM DX」は、安全管理と店舗運営の効率化を実現。現在、大手フィットネスクラブを中心に2,000施設以上に導入され、継続利用率は99.9%を越えている*(*2025年11月時点)。さらに、介護施設向けにプライバシー配慮の見守りAIカメラ「KaigoDX」をリリースするなど、人手不足という社会課題の解決に一貫し取り組んでいる。
代表取締役の渡邉昂希は、大学4年時に水泳競技を引退し、新卒でITベンチャーに入社。メディア事業やSaaS事業のバリューチェーンに幅広く従事したのち、24歳で起業した。フィットネス施設特化のメディア事業を展開し、1年で事業をスケールさせ、上場企業へ事業売却後、2社目の起業となる株式会社Opt Fitを設立した。同氏が語る「避けるべき心の死」とは。
目次
人手が足りず、現場が回らない。それは今、あらゆる業界で叫ばれる深刻な社会問題だ。防犯カメラとAIを掛け合わせるOpt Fitの事業は、「人手不足」という社会課題が全ての起点になっていると渡邉は語る。
「労働人口が減っていくなかでも、それ自体が問題とならない世界をつくらなければいけない。それが僕たちの事業の原点で、今後どの領域に展開したとしても常に立ち返っていきたい思いです」
同社が提供するAIカメラ「GYM DX」は、無人化・省人化のニーズが高まるフィットネスジムに設置され、施設内の映像をAIが人の目に代わって解析する。安全を守る監視業務を自動化し、施設運営にかかるコストを削減するだけでなく、マシン利用率や混雑状況の可視化によって、データに基づく経営を可能にするサービスだ。
導入が進んだ背景には、昨今のマクロ環境の変化がある。
「コロナ禍をきっかけに、DXに関する風潮が急激に高まって。それまでDXなんて言葉が全く浸透していなかった業界でも、コスト構造を見直さなければといけないというニーズが生まれたことは、いい追い風でした。現在はフィットネス業界に続き、介護業界にもAIカメラを展開していますが、これもハラスメントや虐待といった問題から、見守り・記録のニーズが強まってきたことが参入の決め手になりました」
今後は既存事業の成長に加え、フィットネス・介護にとどまらない、さらに広い領域への展開を見据えている。施設・店舗運営におけるDXの専門性と応用を追求し、より広範な課題解決を目指すという。
「少子高齢化や労働人口の減少は、僕たちにはコントロールできない。だとしたら、コントロールできることに注目して、それでも成り立つ仕組みをつくるしかない。感謝の対価としてお金をもらい、そのお金でより良いサービスをつくる。企業としてこの循環をうまく活用し、マクロ環境に沿った社会課題の解決をしていきたいと思っています」
人口減少を前提とした社会で、現場が止まらない仕組みをつくる。その挑戦の先に、Opt Fitが描く未来はある。

「働く」とは、どこかの企業で勤め上げることではなく、目的や目標を見つけて自分で始めること。そんな生き方は、幼い頃から身近にあるものだった。
不動産会社を経営していた祖父、そしてその道は継がずに名古屋で飲食店を立ち上げた父のように、親族は自ら事業を営む人が多かった。家の1~2階が店だった頃、父はいつも夜遅くまで店に立ち、忙しくも充実した様子で働いていたと渡邉は振り返る。
「やっぱりかっこいいなと思いましたね。自分で決めたことをやり遂げるというか、自分の進みたい道や誇りを持ってやっている。いつも店の話をするときは、すごく熱が入っていて。憧れではないですが、物心ついたときから自然と、父のように『自分でやりたい』という思いはどこかにありました」
父をはじめ、両親はいつも「自分のことは自分で決めなさい」と言ってくれていた。各々が思い思いの道を選んでいた親族のように、自由に育ててもらった幼少期。気づけば熱中していたのは、水泳だった。
「きっかけは、両親が普通の習い事の一つとして通わせたことだったと思います。4~5歳ぐらいから始めて、気づけば選手クラスに入っていて。小学校低学年の頃から、平日の放課後はほぼ毎日練習で、土日のどちらかは大会があるという生活でした」

生まれたばかりの頃
通っていたスイミングスクールは強豪というほどではなかったが、上のクラスに進めたときはどこか誇らしかった。自分の努力が結果に変わる感覚が嬉しくて、プールに向かう足は軽くなる。大会に出ればさらに上のレベルを知り、負けたくない一心でまた泳ぐ。小学校時代からその繰り返しで、物心ついた頃から日々は水泳を中心に回っていた。
「なんでも一つにのめり込むタイプというわけではないんです。ただ、何か目的や目標を持って生きていたいという感覚は、当時からあって。だからこそ水泳を生活の中心にしつづけたんだと思います」
あとになって振り返ると、水泳が特別好きだったのかは分からない。むしろ、友だちと野球をしている時間の方が純粋に楽しかった思い出がある。それでも水泳を辞めようとは思わなかったのは、そこに「自分が決めたことをやり遂げる」実感があったからなのかもしれない。
「今思えば、泳ぐこと自体が楽しいというより、記録を伸ばすとか誰かに勝つということが楽しかったんだと思います。自分の得意なことや秀でたものって、誰しもアイデンティティになったりするじゃないですか。僕にとってはそれが水泳だったのかなと思っていて。『自分=水泳』という感覚が、ひたすら打ち込む理由になっていましたね」
好きか嫌いかではなく、自分で決めたことをやり遂げる。きっと人が生きている実感は、そこから生まれてくる。当時はまだ、かすかな手応えに過ぎなかったが、無意識のうちに心がそれを求めていたのかもしれない。目的や目標を持って生きることの意味は、あとになってから深く知ることになる。

2-2. 目的なき努力と「心の死」
小学校時代から大会には何度も出場してきたが、まだ全国の舞台は経験したことがなかった。中学では、全国大会に出てみたい。そう心に決めてから、プールで過ごす時間はさらに長くなっていった。
「中学は小学校から大きな変化があったわけではありませんが、水泳はさらに忙しくなったと言えるかもしれません。やっぱり水泳が強い高校に行くためには、中学で結果を残さなければいけなくて。そういう意味で、コミットはより強くなっていきましたね」
大会でパフォーマンスを発揮するためには、練習だけでなく心身の準備も欠かせない。幼い頃から水泳中心の生活を送るなかで、自然と身についた感覚だった。
数日前から疲れを残さないよう遊びを控え、余計な悩みを作らないように気持ちを整える。試合だけに集中し、ベストなコンディションをつくりあげていく。そうして初めて、後悔のない結果に近づける。
目標だった全国大会には無事出場することができ、中学3年間はやりきったと言える時間だった。スポーツ推薦で入学した高校も強豪で、そこでは初めて、学外のスクールではなく部活として一緒に努力する仲間ができた。
「学校の部活で仲間がいるというのは、すごく良くて楽しかったですね。たとえば中学や小学校の頃って、学校の友だちと生活リズムが違うので、時間が合わないんですよね。でも、高校では授業に出て、そのまますぐ部活に行って、泳いだり話したり。そういう時間や空間をともにして、一緒に共感できる仲間がいるということが大きくて。高校時代が一番水泳に熱が入っていたかもしれないですね」
当時はとにかく、量をこなすことが正義だと思っていた。部活の練習だけでなく、朝は自分で走り、夜も自宅でトレーニングに励んだ。寝ても覚めてもますます水泳にのめり込んでいたと言えるが、一方で、現実が見えはじめたのもその頃だった。
「幼少期は、それこそオリンピックみたいなレベルを目指せるんじゃないかと、勝手に幻想を抱いていたかもしれません。中学時代も体が成長期なので、ものすごくタイムが伸びるんですよ。でも、それが高校くらいになると伸びなくなってきて。そもそも同世代でオリンピックに出場する選手も出てくるなかで、やっぱりその道は違うよねと。少しずつ競技成績だけでなく現実的な進路を考え出して、ある程度いい大学に入るために、水泳でいい成績を残そうという思考に変わっていきました」

高校時代、水泳部の仲間と
大学を卒業したら、就職して会社に入る。なんとなくそんな将来を見据えて、少しでも有利な大学に入るため、水泳で結果を残す。そうやって目の前の練習に打ち込む理由は、自分の中で徐々にシフトしていった。
結果はなかなか思うようにはいかなかったので、ひとまず内部進学を選んだ。スポーツ専攻かつ強豪だったため、大学ではさらに厳しい練習環境が待っていた。
「大学では寮生活を4年間経験して、このときが人生で一番しんどかったですね。なぜかというと、もう水泳をやる目的がなかったんですよ。記録を伸ばすことは楽しいのですが、その先に何もない。それが就職に有利になるわけでもないし、何のためにやっているのかが分からなくなってしまって」
大学の講義に出ながら、朝晩欠かさず週6日は部活がある。全国1~2位を争うレベルの環境で過ごせたことは貴重だったが、その分練習は過酷だった。
アルバイトや遊びに割ける時間も体力もなく、さらに田舎のキャンパスだったため、都会に気軽に出ることもできない。たまに街中で普通の大学生を見かけると、羨ましく思ったりもした。それでも、途中で辞めることを選ばなかったのは、両親の存在が大きかった。
「部活を続けた理由として、自分だけでその選択ができたわけではないと思ったんです。両親がいて、お金を払ってもらって通っている以上、最後まで成し遂げないといけないと。必死になりながら、なんとかこらえた4年間でした。大学時代は、自分の中でも大きく人格形成に繋がった時期だったと思います」
なんとか水泳を続けていたものの、パフォーマンスは良くなかった。レギュラーにも入れず、苦しい時間が続いた。当時はその原因を、自分の中に内発的動機が何もないからだと考えた。
「『生きながらの死』という意味で『リビングデット』という言葉があるのですが、生きているのに死んでいるような状態――つまり、心が死んでいる状態だけはつくってはいけないと思うようになったんです。だから、自分が目標や目的を持って、それに合ったことを今やりたい。将来に繋がることに、時間もエネルギーも投資したい。そう考えると、本当に1分1秒たりとも無駄にはできないんだなと思って。それ以降、大学時代の自分を反面教師にしながら生きるようになっていきました」
目的もなく物事を続けることはできない。愚直に努力するには、目標や目的が必要だ。それも、他人から与えられたものではなく、自分の中にあるものでなければ心は動かない。大学時代はそんな事実を痛感し、生き方の指針を確かめる時間になった。

大学時代、全国大会の応援席で
改めて自分を見つめ直し、就職活動にはきちんと向き合うことにした。父のように、いつかは自分で何かやりたい。そんな思いも依然として強くある。だから新卒では、いずれ独立するための修行ができる環境に身を置きたかった。とはいえ、部活の練習は忙しく、就活を理由に休むことも難しかったので、あまり長く時間をかける余裕はなかった。
「普通の就職エージェントとか合同説明会に頼るのは無理だなと思ったので、自分で会社を調べて問い合わせフォームから『こういう人間です。新卒で入社したいです。会ってください』という内容のDMを送っていました」
就活の軸は、IT×ベンチャーにしようと考えていた。アルバイトが禁止だった大学時代、フリマアプリでいらないものを売り、お金が手に入るという体験に何より感動したからだ。テクノロジーの力は、不可能を可能にしてくれる。どうせ働くなら、人の役に立つことがしたい。そして、そんな企業を探すなら、地元である名古屋よりも東京の方がいいだろうということまでは心が決まっていた。
しかし、どんな企業が「いい会社」なのか、選び方も尺度も何もかも分からない。とりあえず有名なメディアを見て、一つひとつ会社を調べていった。
最終的に50~100社ほどの企業にDMを送り、そのうち返信が来たのが10社ほど。面接を重ね、最初に内定をもらった株式会社ベーシックに入社することにした。
「当時は社内にメディア事業とSaaS事業があり、それぞれで営業を経験しました。全てが新しくて、本当に楽しかったですね。ただ、会社員時代はいち早く起業したかったので、とにかく早く学びたいと思っていて。最初の1年間はインサイドセールスをやっていたのですが、『早くフィールドセールスをやらせてほしい』と言っていました。自分本位ですが、次に繋がることを早く経験したい、時間がないと思っていたんです」

入社した時点では、なんとなく30歳になるまでには独立しようと考えていた。しかし、いざ企業で働いてみると、本当に30歳まで待つ必要があるだろうかという疑問も湧いてきた。
「ITベンチャーにいると、周りに副業をしている方がいらっしゃったり、いろいろな生き方があるんだなと知って。起業というものを難しく考えなくなったし、リスクだとも思わなくなったんですよね。それこそフリーランスという生き方もあるなかで、会社に勤めることだけがリスク回避に繋がるわけじゃない。それなら、ある程度自分でできることがあればチャレンジしたいなと、体が勝手に動き出していたという感じでした」
仮に数百万円の借入をして、1年で失敗したらどうなるだろうと想像してみる。当時はまだ24歳だったので、まだ第二新卒として採用してもらえる年齢だ。実家に戻れば、毎月10万円ずつ返済していくのも決して難しいことじゃない。リスクはなく、学べることは企業で働くよりも多いだろう。
そう思えば、やらない理由の方が見当たらなかった。具体的に何をしようかと考えていくうちに、気持ちはさらに前向きになっていく。2年目からは、仕事と並行して起業に向けた準備を進めていった。
「まずは、自分事として捉えられるテーマに取り組もうと思ったんです。となると、当時会社で学んだものとして、SaaS事業とメディア事業の2つがあって、一旦それ以外はまだやるべきではないなと。SaaSは難しくて少しジャンプアップし過ぎる印象だった一方で、メディアであれば業務委託でサイトを作り、きちんと営業して売ることができれば安定収益に繋げられる可能性がある。自分の営業力やビジネスの蓋然性が高まっていればできるんじゃないかと思って、メディアを作ろうと思ったんです」
メディアの領域も同様に、自分のバックグラウンドを活かせる水泳から着想を得て、スイミングスクールの比較サイトを立ち上げることにした。サイトの制作は、同期のエンジニアに報酬を払って依頼し、完成後はそれをひたすら売っていくことから始めていった。
いきなりリスクの高いところに手を伸ばすより、まずは自分が着実に始められるところからスタートした方がいい。進む方角さえ決まっていれば、その方が最速で動き出し、経験から学んでいくことができると信じていた。

当初収益はゼロだったが、アクセス数は少しずつ伸びてきた。ニッチな領域だからこそ、きちんと運営すれば可能性はありそうだ。そう思い、2年目の終盤には独立することを決意した。起業にあたっては、スイミングスクールにコネクションのある地元・名古屋に戻ることにした。
しかし、現実は厳しかった。その後の3か月間も、売上は全く上がらなかったのだ。
「一時は会社員に戻ることも考えたのですが、がむしゃらに頑張っていたら1社大きな企業さんが掲載してくださって。そのおかげで芋づる式と言ったらなんですけれども、他社さんも続いたので、なんとかなりましたね。1年経った頃には、東海地方の半分ぐらいのスイミングスクールが掲載してくださったので、根気強くあきらめなくて良かったなと思いました」
知り合いがいるスクールから、そのまた知り合いへ。新規で営業していくよりも、紹介で繋がる「人の縁」の力は大きかった。しかも、自分自身に水泳のバックグラウンドがあるからこそ、しっかり熱量を込めて営業できる。どんな業界にもコミュニティはあるものだが、たとえ初対面でも共感しあえたり、同士だと思ってもらえたりすることの威力は大きい。結果として、それらが数字に繋がっていく実感があった。
そうして数か月間続けていくうちに、収益は徐々に安定していった。
しかしその矢先、ちょうど新型コロナウイルスが猛威を振るいはじめる。営業がしづらくなるだけでなく、全国展開を目指すなか一人の力の限界も感じるようになり、少しずつ事業売却を検討していった。
「もう一つ、大きな要因があって。スイミングスクールに営業していくなかで、集客ツールよりも人材の方がはるかに必要とされていることが見えてきたんです。それでも自分の思いや『水泳をやってきた人間だから』と伝えると契約は取れていたのですが、『いいよいいよ、やってあげるよ』という温度感で、サービスとして喜ばれているわけではなかった。だったら、より大きな課題を解決した方が、人の役に立つ事業になると感じたんです」

どのスイミングスクールに足を運んでも、「人が足りない」「人を紹介してくれない?」と相談された。レッスンを担えるのは、基本的に水泳経験者に限られる。ただでさえ労働人口が減少している時代、どのスクールでも最も深刻な悩みは人材不足だった。
本当の課題を目の当たりにし、当初は人材紹介事業を始めることも検討した。ただ、いきなり門外漢の領域に踏み込むのも難易度が高いだろうと考え、もっと別のアプローチはないかと模索していった。
「業界の構造はまだまだレガシーで、数十年前からあまり変わっていなかったので、何か構造ごとゲームチェンジできるものはないかと探したときに、ふと目についたのが監視員でした。プールには常に監視する人が必要ですが、ときには人手が足りないからと管理職の人間がヘルプで入ったりするんですよね。それを見て、『人の目に代わるカメラ』という構想が生まれたんです」
人手不足でも運営できる仕組みを生み出すにはどうすればいいか。そう考えたとき、いわゆるDXの文脈でサービスを提供できないかと思い至った。監視員の目を代替するには映像であり、映像といえばカメラだ。そうしてシンプルに辿り着いたのが、AIカメラというアイデアだった。
「カメラで何かできないかと考えていたときに、当時インターンが一人だけいたので、何気なく相談してみたんです。『こういうものを作りたいんだよね』と話したら、そのインターンが偶然、画像解析の受託企業でも働いていて。すぐに繋いでもらって出会ったのが、現在の取締役CTOである荒川でした。それが、Opt Fitをスタートするきっかけになりましたね」
最初は受託という形で、溺れた人を検知するシステムの開発にともに取り組んだ。しかし、溺れている状態の定義は難しく、映像では水中深くまで見えづらいことなど、技術的ハードルは想像以上に高かった。半年間ほど試行錯誤を重ねたものの、得られた結論は実現は難しいということだった。そのため一度立ち止まり、プール以外の可能性にも目を向けてみることにした。
「プールを運営している施設って、だいたいトレーニングジムが併設されているんですよね。そこでもDXは遅れていたので、『じゃあ、こっちでやるのはどうか』とピボットすることにして、トレーニングジム向けのAI監視ソリューションを作ることにしたんです。そのとき荒川からも、それなら市場もある程度大きいし解像度も高いから、受託ではなく一緒にやりたいと言ってもらえて、改めて法人化することにしました」
メディア事業は売却し、2020年に株式会社Opt Fitを立ち上げた。
解くべき社会課題が明確になり、プロダクトの方向性も定まった。挑戦は形を変え、より本質的な社会的意義へと近づいていった。

CTO荒川と、オフィスにて
大学時代に目的を見失っていた時間を、今も教訓にしていると渡邉は語る。
「やっぱり『心の死』ほど辛いものはないと思うんです。だから、目標や目的を自問自答していくことが重要で。僕自身、大学時代そうだったように、心が不安定であることが一番のリスクだと思うんですよね」
とはいえ、そこまで難しく考える必要はない。心を安定させるために意識するのは、悩みをゼロにすることではなく、悩みの質を変えることだという。
「悩みや葛藤の内容が成長しているかどうか、という点は意識するかもしれません。当然悩みは尽きないので、悩んでしまったときに一回俯瞰して考えて、少し前の悩みよりも目標や目的に近づいているかどうか。それを見直すと、ポジティブに捉えていけると思っています」
大学時代は、辞めるか辞めないかという極端な2択の葛藤から抜け出せなかった。一方で結果を出している選手は、「どうすれば速くなれるか」という前向きな葛藤をしていた。悩みの質が変わると、同じ悩みでも前進するための力に変わっていく。
「今でも葛藤はあります。ただ、前回の悩みよりも質が上がっているのであれば、それは事業や会社のフェーズが進んだ証拠でもある。もし悩みが前に進んでいないなら、一度立ち止まって考え直したり、行動を変えた方がいい。逆に前に進んでいる悩みなら、継続した方がいい。そういう捉え方は大切にしています」
悩みながらでも前に進めている限り、心は死なない。着実に、そして最速で歩むために、立ち返る哲学の存在は、私たちの支えになる。

2025.12.9
文・引田有佳/Focus On編集部
目的を持つことは、生き方そのものを支える軸になる。渡邉氏の言葉や選択には、このシンプルだが揺るぎない原理が流れている。
心が死んだ状態で続ける努力には、どれほど時間を費やしても前に進む感覚がない。だからこそ渡邉氏は、自分が何を望み、何に向かいたいのかを問いつづけてきた。目的を持つとは、未来の自分の在り方を決めることであり、日々の行動に意味を与えることでもある。
起業という選択も、リスクではなく「目的に近づくための動き」として自然に踏み出された。手の届く領域から始め、小さな挑戦を積み重ねながら、自分にしか語れないテーマへと道をつないでいく。その姿勢は、変化の激しい時代をどう生きるべきかという問いへの一つの回答にもなっている。
文・Focus On編集部
▼コラム|2025.12.10 公開予定
私のきっかけ ― イチロー
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
人に依存しない施設運営を、AIの力で|起業家 渡邉昂希の人生に迫る
株式会社Opt Fit 渡邉昂希
代表取締役CEO
愛知県出身。大学4年時に水泳競技を引退し、都内のITベンチャーに新卒入社。メディア事業やSaaS事業のバリューチェーンに幅広く従事。その経験を活かし、24歳で起業しフィットネス施設特化のメディア事業を展開し、1年で事業をスケールさせ、上場企業へ事業売却を実施。25歳で2社目の起業とともに株式会社Opt Fit代表取締役CEOに就任。