目次

人から始める経営、対話でつくる組織 ― エンジニアとメンバーの成長を設計する

目の前の一つひとつに没頭し、やりきることが未来をつくる。


「不合理な常識を疑い、新しい合理的な常識を作り出す」という経営ビジョンのもと、ITエンジニアの価値向上を目指すサービスを次々と創出してきた株式会社TWOSTONE&Sons。2020年に東証マザーズ市場(現 グロース市場)へ上場し、2023年からはホールディングス体制へと移行し、より広範な社会課題解決に向き合っている。同社のグループ会社である株式会社Branding Engineerは、エンジニアプラットフォーム事業を主軸に成長を続けてきた。主力サービスである「Midworks」には、グループ連結累計60,000名以上(※2025年8月31日時点)のフリーランスエンジニアが登録し、企業とのマッチングや働く環境づくりを支えてきた。


株式会社Branding Engineer 代表取締役CEOの大島孝之は、大手人材サービス企業で事務・製造・エンジニア領域の派遣事業の統括を担ったのち、総合人材ベンチャーで介護領域の派遣事業の立ち上げ、拡大を牽引した。その後エンジニア派遣企業での執行役員、代表取締役社長COOを経て、2024年に株式会社TWOSTONE&Sonsの執行役員および株式会社Branding Engineerの取締役として参画。2025年9月より、同社代表取締役CEOを務めている。同氏が語る「仕事の報酬」とは。






1章 Branding Engineer


1-1. すべてのエンジニアの喜びと幸せを持続させる


事業や組織について語るとき、大島が一貫して重視しているのは、「人がどう成長していくか」という観点だ。その考え方は、現在の事業づくりや制度設計にも色濃く反映されている。


「従業員やエンジニア一人ひとりの成長によって、サービスの価値が高まり、結果的に会社の成長がより加速していく。そんな風に事業や組織をとらえています。そのために、エンジニアが自己研鑽しキャリアアップできる仕組みや、それに連動した報酬体系、透明性のある評価制度をきちんと整えていきたい。営業も、若いうちから経験を積んで市場価値を高めてほしい。そうした環境そのものをエンジニアリングしていきたいんです」


そうした思想の背景には、大島自身が長年この業界に身を置くなかで感じてきた、ある違和感があった。


「この業界の課題として、エンジニア自身が、自分の派遣業務によってどれくらいの対価が支払われているのかを把握できないことが多いんです。平均単価は出ても、自分自身の価値が分からない。結果として、成長やスキルアップにつながりにくくなる。そこで当社では、対価をきちんと開示し、報酬体系と連動させる形に刷新しました」


あわせて、エンジニア一人ひとりの志向や目指す方向性を踏まえながら、「次はどんなスキルを身につけ、どんな業務を担うのか」という目標を設定。その実現に向けて、営業が伴走する体制を整えているという。


「その目標は顧客にも共有して、『ここまでできるようになったら、ここまで評価してほしい』とすり合わせています。エンジニアの成長が顧客の事業成長につながり、結果として対価も上がっていく。そうした循環をつくっていきたいと考えています」


株式会社Branding Engineerでは、フリーランスエンジニアと企業のマッチングサービス「Midworks」を軸に、ITエンジニアと企業双方の価値向上を目指してきた。2025年8月には、その延長線上として派遣事業にも領域を広げている。


エンジニアと顧客企業双方の要望に応えることで、外部委託エンジニアの活用が進み、サービスとしての価値も高まっていく。事業が拡大すれば、従業員やエンジニアにはより多くの挑戦の機会が生まれる。そうして「成長が還元され、さらなる成長を促す構造」をつくろうとしている。


「顧客のより多様なニーズに応えるため、2025年からは従来のフリーランスエンジニアの支援に加えて、正社員エンジニアの採用も強化してきました。フリーランスと正社員を掛け合わせたチーム編成の提案など、より柔軟な開発支援体制を整えています。エンジニアにとっても、キャリアの選択肢を広げられる環境になるはずです。グループ全体では、上流・中流・下流まで一気通貫で支援できる体制を目指しており、引き続きその一部を担っていきたいと思っています」


人の成長を起点に、制度を設計し、事業として具現化していく。その一連の取り組みこそが、株式会社Branding Engineerの企業競争力を形づくっている。




2章 生き方


2-1. 没頭し、楽しむ


昭和の面影を残す、昔ながらの東京の商店街。そこで家族は祖父の代から寿司屋を営んでいた。戦後の高度経済成長期、日本中が沸き立っていた祖父の時代には、寿司屋に限らず商売は活気に満ちていたらしい。その跡を継いだ父と母もまた、朝から晩まで店に立ちつづけていた。


客商売というものを身近に感じながら育ったが、跡を継ぐよう言われたことは一度もない。その代わり、何か一つ秀でたものを見つけるように言われていたと大島は振り返る。


「まず『人様に迷惑かけるなよ』ということは、ものすごく言われました。それから『一つでいいから秀でたものを作れ』とか、『友だちはたくさん作った方がいいよ』みたいな話はよくされていましたね。おそらく家族は職人気質だったので、勉強ばかりしても役に立たないという空気があったんじゃないかな。当時はよく分からないまま、秀でたものってなんだろうと、その言葉だけがふわっと心に残っていました」


両親の影響があったかは分からないが、昔から好奇心は旺盛だった。興味を持ったものや、人から薦められたものにはまず触れてみて、気づけば次々と没頭していく子どもだった。


「自分が好きになったものや興味のあることは、集中して没頭していたなという記憶があります。たとえば、プラモデルを作るのもそうですし、ゲームやスポーツでもなんでもそうですね。車や飛行機もいろいろな種類を覚えていったり、それぞれの特徴やどこの会社が作っているのかを調べたり、気づけば自分でいろいろ調べているんですよね」


小学校で始めた野球でも、その姿勢は変わらなかった。上手くなりたい一心でトレーニングに励み、自分で調べたり、監督やコーチに聞きに行ったりしながら、どうすれば試合に勝てるのかを考えつづけていた。


分かるまで向き合い、突き詰める。自分なりに納得がいくところまでやりきると、次の興味へ自然と関心が移っていくタイプだった。中学でも野球は続けたが、その頃には野球熱は次第に落ち着き、代わりに勉強に面白さを見出すようになっていった。


「小学校のとき、テストがあるじゃないですか。それが最初は全くできなかったのに、いつの間にかできるようになっていたことがあって。良い点数を取ると周りが喜ぶし、自分も気持ちいいし、これは面白いなと。それで、もう少し勉強してみたいなと思って、中学生になってから母親に頼んで塾に通わせてもらったんです」


家の近所にあるからと通いはじめた塾は、かなりのスパルタ指導だった。授業中に私語をしただけで、怖い先生から雷を落とされる。しかし、当時は学べることが楽しくて仕方なく、週に3~4日通いつづけていた。


「特別いい高校に行きたいという思いもなくて、当時は学ぶことそのものが目的になっていましたね。知らないことを吸収できたり、分かるようになるのが楽しくて、一学年上の範囲まで進んで勉強したりして。とにかく学ぶことが楽しかったんです」


深く没頭するからこそ、見つかる楽しさがある。対象が何であれ、一人黙々と打ち込む時間は、少しずつ自分の輪郭を作っていったのかもしれない。




2-2. やりきるかどうかの差


高校入学後は、早々にラグビー部の先輩に両脇を抱えられ、気づけば入部のサインを書かされていた。チームは都立ながら伝統があり、顧問の先生もラグビー界で有名な指導者らしい。フィジカルだけでなく、思考やマインドセット、生活面まで基礎から徹底的に叩き込まれた。


「ラグビーは本当に仲間ありきのスポーツで、個人の技量だけではないところが野球とは大きく違いましたね。試合中は先輩後輩に関係なく入り乱れるので、わざわざ『何々さん』『何々先輩』なんて呼ばないんですよ。1年生から3年生まで、全員あだ名や名前で呼び合うフラットなチームだったのは、すごく面白かったですね」


最終的に、チームとしてリーグ戦で華々しい結果を残せたわけではない。それでも、部活としては厳しくも楽しい時間であり、学校生活はほとんどラグビーの思い出一色になった。


「ラグビーでは、毎日継続することが大事だなと感じました。やっぱり1日サボると、1週間サボってしまうんですよ。1週間サボると1か月サボって、1か月サボると1年サボる。そうして部活に来なくなる人がたくさんいたんです。厳しい環境でも、1日なんでもいいから続けていこうとする姿勢は、ラグビーを通じて学んだものかもしれません」


当時の日々は充実していた一方で、ラグビーで得られた学びや情熱を、将来どこに向ければいいのかまでは、まだ見えていなかった。勉強への関心も高校生になると落ち着いていて、大学受験は「ひとまずどこかに受かればいいか」程度の感覚だった。


「一応進学校ではあったので、みんな大学には行くと言っている。じゃあ、自分も行った方がいいだろうという感じでした。父親からも、勉強はしなくてもいいけれど、大学を出ておくことが一つの保障にはなるわけだから、遊べる時間という意味でも行っておいた方がいい、という話はされていて。あまり真面目に勉強はせず受験して、合格したところに入りましたね」



授業は出なければいけないものだけ最低限出席し、あとは食堂で友だちと話したり、遊びに行ったり、あるいはアルバイトをしたりして気ままに過ごす。明確な目標を追いかける仲間の姿に刺激を受けつつも、結局やりたいことは見つからず、就活はせずにそのまま大学を卒業した。


当時はちょうど就職氷河期で、なおかつアルバイトで十分な収入があるからという甘えもあった。約1年後、「そろそろ働いた方がいいんじゃないか」と知人に言われたことをきっかけに、ようやくスーツを買って就職活動を始めることにした。


「本屋さんで就職雑誌をパラパラめくっていたら、当時は人材派遣業というものが成長しはじめた時期だったので、求人が目について。面接を受けに行ったら内定をいただいたので、契約社員として入社しました。最初はコーディネーターと言って、営業がもらってきた案件を登録スタッフさんに紹介したり、面談をしたりする仕事をしていたんです」


仕事は想像以上にハードだった。すぐに辞めようかとも思ったが、2日目には早速、静岡まで出張に飛ばされる。(当時だからこその労働環境ではあるものの)夜遅く、疲れてオフィスに戻ると同僚たちが働いている姿を目にする。無我夢中で働くうちに、気づけば辞めることを考える瞬間もなくなっていた。


一方で、1か月ほど働くと、どうやら周囲には正社員ながらサボっている人も存在するということが分かってきた。


「そのときに『じゃあ、この仕事を本気でやったらどうなるんだろう?』と思ったんです。たとえば、営業で外出して夕方ぐらいに商談が終わったら、普通帰社するじゃないですか。でも、みんな帰らないんですよ。『どうせ帰れないんだからさ』と、漫画喫茶で休憩してから21時ぐらいに戻る方もいて。『あれ?じゃあこの時間分もきちんと仕事をしたら、この人たちを越せるんじゃないか?』と思ってやってみたら、マーケットも伸びている状況だったので成果が出たんです」


目の前の仕事に向き合いつづけるうちに、少しずつコツのようなものが掴めてくる。ほどなくして成績トップを取ることもできた。上司に言われたことに従って愚直に行動を続けた結果、半年後には正社員にしてもらうことができた。


「標準化された仕事なので、本来差は出ないはずなのですが、人によって差は生まれてくる。これって何が違うのかと考えると、結局それを100でやるのか、80でやめてしまっているのか、120をやり続けたのか、200なんて無理だと思わずにやりきるのか。やっぱり決めたことを徹底的にやりきることが大切で。これを自然と身につける機会に恵まれたのが、1社目時代だったかなと思います」


一日、一週間を主体的にやりきるかどうか。その些細な思考と行動の積み重ねが、いずれ大きな差を生みだす。仕事に没頭してみて再確認できたのは、継続してやりきる意義だった。


1社目で出会った仲間と



2-3. 仕事の社会的意義


6~7年ほど働いた頃、とある新規事業に駆り出された。ミッションは、中部東海エリアを中心とする商圏で、エンジニアの常用型派遣事業を立ち上げることだった。名だたる大企業を顧客とすることもあり、これまで以上の視座が求められ、仕事としては一つの転換点になった。


「有期雇用で働く派遣と違い、当時僕が携わった常用型の派遣の場合、社外の派遣先で働いているけれど同じ会社の社員という形態で、どうしてもコミュニケーションや接点が希薄になりがちだったんです。そうした中でいかにコミュニケーションを取っていくかを設計したり、ノウハウもない状態から手探りで立ち上げていったことが印象的でしたね」


会社としてもゼロからの挑戦であり、従来のやり方には頼れなかった。なんとか立ち上げメンバーで奮闘し、ようやく事業が軌道に乗りはじめたかに思えたが、その矢先、状況は大きく変わった。会社が買収され、その翌年にはリーマンショックが訪れた。


順調だった業績は一転し、新規の受注は全てストップする。親会社の方針で退職勧告をしなければならない場面もあり、激動の2年を経験することになった。


「当然僕一人の力ではなく、上司や優秀な方に囲まれながら、『こうやってルールや仕組みを考えて作り、運用していくんだ』と学べたことは大きかったです。たとえば、今こういう事業フェーズだからこうしようとか、一人ではなく百人で同時に動かすためにモニタリングはこうして、こういうオペレーションにしようとか、一つひとつ設計していくんですよ。それまで自分が感覚的にやっていた仕事が、こうして仕組みとして具現化されていくんだという様を間近で見ることができて、すごく勉強になりましたね」


1社目時代


事業の立ち上げから組織づくり、マネジメントなど多くを経験する機会に恵まれつつ、30代後半には新たな環境へと向かうことにした。ちょうど偶然、かつての同僚から声をかけてもらったことがきっかけとなった。


「1社目時代に仲が良く、仕事の面でもいろいろな戦略を一緒に考えてもらったりしていた人がいて、その人と僕の後輩が当時急成長していた人材ベンチャーにいたんです。『新規事業を立ち上げるから一緒にやろう』と声をかけてくれて。1社目では約14年働いてきて、そろそろ新しいことを始めてもいいタイミングかなと思ったので、ジョインしました」


新天地では、介護福祉領域に特化した人材派遣事業の立ち上げに携わり、それまで学んだ仕組みづくりや仕事の標準化のノウハウを新たな環境で試していった。


組織は新卒比率が高かったので、育成と同時に自ら動く必要がある。事業部としての目標を追いながら、人と現場に向き合いつづける日々のなかでは、今につながる学びもあった。


「事業を拡大させていくなかで介護施設の開発や運営にも関わるようになり、システム会社の方の話を聞くようになったんです。システムを導入することで夜勤の人数を減らせたり、業務の効率化が図れたりする。それって、本当に大きなインパクトだよなと感じたんです。利用者のために介護士を増やすことも大切ではあるのですが、技術を担うエンジニアを増やすこともまた、社会への貢献になる。お世話になった祖父母にも、何か返せるものがあるんじゃないかという思いが生まれたんです」


もともとエンジニア派遣事業に携わるなかで技術を間近で見てきたからこそ、いざ介護領域に足を踏み入れたとき、そのアナログさには大きなギャップを感じていた。パソコンは施設に一台あるかないかで、現場はとにかく人が足りていない。そんな業界の課題を解決する技術の存在意義を、強く実感するようになった。


仕事にはさまざまな意義があるが、エンジニア人材を増やすことは、その中でも大きな意味を持つ。大島にとって、仕事とは打ち込むほどにやがて社会と接続し、気づけばより大きな社会的意義へと向かっていくものだった。




2-4. 組織づくりには「対話」が不可欠


立ち上げた介護派遣事業は無事拡大し、当時の業界トップにまで成長した。採用した新卒世代も気づけば30歳前後になっていて、事業部長を任せられるようになりつつあったので、次なる挑戦へと意識を向けるようになった。


「いわゆるプロ経営者のような仕事がしたいという思いがあって。1社目は非常に人に恵まれましたし、2社目では1社目の仲間と挑戦して再現性があった。ただ、これは最初から知り合いがいたから、あるいは会社にネームバリューがあったからできたのかもしれないと思って、だったら次は全く知り合いのいない会社で自分の力を試してみたいと考えていました」


ご縁がありジョインしたのは、50年続く歴史を持つエンジニア派遣企業だった。思い入れのあるエンジニア派遣に、経営という立場からもう一度携わりたい。そんな思いもあり、当初は中部エリアの営業部門を管掌する役員として、事業と向き合っていくことになった。


若く勢いのある環境だった前職と一転し、制度や基盤ははるかに整っている。しかしその分、社内は保守的な雰囲気でもあった。仕組みをつくり組織を改善しようにも、長年現場を見てきた社員にもプライドがある。過去の歩みを尊重しつつ、未来に向けて必要なことを始めていくために、何よりもまず必要とされていたのは一人ひとりとの「対話」だった。


「数名の所長や若いメンバーにも協力してもらいながら、毎週月曜から土曜の朝まで4~5拠点を回っていました。1日3か所、夜はそのまま食事に行ったり。ほかにもメッセージを送ったり、一緒に顧客のところに行ったり、とにかくコミュニケーションを取りつづけましたね」


2年ほどが経った頃には、代表退任に伴い、急遽その役割を引き継ぐことになった。事業自体は堅実な成長を続けていたが、全社の戦略や方針が浸透しきっていない部分もあったので、変わらず全国を回りながら社員やエンジニアと接点をつくり、傾聴し、対話しつづける。地道な積み重ねだが、やりきるしか道は開けないと考えていた。


「短期ではなく長期の目線で戦略を考え、いかに現場に落とし込んでいくかということを、当時は大いに学べたかなと思います。あとは、長く勤めている方が多かったので、仕事の目的があいまいになっているケースも多かったんです。『そもそもこの仕事の目的は何なのか、何のためにあるのか』を整理して伝えていく。そういったことは、自然には生まれてこないからこそ、意識的に仕込んでいくことがとても重要だと感じました」



株式会社TWOSTONE&Sonsとの出会いは、共通の知人の紹介だった。創業者である河端(代表取締役CEO)、そして高原(代表取締役COO)とも定期的にコミュニケーションを取るようになり、経営者としても、事業としても可能性を感じた。「この二人とともに働きたい」と思えたことが、最終的には意思決定の決め手となった。


「まず、高い目標や志を掲げて、到達せずともその過程でもがくことが成長につながるという思考であったり、あとはやはり『人思い』なところですね。共感できる部分も多く、一方で、若い彼らよりも僕が先に経験してきたものを活かしていくことで、経営に貢献できそうだった。何より『彼らと一緒に仕事がしてみたい』という思いが強かったですね」


2024年に株式会社Branding Engineerの取締役(同時に、株式会社TWOSTONE&Sonsの執行役員)としてジョイン。2025年9月からは、代表取締役CEOに就任した。


組織はちょうど過渡期を迎えており、強い個から強い組織への変革が求められるフェーズにあった。優秀な社員ほど、従来の成功体験にとらわれやすい側面もある。一段先の景色を見据えながら、現状と正しく向き合う。そのためには、やはり一人ひとりとの対話が欠かせなかった。


人と向き合い、対話を重ねていく。気づけばそれによって得られたものは、仕事上の成果だけではなくなっていた。これまでさまざまな環境で出会った仲間が、時間を経てもなお、困ったときに頼れる存在として力を貸してくれる。それが何より心強い助けになった。


「これは後付けになってしまうかもしれないのですが、いろいろな人と、現場やそれ以外でも接点を持ってきたことによって、助けてくれる仲間が多くできたと思っています。株式会社Branding Engineerに来たときも、『一緒に仕事しようよ』と声をかけたら来てくれるメンバーが何人かいて、とても助かったんです。僕自身、若い頃はあまり意識していなかったのですが、仕事の報酬って結局最後は仲間なんじゃないかという思いが、今では強くあります」


振り返ってみれば、仕事を通じて積み重ねてきた対話の一つひとつが、いつの間にか人との関係性となり、自分を支える土台になっていた。一人では成し遂げられない仕事に向き合うなかで、仲間と組織の価値は、何より確かな報酬として返ってくる。


エンジニアの成長に伴走し、市場価値を高めていく。そのために必要な仕組みや環境を整える挑戦もまた、そうした過程を経てこそ、社会に還元できると信じている。




3章 学びつづける組織へ


3-1. 仕掛けをつくる側に立つということ


変化の激しい時代において、どう学び、どう戦略を描くのか。その姿勢こそが、仕事の成果を左右すると大島は語る。


「過去の成功にとらわれず、広い視野と寛容な心を持って、常に学習しつづける。そうして成功に導くための戦略を描き直しつづけることが、僕は仕事をしていて非常に重要だと思っています」


学習の中には、「失敗」も当然含まれる。特に、チームや組織を率いるリーダーを志す場合には、失敗といかに向き合うかが問われるという。


「失敗もきちんと学習の機会ととらえて挑んでほしいんです。もし失敗したら、なぜその戦略を取ったのかを説明したり、結果を振り返って何が起きたのかを言語化して周囲にも伝えていく。これからリーダーを目指す人にとっては、そういったことがすごく大事になってくるんじゃないかと思います」


学習機会としての失敗を人と共有することは、相手との関係性の質を高めることにもつながる。同僚やチームメンバーなど仕事の仲間だけでなく、プライベートでもそうだろう。建設的な意見を交換し合うことで、新たな気づきや発見も生まれてくる。人と人が同じ目標に向かって走ったり、集団を牽引していくうえでは、そうした対話が物事をスケールさせる一助になっていく。


個人が学びつづけるだけでなく、その姿勢が組織全体に広がっていくこともまた、変化にさらされる時代に必要な前提となる。


「今は技術の発達含め、社会の動向にきちんと目を向けていないと、どんどん自分自身が陳腐化してしまうようなところがあると思うんですよね。だからこそ、当社のメンバーたちには学習の意義をしっかり伝えていって、自己研鑽してもらいたいなと思っています。やはり学習しつづける組織が強いと僕は思っているので、時代の流れに応じてきちんと学び直していける組織でありたい。そんな空気をつくっていきたいですね」


会社とは単に成果を出すための場ではなく、「仕掛けをつくる場」でもあると大島は考える。


自ら仕掛けをつくることで、仲間が喜び、顧客の課題が少しずつ改善されていく。そうした変化の喜びが、仕事を今よりさらに味わい深く、学びの多いものへと変えていく。だからこそ、より多くの人が「仕掛けをつくる側」に立つことで、組織にも仕事にも前向きな循環が生まれていくのだろう。




2026.2.5

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


人に本気で向き合いつづけることは、時間も手間もかかる。短期的な成果を追い求める方が、効率はいいかもしれない。それでも大島氏が選んできたのは、一人ひとりと対話し、仕組みを整え、学び直しを重ねながら組織をつくるという道だった。


対話を通じて個の状態を捉え、失敗を学習に変換し、戦略を更新しつづける。その積み重ねによって、組織は属人的な強さから、再現性のある競争力へと移行していく。短期の成果や過去の成功体験に依存せず、長期視点で人と向き合う姿勢は、結果として仲間を育て、組織を支える基盤となる。


変化の激しい環境下で組織を支えつづける力とは、いつの時代もそうした地道な道のりを経て生まれてくるものなのかもしれない。


文・Focus On編集部



▼コラム|2026.2.6 公開予定

私のきっかけ ― 『失敗の本質』

▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)

変化が激しい時代の、一つのリーダー像 | 経営者 大島孝之の人生



株式会社Branding Engineer 大島孝之

代表取締役CEO

東京都出身。大手人材サービス企業に入社後、事務・製造・エンジニア領域の派遣事業において、統括ゼネラルマネージャーとして従事。その後、ベンチャー系の総合人材サービス企業へ転じ、事業本部長として介護領域の派遣事業の立ち上げと拡大を牽引。エンジニア派遣を主力とする企業では執行役員を経て、代表取締役社長COOに就任。2024年より、株式会社TWOSTONE&Sonsの執行役員およびグループ会社である株式会社Branding Engineerの取締役として、グループ傘下におけるITエンジニアマッチング事業の統括を担う。2025年9月、同社代表取締役CEOに就任。

https://b-engineer.co.jp/


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