Focus On
吉田博詞
株式会社地域ブランディング研究所  
代表取締役
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or人とは違う選択を重ねるほどに、迷いは期待に変わっていく。
「菌をケアする」という新たな健康習慣とライフスタイルを提案する株式会社KINS。マイクロバイオーム(常在細菌)に関する研究・開発・販売を一気通貫で行う同社では、累計10万人を超えるユーザー数を有するコンシューマープロダクト事業、人と動物の臨床データが集まるクリニック事業、そして次世代のプロダクト開発や創薬シーズ発見に取り組む自社ラボを掛け合わせた独自のビジネスモデルを展開。慢性疾患/症状の根本解決に向けたイノベーションを継続的に創出すべく、国内外でのプラットフォーム拡大を加速させている。
代表取締役の下川穣は、岡山大学歯学部を卒業後、歯科医を経て都内医療法人の理事長として従事。慢性疾患に悩む人の診療と経営を並行するかたわら、対症療法に終わらず根本的な体質改善にアプローチするマイクロバイオーム領域に可能性を見出し、2018年12月に株式会社KINSを設立した。同氏が語る「ギャップを作る価値」とは。
目次
目には見えないが、人の体には約1,000兆個もの常在菌が共生しているという。その数は一人を形作る細胞よりはるかに多く、体内あるいは皮膚上で人それぞれの多様な生態系を構成している。「マイクロバイオーム」と呼ばれるそれら微生物の生態系は、遺伝子解析技術の進化に伴い、ここ20年あまりで一気に研究が加速している分野だ。
菌は誰の体にも存在し、一定の均衡を保ちながら私たちの健康を支えてくれている。
同じ医学と健康の文脈で語るなら、漢方という選択肢が浸透しているのと同様に、「マイクロバイオームを使って根本から健康な体に変えていく」ことを、当たり前の文化として根付かせていきたいと下川は語る。
「ようやく最近では、免疫ケアと言えば乳酸菌で、ヨーグルトを飲んだ方がいいという認知が広まりつつありますが、それ以上はほとんど誰も知らないような状態なので、第一想起として菌が漢方を超えるような立ち位置に来ないと、すごく機会損失が大きい。菌はそれぐらいの大きなイノベーションなんですよ」
これまで医療の発展は、症状として表れている不調の原因を特定し、薬を処方することで症状を改善することに重きが置かれてきた。高血圧なら降圧薬を飲む。たしかにそれで血圧は下がるが、飲むのをやめれば元に戻ってしまうため薬を手放せない。老後、何十という種類の薬を常飲している高齢者などが良い例だろう。
国全体として医療費が高まっている今、より根本的な体質改善や予防の観点にアプローチし、結果的に過剰な薬を減らすマイクロバイオームは、まさに医療業界が進もうとしている次のステップとも相性がいい。
「菌のポテンシャルの一つは、体質ががらりと変わることにあります。今までのソリューションは、末端の症状を抑えるという話で、体質を変えるということはなかなかできなかった。むしろ通常の薬だけでは副作用が出たり、薬の飲み過ぎによって腸内環境が荒れたりする。薬を飲めば飲むほど、実は体質的には強くなっていかない可能性があるということも最近では分かってきているんですよ」
KINSでは「菌ケア」という切り口の研究をベースとし、to C向けヘルスケアプロダクトの開発・販売と、医療サービス(クリニック・動物病院)を提供。両者を通じて得られる菌と臨床データなどを用いて、さらなる独自研究や創薬シーズの発見へと繋げていくラボの運営という循環型のビジネスモデルを展開している。
単一のシーズ開発などに終わらず、研究・開発・販売を掛け算することで、継続的にイノベーションを起こせる仕組みとなることを目指す同社。その先には、新たな医療体験の創出を見据えているという。
「医療業界にPHR(Personal Health Record)という概念があるのですが、疾患にかかってクリニックに来て以降のデータだけでなく、疾患になる以前の健康・医療データから時系列かつ網羅的に見られるようになると、より生活習慣の改善に繋げられたり、効果的な予防が実現できると言われているんです。現状、この予防領域のデータとクリニックでの体験は分断されているのですが、KINSは菌を通じてそれらを紐づける役割になることができると思っています」
2023年8月、同社はシンガポールにて、尋常性ざ瘡(ニキビ)ほか皮膚疾患の治療に強みを持つKINS Clinicを開院。多種多様な人種が集まるシンガポールでのデータをもとに、将来的にはクリニックとブランドを統合したプラットフォームとして、国内外へと広げていく構想であると下川は語る。
「基本的には今後も予防領域のBtoC事業とラボ事業、そしてクリニック、この3つを拡張していきたいと思っています。一方で、この仕組みはマイクロバイオームに限らず、健康な人と病気の人のデータをラボが管理するという構図として、医療業界のイノベーションにおける理想的なプラットフォームになり得るので、ほかのテーマでも横展開して大きくしつづけることができると面白いなと思っています」
マイクロバイオームは世界的にもまだまだ未開拓な領域だ。高齢化や人口減少に直面するこれからの社会において、従来の医療ではカバーしきれなかった予防や体質・生活習慣の改善などを実現していく「菌ケア」は、新たな選択肢としてますます必要とされていくのだろう。
幼少期から明朗快活で、クラスでは必ず1番に手を挙げる。伸び伸びと過ごした少年時代だが、母が教育熱心だったので一通りの習い事は経験させてもらい、なかなか忙しい日々だった。なかでも人生を決定づけたものとして迷わず挙がるのは、まだ記憶もあいまいな時期から習っていたバイオリンだと下川は振り返る。
「3歳の時からバイオリンを習っていたんですよ。母がチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』という曲がすごく大好きで、子どもに習わせたいと思ったらしくて。そこで最初にバイオリンを習ったということが、結構僕の人生の中でもいきなりターニングポイントだったと思っています」
生まれ育った福岡県北九州市といえば、かつては特に、成人式に集まるやんちゃな若者たちの姿がよくニュースになることで有名だった。小学校にも金髪でタバコを吸っている同級生がいたりする。当然そんな環境のなか、特に男の子でバイオリンを習っている人は周りに一人もいなかった。
友だちに話せば反応はさまざまだが、ほぼ間違いなく驚かれる。もともと目立つことが好きな性格ではあったものの、小学生だった当時、「人とのギャップ」はなんだか居心地の悪いものだった。
「人と違うことをやらなければいけないことが、物心がついた頃の自分からすると嫌で恥ずかしい。学校には学校のコミュニティがあるから、そこの友だちとは遊びたいし、一緒でいたい。でも、親のために続けたいという気持ちもあって、当時はその二重感というか、その間を彷徨うような感覚がありましたね」
結局、バイオリンは高校まで続けていくことになる。最初のうちは恥ずかしさや葛藤も抱えていたが、決して安くはないレッスン代や楽器代を出してくれる両親への感謝もあり、途中で投げ出す気にはなれなかった。
何より10巻まである教則本を1冊ずつ終えていく過程には、目に見えて自分がレベルアップしていくような達成感がある。しかも、年数を重ねるほどにジュニアオーケストラで演奏したりと、人に誇れる経験が増えてきた。16歳の時には、ついに母が好きなチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』をオーケストラとともに演奏するという機会にも恵まれた。
「小さい頃は『人と違う=恥ずかしい』になるのですが、成長するにつれて人と違うことができることで称賛される経験も増えてきて。結果的に小さい頃から強制的に人と違うことをやってきたからこそ、ギャップを作りやすいというか、迷わず人と違う方を選択できる。あえて人と違うことをして差をつけていくということが、幼少期から染みついたように思います」
ギャップを恐れる人が大半だからこそ、勇気を持ってギャップを作りにいく一歩には価値がある。そこではむしろ普通では味わえないような体験ができたりと、豊かな未来が待っている。幼少期からの経験があったからこそ、年を重ねるほどにますますそう思えていた。
幼少期
2-2. ポジショニングの重要性
1990年代のバスケットボールブームの火付け役といえば、大人気漫画『SLAM DUNK』をおいてほかにない。小学生だった当時、テレビではちょうどアニメ版が放映されていて、『SLAM DUNK』は社会現象となっていた。小学校低学年からミニバスを始め、気づけば20代半ばまで続けるほどのめり込んでいた。
「バスケットボールが単純に得意だったということと、あとは結構駆け引きがたくさんあるスポーツで。仲間と連携してパスのタイミングをずらしたりギャップを作ると、ものすごく強い相手でも抜くことができたりする。ただの1対1ではなく、5対5の中での1対1みたいなところが面白くて、すごく好きだったんです。基本的にギャップを作ることがすごく好きな人生なので、バスケットとも相性がいいんだろうなと思います」
どうやらバスケは面白いだけでなく自分に向いていたようで、小学校でも中学校でも続けてキャプテンを務めた。地域の大会に出場すれば、他校のライバルともエース同士で顔と名前を覚え合い、仲良くなっている。いつしか試合以外でも集まるようになり、まさに青春と呼べるような時間を過ごした仲間とは「全員同じ高校でバスケをやろう」と熱く約束し合った。
「それが偏差値的には地域で上から2番目の学校だったんですよ。中学校ではだいたい1番か3番以内の成績を取るような学生だったので、実力的には1番の高校にも行けると言われていたんです。でも、みんなとバスケがしたいから2番の学校に行きたいと親に行ったら、初めてうちの父から反対されて」
父は体育教師で、のちには校長を務めた人だが、元は全国で活躍するバレーボール選手だった。勉強よりもスポーツに心血を注いできたタイプの父は、勉強についてとやかく言うような人じゃない。それどころか、何かを否定されたことすら初めてだった。
だからこそ、余計にインパクトがあったのかもしれない。その道を究めてきた人の言葉には、やはり説得力があった。
「自分がバレーを第一線でやってきた人なので、正直僕がそんなレベルではないということは分かるわけじゃないですか。『そのあと大学もバスケで推薦を狙えるなら話は違うけど、そうじゃないでしょう』と。勉強で1番の学校を狙えるのに、あえてバスケを優先して選ぶのはどうなのかということを言われて、ぐうの音も出なくて。結局僕だけ一人志望校を変えたのですが、納得していたのであまり迷いはなかったですね」
小学校時代、地元のお祭りにて
父の言葉に素直に従い、バスケより勉強を優先して高校を選んだ。しかし、入学してみると、すぐにそれまでの自信を打ち砕かれることになる。
「中学校の時の僕は、偶然が重なってスターだったんですよ。バスケ部のエースでキャプテンだし、勉強も1~3番以内だし、ファンクラブもあったくらい。それが地域で1番の高校に入ったら、最初の順位が300人中270番だったんです。それで天狗になっていた自分が打ちのめされて」
文武両道な校風だったこともあり、ライバルたちはみな強力だった。勉強ができるだけでなく、大学のスポーツ推薦も有力視されていてレベルの違いを実感する。自分なりになんとか努力したものの、結局最後まで勉強もバスケットボールもどっちつかずな状態のままだった。
「高校はそれなりに頑張ったのですが、常に自分の中では物足りないような感覚で、なかなか壊せない壁のようなものを感じていて。中学とのものすごいギャップを体験したことが、中高の1番の思い出です。それが今にどう繋がっているかという話で言うと、『ポジショニング』みたいなものをすごく意識するようになっていったんですよね」
ライバルに勝てないのなら、人とは違う勝てる領域で勝負する必要があるのではないか。そのために、どの領域を選ぶかが重要なのではないかと仮説を立てた。
勉強の目的が分からずモチベーションを保てなかった大学受験、そして浪人生活を始めるにあたっては、まず自分が向かう先を探すことにする。最初の3日間、地域で最も大きな書店へと足を運び、朝から晩までさまざまなジャンルの書籍を手に取りつづけた。
「そこでなぜか『ゲノム創薬』というキーワードがすごく響いたんですよ。当時は遺伝子を網羅解析して、一人ひとりの人間の特徴に合わせた最適な薬を作りましょうという分野が、おそらく確立したかしないかくらいの頃で。それを見た時に、薬が作りたいのかどうかは一旦置いておいて、何かイノベーション的な新しいものにすごく興味がある、パーソナライズしていく新しい未来みたいなものがすごくかっこいいと思ったんです」
新しくイノベーティブで世界を変える何か、そんなものにかかわる仕事がしてみたい。なぜかは分からないが、心動くものがそこにはあった。
おそらく当時はバスケ部も引退し、新しく気持ちを込められる何かを探していたのだろう。目標として自分が向かっていける何か、人とのギャップを作ることができる何か、そんな領域を追い求める思いを原動力に、まずは目の前の大学受験を乗り切っていくことにした。
歯学部の合格を掴んだため、浪人生活には終止符を打ち進学することにした。
入学後は高校生活の二の舞にならないよう、何より初日からポジショニングを意識していった。余念のない自己プロデュースをして臨んだ結果、思った通りの学生生活が送れるようになり一定の成功体験を得る。
しばらくは特別なこともなく日々を過ごしていたが、大学生活も後半に差し掛かると将来を真剣に考えはじめた。6年制である歯学部と違い、4年制大学に進んだ中高の同級生たちが一足先に就職し、次のステージへと進みつつあった。
「僕たちが4年生の時に、定期的に会っていた当時の友だちは就活を始めていて。それこそ就職したらリクルートでいきなり初年度MVPをもらったみたいな話を聞いていると、こっちはまだ学生なのでなんとなく差を感じて、そこで焦りはじめたことはすごく記憶に残っていますね」
改めて歯科医としてのキャリアを考えてみる。歯学部生の場合、大学卒業後1年間の臨床研修を経たあとは、いずれ9割以上が開業医のもとで働いていくことになる。しかし、身近な歯科医と言えばもっぱら大学で研究をしている先生であり、ロールモデルとして参考になりづらかった。
「どんな歯科医になればいいのかとか、ロールモデルというものがあまりなくて。そこが僕の中で少しいまいちだと思ったので、大学を卒業して成功している有名な開業医さんと歯学部生をマッチングする学生団体を作ったりしていましたね。飲み会を開いたり、何人かを連れて先生のところに見学に行ったり、向こうからしたら早めの新卒採用のような感じでメリットがあるということで」
知り合いや先輩のツテを使い、さまざまな先生に機会をもらった。普通では会ってもらえないようなベテランでも、学生団体の代表として接点を持つと時間を作ってもらえたりする。特定の立場だからこそ得られる機会があるというのも、新鮮な発見だった。
「結果として、自分が1番勉強になって。これもまたポジショニング理論なのですが、結局それを先頭切ってやって連絡を取っているからこそ、覚えてもらうのは僕であるわけじゃないですか。もちろん調整をしたり1番大変なのは僕なのですが、1番メリットが大きいのも僕だったということは印象的な体験でした」
そうこうしている間に、卒業後研修医として働く環境を選択する時期が迫りつつあった。
歯学部では先輩後輩の繋がりがとても強い。ほとんどの人は先輩の背中を追いかけ、同じ大学病院、大学院などへとそのまま進んでいくことになる。選ぶ自由があるとはいえ、わざわざ外様になるリスクを冒す必要もないからだ。しかし、そんなキャリア観にはどこかしっくり来ていなかった。
「繋がりが強いということは良い面でもあり、悪い面でもあると思って。結構みんな部活の先輩がこうだからとか、先輩の背中を見過ぎな感覚があったんですよね。本当に10個上の先輩たちと常に繋がっている感じなんです。それはすごく恵まれていて良いことでもあるのですが、社会人になってもずっとその関係性が続いていく。自分の中では何かそのレールから外れたいという感覚が大きくて」
大学は高校の同級生たちとは違う選び方をした。環境を変えることで成功体験を得た感覚があったため、このまま何も考えずに横並びで環境を選択していくことには抵抗があった。
多くの人が選ぶ道があるのなら、逆に自分はあえて環境を変え、ギャップを作っていく方が得られるものが大きいのではないか。そう考え、卒業した岡山大学を離れ、地元である九州大学の大学病院で研修医として働きはじめることにした。
「やっぱり環境を変えるということが、常に自分の中でポジティブだったので、また違うところへ行くことにしたんです。自分が外からの新しい血として入っていくことになるのですが、もう何回か経験して慣れているので、どうポジショニングを取るかと考えて。半年後には研修医の中心にいたので、どんどん学習が進んでいるというか、成功体験が積み上がっていく感じはありました」
レールからは外れた場所で、自分なりに人より突き抜けられる部分を探し、進んでコミットする。何度も試行するほどに、ポジショニングの考え方にも慣れてくる。
必ずしも道の先が明確だったわけではない。けれど、一貫した姿勢自体がいつしか自分を形作っていった。
研修医として1年過ごしたあとは、九州大学大学院へと進学。同時期に結婚し、やがて子どもが生まれたことをきっけかに、開業医のもとで働きはじめることにした。ひとまず家族を養う必要があったため、そこから3年はいかに稼ぐ力をつけるかを考えていた。
「そもそもどうやって稼げばいいのか分からないとなった時に、ビジネス書とかを読むとセールスとマーケティングみたいな話がどんどん出てきたんですよ。だから、働きながら歯医者の一連の治療を医療の側面で見ながらも、同時に結構ビジネス的な側面でも見てはいて。どういう風に売り上げが作られて、どうすれば自分の給料が上がるのかということは、おそらく人の5倍ぐらい考えていたと思いますね」
ただ新米歯科医として働くだけでは、収入にも限界がある。もちろん歯科治療の本分は尽くしつつ、それ以外にもできることはなんでもやろうと考えた。ビジネス書を読み漁り、我流で知識を詰め込ながら、機会を見つけては実践していった。
「その3年の間に歯医者の仕事と並行して副業もやっていて。保育園とか知り合いの美容師さんのコンサルをやったり、あとは知り合いの焼肉屋さんのスマホサイトを作って予約を埋めたり。その時はもう、本当に稼ぐモードに入っていたんです(笑)」
いくらか成功体験が得られたことで、ビジネス面の能力にも少し自信がついてきた。ちょうど子育てが落ち着いてきたタイミングだったこともあり、妻の地元である東京へ行き、経営などキャリアを広げていく新たな挑戦をしてみるのもいいかもしれないと考えた。
転職にあたっては、普通とは違うどこか尖ったものがある環境を求めていた。
「20代の時には、ホワイトニング500円キャンペーンみたいなものをスマホサイトで打ち出してうまくいったんです。当時は12年くらい前なので、福岡でスマホサイトを持っている歯医者は僕以外いなかったんですよ。人と違うことをいち早くやってうまくいったのですが、ホワイトニングってサービス自体はベタじゃないですか。その後はやっぱり取れなくなっていたんですよね」
サービスが普通であればあるほど、ブランド力と広告予算を持つ大手には最終的に勝てなくなる。だからこそ、サービスが差別化できることを念頭に置きつつ探した結果、「医科と歯科を連動させる」というコンセプトの総合クリニックと出会い、入社することにした。
「平社員として入って、半年後に分院長になり、その次の年には理事長になったので、そのあたりが二度目の仕事の成功体験でした。分院長時代に初めて経営もさせてもらって、今思えば経営の真似事ですが、それでもすごく結果が出たんですよ」
単により良い医療を提供するだけでなく、歯科以外の消化器内科や皮膚科などといかに連動し、自分たちの能力を最大限活かしたサービスを提供できるか。そのための患者をいかに集客できるかということを、分院長時代には考えた。
逆に言うと、こちらが提供したい価値に対し、間違ったターゲットを集めても患者の満足度は上げられない。20代に経験した多くの失敗から学んだことが、経営に活きてくるのを感じていた。
「治療の上手さみたいなものはある意味年齢とセンスなので、正直3~4年では一般的にそこまで大きな差は生まれないんですよ。ただ、ビジネスパーソンとしての戦闘力は29歳の歯医者ではない戦闘力だったと思います」
20代の成功体験はマーケティングの成功であり、歯科医としての成功ではなかった。しかし、分院長時代の成功体験は、医療とマーケティングやセールスを掛け合わせたものだった。より良い患者体験を自分の手で生み出せた実感もあり、掛け算の妙のようなものを強く感じることができた。
6院目を開業するなどクリニックは順調に成長を続ける一方で、やがて人のマネジメントという新たな問題にも直面した。理事長に就任してからは、急拡大した組織ゆえに生まれるひづみや仕組み化の必要性などを痛感していった。
「当時は本当にトップダウン以外のやり方を知らなかったので、あまりよろしくないドクター経営者のような感じだったのではないかなと思います。70名前後の組織だったので、まぁまぁいろいろな文句も出るし、辞める人が出れば採用しなければいけなくて。通常の業務をやりつつ、自分で『理事長の下川です』とスカウトメールを送りまくる。そうしないと回らなかったですね」
理事長として組織と向き合いつつ、同時に医療でも新たな課題感を持つようになっていた。
当時は慢性疾患、たとえば皮膚科領域では掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)という手のひらや足の裏にぶつぶつができる病気や、消化器内科領域では過敏性腸症候群という腹痛や下痢・便秘などを繰り返す病気、あるいは膠原病という免疫の病気を患う人を多く診ていた。
「そこに対してマーケティングを仕掛けて患者さんを集めて、各分野の専門である先生たちのサービスを提供するということをやっていて、これは一定うまくいったんです。でも、一方でこの慢性疾患をいかに治すかという話になると、ソリューションが既存薬だけではなかなか治らないんですよ」
対症療法ばかりではなく、もっと根本的な解決に迫る治療はないか。目の前の患者さんにより良い体験、つまり「治す」ということを実現できないか。そんな悩みを抱えていたある日、某大学との共同研究の話が舞い込んできた。
「そこで初めてマイクロバイオームという世界と出会って。浪人生だった当時ゲノム創薬に感じた光というか、こういうものをやってみたいと思った瞬間と同じぐらいの拡張性とイノベーションを感じて、世の中を変えられそうだと強く思ったんです」
まさにこれから発展しようとするマイクロバイオームという領域に、かつてない将来性を感じた。詳しく調べてみると、国内ではマイクロバイオーム関連の会社はほとんど検査会社のようなものしかない一方で、海外では発見されたシーズをもとに新薬を作ったりと、盛んにシーズが話題にされていた。
通常アカデミアなど研究機関で30年かけて見つけていくようなシーズを、継続的にいくつも見出せるようなビジネスモデルや仕組みを作ることができれば、この領域のイノベーションは一気に加速するだろう。次なるチャレンジへと惹かれる思いが強くなり、起業することを決意した。
「マイクロバイオームは、いわゆるディープテックと言われるものにあたるので、研究が不可欠な要素にはなるのですが、薬だけでなく健康食品や化粧品という形で今すぐ提供でき、予防領域にも貢献できるという良さがある。だから、最初は予防から入ってビジネスモデルを作りつつ、最終的に新しいシーズが再現性高く、より短いスパンで生まれるような仕組みにできればと考えていました」
2018年12月に株式会社KINSを設立。研究とビジネスを掛け合わせ、独自のロードマップを描きながら進むことにした。
幼少期のバイオリンや、大学の枠組みから飛び出した研修医時代、そして歯科医という枠組みから外れて起業家となった現在に至るまで、人と同じであることに安心しがちな日本人の傾向とは反対に、あえて枠からはみ出るような機会を意識して作ってきたと下川は振り返る。
「少し外れた経験をする勇気みたいなものは、やっぱり頭では分かっていても実際にやったことがないと、チャンスが来た時に一歩踏み出せないと思うんです。だから、周りと横並びではないことを、いつどのようにチャレンジするかという視点は大事なのかなと思います」
はじめは誰しも不安や迷いを感じるだろう。しかし、外れることで出会える機会や価値を実感するほどに、逆に横並びでいる方が落ち着かなくなってくるという。
「自分の生き方が完璧に板についてきたと感じたのは、起業したタイミングくらいですかね。まだ研修医ぐらいの頃はもちろん不安もあったのですが、何回か成功体験を積み重ねていくうちに、外れることに対しての不安よりも期待の方が大きくなるんです」
人とは違う選択といっても、何もたった一回の意思決定で大きく人生が変わってしまうほどの差分は生まれづらい。良くも悪くも、5度ほど角度がずれるようなイメージだと下川は考える。それを何回か繰り返すほど、独自の道は形作られていく。
「ずれたとしても元々の能力が失われているわけではなくて、ずれた先には何かが待っていて、増えていくイメージなんですよね。ずれればずれるほど自分のキャパシティが広がっていく。経営で言えば、そのキャパシティが広がったところに対し、それぞれの責任者を採用して、掛け算していくというのが今の僕の鉄板パターンになっています」
歯科医というキャリアの王道が明確な業界にいたからこそ、余計にその価値を意識したのかもしれないと下川は振り返る。どれだけレールや王道から外れられるか。何よりまず体験してみることが、可能性を広げていくのだろう。
2024.11.14
文・引田有佳/Focus On編集部
小さなギャップの積み重ねが、やがては容易に真似できない差別化になる。下川氏の人生はそう物語る。古くはバイオリンを習った幼少期から、大学卒業後の環境選択、そして歯科医にとどまらず医療法人の理事長を務め、起業に至るまで、レールには頼らない方を選択しつづけてきた。
人生やキャリアだけでなく、サービスや企業の道のりもそうかもしれない。世の中の多くの人がそうするであろう無難な選択や意思決定だけを続けても、突出した存在にはなりにくい。
KINSのユニークなビジネスモデルも、少しずつギャップを作りキャリアを掛け合わせてきた下川氏だからこそ辿り着いた最適解だと言える。
いつ、どこで、どのようにギャップを作るのか。いきなり突拍子もない選択をする必要はないけれど、恥や余計な感情にとらわれずギャップを作るには、ある程度の「慣れ」も必要であるようだ。なりたい理想に近づくことは、少しずつ自分の心を慣れさせていく過程でもあるのかもしれない。
文・Focus On編集部
▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)
あえてレールから外れるからこそ、広がる世界がある|起業家 下川穣の人生に迫る
株式会社KINS 下川穣
代表取締役
1985年生まれ。福岡県出身。岡山大学歯学部を卒業後、都内医療法人の理事長(任期4年3ヶ月)を務める。クリニック経営を任されながらも、2,500名以上の慢性疾患に対する根本治療を目指した生活習慣改善指導などを行う。医療法人時代の日本最先端の研究者チームとのマイクロバイオーム研究や、菌を取り入れることによって体質改善した原体験をきっかけに菌による根本治療の可能性を感じ、2018年12月に株式会社KINSを創立。
https://corporate.yourkins.com/