Focus On
安藤高志
株式会社Ptmind  
Co-founder
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or日常のささいな一瞬の中にも、人を幸せにする価値は眠っている。
カメラを起点としたよりよい社会を実現すべく、カメラ機材(モノ)の提供から撮影体験(コト)の創出を手掛け、人の心に寄り添うカメラブ株式会社。同社が展開するカメラ機材のサブスク「GOOPASS」や、撮影意欲が高まる体験のサブスク「GOOPASS GO」は、人々の思い出づくりや、未来に残すべき価値の再発見に貢献したいという思いが込められている。現在、地域社会やスポーツ、教育機関、MaaS企業など多様な領域との連携も進められており、循環型社会の実現や地域創生に向けた取り組みも注目されている。
代表取締役の高坂勲は、高校時代からカメラを趣味とするほか、新卒で大手通信会社、創業期の医療×IT系スタートアップ企業を経て、2017年にカメラブ株式会社を設立した。同氏が語る「人生を豊かにする価値のつくり方」とは。
ファインダーを覗いて切り取る世界に正解はない。なにげない地元の風景も、暗闇から出る一輪の花も、誰のどんな写真にも価値がある。もしもカメラが小学校の必修科目だったなら、全員がヒーローになることができるだろう。カメラの価値を信じる高坂はそう語る。
「小学校の特別課外授業という形で、私たちのデジカメを子どもたち全員に配り、写真家の方に先生として来ていただく取り組みを始めています。算数とかって正解不正解で授業をやるじゃないですか。写真は全員が褒め合う授業になって、自己肯定感が上がる。結果的に写真を好きになったり、地元愛を育むきっかけづくりになればと考えているんです」
購入ハードルの高いカメラ機材が月額定額でレンタルできるサブスクリプションサービス「GOOPASS(グーパス)」を軸に、撮影意欲が高まる体験のサブスク「GOOPASS GO」など、カメラと人の新たな関係づくりを進めている同社。
そこでは単にカメラを手に取ってもらう機会を増やすだけにとどまらない。かけがえのない思い出や心動かされる風景を未来に残したり、共通の趣味として会話のきっかけを生んだり。あるいは地域課題を解決することを支援したり。カメラを起点としたより良い世の中をつくることが、カメラブの描く大切な世界観であるという。
実現のためには、より多くの人に価値を届ける必要がある。たとえ今はカメラや写真に関心を持っていない人の中にも、潜在的なニーズは眠っているようだ。
「弊社がスポンサーになっているスポーツチームの試合の際に、ブースを出展して直接借りられるようにしたんです。そしたらお客さんが殺到して、さーっと持って行ったんですね。やはり価格の設計なども大事ですが、本当に使いたい瞬間にカメラがあれば、その瞬間をきちんと残しておきたいというニーズはあるんだなと実感しています」
本格的なカメラは気軽にカバンに入れて持ち歩きにくく、不慣れな初心者には使い方のハードルも高い。しかし、その入り口にある体験が変われば、もっと多くの人がカメラを楽しみ、日常のささいな幸せを写真という形に残せるようになる。同社はその橋渡し役になる。
「カメラの世界シェアは9割が日本なんですが、日本でこんな産業は珍しい。貴重な産業を救うためにも、カメラの文化をもう一度盛り上げていくことを企業の存在意義として感じています」
たとえば、大人が子どもを連れて旅行にいくとき、当たり前のようにそこにカメラがあり、美しい一瞬が写真として残される。親目線で切り取られたその時間の風景が、いずれ子どもが大人になる頃には懐かしく大切な思い出になることは想像に難くない。
その瞬間を思わず写真におさめた感情も、撮影したものを見返すときの感動も、それを人と分かち合う喜びも、全てカメラがあるからこそ時間を経ても鮮明に思い出すことができるようになる。
スマートフォンで手軽に撮れる写真にももちろん価値はあるが、本格的なカメラだからこそ形に残し、伝えていける情緒や感情があるのではないだろうか。
より多くの人にカメラが普及し、生涯楽しめる趣味として当たり前の選択肢になる未来。人の生活にカメラが自然と溶け込む新しい社会を、カメラブは創り出していく。
カメラブの事業は、シンプルにモノを届けるだけで終わらない。人の心と密接にかかわる同社事業が目指す価値は、モノ・コト・トキという3軸で整理されるという。
「まず、モノについては趣味嗜好品を手に取りやすくしていきたいという思いがあります」
手に取ることで人生を豊かにしてくれる、しかし入り口のハードルは高いもの。それはカメラだけにとどまらず、たとえばキャンプ用品や楽器などもそうだろう。
人によっては一生触れる機会がないかもしれないが、手に取ってみれば意外な楽しさを発見することもある。そうした出会いやきっかけを創出すべく、さまざまな店舗や会場などとの提携により接点を最大化する。なおかつ、そこでの体験を充実させていく。
「手にして終わりだと、結局挫折してしまうことも多いですよね。コトについてですが、より深くハマってもらうための体験の機会をつくったり、ノウハウを提供して仲間づくりまで支援したいと思っています」
初めてカメラを手に取った人が、使い方が分からず真価を体験できないまま終わってしまう。それでは結局「好き」は生まれない。
最初の成功体験までをいかに導くか。最短ルートを再定義しながら、より多くの人にそこで喜びを見出してもらうことが重要になるという。
「カメラを触ってもらうにしても、実は最初にf値*を覚えてもらう必要はないんじゃないかと考えたりしているんです。どうすれば背景のボケを撮れるか、それだけを分かりやすく伝える動画を作ったりもしています。あとは全国で撮影会を開催したり、リアルで身近に先輩がいる環境をつくるなど、挫折させない場づくりを重視しています(*レンズから入る光の量を調整する絞りの度合いを表す、背景のボケなどに影響する要素のこと)」
最後にトキについては、一言であらわすならば「約束」にあたると高坂は語る。体験を瞬間的に終わらせるのではなく、いつかまた振り返り楽しめるようなきっかけを仕込んでおく。
「自分もカメラマンとして仲間たちと旅行に行って、いろいろな写真がデータベースに撮りためられているんですけども、たまに見返してもそれだけで終わってしまい、コミュニケーションに繋がらないんですよね。その写真って自分の中での思い出にはなりますけど、そこから広がりを持てなくなっている。だから、『先に約束する』ということを文化にしたいと思っていまして。そうすることで繋がりを強められますし、将来にわたって価値の時間軸を伸ばしていくことができる」
いつかの日か思い出のアルバムを、かけがえのない時間を共有していた人たちと振り返り、『ああ、懐かしいね』と自然に言い合える。ただそれだけの関係が、誰かの心の救いになることもあるだろう。
「おそらく平常時だとその価値はあまり意識されないかもしれません。でも、もっと重要なのは非常時で。大切な誰かが亡くなったときや、自分の将来が急に病気で閉ざされてしまったとき、人が喜びを感じづらくなったときの心の救いになるんじゃないかと思っているんです。趣味や生きがいがあれば、夢は叶わなかったとしても、とりあえず目の前のものに救われるような状況はつくれるんじゃないかと」
「好き」との出会いの機会があり、夢中になることができ、生涯かけて楽しめる。だから、新たな「好き」にも自然と目を向けていく。そんな正の循環をあらゆる領域でつくりだす。
「好きに夢中になれる機会を支え、誰かの喜びと生きがいをつくる」と掲げられたビジョンの通り、人生を豊かにする価値をカメラブは人の心に届けていく。
駅の線路と並行する道に、長く長くつづく桜並木。まるで桜のトンネルのような景観は約3kmあり、「日本の道百選」にも選ばれている。毎年楽しげな花見客でにぎわい、思わずカメラを向ける人も多い。幼少期から成人する頃までを過ごした千葉県松戸市で、最も印象的な風景だと高坂は振り返る。
「日本でもかなり古い団地があるところで住宅街なんですけれども、3駅くらいにわたる長い桜並木の通りがあって、その風景がすごく印象的です」
今では住み慣れた街で暮らしはじめたのは、まだ記憶も定かではない幼い頃のこと。両親はともに保険のセールスとして働いていて、独立してからは保険以外も扱いながら個人事業主として関東圏を中心に飛び回っていた。
おかげで旅行がてら連れられて、ときに遠くの街を訪れることもあったという。
「スーツを着て会社に行く親ではなかったので、何の仕事なんだろうと思いつつ、いろいろなところに行って楽しそうだなと思っていました。毎回どこかに出かけて、『今日は長野のお土産だよ』とか言ってお土産を買ってきてくれたり、たまに連れて行ってくれることもあって。単純に旅行が好きなんでしょうね。ただただドライブしておいしいものを食べて、違うところに行けることが私も楽しかったです」
子どもに仕事の内容はよく分からない。けれど、遠くに出かけることはやはり新鮮で、目新しい土地を旅してさまざまな風景を目にすることを心待ちにするようになっていた。
父と母は穏やかで優しく、怒るために声を荒げるようなことはなかった。穏やかに育てられたと高坂は語る。幼稚園では大勢で遊びまわるより、1人砂場で何か作ることに没頭したり、みんなを眺めている時間がなんだか心地よかった。
「人を見ていることがたぶん好きだったんでしょうね。輪に入って騒ぐよりも、楽しそうだなぁと見守ることが好きだった。喧嘩する人もいれば、話している人もいれば、走り回っている人もいる。中心に入ることが面倒くさかったのかもしれないですけれども、一歩引いたところから見ている立ち位置だったように思います」
ときに楽しそうに遊ぶみんなの様子を見守り、ときに時間を忘れて1人遊ぶ。当時目に映る風景には、いずれも穏やかな時間が流れていた。
幼少期、家族と行ったディズニーランドにて
小学校に入ると、1人で何かに没頭できることは分かりやすく勉強の成果に繋がっていく。
漢字の練習帳を無心でこなしたり、円周率を50桁まで暗記したり。気づけば先生からは「算数チャンピオン」と呼ばれるようになっていて、何かに熱中することで人から褒められ、達成感を得られるとも分かってきた。
小学3年生くらいからはバスケットボールが好きで夢中になり、そこから新しいきっかけが生まれていった。
「偶然『SLAM DUNK』が流行る前に私がバスケをやりだしていて、流行ったときにはちょっとうまくなってリードできていたんです。そしたら同じ学年の不良グループが何人か地元のバスケのクラブチームに所属していたので、『なんでそんなうまいの?』と向こうから声をかけられて。一緒にゲーム(試合)することになって、なぜか仲間に入れられまして。そこで、彼らもベースはいいやつなんだなと知りました」
学校では問題児扱いされている同級生。ほかの人には、なぜ彼らと仲が良いのかと聞かれることもある。しかし、話してみれば意外と良い面を発見したり、一歩引いて見てみればそれぞれの言い分があるということも分かるようになってきた。
「立場が違うだけで、そんなに悪いやつじゃないのになと思っていたんでしょうね。たぶん、ベースとして人が好きなんだと思います」
きっと、心から悪い人はいないのではないか。彼らと仲良くなったからこそ感じるものがある。遠巻きに見ているだけでは、決して分からなかった事実が見つかるようになった。自分の世界が少しだけ広がったようだった。
そんな風に壁をなくして友達付き合いしていると、クラスでは中立的な立場にいることになる。勉強も好きな方だ。すると自然と、学級委員などリーダーを任される機会が増えてきた。
「不良グループは勉強が嫌いなので、やっぱり『教えてくれよ』となるんですよね。勉強を教えることによって、結構関係性が深まって。学級委員として何か協力をお願いするときも、なんならもう裏で話を通せたり、握ることができて(笑)。当時はコミュニケーションの手段として勉強があったような気がします」
バスケを通じて会話が生まれ、勉強を教えることでコミュニケーションがよりスムーズになった。ツールがあることで、人との関係性のきっかけをつくることができる。当時からなんとなく感じていたことだった。
人によっては、自分と合わない人とは一切かかわらない人生の方が楽だと考える人もいる。しかし、いつかはそこに触れざるを得ない瞬間が出てくるのではないかと高坂は考える。
そうであるならば、立場を超えて人と喜びを分かち合えた方が人生は楽しい。何より、より多くの人が笑顔である風景を見たかった。それには何か共通の話題など、あいだにツールさえあればいい。小学校の不良グループに大切なことを学んで以来、いろいろなコミュニティに自ら積極的に入っていくようになっていった。
幼稚園時代、母と妹と
あちこち仕事で飛び回り元気だった父だが、入院していた時期がある。7歳か8歳の頃、知人の金銭トラブルに巻き込まれたストレスから胃潰瘍を患っていた。
「そのとき幼いながらに、お金があるかないかで選択肢が明確に変わることを医療の世界で目の当たりにして。うちではお金がなくて選択肢が狭まったので、『稼がないとな』と最初に思ったのは小学生のときでした」
健やかでいることの大切さ、そしてお金の大切さ。笑顔で生きるために、誰もがその2つを軽視することはできない。身近な家族の姿を見ていたからこそ、昔からたしかな重みを持って心にあった。
実際、高校受験では滑り止めを受ける家計の余裕がなく、合格安全圏の高校を受験するしかなかった。やはりお金は選択肢に影響する。仕方ないとは感じつつ、本当はもっと難関の高校に挑戦したかったことも事実だった。
入学後は真面目に勉強する気が起きず、ひたすらバスケで体を動かす方に打ち込むことにした。バスケ部に入り、友達と過ごす時間に夢中になっていた。
「1時間目が終わったらお弁当を食べて、2時間目が終わったあたりからちょっと着替えはじめて。3時間目が終わったときには仲間に声かけて、4時間目が終わって昼休みには即体育館集合で1時間バスケするみたいなことをずっとやっていましたね」
生活に変化が訪れたのは高校2年の頃、家族で埼玉県に引っ越すことになった。しばらく遠路はるばる通っていたが、結局両親に頼んで自分だけ慣れ親しんだ地元で一人暮らしをさせてもらうことになる。
「小中高とずっと地元にいたので、そこから転校したらもう友達は全員いなくなってしまうなと思いまして。できることも増えて1番楽しい時期に、ゼロから友達を作り直すのはきついなと。両親はできるならいいよという感じで、1か月くらい試して大丈夫だったことと、結局友達が入り浸ってどうにかなっちゃったんですよ。たまり場になって、ものすごく楽しかったですね」
両親からたまに送られてくる食料品の段ボールに、自然と集まる友達の笑顔。家賃以外の生活費は自分で稼ぐことが条件だったので、空いた時間はアルバイトのシフトで埋めた。忙しい毎日だったが、少しは自立できたような実感もある。スーパーの品出しや接客、早朝のビル清掃。月10万円ほど稼いで生活はギリギリだったが、自分でお金を稼げるという自信にもなっていた。
ただ1つ、心残りがあるとすればバスケ部を辞めなければならなかったことだった。バイト漬けの生活では、どうしても部活の練習時間と折り合いがつかない。
それでも、みんなとバスケがしたかった。だから、自分でチームをつくることにした。
「友達とバスケのクラブチームをつくって、自分たちのチームとして運営しはじめたんです。自分の好きな時間にバスケをするためにはそれしかなくて(笑)。そのチームは15年くらい続けまして、実は当時の共同代表である松田がカメラブも一緒に創業した親友です」
地元でバスケをやりたい人を集め、市に登録すると体育館を借りられるようになる。母校の体育館は顔が効くので、曜日を決めて夜間などに活動しはじめた。
「今までやってきた経験が全部活きたような感覚でした。チーム運営費が足りなくなれば、みんなに稼ぎ方を伝えて、これで運営費を稼いできてと頼んだり。人を集めたいときは、小学校の不良グループに声をかけて昔のバスケチームのメンバーを紹介してもらったり」
実際、中学時代は古本屋を回って差額を見つけては、自分で売り買いすることで数百円ずつ稼ぐ方法を編み出したこともある。お金への意識を持つ経験があったからこそ、チーム運営に必要なお金を協力して集めることができたし、コミュニティの壁を越えて知り合いがいたからこそ、より多くのメンバーを集めることができた。
「当時はガラケーで『魔法のiらんど』を使ってホームページをつくったり。人を集めるのにそれがいいらしいと噂で聞いて、凝り性なのですぐハックして。これは簡単にできるなと思ったんでしょうね。カメラを始めたのもその頃で、試合の風景とかを撮るために始めたことがきっかけでした」
より多くの人が集まり、チームの活動も盛り上がる。お金が増えればできることも増えていく。徐々に実力のあるメンバーが集まって、最終的にはリーグ戦で結果を残すこともできるようになっていた。
人やお金を集める力があると、みんなが喜び楽しめる場をつくるのに役に立つ。活動すればするほど楽しくなり、夢中になれた。
高校時代、バスケクラブチームのメンバーと
楽しい高校生活は終わりに近づき、気づけば受験シーズンになっていた。
高校と同じく大学も選択肢は限られてくる。滑り止めなしの国立1本勝負。しかし、残念ながら合格とはならなかった。一浪が決まり、翌年の目標を見据える。大学4年に加えてもう1年。当時はこのビハインドを埋める方法はないかと考えていた。
「これからITの時代が来るので、情報系の専門学校でホームページを作るその先のスキルが身につけば便利だろうという淡い期待と、現役で専門学校に行っていた親友の松田から、その学校のバスケチームで関東大会に出るということで『一緒に全国行こうぜ』と誘われたことが重なって、その学校へ行くことにしたんです」
大学は4年だが、専門学校は2年で終わる。いち早くしっかり稼いでいきたいという思いがあったので、一浪のビハインドを背負って社会に出るよりは、専門学校に行き同世代より実質1年のショートカットができるのは良いことだとも思えた。
正直、大学への憧れがないと言えば嘘になる。しかし、限られた選択肢のなかでいかに過ごすかは自分次第だと分かっている。それならどんな境遇でも、楽しんで笑顔でいる方がいいはずだ。人が喜んでいる姿が好きだからこそ、まずは自分自身からだと無意識に思っていたのかもしれない。入学後は気持ちを切り替え、アルバイトに熱量を注いでいった。
「ラジオ局とかコンサートでタレントの裏側を支えるアルバイトをやっていまして。ときに警備だったり、アテンドだったり、ケータリングの手配とかですね。たとえば、ラジオ局ではゲストにいろいろなアーティストさんが来ますけど、それを受け入れる場をつくって番組に見送るとか、楽屋周り担当みたいな感じです。これが楽しくて」
楽屋スタッフのアルバイトにて
きっかけは、ありふれた求人だった。『コンサートスタッフ募集』という文字を見た時は、好きなアーティストのライブに行けるかもと思って応募したくらいの気軽さだった。それがほかにないほど惹かれる仕事だと、のちに気づくことになる。はじめは単純な警備スタッフとして働き、何段階か昇格していったあと、タレントを間近で支える仕事を任せてもらえるようになった。
「やっぱり何か自分の夢を実現して稼いでいる人たちなので、すごくきらきらしていて。差を感じたんですよね。でも、同時に普通の人だなとも思える。テレビに出ているようなすごいアーティストたちが、楽屋では本当に素の人で。こんなにも手の届きそうな人が、一瞬にしてスターに変わる。その差はなんなんだろうと見ていて思ったんです」
楽屋で隣にいると、フランクに話しかけてくれる人もいる。エレベーターに一緒に乗ったり、たわいもないことで笑ったり。それがひとたび楽屋を出て、ラジオのブースに入る。その瞬間、観客とアーティストを隔てるガラスの壁が、とんでもなく分厚いものなのだと思い知らされた。
さらに大きな隔たりを感じたのは、同じアーティストが日本武道館でコンサートを開催していたときのこと。本番前、一言も発さず、気を張り詰めている横顔。あんなにも近くに感じていた人が、やはり本当に遠い存在だったのだと感じずにはいられない光景だった。
「1万人もの人を沸かせて、大きなお金を動かしている。そこにエンタメのすごさを感じましたし、同時に1人の人がそれを実現しているということにすごく感銘を受けて。生意気にも、そちら側に行きたいなと思ったんですよね」
自分に何ができるのかは分からない。けれど、少しでもあのアーティストたちと肩を並べられるような存在になれないか。
そんな思いに突き動かされるかのように、ますますアルバイトに励むようになる。
起業意欲が旺盛な学生コミュニティにも顔を出すようになり、スーツを着て営業で稼ぐことにも挑戦した。逆風の中でも本質を見て、論理と感情両方に訴えながら人を動かしていく。自分にないスキルにも触れ、学びと刺激に満ちた環境で過ごした。
「結果的に専門学校ではバスケで全国大会に行くことはできなかったんですが、関東の決勝くらいまでは行くことができて。楽しみながらスキルを身につけて、なおかつ同世代より1年早く社会人になれた。人生の意思決定次第で、こんなにショートカットできるんだなと思ったりもしました」
人より選択肢が限られていたり、不利な状況に置かれていたり。人生にはさまざまなハードルが存在する。それでもあきらめず、目の前の境遇に楽しみを見いだしてきた。
結果的には、それがなりたい姿への近道だったのかもしれない。憧れのアーティストのように、多くの人の心を動かせる存在になるために。楽屋裏からステージへと向かうあの背中を追いかけたいと決めていた。
目指す姿に到達するには、どんな環境を選ぶべきか。まず新卒で就職するなら、やればやるほど稼げる実力主義であることと、営業として鍛えられること。その軸にあてはまる会社を自ら選んだ。
「その会社は結果を出しつづけると出資して子会社にしてくれる制度があって、社長になれる道が約束されていたんです。だから、25歳で社長になろうと思って入社しました。その頃サイバーエージェントやライブドアが割と話題になっていて、そういったベンチャー企業の本を何回も読んでいて。同じように起業したいという思いがありました」
商談へ赴き、相手を喜ばせ、求める結果へと導く。やってみれば、学生時代の営業で慣れた一連の流れと同じだった。
言葉遣いや自分の見せ方はすでに身についている。未経験で入った新卒の同期と一斉に始めれば、抜きんでた結果を残せることは目に見えていた。ただ1人、例外はすぐ隣の席にいた。
「結構成績はトップクラスには出せまして。最短で昇格もできたので半年でサブマネージャーになれたんですが、そのとき実は同じ時期に昇格した同期がいまして。自分は同期中2位で新人1位だったんですが、彼は同期中1位で全社でも1位になっていたんです。それがたまたま隣の席同士で、良いコミュニティに引っ張ってもらえることは本当にあるんだなと思いました」
すぐ隣に圧倒的な実力を持つライバルがいる。切磋琢磨できる良い環境に恵まれていたが、半年ほど働いた頃、学生時代の先輩に声をかけられた。
その先輩は医療×IT領域で会社を立ち上げる予定があり、一緒に来てメンバーをまとめる立場についてほしいということだった。医療には父の病気以来、関心を持ちつづけてきた。さらに、創業期のベンチャー企業で責任ある立場を経験できる。新たな挑戦に心惹かれ、先輩についていくことにした。
まずは営業として数字を稼がなければならない。当初扱っていたのは、今でいうCMSのような商材だった。新規のお客さんを開拓しては、ホームページのリニューアルを提案する。営業の成果は1社目以上に厳しくこだわる会社だっため、毎日契約してこなければ戻ってはいけないというルールがあった。
「今でも印象深い記憶なのですが、契約印を必ず持ち帰るというルールのなかで、どうしてもそれが難しい日があって、機転をきかせて名刺に印鑑をもらったんです。そこに『今はニーズがないので契約はできません。でも、ここまで営業させるスタンスやマインドは素晴らしいものだと思うので、敬意を込めてこの印鑑を押します』と書いてくれる方がいたりして、それを持って帰って『これでどうですか』みたいなこともやっていましたね」
ルールは厳しかったが、結果を出すための自分のスタンスは変わらない。営業というよりはコンサルティングに近い意識を持っていた。具体的には、提案前にデザインを作成しておき、完成品を持って「こうなればよくないですか」と提案する。もし断られたなら「ライバル店に今度持っていくんですが……」と一言添える。即決で契約してもらえることも多く、トップの成績をおさめることができていた。
新卒時代
営業から経営企画、財務経理など幾度かの部署移動を経て、幅広い職種を経験していく数年。はじめのうちは「自分は営業でこそ実力を発揮できる」と思っていたが、結果的にはそれは思い込みであると気づくこともできた。
凝り性な性格が幸いしたのか、部門ごとの楽しさや重要性も分かってきたのだ。ほかにも社内のイベント企画系の実行委員長を務めたりと、次第に企画に強いという手応えを感じはじめていたという。
「社内のビジネスプランコンテストで毎年ファイナリストになったりしていたので、当時後輩で現在カメラブでCOOを務める美園と一緒に、休日にプチ起業をしたんです。バーベキュー用の焼肉のECサイトだったんですが、今でいうアフィリエイトでちょこちょこ売れまして。10年くらい前だったのでタイミングが早かったのがよかったですね。そこから休日に稼げると分かって、美園とサイトトップのイメージ写真を撮る必要が出てきて、自分のおさがりを渡して2人でカメラを始めたのがこの頃です」
本格的に独立を視野に入れはじめた。どんな事業にするかは定まっていなかったため、しばらく企画を練る。さまざまな思考をたどったものの、やはり自分の趣味であり強みといえるカメラの存在は大きいと気づいた。
「たとえば、昔から旅行に行くことが好きなんですけども、カメラがあることで友達に旅行に誘われることも多くなっていたんですね。カメラマン役って1人いると便利じゃないですか。旅の風景を写真に残して、あとで展開して振り返る。そこに自分の場合、全員にカメラを貸したりもしていたんです。残る写真の枚数が増えると、旅の楽しみが増すんですよね」
旅の途中、終わった後、そして1年後。写真を見るたびに思い出はよみがえり、「また行こうよ」という会話が生まれてくることもある。コミュニティの絆を深めるツールとなっていた。
「写真がなかったらそのコミュニケーションっておそらく生まれない。1つの思い出の形として記録があるということが、そんなにも人の行動を変えると実感していたので、ここにはすごく価値があるなと思っていました」
楽しい記憶と思い出を、写真という形に残す。貴重な思い出であるほど、時間が経つことにより価値は上がることになる。その起点となる存在こそが、カメラであると確信があった。
さらに、当時は医療に関わる顧客が多く、医師の先生との会話からも気づきをもらっていた。
「病室って写真が飾られていることが多いんです。それって楽しかった頃の思い出とか記憶が、それを取り戻したいという力になるらしいんですよね。心の持ちようを変えるということで、1枚の写真が患者さんを救うこともあるという話を先生から聞いて、感銘を受けたんです」
たった一枚の写真が、人の生きがいや存在意義になることがある。自身の経験からも、自然と腹落ちするようだった。
2017年4月、カメラブ株式会社を設立。翌年から「GOOPASS」の事業を展開しはじめた。写真は心に響く。だから、この領域にかける価値があると信じている。
カメラブで働く人は、純粋にカメラ好きな人はもちろんのこと、カメラが人にもたらす価値の部分に強く共感するメンバーも多く集まっていると高坂は語る。
「写真を撮ること自体にも自分はエンタメ性を感じていますが、やっぱり人の笑顔を見ることが好きなんですよね。結果的にですが、弊社のスタッフもブライダル業界やディズニーのキャスト経験者などエンタメ業界出身の人が多くて。発信しているメッセージを見て、『この部分が刺さりました』と言ってもらえることが多いです」
誰かを喜ばせたり、人の笑顔が見られる仕事。そんなバックグラウンドを持つスタッフも多く在籍するというカメラブ。なかには、意外なところから仲間が見つかることもある。
「最近印象的だった出来事としては、会社としてウクライナにドローンを寄付したんですよ。あまり発信はしていなかったんですが、先方企業からのツイートが拾われて少しバズったのか、それを見て応募して、『行動と発言が一緒だと思ったので入社したいと思いました』と言って来てくれた人がいて、行動って見られているんだなと思いました」
現地の企業から広く助けを求める発信があり、こちらから寄付を申し出たものだった。寄付されたドローンは兵器になるのではなく、人を救う手段になるという。
「もし会社の取り組みをいいと思っていただけたり、誰かを喜ばせることがすごく好きだという方がいたら、ぜひスタッフに応募してほしいですし、もしくは応援してくださると嬉しいですね」
写真に撮られる瞬間というものは、そこに笑顔があることが多い。
カメラというツールがあるからこそ、残しておける大切な記憶や感情がある。ささいな思い出の記録が、人の心を救う力を持つ。その価値に共感する人は、カメラブと共鳴する部分があるのかもしれない。
2022.6.30
文・引田有佳/Focus On編集部
自分がカメラを手にするまでは、正直やはり限られた人しか扱えないツールというイメージが強かった。素人には意味が想像もつかない専門用語の数々は、いかにもハードルが高そうな雰囲気を醸し出している。
しかし、カメラで一瞬を切り取るためにのぞく世界には、それ自体に価値がある。そこからはじまる心の豊かさの可能性はとてつもなく大きなものであると、高坂氏の話を聞いたあとには理解できるようになる。
純粋に人が楽しそうであったり、笑顔でいるのを見ることが好きだと高坂氏は語る。だからこそ、そんなシーンを自然とつくりだすことに貢献するカメラの価値を信じている。
もっと言えば、これはカメラに限定される話でもない。人が生きる上でかけがえのないコト(体験)やトキを授けてくれる趣味ならば、人それぞれに多様なものが存在しうる。それは立場を超えて人と喜びを分かち合うきっかけにもなるだろう。
唯一共通することは、その存在を知りながらも、なんとなく触れないままでいることは非常にもったいないということだろう。自分のなかの固定観念で世界を閉じることをしない。ただそれだけで、想像もつかない心の豊かさを知ることになるかもしれない。
文・Focus On編集部
カメラブ株式会社 高坂勲
代表取締役
1983年生まれ。神奈川県出身。新卒で大手通信会社を経て、医療IT系のスタートアップ創業期にジョイン。営業/経営企画/財務/上場準備/新規事業などに従事。健康を創る業界に10年以上いる中で、その先の生き甲斐を創りたいと考えるようになり、長年の趣味であるカメラの領域でサービスを考案、某アクセラレータでファイナリストになったことをキッカケに独立。2017年4月10日(フォトの日)にカメラブ株式会社を設立し、代表取締役に就任。「好きに夢中になれる機会を支え、誰かの喜びと生きがいをつくる」べく邁進中。