目次

尺度なきセキュリティの世界に、共通基準をつくる ― 人が集う旗は100年先の未来のために

比較されるサービスではなく、比較の尺度となる仕組みを生み出そう。


「信頼で、未知を拓く。」をミッションに掲げ、企業のセキュリティ対策を切り口に、産業の根幹を守る新たな仕組みを構築していく株式会社アシュアード。HR Techを中心に産業のDXを推進するVisionalグループ発のサイバーセキュリティ企業である同社では、現在、クラウドサービスのセキュリティ信用評価「Assuredクラウド評価」、取引先企業のセキュリティ信用評価「Assured企業評価」、脆弱性管理クラウド「yamory(ヤモリー)」を展開。リリースから約3年半で大手企業を中心とする1,500社以上に導入されるなど、デジタル社会に必須の高度な信用基盤として注目されている。


同社代表取締役の大森厚志は、株式会社ビズリーチに新卒入社後、ビズリーチ事業のマーケティング部、事業企画部を経て、地域活性事業、セールステック事業の立ち上げに従事した。その後、セキュリティの信用評価プラットフォーム「Assured(アシュアード)」を企画立案し事業化。事業部長として同事業を牽引したのち、2022年8月より株式会社アシュアードの代表取締役社長に就任した。同氏が語る「人とともに歩む意義」とは。






1章 アシュアード


1-1. 信頼で、未知を拓く。


人や企業が取引するうえで、「信頼」は大きな意思決定軸になる。相手をどこまで信用できるのか、十分に安全と言えるのか、ビジネスにおいてその判断を支えるものとして「セキュリティの評価」が注目されている。


しかし、その基準はあいまいで、統一された指標も存在しなかった。高度なデジタル社会を迎え、サイバー攻撃や情報漏洩などの潜在的な脅威が高まる今、セキュリティには明確な尺度が求められていると大森は語る。


「セキュリティって、専門外の人からすると何がどれだけ必要なのかが分かりにくいですし、どう改善すべきかも掴みにくいんですよね。アシュアードは、この見えづらい領域に一つの尺度をつくることで、きちんと互いを信頼でき、取引が円滑に進む社会を実現しようとしています」


同社が展開するセキュリティの信用評価プラットフォーム「Assured(アシュアード)」は、取引先企業や導入クラウドサービスのセキュリティ対策状況を、プラットフォーム上で可視化・確認できるサービスだ。


従来は個社ごとに独自のチェックシートで行われていたセキュリティ評価を、専門知識を持つプロが第三者機関として客観的に実施する。評価レポートはプラットフォーム上で一元的に集約・管理され、定期的に更新されるため、取引先全体のリスク管理にかかる業務負荷を大幅に削減できるようになる。


そもそもサイバーセキュリティは、近年急速にニーズが高まってきた領域だ。社会全体で専門人材が不足するなか、各社個別の対応には限界がある。「Assured」の専門チームが策定する評価項目は、国内外の最新ガイドラインに準拠し、ガイドラインの改訂やトレンドに応じた定期的な更新もされており、常に一定の信頼性が担保されている。こうしたセキュリティ指標の明確化は、社会全体を底上げする構造に繋がると大森は考える。


「僕は、セキュリティは教育産業に似ていると思っているんです。国力を上げるために教育は必要ですが、親や学校の先生から『勉強しなさい』と言われても、子どもはその必要性を実感しづらい。それでも、人がなぜ一定の教育を受容するかというと、模試や通知表で成績を可視化されることで、周囲と比較されたり、全体の中でのレベル感を把握できたりする機会があるからだと思うんです。たとえ全員が特別に高い志を持ちがむしゃらに努力しなくても、構築されたシステムによって全体が一定の水準までは引き上げられる。それがシステムの素晴らしさであり、セキュリティにも同様の仕組みが必要とされていると考えています」


起こるかどうか分からない未曾有の脅威は想像しづらく、対応の優先度も上がりにくい。しかし、共通の評価基準が整うことで、情報の透明性が高まるだけでなく、社会全体のセキュリティ強化に繋がっていく。


近年、国内のサイバー攻撃被害の約半数が取引先・委託先経由*といわれるなか、ビジネスパートナーや外部サービスが攻撃を受け、結果的に損害を被るケースも増えている。もはやセキュリティ対策は、単一企業の課題ではなく、サプライチェーン全体で取り組むべき社会課題となっている(*引用:「日本のサイバー被害、半数が『取引先経由』米民間調査」日本経済新聞


一方で、アシュアードにとって「尺度をつくること」はゴールではない。むしろそれを起点とし、どんな価値を社会に生み出せるのか。同社は、セキュリティの先にある「信頼」というより大きなテーマを見据えている。


「今は『信頼』というものを可視化する指標として、セキュリティに軸足を置いています。ただ、『信頼』という言葉は本来さまざまな領域にまたがる概念だと考えているので、今後もまだ形になっていない可能性を広げていきたいと思っています。そして何より、社会に新しい価値を創造しつづける会社でありたい。自分たちがなぜこの事業をつくるのかという点に誇りを持てる会社でありたいと考えています」


セキュリティを起点に、社会に新しい「信頼」の仕組みをつくる。アシュアードは、デジタル社会に必要とされる信用基盤を、50年・100年先の未来へ向けて社会実装していく。


「Assured」の仕組み



2章 生き方


2-1. 生かされている


双子の姉がいたので、小学校時代の思い出はいつも誰かとの繋がりの中にあった。クラス替えをしても必ずどこかに知り合いがいる。姉の友だちだからと仲良くなることもあれば、その逆もある。周囲からは自然とペアで認識されることが多かった。


ただ、双子だからと言って性格や好みまで同じというわけではない。むしろ、興味関心は昔から正反対だったと大森は振り返る。


「どちらかと言えば僕は内向的で、姉はすごく活発でいろいろな人と仲良くなるタイプだったので、よく正反対の性格だとは言われていましたね」


姉は全く興味を示さなかったが、物心ついたときからテレビゲームが好きだった。一人で黙々とやるよりは、友だちと協力して進めていく方が性に合っていて、わずかな時間でも友だちの家に寄り、一緒にゲームをしたりする。分け隔てなく仲良くなれる雰囲気があった小学校は、とにかく楽しかった。


しかし、その一方で当時は悩みもあった。双子であるがゆえに、何かと比較されることが多かった。


「姉は面倒見がいいけど僕は面倒見が悪いとか、僕は勉強しているけど姉は勉強しないとか、そういう比較は家庭の中ですごく多かったんですね。やっぱり性別は違いますが年齢は同じなので、比べられやすかったのかもしれません。そういう比較がすごく嫌だったので、中学は姉とは別の学校に行きたいと思って、受験することを選んだんです」


ちょうど幼馴染が進学塾に通いはじめていて影響された節もある。いわゆる良い学校に入りたいわけでも、勉強をもっと頑張りたいわけでもなく、とにかく姉と比較されない学校へ行き、環境を変えたい一心だった。だから、受験先はあまり深く考えず、学力に合っていて通いやすそうな学校を選ぶことにした。


「希望する学校には一応入ったのですが、第一志望だったかというと違っていて。その頃から、父親から『社会人になったら大手企業に入れ』とか、安定した人生みたいなものへのプレッシャーが増えていって、僕はそれに反発していました。中学の雰囲気もそれまでとがらっと変わったので、なかなか馴染めなかったりと、当時はいろいろなことが重なって、中学1年の後半くらいから学校に行けなくなったんです」


幼少期、双子の姉と


まだ将来のイメージは湧かなかったが、敷かれたレールの上を進みたいとは思えなかった。学校も肌に合わずに生きづらさを感じるようになっていき、次第に家にも学校にも居場所を感じられなくなっていった。


「これ以上誰かと話したくない、部屋から出たくないという気持ちになって、引きこもるようになったんです。当時その中学では、入学時に全員がノートパソコンを買わなければいけないことになっていて、それを使ってネットゲームにハマっていったんですね」


毎朝起こしに来る親には「行かない」と言い切って、2人が仕事に出かけたらパソコンの前の定位置につく。ネットゲームで繋がる人たちとの交流は、現実よりもはるかに近くに心が感じられる。気づけば日が暮れていて、家族が帰ってくる頃にまた部屋へと閉じこもる。時間や日付の感覚がなくなっていき、季節が知らぬ間に移り変わっていた。


中高一貫だったので高校にはそのまま進学したが、生活は変わらなかった。転機は、高校2年生のときに訪れた。母方の祖父が亡くなり、葬儀に参列するため久しぶりに外に出た。


「祖父のお通夜に行くと親戚が集まっていて、母は兄弟が多くて7~8人くらいいるんですよね。その人たちが話しているのを聞いて、あまり裕福ではなかったことや、苦労して大変な時期があったということを初めて知ったんです。そんななか祖父が頑張って母を育ててくれて、母もまた頑張って生きて、結婚して子どもを産んで、結果として今があるんだと。そうやって自分も生かされているんだと実感したんです」


自分を支えるために、母は仕事を辞めて専業主婦になっていた。そして、そんな家庭環境が嫌になった姉は、家に帰らない日が増えていった。気づけば家族はバラバラの方向を向いていて、その中で母だけが「ここで自分が折れたら家庭が本当に終わってしまう」と、奮闘していたことを知っていた。


それまではどこか環境のせいにして、生きているだけでも十分だろうという感覚があった。しかし、自分という人間を育てるために、時間と思いを注いでくれた人がいて、その背景には脈々と続いてきた誰かの人生があるのだと、その重みを初めて理解した。自分の人生以上に、その人たちの思いや人生に報いるために、前を向いて生きるべきなのではないか。そんな思いが湧いてきた。


「その人たちに胸を張れる生き方をするというか、誰かに手をかけて育てられた人間として、きちんと世の中に自分が生きた意味を残さなければいけないと思ったんです。そもそも中学から同じ毎日を3年くらい続けてきて、それをあと2~30回繰り返したら死ぬんだと考えると、この生活はなんだったんだろうと自分でも思ったりして。今からでも生き直そうと思えるようになったんです」


その日を境に、少しずつ自分の外側へと目を向けはじめた。人はみな、自分一人の力で立っているわけじゃない。「誰かに生かされてきた」という実感は、これまでのものの見方を変え、日々を積み直すきっかけになった。




2-2. 社会に何を還元しうるのか


久しく行けていなかった学校に戻るため、高校からは保健室登校を始めていた。これ以上出席日数が足りなくなると退学になってしまう。そうなれば、いよいよ後戻りできないような気がして、少しずつ「生き直そう」という前向きな意思とともに向き合った。


幸い、足繁く家に来ては気晴らしに連れ出してくれる先生の助けもあって、少しずつ外に出られるようになり、高校2年生の途中からは普通に学校に通えるようになった。


「当時は、とにかく自分を知っている人が誰もいない大学に行こうと思っていました。私立の進学校だったのですが、同級生たちがあまり選ばないような大学に指定校推薦の枠を見つけて、そこで一旦人生をやり直そうと思って進学したんです」


なんとか3年分の勉強の遅れを取り戻し、希望する推薦枠をもらって大学に入る。しかし、入学して早々、大学よりも学外での活動に目を向けていくようになった。「生き直したい」という高校からの思い、そして入学直前に起きた東日本大震災(以下、3.11)の記憶が、どこか自分を急き立てていた。


「3.11のとき、偶然福島県にある父方の祖母の家にいて、現地で被災したんです。テレビの報道でも、津波で流された街や、原発近くの地域の惨状を目の当たりにして。社会に生きた意味を残したいという当時の思いとも重なって、自分に何ができるのかを探していました」


Twitterで学生団体などを探してみると、学生向けのアプリコンテストを運営する団体が目についた。半年ほどアプリ開発やマーケティングに関わる活動に触れたのち、今度は社会課題解決に取り組むNPOやNGOへ足を運ぶようになった。幅広い領域に身を置くなかで、当時盛り上がっていたソーシャルメディアにも興味が向き、ベンチャー企業でインターンをしながら学ぶなど、積極的に活動範囲を広げていった。


「中高ではあまりやりたいこともなく、おそらくみんなが1番楽しかった青春時代を僕はずっと家で過ごしていたので、何かに熱中した経験がほとんどなかったんです。でも、社会に出ていろいろな人と関わって、それがビジネスや自分にしかできないアウトプットとして形になっていく。やればやるほど変化が生まれていく感覚が面白くて、大学時代はすごく充実していたと思います」



興味の赴くまま動いていた当初とは違い、次第に社会貢献性の高い活動により意義を感じるようになっていった。ソーシャルメディア系の企業でNPO・NGOとの連携企画を提案したりしていたのも、そのためだった。


社会には、個人の力ではどうにもできない現実や不条理がある。これまでの人生や3.11で体感したものが、社会へ向かう原動力になっていた。


「もともと自分自身が、広い意味での社会的弱者のような生き方をしていたという自覚があって。『ノブレス・オブリージュ』というと言い方が偉そうになってしまうのですが、自分が社会に復帰できたのなら、復帰できた人間として、同じように助けを必要としている人たちに何を還元しうるのかという思いがあったんですよね」


特に印象的だったのは、大学3年生のときに参加していた途上国支援の団体だった。学生たちがヨルダンやルワンダを訪れ、現地で先生を見つけては授業を撮影し、映像教材として届けるプロジェクトだ。企業からはCSRの一環で協賛金を募り、学生が主体となって運営していた。


今思えば、扱っていた金額は決して大きくない。けれど、学生の身からすれば、巨額のお金が動いているようにも感じられる。何もないところから不動産会社へオフィスを借りに行き、ときに大人から怒られたりしながらも、厚く支援してくれる人との出会いもあった。


トライアンドエラーを重ねつつ、確実に誰かに裨益するものを作っているという実感がある。当時は、自分たちでものを起こす手応えを感じられた一方で、今に繋がる学びもあった。


「ある意味、今ビジネスの道を選んでいる理由でもあるのですが、いくつかのNPO・NGOに関わらせてもらうなかで、『継続的にお金を生む仕組みがないと難しい』と強く感じたんです。当時は3.11の直後だったので、社会のお金は復興支援に流れていました。社会全体の寄付の総額は大きく変わらないので、どうしても取り合いの構造になるんですよね。そうなると活動をスケールさせるのも難しいし、持続可能性も低くなる。だからこそ、社会の課題に向き合うならビジネスの仕組みで解決したいと思うようになったんです」


寄付や非営利で行う支援にも意味があるけれど、持続性のある仕組みがなければ変革にはなかなかたどり着かない。ビジネスの力で、社会に何かを還元したい。これまでの経験が一本の線になり、社会に向けて動き出す意志へと変わっていった。


大学時代、途上国支援団体(現在はNPO組織)のMTGにて



2-3. 逆算よりも「誰かのために」


いわゆる就活らしい就活はせず、卒業後はインターンなどでご縁のあった企業の中から就職先を決めようかと考えていた。大手より裁量のあるスタートアップの方が自分に合っていそうだという感覚はあったものの、明確にやりたいことがあったわけではない。ただ、数年後のキャリアとその延長線上にある選択肢を想像したときに、面白そうだと思えるかどうかを判断軸にしようとしていた。


「最初はビズリーチのことを全く知らなかったのですが、当時『29(肉)リーチ』という新卒採用企画をニュースで見て、面白そうだからと申し込んだことが出会いのきっかけでした。登録した学生に社員が肉をおごるという企画で、そのときCTOだったビズリーチ創業メンバーの竹内さんとご飯に行って、『うちってどう思う?』と聞かれたり、進路について話をしたんです」


当時、ビズリーチの新卒はビジネス職採用においては営業部門への配属しかなく、正直に「自分はマーケティングがやりたいので考えていない」と伝えた。すると、「マーケティングの採用枠をつくったから改めて来てほしい」とその日の帰り道に連絡が来て、驚いた。スタートアップらしいスピード感、そして純粋に面白そうだと思える環境に惹かれ、最終的に入社を決めた。


「最初は内定者アルバイトとして1年弱働いて、新卒として入社してからも半年ほどマーケティング系の仕事に携わっていました。当時の自分は飽き性で生意気だったので、『もう仕事は覚えました』とか『先輩がぬるい』とか、今思えば口にすべきじゃないことも平気で言ってしまうタイプだったんです。だから、周囲の人からすれば扱いづらくて手を焼く存在というか、『なんだこいつ』という感じだったと思いますね」


社会人になるタイミングから一人暮らしを始めたが、当時借りたのはオフィスのすぐ裏手にあるマンションだった。自主的に早朝から出社し、毎晩遅くに帰宅する。誰より働いているという自負があり、それが正しい姿だと疑わなかった。


「当時の自分は、どこか人より人生というものをロスしている、穴が開いているような感覚があって、生き急いでいたんですね。まだやりきれていないというか、自分の中で今のままではいけないという切迫感や焦燥感が、とにかく強かったと思います」


ビズリーチとの出会い、CTO(当時)竹内氏と


1年目の秋以降は、自ら希望した企画系の仕事に携わり、自治体向けの新規事業立ち上げプロジェクトにも参加した。誰より仕事に邁進し、成果を追いつづける。それが最も重要で、生活の全てを捧げてもいいと思えるほどだった。


だからこそ、働き方や時間の使い方には、よくも悪くも自分なりの理想があった。しかし、そのこだわりは、当時のウェットな組織文化や周囲との軋轢となって表れ、退職を考えたこともあった。


「最終的に、一度会社を辞めようとしたタイミングがあって、その前に大学時代からお世話になっていた方にご挨拶に行こうと思って、スタディサプリの創業者である山口文洋さんに会いに行ったんです。『こういう理由で辞めることにしました』と話したら、このままだと事業をつくるときに人を動かせる人間になれないよと、真剣に説いてくださったんですね」


お世話になった人からの客観的な助言は、たしかにそうかもしれないと思えるものだった。立ち止まって振り返れば、生意気な自分を可愛がってくれた人や、支えてくれた人たちは社内にも多くいた。


先のことはまだ決めきれていなかったが、少なくともお世話になった人をきちんと立ててから辞めたい。そう思い、3年目からは、お世話になった役員が管掌する新規事業の立ち上げに加わった。


「それまでの自分は、あらゆる物事を『成長の機会』という観点でしか見ていなかったんです。でも、そうではなくて、誰かのために、『この人が取り組んでいる事業だからきちんと伸ばしたい』と心から思って、必要なことは全部やると決めたのが3年目以降でした。それが結果的に良い方向に巡っていって、事業とは何なのか、人がついてくるとはどういうことなのか、そういった重要な価値観を学べた時間になりました」


人生は、決して直線的なものじゃない。逆算で物事を考えるとき、その結果は逆算以上のものにはならなかった。一方で、大きな目標や大義のため、がむしゃらに努力しているときにこそ、思いがけない経験や新しい景色に出会えることがある。焦燥感そのものは消えなかったが、物事への向き合い方は大きく変わりはじめていた。




2-4. サイバーセキュリティという領域


お世話になった人のため、最後に全てやりきるつもりで臨んだ事業は、無事軌道に乗った。その過程では、自然と周囲や会社との関係性も変わっていった。Visional代表の南壮一郎から「新規事業を立ち上げてみないか」と声をかけてもらったのは、入社して4~5年が経った頃だった。


さまざまな業界のビジネスモデルやトレンドをリサーチした末に、一つのテーマに行き着き、事業検証を進めることになった。


「いざ自分で事業を立ち上げようとなった際に、その人の人生を預かっている感覚を強く持つようになりました。それは中高で自分が引きこもっていた時期に、周りの人から時間や思いを注いでもらって生きていたという感覚とも繋がっていて。旗を立てるまでは僕だけの人生ですが、そこに誰かが乗ってくれた瞬間から、その人たちの人生を使わせてもらうことになる。そう考えると、責任の重さや意思決定、コミットメントの仕方は本当に変わるなと思いました」


事業は一人では成り立たない。旗を立て、そこに集ってくれる仲間の存在が不可欠だ。人と一緒につくりあげるなかで自分自身も磨かれていく感覚があり、同時に規模が大きくなるほど、先頭に立つ人間としてふさわしい人格なのかを問われる場面が増えていくのだと実感した。


振り返れば、小学生の頃から一人より人と一緒に何かをする方が好きだった。社会人になってからは、ただがむしゃらに働いてきたが、自ら人を巻き込み事業をつくる経験は、人としての原点に立ち戻る機会になった。最初の事業は検証期間の1年ほどでクローズが決まったものの、そこから得た学びは大きかった。


「実際に当事者として事業づくりをやってみて改めて強く思ったのは、自分は社会の課題を構造から変革していくことが好きで、そこに取り組むことにこそ面白みを感じる人間なんだということでした。振り返ると、大学時代はNPOやNGOに関わり、ビズリーチでは雇用の流動化という社会の課題のど真ん中に向き合うプラットフォームづくりに携わって、気がつけばずっと社会の課題を構造から捉え、解決を目指す環境に身を置いていた。実はそれが自分にとって当たり前で、大事にしてきた価値観なんだと、そのとき初めて明示的に思ったんですよね」



一つ目の事業検証のクローズでは、集まってくれた仲間への責任を感じ、退職も考えた。しかし南から「ここで辞めたら失敗で終わる。成功するまでやってみないか」という言葉とともに、もう一度バッターボックスに立つ機会を与えられ、新規事業を立ち上げることを決めた。


せっかくやるなら社会に残りつづけるもの、後世に資するものを作りたい。そう思いながら産業構造や市場動向をリサーチし、たどりついたのはサイバーセキュリティという領域だった。


「最終的に今我々が取り組んでいる事業領域は、他業界でいう『信用調査』と近しい役割を持っているんです。この信用調査産業の歴史をさかのぼってリサーチしていたときに、大きな可能性を感じたんです」


その産業の歴史を紐解くと、イギリスの産業革命に起源がある。大量生産によって工業が急速に発展し、企業の取引先は劇的に増えた。しかし、相手の信用を見極める手段は個社間の確認しかなく、大きな問題となっていた。


そこで生まれたのが、第三者が信用を調べ、データベース化する信用調査という産業である。その仕組みが日本に輸入されてから100年以上、子世代・孫世代まで続く産業として社会を支えつづけている。


「まさに現代も同じ構造で、インターネットや技術の浸透によって取引の量は爆発的に増え、密度も深くなっている。デジタル社会ならではの新たな脅威も生まれ、拡大している。そのなかで生まれた課題がサイバーセキュリティなんですよね。この会社に情報を預けて大丈夫なのか、ビジネス上の取引をしてセキュリティ上問題ないか、そういった問題を解決していく産業として捉えたときに、きちんとこの領域で事業をつくれたら、それこそ1世紀以上続くインパクトがあると感じたんです」


現代でも、産業の新しい仕組みが必要とされている。それを今、この時代に自分たちの手でつくりあげることができれば、50年後や100年後の社会のためになる。だから、サイバーセキュリティを事業づくりの起点にすることを選んだ。


まずは、社内で事業を立ち上げたのち、2022年にグループ子会社として株式会社アシュアードを設立。未来の産業基盤をつくるという決意を胸に、挑戦へと踏み出した。




3章 人と働くこと


3-1. 志は一人では形にならない


限られた人生の時間を何に使い、どう過ごすのか。私たちは誰もが、その問いに向き合うことを避けられない。かつて戦後の焼け野原で何かを起こすしかなかった時代は終わり、多様な生き方が許容されるようになった。そんな時代に、あえて挑戦を選ぶ人の原動力について大森は語る。


「結局、数十年という人生の中で大事になるものは、何かをつくりたいとか、社会に価値を提供したいと思える『志』なんじゃないかと思うんです。そういう思いを持った人と一緒に働きたいですし、僕自身もその志に向き合いつづけたいと思っています」


経験や知識より、ときに志の有無は大きな意味を持つ。志ある人と働くからこそ、より大きな価値を描いていくことができる。そもそも「人と働く」という行為そのものを、大森は肯定的に捉えている。


「人と働くことは、根本的に素晴らしいことだと思うんですよね。優れた人格や能力を持つ仲間と働けることって、それ自体が人生の喜びの一つになると思うんです。人生を終える瞬間には、『何をしたか』と同じくらい『誰と何をしたか』が残るんじゃないかと」


外部環境が急速に変化してもなお、「ここで働きつづけたい」と思える文化や環境をつくることには、大きな意味がある。また、多様な価値観や働き方が混在する今の時代だからこそ、「どんな人と、どう協働するか」が組織の持続性に直結する。


事業を進めるほど、自分ひとりでは何も成し得ないという現実に直面し、過去の自分の視野の狭さを痛感したという。


「事業をつくるうえでは、自分にできることの方がよっぽど少ないんですよね。どれだけ自分のできないことを、できる人にお願いできるのか、頭を下げられるかが、事業の大きさを決める。だから、自分とは違う人の価値観をきちんと理解し、向き合っていくことなしに、事業も会社も、そして社会も良くならないと思っています」


事業とは、志とは、自分ひとりの力で成し遂げるものではない。志を持つ仲間とともに、それぞれの違いを理解しながら、より良い未来へ向けて歩んでいく営みだ。




2025.12.16

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


比較される立場から距離を取り、環境を変え、仲間と出会い、失敗を経てなお立ち上がりつづける。その根底にあったのは、常に「誰のために、何を残すのか」という問いだった。


セキュリティという一見すると専門的で無機質な領域に向き合いながら、大森氏が見据えているのは、デジタル社会における信頼の在り方そのものだ。尺度をつくるとは、優劣を決めることではなく、安心して人が集い、協働できる土台を整えることでもある。


変化の激しい時代において、自分一人の正解を追いつづけることは容易だ。しかし、他者の人生を背負う覚悟を持ったとき、視座は自然と社会へと広がっていく。人の人生に向き合う覚悟が、事業の本質を形づくる。大森氏の生き方は、事業とは志の延長線上にあり得ること、そしてその積み重ねが未来を形づくる力になることを示している。


文・Focus On編集部



▼コラム|2025.12.17 公開予定

私のきっかけ ― 集合写真を撮った創業前夜

▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)

限られた人生をどう使い、どう生きるか|起業家 大森厚志の人生に迫る



株式会社アシュアード 大森厚志

代表取締役社長

千葉県出身。株式会社ビズリーチに新卒入社後、ビズリーチ事業のマーケティング部、事業企画部を経て、地域活性事業、セールステック事業の立ち上げを行う。その後、セキュリティの信用評価プラットフォーム「Assured(アシュアード)」を企画立案し事業化。事業部長として同事業を牽引した後、2022年8月より株式会社アシュアード 代表取締役社長に就任。

https://assured.jp/


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