目次

すべては現場から始まる ― 脱炭素と経済性を両立する「商用EV」普及の最前線

現場を訪ね、いくつもの視点を往復する。そこから価値は生まれる。


「商用EVの導入と運用を通じて、モノ・ヒトを運ぶ事業者の現場の課題解決を促進し、脱炭素化と経済性の両立を実現する。」というミッションを掲げ、商用EV導入を伴走支援するeMotion Fleet株式会社。同社は、ドイツ物流大手に23,000台、国内物流大手に500台の商用EVを導入した前身企業から独立した創業メンバーによってつくられた。その豊富な現場経験をベースに、事業者・自治体の商用EV導入から運用までをワンストップで支える多様なソリューションを提供している。


代表取締役の白木秀司は、MBA取得後、2005年に三菱ふそうに入社。社長室及び事業構造プロジェクト部にて国内販売戦略の業務改善を担当した。のち、米系企業再生コンサルを経て、2016年より日産自動車にてグローバルのディーラー戦略部門立上げを主導。2020年より、ドイツ製EVを扱うストリートスクーター・ジャパン(のちにB-ON)代表取締役社長就任を経て、2023年9月にeMotion Fleetを創業した。同氏が語る「異なる世界を繋ぐ視点」とは。






1章 eMotion Fleet


1-1. 商用EVの導入・運用で、脱炭素化と経済性の両立を実現する


日本にいると実感しづらいが、いまや世界で販売される新車の5台に1台はEV(電気自動車)だ。世界のEV普及率は22%。一方、日本では2%程度という低水準にとどまっている。


市場を牽引する中国や欧州、東南アジア諸国で導入が進むのは、CO₂排出量の削減など環境面のメリットだけが理由ではない。ガソリン車よりもエネルギーコストとメンテナンスコストを下げられる「経済性の高さ」が、普及を後押ししているという。


特に注目を集めているのは、物流やバス、タクシー、ライドシェア、自治体の公用車など、いわゆる「働く車」の領域だ。大手企業のESG目標やCO₂報告義務の強化により、BtoBの商用EVは国内でも確実な需要の伸長が見込まれている。しかし、事業者がEV導入を考えるにあたっては、導入をゴールにするだけでは不十分だと白木は語る。


「EVで優れた経済性を実現するためには、導入のノウハウや運用の仕組みがしっかりしていないと、なかなか成果が出ません。私自身、前職で多くの事業者が苦労するのを目の当たりにしてきました。だからこそ、導入計画の作成から、実際の導入、そして運用まで伴走しながら、事業者の電動化を支援していきたいと考えています」


EVの導入・運用を通じて脱炭素化と経済性を両立させること、それがeMotion Fleetの掲げるミッションだ。導入前の戦略的設計から、導入後は運用上の課題を解決するシステム提供や充電設備の選定まで、個別の現場に合わせたソリューションを提案していく。


「ポイントは、車と充電器とソフトウェアが三位一体となって初めて仕組みとして機能し、安定稼働に繋がるということです。車・充電器・ソフトウェアを繋いで、コンパチビリティ(互換性)を持たせるにはノウハウも必要です。そこを仕組みとして提供し、サポートしていくのが我々の役割です」



EVは、稼働率を上げれば上げるほどランニングコストが安くなる乗り物だ。最適な運用体制を整えることで、トラブルを未然に防ぐこともできる。


たとえば、バッテリーを長寿命化させることができれば、メンテナンスにかかるコストを下げられる。毎日100%まで充電するのではなく、20~80%のあいだで充電することで劣化を最小限に抑えていく。


ほかにもEVの台数が増えたとき、同時に充電するとピーク電力(一度に使用する電力の総量)が高くなり、翌月からの電気料金が高騰してしまうことがある。未然に防ぐには「エネルギーマネジメント」と呼ばれる対策と、対応した通信規格を持つ充電器が必要になる。同社は、これらを実現するための知見やノウハウ、テクノロジーを一気通貫で提供している。


一方で、より大きな視点でとらえると、運送・交通事業者の収益構造のうち、車両費やエネルギー費は2〜3割に過ぎない。残りの7〜8割は、ドライバーの人件費が占めている。事業者にとって最大の課題は、ここにある。


「この課題を解決するには、『自動運転×EV』や『貨客混載×EV』といった取り組みが必要になると考えています。今まで100台で回していたものを70台で回せるようになれば、ドライバーの労力をより必要なところへ振り分けられる。1台ずつの経済性を上げることも大切ですが、仕組みそのものを変えていくことも重要です」


現在、東南アジアを中心にグローバル展開も進める同社。長年、外資系企業を渡り歩いてきた白木は、「日本発のスタートアップ」である点も意識しているという。


「東南アジアに行くとすごく危機感を覚えるのですが、日本車のシェアが中国製のEVに奪われつつあるのは明白なんですよね。我々のソフトウェアはいろいろな国の車と互換性がありますから、日本製でも中国製でも対応できます。ただ、気持ちとしては、日本製のソフトウェアとハードウェアで、きちんと世界で勝てるようなソリューションを作っていきたい。その思いは、個人として強く持っているんです」


日本の電動化を推進し、世界で戦えるソリューションをつくる。需要を待つのではなく、自ら需要を喚起し、仕掛けていく。日本発のスタートアップとして、eMotion Fleetは使命感とともに世界を見据えている。




2章 生き方


2-1. 日本人として世界を見る


家族でドイツ西部の街・デュッセルドルフへ渡ったのは小学3年生のとき、駐在員になった父についていくためだった。どちらかと言えば、日本を離れてからの方が、自分という人間が形作られていった感覚が強いと白木は振り返る。


特に、現地で通ったインターナショナルスクールは多国籍な環境で、ランチタイム一つとっても文化の違いを実感する場面があったという。


「アメリカ人はハンバーガー、フィンランド人は鹿を食べていたりするなかで、私は母親が作った卵弁当を食べている。そうすると『それは何だ』と聞かれ、日本の文化や習慣を説明していくうちに、自ずと日本代表のような気持ちになってくるんですよね。幼少期からそうした環境にいたことで、自分が日本人であることをより強く意識するようになったように思います」


外から日本という国を見ることで、「日本人である自分」を改めて俯瞰する。現地の学校生活はそんな機会となった一方で、家では父から国を単位とする話を耳にすることがあった。


いわゆる豪腕な商社マンで、今時いないような古いタイプだった父は、厳しくも義理人情を大切にする人だった。「一酒三食十会」という言葉を体現するように、人との信頼関係を築くには10回会うより3回の飯、3回の飯より1回の酒だと話し、仕事に打ち込んでいた。


「父親は商社で国益に直結するような大きな仕事をしていたので、常々『オールジャパン』や『国益』といった言葉を口にしていました。当時学生だった頃の自分は『サラリーマンの立場で国益なんて考えるものかな』と思っていたのですが、のちに私自身が外資系企業で働いたりするようになってから、父親の言っていたことを意識する瞬間が生まれていきましたね」


14歳頃、ドイツにて家族と


ドイツでの父の仕事は6年ほどで終わり、両親は日本へ帰国した。そこから姉は米国の大学へ、自身はニューヨークの高校へ進学することになった。


「高校は両親の意向が大きかったように思います。いきなり日本に戻るよりも、同じような境遇の人がいる環境の方が、日本の社会に順応する前のクッションになると考えたのではないかなと。実際、それは良い選択だったと思っています」


ニューヨークの高校は、海外駐在員の子どもたちが多く集まる全寮制の学校だった。同級生は全員日本人で、24時間をともに過ごすうち、いつしか絆が芽生えてくる。放課後はサッカーをしたり、音楽の趣味が合う仲間とバンドを組んでいた。3か月に1回ほどロックコンサートのような場を企画しては校舎で演奏したり、最終的には、2つのバンドを掛け持ちするほど熱中していた。


もともとドイツで過ごしていた頃、MTVで流れるアーティストのプロモーションを観ているうちに、パンクロックにハマっていた。


「私はグリーン・デイのファンだったんですよね。単純にメロディーも好きでしたし、あとづけ的な部分もあるかもしれませんが、パンクロックって少し反体制的なところがあるじゃないですか。あえてマジョリティには行かないんだという反骨精神みたいなものが、もしかしたら当時から自分の中にあったのかもしれないですね」


純粋に音楽を楽しんでいた学生時代、将来についてのイメージはまだ漠然としていた。ただ一つ、海外で長く過ごしたからこそ思えることがあった。


「まだ高校生くらいのときは、そこまで社会や仕事に対する感度が高いわけではないじゃないですか。ドイツでの生活も長かったですし、次もまた海外にいたので、当時はなんとなくドイツと日本の架け橋とか、海外と日本の架け橋みたいなことができればなと、漠然と思っていたことは覚えています」


バンドでは、仲間が集まると誰かが適当に弾きはじめ、そこに各々がリフを乗せていく。いわゆる「ジャム」と言われるような、アドリブの自由な演奏が好きだった。


バックグラウンドも、ものの見方もさまざまな人が集まり、それぞれが持つものを活かしながら、何かをともに創り上げていく。そんな風に、世界と日本も交わる瞬間があるはずだ。当時はまだぼんやりとした思いだったが、育った環境や日本人というアイデンティティを起点に、自分に何ができるのかを考えはじめていた。


高校時代、バンド仲間と



2-2. 現場にある原点


高校卒業後は日本に帰国し、慶應義塾大学の総合政策学部(SFC)に進学した。幅広い分野から学べる環境のなか、選んだゼミはグローバリゼーション研究会だった。


「社会学と文化人類学を掛け合わせたようなイメージで、世の中の事象を一つの象限から見るのではなく、少しひねくれて見るような領域でしたね。グローバル化の波が社会やビジネスにどう影響を及ぼすかとか、自分の育った環境を考えると、自然とそういう領域に関心を持ったのかなと思います」


ゼミでは、万博をテーマにした研究を進めた。万博というイベントに集まる国という集合体と、企業という集合体。その狭間が見えなくなってきているのではないかと考えたり、またあるときは、華僑のように祖国を離れ、世界各地に分散する「ディアスポラ」と呼ばれる人々について研究したりもした。


共通していたのは、日本がグローバル社会でどのようにポジションを作るのか、海外に移る人のアイデンティティがどこにあるのかといったテーマへの関心だった。それらを研究する過程では、今にも活きる経験があった。


「研究の一環で、実際にフィールドワークに行ったりするんですよね。何か一つのアウトプットを出すうえで、きちんと現場に足を運んで、現地の人の話を聞きながら自分の論点を磨き上げていくというエクササイズは、今の仕事にも繋がっているのかもしれません。あとから思えば、それを大学で経験できたことは良かったですね」



就職活動では、ドイツと日本の共通項である自動車業界を選んだ。ダイムラー・クライスラー・ジャパン(現 メルセデス・ベンツ日本合同会社)から内定をもらい、入社前にドイツのシュツットガルトでMBAを取得することになった。


「ドイツと日本の生活が長かったので、その架け橋になれるような会社、業界がいいなと思って。自動車産業は両国の基幹産業ですし、ダイムラーは日本に法人を持っていたので、インターンシップに参加して内定をもらったんです。車が好きだから入った、というわけではなかったんですよね(笑)」


MBAプログラムの条件として、卒業後はグループ会社である三菱ふそうトラック・バス株式会社で半年間のインターンシップをすることになっていた。本来ならその後にダイムラーへ戻る予定だったが、結果的にそのまま三菱ふそうに残ることを選んだ。


「当時の三菱ふそうは2000年のリコール問題の真っ只中で、会社を離れる人も多かったですし、社内もしっちゃかめっちゃかでした。でも、その分自己成長できそうな感覚があったんですよね。会社は大変な状況でしたけど、現場とも幹部ともいろいろな人たちと接しながら仕事を進めていくなかで、仕事のイロハのようなものを学ぶことができました」


企業としてのブランドが落ちている時期だったため、周囲からは「そんな会社やめておけ」と反対された。しかし、そんな状況だからこそ求められる役割もある。リコール問題の処理は、社内の一大プロジェクトになっていた。


「省庁から来る警告書を翻訳したり、現場のクロスファンクショナルチーム(CFT)のリーダーを支援したり、ドイツ人幹部の会議の運営をやったり。燃えているところの火を消しに行くようなことが、事実上の最初の仕事でした。結果的にそれ以降も、大体『そこに火が燃えているから消しに行け』か、『ここにレールがないから敷きに行け』という仕事が多かったですね」


リコール問題に対応するプロジェクトを1年ほど担当したあとは、ドイツ人社長の補佐として働いた。その後、全国の支店や営業所を回り、現場と一緒に売上改善に取り組む部署の部長を任された。一つひとつの現場とともに進めていく仕事には、それまでにない充実感があった。


「大企業にいると、なかなかマーケットに直接触れる機会がなかったりするのですが、現場に近い部署、まして支店に行くと、マーケットがどういった形で動いているのかがリアルに分かるんですよね。今でも、常々お客様と直接話をしながら課題を聞く方が、会議室で『こうだろう、ああだろう』と言っているよりも、何千倍も価値があると思っているんです。現場をぐるぐる回って、いろいろな方々と一緒に一つの目標に向かっていく。そこが自分のキャリアのハイライトだったように感じています」


ほかにも顧客満足度を上げていくため、顧客訪問に同行したり、全国の営業プロセスの改善やDXを進めていくプロジェクトに携わった。現場には、そこに足を運ぶことでしか得られない答えや人の思いがある。当時出会えたさまざまな現場とのやりとりは、キャリアの中でも貴重な経験として心に残るものだった。




2-3. 俯瞰と実践のあいだ


三菱ふそうでは若いうちから機会をもらうことができ、いわゆる順調なキャリアを歩んでいた。企業の中でも役職が変われば、見える世界が変わる。プロモーション(昇進)を重ねていくなかでは、自分にとっての幸せはどこにあるのかという問いも生まれてきた。


「振り返ってみると、自分が1番幸せだったときは現場の人たちとずっと一緒に仕事をしていました。現場が最大限パフォーマンスを発揮できるような環境を作っていくとか、それが結果的にお客様にもプラスに働くというのは、一個人の仕事としてより波及効果を感じられるものだったんですよね。それが本社に近づくと、自分の中でいろいろな葛藤を感じるようにもなっていったんです」


10年近くお世話になった三菱ふそうを離れ、次なる挑戦として選んだのはグローバルに企業再生コンサルティングを手掛けるアリックスパートナーズだった。それまでは大企業という冠の中で守られていたかもしれない。そう思い、個人の力が試される環境に身を置いてみたかった。


在籍した2年間では、主にオーストラリアのメルボルンでのプロジェクトに携わっていた。企業再生の企画から展開、実行までを一気通貫で経験することができ、一ビジネスマンとして鍛えられた。同時に、コンサルタントという立場からビジネスを俯瞰したことで、改めて気づいたこともあった。


「どちらかと言えば、自分は事業会社が向いているように思いました。車の運転に例えると、コンサルティングって運転席には座っていないんですよね。助手席に座りながらステアリングを回しているけれど、最終的にアクセルとかブレーキを踏むのは経営者だったりするじゃないですか。やっぱり自分はドライバーシート側にいる方がいいなと思って、その後はヘッドハンティングを受けて日産自動車へと入社しました」



当時の日産はコストダウンには成功していたものの、売上の伸びが市場の成長に追いついていないという課題を抱えていた時期だった。その改善に向け、全世界のディーラー網を強化していくことが必要とされていた。


「ディーラーネットワーク本部が新設されるタイミングで、グローバルディーラーネットワークの戦略部長として転職をしました。社内で新しい本部を立ち上げるというのは、新しい事業を0から作り上げるのに似ているところもあって。1社目でもそうでしたが、レールがないところにレールを敷くような仕事は、このあたりから連続していましたね」


全世界20万人が働く巨大な組織に属し、現場からは極めて遠い部署にいる。しかし、当時は中央集権的な経営方針への過渡期にあり、そのなかでグローバル本社の明確な戦略やメソッドを主要20か国に展開していくことが部署のミッションだった。


「1番大きな学びは、一つの明確な戦略を、どのように地域ごとに当てはめていくかということでした。主要20か国の中には、北米のように戦略が落とし込みやすい地域もあれば、中南米や東南アジアのように仕組みがまだまだ未整備という地域もある。レベル感がバラバラななか、グローバルな立場からいかに地域や現場を巻き込んで、一つの軸を通していくのかという経験は、とても貴重なものでした」


そこでは、どのレベルまで標準化し、どのレベルから地域ごとのカスタマイズを許容するかという線引きが問われていた。細部まで統一しすぎれば、がんじがらめになって現場は動きづらくなる。一方で、ふわっとしすぎていても、自由になりすぎて弊害が生まれてしまう。


「全社としての戦略や方向性はもちろん一つで、原理原則も全世界共通のものがある。ただ、契約書の内容は地域の法令などに合わせて調整するといったメソドロジー(方法論)で、極力共通化しつつも柔軟性を持たせる。そういったやり方を3年間で経験できたことは良かったですね。全世界に一つのメソッドの線を通していくという経験は、今の仕事にもなかなか活きていると感じています」


環境が変わるたび、視点は増える。現場と経営、地域とグローバル、戦略と実行。異なる視点を往復しながら、ビジネスを在るべき方向性に動かしていく。その繰り返しが、のちの土台となっていった。


日産自動車時代、部署のメンバーと



2-4. EV導入の失敗とノウハウを還元するために


経営に近い社長室で仕事をしたり、現場に出て多くのディーラー経営者と話したり。それらの経験を重ねるうちに、ある思いが生まれてきた。


「より大きな仕事をしていくためには、社長というポジションに就かなければ、思うような波及効果を作っていくことはできないと感じるようになったんです。やるなら早いうちに失敗して、ぶつかったらいいだろうということで、30代で社長業をやりたいという気持ちは明確に持っていましたね」


希望は社内でも発しつつ、社内外でチャンスがあれば果敢に挑戦していきたいと考えていた。


「日産の中で『現地法人の社長になりたいのか、新規事業をやりたいのか、どちらなのか』と聞かれたことがあったのですが、私はどちらもやりたいと思っていました。そんなときに舞い込んできたのが、ドイツのDHLが買収したEVスタートアップが日本で新しく法人を作るというお話で、そこで社長を求めているというオファーでした。これは電気商用車という新規事業であり、現地法人の社長でもある。『どちらか(OR)』ではなく『どちらも(AND)』だったので、断る理由はないなと思って引き受けることにしました」


2020年1月、ドイツのEVスタートアップ、StreetScooter(ストリートスクーター)の日本法人社長に就任する。そこでは、のちにeMotion Fleetの共同創業者となるデニス・イリッチ(現 代表取締役副社長CTO)との出会いもあった。


入社時のミッションは、既存顧客を増やし、新規の外販も拡大していく事業成長だった。スタートアップとして人を雇い、明確なプロダクトもある。意気揚々とスタートしたが、その2か月後、新型コロナウイルスが猛威を振るいはじめた。


「もう茨の道でしたね。コロナで一気に情勢が変わりまして、ドイツの本社も日本市場はノンコア(非中核)であると。そのとき既に作ってあった500台の車は納車したのですが、そこで打ち切りになってしまったんです。インポーターという立ち位置からすると、商材の供給が途絶えるのは致命的です。事業成長どころか、いかに事業を維持するかという状況になり、加えて最初の500台はトラブルも多く、お客様に多大なご迷惑をおかけすることになりました」


展示会でストリートスクーター製商用EVを説明


納品先のクライアント企業からお叱りを受けながら、相次ぐ車のトラブルに対処する。幸いだったのは、当時のメンバーが誰も逃げなかったことだった。追い詰められた状況ではあったが、500台の保守運用はできる限りのことをやろうと試みていた。


「一方で、直面していたトラブルの中には、車の性能だけでなく、EV導入の計画をきちんと練っていれば防げたことや、現場へのトレーニング、運用のデジタル化ができていれば防げたこともたくさんあったんです。デニスや当時のメンバーとは、『今、自分たちはほかの誰もまだ経験していない貴重な経験をしているんだ』と言い聞かせながら、問題と向き合っていました」


先行きの不透明な情勢が続くなか、2021年にはDHLがEV製造事業を売却し、日本法人のオーナー変更があった。新オーナーである新興EVスタートアップのもと、グローバル展開にも関わっていたが、最終的に親会社は経営破綻を迎えることになった。


「『自分たちがやっていることには絶対ノウハウがある。どこかのタイミングで独立できるよね』とデニスとはずっと話をしていて、書類も全部準備していました。親会社の経営破綻をきっかけに『今こそカードを切るときだ』と登記をして、メンバーが全員移籍する形でeMotion Fleetを作ったという、特殊な独立の仕方でした」


2023年9月、eMotion Fleet株式会社を設立する。生みの苦しみで至らなかった経験や、培ったノウハウをなんとか次に活かしたい。そんな思いをともにする仲間たちと、商用EV普及の壁を取り払う挑戦へと向かうことにした。


2024年11月、共同創業者のデニス・イリッチと、BMWグループUrban X Accleratorに参加したとき



3章 キャリアを形作るもの


3-1. 今、目の前にある世界への興味


たとえ課題が山積していたとしても、生き生きと働ける。そんなキャリアを形作る上で、ベースとなるものは何か。一つ挙げるとすれば、自分なりのインプットを重ね、それを受けてアウトプットしていく意識ではないかと白木は振り返る。


「30代ぐらいまではインプットの時期でいいのではないかなと思っています。自分の好きなこと、興味があることにどんどんチャレンジして、吸収する。30代後半から40代になってくると、今度はそれを自分の土俵として、自分が何屋なのか、自分の強みが何で、どの領域だったら勝てるのかを明確に持った上で、その強みを社会に還元していく。結論として、私はそういう形だったかなと思います」


特に、出会った人々からの影響は大きかったという。三菱ふそう時代には、現場に出て、多くの経営者や支店長、営業マンと対話し、彼らがどこで困っているのかを吸収した。そこで学んだのは、現場から一次情報として課題を理解することの重要性だった。


「今でも、積極的に市場に出ることを意識しています。この1年間だけでも約400社と対話してきましたが、そうすると顧客の解像度が上がり、どんなフェーズに、どんな課題があるのかが見えてくる。それがマーケット理解や課題設定、スタートアップでいうPMFにも繋がっていくのではないかなと。だから現場に行くことは、スタートアップにとってはより重要だと信じています」


そして、スタートアップという環境そのものにも、大きな意味がある。事業を取り巻く環境も、組織の在り方も、スタートアップでは日々変わりつづける。ときには常に乱気流の中にいるように感じられるかもしれないが、その変化を前向きに捉えられるなら、成長速度は大企業よりもはるかに速いという。


「総じて今までの経験を経て思うのは、いろいろなことに興味を持っていく姿勢がいいということですね。あまり先々こうなりたいと思っても、大体人生なんて自分の思っているようにはなりませんから。それよりも、目の前のことに価値を見出していくことの方が大切なのではないかと思っています」


現場に足を運び、視点を増やす。インプットとアウトプットを往復しながら、異なる世界を繋いでいく。今、目の前にある物事へのかかわり方次第で、既存の枠にはまらない自分だけの価値は形作られていく。




2026.2.26

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


「往復すること」で形作られるキャリアがある。現場と経営、日本と世界、インプットとアウトプット。異なる視点を行き来する。そうすることでしか生み出せない価値が、磨かれていく。


白木氏のキャリアを貫くのは、現場への徹底したこだわりだ。三菱ふそうで全国を回り、日産でグローバル戦略を地域に落とし込み、現在も年間400社と対話する。同時に、コンサルなど、企業を俯瞰する視点や視座も身につけてきた。異なる視点を往復しながら、ほかにはないEV導入・運用のノウハウにたどり着いた。


人生が思っていた通りになるかは誰にも分からない。だからこそ、目の前のことに価値を見出し、積み重ねていく。そのエネルギーが、日本の商用EV普及という大きな潮流を作り始めている。


文・Focus On編集部





eMotion Fleet株式会社 白木秀司

代表取締役社長

MBA取得後、2005年に三菱ふそうに入社。社長室及び事業構造プロジェクト部にて国内販売戦略の業務改善を担当。その後、米系企業再生コンサルを経て、2016年より日産自動車にてグローバルのディーラー戦略部門立上げを主導、自動車小売の新たなビジネスモデルを確立。2020年ストリートスクーター・ジャパン(後にB-ON)代表取締役社長就任を経て、2023年9月eMotion Fleetを創業。

https://www.emotion-fleet.com/


X  CLOSE
SHARE