目次

逆境を成功にかえる方法 ― 世界に知られていない日本の伝統の挑戦

やりたいことを実現する、あなたはそこにどれだけの覚悟があるか。


日本中で100年近く愛されてきた老舗味噌メーカーであるハナマルキ株式会社。その新境地として、新たな歴史を刻む「液体塩こうじ」という製品がある。同製品は、経済産業省「The Wonder 500 ™(ザ・ワンダー・ファイブハンドレッド)」にて 「世界にまだ知られていない、日本が誇るべき優れた地方産品」にも選定された。そんな老舗企業をけん引する人物がいる。リクルートを経て、現在ハナマルキで取締役マーケティング部長兼広報宣伝室長を務める平田伸行が、「逆境を超える信念」について語る。




1章 万能調味料の世界


1-1.  お味噌ならハナマルキ


戦後最大の企業犯罪といわれたリクルート事件。1988年当時まだ「ブラック企業」という言葉はなかったが、銀座8丁目にあるリクルート本社ビル(当時)のブラックのガラスは、その事件を象徴するかのような「ブラック」なイメージをまとっていた。そんな会社に入社を決めた、一人のあまのじゃくな青年がいた。


「お味噌ならハナマルキ」――聞きなじみのあるフレーズのテレビCMで知られるハナマルキ株式会社は、2018年で創業100年を迎える。400種にもおよぶ同社製品は、家庭料理用のものから贈答向けの高級ライン、業務用味噌など幅広く展開。日本に存在する1000を超える味噌メーカーのなかでも、マルコメ株式会社に次ぐ第二位のシェアを誇る。2012年から発売している同社の独自製品「液体塩こうじ」は、料理学校界のハーバードともいわれる「CIA」(カリフォルニア州ナパバレー)にて開催される食の国際会議「ワールド・オブ・フレーバー」にも出展され、「GOLDEN LIQUID(黄金の液体)」として世界各国の料理への応用に注目を集めている。


同社の広報宣伝・マーケティング面を統括する取締役の平田氏は、新卒でリクルートに入社。人材採用広報の制作ディレクターを経験後、新組織の立ち上げや自社の宣伝を担ってきた。その後、急成長アパレル企業にて、社長室室長として組織体制の強化にも貢献。2013年、国内外での「液体塩こうじ」拡販にあたりハナマルキ株式会社に参画した。


「覚悟の決め手は、やっぱりアンチテーゼじゃないですか。すごいリスクのある選択だとしても、みんなが反対するところにこそ、なんとなく価値があるんじゃないかと思っています」


反骨精神をもって生きてきた平田氏の未来を動かした、逆境に立ち向かう「覚悟」とは。


1-2. 「液体塩こうじ」の可能性


1300年という途方もなく長い年月をかけて、日本人に愛されてきた伝統食品「味噌」。業界2位のシェアを誇る老舗ハナマルキは、大正7年、長野県上伊那郡(かみいなぐん)で創業した1軒の商店から、その歴史がはじまった。


マルキ印の商標名でスタートした味噌の販売はその後全国へ広がっていき、1963年には創業者の名字花岡から「花」の一文字を取り、社名を「ハナマルキ」とした。代表的な味噌ブランド『おかあさん』や『風味一番』をはじめ、400種を超える豊富なラインナップは、耳に残るテレビCMのメロディーとともに日本中で愛されてきた。


2012年10月、これまでの同社製品のラインナップに新たな商品「液体塩こうじ」が加わった。日本の伝統調味料である塩こうじを、独自の製法で液体化した製品である。従来のペースト状の塩こうじよりも格段に扱いやすく、利用できる料理のバリエーションも豊富だ。化学調味料不使用である点も、近年の健康志向の追い風を受けている。


「液体塩こうじ」は、肉の漬け込みなど加工のタイミングで利用される。塩こうじに含まれる酵素が肉の表面にあるたんぱく質を分解することで、うま味成分を生み出し、肉は柔らかくなり、パサつきが抑えられるという効果がある。いまや、私たちが日常、スーパーやコンビニで目にする総菜やチキンなどに使われているほどである。


この万能調味料「液体塩こうじ」は国内にとどまらず海外へと広がり、2015年には加工の起点としてタイに現地法人が設立された。同拠点が世界への発信地となり、日本のみならずヨーロッパへの輸出をおこなっている。2017年には日米で特許を取得。「液体塩こうじ」は、唯一無二の万能調味料としての地位を築きつつある。


食品とは異なる業界である、リクルートにて広報宣伝、新組織の立ち上げなど要職を歴任してきた平田氏が、ハナマルキに参画したのは2013年のことだ。


「味噌を売るだけだったらそこまでプロモーションに力を入れなくても、ある程度は売上が読める。ただ、新しい調味料である『液体塩こうじ』を売っていこうとしたときに、これはいわゆるPRをやっていかないとダメだって考えが社長にあったようで。それをやろうとしたときに社内に経験者がいなかった。私が声をかけていただいたのは、そんなタイミングでした」


テレビCMは有名だったものの、体系的・戦略的なPRは実施していなかった同社。平田氏が参画して以来、プロモーションは質・量ともに向上し、コーポレートサイトなどのクリエイティブ面も一新された。それは、未だ知られていない日本の伝統を世界へ伝える役目を担っている。


「塩こうじって日本古来の調味料で、いま海外でも和ブームが来ている。外国人って、味噌は知っていても、塩こうじは知らないんです。これはおもしろいと思って。知らない人が多いっていうのは、裏を返せば、まだ伸びる余地があるってことですよね」


世界での認知が低いからこそおもしろい。あらゆる領域に未開の地が広がっている。「液体塩こうじ」の魅力と可能性を追求する、開拓の旅ははじまったばかりだ。



2章 アンチテーゼを選択する


2-1.  父への反骨精神


幼いころから、平田氏の胸には父への反骨精神があった。田舎から都会に出てきた父は、公務員として働いていた。公務員宿舎に両親と平田氏、4つ離れた弟の4人、裕福な家庭だったわけではない。夕ご飯では決まって早く帰ってくる父を囲み、そのあとは父が見たいテレビを一家で見ることが常だった。


「19時以降は親父の独壇場なんですよ、家の中が。だから私は子どものとき、『早く帰ってこなくていいから、働いて稼いでくれないかな』って思ってた。息子の私が言うのもなんですが、親父は知識が豊富で、運動神経がよくて、字、絵、歌、すべてうまい。なんでも出来る人だったから、私にけっこう厳しかったんです。だから余計に反発して、『親父と同じ道は絶対歩まない』というのは小さいころから思っていたんです」


父親に対するアンチテーゼ・反骨心を抱くようになった平田氏。学校では、親の仕事の関係で転校を繰り返していた。2つの中学校、3つの高校に通った。それぞれ新しい環境やコミュニティで友達をつくるため、人付き合いについては、常に気を遣わざるを得なかった。


「転校の連続で、中学・高校とずっとみんなに気を遣って生きてきたから、大学生になったときにやっとみんなと同じスタートラインに立てたと感じて、それがすごく嬉しくて。そのときに、大学は好きなように生きていきたい、優等生っぽい生き方をしたくないみたいなところがあって、いままでとは反対の生き方をしてみたいと思ったんです」


真面目、優等生、意見を言わない。それが高校までの平田氏が人に与えるイメージだった。しかし、大学に入学してからは、あえて反対の選択をし、周囲から生意気だと言われるほど反発していた。意識的にキャラクターを変えた結果、見えるものが変わっていった。


「あえて(これまでの自分では選ばないような)意外な選択をして、大学ではクラシックギター部に入ったんですけど、部内では、練習しない、ギター下手、補欠というレッテルを貼られていたんです。そんなレッテルを貼られているとこういう気持ちになるんだと、そのときすごく分かりました。でも、3年生のときに、全部員の投票で選ぶ副部長選挙っていうものがあって、私が副部長に選ばれちゃったんですよ」


生意気で、文句ばかり言って、ギターは下手。そんな自分がなぜ選ばれたのか。理由を聞くと、返ってきたのは意外な答えだった。


「そのとき、後輩に聞いてみました。なんで私を選んだのかと。考えを持っていて、意見をするっていうのは部内で私くらいしかいないと。ギターがうまい人もいいけど、『違うんじゃないの、こうした方が良いんじゃないの』ってはっきり言える人がほしいと。それはすごく嬉しかったですよね。部員は真面目で、あまり表では意見しない子たちばっかりだったんですけど、ちゃんとそういう風に見てくれるんだって、すごくいい勉強になりました」


あえて人とは違う道を選ぶと、それがときに価値となり、必要とされることもある。平田氏にとって反骨精神は、自分の核となっていった。



2-2.  逆境を選ぶ


就職したら、地元広島から東京という大きな舞台に出てみたい。早く家に帰るのではなく夜遅くまで働き、その分給料が良い会社で働きたい。父を反面教師としていた平田氏が選んだ就職先は、リクルートだった。


「1988年の『リクルート事件』により、私が就職活動していた1989年は、リクルートという会社は最悪のイメージの会社だったんです」


ただでさえ就活生にとっては、空前の売り手市場だった時代。どこの会社も、一回面談すれば「うちに来ないか」と口説いてくる。そんな時代にあえて評判の悪いリクルートを選んだ。


「企業側があまりにも簡単に採用しようとすることに違和感がありましたし、同級生たちは誰もが知る有名大手企業から何社も内定をもらい、中には誇らしげに語る人もいた、それも違和感で。一方で、リクルートは確かに悪い会社でしたが、社内は活気があった。周囲は反対するのだろうけど、リクルートに決めました。その当時は、みんなが反対するところになんとなく価値もありそうな気がして。周囲から反対されればされるほど、逆に決心が固まっていくような感じでした。勝算はないけど、覚悟だけはありました」


不安がないわけではないが、とにかく一生懸命やろうということだけは決めていた平田氏。入社後3ヶ月間の営業研修を経て、7月からは制作部に配属された。しかし、3ヶ月後に突然異動の辞令が下る。当時はまだインターネットよりも紙の時代。『リクルートブック』と呼ばれる紙の就職情報誌、その原稿をひたすらクライアント企業に持って行き、確認を受けてくる仕事があった。時間がない営業と制作の間にたって、その業務を専門に担う新たな部署が設立された。平田氏は新たな部署に異動した。


「そのポジションって、周囲の人がみんな下に見ているなーという感じを受けていました。しかも、自分がコントロールできない仕事なので、すごく難しい仕事だったんです。制作の人たちがギリギリまで引っ張って、タイトなスケジュールのなかで原稿を作り上げて、『平田、今日中に原稿の確認取ってくれ』って言うわけですよ。『身勝手だな、いい加減にしてくれ』と、こちらからしたら。だけどこれも反骨精神で、それを平然とやってしまうところに価値があると思ったんですよ」


逆境があるからこそ、そこでできることには価値がある。どんな無理難題を言われようと、それをさらりとやってのけるのがプロフェッショナルだと、平田氏は考えた。プロになって、逆に「すごい」と言わせたい。そう考えた平田氏は、新規部署の仕組みや組織づくりに奔走した。「下に見られる人」の気持ちを知る良い経験にもなった。平田氏の反骨精神は、いつしか確固たる覚悟に変わっていた。



2-3.  逆境から生まれる信念


多くの日本企業に打撃を与えたバブルの崩壊。当然リクルートも、人員削減や事業縮小は避けられなかった。入社して3年目、平田氏の部署も解散されるという噂が流れはじめていた。


「なんとなく私はそのまま東京で制作職に戻るみたいな噂があったんですけど、正直、あまり乗り気ではなかった。当時制作職は、経験のない若手はまずは先輩について学んでいく、というように見えていて、それが嫌だったんです。自分の力を知るには、自分1人の力でやっていける環境がいいと考えていました」


そんなとき、リクルート内定者時代にアルバイトをしていた中国地方の支社の先輩と話をする機会があり、良ければ広島に戻ってこないかと声をかけてもらえた。故郷である広島の地で一回働いてみたい。平田氏はすぐに上司に相談し、広島に異動させてもらうこととなる。


「そしたら、みんながいろんなこと言ってくるんですよね。『なんで自分から都落ちみたいな選択をするんだ』とか。『いやいやお前、地方はクリエイティブが不毛だよ』とか。当時の私は逆に火がついて、失礼なこと言うなと。『クリエイティブが不毛な中国地方で結果出したらいいんでしょ』っていう覚悟で移りました」


環境に恵まれた東京で結果を出すのは当たり前。そうではなく、不毛な土地で結果を出すことにこそ価値があると、平田氏は考えた。逆境を新たに迎え入れることとなる。当時の中国支社のマネージャーには、3年で結果を出せなければリクルートを辞めると伝えていた。それほどの覚悟だった。結果的にそれは人生のなかでも最高の選択だったと、平田氏は語る。


「やっぱり東京と広島ではクリエイティブの力は全然違った。だから、絶対変えないといけないと思ったんですよ。それまでの中国支社(広島)のやり方のほとんど逆をやってました。そうでないと変わらないと。それが先輩たちからしたら、なんだコイツみたいな感じに映っていたと思いますけど、私はそれをとにかく信念でやってたんです」


新たな地ではいろいろな苦労が待ち受けていた。東京ほど環境が整っていない環境で奔走し、異動から3年が経とうとしていたころ、ようやく社内の制作コンテストで全国一位を獲得することができた。中国支社から全国一位が出たのは、史上初の出来事だったという。結果を出したことで、周囲の見る目も一変した。


「結果が出なかった時期は、意見しても聞いてもらえなかった。でも、結果を出してからは『平田の言う通りやったらいいんじゃないか』と言ってもらえるようになった。なんて仕事がやりやすいんだっていう。結果を出すとこうなるんだなと思いました」


不遇な環境でも結果を出す。実績は自信となり、平田氏の信念が形成されていった。


広島の町並み


2-4. 「サンロクマル」での経験


中国支社に「鬼」が来る。お世話になった支社長が異動となり、代わりにやってきたのは、社内でも「鬼」と呼ばれる有名な人物だった。


「その平尾さんが中国支社長として来られ、2年間で業績は伸びたんですが、その代わりすごくつらかったです。あらゆる面で何も考えていないとすぐに怒られる。『できません』『前からそうしてました』はNGワード。毎日緊張の連続でした」


そんな鬼の上司である平尾氏は、とある事業に注目していた。生活情報クーポンマガジン「ホットペッパー」の前身となる「サンロクマル」。当時社内では、「あんな事業は成り立たない」、「うまくいかない」という声が多数派だったが、支社長の平尾氏は広島の地でその事業を強力に推進し、異動後早々に芽を出すことに成功しはじめていた。


「あるときに支社長の平尾さんに『平田、サンロクマルのテレビCMやるぞ。お前がやれ』と言われまして。宣伝の仕事はやったことがないので不安はありましたが、ちょっとワクワクしましたね」


その足で広島市内の広告代理店に連れて行かれた平田氏。事前に話をつけていたというその広告代理店の広島支社長と打ち合わせ、あれよあれよという間に話が決まっていった。テレビCMの受注などすべてが手探りの状態のなか、平田氏の広告宣伝の仕事のキャリアはそこからはじまった。


「『サンロクマルでトクをする』っていう歌に乗せて、ものすごい量のテレビCMを流したんですよ。そしたら広島の街歩いてると、動いてるなっていう感覚があった。『課長、今日サンロクマルのクーポン持ってきました?』という女性の声が聞こえてくる。えっと思って、すごいことになってるぞ、これはと」


結果さえ出せば、社内の見方は変わる。そう信じていたからこそ、上司のどんな無茶ぶりにも耐え、信じてついていくことができた。結果として、サンロクマルのクーポンは広島市内の飲食店で爆発的に普及していった。


その後、サンロクマルは現在の「ホットペッパー」という呼称に変更された。のちにリクルートの主力事業となるホットペッパー事業、その成功事例をもって、平田氏の上司である平尾氏は東京へ栄転した。


「平尾さんとは、結局広島で2年、東京戻って3年、計5年一緒でした。東京に戻ってからは『タウンワーク』や住宅のフリーペーパーの商品企画・宣伝が主な役割でしたが、各地方で組織を立ち上げて情報誌を展開していくってことをしていたんです。各地で人の採用もやりました。いわゆる事業の立ち上げを体験させてもらい、事業のつくり方、マネジメント手法など多くのことを学びました。会社が変わっても、この時期の経験がいまだベースとなっています」


何か新しいことをはじめようとするとき、反対の声はつきものだ。しかし、それくらいで折れてしまうような覚悟では、はじめからうまくいかない。反骨精神が覚悟となり、信念となるほどの思いの強さが、数々の事業を軌道に乗せた。


北は札幌から南は熊本鹿児島まで、各地の事業立ち上げに奔走した平田氏。2006年、入社してから20年という節目に退職するまで、信念の下に走り逆境を成功へと導きつづけた。


中国支社(広島)から再度東京に異動になった際の送別会にて。平田氏34歳のとき


3章 ビジネスに正解はない


3-1.  提案は一つ


リクルートにて、いくつもの事業・組織の立ち上げを牽引してきた平田氏。現在、ハナマルキでマーケティング・広告宣伝の統括を務めながら、組織の意識変革にも取り組んでいる。


「マーケティング部のメンバーが新商品の提案をするときに、『A案B案C案作りました。どれがいいですか』というやり方が常になっていました。これじゃだめだと思って、まず商品会議では1個しか提案しないでほしいと。『ABCどれがいいですか』じゃなく、『これがやりたい』っていう風にしてほしいと言ったんです」


サッカーで例えるならば、従来の提案のやり方はパスばかり回して、いつまでもシュートを打たないことに等しい。シュートを打たなければ、試合で勝つことはできない。外れてもいいから、まずはシュートを打つ感覚を覚える。精度なんて気にせず、とにかくこれでやりたいと、覚悟を決めてやること必要だ。


「結局のところ、そんな神様みたいに何でも正しくできる人なんていないですよね。みんな失敗するんです。みんな真面目で成功しなきゃと思っているから、とにかくネガティブなことはだめだとか、失敗は許されないみたいな考えになる。それは結局一番やっちゃいけない」


仕事は試験で高得点を出す世界とは違う。そもそもビジネスの世界に正解なんてない。売上という採点はあるが、高得点を狙うためにミスを減らすという発想ではなく、とにかくやってみないと分からない世界なのだ。


ミシュラン1つ星を9年連続で獲得しているフランスのレストラン「ル・ホテル・ブリタニー」の総料理長を務めるルィック・ルバイシェフ(中央)は、「液体塩こうじは白ワインの代わりに使える。この効果に驚いた」とコメント(写真は同社が協力した「ルィック・ルバイシェフ特別レクチャーディナー&東京湾クルーズ(2016年11月30日)」での様子)


3-2.  組織のスピード感


組織を変革していく。そのスピード感の設定は、会社がどこを目指しているかによって変わると、平田氏は語る。


「私はよくサッカーで例えるんですけど。鋭いスルーパスを出せる技量は持っているスター選手がいても、受け手がうまく受けることができないと成立しないじゃないですか。全体の選手の技量や特徴を見ながら、チームとして、どういう戦略で、どういう勝ち方がいいのかを考えていく。必ずしも鋭いキラーパスを持つ選手は必要でない、ということです」


数々の会社を経験したことで、それぞれの会社に「強み」があり、弱みにフォーカスするのではなく、その会社の強みを伸ばしていくことが大事だということがわかった。


「それぞれの組織に考え方があると思うんですよ。例えばAという組織では3対0で勝ちたい。点もある程度取りたいし、守りも完璧にやりたい。Bという組織では、6対5で勝ちたい。攻めて攻めて攻めるんだけど、守備はもろい。5点取られても最後に6点取れればいいでしょと。Cという組織では、0対0で引き分け、勝ち点1が取れればいいと。勝ち方に良い、悪いはなく、勝ち方をしっかり定めることが大事だと思います」


組織にはそれぞれのスタイルがある。だからこそ、急激に変革するのではなく、それぞれの勝ち方をしっかりと定めた上で、段階を踏んで1個1個やっていく。組織の戦略を無視して、いきなり100%のパスを出すのではなく、50%のパスを受け取れたならば60、70と上げていく。そのひとつひとつのパスを社員がしっかりと受け止め、楽しむことができれば組織は強くなっていく。


何かをやり遂げるという覚悟をもって行動することが、ビジネスにおいては重要である。それぞれの思いや願いを覚悟に変えて進めていく。それは、いつしか信念となる。信じる力によって逆境すらも楽しむその心が、組織を変革し、まだ見ぬ価値を世の中に創り出していくのだろう。



2017.10.19


1966年のCMで初めて使用されて以来、そこから51年のあいだ愛され使用されているメロディー


4章 その後―2019.06.20―


4-1.  仕事は芽が出るまでが面白い


一つ、試してみる。上手くいかない。それならこれはどうだろう。やっぱりだめ。今度こそはきっと大丈夫と確信するも、思うような結果が出ない。頭に浮かぶ「不可能」の3文字を振り払いながら、数え切れない挑戦と失敗を繰り返し、先行きの見えない道を行く。そうして諦めず進みつづけることでしか、たどり着けない場所がある。


「液体塩こうじ」は、まさにそれを証明するかのような製品だ。


これまで歩んできた道のりは、決して平坦ではなかった。


大正時代に創業された日本を代表する老舗企業ハナマルキが、これまでの世にない全く新しい製品として「液体塩こうじ」を開発し、発売を開始したのが2012年。しかし、商品認知ゼロからのスタートに加え、「使い方が分からない」という声も多く、先行きが見えないスタートだった。


新商品というものには反対の声がつきものだ。「認知が低い」、「こんなもの売れるわけがない」。リクルート時代のサンロクマルを思い出す。あのときもそうだった。今回も、社内外からそんなネガティブな声が上がっていた。しかし、考えてみれば当たり前のことだ。味噌でもなく塩こうじでもなく「液体塩こうじ」。そんなもの誰も聞いたことがないし、周囲から批判的な声が多くなるのは予想できていた。


しかし、平田氏の目には「液体塩こうじ」は魅力的な商品に映っていた。日本古来の調味料であり、原材料が米、塩、水のみとシンプル。塩こうじに含まれる「酵素」の働きが、食材が持っている旨味成分を引き出す。こんな調味料は見たことがない。今は認知が低いが、使ってもらえれば良さを理解いただけるはず。液体塩こうじの価値を地道に発信しつづければ道は開けていく。そんな確信が平田氏のなかにはあった。


続けるからこそ価値が生まれてくる。困難な道であれ、粘り強く続けていけば開ける世界がある。「液体塩こうじ」と向き合いつづけてきた7年。平田氏は続けることの意味を、身をもって認識している。



2012年の発売から、あらゆる手を尽くして「液体塩こうじ」をPRしてきた。


「御社の今年のテーマは何ですか?」と業界誌の記者に聞かれれば、「液体塩こうじです」と間髪入れずに言いきってきた。毎年毎年繰り返される問答。いい加減しつこいと思われていたかもしれない。しかし、徹底してやるという覚悟があった。


「芽が出るまでは大変です。でも、実は芽が出るまでが面白いんですよね、仕事って」


芽が出るまでの期間は、ひたすら耐え忍ぶしかない。


新商品は毎月どれほど売れるか分からない。先月よりも下がったらどうしようか。数字に怯え、今できることに祈るように取り組む。なんとか目標を越えればほっと安堵する。果てなく長いトンネルの先にある光を追い求めているうちに、体も心もくたくたになる。


しかし、その過程こそが面白いのだと思える。それは、リクルート時代の経験があるから言えるのかもしれない。


当時はまだ社内の一新規事業に過ぎなかった「タウンワーク」。最初のころは、何度営業がお客さんのところへ飛び込んで行っても、ただ怒られ帰ってくるだけの毎日が続いていた。果たしてこの仕組みでお客様を集められるのか、そして利益を生み出せるのか。誰一人確かなことは分からなかった。


そうこうしているうち、徐々に売上は伸びはじめる。結果が出た途端、一転。事業は加速度的に成長していった。


人員が増え、組織は膨らんでいく。意思決定に関わる人が増え、自分の知らないさまざまな展開が生まれたり消えたりしていくようになる。なかには後から参加してきた人でさえ、長いあいだ続けてきた自分と同じくらい事業を自分事でとらえ、意見を出してくれる人まで現れる。喜ばしいことなのに、どこか一抹の寂しさがよぎる。まるで手塩にかけて育てた子どもが親の手を離れていくかのようだ。


あぁ、やっと続けてきたことが一つの形になったのだ。


そのとき初めて、不可能にも思われる未来へ全身全霊で挑んでいたあの瞬間。頭と心を絞りながら試行錯誤を重ねていた、あの瞬間にしか宿らない興奮や喜びに気がついた。


苦労を重ねた分だけ、成し遂げたときの喜びは大きくなる。


だから、続ける。できることはすべてやる。たとえすぐに芽が出なくても、行動を積み重ねる。


「ときどき量販店さんの店頭で、液体塩こうじを販売する機会があるのですが、その際はあと1本、もう1本と粘って案内するようにしています。たかが1本なのですが、リクルート時代のタウンワークのときもそうだったけど、新しい事業は、1つ1つ、が大事ですから」


大きな固い岩を砕くには、小さな力でも少しずつヒビを入れていくしかない。砕いた岩の先に宝が埋まっているかどうかも分からない。だから、誰か一人でも信じて掘りつづける必要がある。


可能性がない。到底実現できるわけがない。誰もが無理だと思うことであればあるほど、それを創り上げる喜びは大きくなる。信じたものが報われるときがある。


99人に価値がないと思われることを信じ、1人でもやり続ける。続けることの意味を持ち、トライアンドエラーを楽しめる。そうしてやがていつの日か誇りに変わるもの。それは、しつこく続ける者だけが得られる特権だ。


4-2.  続けるから価値が生まれる


何か一つを大切に続けていくと、そこに新たな意味が加わることがある。


ハナマルキが50年以上続けているCSR活動に、「おかあさんの詩コンクール」というものがある。毎年母の日に合わせ、「おかあさん」をテーマにした詩を公募し、審査、優秀作品を表彰している。


当初、平田氏が同社に参画した際は、50年という節目にあたり、この取り組みもそろそろ終了してよいのではないかと考えた。しかし、見方を変えると、半世紀ものあいだ続いてきた企業の取り組みというのも珍しい。それだけ長い間続いているということ自体、「すごい」と思われるものになっていた。


長い年月の中で社会が変化したとしても、時代に合わせ進化させていけばいい。たとえば、今後は「おかあさん」だけでなく「おとうさん」もテーマに加えていく案もある。残して続けて時代と融合させていくことで、そのもの自体は進化をとげ、価値が高まっていく。


続けているからこそ物事の価値は生まれ、その価値は時代に融合されて新たな意味をもたらすものとなっていく。



「僕がハナマルキに来て3年目、液体塩こうじを使った料理教室として、ABCクッキングスタジオさんと一緒に『ハナマルキッチン』というタイアップ企画をやったんです。1年で終了しようと思ってたんですが、1年目が終わったときに、周囲から続けた方がいいんじゃないという声が多かったんです。そこで2年目を実施したところ、新しいアイディアが出てきて、進化していくんですよね。それが私にとっては想定外でした。宣伝PRは常に新しいものを企画していった方がいいという考え方が強かったのですが、最近は、『続けることで価値が膨らんでいくこと』を実感しています」


当初は一時の企画として思っていなかった企画も、「液体塩こうじ」の歴史とともに知らぬ間の広がりを見せていた。


ハナマルキッチン2017、2018、そして2019年は3回目の開催が決まった。企画をより面白くするために、今年からはテーマを定めることにした。2019年のテーマは「簡便」。「液体塩こうじ」を活用し簡単に作れるメニューを紹介するというコンセプトだ。


融合された蓄積の歴史の広がりは止まらない。当初思ってもみなかったことが起きてくる。開催地は海を越え、今年はタイのバンコクにあるABCクッキングスタジオで行われる。タイに拠点があるがある同社にとっては親和性も高い。そんな良いアイディアも、1年で辞めてしまっていたら生まれてこなかったことだった。


すぐには結果が出なくても、続けることで思いもよらない芽が出てくることがある。情勢が変わることもある。だから、早くに見切りをつけすぎてはいけないと平田氏は考える。


事実、こうして「液体塩こうじ」の価値を発信しつづけてきたからこそ、それとともに育っていく企画があった。また同時に、その企画が液体塩こうじを育てていく。それぞれを続けていくことによる価値、それらが相乗効果を生み出し、好循環が生まれている。




日本中の食卓に愛される調味料の歴史を積み重ね、「お味噌ならハナマルキ」として認知されるまでに至った同社。「液体塩こうじ」もまた、新たな歴史の始まりを刻んでいる。少しずつ認知を広げ、販路を海外にまで拡大。今では「液体塩こうじ」は、味噌や即席みそ汁と並ぶ同社の看板商品の一つとして地位を確立しつつある。


同年5月には、タイで開催された国際展示会「THAIFEX2019」にて、「液体塩こうじ」はFinalistとして選出され、将来の「革新的でトレンドとなる」商品として紹介された。さらに同年7月には、日本食糧新聞社「食品産業 平成貢献大賞」として表彰されるなど、その価値は一般消費者のみならず広く食品産業界で認められつつある。


はじめは世の中の誰一人知らない製品だった。


それがいまや国内外で評価され、愛されている。ミシュラン3つ星を冠するレストランを経営する一流料理人から、一般家庭の食卓を彩る主婦のあいだまで。一人でも多くの人に製品を手に取ってもらいたい。その願いが不断の努力という形となり、結実した。


続けるからこそ価値が生まれる。だから、諦めず続けてみることが大切だ。


2018年春、ハナマルキの創業100周年に開催された「感謝の集い」では、従業員とその家族、総勢約800名が招待され、日ごろの感謝とともに同社の次なる100年が始まっているというメッセージが伝えられた。


これからの100年。ハナマルキは、新たな時代の歴史を積み重ねていく。


日本食糧新聞社が主催する「食品産業 平成貢献大賞」の表彰式にて


4-3.  新入社員の私へ―自分のせいにしろ


最初は誰だって上手くいかない。なかなか結果が出ないことほど辞めたくなるのは、人間の心理かもしれない。


「液体塩こうじ」の価値を世に届け、続けることの価値を経験から学んできた平田氏も、新入社員のころはそうだった。


右も左も分からない毎日。覚えることが膨大にあり、当たり前のことができていないと怒られる。もし当時の自分がいま目の前にいたら、きっと言葉をかけたくなるだろう。


社会人1年目。リクルートに入社した当時22歳の自分は、毎日会社から逃げ出したくなっていた。結果が出ない日々。挫折に次ぐ挫折。自分は仕事ができない人間なんだ。ビジネスの世界に向いていないのだと本気で思っていた。


もう辞めてしまおうかとも考える自分。しかし、東京に就職を決め、意気込んで飛び出した息子が、早々に実家に帰ってきたら両親はどう思うだろう。悲しむ両親の顔が浮かんでくる。かろうじて踏みとどまることができたのは、そんな葛藤があったおかげとも言えるのかもしれない。


辞めるという選択肢はない。仕事はできない。じゃあ、どうすればいいのだろう。


せめて会社の中で、何か自分の存在感を残せないだろうか。小さくていい、ちょっとした痕跡のようなものを。少しでも評価され認められ、「会社にいてもいい」存在くらいにはなっておきたかった。


仕事の成果では周りと勝負にならない。取り組む姿勢なら変えられると、まずは就業1時間前には出社するようにした。「平田は仕事はできないけど、朝来るのは早いよね」この認識をしてもらうこと。意識で変えられるところから変えて、とにかく徹底して続けることから始めた。


「職の選択は、今後もっとフレキシブルになっていくのでしょうが、1つの会社で最低3年くらいはやらないと、自分がその会社・組織に貢献できたのかどうかを見極められないと思います」


「ブラック企業だから辞めます」。たしかに尊重されるべき選択であるかもしれないが、そればかりでは何も残らないこともある。その仕事が自分に向いているか否かの適性は、実際に経験を重ねていくまで分からない。


だから、今の自分が考えうる範囲で道を決め、さらに一度決めた道は、少なくとも3年は続けるようにする。精一杯仕事して、結果や実績を残してから、未来を選択した方がいいのではないだろうかと平田氏は考える。


今、目の前の仕事で結果を出すことができなかったとして、将来もそうとは限らない。何かしらの理由があり選んだ仕事であるならば、過去の自分の意思を信じてみる。就職し、どんな環境に置かれたとしても、まずは求められたポジションで最大のパフォーマンスを出すことを目指し考えてみることだ。


「『(もしも今、新入社員のときの自分に言葉をかけるとしたら)そのときに自分が最善だと思ったことを選べばいい。将来はあまり変に意識せず、今考えうる範囲でコレと思ったことを尊重する。それで間違いはない』と、言うと思います。その代わり中途半端で投げ出すのはよくない。『続ける覚悟は決めた方がいい』とも言うかな」


道の先がどこに繋がっているかは誰にも分からない。自分はもとより、上司にだって分からないことだろう。だからこそ、自分の選択を正解にしていくという自分自身の執念のようなものが必要なのではないだろうか。


自分の選択に責任を持って、覚悟を決めてやる。


どんな企業に入ったとしても、会社のせいにしない。どんな環境に置かれても、環境のせいにしない。選択した自分の責任にする。今はまだ綺麗に描けなかったとしても、未来はそこから広がっていく。



4-4.  あなたはどうしたいかのマネジメント


ビジネスの世界に正解はない。


だから自分を貫き通し、選択した一つを正解にする。ビジネス上の意思決定においては、ABCからどれか一つ選ぶのではなく、選んだAを正解にすることが必要だと、平田氏は考えてきた(「3章 ビジネスに正解はない/3-1. 提案は一つ」より)。


選んだ道に責任を持つことで見えてくる、ビジネスマンとしての新たなキャリア。ほかならない自分の意思が道を拓く。生き方や働き方が多様化し、選択できる時代だからこそ、「これをやりたい」という個人の意思の重要性はますます高まっていく。


だから、平田氏はマネジメントにおいても、その人自身の意思の所在を重視する。


スポーツジムに例えるとするならば、短期でできるだけ早く筋肉をつけたいのなら、それ相応の厳しいトレーニングが必要になる。一方、ゆっくりと弛んだ体を引き締めていきたいのなら、まずは軽めのダンベルなどから始めるようにアドバイスする。本人がどうなりたいか。それに応じて効果的なアドバイスの仕方は変わってくるからだ。


「どんな将来を描いているのか。何を大事にしていきたいのか。その方の考え方を尊重します。そのゴールに応じた仕事環境の提供、仕事への取組み・進め方のアドバイスができれば、と考えています」


仕事を続けていくうえで、自分は何を大切にしたいのか。何を手に入れたいと願うのか。


自分から声を上げることなく、単に任されたことだけをやる。受け身の姿勢になってしまう人は、失敗を恐れているのかもしれない。しかし、それを越えて成長しなければ、求めるものは手に入らない。受け身の姿勢では何も始まらないと、平田氏は伝えていく。


「仕事で失敗する、それは誰だって辛い。しかし、そこを越えていかないと、実は仕事は面白くなっていかない。逃げていると、だんだん存在感がなくなってしまい、自分自身が仕事を楽しめなくなっていく。失敗してもいいから、『私はこれをやりたいのでやらせてください』というスタンスが仕事を面白くしますよね」


たとえば、新しいプロジェクトに率先して手を挙げる。そんな姿勢がある人ならば、周囲も「そういうことがやりたいのか」と知ることができ、望む仕事を手にできるようになるだろう。


出世したいなら「出世をしたい」と言葉にする。なりたい姿があるなら「こうなりたい」と主張する。会社や上司は、部下のすべてを見ていられるわけではない。(もちろん人から任された仕事を疎かにすることはできないが、)やりたい仕事は自ら取りに行った方がいい。しっかり周囲に自分の意思を示していくことが大切になるのではないかと平田氏は語る。


逆境にあってもめげずに前を向くことができる原動力。失敗と挫折を繰り返しても、それでもどうしても成し遂げたいと願う思い。意思は自分の心から生まれていく。心と向き合い、明確になればなるほど望みに近づける。


向かい風に立ち向かいつづけた「液体塩こうじ」が唯一無二の地位を確立したように、逆境に負けない澄みきった誰かの意思が、まだ見ぬ未来を切り拓いていく。



2019.06.20

文・引田有佳/Focus On編集部


2018年、長野県伊那市につくられたハナマルキの「みそ作り体験館」からの南アルプスの眺め。同建築物は、建築デザイン分野において世界的に権威ある賞の一つ、「International Architecture Awards 2019」をはじめとする国内外7つの建築・デザイン賞を獲得している


編集後記


1991年のバブル崩壊以降、「ブラック企業」と呼ばれる企業が生まれはじめる。従業員の待遇や労働環境など、そこで働く人に苦を強いる企業群に対しその呼称が用いられ、2013年には新語・流行語大賞を獲得するまでの社会現象となった。


物理的、あるいは精神的な苦(ときにはその両方)を強いるブラック企業。「ブラック」という言葉は様々なシーンで利用されるようになり、労働者が働く企業を選ぶ意志にも影響を与えている。


それまでなかったこの価値観の登場は、時代の要請として働き方というものが再考されるきっかけにもなった。「ブラック企業」という言葉の存在により、苦がある環境を避けることができるよう社会構造がつくられ、そのように定義される企業が存続しつづけることは難しくなっている。それは、より豊かな生活・働き方を志向するための、一つの重要なキーワードとして存在している。


人間的生活を奪う労働は悪である。しかしながら、この言葉がもたらす印象には、人生の選択を盲目的にさせてしまう可能性がひそんでいることにも着目したい。


平田氏のように働く環境に「苦」があったからこそ、それが「逆境」という名の成長の機会となり、得られるものがあったことも事実としてあるように思える。厳しい局面を経て多くの気づきを獲得し、新たな生き方を見出す人々が生まれる。そんな環境が存在していることも事実であるようだ。(あくまでも「ブラック企業」が善であるという話ではないことは前提として)


ただし、そこでは逆境に対する姿勢と周囲の環境が重要であるという。


レジリエンスとは、逆境に直面し、それを克服し、その経験によって強化される、また変容される普遍的な人の許容力である。―Edith Grotberg


1970年代から逆境に対する精神性・レジリエンスの研究がなされてきた。そこでは、逆境に立ち向かう力を持つ人の要素を3つに分類している。「個人要因」「獲得される要因」「周囲から提供される要因」という3つの要素である。言い換えれば、「その人が本来持ちうる力や資質」と「後天的に獲得した力」、そして「その人の周囲の環境」がレジリエンスの構成に影響していることを明らかにした。


とりわけ、「個人要因:その人が持ちうる力や資質」の考察(どんな資質を持った人が逆境を自己の強化にかえることができるのか)においては、その人に「楽観性」「統御力」「社交性」「行動力」が必要であるとされ、この4つの性質は以下のようにまとめられている。


(資質的レジリエンス要因とは)ストレスや傷つきをもたらす状況下で感情的に振り回されず,ポジティブに,そのストレスを打破するような新たな目標に気持ちを切り替え,周囲のサポートを得ながらそれを達成できるような回復力であると示唆される。―東京大学大学院教育学研究科 平野 真理


幼少期から反骨心をもち生きてきた平田氏は、逆境に対する資質を高め、未来を見据え、前向きに気持ちを切り替えることで、逆境を成功へと導く力を備えてきた。そして、ファーストキャリアで選んだリクルートをはじめとする周囲の環境は、平田氏を厚く支えてくれる環境であったのだろう。


信頼できる人がいたからこそ、逆境を越え邁進することができた。それにより未来を信じ、社会のカタチを変える道を歩みつづけている。いまなお歩みを止めないその姿を、平田氏は私たちに示してくれている。



文・石川翔太/Focus On編集部


※参考

齊藤和貴・岡安孝弘(2009)「最近のレジリエンス研究の動向と課題」,『明治大学心理社会学研究』4,pp.72-84,明治大学文学部心理社会学科,< https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/15738/1/shinrishakaigaku_4_72.pdf >(参照2017-10-17).
平野真理(2010)「レジリエンスの資質的要因・獲得的要因の分類の試み―二次元レジリエンス要因尺度(BRS)の作成」,『パーソナリティ研究』19(2),pp.94-106,日本パーソナリティ心理学会,<https://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/19/2/19_2_94/_pdf>(参照2017-10-17).




ハナマルキ株式会社 平田伸行

取締役 マーケティング部長 兼 広報宣伝室長

広島県出身。広島大学経済学部卒業。1990年、株式会社リクルートに新卒で入社。人材採用広報の制作ディレクターを経験後、新組織の立ち上げや自社の宣伝を担う。2010年より、急成長中のアパレル企業に移り、宣伝広報部門の立ち上げを担った後、執行役員社長室長に就任。急成長期にあった同社の組織体制強化を任され、人事・システム・CS窓口など全方位的に体制の見直し・強化をおこなう。その後、2013年6月よりハナマルキ株式会社に参画。

http://www.hanamaruki.co.jp/


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