Focus On
山口隼也
株式会社ポリグロッツ  
代表取締役社長
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or自分の基準でいい、意義あるミッションを掲げよう。
「創造性を解放する」をミッションに、日程調整ビジネスカレンダー「Spir(スピア)」を展開する株式会社Spir。複数カレンダーと連携し予定管理するプラットフォームとして機能する同社サービスは、戦略的で無駄のないタイムマネジメントを可能とし、人や企業の営みを加速させていく。2021年11月には、米国トップアクセラレーターの1つAlchemist Acceleratorが協力する政府のアクセラレーションプログラム「AlchemistX」に採択。2022年2月には英語版もリリースされるなど、海外展開を見据えている。
代表取締役の大山晋輔は、独立系戦略コンサルティングファームであるコーポレイトディレクション(CDI)の東京・上海オフィスで働いたのち、2014年に株式会社ユーザベースにジョイン。SPEEDA事業の事業開発・プロダクト開発責任者や営業部門を経て、2017年にNewsPicks USAのCOOを務めた経歴を持つ。2019年、株式会社Spirを設立した同氏が語る「創造性の解放」とは。
目次
自分を変えたい――。それは、古今東西あらゆる人が人生で1度は思ったことがある、普遍的な悩みなのではないだろうか。裏を返せば、多くの人が自分を肯定できずに苦しんでいると言えるのかもしれない。
そんな悩める全世界の人々に、熱烈に支持され社会現象にもなった米国発のとある番組がある。Spir(スピア)が目指すミッションを言語化する際、大きな影響を受けたと大山は語る。
「Netflixに『Queer Eye(クィア・アイ)』という番組があって。僕が米国にいた頃から好きだったんですが、それぞれファッションや美容の専門家である5人のゲイのプロデューサーが、自分を変えたい依頼人をプロデュースして、1週間くらいで見違えるようにしてしまうというリアリティ番組があるんです」
2019年には日本を舞台にしたシーズンも公開された同作品において、特筆すべきは依頼人の変化が外見だけにとどまらない点にある。マイノリティとして差別を受けてきた経験など、多彩な人生を歩んできたプロデューサーたちとの対話は、自信を喪失している依頼人の内面すらも大きく変えてしまう。
だが、そこには日米で大きな差があるという。
「アメリカ人の場合は、『ありがとう』みたいな感じでニコニコして嬉しそうにしているだけなんですが、日本人はみんなめちゃくちゃ号泣するんですよ。自分に自信が持てる状態になっているというか。どれだけ固定観念に苦しんでいるんだろうと思って、僕が解決したいことってこういうことなんじゃないかなと、点が繋がって」
知らず知らずのうちに誰かの基準を自分に当てはめている人。「こうであるべき」という呪縛に苦しんでいる人。そんな人々が自分らしさを取り戻し、自分基準で面白いと思うミッションにチャレンジしていくことを応援したい。そして、それらが何か良い結果に繋がっていく社会を創りたい。
そんな思いを言葉にしたところから、「創造性を解放する」というSpirのミッションは生まれている。
「事業としては、カレンダーを進化させたいと思っているんですが、抽象的なレベルで話すと、世界中の人が平等に持っているのが時間だと思うんですね。要は、それをどう割り振って使っていくか、それによって自分の未来が変わるわけじゃないですか」
未来の自分を変えるためには、時間という限られたリソースを日々いかに使うかにかかっている。時間を何かに使ったり、誰かと共有する。そうして何に投資していくのかを司るツールこそが、カレンダーだ。
日程調整プラットフォーム「Spir」は、ビジネスで使われる複数カレンダーと連携し、予定管理から日程調整、Web会議のURL発行などをワンストップかつスピード感を持って行えるようにする。
さらに、個人の時間の使い方だけでなく、いつ誰とどんな出会いがあったかという記録が蓄積されるカレンダーは、人の創造性を高めるデータベースとして機能し得ると大山は考える。そこではパーソナルCRM(関係管理ツール)の構築など、カレンダーが今ある以上の機能を有していく未来を描いている。
「今のカレンダー自体が前時代的な働き方に最適化されていると思っていて。組織に所属する前提で設計されていると思うんですが、今後『個』が中心となって活動していくことが主流になっていくと考えると、複数カレンダーをまたいだり共有したり、そういう体験をもっとシームレスにするべきじゃないかなとか。カレンダー自体がユニバーサルなインターフェースなので、サービスを世界中で使っていただける可能性があるんじゃないかなと思っています」
プライベートと仕事、それぞれのカレンダーを分けて管理することも、個が活躍する時代にはそぐわない。アナログな手帳を第1世代、デジタルなカレンダーを第2世代とすると、次なる第3世代にSpirはなる。カレンダーは時代に合わせ、進化すべきときが来ているようだ。
人の創造性を解放するSpirの挑戦は、世界中の人々の人生に革新をもたらしていく。
日が暮れて帰宅すれば、食欲をそそる匂いと楽しげな笑い声。賑わう店を裏手に回ると、自宅の玄関がある。道に面して表側には家族経営の焼肉屋。同じ建物の裏側が、幼い頃の大山が暮らした家だった。
兵庫県の西側に位置する加古川市。静かな住宅地が広がるベッドタウンだ。物心ついた頃にはもう、一家はそこに居を構えていた。
曾祖母も同居する4世代の家族と、店を訪れるお客さん、それからときたま家を訪れ食事をともにしていく父の友人たち。小さい頃の記憶は定かではない。しかし、普通よりも大人たちに囲まれ、可愛がってもらえる環境があったことは、ぼんやり覚えていると大山は語る。
「大人に囲まれて過ごすことが多かったんですね。父と友人のいるところに長男として呼ばれて可愛がってもらったり。そういう環境要因もあって、なんとなく空気を読むことには長けていたのかな。あまり怒られることのない、聞き分けの良い子供だったと思います」
もともと几帳面な性格である。なおかつ当時、苦手意識を感じることもなかったからかもしれない。勉強も部屋の整理整頓も、言われなくても自ら進んでこなす方だった。それに、どちらかと言えばしっかりしている方が大人からは褒められる。
「表立って求めていたわけではないですが、褒められたかったという思いもあったのかもしれないですね。反抗期もなかったんです。反抗しても意味なくない?みたいな気持ちと、怒られるのもめんどくさいみたいなところが強かった。それから両親が忙しい仕事をしながらも、自分と妹のために時間を割いていろいろなことをしてくれていることがありがたいなという気持ちがあって」
祖父母が始めた焼肉屋は、地元で愛されている。次々やって来るお客さん。その相手をすべく日々店に立ち、せわしなく動き回る家族の姿。そんな光景を間近で見ていると、母が忙しい合間をぬって用意してくれた朝ごはんすら大切に感じられる。子供ながらに愛情を持って育てられているという実感があったという。
祖父と
商売を営むということが身近にある家庭。そこには、家系的なルーツも関係していた。
「もともと父方が韓国の血筋なんですね。当時在日コリアンの方々がつける職業というのも限りがあって、それで焼肉が身近な商売だからやっていた感じです」
日本で暮らしながらも、父方の祖父母は祖国の文化を大切に思っている。特に、冠婚葬祭などのイベントがあれば、その文化的差異は如実に表れてくるものだ。
「父方の在日コリアンコミュニティで当たり前とされていることと、母方の日本人コミュニティで当たり前とされていることと、カルチャーギャップがある状態なんですね。当たり前から外れていると感じる場面、『なんで?』と感じる場面に出くわすことが多かったかもしれなくて」
家での「当たり前」がある一方で、学校では友達の家庭の「当たり前」を耳にする。そこにある違いはなんなのか、なんのためにそんなしきたりが存在するのか。疑問は尽きず、常にダブルスタンダードの中で生きているような感覚があった。
「小学校からは、結構理屈っぽいタイプだったんじゃないかなと思います。なんでなんでってよく聞いていた記憶があります。おそらく『何々しなきゃだめだよ』みたいなことを言われた時に、納得できないと嫌だったんだと思いますね。みんながこうしてるからとか、こういうものが当たり前と言われた時に、理屈が通らないことはよく分からないと思っていた気がします」
子供らしい純粋な疑問と出くわすたび、理屈を知りたくなる。
たとえば、勉強もそうだ。答えが決まっている算数や理科は分かりやすく、登場人物の心情を推し量る国語の問題はよく分からない。絶対的な答えなどないはずだし、その答えでなければならない理屈もないように思えたからだ。どんなロジックでそれが良しとされるのか、自然と考えるようになっていた。
勉強自体は好きでも嫌いでもなかったという。
「いわゆる公立の小学校だったので、その中では良い成績を取っていたと思います。それでも中学受験となると選択肢もないくらいだったんですが、地元の塾の先生の薦めで記念受験だけすることになって」
「せっかくなら良い学校を」と願書を出した進学校の受験に備え、机に向かっていた小学校6年の1月。奇しくも阪神淡路大震災が関西圏を襲った。
幸いにも大山の住むエリアでは被害が軽かった。しかし、入学試験は1か月ほど延期となったほか、なかには受験したくてもできなくなった同世代もいたようだ。そんな巡り合わせの影響は大きかった。偶然にも合格という結果を手にすることができたのだ。
私立の進学校に入学したこと。それが、のちの人生に影響を与えているように思うと大山は振り返る。
「1番良かったのは、公立と違って兵庫県全域から生徒が集まっていたり、寮もあったので地方の生徒もいたことで。私立だったので比較的裕福な家のお子さんが多かったりして、そういう家庭環境や生活感の違いとか。出身小学校の話を聞いても、都会育ちの人もいれば田舎出身の人もいる。いろいろな価値観があったんだと知れたことは楽しかったですね」
これまで生きてきた環境では、価値観の差異はあったとしてもせいぜい日韓2国間の隔たりにとどまっていた。それがどうだろう。中学からはもっと多様な価値観が存在しているという事実を突きつけられた。大山にとってそれは嬉しい驚きだった。
さまざまなルーツがあり、当たり前も人それぞれにある。そして何よりそれで良いんだと思える心地よさ。中学という新たなコミュニティは、世界の広がりを告げていた。
進学校だから部活動は強くない。そんな定説に逆らい、中学から始めたサッカー部では県大会に出場できるくらいの結果を残した。理由は明快で、幸運にも運動神経の良いメンバーが集まったからだ。おかげでチームで勝ちに行く楽しさを存分に味わった。
「僕たちは勉強だけできると思われてなめられているので、負けた対戦相手の学校の子たちはみんなすごく怒られていましたね。そういう部分も心地よくて楽しいなと思って。それからコーチも基本的に放任主義だったので、自分たちで練習を考えてやってみたりとか、そういう自由な感じが楽しかったです」
ちょうど学校全体でも教育方針を変えつつある時期であるようだった。保守的でスパルタな指導から、リベラルで実験的な雰囲気へと移行しつつあるタイミングで入学し、両方が混ざり合ったような空気感のなか、中高6年間を過ごすことになる。
勉強面はついていけるか不安もあったが、結果としては落ちぶれることもなく済んだ。きちんと与えられる課題をクリアしていけば、一定の成績は維持できる。
身構えていた分なんだか拍子抜けもしたが、のちに地元の友達と話してみると、相当詰め込み教育を受けていたことが判明した。一度それが当たり前として受け入れてしまうと、見えなくなる世界があるものだ。
大学受験では学校の方針通り、東京大学を第1志望とする。純粋に東京に出て、1人暮らしをしてみたかった。しかし、高校2年で行われる文理選択の仕組みにはいまいち納得できなかった。
「なんで理系ってこんな学部しかないの?とか、経済学部に行っても数Ⅲとか微分とかやるのに、なんで理系じゃないの?と困った記憶があります。いまだに思うんですけど、なんの進路も示されることなく、得意な科目だけで文理を選ばされる。数学が得意でも弁護士になりたい人もいると思うし、すごくおかしいと思うんですよね」
人それぞれの進路の捉え方があっていいはずなのに、選択肢はごく限られている。目指す場所も決まっていないのに、強制的に2つの道から一方を選ばされる。違和感を抱きつつも、従うしかなかった。
「結局1年浪人したんですね。当時は深く考えていなかったんですが、謎の教育方針の学校で、滑り止めなんか受けなくていいと。僕の学年も8割くらい浪人していて、浪人生として予備校に行ったらみんな同級生という状態で」
予備校に行って、友達と顔を合わせ、勉強する。高校時代と何ら変わらない毎日。なんだか嫌気がさして、もともと通う予定だった神戸ではなく大阪の予備校に移らせてもらった。
すると、そこでは今までにない出会いが待っていた。
「予備校でサッカー好きな人が集まる同好会があって、そこにはいろいろなコースの人が集まっていたんです。みんなキャラがバラバラで濃くて、社長の息子で『浪人生ってこんないい服買えるんだっけ?』みたいな子がいたりとか、ヤンキー上がりでいきなり喧嘩し出す子とか、予備校に通ってるのに毎日パチンコに行ってる人がいたりとか(笑)。今までのコミュニティでは考えられない人がいっぱいいて、違うコミュニティがあるんだということを改めて実感するとともに、めちゃくちゃ閉じた世界で生きていたんだなと感じました」
出身も経歴も好みも、何もかもがバラバラな仲間たち。唯一共通する価値観は「サッカーが好き」という1点のみ。しかし、そんな環境が何より面白く、さらに自分の世界が広がっていくようだった。
中学では地元から県全体へと広がった価値観が、予備校では関西という枠組みにまで大きくなった。まだまだ世界は広い。
東大に合格するまでの1年間、かけがえのない時間を過ごすことができた。
高校の友人と
4月、駒場キャンパスの新緑の下を歩きながら、始まったばかりの大学生活を考える。何かしらのサークルには入るつもりでいた。サッカーは楽しくて好きだったが、これ以上は伸びしろを感じない。せっかくなら新しいことをやりたいという気持ちがあり、当時興味があったダンスサークルに入ることにした。
今ほどメジャーではなく、大学生から始める人がほとんどということもあり、周囲と同じスタートラインで切磋琢磨しながら上手くなっていく過程を楽しめそうだった。
「最初はブレイクダンスをやりたくて入ったんですけど、ちょっと大変で。メインはハウスというジャンルでやっていました。それにハマりましたね。少し体育会ノリの強い、しっかり練習しましょうみたいなサークルだったので、例に漏れず勉強は一応留年しないくらいにやりましょうと。ダンスサークルの活動が生活の中心でした」
インカレサークルとして、最盛期は全体で200名規模にもなる団体だった。文化祭ではホールを借りて公演を行ったり、個別にダンスイベントを開催したりと活動の幅も広い。みんなで振付や音楽を創りあげるクリエイティブな側面も面白く、日に日に前のめりになっていく自分がいた。
「1年生は基本的に後輩として大きな舞台の時は何もやらせてもらえないんですが、なんで3年だけでやってるんですかみたいな(笑)。アイデアを言ったりしていましたね。同学年にも自分たちで提案してやろうぜっていうことが好きな仲間が多くて」
そんな風に意見を発し、積極的にかかわっていたからか、3年になるとサークル代表をやらせてもらえることになる。
代表として1番の大仕事と言えば、年に一度の自主公演に向けた準備だった。1000名は入るホールを借りて、宝塚で舞台監督や音響を担うプロにも来てもらう。1つの舞台を創りあげる。そこではリーダーならではの苦労も知った。
「ダンスって勝ち負けがないので、やっている人のモチベーションが結構違うんですよ。クラブでモテたい人もいれば、舞台を創るモチベーションが強い人、サークルだから楽しくやれればいいでしょという人もいて。そのなかで何をゴールにしてどうするか考えるプロセスとか、社会人として求められるものに通ずるものだと思うんですけど、その1リーダーという立ち位置をやらせていただけたのは良い経験でした」
リーダーならではの悩みは、歴代の部長にも相談しつつ、多くのメンバーと話し合いを重ねていく。揉め事になることもあるが、失敗から学んでやり方を変えていった。
どうやらトップダウンで引っ張っていくよりは、それぞれがどうしたいか聞きながら、うまく収まる方法を考えたり調整していくスタイルが、自分のリーダーシップであるようだった。
「その時に学んだことの1つは、やっぱり役割がそれぞれあるので、美術係、衣装係とか、それぞれの人にミッションを持ってもらって、その人の権限と責任の中でやってもらうことだったり、それに感謝するメンバーがいるということが大事なんだと学んで。そこにいる意義をどう作るかということが大事なんだなと学びましたね」
それぞれの感じ方や価値観は尊重しながらも、ゴールに向けて役割を担ってもらうこと。ただ与えるのではなく、個々に意義を見出してもらうこと。そして、みんなで感謝し合うこと。
そうして多くの人を1つにまとめ上げ、何かを創りだす過程は大変でもありながら、やはり素晴らしいものだった。
大学、ダンスサークルの仲間と
ダンスサークルの活動に没頭していたために、就職活動は大学3年の終わり頃になってようやく始めることになった。
「今まで大学で楽しかったことを考えると、お客さんのリアクションを直接見られる仕事をしたいなと思ったことが1つ。それから1人で研究者みたいに取り組むよりもチームで取り組むことだったり、それをクリエイティブな形で創出できる仕事ってなんだろうなと考えて、広告代理店とかテレビ局の制作が合っているんじゃないかなと考えました」
早い企業はとっくに選考が始まっている。とにかく今すぐ準備しなければと、練習がてら外資系コンサルティング会社などに慌ててエントリーする。しかし、対策も何もできていなかったため、筆記試験は半分も解けずに終わった。
焦りながらも少しずつOB訪問などを進める。どうやら先輩の話によると、広告代理店やテレビ局では希望の職種に就けるかどうかが分からないらしい。何も選べないとはどういうことなのか、困惑する。
一方で、コンサルティング会社の話を聞いていくと興味をそそられた。チームワークであり、お客さんのリアクションも直接分かる。報告書など何かしら形を創りあげる仕事であり、若いうちから表舞台に立つチャンスもある。コンサルこそ、自分が求める条件に合致していそうだった。
そんなとき出会ったのが、独立系経営戦略コンサルティングファームである株式会社コーポレイトディレクションだった。
「コーポレイトディレクションは短期インターンをやらせていただくなかで、すごくいい人しかいなかったんですよ。面白いと思うことが共通している感じとか、人と組織に興味があって知的にも刺激的な発言が多くて。たまたまですけど、すごく気持ちいい人たちだなと思いました。タイプの合わない人って心がざわってするじゃないですか。そういう引っ掛かりがなかったんですよね」
こんなに素敵な企業がある。感銘を受け、内定をもらった段階でほかにも進んでいた選考は全てお断りする。納得感を持って入社を決心した。
「入社してからもすごく楽しくて。人にも恵まれていたので、ビジネスパーソンとしての基礎を叩き込んでもらえたと思いますし、プロフェッショナルマインドを身につけさせてもらえたと思います。今でもみんな付き合いがあって仲もいいですね」
当時コンサルティング会社では長時間労働が当たり前とされており、生活は多忙を極めた。朝出社して、夜はほぼタクシーで帰宅した記憶しかない。それでも、中学と同様それが当たり前だと思っていたためストレスもない。尊敬する先輩に囲まれながら働けることが楽しかった。
***
入社から約4年。2011年からは、中国・上海オフィスへと赴任させてもらう機会があった。初めての海外生活で、大山は新たな気づきを得る。
「自分は駐在員として派遣されているので、現地採用の方々と比べると3倍くらいの給料をもらっていたんです。でも、現地の人は中国語はネイティブで日本語も喋れて、なんなら英語も喋れる。どう考えても僕たちより価値が高いように感じたんですが、そういう給与体系になっていて」
たまたま恵まれた国から派遣されてきただけで、給料を多くもらっている。優秀な現地スタッフの方がいい仕事をしていたとしてもだ。そこにはどうしても拭えない違和感があった。
かたや中国社会に目を向けてみると、共産主義国でありながら資本主義的側面も色濃く感じられる。中学生くらいの子供がレストランや出稼ぎで働く姿もあれば、裕福な家庭に生まれた子供は恵まれた生活を謳歌している。
きらびやかな高級ブティック街のような街並みから、1歩路地に足を向けただけで退廃的なスラム街が広がっていることもある。世界の格差、そして自らの現在地について考えさせられる光景だった。
上海の夜景を背景に、CDI-Chinaの同僚と
「いずれこういう国籍とかカルチャーの違いは、交わっていく世界になるんだろうなと思いました。そうなったとき自分が世界で通用するビジネスパーソンになれるか。今はたまたま恵まれているけれど、そういったものを抜きにして通用するかを考えるきっかけになって」
世界でも通用するビジネスパーソンとは何か。きっと異国の地でも人に信用され、1人ではなく多くの人を巻き込んで必要なことを成さなければならないだろう。そのためのマネジメント能力、そしてリーダーシップこそが真に求められるのではないかと思い至る。
「いろいろ考えてみた結果、本当に必要な力ってリーダーシップなんじゃないかなと思って。コードが書けるとか、その上に乗るスキルはいろいろあるんですけど、根源的なところで言うと、ブレない軸みたいなものが確立されている人、多様性を受け入れリスペクトしながらも自分の意見を示せる人がリーダーとして必要とされるんじゃないかなと」
新たな気づきの観点で、過去に出会った人や価値観を思い返した。
多様性の中でリーダーシップを持って先頭に立てる人、異なる価値観を尊重しながらも自らの意見を示せる人は、他者や社会の常識に流されない。
では、人のアイデンティティが形成されるとき、そんな風にブレない軸が持てる人の共通項はなんなのか。
さまざまな見方があるだろうが、究極的な答えはマイノリティを経験し、乗り越えることではないかと大山は考えた。多様な価値観の存在を認識し、そのなかで自分を確立する。そういった体験を乗り越え、世の中の固定観念に縛られず「こうあるべき」を示している人が素敵だと、改めて思った。
そんな人が育つ世の中にするためには、何ができるだろう。考えれば考えるほど、この問いに興味を惹かれていく自分がいる。教育やダイバーシティといった領域に携わりたい。そして、自分にとって本質的に大切なものを見つけるための学習をサポートしたいという思いが強くなっていた。
自らの事業として挑戦するなら、何より意義があると感じられる。自分のミッションだと思えるテーマだった。だから、会社を退職することにした。
中国・上海オフィスで約1年半ほど働いたのち、2012年に退職。当面は起業資金を貯めるため、日本に帰国しフリーランスのコンサルタントとして働いた。
半年後、本格的に動き出すべく準備を進めてみると、そこではいくつかの壁が見えてきた。
「改めて教育系事業をやろうとした時に一歩踏み出せなくて。やりたかった教育系のプログラムは海外の人も呼びたいと思っていたんですけど、当時は英語が全然できなくて。海外の先生に来てほしくてメールしようとしても書けなかったり。実際にどういうプログラムがいいかと考えても、全然ディテールに落とし込めなくて」
もう少し広い世界を見た方がいいかもしれない。それにさすがに英語は使えるようになる必要があるだろう。そう考え、いつか行きたいと思っていた世界一周旅行に行くことを考えた。起業すれば当分休みはなさそうだ。時間はある、やるなら今しかない。
「きっかけは社会人1年目の夏休みなんですが、初めて自分のお金で海外旅行をして、ベトナム、カンボジアに行ったんです。現地のゲストハウスにたどり着いたら、世界一周旅行をしている日本の若者がいて。当時珍しかったので『なんでしてるの?』と聞いたら、『したくないの?』って聞かれたんですね。たしかにしたいなとその時思って」
正直羨ましかった。真面目に働くことが善とされる世の中で、レールに乗ったつもりはなかったが、逸脱してはいけない気持ちにもなっていたことに気がついた。いつか時間が取れたなら、世界を回ってみたい。以来、心に引っ掛かっていたことを実行することにした。
幸い世界各国に駐在している友人たちがいる。頼めば家に泊めてもらえそうだった。半分は仕事、もう半分は遊び目的で、家を引き払い1年間のバックパッカーの旅に出る。30歳の時だった。
まずは米国西海岸のサンフランシスコに3か月、そこからシアトルやカナダのバンクーバーへと北上した。一旦大陸を離れ、太平洋のハワイ諸島へ。オーストラリアを回り、アジアへ入る。熱気につつまれるシンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア、インド、そしてネパールからチベットを経由して、中国は香港へ。
そこまでで半年が経つとともに、当初感じていた旅の高揚は薄れつつあった。
「旅ブログみたいなものがあったので、それで宿を探したり観光はどこに行ってって事前にリサーチするんですけど、『ブログで見たところだ』っていう場所を回っていくと、スタンプラリー的に旅行している感じになってきて、飽きるものですね」
その後、南米を回る予定だったが、旅に最適な雨季になるまで数か月時間があった。一旦日本に帰ることも考えたが、香港で働いていた前職の先輩が仕事をくれることになり、1か月間は日本語以外の環境で働かせてもらったりもした。
香港、インターン最終日の送別会にて火鍋を食べる
メキシコ、ブラジルを巡った後は、ヨーロッパまで足を伸ばしてから旅を終えた。
帰国後、再び教育という軸で事業をつくることと向き合う。中高生など自我が形成される10代をターゲットにした教育プログラムを開発したかった。
しかし、経営を考えると厳しい。国の補助金が出るのはせいぜい1、2年。それ以降、学校の収入は生徒数と授業料に比例する。サマースクールのような形態も考えたが、学校が長期休みに入るのは約2か月。それ以外の期間はどうするか。考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
教育という領域でサステイナブルな事業を描くのは難しい。もとより稼ぐことに振り切った事業などやるつもりもない。それならよほど自分が面白いと思える仕事をやった方がいいのではないか。巡り巡ってその結論にたどりついた時、浮かんだ選択肢が株式会社ユーザベースだった。
創業者の1人が新卒時代の先輩であり、過去にも声をかけてもらっていた。
「自分自身がメインの事業となるプロダクトのユーザーだったんです。コンサル会社時代、『SPEEDA』というサービスを使っていて、良いサービスだなと思っていました。自分がどこか新しい会社に行くなら、人に紹介して後ろめたくないものを売ったり作って行きたいなと思って」
胸を張れるプロダクトがあり、働き方のカルチャーもリベラルな雰囲気で合っていると思える。直前には10名規模の教育系スタートアップ企業でインターンも経験していたが、自分がより貢献できる領域は0→1よりも1→10なのではないかと、当時は感じていたという。
「エンジニアの方々と一緒に働く経験が初めてでしたし、プロダクトを作るとかそれをビジネスとしてどう伸ばすかという楽しさや難しさを学んだ期間だったと思います。コンサル会社からスタートアップ企業というところでのカルチャーギャップもあって。チームのモードを大事にすることも改めて学びましたし、1日会議が詰め込まれていて意思決定を重ねるとか、適応しなければいけないことも多かったですね」
「SPEEDA」の事業開発・プロダクト開発責任者を経て、営業として現場で売ることの苦労も体験した。そこから2017年には、NewsPicks USAのCOOに就任。米国事業立ち上げというチャレンジの機会もいただいた。自分自身がどこまで通用するかという肌感覚を持つことができたりと、大きな財産と言える数年を過ごした。
NewsPicks USA時代、エンジニアチームのメンバーと
「起業するきっかけは外部環境なんですが、振り返るといくつかあって。あるとき共同創業者で代表(当時)の梅田優祐さんとのフィードバックセッションの中で、『大山くんはCEOをやるというよりは、イノベーターと組んでやる能力に長けているし、イノベーター側になろうと思わない方がいいんじゃないの』という話があって」
過去にはスティーブ・ジョブズの右腕としてティム・クックがいたように、イノベーターを傍で支えることが得意な人がいる。たしかに自分もそうかもしれないと思うとともに、そうではないという気持ちも同時に沸いてきた。
当時の自分にとってはあくまで会社が目指すビジョンを叶えることが最大の目的で、そのために必要な行動や役割を担ってきたつもりだった。おそらく、向き不向きの話ではないのだ。(梅田さんのことはもちろん信頼していたが、)そう言われてみると「できる気がする」という反論が心の中にあるのを自覚した。
さらに、偶然は重なっていく。海外事業のために渡米したが、1年後にはさまざまな事情からビザの更新ができないという事態に見舞われた。やむを得ず日本へと帰国することとなる。とはいえ、もう一度国内事業に復帰する心境でもなかった。
だったら、もう一度ゼロから自分で挑戦するのもいいかもしれない。世界に通用するサービスを、自分の手でつくりたい。できると思ったし、やりたかった。
起業を決める。事業はやはり、自身のライフテーマにもなっていた教育やダイバーシティ、組織づくりといった観点から考えた。
「いろいろ試行錯誤してみたんですが、最終的には人がいろいろなものに抑圧されて本来の自分だと思えていない状態を解放して、その人が自分らしくクリエイティブな状態でチャレンジすることを応援したいんだと思って。そのために、ビジネスパーソンのデータベースを作ってみたらいいんじゃないかと考えたんです」
ユーザベースでの経験から、データベースを作ったり、それをマーケティングに活用していくことのイメージはすぐに湧いた。そのうえでたどり着いたカレンダーという領域も、十分ポテンシャルの大きさを確信できるものだった。
人の創造性を解放したい。誰かの基準で苦しむ人が、自分の基準でやりたいことにチャレンジすることを応援したい。
やりたいミッションと、自分の強み、ビジネスとしてのポテンシャル。全てが重なる領域における挑戦。2019年に株式会社Spirは設立された。
これまでのさまざまな出会いや経験、特に前職で挑んだ「NewsPicks USA」事業の無念がなかったならば、起業していなかったかもしれない。
そう語る大山は、今、純粋に自分自身でプロダクトを創る楽しさや、多くのユーザーが喜んでくれる声を目にする機会などから、世のため人のためになることに挑戦している喜びがあるという。
一方でそこには、ある特別な思いも込められている。
「自分がアメリカで頑張ろうと関わっていた事業は、クローズしちゃったんですよね。後になって、もっと違う形であればできたのかなと考えたりすることもありますし、それもあって『海外に通用するサービスが作れるかチャレンジしたい』という思いはありますね」
海外で通用するサービスやプロダクトを創りあげるには、最初から世界を狙っていかなければならないと、大山は過去の経験を踏まえ語る。国内は大きなマーケットではあるが、世界の中では特殊な環境でもあるからだ。
「日本で立ち上げて、どれだけ早く売上が出るかを考えて最適化していくと、日本特有の要望に応えなくてはならなくなってしまって、海外では通用しないプロダクトになってしまうんですよ。それがいざ世界に出ようとすると、慣習が全く違ったりしてローカライズしないといけなくなる。一方で、GmailやSlack、Spotifyといった海外サービスってグローバル共通の仕様なんです」
世界に通用するサービスが日本で通用しないかといえば、決してそんなことはない。要は、どこに最適化するかという問題ではないかと大山は考える。だからこそ、Spirでは最初から世界を対象にサービスを設計すべきという考えのもと、着実に海外展開を見据えている。
それが現在の大山にとって、自分らしい挑戦の1つであるとも言えるだろう。背景には、人それぞれのミッションを持つことの大切さを教えてくれたユーザベースでの記憶がある。
「僕が1番尊敬している先輩が、前職の共同創業者だった新野良介さんという方なんですが。その方が言うには『去年より今年、昨日より今日、ちょっとでも幸せが増えるように活動しているかという話をあらゆる社員に言いつづけたけど、誰も実践しない』と。新野さんは体調を崩してしまって、経営の立場から去らざるを得なかったという経験をされている方で。だからこそ、それが心に来るメッセージで」
昨日より今日、幸せが増えるように活動しているか。そう自分に問いかけてみる。
もし五体満足でやりたいと思えばなんでもできる環境があるとしたら、世の中の同調圧力に縛られず創造性を発揮しているか。自分の人生にとって、本当の幸せと呼べるものを追求しているか。
「自分を束縛している概念って、人に迷惑をかける場合は別として、誰にも迷惑をかけないのなら外していいんじゃないかと思います。僕もそれを大事にしてチャレンジする。やりたくてやっているかとか、自分に問うようにしていますね」
もしも人の基準で生きているなら、もったいない。貴重な時間を何に使うかは自分次第だ。それぞれが持つ創造性を解放し、自分なりに意義を見出せるミッションに挑んでみるべきだろう。
2022.4.6
文・引田有佳/Focus On編集部
いくつものコミュニティとの出会いがあり、そのたびに世界や人の多様さを知る。想像するだけでなく、マイノリティ側から見える景色を体感する。そんな経験の積み重ねは、人に「基準」というものの不確かさを教えてくれる。
幼少期からダブルスタンダードを経験してきた大山氏。無意識に自分に当てはめていた基準を外すことができたとき、自分にとって本質的に価値あるものが見えてくることを知っている。そこに自分なりのミッションの糸口があり、さらには幸せに繋がっていくということも。
だから、大山氏は信じている。人が交わり、コミュニティが交わる機会を最大化すること。そこに豊かな時間が生まれることで、人類全体の創造性は最大化されていく。カレンダーはそのプラットフォームとなり得るのだ。
自分が思う基準とは別の、未知なる基準の存在をどこまで認められるか。どこまでその存在を自然と認識できるか。
それにより人の創造性の限界が決まるとしたら、多様性とは自身の外側にある世界だけの話ではない。自分自身が多様性の一部であると認識できることこそが大切なのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社Spir 大山晋輔
Founder CEO
1982年生まれ。兵庫県出身。東京大学経済学部卒業。戦略コンサルティングファームのコーポレイトディレクション(CDI)の東京・上海オフィスでの勤務を経て、2014年に株式会社ユーザベースに入社。ユーザベースではSPEEDA事業の事業開発・プロダクト開発の責任者、営業部門を経て、2017年にNewsPicks USAのCOOに就任し米国事業の立ち上げ責任者として事業戦略策定やプロダクトマネジメント、マーケティング等に従事。2019年に株式会社Spirを設立。