Focus On
佐々木淳
Fabeee株式会社  
代表取締役CEO
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or1人よりみんなで向かえば、まだ見ぬ未来にも手が届く。
地域産業・レガシー産業のアップデートを成し遂げるべく、現場の課題に光を当て解決していく株式会社クアンド。同社が提供する製造、建設、インフラなどの現場向けリモートコラボレーションツール「SynQ Remote(シンクリモート)」は、これまで現地に赴くことが前提だった現場仕事の常識を変え、能率向上やナレッジ化、雇用創出をはじめ多様な価値創出に貢献していく。2022年には、B Dash CampやICCサミットなどピッチコンテストで二冠を達成したほか、九州経済産業局が支援する九州の有望なスタートアップ「J-startup KYUSHU」にも選出されている。
代表取締役の下岡純一郎は、九州大学/京都大学大学院卒業後、P&Gにて生産管理や工場ライン立ち上げのグローバルプロジェクトなどに参画。その後、博報堂コンサルティングを経て、2017年に地元福岡で株式会社クアンドを設立した。同氏が語る「自分軸で社会と向き合う思い」とは。
かつて地域経済の基盤を支えた産業が活気を失い、時代の変化に取り残される。人口減少と高齢化の進展とともに、地方都市が衰退する足音は少しずつ着実に迫りくるものだった。
クアンドが解決しようとする課題は、まさに生まれ育った町の姿として間近で見てきたものでもあると下岡は語る。
「北九州市って、鉄の産業が盛り上がる時に人口が100万人増えて、一時は福岡市よりも大きな都市だったんです。それが鉄の産業の勢いがなくなるにつれ、どんどんその下にある産業も活気を失って都市全体も衰退していって、人口が減って企業も減って若者は流出して。僕自身、物心ついた頃からずっと衰退していく都市として北九州を認識していたので、それってやっぱり寂しいよねという思いがベースにあるんです」
いまや高齢化率は30%を超え、政令指定都市の中では最も高い水準となっている北九州市。若者の市外への流出は続いている。一方で、時代に合わせた変容に成功している地元企業の存在がある。
「たとえば、安川電機という世界的なロボットメーカーが北九州にはありますが、元は鉄の鉱山を掘るためのモーターの会社なんですね。そのモーターの技術を活かして、上にアプリケーションとしてロボットアームを付けたことで今はロボットの会社になっているし、同じくTOTOも鉄鉱石の原料が近くで採れ、海路で運搬もしやすい北九州の地政学的なメリットを活かして今がある。地域の産業がアップデートされることで、そこに新しい雇用ができるし文化もできてくる」
地域産業やレガシー産業がアップデートされる。それにより産業がよみがえり、人が集まり、その地域らしい文化が育つ。そんな循環を、日本のみならず世界各国で起こしたいという思いが同社には込められている。
「弊社が展開する現場仕事のリモートコラボレーションツール『SynQ Remote(シンクリモート)』というプロダクトは、僕が見てきた製造業や、父が営む建設業をはじめ、レガシー産業の現場にある深刻な人手不足を解決するものとして開発しています」
今、地方に多い製造業や建設業、農業などの現場では、人手の中でも特にブレインとなりうる知識や技術を持つ人が圧倒的に不足しているという。そういった人々の労働時間の内訳を可視化してみると、遠い現場までの移動時間に日の30%ほどの時間が割かれている現状がある。
遠隔でも正しく視覚的に指示ができ、円滑にコミュニケーションが取れること。それを叶えるテクノロジーを備えたツールとして、「SynQ Remote」は活躍する。
「『SynQ Remote』があることで、たとえば高齢や怪我、妊娠・出産を機に引退して現場には物理的に行けない現場監督など、活躍できていない労働力を活用できるようになります。それから僕たちのプロダクトは『時間・空間・言語』という制約から現場の労働力を解放するものだと思っているんですよ」
たとえ労働力は物理的に分散していても、オンラインで繋がれるツールがあることでその知がどこにあっても関係なく現場に提供できるようになる。たとえば、米国の木造建築の現場を日本から監督したり、アジアの新興国にある発電所のプラントメンテナンスを日本から行ったり。日本が世界に誇る高品質な現場の労働力が、グローバルにも展開できるようになるということだ。
今後、同時通訳やAIによる画像認識精度の向上など、テクノロジーの発展に伴い「SynQ」というプラットフォームの価値も広がっていくと下岡は語る。
「現場の労働力」と言えば、どうしてもブルーワーカー的なイメージが伴うものかもしれないが、本来は高度な知識や技術が集約された付加価値の高いものである。日本の強みともいえる重要な「現場力」に、よりレバレッジを効かせ、産業自体をアップデートする。そのためにクアンドは、先頭を切って新たな産業の未来を示していく。
朝、家を出て小学校へと向かう。ただそれだけの道が、子どもからすれば未知の発見にあふれている。目に映る面白そうなことを友だちと夢中でやっていて、学校に着く頃には昼休みが始まるぐらいの時間になっていて、怒られたことも1度や2度じゃない。好奇心が旺盛な方で、昔からまだ知らない世界に考えを巡らせていたと下岡は語る。
「幼稚園の頃から、変な話ですが風呂に入っている時に、自分がこの5秒遅く出ると、この先世の中は大きく変わるんじゃないかとか。要はそこが変わると、たとえばその先自分が出会う人が変わるし行動も全部変わるから、こっちの道とあっちの道だと全然違う人生を歩むんじゃなかろうかとか、結構未来や将来がどうなるかと考えていた子どもだったかもしれませんね」
今があるのは過去があるからで、未来は今の行動から始まっている。人も社会も、選択と行動の積み重ねの先に何かしらの未来がある。
生まれ育った北九州市八幡もまた、そうして多くの歴史を紡いだ町だった。
「八幡って八幡製鐵所があった場所なので、昔から町に鉄の工場があって、そういうところで働いている人も多くいて。毎年11月になると『起業祭』というイベントがあるんですが、その3日間は町が全部出店で埋め尽くされるんです」
祭りの起源は、1901年に官営八幡製鐵所が作業開始式を挙行した日にまでさかのぼる。製鉄所の創業を記念する祭りは、いつしか町と一体となり、人や関係会社まで巻き込んで昭和から令和へと続く伝統となっていた。
明治日本の近代化を推進した、いわゆる産業都市としての発展を体現する町でもあった。
「当時は当たり前に思っていたんですが、今思うとやっぱり産業というものが色濃く町の中にあるんだろうなと感じていて。たとえば、今うちの子どもたちが行っている小学校も、4分の1くらいのご家庭は日本製鉄かTOTOか安川電機のどこかに所属しているし、やっぱり雇用が作られている。そういう背景もあって、昔から年齢とかそういう垣根を乗り越えて公園で遊んだり、地域内での家の付き合いも強かった気がしますね」
幼少期、友だちを家族のキャンプに招いて
家同士のつながりから自然と子どもたちも集まって、一緒に遊ぶようになる。8歳下に双子の妹が生まれるまでは一人っ子だったこともあり、誰も知らない大人数の中に1人飛び込むような機会が多かったからかもしれない。やんちゃな子も優等生も、どんなタイプともうまく付き合っていくことが昔から得意だったと下岡は振り返る。
新しい友だちができると、知らない新しい世界に触れられる。年齢やグループなどの垣根を越えて、1人よりみんなで何かをすることが好きになっていった。
「小学校の頃は、外で友だちと暗くなるまで遊んだことが1番記憶に残っていて。家族旅行に行くときも、遊び相手の友達を一緒に連れて行きたくて親に頼んで誘ったり、結局1人で何かするのが嫌だったんでしょうね。みんなでワイワイやること自体が楽しかったんです」
小学校の時にはクラスの友だちを集めて、地域のドッチボール大会に参加しようと言い出したことがある。どうせなら勝ち上がれた方が楽しいからと、父に頼んでコーチとして練習を見てもらい、チームを育成することにした。
みんなの力がどこまで通用するのかは分からない。しかし、みんなで挑んでみることに意味がある。目標を据え、そこに向かって時間をともにすること自体が楽しく、新しい景色を見られるように感じていたからだ。
「いわゆる所属する組織はほとんどキャプテンとかリーダーだったんですが、おそらくリーダーになる前から勝手にリーダーシップを取っていたんだと思いますね。小学校も中学も高校も、何か人を集めて『ここに行こう』と言い出して、物事のリーダーシップを取ることは多かったかもしれないです」
何か気になることがあれば、まず友だちを誘ってやってみる。その結果、どんな未来を味わえるのか。純粋に知りたかったし、好奇心は尽きなかった。
どうせ知らない景色を見ようとするのなら、1人よりみんなで行った方が面白い。そうしていつも、まだ見ぬ世界を追い求めることに心躍らせていた。
父の営む建設業がまだ社員数10人にも満たなかった頃、狭くて古い雑多な社屋は格好の遊び場だった。今でこそ新しくきれいな社屋が建てられているが、当時はトラックやシャベルが置かれたまさに労働の現場であり、父が汗水垂らして働く苦労のあとが伺えた。
家にお金がなく若くして働かざるを得なかった父、そして同じく大学を出なかった母からは、将来に繋がる勉強の大切さを説かれていたという。
「周りの社長は良い大学を出ている人もいたらしく、『お金は残せても学歴は残せないから、勉強にかかるお金は出し惜しみしない』とか、『自分が何かになりたいと思ったときに選択肢を持てるように勉強しなさい』という風に言われていて。常に選択できる状態が大事だという意識は強かったと思います」
より良い未来のため、いわゆる幸せな人生を送るため、選択肢は広く持てるよう勉強しておいた方がいい。両親の言いたいことはよく分かったが、実際は1人でこもって勉強するよりも、外で友だちと遊んだり体を動かしている方が性に合っていた。
「中学からバスケットボール部に入って、とにかく部活を年中やっていて。中学校の顧問の先生が福岡県代表の監督で、全国でもチームを優勝させているような有名な先生だったので、ものすごく厳しかったですし相当しごかれました。勉強は試験2週間ぐらい前になると強制的に部活がなくなるので、そこから集中して全部記憶して、なんとか乗り越えるということを高校生までやりましたね」
中学の部活ではスパルタ指導で基礎を叩きこまれ、おかげで強豪校だった高校ではレギュラーとして試合で活躍したり、大会でMVPを獲得することができ自信がついた。基礎を徹底することの大切さや、諦めそうなときにもう一歩踏みとどまる力、それからキャプテンとしてチームを強くする思考など、バスケから学んだことはその後の人生で大いに役立つものだった。
高校時代、バスケットボール部の仲間と
「とにかくバスケが終わるまでは『将来何がしたい』とかもなく。とにかくバスケで勝つ、インターハイに出るみたいなことをずっとやっていて。高校3年で部活が終わって『さぁ、受験やりましょう』となった時に自分は何がしたいか考えたんですが、もちろん見つからなくて」
部活を夏前に引退し、高校最後のイベントである体育祭にも全力を注ぎ切り、気づけば季節は秋になっていた。大学受験も目前である。志望大学や学部を決めようにも、将来自分が何をしたいのか全く分からないという事実に直面した。
仕方なく、自分の偏差値ならなんとか行けそうな大学を第一志望とすることにして、学部は物理も化学も生物も幅広く学べそうだった九州大学の理学部地球惑星科学科を選ぶことにした。
「だいたい受験勉強って頭の良し悪しというよりは長時間勉強する精神力の方が大事だと思っていて。(うまくいかない原因も)おそらくやりきれないというか、集中が続かなくて勉強の総量が足りないということがほとんどなのかなと思うんですよ。そこをなんとかスポーツで身についた体力と根性で乗り切ったような感じでした」
なんとか九州大学には合格。しかし、想像していた大学生活の充実感は一向に訪れないことに気がついた。
「高校までは授業ももちろん全部受けないといけないし、終わったら部活でみんなでインターハイ目指すし、定期テスト期間になったら100点を目指すし、受験になったら偏差値の高い大学を目指しましょうでいいんですが。大学って基本やるもやらぬも自由というか、今まで何かを追いかけて必死にやってきたものが、やってもやらなくてもいいよとなった瞬間に『自分って何がやりたいんだろう』となってしまったんです」
当たり前に追い求めるものがあった生活から一転、自由を与えられた環境では自分が何をやっても満たされはしなかった。授業は出なくてもなんとかなる。サークルは部活ほど厳しくない。アルバイトもいろいろやってみたものの、どれをやってもしっくり来なかった。
今この瞬間、自分が時間を使いたいことは何なのか。情熱を注ぐべき対象は何なのか。鬱々としながらその答えを探すうち、必然的に人生について考えていた。
「自分って何がしたいんだろうとか、自分って何者なのかとか、おそらく哲学的なことを悩める時期でもあったわけですよね。そういうなかで結局自分は今まで誰かが与えてくれた、自分の外側にある目標を追いかけて達成してきたんだなと。今何をしたいかという目標が自分の中から出てこないということは、自分が世の中を知らなさ過ぎて、結局やりたいことが分からないんだなと思ったんです。それならとにかく悩むより何か外の世界を見てみようと思って」
内に目を向けつづけても答えは出ない。ならば、思い切って外に目を向けるべく、ありきたりだがバックパッカーとして貧乏旅行の旅に出ることにする。インドをはじめ、アフリカ、アジア、ヨーロッパ諸国を巡り、異国の町を自分自身の足で歩いてみた。
誰も自分を知らない環境で、見慣れぬ社会や文化に触れながら自分を顧みる。答えはそう簡単に見つかるわけじゃない。知らない世界に繋がるチャンスを見つけては、飛び込んでみて模索する日々だった。
大学時代、バックパッカーとして旅したインドにて
今この場所から続く未来の姿は依然として分からないまま、大学生活は終わりに近づいていた。
世間はリーマン・ショック直前の好景気で、就職活動も自分なりにハックするつもりで臨んだ結果、複数内定をもらうことができていた。選考も一区切りつき、残すは入社先を1社に絞るのみだった大学4年の春、偶然見つけたとあるプログラムに参加した。
「九州大学のOBにロバート・ファンさんという方がいるんですが、台湾出身で九州大学卒業後にシリコンバレーで起業して、成功されて上場した方なんです。その上場した資金を使って、日本の大学生ももっと早い時期からアントレプレナーシップを学ぶべきだということで、九州大学に基金を作られていて。毎年20人くらい九大生をシリコンバレーに送り込んで、現地で働いたり起業している日本人とか、スタンフォード大学の学生とディスカッションさせるようなプログラムがあったんです」
たとえば、昼間はGoogleで働く日本人エンジニアであったり現地のインキュベーションセンターを運営する企業やエンジェル投資家の話を聞き、ディスカッションする。夜には参加者同士で集まって、酒を酌み交わしたりしながら互いの人生の話をした。参加者は学生だけでなく2割ほどは九州大学MBAで学ぶ社会人もいる。
1週間ほどのプログラムを経て、それまで出会ったことのなかった起業家や最前線にいるスタートアップ関係者、それからさまざまな人の人生を知り、就職という概念に対する認識はすっかり変わっていた。
「今まで九州大学でいう『就職』って、理系なら研究室の推薦をもらって三菱重工に入るとか、文系なら三井物産か三菱商事か、少し尖った人はリクルートに入るとか。そういうものが一般的な就職の概念だったんです。それがもう全然違っていて。自分がこうしたいとか、自分はこういう世界を作りたいということを基軸にこの会社に入るとか、起業をしているとか、そういう人が現地には結構いて。年齢が40歳、50歳でも、そうやって自分の軸を中心に生きる人たちの方がかっこいいなと思ったんです」
シリコンバレーの空気を吸いながら、改めて自分の就職活動を振り返る。内定をもらっていたのは、総合商社やリクルート、コンサルなどいわゆる就活生憧れの人気企業だった。
けれど、なぜそれら企業を選んだかと問われれば、なんだか受験と同じような感覚で、就職偏差値のようなものを追いかけていただけに過ぎない。入社の難易度や選考倍率、給与の高さ。そんな指標に意味がないとは言えないが、長い目で見た人生にとってはどんな意味があるのだろうかと考えさせられた。
「それって自分軸というより、やっぱり大学受験とかと一緒の考え方だなと思って。じゃあ、実際自分は偏差値とかそういう基準で大学を選んだけれど、心から充実した時間を過ごせたかというとそうでもなかったよねと」
おそらく本来は大学名より何の学部に行くかの方が重要で、もっと言えば、そこで自分は何をしたいのかが重要だったはずだった。
「それからもう1つ自分の根本にあったのは、やっぱり母親が言っていた『上に上がっておけば、いつでも選択できるようになる。選択肢を常に持っていられるように上に上がっておく』という考えのもと生きてきたんだろうなと。でも、上に上がった結果、自分が何か人生の幸せを感じられているかというと、感じていないなと思ったんです」
たしかに選択肢を増やしておくことには意味がある。しかし、それだけでは足りないようだ。自分の外にある指標を追いかけることは、きっと自分を幸せにはしないのだろう。そうではなく、自分はこうしたい、これがやりたいという内にある指標や思いを規定しなければ、楽しく面白い人生にはならない。
シリコンバレーで見た人々の生き様は輝いていた。それをアントレプレナーシップと呼ぶならば、いつか自分も起業したいと考えるようになっていた。
大学時代、シリコンバレーにて
まず、就職に関しては一から考え直すことにして、いったん大学院に進学することにする。
とはいえ、学部で専攻していた宇宙物理学はあまり面白さを感じられていなかったため、本当に自分が好きな分野で研究をする最後のチャンスだと思い、新しく挑戦してみることにした。
「僕はやっぱりスポーツがすごく好きだったので、スポーツ生理学という領域に進んでみることにしたんです。もともと『SIXPAD(シックスパッド)』の研究をしていた先生が京都大学にいて、企業でいうとワコールの商品開発とかコカ・コーラのサプリメントの開発を一緒にやられていたんですけど、そういうスポーツや健康を科学するような領域でちょっと研究をやってみたいなと思って」
京都大学大学院に進学し、2年間を研究生活に捧げる。長年バスケットボールに情熱を注いできたこともあり、スポーツ生理学における研究内容自体はたしかに面白いものだった。しかし、研究というプロセス自体にはしっくりこない部分があると分かってきた。
「やっぱり研究って、今はまだ研究されていない論文をどう出すかというところにフォーカスする。すき間を縫って証明していく行為であって。研究というプロセス自体はすごく重要なんですが、社会がどれだけ変化しているのかを考えると、もっとダイレクトにインパクトを生み出せるのはやっぱり事業なのかなと思ったんです」
自分がワクワクするものは、事業を通じて社会にインパクトを生む起業の方にある。2年間の研究生活があったからこそ、そう確信を持つことができた。
将来きっと起業する。そのために、まずは右も左も分からないビジネスというものを知りたいと考えた。社会人たるものを知り、実力をつけられる環境で働きたい。2度目の就職活動は、明確な意志とともに取り組むことができそうだった。
起業して事業をつくる上で最も重要な力は戦略を描けることだと考えて、当初は戦略系コンサルティングファームを受けていた。とにかく実力をつけたい、経験してみたいという一心で、どちらかと言えば好奇心に駆り立てられながら選考を進んでいくと、どうやらほかの就活生たちがこぞって受けている企業があると分かってきた。
「コンサルの選考で一緒になる人はみんなP&Gを受けていて、そういう会社を受けるんだと思い、たまたま受けてみたんです。結果的にはコンサルとP&G両方から内定をもらうことができて」
将来の起業やビジネスマンとしての自分の在り方を考えると、今後「グローバル」というキーワードは欠かせないように思えるし、新卒を育てるカルチャーで知られるP&Gに入るならこれ以上のタイミングはおそらくない。事業会社の中で実ビジネスというものがいかに回っているのか、その現場を見てみたいとも思えたことから、ファーストキャリアとしてはP&Gを選ぶことにした。
「(入社してみると)P&Gはやはりすごい会社でしたよね。同期も上司もみんな優秀だし、最初に『人のすごさ』のようなものを感じました。その上であまり人に依存しないよう徹底して仕組みで管理されていて。オペレーションも教育も、ある程度賢い人たちがこの仕様に沿ってやるとうまくいくという仕組みを、時代とともにアップデートしている。それを同じビジョン、ミッション、バリューのもと回しながら、どんどんビジネスを大きくしていくモデルなんだなと」
1年目は兵庫県明石市の紙おむつ製造工場に配属され、生産管理としてエンジニアリングのマネージャーを務めた。現場で働く高卒上がりの人生の先輩方と肩を並べながら、さまざまな経験をさせてもらう。
2年目からは転じてグローバルプロジェクトに手を挙げて、イタリアへと飛んだ。
「結構面白いプロジェクトで、紙おむつって女性の社会進出が進むとともに需要が一気に増えるんですよ。布おむつで替えていた手間が取れなくなるので。だいたい女性の社会進出は国のGDPとか数字を追うと予想できるので、そうすると今後インドとかアフリカ、アジアで子どもも増えるし女性の社会進出が進むと分かる。つまり、グローバルで一気に紙おむつの需要が増えるので、新しい世界統一の製造ラインを作ろうというプロジェクトだったんです」
それまで社内では、欧米や日本など一部の先進国ごとに特化した製造ラインしかなかったが、部品もマニュアルも人の教育も全て統一することでスケールメリットに繋げられる。
さらに、ただ作るだけにとどまらず、実際に品質の高いプロダクトが作れるかまで検証し、日本に持ち込んで、世界最初の製造ラインを日本で稼働させる。そんなミッションを達成するため、世界各国から30人ほどのプロジェクトメンバーが集められていた。
「イタリアではいろいろあったんですが、総じて仕事はつらかったですね。工場で働いたと言っても1年そこそこですから現場上がりの上司からすると機械のことも詳しくないし、英語もまだまだ達者じゃない。そもそもグローバルでプロジェクトを回すということがどういうことなのか分からないなかで、いきなりポンと投げ入れられるので」
異国の地で頼れる人も少ない。仕事は精神的にハードだった。一方、プライベートは対照的で、海外勤務の華やかな部分を満喫させてもらえる環境があったという。
「23、4歳かそこらで国際線のビジネスクラスに乗って毎月帰国させてもらえて、現地ではいい車に乗ってアドリア海の見えるホテルに泊まれるような手当も出て。最初は結構楽しくて、要は今まで貧乏学生でバックパッカーとかやっていたので一杯のコーヒーも贅沢に見えたんです。でも、そういう生活ってすぐ飽きるんですよ。自分のために何かお金を消費することの満足って限界があって、誰かのために何かするところでしか本当の満足って得られないなと、その生活を経て思ったんです」
P&Gで働いていた頃、イタリアでできた友人と
自分軸で選択した環境でも、「誰かのために」がなければ結局つまらない。さらに、イタリアで過ごした時間から得られた学びは、それだけにとどまらなかった。
「P&Gは米国で上場している会社で、となるとCEOは株価が上がらなければすぐクビになる。だから、基本的に僕たち現場レベルのKGIは上司のKGIから落ちていて、上司のその上はと辿っていくとグローバルのCEOをトップにピラミッド構造になっていて」
まさに資本主義を体現するかのような徹底されたKPI・KGI管理、そしてそれを各々が部品として回していくことがビジネスだとするような風潮。米国らしいドライな環境で、同僚や上司はみなどうやって上に上がるかを常に考えている。
一方で住まいを構えたイタリアは、資本主義とはまるで正反対の空気感がある。
当時生活していたイタリア中部からやや東寄りの港町・ペスカーラは、日本でいう熱海のような避暑地だった。ローマからは車で2時間、美しいアドリア海と山々に囲まれた自然豊かな土地が広がる。
現地に滞在するあいだ同年代の友人が増え、彼らの働き方や生き方について話を聞くと、ますますそこには職場の価値観と対極なものがあると分かってきた。
「まず14時になったらコーヒーを飲みに行くし(笑)。イタリアってプラダとかいろいろなブランドもあるから、僕が『ブランドものとか革製品は持っていますか』と聞くと、みんな『持ってない』と言うんです。持っていたとしても元々おばあちゃん、おじいちゃんが持っていたものを受け継いで長く使っていたりとか。ほかにも土地の産業みたいなものをすごく愛していて、その持続性を考えていたり。基本的にそういう文化を大事にする生活観があって」
シンプルなイタリア料理もアンティークも、決してそれ自体シンプルにすることが目的なわけじゃない。たとえお金がなかったとしても日常の中に幸せを見出したり、人生を楽しむ発想から生まれた歴史があるのだと聞いた。
かたや資本主義という明確な行動原理のもとドライな意思決定を重ねる環境があり、かたや地域の産業を愛し、その持続可能性という文脈で自分たちの人生をも捉える環境がある。相反する仕事とプライベートに挟まれて、必然的に自分の人生とは何かを考えさせられた。
「僕の人生の目的は昇進じゃないと原点に立ち返り。じゃあ、どうしたいんだろうと考えた時に、それぞれ地域ごとに特徴的な産業を持っていて、産業ごとに合う企業だったり、合う人がいて、そこに地域らしい文化ができる状態がいいなと感じている。本当は『グローバル』とか『世界』という括りはなくて、都市の集合体がグローバルだとすると、都市らしい産業や人の暮らしがある状態が1番美しいと思うし、そういうものを実現したいなという思いが自分の根本に醸成されていったんです」
日本はもちろん世界には多様な都市があり、それぞれの都市ごとに根付いた守るべき産業がある。そんな多様性の観点は、イタリアで体験した多国籍チームで見た光景からも影響を受けているのかもしれない。
「各国の素質を非常に分析したうえでチーム編成されていて。たとえば、コーディングをするプログラマーはインド人とアメリカ人で、プロジェクトマネジメントをやるのは中国人なんですよね。中国人って始皇帝の代から続く帝王学的なリーダーシップがすごいんですよ。一方で機械をいじったり手を動かすのはイタリア人で、機械の設計はドイツ人。日本人は何の代表かというと、世界でも突出して現場のオペレーターの作業クオリティが高いと。現場の創意工夫やきめ細かさとか気づきとか、そういったものを早めに機械にフィードバックして使いやすいラインにしていくことで、全体としての生産性も上がっていくよねというコンセプトだったんです」
元来の真面目な気質もあいまって、日本人の現場力は世界でたしかに評価されている。多様な個性を活かしたチームで感じていたことは、あとから振り返れば現在のクアンドに繋がる重要な気づきでもあった。
モノづくりの現場から学んだP&Gでの4年間を経て、その後はモノを「作る」側だけでなく「売る」側も経験したいと、博報堂コンサルティングへと転職。幅広い業界のクライアントに対して、マーケティングや営業、ブランディング戦略を提案しつつ、各社の意思決定構造を肌で感じながら学ぶことができた。
やがて30歳という節目のようなタイミングがやってくる頃には、起業へと踏み出したいという思いは固まっていて、いくつかの事業アイデアを練りはじめていた。
「たまたま小学校からの同級生で、大学のとき一緒にシリコンバレーにも行った同期が東京で働いていて。彼もまた起業したいと思っていると聞いて、それなら僕が持っているスキルと技術者上がりだった彼の持っているスキルが違うので、一緒にやらないかという話になったんです」
毎週末集まり事業プランをディスカッションしたり、路上を歩く人をつかまえてはインタビューに協力してもらったり。そうこうしているうちに、互いが本質的にやりたいことは何かという問いにぶつかった。
「僕たちが本質的にやりたいことは何かというと、今のビジョンミッションにも繋がりますが、地域産業やレガシー産業のアップデートがやりたいよねと意見がお互い一致して。それをやるためには福岡に戻らないと分からないということで、事業ありきというよりは思いありきで地元に戻って起業したという経緯がありました」
2017年に株式会社クアンドを創業。そこから3年ほどは、地元のレガシー産業向けに受託開発やコンサルティングを行っていた。並行してとことん地域や産業というものに向き合いながら事業アイデアを練り上げて、生まれたものが現場向けコミュニケーションツール「SynQ Remote」だった。
そこにはもちろんイタリアで見た日本人の現場力へのリスペクトや、その価値を信じる思い、地域産業の未来を思う信念などが込められている。
過去から現在を築いてきた産業。そこからはじまる人、企業、文化を未来へ絶やさず繋ぐ。次の時代へ向けたアップデートをクアンドが牽引していくという決意とともに、事業は始動した。
土木の仕事で家庭を支える父の背中を見てきた幼少期から、親の言う通りいわゆる学歴は輝かしい人生を歩んできた学生時代。結果としてそこに心躍る未来はないと気づいたが、もがいた末に、今一度「レガシー」や「地域」といった泥臭い場所に戻ってきていること自体、ひるがえって人生は面白いと下岡は振り返る。
「僕がやりたいことがないと悩んでいた時って、要はベクトルが自分に向いていたというか。自分って何をやっている時が楽しいのかとか、自分はどういう風に活躍していたいのかとか、とにかく自分にばかり向いていた気がするんですよね」
さまざまな社会人経験を経て、自分自身を満足させるだけでは足りないと気づくことができた。誰かのため、社会のために自分ができることを考える。そこに人生の面白さは詰まっていた。
だからこそ、地域産業の未来を思うこの仕事にも大きな意義を感じているという。
「僕たちが今向き合っている業界は決して華やかではないというか、メインストリームには来ないような産業だとは思うんですよね。でも、製造やインフラにまつわる領域って、光は当たらないけれど、実はすごく重要な社会の機能を担っているものだと思っているんです」
どちらかと言えばAIやブロックチェーンなど先端技術の領域の方が光は当たりやすい。しかし、下岡自身は地域産業やレガシー産業がテクノロジーでいかに変わるのか、そこで働く人の働き方についていかに付加価値を上げられるかの方が、社会にとって重要だと考える。
「やっぱり規模も大きいですし、変えられるとインパクトも大きいと思っていて。そういうところにこそ、すごく面白みがあると思っているし、社会的な意味もあると思っているので、同じように興味のある人と一緒に働きたいですね」
地域の未来のためにできることをする。そのために将来は、経営以外の選択肢も考えているという。
「僕は45歳か50歳くらいになったら経営者を引退して、北九州市長選に出ると投資家にも会社のメンバーにも話していて。世界ってそんなにベンチャーが全てを変えるわけでもないし、もっと複雑でいろいろなものが絡み合っていると思うので、そういう社会に対するインパクトをどう与えるかを考えて、未来にワクワクしています」
産業はもちろんのこと、地域を支えるものは企業だけではない。政治や行政、コミュニティ、大学など複合的な人の営みを見据えながら、社会を変えていく。そんな風に常に社会と未来にベクトルを向けつづけることで、まだ見ぬ未来に心躍らせながら生きることに繋がっていくのだろう。
2023.2.1
文・引田有佳/Focus On編集部
できるだけ人生の選択肢は広げておいた方がいい。それ自体は正しいように思えるが、純粋にそれだけ追い求めた先に人生の幸福はなかったと語る下岡氏。
自分が何をやりたいのか分からないと悩む人は少なくない。それなら今はできるだけ良い学校に入り、良い会社に入っておいて、あとから選択できるような自分になっておく。けれど、そのまま漫然と過ごしても、想像するような選択の瞬間が訪れる保障はない。
自分がつくりたい社会や未来のために、現在を選択する。下岡氏が米国シリコンバレーで触れたようなアントレプレナーシップは、何も起業家だけのものでもないのかもしれない。
「誰かのために」「社会のために」行動するとしたら何から始めるかという問いから考える。人生のオーナーシップを持って、今この瞬間から能動的に身を置く環境を選んでいく。そうして意志ある人生をゼロから開拓していくことは、あらゆる人の人生を充実させていくだろう。
文・Focus On編集部
株式会社クアンド 下岡純一郎
代表取締役CEO
1986年生まれ。福岡県北九州市出身。九州大学/京都大学大学院卒業後、P&Gにて消費財工場の生産管理・工場ライン立ち上げ・商品企画に従事。その後、博報堂コンサルティングに転職し、ブランディング・マーケティング領域でのコンサルティング業に従事。2017年に地元福岡にUターンし、株式会社クアンドを創業。製造業・建設業などの現場向け情報共有プラットフォーム「SynQ(シンク)」を開発。家業の建設設備会社の取締役も兼任する。