Focus On
大山晋輔
株式会社Spir  
Founder CEO
メールアドレスで登録
or行動せざるを得ない環境を、自ら選ぶこと。覚悟や成長はそこから生まれる。
「マイ・カーライフを、すべての人に。」というビジョンを掲げ、従来の「所有」に代わる人とクルマとの多彩かつサステナブルな接点を生み出していく株式会社IDOM CaaS Technology。クルマのサブスクサービス「NOREL(ノレル)」をはじめ、同社が展開する事業では中古車流通で培ったガリバーのノウハウとネットワークに、独自のテクノロジーや与信を掛け合わせ、高精度な車両マネジメントやプライシング、未来残価予測など新たな価値を次々に実現。ますます多様化するドライバーのライフスタイルに寄り添うべく、CaaS(Car as a Service)領域を切り拓いている。
代表取締役の山畑直樹は、青山学院大学法学部を卒業後、株式会社IDOM(旧 株式会社ガリバーインターナショナル)へ入社。店舗営業、財務法務部門を経て、全社のブランディング/CI変更プロジェクトに参画。複数の新規事業、部門責任者として立ち上げ業務に従事したのち、2020年、同社よりスピンオフして独立した株式会社IDOM CaaS Technologyの代表に就任した。同氏が語る「挑戦のはじめ方」とは。
目次
2020年、新型コロナウイルス感染拡大に端を発する社会的危機により、かつてないほど多くの人の「移動」が制限された年、「中古車のガリバー」で知られる株式会社IDOMは、「#SaveMoving ガリバークルマ支援」と題したキャンペーンをいち早く開始した。
医療従事者や配達員、建設業者、あるいは通院が必要な患者とその家族など、移動を必要とする全国1万人を対象に、無償でクルマを貸し出したのだ。
プロジェクト責任者として陣頭指揮を執っていた山畑は、当時多くの人から感謝された経験と、現代を生きる人とクルマとの理想的な関係性を見出す精神性が、現在IDOM CaaS Technologyが掲げるビジョンにも受け継がれていると語る。
「『所有』ってものすごくお金が必要で、グローバルな資材の高騰などの影響もありクルマ代もどんどん上がってきているし、多くの人にとってカーライフ自体がだんだん身近ではなくなり遠のいている。田舎で育った自分からすると、クルマがないと本当に生きていけないという肌感があるのですが、それは今の時代『所有』だけだと難しい。だから、『利用』という手段でそれぞれのカーライフを実現できるようにしたいと考えているんです」
同社が展開するクルマのサブスクサービス「NOREL(ノレル)」では、「所有しないマイカー」という選択肢を提示する。必要なときに必要なだけ、新車・中古車を問わず好みの車種を選択したり、カジュアルに乗り換えたり、一人ひとりに合ったカーライフをもっと柔軟に描けるようにする。
さらに、同社は日本で暮らす外国人やシングルマザー、若者など通常のローンやリースでは審査に落ちてしまう、いわゆる「低与信」とされるユーザーの「乗りたい」も叶えていく。
たとえば、面倒な審査不要かつ頭金0円、最短即日でクルマに乗れるサービスが「ノレルGO」だ。既存の信販会社が過去から現在の実績をもとに審査をするのに対し、同社ではお客様を一旦「信頼」して審査をなくし、現在から未来へ実績ベースで「信用を共に築き上げていく」というアプローチを取っている。
「たとえば、iPhoneの割賦払いなどがそうですが、今は若い人でも意外と金融サービスへのアクセスがしやすい世の中になっていて、個人的にはそれは良くない面もあると思っているんです。なぜなら、若いうちにそこでつまずいた人が、その先クルマや家のローンを組んで買うことができなくなってしまったりする。そういった部分で困っている人が、事業を進めていくなかでどんどん手触り感を持って見えてきて」
金融機関や先端テクノロジー企業とも連携する同社では、より低価格かつ高い審査通過率のカーレンタルを実現するだけでなく、独自の未来残価*予測モデルを開発。ますます多くのユーザーに利用してもらえるよう、金融領域からのサービス強化に注力している(*一定の期間が終了した時点でのクルマの価格のこと。正しくは「残存価値」という)。
現在は、クルマの金融ファンド立ち上げの構想もあるという。
「弊社が持つデータと組み合わせることにより、クルマにかかる生涯コストを下げることができるというビジネスを仕掛けて作っています。たとえば、データを元に一番価格が落ちにくい期間で最適なクルマをお客さんに提供することで運用益を最大化し、海外も含めた売り先の多様化で売却益を最大化します。特に地方の個人や企業の投資家からすると、都心のマンションに不動産投資しましょう、と言われるより、アルファードとプリウスに投資しましょう、と言われる方が身近で楽しい投資として新しい金融商品になるだろうと考えて、フィンテック×モビリティの企業像を追求しています」
社会が変化するにつれ、ますますクルマの利用ニーズは多岐にわたっていくだろう。今後もその「利用」を支える手段を提供する企業でありたいと山畑は語る。
「よく社内で話すたとえで言うと、昨今各社がEVや次世代技術の車市場にゴールドラッシュのように参入しているなかで、その中でEVの金脈を掘り当てたいメーカーと、その便利な車を利用したいユーザーを繋ぐような役割ですね。当時だと金を掘り当てようとする人が着るジーパンを提供したリーバイスや、掘るためのツルハシを売った人がいたように、弊社もクルマ産業で金を掘り当てる人の道具を提供する役割になりたいと考えています」
クルマに乗る人が、主体的に乗り方を考えられる世界。その実現に向け、カーライフをハックする。IDOM CaaS Technologyは、クルマ起点ではなくドライバー起点な自動車産業の在り方を提案しつづける。
広くて雄大な北海道のなかでも南西部、観光地として人気の札幌や函館のちょうど中間くらいに位置する場所に、生まれ育った町はある。名前も知られていないような田舎だと山畑は語る。
共働きの両親に代わり、家では祖父母が面倒を見てくれた。子どもの頃は、比較的1人で過ごす時間が長かったという。
「母親が看護師だったので結構忙しくて、夜勤でいないので祖父母と晩御飯を食べたりする日は多かったですね。姉と妹がいるのですが男は僕1人だったので、一緒に遊ぶというよりは、1人で家の庭でボールを蹴ったり投げたりして遊んでいました」
家の壁に向かってボールを蹴って、跳ね返ってきたらまた蹴り返す。単調な遊びだが、熱中しているうちに意外と時間が経っていたりする。
ちょうど家の中では夜勤を控えた母が仮眠を取っていたりして、本当はもう少し静かに眠りたいようだと、父経由で聞いたのはあとになってからのこと。楽しんでいるのを邪魔するのは申し訳ないと思う母の優しさと、母への申し訳なさを感じたことは、どこか印象的な記憶として残っている。
「ほかにも小学校で野球をやっていた時は、練習が終わると夜も遅いのでほかの子どもたちは母親が迎えに来るじゃないですか。うちは母親が夕方から夜勤で来られないので、ちょっと寂しいなぁと思ってやめてしまったりしたことがあって、それを母親がものすごく悔やんでいたことを覚えています。だから、それも申し訳ないなと思ったり。そう言うと気遣いまくり家族みたいで、実際そんなことはないのですが(笑)」
いずれにせよ理由は特にないのだが、一つに熱中し、長く続けたようなものがない。野球にバスケ、ミニ四駆やゲームボーイなど興味が移り変わってばかりいて、振り返れば何事も中途半端にしていたのかもしれない。
3月生まれだったからなのか、当初は勉強も運動も周囲よりかなり遅れを取っていて、子どもなりにその差を埋めようとするのに必死だった。
「おそらく当時は消極的な人間だったんですよ。活発に何かをやっていたとか、いつも友だちと一緒に遊んでいたというよりは、1人で何かしていることの方が多くて。両親や先生からはコツコツ努力するタイプだと褒められたりもしたのですが、自分自身はなぜか『まだまだだ』という思いが空回りして、いろいろなことに手をつけてしまい続きませんでした。少なくともずっとサッカー少年でしたとか、野球少年でしたという生き方ではなかったんです」
幼少期
周りから褒められても、自己認識では「劣等生」だと思っているので「もっと頑張らなければ」と考える。けれど、やがて頑張り過ぎると逆に集団の中で悪目立ちすることもあると気づいていく。
「小学校低学年の時に、なぜか足が速くてリレーのアンカーをやることになり、ものすごく注目を浴びて。しかも、負けてしまったので責任を感じてすごく嫌だったんです。だから、それ以来手を抜くようになって、どんどん全力を出さない子どもになっていきました。授業中に手を挙げるのも嫌で、目立ちたくないという感じでしたね」
活動的に何かをしてみたり、みんなの注目を集める人気者になるよりは、ひっそりと平和に過ごしていたい。思いがけず中学最初のテストで良い順位を取った時には、周囲の友だちから「勉強してるやつ」として距離を置かれるのではないかと不安がよぎり、手を抜いて順位を上げないようになったりもした。
「子どもの頃からどこか引いて見ることが多い性格で、おそらくものすごく周りに気を遣っていたんですよね。今はそうでもないのですが、周りからの見え方とか評価、どう思われるんだろうといったことをすごく気にしていて。だから人との差分を作らずに、目立たずこっそり生きていたいとずっと思っていました」
他人の感情を差し置いてまで、貫き通したい欲求もない。むしろ全力を出し目立った行動をして、予期せぬ事態に陥るよりは、一歩下がって周りに合わせつつ普通に生きられればそれでいい。反対に、周りより劣る部分があればそれが気になって、必死に埋めようとした。
当時は自分自身の意思よりも、人との差分を作らず平穏に過ごせることが一番いいと思っていた。
2-2. ほんの少しの行動が結果を変える
少しずつ人との差分を出してもいいかもしれないと思うようになったのは、高校生になってからだ。友だちと遊んだり、流行りのバンドをやってみたり、多くの人が経験するような青春を一通りなぞるなか、「ちょっとぐらいカッコつけたい」とよくある感情が湧いてくる年頃だった。とはいえ、何か全力を注げるものがあったわけじゃない。
「おそらく自分はこれをやりたいんだというものを見つけに行っていなかったんですよ。その後の人生になると、そんな自分が嫌だと逆説的なことを思いはじめて今に至るのですが、当時は本当に受け身。自ら情熱を持てるものがなくて、早く時間が過ぎないかなと思っていました」
卒業後の進路も強い希望はなく、専門学校に行ったあと地元の公務員にでも就職できればいいだろうかと考えていた。しかし、高校3年の夏も終わる頃、担任の先生がかけてくれた言葉で考えを改めることになる。
「大学受験はお金もかかるし、姉は医学部を受けていて、妹は妹で音大に行くとか言いはじめていたので、特にやりたいこともない自分は地元の市役所で働こうかなぐらいの気持ちだったんです。でも、その時に先生に『あなたはとにかく大学に行きなさい、これから何か好きなことが見つかるから絶対行きなさい』と言われて」
自分のことをよく理解してくれている先生が、親身になって言ってくれている。そこになんとなく心動かされるものがあり、真面目に大学受験について考えた。受験を想定した勉強が足りていない事実は今さら変わらない。必然的に受験科目の多い国立大学は選択肢から消え、父親に相談して数科目で合否が決まる私立に絞ることにした。
できる限りの努力を尽くし、なんとか青山学院大学への進学が決まることになる。
大学時代、友人たちと
「そもそも大学をあまり知らなかったんです。全然情報を仕入れてなくて、当時好きだったバンドの出身校だから青学を選んで、ハマっていたゲームの影響で法学部にして。やっぱりそんな動機だったので、授業は面白くないんです。今になって当時学んだリーガルマインドみたいなものがすごく活きているのですが、当時は案の定集中していなかったですね。ただ、今まで田舎にいた分、東京に出ていきなり世界が広がった感覚はあって面白かったです」
せっかくならいろいろ経験してみたいと思い、アルバイトも1か所に固定せず、日雇いのような形で働いた。稼いだお金で友だちと海外旅行に行ったり、今までにない新しい世界と触れられるようになる。ちょうど当時は日本にレーシック手術が上陸した時期で、興味があったので手術を受けたりもした。すると、たかだか数十万円で生活が劇的に変化して驚いた。
少しでも何かのアクションを起こしていくことで、結果は変えられると手応えを掴みはじめたのはその頃だ。
「地元にいた頃は家族含め周囲に気を遣っていた部分があったので、ある意味自分のことを誰も知らない環境に来て、気を遣わなくていいとなって。いろいろな経験を経て、行動すれば結果は変えられるという感覚ですよね。今まで受け身で生きてきたので、主体性を発揮して結果が変わっていくことを面白く感じはじめていたんです」
そんなことを考えていたからか、当時好んでよく読んでいた本がある。
「『毎日が冒険』という本があって、昔流行ったんですよね。19歳か20歳くらいの時に、ヴィレッジヴァンガードとかによく並んでいて。スタートアップのいろいろな成長プロセスの話なんですが、自己啓発ほど抽象的な表現ではなくて、実体験でこんな苦労や失敗をしてきて結果うまくいきましたというストーリーにすごく刺激を受けていましたね」
本に限らず映画もそうだ。何かを新しくゼロから立ち上げて、挫折しながらもあきらめず成し遂げていく。そんなストーリーに共感し、面白さを感じている自分がいた。
「ただ、当時は挑戦にはものすごく何かを失うトレードオフがあるんだろうと、すごく難しくて自分にはできないんだろうなと思っていました。ものすごく借金をして起業するとか、店を作るとか、自分にはできないなと。おそらく自信がなかったんじゃないですか。周りからは何かに情熱を向けているように見えることもあったかもしれないですが、自分自身はすごくしょぼい生き方をしてきたようにずっと思っていたんです」
困難を恐れず果敢に挑戦していく生き方には、なぜだか心揺さぶられるものがある。憧れのような感情でもあったのかもしれない。周囲がどうであるかとか、どう思われるかなどとは関係なく、自分を信じて大胆に行動する。そんな自分に成長できる環境を、いつもどこかで求めていた。
このまま普通に就職をして、社会人になれたとしても、おそらく自分の本質は変えられないだろう。就職活動にあたってはそんなことを思い、盤石な大手企業よりも挑戦的な環境があるベンチャー企業がよいのではないかと考えていた。
「ただ、いまや古い言葉ですが、当時で言う『六本木で起業する青年実業家』みたいな世界だと、自分の肌には合っていない気もして(笑)。しっかり成長過程にある会社に入って自分の力を高めたい、だけどそこまで自信がないので、そこそこビジネスが回っている会社の方がいいと思って就活していました。あとは、昔からクルマは好きだったので、将来クルマ屋さんになりたいという気持ちもあったように思います」
当時ガリバーインターナショナル(現 IDOM)は、中古車業界で成長を遂げ、上場を果たしたベンチャー企業だった。いわゆる就活生に人気の企業ではない。数ある自動車系企業のうちの一つとして、よく知らないまま就職説明会に参加した。
そこでは創業者である羽鳥兼市氏の講演を聞き、心に火が点くような衝撃を受けた。
「一言で言うと『挑戦の面白さ』ですね。いろいろな事業をやりながら失敗して、借金を背負って、50代で起業したガリバーを福島から東京に持って来て。最短で上場させて全国500店舗を5年で成し遂げたというお話で。それを22歳ぐらいの男の子が聞くと、うわーっと鳥肌が立つ感じです。もっと本気で何かを頑張るということをしてみたかった自分には、それがもう感覚的にビビッと来たというか」
最終的にはメーカー含めいくつか内定をもらったが、迷わず入社を決めた。文系で何の取柄もない自分は、メーカーよりも流通業の方が合っているのではないか。そう感じていたのも事実だが、何より羽鳥氏が発していた言葉が忘れられず、ほとんど一択と言っても過言ではなかった。
「羽鳥兼市さんは、謙虚で自分を大きく見せようというよりはすごく地に足がついた人という印象でした。しっかり商売人でありながら、ビジョナルなところも両立して話をされていて。一代で会社を大きくした創業者がそのバランスで喋っている姿がすごく尊敬できましたし、おそらく今の自分の経営スタイルにも通じていると思いますね」
尊敬する羽鳥氏率いるこの会社なら、これまでにない自分に成長できるかもしれない。入社後は北海道出身ということもあり北海道の店舗に配属され、まずは営業として働くことになった。
「それが2000年代半ばの当時は、ものすごく厳しい環境で。上司の厳しい指導があったり、休みも少ないし、毎日夜遅くまで働かなくてはいけない環境だったんですよ。ただ、だからと言って外の環境を求めに行かないというか、やっぱり自分の意思でこの会社でやると決めたので、絶対に正しく努力するんだという意地があって」
最初は言われた通りのやり方で営業していたが、ときに売上のためにお客さんを説得していくようなスタイルに納得いかず、成績も一定で頭打ちになった。
「きちんとお客様志向でやりましょうという会社ではあったので、お客様より営業数字を優先するというほどではないのですが、そこのバランスがまだ悪いなと思って。自分は意外と面倒くさい人間なんだと思ったのですが、型にはめられる強制的なマネジメントに反発したりもして。たまたま新規の案件がなくて暇だった時があったので、タウンページを開いて片っ端から電話して、繋がった人に会いに行ったんです」
本当にお客様のためになることをしてみたかった。偶然電話が繋がった牧場を訪問すると、小屋に動かないポルシェがある。なんでも亡くなったお父さんが、生前どこかの競馬レースで勝った時のお金で買ったものであるという。状態を確認してみると、50万円ほどで修理すれば倍で売れると見積もることができるものだった。
その通り依頼主に話し、一緒に直して売りましょうと提案すると話がまとまった。一般的に生産的とされる営業とは真逆の動き方だったが、結果として倍以上の金額で売れることになる。加えて、次のお客様を紹介してもらえるようになり、以来営業成績は右肩上がりで伸びていった。
「結構自分の原点とも言えるような経験で。今のビジネスにも繋がるのですが、いかに営業で刈り取るかというより、ずっと寄り添っていく。売り切るモデルではなく、売り切らないモデルという発想が今のビジネスの原型になっているんです」
1年目から成果が上がり、全国でも成績上位者に入るほどの結果を残すことができた。最終的には全国1位となった頃、2年目からは東京本社に異動する。当時は入社のきっかけにもなった羽鳥兼市氏がまだ社長*を務めており、その直下に内部統制の部署が立ち上がるということで配属されることになった(*2024年現在、名誉会長)。
「そこで働きながら、羽鳥さんからもちょっと可愛がってもらえたのか、一緒に何人かの社員と皇居ランをする役割になり。週に1回か2回皇居周りを走っているうちに、創業者の思いや迷いのない姿勢みたいなところをすごく教えてもらって」
破天荒で波乱万丈な人生を生き抜いてきた羽鳥氏らしい、人並み以上にポジティブな考え方はスキルでもあると思えたし、経営者にしか分からない物事の捉え方など、視野が広がる学びが多くあった。
ちょうど会社は急成長ゆえに組織が十分整備されないまま拡大し、成長の踊り場を迎えたフェーズだった。業績としては最高益を達成していたものの、数字だけを追いかける組織になっていた側面もあり、ガバナンスの強化や理念経営が必要とされていた。
「急成長の影響なのか当時は現場と経営理念のズレ感があって。そのひずみというかズレって何だろうかとか、それを自分で変えることができないかということを当時すごく思っていました」
羽鳥氏からは創業者の思いを学び、2008年に同氏の息子である由宇介氏と貴夫氏兄弟に代表交代してからは、2代目経営者としての難しさや2000人規模になった社員をまとめていくなかで生じる葛藤などに近い位置で触れることになる。何かが劇的に変わるわけではなかったが、少しずつ自分の物事の捉え方が変わっていくのを感じていた。
羽鳥兼市名誉会長と
写真のポーズは、ボクシングの名トレーナーであるエディ・タウゼントが
「世界チャンピオンになるかならないかは、これっぽっちの差しかないんだ」と語った際の話で盛り上がって
とったポーズ
買取専門店「ガリバー」の名前で知られるように、中古車買取事業からはじまった同社の事業展開は、中古車販売を軸とする多角経営へと移行しつつあった。事業の数も増えつつあった当時、改めて全社のブランディングを再考し、次なるステージへと進めるためのプロジェクトが発足した。
幸運にもそのプロジェクトメンバーに選ばれたのは、入社3年目のことだった。
「そこから本当の理念経営にしていくという今の社長の方針が出て。多少業績が落ち込んだとしても、絶対にそういう会社にしていくんだと、そのためのプロセスを定めていく場にいられたことは経験として良かったと思います」
もともと若手ながら幹部社員に率直に意見したりするキャラクターだった。当時はだいぶ生意気だったにもかかわらず、秘書をしていた羽鳥(貴夫)社長をはじめとした経営陣はそれをも個性として受け止めてくれる雰囲気があり、ありがたかった。だからこそ、余計に「会社のために」を考えるようになったのかもしれない。
「生意気だったのですが、発言するからには自分軸で発言するのは微妙だなと当時から思って。生意気の方向性が本当の会社軸になるように意識していました。それまでは自分を一従業員としてしか捉えていなかった部分があったのですが、だんだん会社を自分事に考えるようになってきたんですよね」
プロジェクトも落ち着いた頃、若手次期リーダー候補が集められ、研修を兼ねた社内起業プレゼンに参加することになった。自分で手を挙げて、全店長500名の前で新規の事業企画を発表する。結果的にその場での内容が評価され、事業化が認められることになる。
「『WOW!TOWN(ワオタウン)』というブランドを自分が責任者として立ち上げていくことになり、誰かの影とかではなく、自分が矢面に立ちながら事業を推進していくことを体感した。やっぱり自分が責任を背負えば背負うほどどんどん周りが協力してくれる、結果が変わってくると感じて。そこには自分の恥ずかしさとかプライドを置いて忘れてしまった方が結果はついてくるんだなと、おそらく何かすごく自分を止めていたものがなくなったように感じたのが、26、7歳ぐらいの時でした」
営業をやるようになってから、多少は人前に立つことにも慣れていた。しかし、それだけでは500人の店長の前で発表し、ゼロから事業を立ち上げるなんてできなかっただろう。何より背中を押したのは、おそらく数年前から触れていた創業者・経営者の思いだ。
会社を自分の手でより良く変えられないかという思い、成長の踊り場に出た企業をもう一度成長させる、その成長戦略ど真ん中を自分なら作れるかもしれないという思いがあった。
人前に立つことが好きじゃないだとか、やりたくないという雰囲気が出てしまっては、伝わるものも伝わらなくなってしまう。だから余計な感情は全て捨て、恥もプライドも手放すことができた。
大型中古車展示場「WOW!TOWN(ワオタウン)」は、クルマ選びはもちろん
クルマとともに豊かな時間を過ごせる体験型施設としてカフェやキッズスペースを併設
現在、「クルマ選びのテーマパーク」として全国3店舗(幕張・大宮・新潟)を展開中
「WOW!TOWN(ワオタウン)」という、これまでのビジネスモデルとは一線を画す事業を軌道に乗せることができ、のちのIDOMの主力事業に繋がった。以降社内では新規の取り組みや事業立ち上げを担当するようになる。2018年、現在のIDOM CaaS Technologyの原型となる「NOREL(ノレル)」を引き継いだ。
「2016年に立ち上がったこの『NOREL』というサブスクリプション事業を引き継いだのですが、その時はもうこの事業をどう閉めるかというレベルの状況で。衣服のように車を乗り換えようというコンセプトは良かったんですが、お客さんも増えていかないし、大赤字だしで、まずビジネスのベースができていないという状況でした」
あの手この手でなんとか事業を立て直し、その後数回のピボットを経て、事業としても分社化することが決まり、2020年4月に株式会社IDOM CaaS Technologyが設立された。
しかし、コロナ禍と重なり事業がフリーズしてしまい、当面生き延びるための資金が不足していたため、まずはコストのかかっていた当時のメイン事業を止め、一旦新車のリースを始めてみることにした。裏側にリース会社に入ってもらい取り次ぐことで、契約が決まった瞬間に手数料が入ってくるというビジネスだった。
「そうするとものすごく審査に落ちる人が出てきたんですよね。これは何かというと、一般的な金融会社の与信審査としてもう何十年も前からある仕組みなのですが、過去に割賦払いの支払い履歴が悪かった人とか、最近はフリーランスの人も増えていますが職歴がダメとかで7割が落ちるんです。それも本当に悪意で踏み倒したとかだけではなくて、奨学金の返済が大変だとか、いろいろと事業を手で触ってみるうちに世の中の困っている人たちが見えてきて」
苦しい生活環境にいる人も、新車に乗れる構造をビジネスで作れないか。そんな発想が、のちのサービスの原点となる。その後は黒字転換を経て、売上も数倍に成長。社員数も27名から180名に増えたりと、勝ち筋が見えてきた。
クルマを買い、所有する。それだけにとどまらない人とクルマの接点を創出することで、未来もっと多くの人が「移動」の自由を手に入れられる。何より自分が燃えるビジネスであり、社会のためになる領域で挑戦していこうと決めていた。
IDOM CaaS Technologyのメンバーと
あれこれ考え過ぎて結局挑戦を踏みとどまっていた学生時代と比べると、リスクを取ってでも大胆に挑戦できるようになった今がある。いざそうしてみると、普通に生きるよりもはるかに楽しく、生きているという実感が得られていると山畑は振り返る。
当時はただ覚悟がなかっただけだった。覚悟とは、どのように作られていくものなのだろうか。
「自分の経験上になりますが、ある程度強制的にやらざるを得ない状況や環境に自分を持っていかない限り、覚悟は生まれないと思っています。やっぱりそこでやると決めるということ。何もしなくても恵まれた環境にいると覚悟は生まれないので、まずは行動して制約条件というか枠の中に自分をはめていくことがすごく大事だと思います」
たとえば、どこかの企業に入社して本気でコミットせざるを得ない責任を引き受けること、一筋縄ではいかない挑戦を言い訳せずにやりきると決めること。目標と期限を設定することもそうだろう。なんでもいいが、とにかく制約条件のある環境に身を置くことが大切になるという。
「今だとスタートアップという立ち位置なので、お金も限りがあるし、いろいろな環境が揃っていないという制約条件があるのですが、そういう時の方が面白いビジネスを考えついたり、より集中していける部分があると感じています」
自ら制約条件を狭めていくためには、何かをとりあえず決めることが必要になる。その意思決定が正解かどうかは分からない。けれど、一度決めたなら「間違えているかもしれない」とは思わないようにすると山畑は語る。仕事であれば尚のこと、選択を正解にすることが求められてくる。
「自分の場合も、子どもの頃に何か積極的に挑戦をしてこなかったので、おそらく制約条件があまりなかった時期だったんです。実際、忙しく何かにチャレンジしてみる経験をしたのは社会人になってからなのですが、いざやってみるとこれが自分のやりたいスタイルだったんだと思いました。いろいろ行動して失敗も含めた経験値が積み上げると、自然と根拠のない自信もついてきました」
たとえどんなキャリアを歩んでも、自分次第で正解にすることはできる。そうしてあえて制約条件を狭めていくなかでこそ、より挑戦しがいのあるテーマは見つかると山畑は考える。
「制約条件があるからこそ高く飛べる、イノベーションは生まれると自分は思っているので、何でもできる状態よりも、できることが限られているということは逆に強みになるのかなと、価値観としてすごく思っています」
何も制約条件がない環境にいる人は、環境を変えることで自信に繋がる挑戦に出会えるかもしれない。一方で、何かの困難や制約に縛られていると感じる人も、視点を転じれば、その制約は強みになるかもしれない。
制約があるからこそ、高く飛べる。どんな人も状況も、独自の強みになり得る希望を秘めている。
2024.4.26
文・引田有佳/Focus On編集部
足りない労働力を補うために機械が発達したり、生活の不便を解消するために新しいサービスが生まれたり。イノベーションと呼ばれるもののルーツを辿ってみると、そこにはたいてい何かしらの制約が存在する。
産業のように大きなスケールだけでなく、一人の人生にも同様のことが言えるだろう。できることが限られているからこそ工夫が生まれ、すんなり上手くいかないからこそ思考や情熱が生まれる。残る経験や知恵の有無を考えると、成功とはそれ自体より「どんな風につかむか」が重要なのかもしれない。
制約があるということは、逆に強みになり得ると語る山畑氏。恵まれない条件しかないからとあきらめず、マイナスをプラスに転換すべく磨いていく過程から、誰にも真似できないような輝きは生まれてくる。
IDOM CaaS Technologyが向かう挑戦も、世の中に新たなスタンダードを確立させようとする。道なき道だからこそ、可能性は無限に広がっている。
文・Focus On編集部
株式会社IDOM CaaS Technology 山畑直樹
代表取締役社長
1984年生まれ。北海道出身。青山学院大学法学部卒業後、株式会社IDOM(旧 株式会社ガリバーインターナショナル)に入社。店舗営業、財務法務部門を経て、ガリバーのブランディング/CI変更プロジェクトに携わる。複数の事業責任者、新規事業部門立ち上げに従事したのち、2020年4月には新型コロナ対策支援としてガリバークルマ支援#SaveMovingプロジェクトを企画・実行。医療従事者1万名に向けたクルマの無償提供という大規模な取り組みが社会的な反響を得る。同年10月、子会社である株式会社IDOM CaaS Technology代表に就任。
https://idomcaastechnology.co.jp/