目次

ポリシーはない。流れが重要である。― 英語学習職人の細部へのこだわり

繊細に計算され尽くされたものづくりこそが、人の生活に寄り添う。


テクノロジーと人、両面から語学学習の課題を解決していく株式会社ポリグロッツ。同社の提供する英語学習アプリ「POLYGLOTS(ポリグロッツ)」は、多忙な社会人や大学生を中心に、これまで100万人の英語学習者たちに愛用されてきた。2017年には、Synex Corporation創業者で九州大学名誉博士であるロバート・ファン氏をリードインベスターに、シリーズAラウンドで総額6,500万円を調達。2018年10月には、学習者一人一人に合わせ、AIが自動学習カリキュラムを生成する機能「My Recipe(マイレシピ)」をリリースした。ウッドランド(現:フューチャーアーキテクト)を経て、キーエンス子会社であるイプロスにてチーフアーキテクト/CTOを務めてきた、同社代表取締役の山口隼也が語る「細部へこだわること」とは。




プロローグ


画面に映るアルファベットの羅列を、思わずにらみつける。


眉間にしわを寄せ、片手に持つ辞書を握りなおす。英文でつづられたニュースの内容には正直あまり興味がない。動かす目線の先から、少しずつ少しずつ、頭には別のことが浮かびはじめている。そういえば、あの仕事の期限はいつまでだっただろう……。


少しでも集中を切らすと、どこまで意味を読み取ったのかわからなくなってくる。また最初の文に逆戻りだ。こぼれ落ちる一つの溜息。最後まで行きつくのに、いったいどれだけ時間がかかるのだろう。


今日も自己嫌悪だ。あんなにやる気に満ち溢れていたはずなのに。ぼやけていく焦点、無為に過ぎていく時間。目をそらしたのは、何に対してだっただろうか。


魔法のように英語を話せるようになる術はない。けれど、楽しく魅了され、つづけたくなる学習教材は作ることができると信じている。そこには、ほかでもない自分自身の体験があるからだ。


こんな使い方はできない。こんな機能が欲しかった。徹底した学習者目線を突き詰める。細部まで突き詰めていくこと自体が、生き方なのかもしれない。


何かを究極まで追求すると、きっとそのものの本質に迫ることができる。あたかも真理に触れるかのような心地。幾何学模様のように複雑な問題も、答えはシンプルな方程式のように表せるに違いない。


小さな差異を積み重ね、価値を生み出してきた山口隼也の人生に迫る。


1章 生き方


1-1.  造園業の一家


樹木に触れると、育った年月の歴史が伝わってくる。


手にした鋏に力をこめる。切り落とされた枝は、重量に従っていく。一呼吸おいたあと、軽い音をたてる。幾本かの枝が地面に重なり、散らばっている。美しくあるべき形を取り戻すため、また来年も、こうして相手をすることになるだろう。


自然を相手にするその仕事は、繊細な感覚が要求される。植木や生垣、庭石。その緻密なバランスと配置が、人の暮らしに不思議な調和をもたらしてきた。


知識と経験を頼りに、一つとして同じものはない庭を作りあげていく。人の手で作られたものでありながら、まるで手つかずの自然のように生命の重みが残っている。無機質な都会の庭とは違う。あるがままに生きる自然がそこにあるかのようだ。その姿には、職人の魂が込められている。


大分県別府市、人の営みと自然が一体化した町だった。


日本一の湧出量を誇る温泉と、美しい山々。日本国内だけでなく、世界中の観光客を魅了してきた。その土地を彩り、人を感嘆させる景観を維持しつづけてきたのが庭師という仕事であった。


高い梯子一つ、不安定にも見える足場に登っていく父や祖父。幼い少年の背丈から見上げると、とてつもなく高い場所にも見えていた。真剣な表情で植物と向き合い、どの枝を剪定すべきか見極める。母も庭の雑草取りを手伝い、のちには梯子に登って剪定をするようになっていた。


造園業を営む家族の姿を、子どものころから山口はそうして見上げてきた。


両親と二つ下の妹、4人家族に生まれ育った。代々造園業を営んできた家系だった。「山口造園」。父は4代目として、その看板を背負っていた。かなり手広くやっていた祖父。一時期、祖父は、大分の造園組合のトップを務めていたこともある。


反対に、父は商売がうまい方ではなかった。職人気質で、性格は固い。たくさんの従業員を使っていくのは得意ではなかったようだった。いまでは数人で、小さく事業を営んでいる。


東京の大学を出て、父はすぐに祖父に弟子入りしていた。普通の庭師は大学に行ったりしない。本人曰く、いやいや家業を継がなければならなかったという。そのため、父には再三「家の仕事は継ぐな」と言われて育ってきた。


「庭師にはならなくていいと、子どものころから言われてきたんです。息子にはこの道は継がせない方がいいと考えていたんでしょうね。九州って基本的に目指すのは九州大学なので、子どものころから、九大に行って、良い会社のサラリーマンや、官僚になれと」


疑いもなく信じていた。そう、大学に入るまでは。


それ以前の自分の人生はほとんど、九州大学に入るという目的に捧げられていたようなものだった。暗黙の了解のように、ただ純粋にその未来を追いかけていた。


仕事中の父。


造園業を営むかたわら、父には欠かさず続ける日課があった。


仕事が終わり帰宅する。夜になると、テレビをつける。画面に映るのはNHKと決まっていた。父は毎日、NHKのテレビやラジオで英会話を勉強していた。


庭師の仕事にはまったく関係ない。しかし、別府は観光客が多い。庭で仕事をしていると、道行く外国人に話しかけられたりする機会が多かった。


とっさに英語が出てくれば、歯がゆい思いをしなくても済む。それに、もう少しコミュニケーションを取りたい。どうせなら自分からも話しかけてみたい。父は自主的に英語を勉強し、英検も受けていた。当時は仕事が忙しくて行けなかったが、海外旅行にも行きたかったらしい。


父はもともと世界に興味がある人だった。


「センター試験の英語の問題を解いたりとか、いまだに自主的に勉強してます。彼のアイデンティティなんですかね。たぶん勉強も好きだし、自分で解いていくのが、何か楽しいんだろうと思うんですけど」


仕事は楽しいことばかりではない。ただ機械的に日々の仕事をこなしている感覚に襲われることもある。英語を勉強していると、非日常の文化に触れられる。将来は移住したいと考える人もいる。父の姿を思うと、英語学習者のなかには、何か日ごろの不満から解き放たれたいという人も多いのではないだろうかと思えなくもない。


望まず仕事を継いだ父も、そうして世界に思いを馳せていたのだろう。子どものころから家には地球儀があり、世界にはこんな都市があるのだとよく聞かされてきた。エジプトにはピラミッドがある。ペルーにはナスカの地上絵がある……。


父はよく第二次世界大戦の話もしてくれた。世界のなかの日本人。かつて世界で活躍した先人たちがいたのだ。そのエピソードに、幼い山口はたまらなくわくわくしていた。


「子どもながらに、NHKのニュースとかを見てて、日本人はだめだとか世界に遅れてるとか言われているのを見ていて。日本人も世界で活躍していたものがあったんだと思って。そういうのがたぶん、世界で活躍したいとか、活躍したいと思ってる人を後押ししたいという、いまの思いとつながっているんだと思います」


家ではいつも、テレビはNHKしか見せてもらえなかった。ニュースやNHKスペシャルは味気ない。子ども心には嫌だった。しかし同時に、そこに映し出される社会の姿を見てきたのは事実だった。


過去、世界に打って出て活躍した日本人。英語を操り、外国人と対等なコミュニケーションを取る。想像してみるとその姿はかっこいい。幼いころから記憶に刷り込まれていたのだろう。世界で活躍する日本人の姿は、山口にとって憧れで誇らしく、いつまでも心躍る姿でありつづけていた。


赤ん坊のころ。


1-2.  職人気質


かつての古い造園業といえば、「山口造園」というより「山口組」だった。土木業に近い集団で、親分子分のような人間関係がある。それを取りまとめる立場であった祖父もまた、例にもれず親分肌な人だった。


祖父の家にいると、「親方―!」と祖父を呼ぶ声がする。仕事終わりの子分たちだ。祖父はいつも大きな声で、たくさんの人を従えていた。誰も祖父には逆らわなかった。


よくわからないが、すごいらしい。祖父は一声一声に力があった。


おかげで、孫である山口もずいぶん大人たちに可愛がられた。当時の祖父は外車に乗っていて、羽振りも良かった。ちやほやしてもらえるのは嬉しかったが、祖父がレストランのウェイトレスなどにも大きな態度を取ることは、子どもながらに良く思っていなかった。


「父と祖父はタイプが違いますね。父はコミュニケーションが得意な方じゃなく、ザ職人という感じ。祖父は人づきあいもお金遣いも派手な方で。僕はどちらかというと、父に似たと思います」


祖父は生前、造園業で黄綬褒章*を授与されたり、「現代の名工」に選ばれるほどの人物だった。家族として名誉なことだ。死後、いろいろな人に話を聞いてみると、祖父は職人としてかなり優秀だったらしいということだった(*社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰する日本の栄典の一つ。対象となる事績により、6つの種類がある。「業務に精励し衆民の模範たるべき者」に授与される。https://ja.wikipedia.org/?curid=147732より)


庭石のちょっとした苔の生え具合。生垣のつくり。細部にこだわり、職人としてたしかな腕を持っていた。だからこそ尊敬され、多くの人が集まっていた。表向きはお金の使い方も荒かったが、職人として大成し初めてお金が入りはじめ、もともと本人にお金への執着はなかった人だった。


お金に執着がない。それは、父も山口も同じだ。


職人としてのこだわり。一般の人にはわからないような繊細な作り込み。些細な違いだが、どうしても追求したくなる。職人気質な自分の性格は、祖父と父から受け継いだものであるようだ。


「社長とかやってても、僕もエンジニアで、アプリケ―ションだったら使ってる操作感とか、細部にこだわりたくなるんですね。自分も英語学習者だったからわかることがあって、学習者だったらこういう見せ方、作り方にしてほしいだろうと」


自分が使って欲しいものを作りたい。前提としてそれがなければ、いくら一生懸命に作っていても差が生まれてくる。使い手のイメージがなければ、できあがったものへの熱よりも技術に走ってしまうだろう。


自分も使いたいと思えるものを作るからこそ、細部にこだわることができる。結果として、良いものを作ることができる。だからいま、作りたいものへこだわり続けるという意味ではスタートアップは性に合っていると思える。


祖父や父から受け継いだ職人としての繊細な感覚が、未来役に立つこととなる。幼い当時はまだ、知る由もないことだった。


幼稚園のころ。


1-3.  自分の線路は、自分で作れ


NHKしか見ない父のおかげで、出会った世界がある。その日はたまたま、NHKスペシャルのアインシュタイン特集だった。


どうせ今日も、子どもにはつまらない番組なのだろう。画面を見つめていたのは、ただの惰性だった気がする。


光の速度は誰にとっても秒速30万kmである。何のことだかわからない。相対性理論?最初は意味がわからなかった。でも、その話に不思議と引き込まれていく自分がいた。


「この世の中の物理現象を究極まで突き詰めていって、しかもそれを数式で置き換える。そういうのが面白いなと思ったんですね。どちらかというと僕は昔から考え過ぎてしまう性格で、いま起きてる現象を単純化したいという思いがあるのかもしれないです」


細部まで突き詰めて考えることが好きだった。複雑な現実世界を追求し、たった一つの数式で表現する。のちに大学で学ぶことになる物理学の考え方は、当時から求めていたものだった。すべてが説明できるようであってほしい。すべて解明されれば安心できる。


しかしそれは、集団生活には馴染まない考え方だった。


自分が目にする世界、人、そこで起こる出来事。すべての事象には因果関係がある。そうやって物理にあてはめて考えると、人の行動や振る舞いも、すべてにおいて理由があるはずだった。


小学校の教室で、クラスメイトたちと話す自分。なぜ、この子はこんなことを話しているのだろう。こういうことなのか?いや、もしかしたら……。考え出すと、きりがない。気づけば話の内容は頭に入ってこない。話の内容は面白いものであるようで、自分以外、みんなは一緒に笑っていた。


一人、会話についていけない自分。そんな自分すら、どこか上の方から冷静に観察していた気がする。空気を読めないと言われたこともある。でも、空気を読むってなんだろうか。人の言っていることが、いまいち理解できないと感じていた。


当時はよくわからなかった。自分の胸の中で、何かの糸がからまっているようだった。感じることはできるのに、手に取り触れることはできない。からまった糸はいつまでもそこにありつづける。小学校は居心地が悪かった。


「自分は集団でいるよりも、一人でいる方が好きなんだ」


学校には行くものの、途中で抜け出し家に帰る。次第にその回数は多くなっていた。


「よく母のところに帰ってたんです。そう言うと、ただの甘えん坊みたいだけど(笑)。それがあまりにずっと続くから、母が僕を小学校に連れてって、授業中も教室の後ろにずっといてくれた。見てないと僕が不安になって帰っちゃうから。何週間かなかなか治らなくて」


小学校1年生。母はいつも味方になって、支えてくれる人だった。


母は優しかった。同時に、厳しさも持ち合わせていた。たとえば、学校や習い事をサボるのはいけないことだと強く教えられた。あまりに行きたくないときは、走って体温を上げる。風邪であれば行かなくてもよくなるかもしれないと考えた。


母の考え方では、子どもの服装は年中半袖短パンと決まっている。母に言われてやっていると、あとに引けなくなってくる。冬は毎日、鳥肌が立っていた。


厳しくもあたたかく導いてくれた、そんな母のおかげだと思っている。なんとか無事に6年間通うことができた小学校。そこでは、その後の人生を運命づけるかのような言葉との出会いがあった。


いつのことだか定かではないが、学校の先生に教えられたことだった。


「自分の線路は、自分で作れ」


当時は意味をわかっていなかった。先生の真意もいまだにわからない。でも、たしかに小学校の卒業文集を見返すと、その言葉を書き残していた自分がいる。それを見て喜んでくれた両親の姿も覚えている。


幼いころからずっと、その言葉は心にありつづけた。言葉の本当の意味を理解するようになったのは、ずいぶんあとのことだったように思う。それまでは意識していたのかわからない。頭の片隅のどこかでその言葉を守りつづけ、ただ眠りから目覚めるのを待っていたのかもしれない。



1-4.  夏休みの宿題の大発見


幼稚園のころから毎日水泳に通っていた。母親が「行きなさい」と言うのではじめたものだった。学校以外の時間はほとんど水泳をしていたかもしれない。


当時は周りと比べて、自分には運動の才能がない気がしていた。水泳をつづけるなかでいろいろ考えてみたものの、うまくなる芽は無さそうだ。そう思いながらも、母には従ってきた。結局、小学校から中学校、高校のころまで続けたが、正直いやいやだった。


運動系の習い事は苦手だったが、勉強は得意だった。公文では才能を発揮していた。


生徒たちがひしめき合う教室で、机に座っている。目の前には一枚のプリントと、鉛筆、消しゴム。鉛筆を握りしめ、問題文の最初の文字に目を向ける。見つめる紙と自分。世界が急に狭くなり、自分の体が目だけになったようだ。気づけばその問題と自分だけの世界。最後の問題を解き終えたその瞬間、周囲の音が耳に入ってくる。いまここに戻って来た。


先生に渡すと採点してくれる。また一枚プリントが渡され、新たな問題に向かう。


誰でも解けるような簡単な問題からはじまり、できるようになると徐々に難易度の高い問題へ。より速く、より正確に。力がついていくことを実感しながら勉強できた。


一人一人の進度は違ってくる。熱中すると止まらない。当時、たくさんの生徒がいる教室で、山口だけが誰よりも進むのが速かった。


「とにかく得意だったんです。一個のことへの集中力がすごかったのか。算数と英語が好きで、小学校のころに高校の数学まで進んでました。理解してたかというとそうでもない気がします。パターン化してやってただけで」


やればやるほど、どんどん難しい問題を解けるようになった。自分は勉強に向いているのかもしれない。面白くなって、さらに勉強にのめり込んでいった。それは才能だったのか。少なくとも達成感はあった気がしている。



小学生の夏休みは長い。


7月。日焼けした自分。空の青さも、木々の緑も一気に色濃くなったようだ。


暑さを感じる時間はどんどん長くなる。時間はたくさんあった。これだけの時間をどう過ごそうか。思う間もなく、はじまりが告げられる。


「夏休みのうちにプリントを500枚やりましょう」


家には、休み前に渡された紙の束が置かれている。生徒に解かれるのを、今か今かと待っているようにも見える。それくらいの存在感があった。


得意な公文。でも、500枚はさすがにクリアできない目標に思えた。無理なんじゃないか。束の上の一枚に触れてみる。頭の中には、数字と計算式が巡っていた。


この一枚。たとえば、30日で500枚を割ると、一日15枚ちょっとだ。それを午前と午後に分けたとすると、それぞれ7、8枚。午前に7枚、午後に8枚。それを毎日続ければ終わる計算だった。


「すごい覚えてます。途方もない目標だけど、分解して日々ちょっとずつやると到達する。続けていけば、そこまで行けるんだと思って」


大発見をしてしまったようだ。「E=mc2」。単純でありながら万物にあてはまる法則、アインシュタインの方程式みたいだった。


気づいたときの衝撃。達成したときの喜び。それを、いまでも強く覚えている。


分解して考えれば、大きく立ちはだかる目標も怖くない。その高さに惑わされることもない。目標は高ければ高いほど、達成したときの喜びは大きくなる。


「僕は山登りも好きなんですが、それもちょっと似てるなと思っていて。頂上は途方もない距離に見えるけど、一歩ずつ進んで行くとほんとに行くんですよね。事業やってても、スタートアップって目標は途方もないし、不確実要素の塊で、ほんとに行くかなと思うこともあるけど。それでも地道に日々のマイルストーンをやっていけば大丈夫だと」


一歩前に足を踏み出す。空高い山の上までは、長い長い道が続いている。遠くの道の先は、ぼやけて見えない。ふと目線を落とす。道を踏みしめる自分の足。その確かな感触に、人は安堵するのかもしれない。


目標を分解し、日々の行動に落とし込む。それを一歩一歩着実に進んでいけば、途方もない目標も達成できる。公文の勉強は、大切なことを教えてくれた。



1-5.  客観的な自分が見ていた「流れ」


中学の試験の成績は常に良かった。公文のおかげだ。


山口が通っていたのは、地元の普通の公立中学だった。勉強は特別厳しくもない。良い点数を取ることができれば嬉しかった。テストはいい。結果がシンプルにでてくる。100点には、あと何点足りない。そうとわかれば、もっと頑張りたくなってくる。勉強好きは父に似たのかもしれない。


クラスでは、いつも勉強ができるキャラクターだった。でも、勉強で目立つのは良いことばかりではなかった。


たとえば、学級委員になってしまった。自分は大勢を引っ張っていくようなタイプじゃない。そんなに言われるのなら……。主観的な自分を、もう一人の客観的な自分がなだめている。向いてないと思いつつ、周りから強く推薦されたから引き受けた。流れには従った方がいいのかもしれないと思っていた。


中学生になるころから、苦手な集団行動にも折り合いをつけられるようになっていた。そこにある流れには従っていた。


「対処法を覚えたんだと思います。本質的には組織に馴染みづらいけど、こうやってやれば大丈夫なんだろうと。はみ出ずに、なんとなく行く方法を見つけていたのかな」


目立ちすぎるのもよくないとわかってきた。望んでいないものを手にしてしまうこともある。無難にやっていくために、力をセーブしながら勉強していたこともあった。


「勉強をがんばって前に出ると、あとに引けなくなるというか。高校は、周りからも県内トップを受験してみたらと言われて、行ってみようかなと思ったんですね」


高校は、県内でも有数の特別進学クラスのある私立校を選んだ。受験の成績が良かったので、入学金も授業料も免除が受けられた。


自ら望んで選んだ高校ではない。でも、自分が評価する自分と、周りが評価する自分。なんとなく、客観的に見られている自分の方が正しいのではないかと、当時から感じていた。


「中学高校のころから、常にどっかに自分をコントロールしてる自分がいるような気がしていたんです。主観的な自分もありつつ、客観的な自分が一人いる。心理学の本とかもたまに読むんですけど、両サイドで見ているんですね」


客観的な自分は、いつも自分の頭上あたりにいる気がしている。彼は主観的な自分と、自分を取り巻く世界を見下ろしていた。


頭の中で、もう一人の自分の声がする。ときに彼は、主観的な自分とは違うことを言う。もっと広い世界が見えているからだろうか。その意見は正しいと思えることが多かった。


冷静に自分を見つめている二つの目。子どものころからずっと、山口のそばには、もう一人の自分の存在があった。



1-6.  白髪の高校生


4月。新しい通学路の先に、新しい学校の門がある。


ハイレベルな大学(つまりここでは九州大学)を目指すことが、そこでは共通の目的だった。その高校に入ってしまえば、基本は全員九州大学に行く。望み通りの人生が待っているはずだ。部活は禁止。あとは勉強するだけだった。


県内の優秀な生徒が集まっている。競うように勉強し、成績が飛び抜けたとしても困ることは何もない。


少人数制だったので、一学年は20人ほどだった。生徒も少なければ、先生も少ない。組織が小さかったので、人間関係も前より自由になった。大勢の集団なかで、周囲に合わせて行動しなければならないような感覚もない。心置きなく、全力で勉強に集中できた。


「高校は勉強一色でしたね。当時は将来のことは九大しか考えてなかったので、目標は明確でした。九大しかないから、変な思春期の社会に対する漠然とした不安みたいなものもなかったですね。勉強だけして、周りも勉強だけという感じ」


朝、学校に来て授業を受ける。今日もたくさんの宿題が出た。教科書や参考書がつまった重たい鞄を肩にかけ、友達と教室をあとにする。普通の高校生なら、放課後は部活だ。でも、ここでは違う。みんな、真っ直ぐ家に帰る。


家の勉強机に向かい、宿題を一つ一つ終わらせていく。夕飯を食べ、お風呂に入る。そろそろ寝る時間だ。体の赴くままにしてしまおうか。


考えないようにしていたが、そうもいかないようだ。まだ予習復習が終わっていない。


疲れた頭は、眠気を訴えている。靄がかかったみたいだ。浮かんでは消える思考の断片が、霞色の海を漂っていた。


布団を見たら、間違いなくその誘惑に呑まれてしまうだろう。でも、理性の自分は明日の授業と、そこにいる自分を想像している。……仕方ない。ゆっくりと机に向かい、もう一度ライトをつけた。明日も睡眠不足は確定だ。


「当時は勉強へのストレスで、白髪がすごかったんです。大学入った途端、黒くなったんですけど。高校生ってまだ精神的に未熟だから、目標に対するストレスがすごかったんでしょうね」


高校生ながら忙しく、時間に追われていた。やってもやっても、終わりが見えることはなかった。ふと鏡を見る朝。そこに映る自分の髪には、白が混じっていた。


何かがおかしくなっている気はしたけれど、当時の自分には説明ができなかっただろう。本当にやりたいこともわからなくなっていた。


九州大学に入る。幼いころから父に言われ、自分もそれを望んでいた。目標は明確だった。はるか高みにある目標だと思えたが、一歩一歩前進すれば大丈夫であるはずだった。立ち止まることもなく、振り返ることもない。


敷かれた線路の上を走るんじゃなく、自分で線路を敷きなさい。


先生からの言葉がどこかにあったのだろうか。自分で選んだ道だと思いこんでいたのだろうか。その言葉が教えてくれた反抗だったのだろうか。いまならわかる。敷かれたレールを走る人生は色を帯びてはいなかった。


学生生活は音もなく過ぎ去っていった。


高校生のころ。


1-7.  Windows95との出会い


報告したときの両親の顔は忘れられない。驚き、喜び、安堵。いろんな感情が入り混じった人の表情は、いまにもあふれ出しそうな何かをたたえていた。


九州大学原子力工学科に合格した。


家族は喜んでくれた。感謝もしている。勉強に打ち込んだ甲斐があった。入学できて、本当に、本当に嬉しかった。


九大は、その学科しか受けなかった。原子力を選んだのは、もちろん昔から好きだった物理の世界の影響だった。


「アインシュタインが大好きで、宇宙とかそういうのが好きだったんです。それを突き詰めてくと、原子があってクオークがあって素粒子がベースにあって。結局、宇宙でも起こってるし、ミクロな世界でも起こってる。ミクロな世界と宇宙って両極端だけど、原理的には同じものがあってとか、そういうのが好きだったんです」


現実世界の事象を、極限まで突き詰めていく。高校生のころも、宇宙物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の本などを読み漁っていた。物事の根源や真理を追究する。そんな世界が、どうしようもなく好きだった。


歴史上、さまざまな学者が構築してきた物理学の理論を現実世界で活かせている。それが、原子力という領域だった。しかも、その研究室がちょうど九大にあった。どこか運命的なめぐり合わせだ。





広大なキャンパスに、堂々たる学び舎が連なっている。たくさんの学生が行き交い、歴史と先端が集うアカデミア。九州に生まれた人なら誰もが誇りに思うだろう。


しかし、入学してすぐに専門的な勉強ができるわけではなかった。1年生のうちは、教養科目の単位を取らなければならなかった。やりたくもない体育や、たいして勉強しなくてもいい無難な授業を受ける。意味はあるのだろうか。大したことないな。別に行かなくてもいいかもしれない。


九大に入ることが、それまでの人生のすべてだった。その先に何があるかなんて考えたこともない。考える必要があるとも思っていなかった。一つの目標を達成し、次の目標は見つかっていなかった。いままでの猛勉強の反動もあっただろう。無気力な大学生活。何もする気が起きない。


時間つぶしに、博多のちゃんこ鍋屋でバイトした。さらに、アトピーの持病も憂鬱な山口に輪をかけていた。


しかし、考えてみれば、自分には勉強しか取り柄がなかった。


こんなに自分が小さいやつだとは気づいていなかった。知らず知らずのうちに、親や周囲に決められた枠の中で生きていたことを自覚した。


「九大に受かったから、両親は万歳だったと思いますけど、いま思えば狭い目標ですね。子どもができたらそういう感じにはしたくない。古いですよね。九大入ったら人生全部OKみたいな」



日々は無味乾燥だが、単位は取らなければならなかった。重い体を引きずって、大学へと向かう。今日の授業は何だっただろう。適当に選択した教養科目は、いちいち覚えていられなかった。


指定された教室へ。足取りは軽くもない。今日も過ぎていくだけの時間を過ごす。それでもその日は違っていた。


扉を開くといつもと違う空気を感じる。そこには、ずんぐりとした白くて四角い機械が並んでいた。山口が入学したのは1995年。ちょうどWindows 95が世に出たタイミングだった。大学にも、当時最新のデスクトップパソコンが導入されていた。


授業のはじまりを告げるチャイムとともに、「自分のホームページを作ってみましょう」と、教授が言う。黒板やホワイトボードに向き合う講義とはなんだか様子が違っている。一人に一台、一つの画面。パソコンを触るのは、人生で初めてだった。


仕組みはよくわからないが、言われたままにキーボードを叩いていく。たどたどしい指の動きが自分でもおかしくなってくる。少しの文字を打ち込むのにも苦労して、最後にやっと「Enter」のボタンを押した。


「ようこそ、隼也のホームページへ。あなたは●●人目の来訪者です」


いま思えば、かけらも洗練されていない。でも、それは衝撃だった。思わず画面に目を近づける。この機械はなんだ。指先で自分のアイディアを形にできるのか。人生で感じたことのない感動と興奮が、全身を駆け巡っていた。


授業をきっかけにHTMLを学びはじめた。たまたま原子力の研究でもシミュレーションが必要になり、Visual Studio*を使ってソフトウェアを開発するようになった。気づけば夢中になっていた(*ソフトウェアを開発するためのMicrosoft社製の総合開発環境ソフト)


「Visual Studioの最新バージョンが出たときに、旧バージョンのVisual Studioで作ったと書いてあった。『自分自身で自分自身を進化させるって、そんなことできるの?』と思って、すごいわくわくしたんです。言葉は悪いけど、神になってる感じですね。自分で何でもできるんだと思いました」


突如として出会ってしまったITの世界。何でもできる。いつしか原子力への興味をも上回るほど、心をつかまれていた。ちょうどそのころは、原子力という技術の未来にも疑問を持ち始めていたときだった。


「原子力業界自体、当時からちょっと先が怪しいなと思ってたんです。やっぱり放射能が結局どこまでいっても付きまとう問題で。できるだけクリーンにという方向でやってはいたけど、本質的に人類と放射能は心理的に合わないなと思っていて。感覚が相いれないなと」


放射能が人体に及ぼす危険性は、ある程度は技術で封じ込められる。技術を使う側はそれを安全と言うけれど、絶対なんてない。誰もが「これはいいね」と思って伸びる産業ではないと思えていた。地球におけるエネルギーの問題上、必要だから受け入れるしかない。後ろ向きで伸びる産業ではないだろうかと感じていた。


人々の暮らしに求められ、歓迎される技術。そうは言いきれない部分が、山口の心には引っかかっていた。


「地球温暖化問題を考えると、石炭石油に依存していられない。だから原子力が必要になる」と語る人もいた。しかし、ただ原子力を使うための言い訳ではないのだろうか。なんとなく面白くない。


将来自分が突き詰める領域として、原子力は適切なのか。道の先は暗やみで、足元まで暗雲に包まれているようだった。


原子力よりもITへ。未来が暗闇に包まれているように思える技術より、まさに新しい価値を生み出そうとしている技術へと関心は移っていた。Windows95との衝撃的な出会い。それは、自分で敷く線路の始まりの場所に位置していたのかもしれなかった。


大学では核融合の研究をしていた。茨城の原子力研究所へ実験データを取りに行き、それをもとにシュミレーションして反応を見る。ビッグデータを扱うという点で、現在の事業にもつながっている。


1-8.  リセットの旅


現状を変えたい、このままではいられない。


一度考えはじめると、どこまでも深く考えてしまう。何かせずにはいられなかった。未来を決める就職活動も目前に迫っていた。新しく見出した自分の将来に向けて、このままでは太刀打ちできないだろうと感じていた。


振り返ってみれば、ただ敷かれた線路の上にいただけだった。


「九大に行きなさい」と言われて、九大に入った。「卒業したら、安定した会社のサラリーマンや、官僚になりなさい」。その道に進むものだと思っていた。


原子力工学の研究室は、受動的でも引く手あまただった。何もしなくても九州電力への就職が決まっているようなものだった。そこにさえ入ることができれば、将来のキャリアも年収もある程度約束されていた。


レールに乗せられて、自動的に運ばれるだけの人生。それは自分で敷いた線路といえるのだろうか。でも、そこにはこれまで信じてきた人生の正解があるはずだった。


卒業生の姿に自分を重ねてみる。正解だと思っていた道に思いを馳せてみる。残念ながら、未来、自分の心に情熱が灯ることはなさそうだった。


「僕はそこに疑問を感じはじめて。大学3年の就職活動のタイミングでこれじゃないと。自分を変えようと思って、休学して1年くらいオーストラリアとかニュージーランドにワーホリに行ったんです」


これまでの自分の価値観を一度リセットしたかった。本当に自分が興味のある世界を突き詰めて、新しい線路を敷いていく。そこに広がる景色を見てみたかった。


狭い自分の世界を抜け出したい。自分に道を切り開いていく力があるのかなんてわからなかった。そう考えたとき、幼いころ触れていた地球儀が浮かんできた。地球にはこんなにもたくさんの都市がある。父が好きだった英語や海外。自分も世界には興味があった。


すべてを持たず、ゼロの自分で海外に行ってみよう。


伝えたときの両親の顔。衝撃の一言だっただろう。でも、その選択が自分には一番しっくりきた。


働きながら留学できる制度を利用して、現地でヒッピーのような生活を送ることにした。日本では最低限の安定した暮らしが保障されている。本当に何もない知らない土地に、体一つで行ってみて、どれだけ自分が生きられるのか試してみたかった。


現地で働いていた農場にて。


ろくな知識もお金も持たず、オーストラリアのブリスベン空港に降り立った。


飛行機で約10時間。日本との時差は2時間だというが、そもそも時差という感覚がよくわからない。夢と不安がない交ぜになった自分が、異国の鋭い日差しを体中に浴びていた。


初めての海外。いわゆるバックパッカーというやつだ。現地に貧乏旅行者用の宿があるのを知っていた。携帯もスマートフォンもない時代、初日の宿くらいは事前にパソコンで調べておいた。


宿泊先は、韓国人など東洋系の顔立ちが多かった。一日でこんなにたくさんの人種と出会うのも日本ではありえない。みな観光ではなく、出稼ぎだろうか。安宿なので、お金を稼ぐために来ている人が多いようだった。


宿の壁には日雇い仕事の募集が掲示されている。朝7時。労働者をピックアップするバスがやって来る。言葉を交わさず、静かに人が乗り込んでいく。自分もその列に並んだ。


アスファルトで舗装されていない道を連れられて、農場にたどり着く。そこではトマトやズッキーニを収穫するのが仕事だった。地平線までどこまでも続いているかのような広大な農場。ここは現実だろうか。すべてが見慣れない世界の中で、かざした自分の手だけが存在を証明していた。


給料は一日数千円ほど。お金を手渡され、朝と同じバスで帰っていく。


似たような日々が数日間続いた。自分で農場を探して、肉体労働で日銭を稼ぐ。お金が少し貯まったら、ヒッチハイクで土地を移動する。


ときにはバックパッカーとして観光や遊びも楽しんだ。スキューバダイビングの資格も取ってみた。それほど海は美しかった。


労働を少し、移動して観光、また労働の繰り返し。充実していたが、楽しかったのは最初だけなのかもしれない。大変なことに見舞われることもあった。


自分を試してみる。リセットするには十分な経験だった。生きているリアルを実感できた。


「一通り生きられたんですね。家族がいなければ、20代30代の人生はどうなっても生きられるだろうなと思えました」


1年後、日本に帰る飛行機に乗り込んだ。不思議な気持ちだ。数時間前までは、南半球の大地を踏んでいたのに。何か自分に変化はあったのだろうか。見慣れた九州の風景、そこに自然と馴染んでいく自分。九州も違う顔で迎えてくれた気がしていた。


いずれにせよ、その1年の経験は人生で初めての転機になった。初めてのバックパッカー。世界に出ることは、やはり素晴らしかった。


現地でテントで過ごしていたときの友人たちとともに。


1-9.  言われて作るサービスと自分たちで作るサービス


2000年。大学を卒業したその年、ちょうど日本はITバブルに湧いていた。


就職活動では、原子力には行かないと決めていた。受けていたのはもちろん、もともと心を掴まれていたIT業界だ。


当時はまだ、GREEのような華々しいITベンチャーが市場をにぎわせるには少し早かった。WebサービスというよりもITシステムを作っている会社が中心で、山口が就職先として選んだのもSIerのウッドランド株式会社(現:フューチャーアーキテクト株式会社)だった。将来はSEになれたらと、漠然と考えていた。


「あんまり大企業に行くよりは小さめがいいなと思っていて。でかい組織だと自分は馴染みづらいんじゃないかと思って、自分が活躍できるのが許容されそうなところをいろいろ探して。(いまでこそ大きな会社になっているけど、)当時ちょうど良さそうだったのがウッドランドだったんです」


NTTデータなど大企業はたくさんあった。でも、あえて受けなかった。何でもやらなければならない環境の方が、実力が磨けそうだ。当時は自分を鍛えたいと思っていた。


SIerに就職したとき、その道の先が具体的に見えていたわけではない。いまのようにスタートアップという言葉もない時代であった。SEになり、技術を極め、PMのような管理職になって、さらに大きなプロジェクトを回していく……。そうやって昇進の階段を昇るのだろうか。その程度しか考えていなかった。


でも、望むところだ。ゼロから自分で線路を敷いていくと決めていた。



3年ほど働いたのち、同業の株式会社ハイマックスに転職をした。生保や損保の業務システムを作っているSIerだった。


あるとき社内で、新しい部署がつくられる。会議室に集められた4、5人のメンバー。そのなかに山口もいた。前に立つ上司の説明はこうだ。会社として何か新しいことをやらなければならない。ついては、君たちには新規事業を立ち上げてほしい。


よくわからない部署に配属されたと思った。でも、自由にやらせてもらえるらしい。なんだか楽しそうだった。


どんなサービスを作ろうか。仲間とアイディアをブレストする時間は楽しかった。以前はエンジニアとして技術ばかりに目を向けていたが、頭の動きから変わっていった。本屋に行ってもビジネス書を手に取るようになっていた。自分にとって、大きな変化だった。


世の中には、こんなにもいろいろなサービスがあったのか。初めて見る世界が、目の前に開けていた。


上司である事業部長とアメリカに出張し、現地のサービスを視察に行ったこともある。海外生活が長かった上司は、いろいろな人脈を持っていた。いま思えば、当時はほとんど遊んでいたようなものかもしれない。あれこれ言い合いながら、自分たちのサービスの骨格を固めていくことが楽しくて仕方なかった。


とある顧客が抱えていた課題から、新しい事業のヒントは見えてきた。その会社では、日本中の支店に動画で証券情報を送るのに、膨大なコストがかかっているという。容量の大きい動画ファイルを、端末同士で高速で転送できるサービスを作れないだろうか。(のちには情報漏洩が問題になった)ファイル共有ソフトの「Winny」など、当時はP2Pサービス*が流行っていた(*peer-to-peerの略。Peer〔同等の立場〕同士で通信をすることを指す。https://techacademy.jp/magazine/16239より)


自分たちのアイディアを事業として形にする。それに伴い、ホームページを作ったり、マーケティングも考える。初めての経験ばかりだ。いままでのように、クライアントの言われた通りにサービスを作り納品するのとは違う。そこにある苦労も、頭の使い方も。何もかもが全く違っていた。それがとにかく面白かった。


「面白さの根底にあるものはいまも同じで、いろんな人に影響を与えることですかね。自分がやったことが、すごく多くの人に影響を与える。本質的にわくわく感があるところです。理屈じゃないんだろうなと思います」


結果的に、プロジェクト自体は失敗に終わってしまった。いま考えれば、顧客のニーズと合っていなかったのだろう。サービスは売れなかった。


とにかく未熟だった。自分には経験が足りないと痛感した。ただ、自分で作ったサービスを世に出すという行為がこんなにも面白いものなのだと知ることができた。


部署は解散となり、仲間もばらばらになった。みな会社を辞めてしまった。自然と自分も、次の新天地を探そうと考えていた。当時はまだ、起業を考えていたわけではない。


ただ、気づいた楽しさがある。言われた通りにサービスを作るのではなく、自分たちの思いでサービスの未来を描いていく。それが人に影響を与える。自分が生み出したものを通じて、社会とつながっている感覚がする。その感覚が何より面白く、心が求めていたものだった。



1-10.  イプロス、起業


自分たちのサービスを開発している会社で働きたい。紹介を受けて新天地として選んだのは、株式会社イプロスというキーエンスの子会社だった。


入社の理由はキーエンスの文化や仕組みに興味が湧いたこと。またエンジニアの開発力を見て、ここなら自分が活躍できそうだと感じていたからだ。当時は、ずっとそこで働きつづけるつもりはなかったが、起業するつもりがあったわけでもなかった。


そこでの仕事は、製造業の技術者を対象としたデータベースサイトの開発・運用だった。


「直接ユーザーサポートにユーザーの声が届いたり、作っていて何かあると広告に直接影響があったり。SIerでは仕様書に基づいて作ってるだけだったから、やってる感がありました」


サイトにはさまざまな声が寄せられる。すぐに、手に取るようにわかる。自分ではユーザー目線で考えているつもりでいても、意外な部分を指摘されることもある。彼らにとって使いやすいサイトとはどうあるべきか。必死にユーザーの心理に立って、サイトに反映していく日々は面白かった。


しかし同時に、限界を感じていたことも事実だった。


「僕は製造業のエンジニアじゃないから、ユーザーの本当の気持ちはわからなかったんです。『製造業の技術者だったらこういう検索しない、見せ方しない』とか言われるけど、最後はそこが難しいなといつも思ってたんです。ほんとのお客さんは先の先にいたりするから。開発者として、そこが結局ネックになると」


自分自身ユーザー目線に立って作れるからこそ、ピンポイントで刺さるサービスを作れるのではないだろうか。エンジニアとして、そんなサービス開発に携わるべきではないのか。


開発者として、サービスには細部までこだわりたい。職人としてこだわりをもつ父と祖父の遺伝子に引かれたのだろうか。ユーザー体験を突き詰められないもどかしさ。経験したからこそ、心に湧いてきた思いだった。


その後、イプロスでは最終的にCTOを務めることとなる。


当時は海外出張が多かった。現地では通訳も使うが、どうもまどろっこしい。当時の自分のTOEICスコアは500点台。海外に住んでいたこともない。社会人人生で初めて、本格的に英語を学ばなければならなくなった。


「ビジネスで英語が必要になった方のために」。巷には英語学習用の教材があふれている。さまざまな本やアプリを試した。どれも学習効果の高さを謳っている。でも、なかなかしっくりくるものには出会えなかった。自分だったらもっとこうするのに……。英語学習者の立場になって考えてみればわかるはずだ。不満はたくさんあった。


自分ならば、こう作る。自分だったら、もっと良いものが作れるのではないか。


あるときから、そう考えるようになった。ユーザーとしての自分の気持ちよさを追求することが、間違いなくサービス向上につながっていく。この領域ならば、自分自身のユーザー目線を活かせるはずだ。思いは確信に変わっていった。


週末、仲間と集まり、アイディアを形にしようと模索しはじめた。しかし、本業の合間を縫う作業だ。自分も含め、どこか本気ではないと感じていた。気づけば優先順位が下がっていき、活動は宙に浮きはじめた。


週末起業ではおそらく難しい。やるなら本気でやらなければ、絶対にうまくいかないだろう。当時はスタートアップが注目されはじめた時期でもあった。調べていくと、自己資本で会社にお金を入れるだけでなく、VCから資金を調達するやり方もあるのだと学んでいった。


自分の心に尋ねてみる。この領域を本気で突き詰めたいみたいかどうか。


答えはイエス。思いを形にするため、山口は起業という手段を選ぶことにした。2014年、株式会社ポリグロッツは創業された。


「スタートアップをやっていると、『EXITとかしたあと次のことやるの?』とか言われるんですけど、自分がユーザー目線に立つことができて、自分の技術を活かせるものがほかにあるかな?と思うんです。あまり思いつかない。これが儲かりそうだからとか、僕はそういう視点じゃないんですね」


自分がユーザー目線に立って、自分が欲しいサービスを作ることができる。それが、スタートアップの最大の強みだと思っている。それこそが、人にとって本当に価値のあるサービスを生み出すことができる。


自ら人生の線路を敷いた先、まさか起業につながるとは思っていなかった。でも、その選択は間違いではなかった。むしろ自分にとって最良の手段だ。欲しいサービスを作り、より多くの人に影響を与えることができる。


IT。ワーホリ。新規事業。人生には、突然何かが大波のように押し寄せてくることがある。ときどきの流れに逆らわなかったことで、たどりついた場所があり、得られた経験がある。それがいまに繋がっている。


新しい世界は、いつだって自分を待ってくれていた。


起業の原点。当時、意気投合した英会話教師の熊田振一郎先生と仲間たちとともに。


2章 私のスタンス


2-1.  流れには逆らわないようにする


九州大学に入り、安定した企業に就職することが人生の幸せだ。そう信じて疑わなかったあのころ。もちろんそれも一つの幸せの形だ。でも、若いときの自分を振り返ってみると、見えていた世界の狭さに驚くことがある。


「学生も就活生も社会人も、目に見えない強固な枠の中で悩んだり、もがいたりしている人が、たぶんすごく多いんじゃないかと思うんです。本能的にそれがすべてだと思っちゃう。でも、ひとまず視点を変えてみると、『見ていた世界ってこれくらいだったんだ』と思えたりする」


なかなか一歩を踏み出せない。それは、島国であるという国民性も関係しているのかもしれない。私たちは、できるだけ村社会を守ろうとする遺伝子を受け継いでいる。アメリカのように、何かに挑戦し、うまくいかなかったら隣町に行けばいいとは考えづらいのかもしれない。


自分の限界がそこにあるかのように思えてしまうとき、そのラインから、一歩だけ外に踏み出してみる。外の意見を聞いてみる。それが道を開いてくれたり、自分の可能性を広げてくれる。結果的に、自分が関わる社会の可能性を高めることにつながっていく。


山口がこれまで実感してきた思いだ。自ら決めてしまった枠の存在は、外からの情報や客観的な意見を受け入れるからこそ気づくことができる。


「いまも大切にしてるんですが、(自分の外にある)流れには逆らわないようにしてるんです。決まったレールをただ歩くよりも、自分で作ったレールを行きたい。けど、流れには逆らわない。教育の事業とかやってると、『教育についてのポリシーはなんですか』とかめっちゃ聞かれるけど、あんまりそういうタイプじゃないんです。いままでそれでやってきて出会いがつながってきてもいるので、極力そういう風に思ってますね」


何が何でも自分を貫き通したい。何かそんな自分のポリシーがあったとしても、それは所詮、自分という枠の中で勝手に作ったものに過ぎない。外からの評価は、枠の外から自分を見ているものだ。だから、そちらの方が正しいと山口は信じてきた。


流れに逆らわない自分。良くとらえれば、芯がある。自分の中に柱がある。しかし実際には、自分とはこういう人間であると作りあげているだけなのかもしれない。それは、自分を守っているだけに過ぎない。


一つの場所に留まろうと固執するよりも、大切なのはしなやかさではないか。そこでは、枠の外から自分を見つめることができるだろう。自分を信頼し、流れにはいったん乗ってみる。合わなければ、そこで降りればいい。だから、自分の知らない自分に出会うことができる。



3章 ポリグロッツ


3-1.  “好き”を“学び”に


距離、時間、そして言語。テクノロジーが進化していくこの世界で、人々のコミュニケーションはさまざまな制約を越えていく。


あるときはインターネットを介して、世界中の人々とリアルタイムに会話する。あるときはまた、スピーディな自動翻訳により言語の障壁を感じずにやり取りできる。テクノロジーの進化は、コミュニケーションの進化であるともいえるだろう。


未来。コミュニケーションが進化するにつれ、人が本来根源的に持っている欲求、つまり「自らの脳で相手の言葉を理解し、表情を感じ、相手の気持ちを理解したい」という欲求が強まっていくと山口は考えている。


「テクノロジーが進化すればするほど、語学学習が必要になっていく。と我々は信じています。ポリグロッツは、テクノロジーと人の両面から語学学習に取り組んでいきます」


海外出張や旅行。英語が必要な場面がやって来て初めて、私たちは語学学習の必要性を痛感する。あわてて学習教材を購入するものの、往々にして勉強は続かない。忙しい毎日のなか、次第に語学学習への興味は失われていく。それを助長させる要因が、興味のない単語やリスニング、味気ない例文の数々にあるはずだ。


総合英語学習アプリ「POLYGLOTS(ポリグロッツ)」。同社のサービス構想は、そんな山口自身の数年間にわたる実体験から生まれたものだ。


人それぞれ、興味に基づいた情報収集ならば続けられる。だから「POLYGLOTS」は、ユーザー一人一人の好みに合わせたニュース記事や洋楽の歌詞などを読みながら、単語を学び、リーディングやリスニングも学ぶことができるよう設計・開発されている。


ユーザー目線にこだわり緻密に作りこまれたアプリ設計は、学習者にストレスを感じさせない。自分が何を学べばいいかわからない学習者には、AIが自動でカリキュラムを生成してくれる。楽しみながら英語を学び、気づけばそれが習慣化している。


山口自身が欲しいと思える機能を深く追求した結果、「POLYGLOTS」は近未来の学習ツールとなった。


ビジネスパーソンが気軽に学習し、世界中で活躍する日本人を増やしたい。英語力がハードルとなり、世界へ打って出ることを躊躇してしまう日本人を減らしたい。幼いころ山口が興奮した、日本人が世界で活躍する世界は実現できるはずだ。そんな思いを具現化すべく、ポリグロッツは設立されている。


日本と世界の架け橋となり、外国語学習が不要な世界を作る。同社が描く未来は、真の意味でコミュニケーションが進化した、より良い社会の在り方だ。



2019.02.27

文・引田有佳/Focus On編集部



編集後記


私たちはどう生きるか。


個人としての「生き方」が問われるようになった今。「生き方」を提示してくれる組織や集団に属する、という思考の時代は終焉を迎えているようである。集団に属していたところで、人生が保証されているわけではない。だから個人で人生を考え、自分で守っていこうという考え方が生まれている。


集団が守ってくれる前提ではないからこそ、自分が個人としてどう生きていくかを考え、自分で自分の生きる道を創り出していく。


今ではそれを生き様として体現するヒーロー達も現れ、「個人として生きる」というパラダイムの扉が確立したように思える。


集団から離れた個人が、「個人の生き方」の体現者として世にその存在を知らしめている。まるで、その生き方にこそ個人としての目指すべき「生き方」が存在するかのように、衆目の的となり、目指すべき成功者として語られることもある。


個人として「自分はどう生きるか」を問うてくれるきっかけが、今の社会には溢れている。しかし、その裏には憂慮すべき事象がひそんではいないだろうか。


「個人の生き方」の発信者に注目が集まれば、その生き方への憧れも当然生まれるだろう。憧れは独り歩きをし、憧れの表面(見えている)世界だけが個人において疑似体験されていく。受信者が発信者としてまた生み出され、自分個人の発信と小さな承認で心地よさを生む。気づけば、「発信」すること自体が目的となり、もしかするとそれが自分個人の生き方や自我であると誤認されてしまっているケースもあるのではないだろうか。


社会への自己の発信、誇示、主張が個人の気持ち良さとして生みだされ、それが目的となり積み重なっていく。それは、本質的に自己がなんであるかを問うことも、それに対して社会がどう反応するかも気に留めない状態を生んでいることすらある。社会がどう思うかを無視をした発信が世に広がるのも、それを考えれば摂理なのかもしれない。


今、私たちは、ただ漫然と自己を「誇示」し、それを自分の生き方だと思い込んではいないだろうか。正しく自己を俯瞰できているだろうか。社会、世の中、人の「流れ」に目を向けているだろうか。


かつて老子はこう説いた。


天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間。

吾是以知、無爲之有益。

不言之教、無爲之益、天下希及之。



この世で一番柔らかいものは、この世で一番堅いものを思い通りにすることができる。水のように形のないものほど、わずかな隙間に入り込むことができるのだ。

私はこのことから、自然のままであることの有益さを知っている。

言葉なき教えは、このような無為であることの有益さであり、この世でこれに敵うものはほとんどない。


―老子(『老子道徳経』第43章より)


水のように柔らかい姿であることが何事も思い通りにできる状態であり、何もしないことが世界で最もうまくいくという。


自己をただ誇示し生きるのは、世の中の大いなる流れを無視し、結果的に自分の立場を弱くしてしまうものなのかもしれない。社会の流れに合わせ流れていくことができる力こそ、本当の「自分」の思いを実現できる状態をつくりだすのである。


「自分がどう生きるか」を個人で考え実行していく潮流においても、なされる活動の表層よりもその深淵まで思いを馳せるべきではないだろうか。


山口氏は流れには逆らわず、流されて生きたいという。自然の流れ、社会の流れ、世界の流れ、自分の心の流れ。それは、流れを愛しているとでも言えるほどであるように思える。


祖父や父は造園で、大きな自然の流れを見て対話をしていた。その姿を幼い山口氏は見ていた。小学校のころ、集団でいるよりも1人でいたかったのも、流れを見て呑まれそうになったからだろう。九州大学に行くことが盲目的に敷かれたレールを歩くことだと気づいたのも、流れを観察するという行為の対象がより広い社会へと向いたからなのだろう。


流れに流される。それは決して、自分がない状態ではない。流れを観察しつづけてきたからこそ、どのように自己と社会の流れが対話し、どのようにそこに乗るかを心得た柔らかい自己をもっていると言えるだろう。


水のように柔らかく剛い山口氏の生き方は、私たちの生き方の未来の姿を提示してくれている。



文・石川翔太/Focus On編集部



※参考

池田知久(2019)『老子 全訳注』講談社.




株式会社ポリグロッツ 山口隼也

代表取締役社長

1976年生まれ。大分県出身。九州大学原子力工学科卒。放射性物質から出力されるビッグデータを用いた除染シミュレーションにおいて、原子力工学の学士を取得。ウッドランド(現フューチャー・アーキテクト)、イプロス(キーエンス子会社)にて、チーフアーキテクト/CTOとして、大規模システム、P2Pネットワーク、Ad-tech、ビッグデータ関連のサービス開発、設計、立ち上げに携わる。

https://www.polyglots.net/


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