目次

「場づくり」に求められる持続性 ― 熱源となる人や組織が、世の中をもっと面白くする

粗削りの言葉でもいい、「やりたいこと」より「どう生きるか」を定めよう。


世の中に熱源となる人や組織を増やすべく「場づくり」からきっかけを創出していく株式会社ヒトカラメディア。スタートアップ企業のオフィスプロデュースから不動産開発支援、地域活性化支援まで多数プロジェクトを手掛ける同社では、東京下北沢本社のほか徳島、軽井沢、島根にも拠点を構え、都市と地方での持続的な課題解決や価値の共創に取り組んでいる。


代表取締役の高井淳一郎は名古屋工業大学建築・デザイン工学科卒業後、経営コンサルティングを手掛ける株式会社リンクアンドモチベーション傘下(当時)だった株式会社リンクプレイス(現 株式会社ディー・サイン)にて新規事業開発に従事。不動産領域で新規事業を展開する企業を経て、2013年に株式会社ヒトカラメディアを設立した。同氏が語る「人の可能性」とは。





1章 ヒトカラメディア


1-1. 「都市」と「地方」の「働く」と「暮らす」をもっとオモシロくする


いつの時代も独特のカルチャーを形成し、実験的で型にはまらない街・下北沢。なかでも2022年3月に開業した「遊ぶ」と「働く」が融合する複合施設「ミカン下北」では、集まる人の感性と遊び心がぶつかり合い、火花を散らすかのように共鳴が連鎖する。


そんな創造的な「場」を作り、きっかけを生み出すことの意味について高井は語る。


「世の中の主役や主体的に動く人、熱源となる個人とかチームとか場所を増やしたいと思っているんです。ただ、結局人間は主観的なので、自分が最終的にどう思うかでしか物事って進まないし決まらない。じゃあ他人ができることは何かと言うと、きっかけを作ること、プロセスをより良くデザインすること、成功体験を作るまで伴走することだという風に思っていて」


2013年に創業して以来、ベンチャー・スタートアップ企業など成長企業を中心に働く場のプロデュースを行ってきたヒトカラメディア。オフィス選定・仲介から空間プランニング、施工など通常オフィス移転に伴うフローのみならず、同社ではときにクライアント企業の社員を巻き込んだワークショップをも実施する。


オフィス移転という機会そのものをチームビルディングや、組織にとって重要な価値観の言語化・整理、行動変容を促すきっかけに変える。ただ「かっこいい空間」を作るだけでは終わらない点が、同社が提供するサービスの特色であり強みでもある。


「たとえば、代表的なオフィス移転プロジェクトとしては、『働くヒトのライフスタイルを豊かにする』というミッションを掲げる株式会社OKAN様の事例があります。同社の場合、まずはミッションが表すのはどんな状態なのかという問いから始め、どんなアクションが増えるとそれが実現されるのかと深掘りしていって、最終的に落とし込まれたコンセプトが今も同社のバリューになっていたりします」


その場を使う人の言葉にこそ、大切な真理は宿る。正解を持っているのは彼ら彼女らであり、ヒトカラメディアはあくまでそれを引き出し発見するプロセスを伴走するに過ぎない。



同社が手掛ける場づくりにおいては、2つの明確な信条がある。1つは場に関わる人がみなWin×Winであること。もう1つは、稼いだお金・対価は感謝の総量を表すということだ。何より「場」の持続性を考えるからこそ、その場は未来まで見据えた思いの集積地となっていく。


近年同社では従来のワークデザイン領域に加え、ビルオーナー支援や不動産デベロッパー・電鉄各社との共創プロジェクト、地域における場づくりや人流創出支援など領域を広げつつある。


「結局これからの時代って今までのように一様に働ける場所だけあればいいのかというとそうでもなかったりとか、器を作る側のデベロッパーさんや鉄道会社さんも場の在り方をすごく悩んでいるんです」


1社の力では解決が難しい問題も、他社のリソースと組み合わせることで新たな可能性が拓かれることがある。


思いを持つ企業同士を繋ぎ合わせたり、誰かの「やってみたいこと」「やりたいこと」がほかの誰かと影響し合う仕掛けを作り、世の中に面白いことがもっと増えていく。熱源から熱源へ、循環が生まれるエコシステムを創出していきたいという思いがあるという。


今後の展望についても高井は語る。


「もっと深くいろいろやりたいですね。オフィスの移転など場づくりだけではなく、その後の運営まで関わっていくなかで生まれるものを作っていきたいですし、場所の開発としてもオフィスだけではなく商業施設とか、地域の人たちが主役となる場をいかに増やして作っていくかとか。ミックスコンテンツの時代だと思っているので、飲食店とサウナ施設とオフィスが同じビルにあったとして、それぞれ別々の体験とするのではなく1つの事業所が運営するからこそ生まれる体験を増やして、濃いものを作っていきたいです」


1つの場に役割を重ね合わせていくなかで、どんな構造体が生まれるのか分からない。けれど、未知の領域があるからこそ、人も組織も街も成長していく様は面白い。


都市も地方も、働くも暮らすも、厳密にはそこに境界線はない。あるのは人の思いであり、人生である。ヒトカラメディアは主体的に生きる人々の熱が相乗効果を生む社会を創っていく。


2022年3月、京王井の頭線・下北沢駅の高架下にオープンした新街区「ミカン下北」
同社は施設内コワーキングスペース「
SYCL by KEIO」の施設プロデュースと運営を担う
(京王電鉄社とヒトカラメディアの共創プロジェクト)



2章 生き方


2-1. 人の顔を思う


あるクリスマスの日にペリカン便で届いたスーパーファミコン。偶然つかまえたザリガニを自転車のかごに入れて走った道。なぜだか夢中になって、擦り切れるほど眺めた恐竜図鑑――。記憶を辿ればたわいもない幸せな思い出がいくつもよみがえるのは、大切に育ててくれた両親のおかげなのかもしれない。2人は昔から人が良く、愛情を注いでもらったと高井は振り返る。


「父親は呉服の商売をしている人で、母親はエレクトーンの先生で家で教えていました。2人とも基本的に人から好かれるタイプなんですよね。よく喋りますし、相手のことを気遣いますし、細かいところの気が利く人たちだったので、小さい頃からそういう姿は結構見ていたような気がします」


両親だけでなく、親戚一同で集まっても嫌味な人は誰もいない。なかでも母は決して人を嫌な気持ちにさせることはないと思える人だった。日頃全国の百貨店を飛び回っていた父と比べ、性格的な部分で母から受けた影響は大きいという。


「小学校の記憶でどこかの運動場に連れて行ってもらった時に、母親にジュースを買ってもらったことがあったんです。僕がそれをすぐに飲み干したら、母親が『もう飲んじゃったの?』とすごく残念そうな顔をしていたことをいまだに覚えていて。それ以来、人とごはんを食べに行くと必ず相手のペースを確認して僕が先に全部食べることはないようにしたりするのですが、相手に嫌な思いをさせたくないというベースができた原体験だったと思っています」


人の顔を思い浮かべ、その人の存在を大切にしたいと自然と思う。たとえば、食事をしているときは、作ってくれた人の顔を思い浮かべ味わうからこそ、雑に食べたり残したりしてはいけないと分かる。


どんなときも他者に対してリスペクトを持つ。幼少期、最も身近にいた両親はそんな姿勢を体現しているかのようだった。


幼少期、両親と妹と


もともと母方の祖父は、トヨタのデザイナーだったらしい。早くに亡くなった祖父の生前は家庭も比較的裕福で、家にお手伝いさんがいるような育ちの良い環境が母のルーツだった。生まれも育ちも名古屋の都会にある。そんな母が、岐阜県の田舎への引っ越しに前向きであるはずがなかった。


「元々名古屋で住んでいた家は社宅なので狭かったんですよ。弟と妹が生まれたので、僕が6歳になる時に岐阜県にある父の実家に引っ越したんです。結構そこがターニングポイントとしては大きかったように思っていて、うちの母親って全然嫌味がない人なんですが、岐阜は好きではなかったんですよ。やっぱりアイデンティティとして都会好きな人なので、その母親が岐阜に馴染まないんですよね」


当時から30数年経った今も変わらず嘆くほど、田舎暮らしは母の肌には合わないようだった。


都会から田舎へ、そして友だちが誰もいない土地へと移ること自体、子どもからしても大きな環境変化だ。加えて、常と異なる母の様子を見ていたこともあり、小学校以降の在り方に受けた影響は大きかったと高井は語る。


「母親がそんな感じだったので、6歳の子どもながらに僕も『染まってたまるか』という気持ちに自然となって(笑)。岐阜弁は使わないぞと、そのまま18歳まで名古屋弁で喋っていましたし、染まってたまるか精神のようなものが根本に形成された出来事の1つだったと思います」


右向け右と言われると、なぜそうしなければならないのかと疑問に思う。天邪鬼ともいえるが、反抗心のようなものがそこに芽生えている。マジョリティがどうだからという理由は、自分もそうする理由になりはしない。流れにただ流されるのを良しとしない自分のベースが形成されつつあった。


「小学校はみんなと同じタイミングで入学したので、転校生でもないけれど僕だけ1人県外から来たような感じになっていて。誰かと仲が悪いという話でもないんですが、最初から圧倒的なマイノリティ感があったんですよね。外から来てるのでクラスの中心というわけではなかったり、真面目なタイプだったので班長とか学級委員をやるけれど、みんなを束ねるという立場からは少し引いてる感じだったなぁと思います」


クラスの中心にいたいとは思わない。けれど、見て見ぬふりをしていられるほど確固たる自分があるわけでもなかった。


「勉強はできる方でも1番ではなかったり、運動は何かしらやっているけど2番手以上にはなれなかったり。ずっと何者でもないコンプレックスのようなものがあったんです」


鬱憤とした思いを抱えるほどではなかったが、心にどこか引っ掛かるものがある。毎日友だちと過ごす時間を楽しみつつも、いつからか何者でもない自分の存在が意識にあった。


家族旅行先の長野にて、父・妹弟と



2-2. 巨匠・岡本太郎の言葉が教えてくれた人生訓


小学3年生くらいの頃、偶然見たテレビ番組の映像が頭から離れなくなったことがある。ヨーロッパのどこかに残る、名前も知らない大きな橋だ。歴史ある建造物なのだろう。堂々たる風格を備え、重厚な手すりには装飾が施されている。見る者を圧倒するその姿に、なぜか心惹かれていた。


「自分が死んでも残るものがかっこいいなとか、それが人の役に立っているっていいなということを思った記憶が結構鮮明にあって。小学生なりにそれをどういう職業で表現すればいいか分からないじゃないですか。それで結局将来なりたい職業を『建築家』という言葉で卒業文集に書いたんだと思うんですよね」


目で見て楽しめる風景は、テレビで見た映像以外にもお気に入りがいくつかあった。隣町にある路地を抜けた先で見渡せる遠くの山々。家族旅行で訪れた長野にあった湖。風景画として絵に描き残したものは少なくない。特別絵が上手いわけではなかったものの、美術の成績は良い方だった。なかでもデッサンは特に評価してもらえたので、ますます好きになっていく。


建築家になりたいという夢も、同じように何かを表現したいという欲求から生まれたものだったのかもしれない。始まりは直感ではあったが、中学・高校とも変わらず将来の目標としてありつづけた。


「高校は地区で1番優秀なところに行って、建築家になるという夢もあったので理数科に入りました。結果的に中学で一緒だった友だちも何人かいて。小学校から続けていた剣道も強い学校だったので、それもよかったですね」


部活で選んだわけではなかったが、剣道部には地区大会のエースが集まっていたのでやりがいがあった。純粋な競技の上手さでは1番にはなれないものの、真面目さが評価され部長を務めたこともある。勉強に部活にと充実した毎日。しかし、染まらない天邪鬼な精神と何者でもないコンプレックスは変わらないままだった。


「中高になっても自分のポジションはあまり変わらなかったですね。クラスの取りまとめ役になる感じでもないですが、何か期待されて任されれば担う。前線に出るわけでもないですが、みんながそっちの方向に行くからそっちの方に行くようなこともない。理数科でも建築家を目指している人間はすごくマイノリティでしたし、それがいいなとも思っていたりして」


中学時代、剣道部にて


大学受験にあたっては、もちろん建築学科を受けるつもりでいた。とはいえ、生まれてこのかた東海地方から出たことがない身からすると、東京は遠い存在でイメージが湧いていなかった。


となると、国立大学の建築学科は名古屋大学か名古屋工業大学という二択に絞られることになる。前者はハードルが高かったため、名古屋工業大学を本命として受験して、現役合格を果たすことができた。けれど入学してみると、期待していたような高揚感は湧いてこなかった。


「名工大の建築学科って東海地方のなかでは1番優秀な建築系の学科と言われていて、優秀な人が集まっているんですよね。やっぱり賢いし才能あるし、(良い意味で)変態な人たちで。職人のように没頭して、ひたすらインプットとアウトプットを繰り返す。それを呼吸のようにやる人間が周りにたくさんいたんですよ。建築ってこうなれる人じゃないとなんともならないなと思いつつ、自分はそうなれる気もしていなくて」


優秀かつ貪欲な同級生たち。さらに、どうしても拭えない違和感があった。


「(今より若かりし頃で尖っていたなと思うのですが、)建築のことを『作品』と呼ぶ人が多かったんですよ。そこに違和感があって。結局、建築って本来は施主がいてその人が作りたいものがあって、だからお金も払われている。自分では実現できないからパートナーを探してお願いする構造のはずなのに、その人の存在を抜きにして『自分が作った』という切り取りで『作品』と呼ぶ感性がどうしても好きになれなかったんです」


みんなが口をそろえて建築を「作品」と呼ぶ。そんな空気にはどこか馴染みづらかった。当時は今ほどビジネス感覚があったわけでもない。もしかしたら、単にマジョリティに迎合したくなかっただけなのかもしれない。いずれにせよわずかな違和感は少しずつ大きくなって、結局大学1、2年のうちに自分は建築家の道には進めないという確信に変わっていた。


これから何をしていけばいいのか分からない。言い知れぬ不安と焦燥を抱えていた頃、友だちに1冊の本を紹介してもらった。


「19歳くらいの時に、友だちに岡本太郎さんの『自分の中に毒を持て』という本を紹介してもらって、それが自分にものすごく刺さったんですよ」


何をやるかではなく、どうあるか。人に好かれようと思うな。人生に甘えるな。常識や自分を打ち破り、行動せよ。芸術家としての岡本氏の魂が、一文一文から迸るようだった。


思えば昔から気遣いができるタイプでもあり、人の顔を思い気にかけるばかり、他者からの視線を考えすぎていた一面があったのかもしれない。自分という存在を定義するものは、うちから燃え上がる情熱であるべきだった。建築への憧れと挫折に揺らぎ、悶々としていた自分に対し、厳しくも熱く喝を入れてくれるような本だった。


「結局自分が何者であるかって、誰かに評価されるとかそういう話ではなくて、自分がどうありたいかで決めればいいんだと妙に腹落ちをして。そこから自分の意思が強くなったし、ものすごくアクティブになっていきました」


自分が何者であるかは、自分がどうありたいかで決めていい。そう思うだけで、強くなれるような気さえした。今はまだ何もない自分だが、その可能性は誰より自分自身が信じてみることにする。岡本氏の言葉に従って、興奮と喜びに満ちた自分なりの道を探しに行こうと決めていた。




2-3. ビジネスとカルチャーのあいだ


本に感銘を受けて以来、平凡な学生生活は様変わりしていった。


「小学6年生からずっと建築家になると思ってきて、19歳くらいで建築家じゃなくていいと思ったら、急に選択肢が広がるじゃないですか。なんでもあるなと思って、じゃあなんでもやってみようと思ったんです。怖いもの知らずな若者という感じで、ひたすらやったことがないことをやっていきました」


学生ながらビジネスに挑戦してみようと、気心の知れた仲間とテレアポして企業に企画書を持ち込んだり。可愛がってもらっていたアルバイト先のオーナーの紹介で、映像関係の仕事を引き受けたり(ちなみに映像なんて作ったこともない)。名古屋で1,000人規模のクラブイベントを開いたり、その過程では結果的に学生団体を4つほど作ることになった。


「ビジネスはオリジナリティが作りやすかったので面白かったですね。今でこそ学生起業家もいっぱいいますが、17、8年前くらいは名古屋でそんなことをやっている学生自体めずらしかったので目立っていたんですよね。とにかく与えられた機会と自分にできそうなこと、かつオリジナリティを持てそうなものにテンションが上がっていろいろやっていたような気がします」


最初の頃は同じく名古屋に来ていた小学校以来の親友がリーダーで、自分は2番手として一緒に活動していたが、就職のタイミングで親友が卒業。自分も内定をもらっていたが、いまいち就職する気が起きず休学という道を選ぶことにして、団体の代表として活動するようになっていった。


経営者と顔見知りになったり、仲間を増やしたり。交友関係とともに世界も広がり、同時にやりたいことに人を巻き込んでいく、その熱源に自分がなるとはどういうことなのか、実感値として分かるようにもなってきた。


「結果的にそれが自分の強みなんだろうなと思うんですが、割と自分がやると決めたことに対しては誰よりもコミットする方で。トップに立って『やるぞ』と引っ張っていくタイプというよりは、人の巻き込み方を考える方ですね。きちんと持続させるために、この人は何がやりたい人間なのかとか見たうえで、巻き込み方や役割設定を考えて動いたり」


自分がやることに期待してくれている人や、ついてきてくれる仲間たち。関わる人の顔を思うからこそ、どれも期待を裏切らないよう全力でやりきりたいと思う。目も当てられないような失敗の数々も経験してきたが、実績を少しずつ積み重ねていくにつれ面白い話が自然と舞い込んでくるようにもなっていた。


とはいえ、やることの規模が大きくなると、比例してタスクも雪だるま式に増えていく。最初は自分でいろいろやってはみたものの、当然思うようにいかないことも多かった。


何か大きなことを成そうとするならば、人に託すことや任せること、モチベートすることを避けては通れない。特に持続性を意識する場合、なおさら必要な視点だと分かってきた。


「建築学科の頃の話なんですが、よく地域の再生、地方の商店街の再生みたいなテーマを扱うことが多いんですよね。研究室でとある地域に行って、街づくりのイベントをやりますと。だけど、卒業となるとすぐ去っていく。やっぱり一緒に何かやりましょうと言われた側は夢見るわけじゃないですか。(もちろんそこから生まれるものもあると思いますが)やるなら責任を持って、きちんと持続する座組みとセットでなければいけないと思うようになっていきました」


大学時代、主宰した映像制作の学生団体の活動中


ビジネスでお金を稼ぐ面白さと責任を知った大学時代、一方で同時期には学科の親友の影響で新たな世界へと足を踏み入れつつあった。


「そいつがまた若くて優秀な変態かつカルチャーにも明るいやつで。学生だからお金はないんですが、アパレルのお店とかを好きで見に行くようになったんです。当時ハイブランドを扱う古着の店で『AZY:r(アズイル)』というお店があって、イワタトシ子さんという名古屋でそういうことを始めた走りの方がいて」


イワタさんは20代で自分の店を開き、一癖も二癖もあるような魅力的な個性あるカルチャー系の人々が集まる特別な空間を創りあげていた。さらにその後も映像作家やDJとして活動の幅を広げるなど、まさに「表現者」としての生き様の手本を見ているような、そんな気持ちにさせてくれる人だった。


「そういうアパレル系のお店で、お金もない学生なんて普通相手にされないじゃないですか。でも、その親友と無邪気に遊びに行っているうちに、イワタさんもあまりお客さんと仲良くなるタイプではないんですが、なぜか僕とそいつは気に入られて。お店の大掃除を手伝ったりしているうちに飲みに連れて行ってもらったり、その人をきっかけにいろいろなカルチャー系の輪が広がっていきました」


自宅でやる餅つき大会に呼んでもらったり、そこで出会った夫婦が経営する飲食店でアルバイトさせてもらったり。イワタさんを起点に出会う人の輪はみな、「稼ぐ」というより「自分らしく生きる」ことを大切にしている人たちであるようだった。


「やっぱりその後ろ姿はずっとかっこいいなと見ていて。当時はビジネス側とカルチャー側、両方見ていたという感じですね。ビジネスで恐れず突っ込んでいろいろやって身についた体感覚もありますし、本来的には自分はカルチャー側に属していると思わせてくれる人たちとの出会いも大きかったです。いまだに自分は表現者でありたいと思っていて、それで起業という手段を選んだりしているんですよね」


ただ稼ぐことが目的ならば、やり方はいくらでもある。思いがなくてもビジネスは成立するものだ。しかし、イワタさんをはじめとする人々の影響で、自分らしく生きる道として、やりたいことの表現としてビジネスをやりたいと考えるようになっていった。


憧れの背中を追いかけるかのように、ひたすらやりたいことを探すべく新しい挑戦へ向かいつづけた。


大学時代、企画実行した就活イベントの様子



2-4. 起業


将来何をやりたいのか。その問いの答えはいまだ見つかっていなかった。休学した2年間は自分自身の心と向き合う時間でもあった。


「休学して好きなことをやる時間をさらに延長してひたすらにやっていて。自分は何をやりたいのかと、2年ぐらい考えつづけたんですよ」


当時はモレスキンのノートを持ち歩き、ことあるごとに振り返りを書き残していた。なぜ自分はこれをやっているのか。そこから何を感じたのか。ぐるぐると巡る思考を文字にすることで、何かが生まれるのではないかと期待した。


「2年で2冊半ぐらい書きつづけて気づいたんですが、最新のページと1番最初に書いたことが一緒なんですよ。『あれ、なんか全然深掘りできてないな』と思って(笑)。結局やりたいことなんて見つからなかったんですよね。散々チャレンジした自負はありますし、散々悔しい思いや失敗や痛い目を見たこともある。これだけやってこれだけ考えて、同じこと言ってるんだと思って」


人一倍挑戦し、機会を逃さないよう全力で走ってきた自信はあった。同時に自分とも深く向き合ってきたつもりでいたが、「やりたいことは何か」なんて決められない人間なのではないかと思えてきた。


「ふとした時に急に開き直ったというか、『やりたいこと』をやるよりは『どう生きるか』ということの方が大事だなと改めて思って。どちらかというと『やりたいこと』はその時々の瞬間の話であって、根本的にはそれを定義しようとするから難しくなるんじゃないかと。当時の僕の拙い言葉でいうと、人生でやりたいことを決めるのではなくて、自分がやりたいことをやりたいようにやりたい仲間とやりつづけられる人生を送ろうと、自分に約束したんです」


無理にやりたいことを見つける必要はないし、「なぜ、やりたいのか」に囚われ過ぎる必要もない。一歩踏み出すために必要なのは、自分はどう生きたいのかという漠然としたイメージでも十分なのかもしれない。


ちょうどいろいろなタイミングが重なって、一緒に動いていた仲間と解散することになったことも転機となった。30歳までにまた集まろう。そう言い合って、気持ちも新たに各々の道へと進むことにした。


大学時代、企画実行した就活イベントにて


「当時は30歳までに起業しよう、年収1000万円にしようとその2つだけ目標にして、やりたいことをやれる自分になろうと考えていて。今この瞬間起業はできるんだけれども、まだ世の中に影響を与えられるような人間じゃない、起業しても小さくまとまって終わりそうだなということは直感的に分かったので、とりあえず修行しようと思って就職先を見つけて東京に出てきたんです」


とにかくやることにこだわりはない。成長できそうな環境を求め、就職活動は商社やベンチャー企業を中心にエントリーする。扱えるフィールドや裁量の大きさを見ながらも、最終的には相性のよさで意思決定した。


「当時リンクプレイス(現 ディー・サイン)という会社があって、リンクアンドモチベーションのグループ会社で今はMBOしているのですが、場をつくる会社に新卒で入りました。名古屋から東京に『起業するぞ』と言って来て、結構ギラギラしていますよね(笑)。それ自体ずっと公言していたので、それを面白がってくれる会社や先輩がいてくれたことが僕にとっては幸運だったなと思います」


企業からお金をもらう肌感のようなものは既に持っていて、自信もある。配属されたのは新規事業系のチームだった。ビルのオーナー向けに新しい商品を作る。決まっていることはそれだけで、最初はひたすらテレアポから始めることになった。


「好きなことを存分にやらせてもらったという感じですね。当時の自分はすごく生意気ながきんちょだったと思います(笑)。結局、誰のマネジメントも受けずに『相談したいときは自分で声かけます』とか言って。誰に言われるでもなく毎日始発終電で仕事する生活でした」


東京に来たのはプライベートを楽しむためじゃない。目的は明確だったので、とにかく仕事に明け暮れた。1年半ほどで事業部を立ち上げるまでやりきって、キリがいいタイミングでほかから声をかけられたので転職。次の会社でもまとまった結果を残したあと、きっかけに恵まれ27歳で起業へと踏み出すことができた。


「当時Facebookが日本ですごく流行った頃で、今だとご法度ですが繋がりのない企業経営者の方に一気に友達申請して、タイムラインで入ってくる情報を意識してがらっと切り替えたりしていて。そのなかで新卒で入った会社の人の繋がりで、組織のM&AやIPOのコンサルを十数件やられていた方が僕に興味があると会ってくれて、『お前面白そうだから起業を手伝ってやるよ』と言われて。もう1人、気の合う相方で支えてくれるタイプの友だちと、3人で始めることになったんです」


ヒトカラメディア取締役である田久保と


2013年、株式会社ヒトカラメディアを設立。どんな領域で事業を作るか考えはじめる。当初は移住支援という切り口で何かしたいという思いがあった。


「漠然と自分がどんなテーマで何をやるかと考えたときに、熱い人を増やせたらいいなとか、世の中の熱量を上げられたらいいなとか、人には可能性があるということを自分が身をもって体験していたのでそういう人を増やせたらいいなという思いがあって。移住って働く環境、生活する環境をガラッと変えなければならない。そういうきっかけによって志とか思いがある人、世の中に面白い生き方をする人が増えるんじゃないかと考えて、最初は安直に移住支援をやろうと思ったんですよね」


まずはリサーチが必要だと考えて、大学時代お世話になっていた先生に相談する。授業の一環として40人ほどの学生を連れ、移住で盛り上がっているといわれる複数エリアを訪問した。けれど、現地で見えてきたものは意に反し厳しい現実だった。


「結局10エリアくらい行ったんですが、Win×Winになってハッピーなエリアが当時は1つもなくて。盛り上がっていると言われているところも、町の人側は受け入れに対して消極的だったり。行政が頑張っているけれど、ほかに誰も協力してくれなくてあきらめて帰る人や村八分になった人の話も聞きました。僕が移住支援をすることで、不幸な人を増やすことに加担するかもしれない、それは無理だと思ってやめたんです」


移住というテーマは本質的じゃない。白紙に戻った計画を前にして、さらなる模索を続けるしかなかった。できることはなんでもやってみる。ちょうど一緒に起業した相方が宅建免許を持っていたので「不動産関係の相談に乗れる」とFacebookで発信してみると、不動産仲介の依頼が舞い込んだ。


「もらった依頼は基本的に期待以上で応える人間なので、正直不動産仲介なんて起業するまで1回しかやったことなかったんですが、全部考えてやりきって。その過程で、オフィスの移転ってきっかけとしてすごく面白いなと思いはじめたんです」


オフィスという場所をいかに選び、作り、どんな意味を持たせるのか。そこで生まれる熱量の大きさは、人や組織の可能性を左右するだろう。場づくりを通じてきっかけの価値を最大化することが、事業としてのあるべき方向性だと思えたところから現在へと続く基盤が作られていった。


自分らしく生き生きと働く人が増えること。伝播していく熱量が仲間を増やし、志に向かう足取りを加速させること。そのなかで誰かの生き様が熱く面白くなっていく。


ヒトカラメディアは、人や企業の情熱が交差する唯一無二の「場」を創出しつづける。


ヒトカラメディア軽井沢拠点にて



3章 やりたいことを探す人へ


3-1. 熱を込めてやりきると何か起こる


かつては平凡で何者でもない自分に悩み、マジョリティでは終わりたくないと葛藤しながらやりたいことを探した人生。うちから湧きあがる熱量の重要性を高井は語る。


「僕自身大事にしていることでもあるのですが、結局人間なので思いの傾く方向じゃないとなかなかパワーが発揮できない部分もあると思っていて。ただし、今思いの傾く方向にしか生きられないとなるとそれはそれで弱さもある。やりたいことをやるためには、きちんと自分がやりたいと思うことの輪郭を意識しながら、同時にどうやってスキルを磨いて力をつけていくのかということが大事になってくると思います」


誰しも好きなことだけやって生きていけるほど世の中は甘くない。資本主義社会のなかで成り立つものでなければ持続性もない。「両利きの経営*」という概念が叫ばれて久しいが、個人においても現在地から目の前に続いていく道と、未来へと跳ぶための道、どちらも大切に自覚的であるべきだ(*企業がイノベーションを起こすためには、既存事業の深化と新規事業の探索、それぞれを担う部門を両立させ、同時に追求していくべきとする概念)


脇目も振らず自分にとっての正解を探しても、永遠に見つからない沼にはまりやすい。未来に悩み過ぎず、まずは1度やってみるからこそ見えることがあるという。


「なんでも基本的にやってみるなかでやりたいことも研ぎ澄まされていくし、そういうプロセス自体は普遍だなと思っているので、そういうことを思いながら取り組んでいく人が増えて、結果的に主体的に生きる人とかチームが増えていくといいなと思っています」


やりたいことを先に明確にしようとするよりは、方向性だけ決めてやってみる。その過程で解像度も上がっていくし、繋がっていくストーリーがある。スキルが上がってできることの幅も広がれば、開けていく視界もある。何よりその方が面白いと、高井自身は経験から学んできた。


「圧倒的にやりきると何か起こるんですよね。僕が一番初めに『オフィスづくりできます、プロです』と少し見栄を張りながら言ってやらせていただいたプロジェクトでも、結果的にものすごく感動してもらえたことがあって。クライアントではメンバーの働き方が変わって業績も上がって、EXITするという目的まで到達できて、ものすごく感謝いただいたんです」


ただ普通にやるだけでなく、圧倒的にやりきっていく。1人の熱はそれ自体小さな火種だとしても、周囲に伝播したり相互に刺激し合う存在がいることで大きく燃え上がるムーブメントが生まれていく。だから、人の可能性というものは信じる価値がある。


「あとになって僕たちがバックオフィス部門を任せられる人がいなくて困っていた時にも、当時そのプロジェクトでクライアントだった人が転職活動すると聞いて声をかけたら、二つ返事でうちに来てくれて、それが今CFOの乙津という人間なんですよね。ほかにも京王電鉄さんと一緒に開発させていただいた『ミカン下北』も場づくりから運営まで入らせていただいて、異様なほどの化学反応が起こっていたりして、圧倒的にやっていくと何かが繋がっていくと確信しています」


やりたいことに具体性はなくていい。圧倒的に熱量高くやりきれば何かが繋がり、振り返ればそこに道がある。自ら仕掛けていくほどに、未来というものは想像もつかないほど面白くなっていくのだろう。



2023.4.20

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


かつて巨匠・岡本太郎がその感性を惜しみなく芸術に昇華させ、時代を越えて残るものを生み出していたように、個人の熱量というものは大きな可能性を秘めている。「芸術は爆発だ!」という名言で知られるその人のエネルギッシュな生き様を綴った本を読み、大いに影響を受けたという高井氏。


「やりたいこと」が分からず、悩んだ末に見つけた「どう生きたいか」という自分なりの答えだけを携えて、目の前の挑戦一つひとつを誰より熱を込めやりきってきた。結果として、たしかに自分の可能性は想像を超えていた。


だからこそ、ヒトカラメディアは人の可能性を信じ、さまざまな熱を持つ人の化学反応が促される「場」をプロデュースする。そこから何が生まれるかまでは未知数だ。だが、それが面白い。


はじめから完成図が決まった未来より、走りながら少しずつ明瞭になっていく形や色に心躍らせていく。もしかしたらその過程にこそ、人生の醍醐味があるのかもしれない。


文・Focus On編集部





株式会社ヒトカラメディア 高井淳一郎

代表取締役

1985年名古屋生まれ、岐阜県出身。意志を持って生きる人やその熱源を増やすべく、2013年5月に株式会社ヒトカラメディアを設立。影響の大きい「働く」というテーマを軸に、企業の成長や地域の持続的な課題解決を後押しする「場づくり」を展開。オフィス移転や遊休施設、開発に関わる多数のプロジェクトを手掛ける。時には自分たちも実践者となったり並走していくスタイルを大切にしている。下北沢オフィスだけではなく軽井沢、徳島、島根にも拠点を開設。

https://hitokara.co.jp/


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