目次

美容医療業界から始まる産業成長への布石 ― 行動と内省を経て「Punk」に生きる

何者でもないからこそ、無謀と愚直さが武器になる。


「これからの産業の成長プロセスを合理化する」というビジョンを掲げる株式会社メディカルフォース。同社が提供する自由診療クリニック向けオールインワンSaaS「medicalforce」は、予約・カルテ・会計・CRMといった重要業務を一元管理し、業務と経営の効率化を実現するツールとして展開し、2024年には「美容クリニック向けクラウド型電子カルテ導入院数」でNo.1のシェアを獲得※1。さらに、同年5月には、警備事業者向けオールインワンSaaS「警備フォース」β版をリリースするなど、培われたデジタル化の知見や顧客課題へのコミット力をもとに、再現性のある産業成長に寄与しようとしている。


代表取締役の大嶋翼は、16歳で高校を中退し、米国へ単身留学。ブリティッシュコロンビア大学経済学部を卒業後、人材関連ベンチャー企業にて法人営業、大企業向け営業組織の立ち上げを担う。その後フリーランスとしてインサイドセールス組織の構築や、SFA・MA導入支援に従事したのち、2020年に株式会社メディカルフォースを設立した。同氏が語る「思い込む力」とは。


※1 2024年1月期_指定領域における市場調査結果より
調査機関:日本マーケティングリサーチ機構
調査期間:2024年1月16日~2024年1月23日
調査・検証項目:美容クリニック向けクラウド型電子カルテ導入院数の実績調査
調査方法:ヒアリング調査
調査対象:美容クリニック向けクラウド型電子カルテを提供するサービス5社比較





1章 メディカルフォース


1-1. これからの産業の成長プロセスを合理化する


SNSの普及やコロナ禍といった追い風を受け、近年急速に台頭しつつある業界の一つに美容医療がある。その市場規模はここ10年で200%近くも成長を遂げ、2023年には5,940億円*とも推計されるという(*矢野経済研究所の調査より)。一時期のマスク着用や外出自粛など新しい生活様式を起点に、人々の外見に対する意識も変化しつつある。


近年ではいわゆる「整形」などの外科的施術のみならず、「ボトックス」や「脱毛」など肌を綺麗にしたり、悩みを解消する手段としても美容医療の認知が拡大。一方で、その需要に応えるべく急増するクリニック側の現場の業務負担や、競合と差別化するための経営など課題は山積みのままだった。


自身も患者として院内での情報連携不足を目の当たりにした経験から、ニッチかつ独占可能な空白を残す美容医療市場に、スタートアップとしての勝ち筋を見出したと大嶋は語る。


「最初は患者さんを管理するCRMなどがいいのかなと考えて起業したのですが、結局クリニックの患者さんの管理って、いわゆるカルテになるんですよね。じゃあ、カルテを作ろうとなったのですが、カルテを作っても課題は解決されないし、それだけでは価値を発揮しづらい。真の課題は、業務上使うツールが複数に分散されていることだったんです」


たとえば、予約情報をGoogleカレンダーで管理しているとして、患者からの電話で予約を受け付ける際「前回と同じでお願いします」と言われても、過去の履歴は電子カルテを見なければ分からない。診療後カルテに記録しようとする際には、予約情報を参照しながら一から入力し、会計時にはカルテを元に金額を打ち込み直す必要がある。


クリニックを運営する上で重要な予約、カルテ、会計を一体化して、一気通貫で管理できるツールがあれば、業務上の非効率を減らせるばかりか、患者の満足度向上にも繋がっていくはず。そんなアイデアから、自由診療クリニック向けオールインワンSaaS「medicalforce」は生まれた。


「保険診療だと『割引』という概念はないですが自由診療だと日常茶飯事ですし、ほかにもポイントをつけたり、『役務管理』と言って、たとえば脱毛6回コースのうち患者さんが何回終わったという管理をしなければいけなかったりする。そういった業界特有の複雑な管理機能にも、弊社のプロダクトでは対応しています」



起業直後は求められる機能があまりに膨大で、何から手をつければいいのか分からなくなるほどだったと大嶋は振り返る。最終的にはそれら全てを実装するという方針で機能を揃え、さらにはクリニックごとに要不要の意見が分かれる場合にも応えられるよう、細かい設定で仕様を切り替えられるという、現在のプロダクトが形となった。


「今後はより付加価値を高めていかなければいけないと思っています。血液検査をはじめとする検査系統との連携や、経営管理機能の強化といったことですね。結局『medicalforce』が今までの課題を解決したことによって、お客様の持つ課題のレベルがどんどん上がっているんですよ」


予約、カルテ、会計が一体となることに価値があったこれまでと違い、それが当たり前となった今では、より詳細な売上の分析や、成熟しつつある美容医療市場の中で競合に勝つためのマーケティング支援など、求められる機能は変化しつつある。


それら多様なニーズへの対応に加え、バックオフィスや採用などクリニックが持つあらゆる課題を解決していくことを目指す同社。将来的にはクリニックとエンドユーザー間のみならず、クリニックと取引業者など産業を構成するステークホルダー間の取引を支え、経済圏を構築していくという。


さらに2024年5月には、「これからの産業の成長プロセスを合理化する」というビジョンの実現に向け、新しく警備事業者向けオールインワンSaaS「警備フォース」を始動させたばかりだ。


「僕自身世界一の会社をつくりたくて、時価総額で世界一になりたいと思っています。業界などを絞ったら絶対に世界一には辿りつかないし、自分たちの選択肢を狭めるようなことはやりたくない。とはいえ、全く関連のない事業を突発的にやりつづけるというのもそれはそれで現実的ではないので、今やっていることを限りなく抽象化したことをやりつづけたい。そんな思いから、現在のビジョンは掲げられています」


一つの領域で培ったデジタル化の知見を、次の領域へ。顧客の成長の阻害要因となるものを取り除き、成長プロセスの合理化を別領域でも再現していく。メディカルフォースは産業の未来を見据え、たしかな歩みを進めている。




2章 生き方


2-1. 負けん気


日が暮れるまで外で遊んだ幼少期、いつもの駅前広場で集まるだけでなく、ときには山の中を駆け回る。みんなはやらないことをやってみたり、普段とは少し違ったことをしてみたり。何気ない変化が日常を楽しくするように、昔から刺激を求める方だったと大嶋は振り返る。


「結構いたずら的なことが好きだったので、小学校で先生に怒られた回数は学年トップだと思います。でも、結構平凡だったんですよね。友だちは多かったんじゃないかと思いますが、怒られること以外は本当に平凡な子どもでした」


当時は学校だけでなく、家でも何かと怒られてばかりいた。どうやら両親は社会に出てから苦労を経験し、同じ思いを子どもにはさせまいと、小さい頃から厳しくきちんと教育しようとしていたようだった。


「父親は大学を卒業して最初はホテル業界に就職したと聞きました。しかし、給料面やキャリアプランの構築に悩んだと聞いています。仕事の話はあまりしてこないタイプだったのですが、土日になると家で『静かにしろ』とよく言われて、リビングに行くと父親がずっと勉強しているんですよね。それは結構印象に残っています」


のちに父はいわゆるプロ経営者として複数企業を渡り歩いていくことになる。きっとそこには信じられないほどの努力があったのだろう。そんな父とよく会話するようになったのは、大人になってからのこと。当時はいつ怒られるかと怯えてばかりいて、自分の意思もあまり芽生えていなかった。


「今考えれば、大企業に入ったりエリートコースを歩んでほしいという思いは強かったんだろうなと思います。習い事とかも全然興味のないものをいろいろやらされたりして、たしか覚えている限り、空手、ピアノ、サッカー、英語、公文と塾ですかね。結局行ったふりをして行かなくて、あとからバレてものすごく怒られる。公文を除いて続いたものはあまりなかったですね。無意識では反発があったのかもしれないです」


小学校時代、友人たちと


小学校高学年からは受験に備えるべく塾へ通うことになる。毎日塾へ行き、夜まで勉強する生活からは逃げられなかった。言われるがままに中学受験に臨んだが、ただ時間が過ぎることを願っていた授業には身が入らず、第一志望には不合格。第二志望か第三志望だった中高一貫校へと進学する。


そこでは意外な発見が待っていた。


「中学校では、まず自分が運動神経がいいことに気づいたんですよね。入学してすぐに体力テストみたいなものがあるじゃないですか、それで学年1位になったんですよ。一気に自信がついて、もともとある反骨心とか負けん気みたいなものが開花して、あらゆるところで負けたくないとか、勝ちたいという感じになっていきました」


どうやら小学校では運動神経のいい人が偶然周りに集まっていたようだった。人並みだと思っていた自分の能力が順位として可視化され、思わぬ自信が湧いてくる。一度1位になったからには、そこから落ちたくはない。今まで眠っていたであろう負けん気が表に出てくるようになった。


「中学2年生の時に授業中の態度のことで先生に注意されたことがありました。当時は成績も良いとは言えないぐらいだったので、悔しさをバネにその日から死ぬほど勉強したら、今度は勉強でも学年も上位になったんです。それ以降、さらに自分の意思を強く持って行動するようになったと思います」


成績という結果が出れば何も言われなくなるだろう。そう考えてテスト前日は寝る間も惜しんで勉強するようになった。


本気で集中すると結果はついてくる。やればやるほど自信がつくと同時に、自分を突き動かすほど強く湧き上がるエネルギーがあることも初めて知った。




2-2. リーダーとして生きる


自信がついたことはよかったが、反面ますます先生には反抗的になっていく。中学3年になる頃には、学校へは行ったり行かなかったりする日が続くようになっていた。


「素行は良くないし、先生にも嫌われているし、学校行事とかも全然力を入れるタイプじゃなかったんですよ。当時は斜に構えていたんです。ある日学校に行かずに家で寝ていたら、友だちから携帯にものすごく着信が入っていて。なんだろうと思って出たら、当時僕が嫌いだったクラスメイトが合唱コンクールの指揮者に立候補したという話でした」


そのクラスメイトとの因縁は、体育祭から始まっていたものだった。


「クラス対抗で男女混合リレーをした時に、ある女の子がバトンを渡す直前に転んでしまったんですよ。結局それで負けてしまったんですが、終わった後にそのクラスメイトはリレーの選手でもないのに女の子が転んだことをいじっていたんです。それが僕はものすごく許せなくて。そのクラスメイトに指揮されるぐらいなら自分がやろうと思って、立候補したんです」


指揮者の決め方は、試験によるものだった。1~2週間後、音楽の先生の前で公平に指揮の試験をするから練習をしてくるようにと言い渡された。


純粋に指揮者としての実力で勝負する。音楽については何一つ知らなかったが、絶対に負けられない。吹奏楽部のリーダーのところへ行き練習方法を相談してみると、NHK合唱団のDVDがおすすめだと教えてもらい、言われた通り映像を流しながら毎晩指揮の練習に没頭するようになった。


「寝食を忘れて腕が筋肉痛になるまで振りつづけたら、初心者の割にある程度はできるようになったんですよ。結果的に指揮のテストでも僕が選ばれて。そこから合唱コンクール当日まで1~2か月、クラスのみんなを目標に向かって引っ張っていくという経験が楽しかったし、おそらく自分に向いているんだろうなと思えたんです」


中学の卒業アルバムより、指揮者を務めた合唱コンクールでの様子


どうせやるからには勝ちにこだわる性格だ。勝てるという自信もあった。指揮者として前に立ち、率先してみんなを巻き込んでいく。すると、はじめはやる気がなかった人さえ、少しずつ自分の自信とエネルギーに感化されていき、最後は全員一丸となり優勝を目指す空気感ができていた。


加えて、嫌いだったはずのクラスメイトの意見でさえフラットに聞き、素直に受け入れている自分がいる。優勝という全員共通の目標にフォーカスしているからか、今までの自分では考えられないような動きができることへの驚きもあった。


「新たな発見でしたし、結果として負けてしまったのですが、みんなには『指揮者が大嶋で良かった』と感謝されたことが嬉しくて。それをきっかけにリーダーとして生きていきたいと思うようになったんです」


当時イメージできたリーダーといえば、政治家か社長かの二択だった。政治家は性に合わなさそうだと考えて、必然的に社長として成功することが将来の目標になる。


やりたいことが明確になったとはいえ、実際はまだビジネスのビの字も知らない。今の自分に必要なものは学校の勉強ではなく、社長として成功するための勉強だ。そう思い、高校に上がるとともにますます授業には出なくなっていた。


「学校に行ったふりをして、ファストフード店に行ってひたすら本を読んでいました。社長が書いている本とか、そのときどきで話題になっている本だとか。一番記憶に残っているのは孫正義さんの本ですね。本当にすごい、負けられないなと思いました」


本を読めば読むほど世界は広がり、先を行く社長たちの姿を認識する。ますますその背中を追いかけたくなり、夢中で読書に明け暮れた。


そのうち授業に加えテストにも出席しなくなり、単位が足りずこのままでは留年という状態になったこともあり、高校2年の途中で中退を決意した。


「父親には『賛成も反対もしない』という言葉とともに、1回ちょっと頭を冷やせということで、将来やりたいこととか今の思いを紙に書き出してプレゼンするように言われたんです。それでやりたいことがきちんと明確にあるということと、大学には行くという条件で中退を認めてもらいました。その時書いた『世界で一番の会社をつくる』という目標は、今でも残っています」


やるからには一番になりたい。会社もそうだ。世界で一番の会社をつくり、先人にも負けないことを成し遂げる。自分自身で描いた目標を拠り所に、意志を持ち選んだ道を歩みはじめた。


高校時代、友人たちと



2-3. 渡米、挫折、そして内省へ


時間を完全に自由に使えるようになったので、大学受験に向けて準備を始めることにした。最初の2か月ほど集中し、私大文系の内容を一通りさらった。


「模試の点数は良かったのですが、途中でそもそも日本の大学に行くこと自体が自分には合っていないんじゃないかと思いはじめたんですよ。それこそ本は読みつづけていたから、経営者として尊敬する孫さんが米国に留学していたように、自分も日本ではなく米国の大学に進学することを検討しはじめて」


調べていくと、英語が話せない場合の選択肢は語学学校つきのコミュニティカレッジしかないと分かってくる。志望すれば誰でも入ることができ、2年間の学業成績と英語力、エッセイなどの試験を経て、3年目から編入できる大学が決まるというシステムになっていた。


そうと分かれば入学の手続きを進めるべく情報を集めていく。しかし、エージェントなどは利用していなかったため英語という壁に阻まれる。なんとか日本語版のサイトが存在する学校を探し、なかでも最も返答が早かったワシントン州シアトルの学校へ進学することにした。


現地に到着してからは、とにかく一旗揚げたい一心で、早々に「Startup Weekend」というビジネスコンテストに参加してみることにする。3日間の開催期間中、参加者はプレゼンからサービス設計、実際のアプリ開発にチームで取り組んでいく。学生のみならず現地の有名企業で働く社会人も参加する、リアルなスタートアップ体験ができるようなイベントだった。


「僕がプレゼンしたアイデアは全然採用されず、別の人のアイデアに乗っかる形になったのですが、そもそも英語力がないから初日の夜からディスカッションに一切参加できなくて。何を言っているのか分からないし、一言も発せないじゃないですか。仲間の輪に入れず困憊したのはいい思い出ですね」


初日の夜が終わった段階で、明日も行くかどうか真剣に悩むほど英語力は全く足りていなかった。しかし、「世界一の会社をつくる」と言って米国へ来たにもかかわらず、言語の壁に阻まれたとて、困難に立ち向かわなければ話にならない。


翌日からは、自分なりにできることを探していった。


「そこで分かったこととして、みんな結局頭で考えることは好きだけど、行動はあまりしないんですよ。彼らは盛り上がっているけれどユーザーの声を聞いていないと思って、一人で街中にインタビューしに行ったんです。それでその結果を持ち帰ってアピールしたら、急にみんなが聞き入ってくれるようになりました。投資家の人からも『絶対顧客とは話した方がいいからいいね』と褒めてもらえたので良かったですね」



シアトルで過ごす1年はあっという間に過ぎた。現地で馬が合う友だちができ、2年目から本腰を入れて勉強しはじめた。受験生のように集中して取り組んだ結果、選択肢を十分広げることができた。


「ワシントン大学というところに行きたくて、世界でもトップレベルの大学なんですが、そこを志望して入学許可は出たんです。でも、留学生の場合、米国のいい大学は授業料がものすごく高い。そこに通うのは経済的に困難で絶望していたら、カナダの大学なら半分ぐらいの授業料で済ませられると知りました」


探し出した編入先は、シアトルから車で約2時間、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュコロンビア大学だった。


進路も定まったため、夏休みには日本に帰国してインターンでもしようと考えていた。


「カナダは夏休みがものすごく長くいので、Wantedlyで見つけた後払い決済サービスのPaidyでインターンとして働きはじめました。今となってはPayPalに3,000億で買収されていますが、当時はまだ10~20人くらいの小さな会社で。全く有名ではなかったのですが、社長がカナダ人だったこともあり偶然目に留まったんです」


仕事というものに触れるのは初めてだったが、とにかくまずはやってみる。営業チームに入れてもらうと、テレアポから取れたアポの商談までの業務を一通り経験させてもらった。


「挫折でした。何もできないんだと。本当に最初の『お世話になります』ですら緊張して噛んでしまって。4か月くらい在籍していたのですが、何一つ結果を出せていない。結構衝撃でしたね。自分の中でこれまでいろいろ頑張ってきて自信があったのに難しいんだなと、少し自信を失いかけていました」


深く考えず飛び込んだ環境で、予想以上の衝撃を受けたまま大学に戻る。しばらく何をしていても、インターン期間中に経験した失敗やミスが頭から離れなかった。


「結局自信があるように見えておそらくなかった、あるように取り繕っていただけだったんです。本当に自信があれば『お世話になります』で噛まないじゃないですか。それが露わになったのがインターンでした。正直運動も勉強もやることが決まっているじゃないですか。単純作業の繰り返しはできたのですが、テレアポとなると、おそらく思考力が足りなくてできなかったんだと思います」


本気で頑張っても結果が出ない、自分の限界をまざまざと突きつけられたのは初めてだった。気合いや行動力は大事だが、それだけではどうにもならない世界というものがある。


いずれにせよ社長になる以上、営業ができないとは言えない。使い終わったテレアポのスクリプトを引っ張り出すと、食事や風呂など生活の中でも繰り返し唱えて練習した。失敗の数々を反芻し、次にやるならどうするか一つひとつ考える。少しでも前進するために、内省しつづけるしかなかった。




2-4. 起業


シアトルで過ごした2年間とはがらりと変わり、カナダの大学では周囲のレベルの高さに圧倒される毎日だった。ただでさえ英語力というハンデがあるうえ、周囲の努力量も桁違いに多い。当初はあまりに太刀打ちできなくて驚いた。


「コンピュータサイエンスの授業を受けたら隣に小学生くらいの男の子が座っていて、教授の息子が来てるのかなと思って話しかけたら『普通に通っている』と、年齢を聞いたら9歳だと言う子がいました。要求される学力のレベルも高く、今まで記憶詰め込み型の勉強をすれば大丈夫だったのが一切通用しなくなって、どうあがいても点数を取れない。毎日きちんと勉強していたのに衝撃でした」


難易度は高かったが、学んでいた経済学自体は面白かった。絡み合う因果関係を紐解き、ロジカルに分析していくと、事象の関係性や世の中の動きが理解できるようになってくる。


単純な暗記を繰り返す勉強とは全く違う、きちんと自分の頭で思考しなければ身につかない。日本語のサイトも駆使しながら短期間で基礎知識を詰め込むと、だいぶ授業にも追いつけるようになっていった。


「そこで結構自分の頭を使ったという感覚があって、その経験は今でも活きていますね。あとは、ものすごく読書をしました。当時はバスで大学に通っていたのですが、バスに乗りながら本を読んでいなかった時間は2年間で1回もないぐらい、家での時間も含めて月10~20冊を読みつづけた経験は財産となっています。インプットの仕方や知識は今なお自分の強みだと思っているのですが、当時集中して読書して良かったなと思います」


当時はビジネス本に限らず、歴史や経済、哲学など幅広いジャンルの本を手に取った。理想としていたのは、いわゆる「T型人材」だ。特定の分野への深い知見やスキルに加え、幅広く横断的な知識を併せ持ち、アナロジー思考によって創造的なアイデアを導き出せるような人材になりたかった。そのためには、圧倒的に知識や教養が足りない。


ある程度集中的に読書に明け暮れてみて、分かったこともある。直接的にインプットできる情報も価値ではあるのだが、それを読んで考えること、つまり内省の時間を多く持てるという間接的な恩恵も何より財産だと思えるものだった。



「大学を卒業して帰国して、その時もまだ起業できるという自信はなかったんですよ。それはインターンでの経験があったから、まだ通用しないだろうなという思いがあって。一度営業などで実践を積みたいなと思ったので、総合的に学べそうで営業が強そうな会社を探して、就職活動をしていました」


内定をもらった企業はいくつかあったのだが、入社を決めたのは、その間偶然インターンとして在籍していた人材系ベンチャー企業だった。


面接時から高い評価をもらえたのか、インターンにはやらせてもらえないような業務まで任せてもらい、結果もついてきた。前回のインターンでの挫折以降、繰り返した内省や読書や勉強など頑張ってきたことがどうやら身になっている。人も良く楽しそうに働いている姿に惹かれ、ここで経験を積みたいと思えたため迷いはなかった。


「爆発的に成果が出ました。入社して2日目に一人で商談したのですが、1件目から受注することができて『来た!』と思って(笑)。普通はどうせ新卒だから無理だろうと思われているじゃないですか。だからこそ絶対取りたいと思っていました。毎日9時から18時まで30分刻みで商談をこなすなかで、1日平均4件ほどは受注したため、営業にも自信がつきました


とはいえ、単調な繰り返しには飽きてくる。経験値を高めたいと希望を伝え、CS業務やエンタープライズセールス部門の責任者を担った。エンタープライズセールス部門はゼロからの立ち上げだ。対象は、業界内でもトップ100にランクインする企業群。何もない状態から6か月で受注件数を30件程度に拡大させた。その過程で、はじめは感覚的に売っていた営業も、自分の強みを活かせる型を手に入れていった。


さらに1年ほどが経つと、起業に向けていち早く踏み出したいという思いが募り、退職を申し出ることにした。


「一旦起業の準備をしながら過ごそうと思って、とりあえずフリーランスとして独立しました。Wantedlyで募集している求人に『業務委託で採用してください』とメッセージを送り、3つぐらいの案件を抱えながら1年ほど営業コンサルのような業務に取り組んでいました」


生活しながら日々目にするものをアイデアの糧にして、事業を考える。まず決まったのは、バーティカルSaaS*で勝負しようということだった(*特定の業界業素に特化したSaaSのこと)


「いくつか理由はあるのですが、まず米国にいた当時、2013年から2015年はSaaS絶頂期だったんです。日本だとSaaSという言葉すら浸透していない時期だったのですが、見ていていいなと思っていたことが一つ。それからSaaSは戦略もロジカルでプレイブックが分かりやすいところが自分の性に合っているなと思えたことですかね」


明らかに今後普及していく領域であるSaaS、とはいえホリゾンタルSaaS*で攻めるとしたら市場はレッドオーシャンになりそうだった(*業界をまたぎ特定業務や職種に特化したSaaSのこと)。大学時代に読んだピーター・ティールの書籍『ゼロ・トゥ・ワン』に学んだ通り、大きすぎず小さすぎない市場を独占することがビジネスの勝ち筋だという意識が染みついていたこともある。


いくつか候補となる業界はあったが、実体験ベースでの課題感もあり、なおかつ今後伸びが予測される美容医療業界が最適だろうという結論に至り、事業の方向性が定まった。


2020年11月、株式会社メディカルフォースを設立。世界一の会社をつくるという目標に向け、信じる価値を形にする一歩目を踏み出した。




3章 常識に抗おうとする人へ


3-1. 誰の心にもPunkさを


社会人経験が浅くても、業界経験がなくても、セオリー通りでなくてもいい。何者でもない人間が集まり、事業をここまで成長させることができた要因はただ一つ。メディカルフォースの事業が絶対にうまくいくと信じていたからだと大嶋は語る。


人から「無謀だ」と言われるような行動や意思決定も、逃げずに向き合い、思考と行動を止めない限りは現実になる。


「僕は生まれた日が大谷翔平と同じなんですよ。1994年7月5日、全部一緒で永遠のライバルだと思っていて。自己紹介で『大谷翔平に勝つために頑張っています』と絶対言うのですが、別に冗談で言っているわけではなくて、本当に勝てると思っているんです」


自身や会社にとって、なくてはならないこの精神性を「Punk」であると大嶋は表現し、同社のバリューとしても掲げている。


「Punkさとは何かと言うと、思い込むこと、折れないこと、やりきることという、この3つが揃っていることだと思っていて。僕はPunkさが全てのスタートアップ起業家や、起業家に限らず国全体が持つマインドとしてあるといいなと思っています」


目標の大小にかかわらず、達成を信じて疑わず思い込む心。自分の意思に対して一貫し、地道に仮説検証を進める姿勢。そして、現実を直視しながらも目の前のことを最後までやり抜くこと。そこにはもはや「思い込んでいる」という意識もなく、人が他人に何を言われようともブレずに真っ直ぐでいられる状態がある。


「Punkではない人って意思決定がブレるなと思っています。そんな人にとって、何かを思い込むことってすごく難しい。だとすれば、Punkな人についていくという意思決定を自分ですること、まず決めることだと思います」


思い込むことは難しい。根拠のない自信のようなものである。それなら身近にいるPunkな人についていくと腹をくくる、まずはそんな自分の意思決定に対してPunkであればいいと大嶋は考える。


「思い込みも別に『世界一の会社を作る』とか『大谷翔平に勝つ』とかそんなに大きいことである必要はなくて、たとえば入社して1年目で新人賞を獲りたい時に、自分ができると思い込む。それで仮に結果が出なかったとしても、頑張って愚直に目の前のことをやり抜けば何かしら自信になるから、その自信によってさらに夢が大きくなっていく。だから、Punkさとは才能が必要なものでもないと思います」


Punkさとは、決して限られた人だけが持つ才能ではない。思い込み、折れずにやり抜く。そんな経験自体が自信や成長に繋がり、さらに大きな目標へと向かえるようになる。最初はただの思い込みだったとしても、そんなサイクルが繰り返されるうち、人の可能性は常識を超え、どこまでも広がっていくのだろう。




2024.9.27

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


思い込む力は、誰もが平等に持つことができるものだ。今はまだ経験も実績も何一つ手元になかったとしても、ただ折れずに信じてやりきることさえできれば、どんな人にもチャンスがある。


いわゆる「信念」と呼ばれるものも、思い込みの一種なのかもしれない。歴史上さまざまな人の人生が証明しているように、たとえ常識から外れた道でも、貫き通して行動を止めなければやがて現実になる。


メディカルフォースではそんな精神性を「Punk」と表現し、バリューの一つとして掲げる。「Punk」さとは、きっと周りに伝播していくものなのだろう。誰かの自信が形となって証明されたとき、近くにいた人もまた勇気づけられる。はじめは点でしかなかった信念が、そうしていつしか大きな渦となり人々を巻き込んでいく。


目には見えなくても、互いを結びつけ強くする。そんな風に集まり一つになった多くの人の心こそ、途方もなく大きな目標を達成するために何より必要なものなのかもしれない。


文・Focus On編集部





株式会社メディカルフォース 大嶋翼

代表取締役

1994年生まれ。神奈川県出身。16歳の時に高校を中退し、アメリカに単身留学。その後、ブリティッシュコロンビア大学経済学部に入学する。卒業後は人材関連のベンチャー企業で法人営業、大企業向け営業組織の立ち上げ責任を担う。退職後はフリーランスとしてインサイドセールス組織の構築やSFA・MA導入支援に従事。2020年11月に株式会社メディカルフォースを設立。

https://corp.medical-force.com/

 

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