Focus On
林大貴
株式会社ココロミル  
代表取締役CEO
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or一人ひとりの生きる道にある可能性の芽を見つめよう。
世界の大量廃棄問題を解決すべく、小売業などが抱える「在庫」に着目したビジネスモデルを展開していくフルカイテン株式会社。同社の在庫分析SaaS「FULL KAITEN」は、従来の大量生産・大量廃棄により利益を生み出す業界構造を変え、AI予測による最小限の在庫と効率的な経営を可能にする。2022年には、アイスタイル社・WWDJAPAN主催の「Japan Beauty and Fashion Tech Awards 2022」Fashion Tech部門にて大賞を受賞するなど、来たるべき循環型社会やSDGsの達成に向け注目されている。
代表取締役の瀬川直寛は、慶應義塾大学理工学部機械工学科を卒業後、新卒でコンパックコンピュータ(現 ヒューレット・パッカード)に入社。以降、複数スタートアップ企業にてトップセールスとして活躍したのち、2012年にフルカイテン株式会社(旧 ハモンズ株式会社)を設立した。同氏が語る「生きる力」とは。
目次
一見安上がりなファストファッションも、その背景には大量生産・大量廃棄を前提とした業界構造があり、社会がある。環境負荷や労働問題に代表される小売業界の負、そして現代社会のツケを払うのは一体誰だろう?それは、私たちの子どもや孫など未来の世代にほかならない。
より少ない在庫で業績を向上させられれば、大量生産・大量廃棄自体の抑制に繋げられるはず。そんな風にもっと効率よく利益を生み出す方法について、これまで小売業界においてはあまり改善のメスが入れられてこなかったと瀬川は語る。
「今はどの企業も大量に生産しつつ、どうにか製造原価を低く抑えて少しでも利益を出そうというビジネスをしているのですが、本来そんなことをしなくても、きちんと在庫分析をすればもっと少ない在庫でも業績は良くなるんですよ」
在庫を利益に変える在庫分析クラウド「FULL KAITEN」は、EC・店舗・倉庫を問わず全ての在庫をAIで予測・分析し、商品力を見える化するサービスだ。
フルカイテンの調査によると、「在庫全体の20%の商品が粗利の8割を生み出している」利益構造が、アパレル・ライフスタイル企業にはあるという。残り80%の在庫を適切に分析し「販売力」をつけること、すなわち仕入れを抑制し、総SKU*数を減らしても同程度の粗利益を生み出せる状態をつくることができれば小売業の経営は改善する(*Stock Keeping Unitの略。受発注や在庫管理を行う際の最小の管理単位のこと)。
不必要な値引きや廃棄を防ぎ、今ある在庫で効率よく利益を生み出せるようにする。それが「FULL KAITEN」の存在意義である。
「少ない在庫で業績が良くなるということは、大量生産も大量廃棄も抑制されるということで、環境問題や人権問題に対しても一定の効果が期待できると考えています。よくいろいろな会社が社会的にこんな貢献をしますと掲げていますが、そのミッションが事業内容と遠かったりすることもあるじゃないですか。フルカイテンは事業としての提供価値と、社会に対する提供価値が表裏一体になってダイレクトに繋がっているので、そこが本当に面白いと思っています」
限りある地球の資源を大切に、小売業界のサプライチェーンに関わるさまざまな人や消費者の役に立つ。今より良い状態の地球を、子どもや孫やその先の世代のために残す。そこに自身の夢を置いていると瀬川は語る。
現状は完成品を消費者に売る小売業界、いわゆるサプライチェーンの川下に対して価値を提供しているが、今後の展望としてはさらなるビジネスモデルの拡張を描いているという。
「これから取り組んでいくのはサプライチェーンの川中、つまりメーカーや商社や卸売業界の企業に対し、生産量の適正化という価値を提供していくことですね。これを需要予測のSaaSで実現すべく、順次プロトタイプを作っているところです。来年にはきちんと事業として売り出して、2025年以降くらいに世界で展開したいと思っています」
既存の「在庫効率の向上」という価値に加え、「生産量の適正化」という2つ目の価値が社会に実装されることで、必要な商品が必要な量だけ流通するサプライチェーンへと変わっていく。それを同社では「スーパーサプライチェーン構想」と呼び、実現すべきビジョンとして掲げている。
そこでは移り変わりの激しいトレンドにも負けない在庫分析が可能となり、できるだけ値引きを抑えつつきちんと商品を売って利益を生み出せるようになる。
フルカイテンは、大量生産・大量消費・大量廃棄という生活様式に終止符を打ち、今ここにない未来へと社会を押し進めるインフラとして発展を続けていく。
持ち前の商売感覚で社会を見通して、ゼロからビジネスモデルを考える。ときには西日本で複数店舗を展開するリサイクルブティックを経営していたり、ときには通販番組向けに商品を探して提供する会社をつくったり。物心つく以前から両親は夫婦で事業を営んでいた。
小学生の頃はいわゆる鍵っ子で、あまり親の干渉を受けずに友だちと遊びまわっていたと瀬川は振り返る。
「宿題しなさいとか勉強しなさいとか、両親から何か言われた記憶がほぼなくて。むしろ一般の家庭よりはるかに自由に暮らさせてもらったような記憶がありますね。その後の人生もいろいろな転機があるんですが、親が決めたことなんてほとんどないんじゃないかなと思います。全部自分で決めているんですよ」
当時住んでいたエリアは奈良県内にある新興住宅地で、まさに切り拓かれつつある山の中腹にある町だった。今となっては家々が立ち並ぶ住宅街も、当時はまだ子どもの遊び場にはもってこいの自然の中である。
友だちと渋柿をボールにして野球をしたり、広場でサッカーをしたり。遊び方は無限にあって、その日は何をして遊ぶかを決めるのはいつも瀬川の役割だった。
「完璧にリーダーでしたね。ガキ大将的なことになっていました(笑)。ちょうど住んでいた場所が奈良市と大和郡山市の境目で、自分は大和郡山市側にいたんですが、山の途中に本当に小さな川が流れているんですよ。その川が市の境目になっていて、そこをまたいでどっちが入ってきたみたいな話で向こうの小学生たちとよくケンカをしていたんです」
相手の小学生たちに不足はない。それどころかBB弾ピストルやY字型パチンコ、花火など武器をもって攻め込んでくるのが常だった。仕方なくこちらは柿を手にして待ち構えたり、作戦を練って相手を追い込んだりして対抗する。一進一退の攻防は6年間続いたが、駆け回れる広い森や野山の面積が減っていくにつれ、少しずつ収束していった。
「本当に友だちと好きなことをしていただけですね。楽しかったですよ。戻れるなら1番小学校の時に戻りたいですね。それくらい楽しかったです。勉強はやらなくて、ひたすら冒険していました」
幼少期、奈良公園にて
家から小学校までは、子どもの足で40分はかかる。田んぼと田んぼのあいだをすり抜けて、細くて薄暗い林を抜ける近道を見つけたり。冬には池の水面が凍りついて、その上を友だちと渡ろうとして見事に真ん中で氷が割れ、ランドセルごと冷たい水の中に落ちたりしたこともある。
スリルと笑いに満ちた冒険の記憶は色褪せないが、なかでも大切な思い出は小学3年生から始めたサッカーにあるという。
「きっかけは小学校3年生の時、町にサッカーチームができたんですよ。チラシが家に入っていて、友達が行こうぜと言い始めてみんなで入ったというスタートです。小学校の卒業まで野球とサッカーどっちもやっていたんですが、サッカーの方が大好きで毎日やっていましたね」
朝は6時半に家を出て、いつものメンバー全員で小学校に集合する。学校が始まるまで泥だらけになってサッカーをして、休み時間も放課後もサッカーに明け暮れた。土日はチームの練習や練習試合に参加して、たまに休みがあれば隣の市といつもの戦いを繰り広げる。
運動神経に恵まれ純粋にスポーツが楽しかった。チームではキャプテンを務めて、先頭に立って練習した。サッカーが楽しすぎて、隙あらばボールを蹴っていたかった。きっと仲間も同じ気持ちだと思えるほどに、いつしかチームには絆が芽生えていた。
「小学校が畑とか田んぼに囲まれていたんですが、収穫の終わった畑とかってガタガタになっているんですよね。そこでいつも朝からみんなでサッカーしていたんですよ。道路にランドセルどーんと置いて、『ここでドリブルしたらめっちゃうまなんでー』とか言って。そしたら本当に足腰が強くなって、雪の日とか大雨が降ってる日の試合となると全戦全勝するようになったんです。晴れだとぽかっと負けたりする。『雨降れ!』と思っていましたからね(笑)。面白かったです」
新設のチームだったため、ほとんど同学年しかいなかったことも結束をより強くした。かたや試合の対戦相手には当然上級生がやってくる。小学生にとって3年の差は到底埋められないほど大きい。20対0なんて点差をつけられて負けることもよくあった。
しかし、畑での練習の積み重ねは着実にチームを鍛えていたようだった。
「本当によく覚えているんですが、5年生の時6年生のチームに3対0で勝ったんですよね。それまで1回も勝ったことがなかったチーム相手に。『俺たち強い』と、それですごく自信をつけて。そこからほぼ負けなくなったんです」
ぼろ負けが日常の弱小チームから、ほとんど負けなしの常勝チームへ(ただし、晴れの日に限っては例外もある)。勝利という結果には、たしかな進化の手応えがある。
自分たちが考え選んできた練習は間違っていなかった。そこにはむしろ自分たちで決めてきたからこそ、得られた面白さや自信があるのかもしれなかった。
楽しく充実していた小学校生活からは一転、進学した中学は荒れていて教師の怒鳴り声は日常茶飯事という学校だった。校舎のあちこちに吸い殻が捨てられ、突然爆竹の音が鳴り響く。学校全体として到底サッカーどころではない環境だった。
そんな雰囲気に飲まれてか、かつてのチームメイトも自分を置いてやんちゃになっていく。興味がなかったのでその輪には加わらなかったが、仲間意識は変わらずでたまに昔のように語り合うこともある。どうやらよくないことをしている自覚はあるようで、「がっちょん(瀬川の当時のあだ名)は入らんときやー」と言われれば、「おう、入らへんけどなー」と笑いながら返している。
彼らも情熱をぶつける先がなく、エネルギーを持て余していたのだろう。瀬川自身、中学は何にも興味を持てない3年間だったという。
「何をやるにも楽しくないから勉強する意欲もなくて。でも、中3の6月くらいですかね。中間テストがあるじゃないですか。あれが学年で下から11番目だったんですよ。内申点もあまりよくなくて、先生に『お前高校どうすんねん、行くとこないんちゃうか』と言われたんですよ。それはまずいなと、行ける学校がないレベル感なんだと思って」
高校受験が迫っている。先生に指摘され、はたと気づいた事実だった。このままでは高校も同じようにやんちゃな環境になって、またよく分からない3年を過ごすことになりそうだ。想像すると、途端に時間がもったいなく感じられてきた。
内申点は今から取り戻せない。それなら学力を上げるしかないと、猛勉強を決意する。中学3年分の勉強をやり直すのは容易ではなかったが、ただがむしゃらに机にかじりつき、なんとか中学最後の模擬テストでは学年で上から7番という順位を取ることができた。その成功体験が純粋に気持ちよく、もっと上を目指してみたいという思いに火をつけていた。
「どんな学校に行こうかなと考えるなかで、当時は大阪桐蔭高校が生徒の成績を上から順番に貼り出すということを謳っていたんですよ。いきなり7位に躍り出たことが気持ちよかった思い出から、妙な自信をつけていて。『よっしゃ、3年間ずっと上から1番になったろ』と思って、上には上がいるとかそんなこと考えもせずに入ったんです」
今とは違い当時の大阪桐蔭はまだ歴史が浅く、これから進学校を目指していこうとしている頃だった。教師は全員フリーランスで生徒の成績で評価されることになっていて、そのため先生はみな怖くて厳しい。宿題も1教科だけで鬼のような量が出された。
「こんな量で全教科出たら無理だと思って、先生に言ったんですよ。そしたら学校を信じてやれと言われて。それで一旦学校を信用することにして、出された宿題も一生懸命やったんです。だけど、入学して1か月後の学年統一の模擬テストを受けたら、なんと下から2番目になってしまったんですよ。その時から先生のことなんか信用できるかと思いはじめて」
中学時代
ちょうど時を同じくして影響を受けたものがある。織田裕二と石黒賢主演のテレビドラマ「振り返れば奴がいる」だった。対照的な性格の医師2人を中心に描かれる人間模様、何より医師という職業がかっこよく、回を重ねるごとに将来は自分も医者になりたいという思いが強くなっていた。
いろいろ調べてみると、どうやら医学部に進むにはかなりお金がかかり、少しでも学費を安く抑えようとするなら国公立大の医学部に合格する必要があるという。しかもそこは難関で、狭き門を突破するための浪人は当たり前の世界らしかった。
「ここで自分の中で2つが繋がったんですよね。学校の先生が言う勉強を一生懸命やったところで自分には効き目がないと。一方で医者になりたいのだけれど、難関でかなり勉強しなければいけない。それなら勉強に本腰を入れてやるぞと、医者になるぞと、ただし条件として先生の言う勉強はしないし、浪人生活なんて面倒くさいことはしたくない。だから、高校3年間の中でセルフで浪人生活をしようと決めたんです」
セルフ浪人の計画はこうだ。まず、高1と高2の2年間で高校3年分の勉強を終わらせる。それから残りの1年は浪人生活のつもりで自主的な受験勉強に全てをあてる。そのために時間割は自分で作り、テキストも自分で選ぶと決めたのだ。
「高校1年の夏前くらいから自分の時間割に則って、学校から渡された教科書は家に置いたまま、自分で決めた参考書をカバンに詰め込んで学校に行くんですよ。で、授業が始まっても自分の時間割で勉強するんです。先生は怒るじゃないですか。廊下に出されて。でもそこだけ我慢したらあとは廊下で座って心置きなく勉強できると。そんな感じで2年間過ごして、2年で3年分全部終わらせていました」
勉強法も自分なりに考える。入学当初、大量の宿題を課されてうまくいかなかった経験から、基本は同じ参考書を何周もして理解の質を高めることにした。
次々に違う問題を解いても学びが少ないが、同じ問題を何回も解いていると次第に別の解き方が浮かんだり、問われている本質にまで目が向くようになってくる。出題者が求める解答が分かれば、そのためのアプローチがよく分かる。より早く解くことを考える場合なら別のアプローチがいいと分かる。勉強そのものだけでなく、問いの本質に迫る思考能力が鍛えられた。
「公式1つとってもなんでこういう公式が導かれたのかまで考えたんですよ。公式って覚えるものになっているじゃないですか。でも、覚えるばかりじゃ応用が利かない。特に難関大学の問題になってくると、どのシチュエーションでどの公式を当てはめればいいのか分からなくなってくる。だから、公式が生まれた背景から勉強していたんですよね」
同じ問題を解くなかで自然と探究心が芽生えていたのだろう。受験の範囲だけでも膨大にある物理や化学の公式には、それぞれどんな理屈で導き出されたのかという背景が存在し、背景さえ理解できれば問題も解きやすくなる。そんな発見をして以来、数ある教科のなかでも数学や物理が特に面白く、物理は模擬テストで全国1位を複数回取るほどのめりこんでいた。
複雑に見える物事も、公式で表せばシンプルな数式になるという事実。そして、数式の裏にある背景や本質に目を向け、理解することの大切さを学んだ時間だったのかもしれない。
受験勉強は順調に進み、偏差値も78まで上げることができた。得意な物理はますます面白く、苦手教科にも真剣に向き合う。セルフで浪人するという初志を貫徹し、これ以上はできないと胸を張って言えるくらいやりきった3年間。結果的には、医学部への合格は叶わなかった。
「リアルな浪人生活はしないと決めて、本当に睡眠時間も削って勉強した3年間だったので、自分の中でももう悔いがなかったんですよ。だからまぁ頑張ったという歴史だけが残って、医者としての歴史は自分の人生にはないんだなという風に割り切ったんですよね。それで受かった大学の中では慶應義塾大学の理工学部が面白そうだったので、そこに行くと決めたんです」
特別大学でやりたいことがあるわけではなかったが、入学試験にはたしかな手応えを感じていたので勉強に関しては自信を持っていた。
「でも、いざ中に入ってみると、周りはこんなに難しいことをなんでこんな一瞬にして分かっているのかなという人ばかりなんですよね。びっくりしたんですよ。自分は必死に努力して、それでも分からない難しいと思っているのに、すらすら理解している人がいっぱいいて」
理工学部の同級生の進路といえば大学院へ進学し、研究職を目指す人が大半だ。しかし、この領域で自分の未来はないと入学早々に悟ることになった。
「そこで勝負しても勝ち目がない。だから、大学2年生ぐらいの時にはすでに大学院には俺は行かないと言っていて。その頃からもうビジネスサイドの職に就くと決めていましたね」
興味のある授業にはそこそこ真面目に出席しつつ、あとは友だちとサッカーをしたりして遊ぶ日々。当時はまだ携帯もなく、ようやくWindowd95が世に出たのが大学2、3年の頃だった。遊びと言っても居酒屋で飲むか、カラオケか、日吉駅前のバスターミナルで夜中にサッカーをするくらいのものだ。特別思い出に残る出来事があったわけではないものの、かけがえのない日常でもあった。
早々に勉強はあきらめてもいたが、唯一強い興味を惹かれた分野がある。
「理工学部の機械工学科というところに所属して、結構扱う範囲が広い学科なんですが、自分が興味を持ったのは熱力学という分野で、これが面白かったんですよ。これで世の中を表現できるんじゃないかと、そんなわけはないんですがそう思ったくらい興味を持ったんです」
特に興味を惹かれた「熱力学第二法則」は、いわゆる「エントロピー増大の法則」としても知られる公式だった。閉じた箱に何か物質を入れると、それは箱いっぱいに広がり決して戻ることがないように、エントロピーは無限大に発散する。「無秩序な状態こそ自然である」ことを表すその法則を、自分なりには「街中に捨てられた自転車」にたとえ理解した。
たとえば、どこかに捨てられた自転車のかごに誰かが空き缶を投げ入れる。ひとたびその状態がつくられれば、ほかの人も構わず空き缶を捨てていくようになるように、何かのきっかけで秩序が失われるとますます失われていく一方にしかならない。そもそも捨てられた自転車も空き缶ゴミも本来無秩序な存在なのだと、物理の法則を学びながら人や社会へ思いを馳せていた。
「人間はみんなルールを決めて、どうにかして秩序立って暮らそうとしていくじゃないですか。でも、本当はそれって不自然で、無秩序こそが自然だと。それを無理に抑えつけようとすると、本来無秩序なので変な反発が出てバラバラになっていくという社会現象があるのかもしれないなぁとか。中学時代やんちゃになった友だちは、有り余るエネルギーを校則とか強面の先生とか、もしかしたら親の教育とかそういうものでぎゅっと押し込められたから、正常な状態に戻ろうとして、あんな風になったのかもしれないとか、いろいろなことを考えるきっかけになって面白かったです」
この世の中で起きているあらゆる事象、たとえばそれが人の思いや行動に関わることでさえ、自分の好きな物理の方程式で導かれうるものなのかもしれない。そんなイメージの広がりが面白く、不思議と心惹かれる自分がいた。
***
「それで大学3年から熱力学の研究室に入って。やっぱり自分は方程式とかが好きなのに、実験チームに配属になったんです」
大学の研究室では何かしらのチームに所属して、そこで行われる研究活動について自分の論文を書いていくことが一般的だ。しかし、当時所属した研究室で行われていた実験は、既に誰かが書いた論文の内容について実験で検証し、あくまでそのなかに新たな切り口を見つけていくというものだった。ゼロから自分で考えることに慣れていた身からすると、あまり興味を持てない作業である。
「実験は面白くないと。そうなると、ちゃんとやらないじゃないですか。あっという間に教授にクビにされたんですよね。『お前実験チームええわ、クビや』みたいなこと言われて。1冊だけ何年も前の卒業生が書いた論文をぽんと渡されて、『お前はちょっと1人でこれをやれ』と言われたんです」
大学院にも行かないのなら、残り2年間の学生生活はそれに取り組むようにと教授は言う。渡された論文のテーマは「天然ガスの状態変化の予測」だった。手がかりは大昔の卒業生が書いた論文1本のみで、そこから自分なりに理論を発展させる必要がある。
仕方なく目を通してみると、自分が好きな方程式だらけですぐに面白いと分かった。
「理工学部の図書館にずっと居座って、世界中の研究者の論文を検索して片っ端から読んで。分からないデータがあったら、論文の著者に英語でメールを送ってデータを集めて。最終的に、温度とか圧力とか密度が変わると天然ガスがどう状態変化するかを予測するモデルというものを自分なりに作ったんですよね。この時にコンピューターのプログラムとかAIとか統計とか結構複雑な理論にも触れるきっかけになって、それが巡り巡って今の仕事にも繋がっています」
これからコンピューターの時代が来ると言われていたまさにその当時、将来はなんとなくコンピューターメーカーに就職したいと話していたことを、どうやら教授は覚えていてくれたようだった。
渡された研究テーマは自分にとってこれ以上ないほど探究しがいのある分野であり、そのまま卒論でも扱うことにした。
「卒論を頑張って仕上げていったんですが、卒論発表の1週間前にそこまで書いてきたものを全部却下されたんですよ。論文ってそんな数枚とかじゃないですからね、相当分厚さのあるものを全部書き直せと言われて。なんでと思ったんですが、返された論文を見たら、びっしり先生の赤ペンが入っていて、全部読んでくれていたんですよね。それで仕方なくゼロから本当に書き直したんですよ」
卒論発表は1週間後、大勢の教授の前で話さなければならない。もちろん不合格になれば卒業はできなくなる。どうしようもないプレッシャーと焦燥感に押しつぶされそうになりながら、なんとか徹夜続きで全体を書き直した。
全てを出し切った発表の後、一人ひとり教授に呼ばれて合否を言い渡される。そこで教授の口から「合格」という2文字を聞くことができたその時まで、生きた心地がしなかった。
「その時『絶対無理やと思ってました、1週間前はきついですよ』と教授に言ったら、『いや、お前やったらできるって思ってた』と言われて。正直言って卒論の内容云々の合格ではないと。社会に出て働いていくことを考えたときに、こういう理不尽な要求をときに受けることもあるけれど、そこに勝つという経験をお前にさせる必要があると思ったんだという話を聞いて、感動したんですよね。すごいなぁと」
卒論の内容はさておき、きちんと最後まで書き直しきり、堂々と発表することができたなら合格にするつもりだったという。
変わった性格だった自分のことを理解して、ほかとは違う接し方をしてくれたこと。没頭できる研究テーマを与えてくれたこと。そして何より見捨てることもできたはずなのに、辛抱強く向き合ってくれたこと。数々の成長の機会や学びを授けてくれた教授には感謝してもしきれない。学問のみならず、人としての在り方も教えてもらえたようだった。
思い出の卒論表紙
今はもう買収されてなくなってしまったが、かつて日本にコンパックコンピュータという外資系コンピューターメーカーがあった。その会社を知ったのは、当時就職活動の時期になると家に大量に郵送されていた企業案内のハガキがきっかけだ。
正直よく調べもしなかったので、ほかにもコンピューターメーカーはいろいろあるとも知らぬまま、とにかく目についたからとエントリーして面接を受ける。幸いにも目に留めてもらい、内定をもらったのでそのまま入社することにした。
「第3営業本部という、社内でもダントツで厳しい営業本部に配属されて。実はこれは志願したんですが、『あそこだけは行くとやばいらしい』と新入社員がみんな囁き合っていたので、なんかぬるいなぁと思って希望を出したんです。やっていた仕事はセールスで、電話会社向けにシステムを売る。料金計算とか電話会社向けの顧客管理とか、秒単位で大量に来るデータを管理するような、止まってはいけないような部分を支援するシステムを売る部署でした」
厳しい環境で頑張ろうと意気込みもそこそこに、いざ仕事を始めてみると理想と現実の落差を突きつけられる。周囲の先輩はプロフェッショナルだが、所詮自分は新卒だ。商品は全く売れず、なおかつ新入社員はノルマがなかったこともあり、どう目標を持てばいいのか分からずすっかり意欲をなくしてしまった。
営業マネージャーには「使い物にならない」と烙印を押され、経費精算を代行する見返りとしてお小遣いをもらうだけのうだつの上がらない日々を1年ほど過ごした。
「1年目が終わるぐらいの時に、その営業マネージャーが私をほかの部署に放出しようとしたんですが、当時の営業部長が『まぁちょっと待てや』と言ってワンチャンスくれたんですよ。それで2年目からはノルマも課されることになり、営業は給与に対してインセンティブのインパクトが大きかったので楽しくなってきて。営業を一生懸命やり始めたんですが、それでもやっぱりなかなか売れなかったんですよね」
頑張れば売れるほど甘い世界じゃない。自分なりにもがいてはいたものの、怒られてばかりで苦しさは募る。そんななかで唯一できたことと言えば、レベルの高い先輩たちの間近で学ぶことだった。
「上の人たちの会話のレベルが高かったんですよ。普通営業会議とかって、この案件の読みはどうでとか言っているだけじゃないですか。そういう会議はあるんですが時間はすごく短くて。イケてる営業の人たちはだいたい営業本部長の部屋にみんな集まって、ホワイトボードに何か書きながら、この案件はどう攻略するかとかそんな話ばかりしていたんです」
提案内容のクオリティや、商談中その瞬間瞬間で見事な営業をすることはもはや当たり前。お客さんの組織図とは別に、実質的なパワーバランスなどを踏まえた裏組織図が書かれたホワイトボードを前にして、あらゆる意思決定の流れを想定する。事前に対策として、どのタイミングで誰にどんなテーマで話をするかまで設計を練り上げる。
ものの考え方や人の心理、お客さんの好みや力学のようなものまで、話される内容の一つひとつが新鮮で面白い。同時に、大きな受注を取れる人には理由があるのだと思い知らされた。
「あとは、イケてる営業の人たちの商談にくっついて行っていました。それも盗もうと思って。商談が終わった後に『あのシーンでこういうことを言ったのはなんでですか』とか、そういうことを聞いていたんです。物理の法則や方程式と一緒で、ああいうシーンではああいうことを言えばいいんだではなくて、あのシーンでああいうことを言ったのはなぜかを聞き出すようにしたんですよね」
真剣に耳を傾けていると、先輩たちは一から丁寧に説明してくれた。あえてお客さんを怒らせたのは本音で語らせる必要があったからだとか、エレベーターホールで別れ際あまり頭を下げなかったのはお客さんの表情でその日の商談の満足度を測るためだとか。先輩たちの小さな行動一つひとつにはどれも意図がある。
そのうち自分の商談にもついてきてもらえるようになり、フィードバックをもらっていると、自分のシミュレーション不足や準備不足を痛感せずにはいられなかった。
商談のゴールはどこなのか、そのゴールにたどり着くための最初の問いかけは何パターンありどれが適切なのか。帰宅後必死に考えて、丸暗記して商談に臨むようになる。すると、次第に思い描いた通りに商談が進められるようになってきて、2年目の途中で突然トップセールスになることができるまで急成長を遂げていた。
「短期間であんなに成長できるんだというくらい学びは大きかったですよね。周りの先輩たちも、頑張る人間に対してはあたたかかったんです」
ようやく毎日に充実感を感じられるようになり仕事に邁進していたある日、今はなきPHSの会社に新規で提案する機会を得たことがある。オフィスに持ち帰ると、先輩たちから賞賛の嵐をもらい、「サポートはしてやるから自分でやってみろ」とあたたかい言葉を受け取った。
チャンスを託してくれた先輩たちのためにも、できることは全てやり尽くしたい。そのためまずは、先方のオフィス向かいの喫茶店で張り込むことにした。ほかのベンダーの営業がビルから出てくるタイミングを見計らい、電話をかける。偶然を装い、「たまたま今御社の前まで来てるんですが……」とそう言えば、相手は若さゆえの可愛げとして笑ってくれるので、ありがたくいろいろな情報を漏らしてもらう。
そんなことを粘り強く続けるうちに、当初競合が8社ほどいた状況から勝ち残り、最後の2社にまで残ることができた。
「でも、当時その営業先は最後の競合とずぶずぶの関係があって。本当はほかのベンダーが入り込む余地もないくらいで、ほぼ予定調和的に競合の方に軍配が上がったんです。それでも負けたことを知ったあとはあまりに悔しくて、自分はもうオフィスに戻れなかったんですよ。いつも使っていた思い出の喫茶店に行って、もう悔しくて悔しくて泣いてしまって」
いつまでもオフィスに戻らないので、先輩から心配の電話がかかってくる。負けてしまってすみませんと謝ると、「大丈夫、よくやった」と言ってくれる。重たい足取りで帰社したあとも、みんなが肩を叩いて健闘を称えてくれた。競合の牙城として有名だった営業先で、よくぞ最後の2社まで残り粘ったと、そう褒めてくれたのだ。
「その先輩が上司としてすごかったのは、その後1人で営業に行っているんですよ。負けたあと『うちの瀬川がお世話になりました』と言いに行って、何してきたかというと、ものすごく大きな金額の提案だったんですが『2000万円分だけうちにくれ』と、コンパック社のサーバーを2000万円分だけ売ってきて、『瀬川よう頑張ったな』と数字をつけてくれたんです。すごくないですか、これ」
先輩が何をしたのかは分からない。いずれにせよその後ろ姿はかっこよかった。
頑張る人にはあたたかく。今も心に残っている。
起業前、トップセールスとして活躍した時代
勤めている会社が買収されるという事実を、Yahoo!ニュースの見出しを読んで知る。そんな外資らしい体験の当事者になるとは夢にも思っていなかった。しかも買収先は、シェアを争う宿敵のヒューレット・パッカードである。米国4大コンピューターメーカーのうち2社の統合という巨大合併は、衝撃とともに市場に迎えられていた。
2000年代初頭、IT業界は活発なM&Aに沸いていて、例に漏れずコンパックコンピュータも時代の波に飲まれていったことになる。
「先輩たちはみんな『もうやってられへん』とか言って、退職して会社を作ると言い出していて、『お前も来いよ』と誘ってもらえた時が1回目の転職でした。そのあと2回転職をするんですが、在籍した全部の会社でトップセールスになって。起業する直前に勤めた会社は大阪のシナジーマーケティングという会社でした」
一貫しIT業界でのキャリアを歩むなか、同社はCRMソリューションの提供や戦略構築支援を行う会社だった。入社してすぐに大きな商談を獲得してきたことにより評価され、とある部署の部門長を任されていた。
「その部署で若手のエンジニアが誕生日だったので、ちょっとサプライズでお祝いしようと思って、バルーンギフトを会社に届くようにしたんです。開けるとヘリウムガスで浮かんでいくやつですね。これが届いて本人が箱を開けると、風船がばーっと飛んでいくじゃないですか。そしたらその風船の様子を見て、百何十人いる会社の人たちが指差して大笑いしてるんですよ。その様子を見た時に、風船はすごいと思ったんですよね」
大学卒業から今まで12年間、BtoBのシステム業界に身を置きながら、たくさんの学びや成長があったと自負している。経済的にも豊かになり、順調にキャリアを積み上げてこられた。しかし、人の役に立っているという実感があったかと問われれば答えは否だった。
外資系の営業をしていた時も職業軍人のように働くことが前提で、そこに横の友情が生まれていくのみで、お客様がどれだけ喜んでくれたのかを実感できる機会には恵まれていなかった。
「そこに20代後半ぐらいから疑問を感じつつ会社員生活をしていて、34歳の時、風船がこんなにも人を笑顔にするんだということに衝撃を受けたんですよ」
たった1万円ほどのバルーンギフトが、瞬時にこれだけの人を笑顔にしている。その光景を、言い知れぬ敗北感とともに眺めていた。
来年は自分も35歳になる。会社員として、誰の役に立っているのかも分からない仕事をこのまま続け、そこに対して人生の時間を使いつづけることが果たして自分の本望か。それではもったいないだろうと思え、会社を辞める決断をした。
自分で事業をつくる。それにより誰かが笑顔になるような仕事がしたいと、ただそれだけ決めて、未知へと一歩踏み出すことにしたのだ。
風船事件が起きた日
「ちょうどその時、会社を辞めると決めたタイミングと入籍のタイミングが同じくらいだったんですよ。いろいろな方から結婚祝いをもらってありがたいなと思っていたんですが、どれもすごく素敵なものなのに外側の箱とか包装紙がすごくイケてなくて。それだけで喜び半減だなと、贈り手の気持ちがこんな包装じゃ表現できないよなと思って。やることも決まっていないから、一旦そういった結婚祝い用のプレゼントをもっとイケてる感じで届けられる事業をやろうと、とりあえずそこからスタートしたんですよ」
結婚祝いのプレゼントを扱うと決めたからには、どんなものであれば女性目線で嬉しいかが分からなければ事業として成り立たないと考えて、その点は妻に託すことにした。2012年、妻と2人でBtoCのEC事業を行うハモンズ株式会社(現 フルカイテン株式会社)を起業する。
「プレゼントの食器を作るにも、一緒に岐阜県の山奥の窯元を巡って開拓したりして。妻の実家も自営業だったので、2人で事業をすること自体は本当に自然な流れでしたね。その後すぐ子どもが生まれて、ベビー服を買いに行ってもなかなか気に入ったものに出会えなかった経験からベビー服事業に参入することを決めたんですが、どのベビー服が可愛いかという商品の選定も妻の方にやってもらっていたんですよ」
幼い子どもを連れてベビー服を買いに行ったにもかかわらず、何の収穫も得られず帰宅する徒労感はあまりに大きい。もっと手軽にECで、可愛いベビー服が買えたらいいはずだ。そんな思いから意を決して新規事業への参入を決断したものの、苦難の道はそこから始まった。
「ベビー服ってサイズがすごく細かくなるので、ただでさえ在庫が多くなってしまうのに、商品の種類も横にどんどん増やしていったので、在庫が多くなりすぎて。結局、ベビー服で3回倒産しかけたんです」
当時は妻の実家の一部屋を借り、事務所兼家としていた。倒産危機ともなれば、そこは在庫の山となる。段ボールは天井に着きそうなくらい積み上がり、あっという間に埃っぽくなる。その間を縫うように家族3人で眠る。夫婦の会話は次第に減っていき、口を開けば喧嘩をする横で、まだ幼い赤ちゃんが泣いていた。
家計の貧しさと相まって精神的には最もつらい時代だった。それでもあきらめてしまえば、銀行から借りたお金が返せないばかりか家族が路頭に迷ってしまう。なんとか生き抜くことだけを考えて、ひたすら数字と向き合った。
「この時に切り抜けられたのは、まさに大学での経験なんですよね。あの時、教授にAIとか統計の方に導いてもらえたから」
とにかく不良在庫を削減し、お金を生まなければどうにもならない。しかし、在庫が多くても売れつづける商品がある一方で、在庫が少なくても売れない商品があるように、どの商品が不良在庫と定義されるのかも判別がついていなかった。
考えるべきポイントは、改善のアイデアそのものではなく、現状と目指すべきゴールのギャップがなぜ生まれているのかという点にある。学生時代から公式の背景に思いを巡らせてきたように、自然と事象の背景や本質に目を向けた。
大学時代に学んだAIや統計理論を用いて、不良在庫をあぶりだすロジックを導き出したことに始まり、仕入れ数量の適正化、客単価を向上させる商品の抽出まで、3度の倒産危機はそれぞれ今起きている事象を解釈し、愚直に本質にまでたどり着くことで切り抜けることができた。
さらに、思考の過程で生まれた在庫分析のロジックは、自社のみならず多くの小売企業の役に立つと言えるところまで磨かれている。プロダクトとして売り出すことで、小売業界の人が今より少ない在庫で業績を向上させられる。間違いなく笑顔にできると思えた。
2018年、長年手掛けた小売事業を売却し、在庫分析SaaS「FULL KAITEN」を本格展開すべく社名も変更。フルカイテン株式会社として、在庫を主軸として事業を発展させていく。その覚悟を決めた。
フルカイテンのスタート当時、初期メンバーと
2022年10月、フルカイテンが本社を構える大阪市内から、瀬川は長野県伊那市へと家族で移住した。その選択の背景には、子どもの教育環境への思いがあったという。
「大阪市って学力テストで全国最下位になった都市なので、今はすごく教育熱心なんですよね。市町村とかの方針でそれこそ校長・教頭先生たちの評価を学力テストの結果で決めるくらい、結構極端なことをやっていて。そうすると、学校もそうだし地域社会も子どものことを勉強という価値観でしか評価しなくなっているんです」
学力向上を重視する風潮は評判となり、市外からも勉強熱心な家庭が引っ越してくるようにもなった。親同士の会話も自然と勉強の話が多くなり、保育園児が漢字やアルファベットを書けたという話題などで盛り上がる。教育への関心の高まりは良いことであるものの、著しい加熱には弊害もあると瀬川は考えた。
「子どもって持っている可能性がたくさんあるじゃないですか。自分が小さいときもサッカーが得意な子、プラモデルを作ることが得意な子、足が速い子、絵が上手な子、いろいろな子がいて学校ではみんなヒーローだったんですよ。子どもの可能性の芽を摘んでしまうような環境ではなくて、もっと引き出してあげられるような場所に行ってあげた方がいいなと思ったんです」
調べていくなかで、長野県伊那市にある伊那小学校の存在を偶然知った。詰め込み型の教育ではなく引き出す教育という方針を60年前から掲げるその学校には、通知表も時間割もチャイムもない。公立校できちんと文部科学省のカリキュラムに則りながら独自の校風を貫いていることで全国的にも有名で、子どもを入学させるために移住する世帯も多いようだった。
実際に2か月間で計20日ほど滞在しながら学校を見学し、感動を覚えたため移住を決めたという。
「たとえば、うちの子は4年生のクラスに入ったんですが、6年生まで3年間同じクラスなんですよね。この3年間では『ログハウスを作る』というクラスの目標があって、そういう風に3年で何をやり遂げるかという目標を、先生が口出しせずに子どもたちが決めているんです」
ログハウスを作るための道筋も大人が口出しすることはない。どうやって作るのか、どんな木材が必要かと子どもたちは顔を突き合わせて真剣に話し合う。実際に計画を進めていく段階では、だいたい1年ほどかけて壮大な失敗をする。そこからなぜ失敗したのかも話し合って振り返る。そうして失敗さえも糧にしていく経験を、子どもたちは主体的に積むことができるのだ。
「まずは模型から作った方が良かったんじゃないとか、長さが揃ってないなぁとか、これ本数が足りなくないとか。そういう会話の中で、算数の勉強とかもするんですよ。必要があるから算数の勉強をするって1番良いシチュエーションですし、その時に算数の才能に開花しない子も当然いるんですが、木工の方に才能を見出す子もきっといるじゃないですか。それぞれ好きなことに取り組んで、そのなかに上手に勉強を取り入れてもらいながら学んでいく。誰も落ちこぼれないんですよ」
各々の自発的な体験の中に、実は綿密に学びの機会が設計されている。机上で終わらない、「生きる力」に変わる勉強がそこにはある。
「教頭先生が話されていたんですが、みんな何かしら良いところがあるからそれを見つけて引き出して、自信を持たせてあげる教育をしていかないと『生きる力』は育っていかないと。その考え方は自分と全く同じだったので共感したんですよね。学校に行ってもみんな本当に楽しそうで、子どもってこんなに笑うんだと思うくらい楽しそうにしているんですよ。素晴らしいと思います」
幼少期など早いうちから自己肯定感を育むことの重要性は言うまでもないだろう。特定の価値観に偏らず、自分自身で人生の可能性を広げていけるようになる。
不確実な現代を生き抜く子どもたちには、通り一辺倒な学力ではなく「生きる力」を育む教育こそが必要不可欠だと瀬川は信じている。
瀬川家の休日、2人の子どもたちと
一人ひとりに可能性の芽がある。それは子どものみならず、大人も同じである。教育移住を経験し、経営者としても気づきがあったと瀬川は振り返る。
「もしかして社員のみんなのことも画一的な見方で評価してしまっていないかと思ったんですよね。社員だって子どもたちと同じように人間で、それぞれ得意分野は違っていていろいろな可能性の芽がある。なのに時に『なんでこういうことができへんねん』とか『あなたにはこれができてほしい』とか、すごく自分視点での偏った要求を心の中に抱える時があるんですよ」
会社の法人格を一人の人間と捉えるならば、「生きる力」は社員一人ひとりの可能性の芽をいかに引き出せているかによって決まるだろう。金太郎飴のような同質的な組織では、不測の事態や環境変化にしなやかに対応していくことは難しい。
そんな観点を、現在は経営者としての大きなテーマと捉えているという。
「よく社内では、『小さな変化進化に気づこう』と言っています。誰も結果を出したくないとは思っていないので、結果を出そうと頑張っているじゃないですか。その頑張っている人たちの示す小さな変化進化というものに、マネジメントに関わる人が気づかないと、言葉や結果だけでしかその人を評価できなくなるので。時に結果が出ないことも残念ながら勝負事の世界ではありますから、すごく努力したのにそうやって不運にも結果が出なかったということを『いや、よくやった』と言ってあげられる上司、マネージャーでなければ人は育たないと思っているんですよ」
挑戦する人の小さな変化進化を見逃さず、ポジティブなフィードバックを返していく。すると本人も、認識していなかった自分の良さや強みに気づくことがある。一定の評価基準、画一的な見方では引き出せない可能性の芽がそこにある。
フルカイテンではそんな機会を1on1の場で意図的に作り出している。多くの芽の中から繰り返しフィードバックを受けるものがあれば、自己肯定感とともに他者信頼感も高まった状態がつくられる。その2つが満たされた状態といえる何かこそ、その人なりの強みとして定義されると瀬川は考える。
「結果はもちろん求めるんですよ。だけど、その結果を出すためにトライしていく過程にこそ実は1番青春があるというか、その人の時間が詰まっているじゃないですか。マネジメントのスタイルという意味でも、やっぱり根底にはそういう思いがありますね。自分の小さな変化進化に目を向けようと。そうすればきっといい人生になっていくと思うので」
人生には成功もあれば失敗もある。自分で決めて、自分で責任を持って取り組んだ結果であれば、その全てに向き合っていく経験の積み重ねが自分の基盤となり、やがて人には真似できない強みとなる。
小さな変化進化に気づくことを習慣にする人は、だからこそ強くなれるのだろう。
2023.2.8
文・引田有佳/Focus On編集部
人の可能性は、他人が規定できるものではない。でも、その芽は周囲が気づいてあげなければ埋もれてしまうことがある。自身を育ててくれた恩人たちへの感謝とともに、これから育つ子どもや組織をあたたかく見守る瀬川氏。
どちらかと言えば、人は至らない部分を見つける方が簡単かもしれない。人も物事もポジティブな小さな変化進化に気づくには、対象へ向かう強い思い入れのようなものが必要になるだろう。
フルカイテンが事業ドメインを置く「在庫」にしてもそうだ。これまで多くの人が見過ごしてきた「在庫」に着目し、法則性を見出すことで新たな業界の可能性が拓かれた。
自分に対しても、人にも社会にも、小さな変化進化を見つめ可能性を育んでいく。それにより、社会をより良くしていくきっかけは連鎖的に創出されていくのだろう。
文・Focus On編集部
フルカイテン株式会社 瀬川直寛
代表取締役CEO
1976年生まれ。奈良県出身。慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業。研究テーマは天然ガスの熱力学性質に関するAIによる予測。新卒入社したコンパックコンピュータ(現ヒューレット・パッカード)をはじめ、複数スタートアップ企業にてトップセールスとして活躍。2012年にEC事業を手がけるハモンズ(現フルカイテン)を起業。3度にわたり倒産しかけたが、危機を乗り越える過程で在庫問題を解決する『FULL KAITEN』を開発。18年にはEC事業を売却して社名をフルカイテンに変更し、FULL KAITEN事業に経営を集中させている。
https://corp.full-kaiten.com/index.html