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伊地知天
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or多面的にとらえるほど見えてくる選択肢がある。だから、人も社会も面白い。
社会の解像度を上げるべく、モビリティSaaSの領域で新たな選択肢を提示しつづけていく株式会社ニーリー。同社が展開する月極駐車場のオンライン契約サービス「Park Direct(パークダイレクト)」は、紙と印鑑が主流の各種手続きをネット上で完結させ、業務効率化に貢献する。2022年には、駐車場へのEV充電器設置に関する実証実験を開始するなど、モビリティを起点としたプラットフォームとしての価値を創出しつつある。
代表取締役の佐藤養太は、新卒でシンプレクス・テクノロジー(現 シンプレクス)に入社後、エンジニア、プロジェクトマネージャーとしてネット銀行/大手証券会社向けのシステム導入などに従事。のちGMOクラウド(現 GMOグローバルサイン・ホールディングス)にて海外新規事業やエンタープライズ向けクラウド事業担当を経て、2013年に株式会社ニーリーを設立した。同氏が語る「目標の本質」とは。
目次
事実は1つ。けれど往々にして、その事実のとらえ方は多面的である。一面から見れば最適解だと思えることも、別の一面を視野に入れた瞬間にそうとは言い切れなくなってくる。だから、人や社会の多面性を発見し、選択肢を増やすことに意味があると佐藤は考える。
「人生においては、今この瞬間に取り得る選択肢が多い方がいいじゃないですか。たとえば働く場所の話で言うと、会社か自宅かというだけでなく、海外でも働ける・地方にいても働けるというように AかBかどちらかだけではなく、Cもあるんだよ、実はAじゃなくA’があるんだよと、我々が介在することで選択肢を提示できるような会社になりたいと思っているんです」
選択肢の数と幅を増やすこと。すなわちそれは、産業や社会に対する固定観念を取り払ったとき提示できるものは何なのかを追求することにほかならない。サービスを展開するうえでニーリーが大切にする視点がそこにある。
目下、駐車場業界にアプローチしていく同社では、モビリティ領域に対して新たな選択肢を提示している。
「月極駐車場のユーザーさんにインタビューすると、本当に皆さん口をそろえて言うことがあって。月極駐車場の募集って、基本的に看板だけなんですよね。そこに書いてある番号に電話して、空いているかどうか?料金はいくらか?を確認する。契約したいとなったら不動産屋さんに来てくださいと言われるので、聞いた住所に訪問して契約する。そこに煩雑さを感じている人が9割くらいいる。『Park Direct(パークダイレクト)』では、そんなユーザーさんの不便さを解消できていると思っています」
検索してもネット上には情報が少なく、契約にも手間がかかる。モビリティSaaS「Park Direct」は、そんな月極駐車場ユーザーの固定観念を覆す。駐車場検索から問合せ、契約、賃料支払いなど必要なすべてのフローをオンラインで完結できるようにする。
同時にそれは、管理会社側にとっての業務負荷軽減にも繋がっている。
「不動産管理会社さんにとっても、駐車場の管理って本当に手間なんですよね。家を借りる契約も駐車場法下の駐車場の契約も、違いは宅建業法上の重要説明事項があるかないかしかなくて、基本的に業務負荷は同じなんです。一方で、管理会社さんの売上の観点でいうと物件管理の方が圧倒的に大きく、どうしても駐車場管理にリソースを割く優先度が上げづらい構造になっています。そこに『Park Direct』が介在することによって駐車場管理業務の約90%を削減し、さらには稼働率を上げることで収益貢献も可能になっています」
駐車場ユーザーと管理会社双方の不自由を解消し、「Park Direct」自体がポータルサイトとして集客機能をも担う。機会を最大化するだけでなく、今後はそこに集まるさまざまなデータを活用した価値創出を進めていくと佐藤は語る。
「事業としては駐車場業界だけでなく、モビリティSaaSとしてプラットフォームを展開しています。駐車場を借りてくださる方って車をお持ちの方なので、誰がどこに住んで、どの車に乗っていて、何年使っているのかという情報が蓄積される。そういった情報を使った借主さんに資するようなソリューションは既に提供を始めていますし、今後も増やしていこうと思っています」
2013年の創業以来、ニーリーでは新規事業やインキュベーション支援の領域で実績を残してきた。2021年には、NTTドコモ、ゼビオが実施する小売店舗マーケティング施策改善の実証実験に、同社の属性認識・IoTプラットフォーム「CrowdAi(クラウドエーアイ)」を提供するなど、着実に培ってきたノウハウがある。
事業企画、戦略立案のノウハウと、たしかな技術力。両輪を持ちながら世の中を洞察するニーリーは、モビリティSaaSリーディングカンパニーとして社会の解像度を上げ、選択肢を提示しつづけていく。
住宅街にひっそりと佇む寺の境内に、時代に先んじた1人の男の墓がある。黒船来航より60年以上も前に、海防の必要性を説いていた江戸時代の政治経済学者・林子平。その著作が幕府に危険視され、失意のうちに生涯を終えた亡き人の名を取り、一帯は「子平町」と名付けられている。
宮城県仙台市の一角、個人経営の商店や寺などが多数残るおだやかな街並みのなか、代々米屋を営む家に生まれたと佐藤は語る。
「実家がもともと米屋なんですよ。おそらく明治時代くらいから続いている米屋で、僕が継いだら5代目だったんですが、小学4年生くらいの時ですかね。両親から『大変だから全然継がなくていいよ』という話をされていて。むしろ『公務員になれ』みたいなことを言われて、やっぱり商売の大変さのようなものを、当時両親は感じていたんだろうなとは思います」
古くは国民の高い需要に支えられてきた米屋という商売も、時代とともに変化を強いられてきた。両親も苦労はあったのだろう。詳しい話を聞いていたわけではなかったが、それでも幼少期から商売というものの存在はなんとなく身近に感じられていた。
「やっぱり子どもの頃1番覚えていることは、何かわがままを言うにしても『働いてお金も稼いでないくせにいろいろ言うな』と度々言われていて。働かざる者食うべからずじゃないですが、そこから『早く働きたいな』とは思っていましたね」
早く働きたい。とはいえ、具体的なイメージが描けていたわけでもない。
何かをしなさいと両親から言われたことはなく、やりたいことは自分で決めて自分の責任でやらせてもらえたが、かと言って夢中になって打ち込めるようなものも見つかっていなかった。
「小学校3年か4年の時に、『人生って長いな』となんとなく思っていたことを覚えていて。おそらくやりたいことがなくて、打ち込めるものもなかったし単純に暇だなと思っていたんだと思うんです。人生30年くらいで正直いいなと思って。何か強制的に時間を取られるようなものが欲しかったのかもしれないですね」
中学に入学する頃にはその気持ちはますます高まっていて、自分を鍛えたいという欲求に変わっていた。鍛えるためには学校で1番厳しい部活に入ろうと考えて、それがたまたまバスケットボール部だったので入部することにした。
「そこからはずっと部活に打ち込んで、ほぼバスケしかやっていない3年間でしたね。1学年上の方々がすごく強くて、県大会に優勝して東北大会にも行けるようなチームでした」
入部したばかりの1年生がやることと言えば、とにもかくにも走り込みだった。毎日学校近くの神社の100段近い階段を20往復以上走らされ、見込みのありそうな人から順に体育館に呼んでもらえる。どうせやるからには試合には出たいと、厳しい練習に必死でついていくうち3年なんて月日はあっという間に過ぎていた。
シュートが決まる快感や試合展開の早さも面白く、スポーツとしても好きになった。高校に入っても同じようにバスケ一色の生活を送る。授業中はひたすら寝ていたが、部活に打ち込んだ時間と友だちと遊んだ時間は間違いなく楽しいものだった。
しかし、振り返れば後悔もあるという。
「中学校も高校もそうだったんですが、当時は本当に目標を持っていなくて。結局いかにスタメンを狙えるかとか、スキルアップできるかとか自分本位なところだけに集中していたので、あとから思えばそれがすごくもったいなかったですね。特に、高校時代はすごく良いメンバーが集まっていたし仲も良かったので、おそらく何か目指す目標があればもっと上に行けたのかなとは思っています」
目指すべき目標があれば、そこから逆算した行動や選択ができる。さらに、後悔のない選択をするためには相応のインプットが必要だと、今なら分かることもたくさんある。
「あの頃に戻れたら」と思う瞬間は人生でもほとんどないが、唯一思うとすれば高校時代だと佐藤は振り返る。目標を設定することの大切さに気づいたのは、ずっとあとになってからだった。
今でもよく行くバスケットボールの試合観戦
幼少期からの記憶といえばもう1つ、父と一緒に映画を観ていた時間がある。生まれてすぐに病気で耳が聞こえなくなっていた父は、字幕でインプットを楽しめる洋画が好きだった。特に、学校などで英語を習うようになると、耳で聞く英語の意味と字幕との微妙な差異に気づけたり、知らない世界を発見する面白さがそこにはあった。
当時まだめずらしかった英語科のある高校を選択した背景にも、少なからず影響はあっただろう。高校では米国育ちのクラスメイトなど個性豊かなバックグラウンドと多様な価値観に触れ、法律や政治、国際系に興味を持つようになっていった。
「行きたいと思っていた第一志望の大学の法学部政治学科に合格して。中学高校では本当に勉強しなかったので、大学は頑張ろうと思って入ったんです。そしたら(そんな中高時代を過ごした僕が言うのも何なんですが、)『大学生ってこんなに勉強しないのか』ということにびっくりしました」
大学1年から所属できるゼミではゼミ長を務めたり。ゼミ内でグループ対抗の討論会をやるとなれば、みんなを集めて戦略を練ったり。リーダーシップを発揮して熱量高く励んでみるものの、ほかのグループではそんな準備は一切しておらず、あまりの温度差に拍子抜けしたりする。
東京に出て、意気込み新しい環境へと飛び込んだが、どうやら想像と現実のあいだには相当ギャップがあるようだと分かってきた。
「そもそも政治学科なので、政治に興味がある人が集まっていると思っていたんですが、意外とそうでもなかったり。何か打ち込めるものがほしいなぁと思っていた時に、偶然バイト先で今は公認会計士になられている当時受験生だった方に『会計士とかどう?いいんじゃない?』と言っていただいたんです」
そもそも公認会計士とはどんな仕事なのか。話を聞けば、さまざまな業界、企業の監査をしていく仕事であるという。同じ国家資格である弁護士と比べても、幅広いビジネスを見られる点が面白そうで、やってみたいと興味が湧いてきた。善は急げとばかりに情報収集し、大学1年の冬からダブルスクールを始めることにした。
「そこからは学費を稼ぎながら専門学校に通って、会計士の勉強をずっとやっていましたね。そのときにいろいろなアルバイトを経験したんですよ。新聞の飛び込み営業から解体工事、病院で寝たきりの人の入浴補助とか、本当にいろいろなことに興味を持ってまずやってみるということをやっていて。その行為自体がおそらく好きだったし、自分の興味を探っていた時だったと思います。その過程で自分は興味が発散していくというか、飽き症だということも分かってきて(笑)」
実際、政治学科に入ったにもかかわらず公認会計士を目指していること自体、我ながら一貫性がない。どうやら自分は次々に興味が湧いていく質で、思い立ったらすぐ動いている。
世界を広げ、夢中になれるものを探し求めていたかった。当時はそうしてただ毎日もがいていただけだったが、その過程は知らなかった社会の一面を見つける喜びにあふれてもいた。
「1、2年はフル単で、3年生時点で全部の単位を取ってしまって、あとはずっと専門学校ばかり行っていました。大学に行っても『あれ、専門いいの?』と言われるくらい(笑)。当時はやっぱり監査法人に入って監査をやりたいなと思ってやっていましたね」
自分なりに目標を設定したから頑張ろうと思うだけでなく、純粋に公認会計士の勉強は面白かった。特に、企業の決算説明資料やBS・PLなどに目を通すと、一つひとつの数字からさまざまなことが読み取れるのだと分かってくる。
たとえば、とある企業が自動運転領域へと参入した場合、すぐには売上には反映されないだろう。けれど、決算説明資料にある研究開発費という項目の数字からは本気度が見えてくる。対して競合はどうだろうかと読み比べてみると、各社の隠れた強みを発見できたりもする。ときに明言されていない企業の思惑のようなものまで透けて見えると満足感があるからやめられない。
1つの興味は波紋のように広がっていき、いくつものテーマに分散していく。それが企業や社会を対象とするならば、過去現在未来果てしなく広がっていくものがある。気づけば多種多様なビジネスの情報を無心で集めている自分がいた。
「ビジネス自体に興味を持つようになって。どこどこの決算書を見るとか、そこに対して苦痛を全く感じずに今でも呼吸をするようにやっているんですが、情報収集するということ自体がもはや趣味なんですよね。今も監査法人の方から『これだけ会計の論議に入る人はいませんよ』と言われるのですが、やっぱり単純に好きなので(笑)。そういった経験は今も活きているのかなと思います」
それまで読書にも縁がなかったが、ビジネス書をはじめさまざまな本を手に取るようにもなってきた。なかでも心奪われたのは大前研一氏の著書であり、特に同氏が都知事選に敗れた際に書き下ろした敗戦記は印象深かった。
「あんなに論理的に正しいことを言っていて、彼が都知事になればすごく良い都政になるんだろうなと思えても、誰しも論理的思考だけでは動かないので彼は落選するんですよね。人は論理だけじゃなく情理で動くんだなと、そこが面白いなと思って」
ビジネスも社会も、意思決定には数字的・論理的な正しさが求められる。しかし一方で、人の感情というものも無視することはできない。
米国でも小売最大手ウォルマートが、宿敵Amazon提供のAWSは使わないと公言*している(*2017年時点)ように、ビジネスは意外にも感情で動いている。大前氏の著書を読み漁るうちに、そんな社会の在りように思いを馳せずにはいられなかった。
「大前研一さんという人自体の面白さが、僕はそこにあると勝手に思っていて。だから、彼の考え方が正しいか正しくないかは一旦置いておくにしても、多くの人がやればいいのにと思う経済施策がいっぱいあるにもかかわらず、なぜかそれがうまく通らなかったりする。そういう部分がすごく人間社会らしくもあるし、本当に面白いなと思ったんです」
数字から企業の実態を紐解き理解を深めることと、そこにある人の感情を見つめることは本来表裏一体であるべきなのかもしれない。正しさは決して一面的に割り切れることはなく、それゆえに人も社会も複雑に絡み合っている。
物事の多面性を認識するほどに、選択と行動が変わっていく。だからこそ、より多くを知ることの大切さを再認識しつつあった。
大学4年が合格のラストチャンス。自分なりに期限を設定し臨んだ会計士試験だったが、残念ながら合格は叶わなかった。
「試験は短答式と論文式というものがあるんですが、4年の時に短答式でダメだったので、どうしようかなと考えていて。たまたまそのあとリクナビか何かを見たのか覚えていないのですが、1社だけ受けてみようと思ったんです」
就職か、浪人か。正直気持ちは揺れていた。新たに目標を再設定するために、退路は断っておきたかった。何社も受けるのではなく、1社受けてダメならはっきりと就職には見切りをつけて浪人する。そう覚悟を決めることにした。
「大前研一さんの本に、これからのビジネスパーソンの基礎スキルはIT・会計・英語、それから金融知識だと書かれていたんです。特に金融とITが僕は全然分からなかったので、その掛け算で仕事しているところで勝負してみたいなと思った時に、シンプレクスという金融機関向けのシステム開発を行っている会社を見つけたので、受けたらたまたま内定をいただいて」
当時シンプレクスの就活生向けの触れ込みは明快で、やっている仕事が新聞に載る、ヘッドハンターから声がかかる、シリコンバレー研修に行けるというものだった。少々ミーハーではあるが、実際のちに全てが叶うことになる。あとから振り返れば、良い選択だった。
「そこからも実は会計士の勉強は続けていたんですが、シンプレクスって内定者研修がすごく厳しくて。夏と秋に合宿があるうえに、そこで債券価格を計算する数学とプログラミングの課題が出されるんですよ。それこそ順位もつけられるので、全然両立する余裕もなくなって。どちらかというと内定者研修の方に注力していきました」
大学生活は会計士の試験勉強に打ち込んできたこともあり、普通の大学生よりは企業を取り巻く数字については知っている。そんな自負からか、どちらかと言うと面接時は根拠のない自信がある方だった。
しかしふたを開けてみれば、名だたる内定先を蹴ってきたような規格外の人材揃いの環境だった。そんななか一斉に課題をこなしても、当然のように成績は下から数えた方が早い。
進学校のように貼り出された成績表を見ていると、どうやらとんでもない環境に来てしまったらしいと実感が湧いてきた。
「たとえば、僕が8時間かけてやれる1つのことを、当然頭のいい人たちは2時間、3時間でやるわけですよね。なので僕からするととにかく量で稼ごうと思うじゃないですか。でも、頭のいい人たちは優秀かつ貪欲なので次のチャレンジをしてくるから、永遠に差が埋まらないんですよ。これってどうやったら埋まるんだろうと思ったりはして、切迫感のようなものをすごく感じていましたね」
同期と比べた自分への焦りを抱えつつ、将来の目標としては独立したいという明確な思いがあった。会計士に惹かれたのもひとえに独立志向があったからだ。
商売人の家に生まれたからか、自分で生計を立てられるようになることへの憧れは常にある。具体的なイメージが描けていたわけではなかったが、少なくとも3年ほど働いたら何かしら次のステップへと踏み出そうと決めていた。
「そこまではひたすら走りつづけようと思って、本当にずっと仕事していましたね。やっぱり金融のシステムってミッションクリティカルなので止められないんですよ。となると24時間365日電話は取れるように、お風呂場にも携帯をジップロックに入れて持って行ったり。ハードワークする環境でしたが仕事自体は好きだったのと部活よりはきつくないなと思って、ひたすらインプットとアウトプットを繰り返していました」
けれど、多くの人がそうであるように、当初は力不足で悩み眠れない日々もあったという。
「一時期人生に迷ったことがあって、何を迷ったかというと、おそらく単純に仕事がうまくいっていなかったということもあると思うんですが、『この仕事は社会にとって意味があるんだろうか』と悩んだりするようなことが誰しもあるじゃないですか(笑)。その時に、マザーハウス代表の山口絵理子さんの本を手に取って、1人で午前3時4時ぐらいに号泣しながら読んだんですよ。こんなに社会に意義のある仕事ってすごいなと」
自分がどうあるかではなく、社会がどうあるかを考え理想を描く人たち。いわゆる社会起業家と呼ばれるような人の生き方を知り感銘を受けるとともに、本で語られる以上のことに興味を持った。
情報を収集していくと、「技術を使って世界を変える」を理念にバングラディシュで人材育成プログラムなどを行うアライアンス・フォーラム財団という団体に行き着いた。
その領域についてもっと解像度を上げようとするならば、実際に当事者になってみるのが1番だ。財団の運営を無償で手伝いながら、しばらく世界の貧困層の窮状や社会情勢などを学んだ。
「機会の平等というか、子どもが取り得る選択肢をなるべく増やしていきたいなという思想がその頃芽生えていって。日本に生まれただけでハッピーとは言いつつも、日本の子どもの7、8人に1人は貧困という現状もあるなかで、まずは日本でやれることも多いなと思ったんですよね。僕は会社とは全く関係なく、もし一定の財産があるなら一人親家庭の支援をしたいなと思っているんです。僕自身そういったバックグラウンドがあるわけではないのですが、(選択肢が)環境に左右されることって本当にあると思うので、その環境をなるべくフラットにしていきたいなと」
生まれついた環境や境遇が人生の選択肢を狭めたり、反対に広げたり。自分自身の努力ではどうにもならない領域は、程度の差こそあれ誰にでも一定あるものだ。しかし、一面から見ればあきらめざるを得ない状況も、多面的に見ることができれば固定観念を取り払い、新たな選択肢が見つかる可能性がある。
どれだけの機会に恵まれるかで人生は色を変えていく。自分自身の人生を振り返ってもそうだ。だからこそ、社会に対し選択肢を提示していくことができれば、真の機会の平等を実現できるのではないか。不平等や理不尽もある社会の在りようを、なるべくフラットにしていけるのではないかと感じていた。
誰にとっても環境はフラットである方がいい。そんな価値観は、両親の姿から学んだものでもあるかもしれないと佐藤は振り返る。
「昔からうちの母親は、耳が悪い父親のことを障がい者としては全く扱っていなかったんですよね。私自身彼を障がい者だと思ったことは本当に一度たりともありません。要は皆さんいろいろできないことや苦手なことがあると思うんですが、単純にそのうちの1つとして耳が聞こえないだけという感覚に僕もなっていて。ニーリーのカルチャーにも『フラットであれ』というものがあるのですが、そういった発想に至る根底には当時の環境もあるのかもしれないと思っています」
年齢や性別、国籍、それからノンバイナリージェンダーや身体的ハンディキャップなど、どれもその人を形作る特徴の1つでしかない。
どんな人にも十分な選択肢があり、人生を豊かにする機会があるべきだ。ただぼんやりと独立だけを目標としていたが、世界を広げ学んだことで新たな人生の目標を見出しつつあった。
社会人として3年10か月ほど働いた頃、転機が舞い込んだ。
一足先に転職していた先輩から、GMOクラウド社へと誘われたのだ。ちょうどエンタープライズ向けのクラウド事業の新規立ち上げというタイミングだったこと、さらに海外で働く機会や一緒に働きたいと思える人の存在などに惹かれ、これも巡り合わせだと思い転職を選択することにした。
インフラレイヤーに携わったり、海外事業でウクライナ・インドネシアに飛んだりと、今までにない刺激的な世界にいくつか触れたあと、ある大手事業会社のパートナー案件に加えられることとなった。
「ありがたいことにその案件を通じて評価いただき、従業員の方から社内の新規事業開発コンテストに一緒参加しないか?というお声がけをいただきました。結果的にその案件が準グランプリに選出され、事業化していくことになります。一緒にコンテストに参加していた社員の方からも『これを機に独立したらどう?』と言っていただいて。もともとどこかのタイミングで独立したいと思っていたこともあり、フリーランスのエンジニアとして独立のスタートを切りました」
2013年、株式会社ニーリーを設立。入賞した事業の開発を進めつつ、エンジニアとして受託案件の手伝いなどを始めた。
その後、設立のきっかけとなった事業は残念ながらクローズが決まったが、それ以外での売上は思いのほか順調だった。
「独立して最初の5年は本当に営業というものをしていなくて、基本的にお声がけいただいた案件をひたすらこなしていくことで売上が上がっていきました。というのも、僕がひたすらギブしていたからだと思っていて。要は興味が発散しやすいのでいろいろな話を聞くこと自体が面白くて、何か相談をもらった時や話を聞いたりした時に、(より良い選択肢として)人を紹介してあげたり。結局独立前と似たような感じで、いろいろなお客さんの新規事業の手伝いをやっていました」
ありがたいことに必要とされているし、売上には困らない。だが、独立という当初の目標を果たすことができた今、次なる目標を決めたいという思いがふつふつと湧いていた。
「当時FacebookがInstagramを買収するというニュースが話題になっていて。しかも約1千億で。今考えると安いとも言われますが、Instagramってメンバーが10人前後しかいないという話だった。実際どうかは分かりませんが、いずれにせよそういう風に少数精鋭で、すごく良いプロダクトを作ってそれを売却するってかっこいいなと思って、当時の僕はそこを目指したいなと思ったんですよね」
最初に挑戦した自社プロダクトは、飲食店向けの自動電話予約サービスだった。今ではネット予約も一般化しているが、当時はまだリアルタイムに席が取れないなど不便もあり、電話予約の方が主流だった。
実体験でもあったが、客側としては営業時間中しか取ってもらえなかったり、話し中であればかけ直しの必要があったりと何かと面倒がある。かたや店側も、忙しい接客の合間に対応する手間は容易に想像がつく。
両者の“不”を解決すべく、定型的な予約応対を人の声で録音し自動化するサービスを開発したのだ。
「電話の自動予約は店長さんにはすごく響いたんです。ただ『オーナーに相談してくれ』と結構言われるんですよね。それでオーナーさんに電話すると、当時の飲食業界の待遇って全然良くなかったので、『うちは午前2時3時でも電話は従業員に転送させているし、何の問題があるの』というようなことを言われて。そこでの学びとしては、集客にはお金は払われるけど、業務効率化にはお金は払われにくいんだと」
その後、海外なら業務生産性を高めるツールも受け入れられやすいのではないかと考えて、知り合いのツテを頼り台湾で売り込みをさせてもらった。できることはやってみる精神で、無事現地のレストランに導入してもらえたことに安堵したのもつかの間、今度はサービスで使われている台湾語について英語で問い合わせが来るようになっていた。
1人で回すには限界がある。ありがたいことに導入した台湾のレストラングループからはこのサービスにお金を払うと言っていただいたが、この事業に10年は賭けられないと思い、そのタイミングで飲食店向け事業はクローズすることとした。
社内キックオフミーティングの様子
「いずれにせよそういう事業の機会というものは常に探っていて。1人会社ではありましたが売上は順調に伸びていたんですよね。4年目ぐらいに7千数百万くらいまで行って、5年目は当然1億を狙っていたんですよ。でも、5年目は1千万とか1500万くらいしか伸ばせず1億は行かなくて」
結局、受託開発では売上のトップラインが1人あたりのキャパシティに左右されてしまう。1人の力でもっと多くを稼ぐ人も当然いるだろうが、そこが自身の限界であるように感じられていた。
労働集約的な売上の作り方ではなく、やはり自社事業でレバレッジを効かせていきたい。それも短期でバイアウトするのではなく、長期で売上を上げるプロダクトを作りつづけたいという思いが強くなっていた。
「これは僕の持論なんですが、よく”経営者の器以上に会社は大きくならない”と言われますが、その器ってすごく単純化するとその経営者自身が何をかっこいいと思うか、かなと。たとえば、1億円で会社をバイアウトすることがかっこいいと思うか、企業価値1千億円の企業を作ることが良いと思うかなど、それによって視座が変わると思っていて。その基準が変わったことが、自社プロダクトで勝負したいと思ったタイミングだったんじゃないかなと思っています」
自社サービスの失敗や、売上1億円に届かなかったこと。独立してから現在までの歩みを振り返ったとき、気づけば目指したいと思える目標は変化していた。社会に意義あるミッションを掲げ、そのために持続的に売上を上げていくプロダクトを作りつづけたいと本気で思う自分がいる。
2017年12月、かねてから声をかけていた現CTOの三宅克英がジョイン。シンプレクス時代の同期であり、当時新卒で最速出世した人材だった。自社プロダクトを作りたいという思いが合致しており、まずは2人で売上を3倍にすることを目標に自己資金を貯め、並行してアイデアを練っていった。
「当時の初期メンバーで合宿をしたりして、10個くらい考えたアイデアのうちの1つが『Park Direct』でした。結局3つ立ち上げて、今は2つ残っています。もちろん改善は重ねていて、1週間に1回ほどでプロダクトのアップデートは行われているんですが、根本的なプロダクトの思想自体は当時から全く変わっていません」
アナログで煩雑な駐車場契約・管理にまつわる業務全てを効率化する。2019年11月、月極駐車場のオンライン契約サービス『Park Direct』を正式にローンチ。翌年、新型コロナウイルス感染拡大の影響でオンライン契約そのものに追い風が吹き、2020年5月には前月比で契約数が一気に4、500%ほど伸びた。成長の機運を感じたことからエクイティでの資金調達に踏み切ることにした。
社会の解像度を上げていく。人や社会にとって選択肢を提示できる会社でありたいという信念は、常にニーリーの根底に流れている。
ニーリー取締役CTO三宅(写真左)、取締役CISO小野田(写真右)と
たとえば何か事業をつくろうと考える。壮大な構想や緻密な計画、秀逸なビジネスモデルよりもまず、全ての始まりにあるものはただ一つの目標や、打ち込める何かへと向かう情熱なのかもしれない。
きっかけは意図せずともやってくる。ただ、少なくとも世界は広げておくに越したことはないようだ。自身の体験から佐藤は語る。
「まだ何も成し遂げていない僕が言うのもおこがましいのですが、何か1個でもいいので、早い段階で信じられるものを見つけることがすごく重要なんじゃないかとは思いますね。それが結果的に違ったなぁでもよくて、何か信じられる人やコトを見つけることによっていろいろな広がりが見えてくると思うので」
自分なりに目標を掲げたり、誰かを信じてついていくと決めることもそうだろう。未来は分からなくても、何かを信じて思い切って踏み出してみることがのちに大きな意思決定へと繋がるきっかけになることがある。
佐藤自身、信じてついていきたいと思える人がいたから選択した環境で、のちに独立という道に一歩踏み出せた。運や巡り合わせによる影響も大きかったと振り返る。
「やっぱりタイミングってすごく重要だと思っていて、戻れないタイミングってあると思うんですよ。適切なタイミングで適切な策を打てるかどうか。それってある種運みたいなところもあって、そのタイミングに時が戻ったら同じ条件が発現するかというと、僕はしないと思っているんです」
そのタイミングだからこそ集まった人や経済状況があるはずで、一度きりのタイミングに再現性はないと佐藤は考える。
だからこそ、適切なタイミングで適切な策を打ったり、適切な選択をしていくことが重要になる。現在、月極駐車場のオンライン契約サービスとしては、業界一のオンライン契約可能件数を誇るプラットフォームとして成長を続ける「Park Direct」も、針の穴を通すような状況を経て今があるという。
機を逃さず最善を尽くすには、そこにどんな視点が必要だろうか。
「そのタイミングで適切な策が打てるパターンにあるのは、結局逆算思考だと思います。目標から逆算したときに、このタイミングでこれを打っておかないとだめだと分かることが1つ。それから常にインプットしているかどうか。現場の数字だったりKPIの正しさだったり、対峙するものに関して解像度がどれぐらいあるかがまず重要だと思っています」
全く同じタイミングはおそらく二度と来ない。今現在の選択と行動が未来を決めていくからこそ、解像度を上げ取り得る選択肢の幅を広げておくことで、適切な判断はしやすくなる。
どんなに優秀な人でも解像度が低ければ適切な判断は難しい。自分自身が信じて向き合うものを1つでも定めたならば、あとは誰よりもインプットとアウトプットを繰り返し、解像度を上げていくこと。それが掲げた目標への最短距離になるのだろう。
ニーリーのオフィス風景
2023.4.14
文・引田有佳/Focus On編集部
人や社会の知らない一面を知る面白さを語る佐藤氏。企業の決算説明資料からはさまざまな情報を読み解くことができるし、いろいろなアルバイトを経験してみるだけでも想像もしていなかった社会の一面を垣間見ることができる。
飽き症という性質は、どちらかと言えばネガティブな文脈で使われることの方が多いかもしれないが、そこに行動とアンテナが伴うのなら、むしろ強みに変わると佐藤氏の人生は教えてくれる。
目標や夢中になれるものがないのなら、少しでも興味が湧いた世界に飛び込んでみる。そこに眠る面白さや発見は、やはり飛び込んでみないことには出会えない。
ニーリーの挑戦も、佐藤氏の人生と同様だ。固定化した社会通念に対して、新たな世界や選択肢を提示する。その答えはいつも世の洞察を深め、追求した先にあるものなのだろう。
文・Focus On編集部
株式会社ニーリー 佐藤養太
代表取締役
宮城県出身。2007年に金融機関向けシステム開発会社シンプレクス・テクノロジー(現シンプレクス株式会社)に入社。エンジニア、後にプロジェクトマネージャーとしてネット銀行/大手証券会社向けにシステムを導入。メガバンクのデリバティブDWH案件をPMとして実現した後、2011年GMOクラウド(現GMOグローバルサイン・ホールディングス株式会社)にて海外での新規事業検討、エンタープライズ向けクラウド事業を担当。その後大手事業会社の新規事業プランコンテストでの準グランプリ受賞を期に2013年に独立。以後、大手企業の新規事業開発案件を中心に事業企画から開発まで手掛ける。