Focus On
末永春菜
株式会社きゅんとふる  
代表取締役
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or人生に新しい分岐を求めるなら、自分自身で旗を立てよう。
「すべてのひとに自由なリテールを。」というミッションを掲げ、アジア・日本の小規模メーカーと世界中の個人店舗・小売店の卸取引をつなぐorosy株式会社。同社が運営するB2B卸仕入マーケットプレイス「orosy」では、独自性があり魅力的な商品を探すバイヤーと、国内外に販路を拡大したいサプライヤー双方のニーズを満たすべくサービスを展開。仕入れから翻訳、問合せ対応、決済、輸出など、卸取引に関わる事務作業とその周辺の物流・金融領域までを支援している。
代表取締役の野口寛士は、関西学院大学商学部に在学中からアプリ開発を行い、チームで渡米。シリコンバレーにあるベンチャーキャピタルのオフィスの一角で、1か月間アプリを開発しながらテント生活を送る。帰国後、日米の投資家から出資を受け学生起業したのち、2018年に同社を退任し、orosy株式会社(旧 株式会社スペースエンジン)を設立した。同氏が語る「人と差別化する生き方」とは。
目次
クラフトマンシップ宿る商品や、ユニークで魅力あふれるブランドが、まだまだ世の中にはたくさんある。「orosy」が生まれた背景には、そんな知られざる素晴らしい価値の数々を、小売を通じてより多くの消費者に届けたいという思いがあったと野口は語る。
「僕自身、今までにないものを作って知人や身近な人に驚いてもらいたい、喜んでもらいたいという思いが根本にあって、それをやられて悔しかったのがネットショップ作成サービスさんやクラウドファンディングさんだったんですよね。みんなが喜ぶブランドがたくさん登場して、『あぁこれは悔しいな』と思うと同時に、こういった商品を現実世界の小売に持っていく役目はまだ残っているんじゃないかと思って」
商品さえ送ってもらえれば、銀座に構える店舗で販売できる。創業当初のサービスは、今よりシンプルだった。メーカーはコストやリスクを抑えつつ、販路を拡大できる。
そこからより多くの販売ニーズに応えるべく、自社店舗以外にも他社店舗での販売も可能とするネットワーク化を加速。翌年には、バイヤー側からの「商品を探し、仕入れたい」というニーズに応え、双方向につながるB2Bマーケットプレイス「orosy」へと進化を遂げた。現在同社のサービスは、国内外7,000社の取引を支えている。
「最近では海外の販路拡大も積極的に進めています。海外のバイヤーさんも日本の3分の1ほどまで増えていて、やはり日本だけでなく海外に売りたい人や、海外にいて日本の商品を買いたい人も多くいるので、いち早く最適な場所をつなげていきたいと思っています」
さらに、より自由なリテールを実現していくため、今後同社では国内外に実店舗を展開すべく準備を進めているという。
「リテールという言葉には消費者も含まれているので、今後は事業者間取引のみならず消費者に届いた時の状態をより良いものにするところまで役割を拡大したいと思っているんです。たとえば、仕入れていただいたあと、お店でどうディスプレイされたのか、実際に消費者の方に喜んでもらえたのか、どういうストーリーであれば売れたのか。これを自分たちの店舗で学習できるようにすることで、バイヤーさんにお伝えしたりその姿をお見せしていく。それによって全体がより売れるようなサイクルを生み出したいと考えています」
各国発のローカルな商品が世界中の店先に並び、それぞれ尊重し合い、グローバルに消費されていく。それは、多様性が街の中に取り込まれていくことを意味する。大いなる挑戦へ向かうorosyは、真に自由な小売市場の未来を描いている。
大阪で生まれ、すぐに福岡へ。小学校の途中で埼玉へ引っ越したかと思えば、高校からは大阪に戻る。3~4年で転勤がある父の仕事の関係で、新しく友だちを作る機会は人より多かった。いち早く環境に馴染むため、幼少期から他人と差別化することを意識するようになっていたと野口は振り返る。
「転勤族なので、転勤した先で毎回ゼロから友だちを作らないといけないんですよ。友だちを作るには話しかけないといけないし、話しかけてもらえないといけない。元々の友だちもいるなかで、みんなにとって僕が新しい人じゃないと話しかける意味がないじゃないですか。おそらくこれを繰り返しているうちに、みんなと違う土俵にいることが僕の中で大切になっていったように思います」
たとえば大阪から福岡に引っ越すと、「大阪弁が喋れる」という特徴ですぐに覚えてもらえたように、周りに埋没しない自分であることがきっかけとなり、友だちを作りやすくなる。些細な違いだったりもするのだが、効果は絶大だと経験から学んだ。
みんなの予想を超える何かを持った自分でいた方がいい。そのためにも昔からいろいろなことに手を出してきた。
「両親にはとにかく何でもやらせてもらっていましたね。テニススクールに通ったり、少林寺拳法を習ったり。あとは英語をやりたいと言ったらすぐに英会話教室に入れてもらったし、塾にもすぐ入らせてもらって。何かやりたいと言ったら一通りやらせてもらえていました」
幼少期、父と
いろいろな経験をさせてもらい、できなかったことができるようになる。成果が出ると純粋に楽しくて、もっとやりたいと思うと周りを巻き込んだりもする。結果的にクラスや部活では、フォロワーであるより先頭に立つことが多かった。
しかし、反面ある一定まで上達して限界を感じると、次へと逃げるように興味の対象が移ってもいた。
「小学校の時、勉強で絶対勝てないな、天才だなと思う友だちが2人いて。それが分かると2人とは違う土俵に行こうと思ってテニスを始めたり、外で遊んだり。みんなと同じ土俵になったな、そこでなんか埋没してきたな、上には上がいてこの分野では差別化できないなと思うと負ける前にやめてしまうので、当時はいろいろなものをつまみ食いしているような印象でしたね」
多趣味と言えば聞こえはいいかもしれないが、挫折から逃げていると言えなくもない。何か一つを究めた人と対峙すると、この人は逃げてこなかったのだという凄みや負い目のような感情を抱く瞬間がある。
特に、身近な家族の存在が一層そう感じさせていたのかもしれない。
「逆に、母と妹はすごくオタク気質なんですよ。母はすきま時間さえあれば全部趣味のピアノに注いで、最終的に自分でピアノ教室を開いたり。妹はずっと絵を描いたり、漫画を読んだり。僕はそういう風に他人と比べた尺度を除いて、下手だろうが上手かろうが続けるものが当時なかったので、すごいなと思っていて。でも、今は起業やプロダクトを作る文脈においては勝ちたいと思っているし、10年も続いたものはほかにないので、天職が見つかったのかなと思っていますね」
小学校でも中学校でも、ときどきの環境で勝てそうなものや差別化できそうなものを選択しつづけてきた。一時は何かを究めた経験がないことに悩んだりもしていたが、結果として、そんな自分に一貫するものを自覚することにもつながった。
「ずっと悩んではいたのですが、前提として人に喜んでほしいという思いがあるので、それが達成されるなら長く一つをやり続けるでも、新しいことをやるでもいいなと今は思っていて。どちらかと言うと、自分の真の目的は周りの人を驚かせたい、結果喜んでほしいというところにあるのかなと思いますね」
埋没しない自分でいることで注目してもらえたり、周囲から反応が返ってくる。もちろんそれが良いことに転ぶときもあれば、ニッチになり過ぎて誰にも見向きもされないときもあるのだが、できれば周りの人を良い意味で驚かせたり、喜んでもらいたい。そう心から思うほど、いつしか人と差別化することが当たり前の生き方になっていた。
2-2. 自分の旗を立てること
大阪で過ごした高校時代は、私服で通える自由な校風だったこともあり、枠にとらわれずに思うがまま楽しく過ごしていた。
「比較的真面目に勉強する人も多い学校だったのですが、そのなかでも適当に登校したり、他校の子と遊んでみたりとか、軽音部のバンドではライブハウスに出たりとか、あいつらのグループって面白いことやっているよねと思ってもらえるような活動は多かったかなと思いますね」
なかでも当時の親友はひときわ目立つ存在だった。初日から金髪で入学式に遅刻してきた彼と、その友人である銀髪とモヒカンの3人組は、偶然同じ軽音楽部に所属したことがきっかけで、すぐに仲良くなった。
「彼らはほとんど学校に来なくて、そのうちの一人が親にマンションの一室を与えられていたので、そこが僕たちの部屋のようになっていて24時間誰かがいたりとか、大学生のような状態があったんですよ。でも、どこか線引きはあって、彼らはずっとそこにいるのですが、僕は夕飯の時間になったら帰ったり。転勤族だったからか、ものすごく仲が良くても同化ができないジレンマはどこかありましたね」
周囲と同じ土俵に立たないことは、全ての意思決定にかかわる軸だった。大学受験は、それが初めて難しくなったタイミングだったのかもしれない。
「たとえば中学でも、僕だけ大阪の高校を受験することになっていたので、クラスの中での成績比較に巻き込まれないんですよ。大学はそのまま関西の大学に行くとなった時に、みんなと同じスケジュールで一斉に何かをやるという経験が初めてだったかもしれないですね」
普通は仲の良い友だちと同じ大学を選んだりするのだろうが、あえてバラバラの大学に進学することにする。関東ではなく関西であれば金銭的に留学に行ってもいいと親から言われ、英語は得意科目で伸ばしたかったので関西の大学に絞る。最終的には、キャンパスも綺麗だった関西学院大学へと進学することにした。
高校の軽音楽部にて、ライブハウスで演奏した日
「ただ、大学は本当に楽しめなかった(笑)。大学の友だちと旅行に行ったりとか1回もなくて。みんな初めて1人暮らしをしてタコパしようぜ、鍋パしようぜとかなっているのも高校で全部やったしなと当時は斜に構えたり、同質化を避けた結果全然大学に行かなくなり。また、当時僕が大学生活に対して受けた印象として、サークルとか就活とか結構大きなレールがある印象だったので、あまり大学を活用せずに自分でほかの道を探そうかなと思ったんです」
必修科目だけ出席し、あとはなるべく大学に行かなくて済むスケジュールを組むことにする。ちょうど入学直後から始めたアルバイト先の先輩が、大学を休学し学生団体を立ち上げたり、アプリを作ったりと尖った活動をしていて面白そうだったので、チームに入れてもらうことにした。
「先輩にはものすごく頼っていました。その先輩ものちに起業されたりしているのですが、当時は就活生のマッチングアプリとか、大学の友だち同士で使う時間割アプリとか、自分の生活の中で見える範囲のアプリを作っていましたね。チームに2人くらいエンジニアがいたのでコーディングは彼らがやって、僕たちはデータインプット作業や物理的なイベント運営をやっていました」
お金のためでもなく、みんながやっているからでもない。純粋にやりたいという意思のもと集まる仲間たち。自由にアイデアを出し合い、未知の挑戦でもとにかくやってみる。そんな風に情熱を燃やす毎日は充実していた。
ますます普通の大学生活には魅力を感じなくなっていく。しかし、半年ほど経った頃、先輩が有名なビジネスプランコンテストに出場するため東京へ行き、メディアに取り上げられている姿を見て、はたと気がついた。
先輩のチームにいる限り、所詮自分は「チームの一員」でしかないのだ。
「大学の人たちと差別化したいと思って生きてきて、僕が勝手に尖って勝手に線引きして閉じこもっていたのですが、自分の欲求が満たされるような成果は何も無かった気もして。自分の場所、自分の旗がなければ真の差別化にはならないなと思って。僕が今やらなければいけないことは、自分の発想で自分の成果を出すことなんだと思ったんです」
社会に価値あるものと注目され、記事に取り上げられたり、人とは違うアウトプットとして認められる。そんな確固たる成果と呼べるものを残したい。そのためには、自分自身で思い描き、作り上げた何かが必要だと思った。
早速大学1年の終わり頃から準備を始め、アプリを作っていこうと考えた。
「最初は見よう見まねで13~14個くらいアイデアをいろいろ考えて。当時はFacebookが出てきたりSNSが流行っていた時代だったので、アンチFacebookを掲げて、近しい人同士で作るソーシャルネットワークサービスを作りはじめましたね」
当時公開されていたマーク・ザッカーバーグの半生を描いた映画『ソーシャル・ネットワーク』にも触発されながら、Twitter(現 X)で「誰か一緒にやりませんか」と呟いてみる。
すると、大阪大学と神戸大学のエンジニアから反応があり、チームに参加してくれた。デザイナーは、一時期アプリ開発について学ぼうと働いていたインターン先企業で出会った学生を誘い込み、必要なメンバーも集まった。
「先輩が出た『ブレークスルーキャンプ』という名だたる起業家を生んだ伝説的なビジコンに出て、挑戦してみたいなと思って。まずはそのビジコンに出て成果を残すということが、このチームの目的でした」
ビジネスプランコンテストには無事出場することができ、決勝にも進出した。
「そのビジコンは、私が出場する前年までは全員がマンションに2か月軟禁されてアプリ開発をして、風呂も全員で銭湯へ行くというすごく濃い形式だったんですよね。そのコミュニティに憧れていたのですが、運営上大変だったのか、僕たちが参加した時には週1回オンラインで進捗報告をして、最後の決勝戦だけ品川にあるマイクロソフト本社でプレゼンをする形になっていて。ただ、これは何か掴めそうだぞと思える手応えがあったので、その後もいろいろなビジコンに参加していこうということになりました」
次に参加したのは「Innovation Weekend」というピッチコンテストだった。ベンチャーキャピタルが主催していて、参加者は学生のみならず30代や50代の起業家たちも名を連ねる。1枠だけ一般公募枠があったので申し込んでみたところ、幸運にも審査を通過することができた。
「本当に初めてのきちんとした舞台で、大人がプレゼンしているなかで僕もプレゼンさせていただいて。そこに『TechCrunch』という米国のITメディアのファウンダーが参加されていて、アフターパーティで『今回一番面白かった、お前らシリコンバレーに来いよ!』と言ってくださったんです。『まじ?行く!』と(笑)、それがシリコンバレーに行くきっかけになりました」
大学時代、「Innovation Weekend」にて
コンテストでは優勝こそできなかったものの、動きつづけたことで思わぬチャンスが舞い込んできた。様子を見ていたコンテスト主催者の方も「来年、大阪市のプログラムでシリコンバレーツアーが始まって、補助金が出て安く行けるから応募しなさい」と親切に教えてくれた。
翌年、言われた通りに申し込み、チーム4人で憧れのシリコンバレーの地を踏むことができた。
「最高でしたね。それこそ2011年とかだったので、当時シリコンバレーに行っている日本人なんてほとんどいなかったんですよ。今でこそ一周回って結構距離が近くなってきたと思うのですが、当時はまだ『シリコンバレーに行ったことがある』というだけでも起業家の中で差別化になりましたし、実際現地にもそういう変わり者が世界中から集まってきていたので、すごく居心地が良かったです」
プログラム自体は1週間で、TwitterやGoogle本社を見学したり、現地のインキュベーション施設でプレゼンをしたり、さまざまな予定が組まれていた。それだけでも充実した時間を過ごせたが、チーム全員あまりにシリコンバレーへの憧れが強かったので、1週間ではなく1か月滞在するつもりで帰りの飛行機を取っていた。
ところが、到着してすぐに現地の物価の高さを思い知る。ホテル代も食事代も到底払える金額じゃない。7日間のプログラムが終われば宿なしになってしまうという事態になり、ツアー中はだれかれ構わず「泊めてほしい」と訴えていた。
「『誰か泊めてください、家ください』みたいなことを言っていると、とあるベンチャーキャピタルの方が『お前らクレイジーだな』と言って、『うちのオフィスがちょうど移転して広いから泊まっていいぞ』と残り3週間の住居を提供してくれたんです」
知らないオフィスの一角にある空間に、テントを張って寝泊りさせてもらう。代わりにツアー中プレゼンしていたアプリを開発させろということだったので、朝から晩まで開発に明け暮れる生活が始まった。
「あとから聞いたのですが、その時使わせてもらったキャンプ用品は、僕たちが泊まるために一式全部買ってきてくれたものだったらしいんです。やっぱり信念を持って行動しつづけていると誰かが引っ張り上げてくれたり、話しかけてくれるので、常に行動しつづけると良いことがあるということは経験を通じて確信しましたね」
大量のカップラーメンとセブンアップが食料として渡されて、その横でひたすらアプリを開発する。シャワーを浴びに行くにも人数分の自転車が足りず、一人は走って行かなければならない。まさに地獄のようなスタートアップ的生活を送った3週間は、その後の人生にも残る特別でかけがえのない経験となる。
動きつづけるほどに、人生には新しい分岐やチャンスが舞い込んでくる。そう身をもって学べた時間があった。
シリコンバレーにて、テント生活中
たった1か月ほどの滞在だったが、人生を方向づけるには十分だった。シリコンバレーで見たもの、聞いたもの、感じたもの全てが、当たり前だった世界の見え方を変えていくようだった。
「やっぱりシリコンバレーを一度経験してしまうと、もう抜け出せないというか。人と違っていいし、旗を立てていいし、むしろ何をやりたいと大声で言わないと誰にも興味を持ってもらえないんだということが分かったんですよね。あとは、たとえば世界を変えるとか自動運転とか、特別に感じていたもの全てが、意外と近くにあると感じるようになって」
メディアに取り上げられるシリコンバレーは、素晴らしく特別な地域であるかのように見えていた。しかし、実際そこで働く人たちは、なんのアイスを食べるか決めるだけで5分も話しつづけていたりする。
世界を変えるようなイノベーションの担い手たちは、意外にも普通の人間なのだ。ただ人より少しだけどこかが尖っていたり、熱量が高かったりするだけで、決して遠い世界の出来事じゃない。起業やスタートアップというものが、一気に身近になった体験だった。
「それこそ先輩のチームで活動していた頃は、当時ミクシィ(現 MIXI)とかグリーがサマーインターンでエンジニアに高給を出していた時期だったんですよ。そういうアプリを作っている学生やチームを青田刈りするような流れがあって、とりあえずやっておけば就職できるだろうという、結構よこしまな気持ちが強かったかもしれないですね。それがビジコンやシリコンバレーを経て、自分たちでもできるんじゃないかと切り替わっていきました」
日本に帰国後、起業したのは大学3年の夏頃だった。米国に滞在中、オフィスの一角を貸してくれたベンチャーキャピタルの役員からオファーをもらったことが、会社として挑戦していく決断を後押ししてくれた。
「最初は私と大阪大学のエンジニアとベンチャーキャピタルの役員の3人で創業して、全員リモートでしたね。米国と日本、それから大阪大学の子は理系なので研究室に泊まりっぱなしだったので、僕と物理的に会うこともあんまりなくて。時差もあるので夜中の2時からミーティングが始まることもあるのですが、世界中の人と一緒に働くスタイルもシリコンバレーでは当たり前だったので、自然と定着していきましたね」
サンフランシスコで行われた展示会にて、1社目のメンバーと
創業時3名だった会社はのちに7名ほどにまで増え、ますます多国籍になった。エンジニアはロシアに、PdMは米国、デザイナーは中東にいる。仲間は増えたがリモートなので、自宅のパソコンの前に一人でいる仕事風景は変わらない。共同代表から代表取締役COOという役割の交代を経て、4年ほどはそうしてサービスを作っていた。
「学生時代のチームで作っていたソーシャルネットワークサービスは、いざ出資してもらうというタイミングで出資者の方と議論して、結構厳しいよねという結論になり。じゃあこういうアイデアがあるけど一緒にやらないかと持ち込んでくれたのが、ベンチャーキャピタルから来た社長だったんです。当初は名刺交換アプリを作っていました」
試行錯誤を重ねたが力及ばず、資金が尽きてしまう。思うようにユーザーも集まらなかったため、サービスはクローズすることになった。
この先どうしようかと考えてみたが、どうしても自分の中で就職するというビジョンが見えなかった。そのため、すぐに次の起業に向けた準備に取り掛かっていくことになる。
「結局、1社目で支援してくださった個人のエンジェル投資家の方が『野口君が2社目をやるんだったら出資するよ』と言ってくださって。その方に拾っていただいて出資してもらいつつ、どんな事業にしようかとずっと壁打ちしてもらって、最終的に小売領域で挑戦してみようということが決まりました」
当時は個人が簡単にネットショップを開設できるサービスや、クラウドファンディング、あるいはInstagramのように個人ブランドの世界観を発信できる場が急速に盛り上がりつつある時期だった。実際1社目のサービスを作っていた時も、米国の小売大手企業の店舗の中でもクラフトマンシップを特色とする新しいブランドが販売されはじめ、続々と店舗を出していく動きを目にしていた。
コンセプトは新しいブランドや商品が誕生し、街中に出ていく流れを助けるようなサービスを作ること。そこからorosyにつながる挑戦が始まった。
「最初にやったことは、商品が街に出ていく場所、つまり店舗を自分たちで作ってしまおうと。店舗で商品を販売したい人は商品さえ送ってくれれば大阪の梅田や東京の銀座で売れますと、そういう受け皿を用意しようということで、実店舗を7つくらいオープンしましたね。最初の店舗は従業員なんていないので、ショップには妻と僕が2人で立っていました」
初期の店舗アイデア
ユーザーからの反応は上々だった。たとえば、離島でアクセサリーを作っているクリエイターや、子育て中で働くことはできないが好きなものを作っている人、さらに地方で展開しているため東京でポップアップストアを出店しようにも出張費や宿泊費、什器代などのコストが支払えない企業などニーズは多くあったのだ。
都心の大型百貨店や商業施設に店舗を持つことができ、多くの人に喜んでもらえている実感があった。しかし、数店舗で扱える商品量は物理的に限られている。400~500件の申し込みが来たところで、実際に売れるのは30ブランドほどだったりする。加えて、店舗がない地域、たとえば北海道や沖縄で売りたいと言われても実現は難しい。
喜んでもらえてはいるけれど、完璧ではない。だからこそ、商品を売ってもらえる店舗を募集して、ネットワーク化していくことにした。それにより、一気に日本全国へと販路を増やすことに成功する。最終的には店舗側からの要望を受け、仕入れもできるマーケットプレイスという形式に着地した。
「商品を売りたい人が『売ってほしい』と店舗に申し込んでも、最終的に消費者に届けてくださるのは店舗の方で、綺麗に陳列してくださってり、ポップを書いてくださったり、お客さんが見ていたら一言声をかけてくださるからこそ売れる。バイヤーさんにとっても、店舗とマッチした商品が一番売れるということで、そういった意味で今のマーケットプレイスにアップデートできてよかったと思います」
バイヤーとサプライヤー、売り手と買い手、リテールとは双方が存在してこそ成り立つものである。進化しつづけるマーケットプレイス「orosy」が媒介となることで、より多くの出会いや機会が生まれ、世界は少しずつ彩り豊かになっていく。
大学在学中に起業して約10年、レールのない人生を歩んできたからこそ学べたことがあると野口は語る。
「一つ言えることは、『自分でもできるんだ』というイメージが大事かなと思います。起業や何かを作ることに、実はそんなに高いハードルは無くて、自分でもやりたいと思ったら踏み出せるんだと、自分でもできるんだという感覚を得るとすごく自由になりますよ」
たとえば、医者家系に生まれた人は医者を志す人が多いように、(身近な人にできたのだから)自分もできそうだという感覚が自信となって、行動へとつながっていく。
「まだ準備ができてないから」とか「お金が無いから」、「あまり詳しくないから」と、必要以上に自分で自分を縛る必要はなく、誰もが自分に自信を持っていい。自信とは、小さな成功体験を積み重ねることで誰にでも手に入るものだと野口は考える。
「最初から大きな目標を持ってしまうと挫折してしまうと思うので、たとえば英語をネイティブと話せるようになりたいなら、最初は1時間のミーティングをなんとか乗り切る。筋トレなら体脂肪率を0.1%でも落とす。そういう風にとにかく小さな目標を持って、それを達成したことをきちんと喜んで楽しみながら物事を続けると、成功体験を積める。それが自信になっていくのではないかと思います」
いきなり大きな目標を掲げてそこだけを見ていると、理想と現実のあいだにある果てしない距離に尻込みし、挫折しやすくなる。メディアに取り上げられている人や、周囲にいる自分より進んでいる人との比較に目を向けることもそうだろう。
実際はそこに10年という歳月分の努力の差があるかもしれないし、1,000回同じことを繰り返してきたあとの1回を目の前で披露してくれているだけかもしれない。目に見えるギャップに焦点を当てるのではなく、見えない差の存在を理解することが必要になるという。
「僕もピッチをするとき、昔は舞台袖でビールを2杯飲んでステージに上がらないと緊張して喋れなかったんです。一人でカラオケに行ってマイクを持ってプレゼンの練習をしたり、自分で動画を撮ってチェックしたりとか、そういうことをやっても当日は緊張してしまうので。今ではもう、目をつぶっても5分ピッタリで喋って帰って来られるので、やっぱり慣れは大きいですよね」
どこに目を向けるかで、見え方は大きく変わる。たとえ全体はやりたくない仕事だったとしても、少しでも好きな部分を見つけ、そこに意識的に目を向けて取り掛かることはできる。もしも何も見つからないのなら土俵を変えてもいいのかもしれない。
後回しにしたり逃げたとしても、いつかは向き合わざるを得ない時が来る。それならいっそ、些細でも好きな部分や小さな目標達成にきちんと喜び、一つひとつを楽しんでいく。そんな一歩が起点となり、新しい道は見えてくるのだろう。
2024.7.4
文・引田有佳/Focus On編集部
幼少期の環境ゆえに、周囲と差別化した自分であることを意識してきたと語る野口氏。人と違う何か、初めて会った人に驚いてもらえたり、喜んでもらえる何かを持った自分でいるために、どの土俵に立つかを選んできたという。
マーケットプレイスとしての「orosy」で取り扱われるブランドや商品も、大量生産されるありきたりな既製品とは違う。一つひとつがユニークで、クラフトマンシップがあふれていたり、ほかにはない魅力を持っていたりする。
場や機会が存在しなければ、多くの人の手に取られることなく、知られることもなかったであろう価値の数々を、orosyは決して埋もれさせず、国境を越えて流通させる。集めることも、送り出すことにも障壁をなくしていく。
唯一無二の輝きを放つ商品は、人々にポジティブな感情を抱かせるに違いない。つまり、orosyが描く「自由なリテール」が実現されるほど、世界はもっと驚きや喜びに満ちていく。
しかも、それは限られた人だけのものではない。全ての人の手で、世界を少しずつより変えていくことができるようになるということだろう。
文・Focus On編集部
orosy株式会社 野口寛士
代表取締役
1991年生まれ。関西学院大学商学部卒。大学在学中、映画「ソーシャルネットワーク」に感銘を受け、Twitterでエンジニアを募集しアプリ開発のチームを立ち上げ、アプリ開発を始める。チームメンバーと米シリコンバレーを訪問。現地で日本オラクルや日本セールスフォースを立ち上げたベンチャーキャピタルに出会い、交渉の末彼らのオフィスの一画で1ヶ月間のテント生活をしながら、アプリのプレゼンと開発を行う。その後日米を含む投資家から1.2億円の投資を受け学生起業、日本と米国を中心に活動。2018年3月同社退任、2018年5月株式会社スペースエンジン(現orosy株式会社)を設立し、D2Cブランドを中心とした卸・仕入サービス「orosy」を運営。