「遊び」で社会を変えるビジネスを ― 一度目の命日に起業を決めた「遊び起業家」

人生をいかに楽しむか。答えは、シンプルに遊びを追求した先にある。


人生を遊び尽くしたい人に贈る、遊びのリアル体験投稿メディア「PLAYLIFE」。ユーザーが実際に体験した遊びを投稿することができ、遊びのノウハウやプランが検索・共有できる。運営するプレイライフ株式会社は、遊びをもっと楽しく、そして社会課題さえも「遊び」で解決するという想いのもと、全世界70億人分の「遊びの集合知」を創ろうとしている。DeNAやアクセンチュア、みんなのウェディングIPO室長などを担ってきた、同社代表取締役の佐藤太一が語る「人を幸せにする遊び心」とは。



目次

1章 人生を遊びで彩る

  1-1.  遊びにあふれた世界を

  1-2.  70億人分の遊び

  1-3. 「遊び」で変わる社会


2章 生き方

  2-1.  堅実な父の背中

  2-2.  豪快な祖父の背中

  2-3.  科学で説明できない世界がある

  2-4.  部屋に創った自分の世界観

  2-5.  遊びの天才「ふたぐち君」

  2-6.  スパイになるために

  2-7.  音楽も大事

  2-8.  音楽を捨てスパイの道に

  2-9.  スパイでも音楽でもなく、ビジネス

  2-10.  ホームに飛び込んだ一度目の命日


3章 PLAY SUPER HARD

  3-1.  全員を「ふたぐち君」にしたい


4章 おわりに



1章 人生を遊びで彩る


1-1.  遊びにあふれた世界を


大人になってからでも、秘密基地を作っていいはずだ。誰にも邪魔されることのない、自分だけの世界。どんな材料を使い、どんな空間をつくるのか。そこには、大人になって忘れていた感性がほとばしる。童心に帰って無邪気に遊べる余白は、不思議と心を落ち着かせてくれる。本当は、誰もがそんな居場所を求めているのかもしれない。


プレイライフ株式会社が運営する遊びのリアル体験投稿メディア「PLAYLIFE」。広告宣伝費ゼロかつ社員1名のときに月間利用者数100万人を突破し、現在は月間300万人以上が遊びの知恵を求め訪れている。2013年の創業以来、元SMS創業者諸藤氏、元クックパッドCFO成松氏、環境エネルギー投資をはじめ、合計1.9億円の資金を調達している同社。日本全国の遊びを制覇し、人と地域をつなげた「日本創生」を実現していく同社は、遊びのコンテンツメディアを運営しながら、プランのコーディネート、マーケティング、人材育成など、遊びにまつわるさまざまな課題解決サービスを担う存在である。


代表取締役の佐藤氏には、幼いころからの夢があった。『ミッション:インポッシブル』のような国際的な諜報組織で「スパイとして働くこと」。その夢を叶えるべく、大学を卒業後には米国へ留学した過去をもつ。海外での生活を経て、自分を見つめ直し帰国。その後は、趣味であった音楽×ビジネス領域で起業することを志し、ビジネス感覚を身に着けるためアクセンチュアやDeNAなどで戦略コンサルタントとして活躍した。


しかし、29歳のとき、過労死寸前まで追い詰められたときに見た「遊びの思い出」の走馬燈をきっかけに、自分にとって一番大事なものが何であるかに気づかされる。それは、幼少期に「遊び」の中で感じた感覚や、友人との繋がりの数々。この出来事が、「遊び起業家」佐藤太一とプレイライフ株式会社創業のきっかけとなった。


「自分が考えた遊びを作ってやりきりたいですね。何かと何かを組み合わせて新しいものを作る。秘密基地とか、イカダみたいなものを作る遊びを、もう一度やりたいんです」


誰よりも本気で遊びに向きあい、楽しい遊びにあふれた世界を創りたいと願う、佐藤氏の人生に迫る。


1-2.  70億人分の遊び


全世界70億人分の遊びの記憶が集まったとしたら、どんな風に遊びは進化していくのだろう。


小学校の帰り道、意味もなく白線だけを踏んで渡った横断歩道。大人の目を盗んで忍び込んだ、知らない家の庭。あり合わせの材料を組み合わせた手作りの秘密基地。いつまでも心のなかで色褪せない、子どものころの遊びの記憶。


人生において何が大切であるかに気づくことができるのが「遊び」で、それは人間にとって重要な行為である。



人生の約1/3を占める遊びを楽しくすれば、一度きりの人生がもっと楽しくなるはずだ。気心の知れた仲間と過ごす最高の時間。遊びとは「楽しい時間の共有」であると、佐藤氏は語る。同じ映画を見ていたときに、同じ箇所で笑い、同じ箇所で感動するように、時間を忘れるほど夢中になれる時間を誰かと共有することは、きっと人生を彩ってくれるはずだ。


「自分が考えた遊びをみんなと共有したいんです。それをみんなに良いものだと伝えたい、『これ超楽しいじゃん』と言われたい。自分の友だちや好きな人や家族、そしてそのほかの人たちに感動してもらいたいっていう感じですね。『あれ、めっちゃ楽しかったよ』って言われたら、『まじで?じゃあ、一緒に遊ぼうぜ』って言いたいです」


楽しい遊びの思い出をノウハウとして共有し、毎日を遊び倒すための「遊びの集合知」を創るプレイライフ株式会社。同社が運営する実名制の遊び体験共有メディア「PLAYLIFE」は、体験者でしか知り得ないリアルな情報を蓄積し、明日を特別な一日にするためのプランをトータルコーディネートしてくれる。


「おいしい店は飲食の口コミサイトを見ればわかるし、僕が届けたいのは、ただ単においしい店だけじゃなくて、そこに“ストーリーがある遊び”です。たとえば、いきなりこのあと築地に行って海鮮丼食べて、それで終わりとかじゃなくて、『海で花火しない?』みたいな感じになって海沿いで花火して、そのままノリでみんな海に入っちゃって、最後は温泉行って露天風呂で語り合うみたいな、そういう遊びですね」


思いに共感した仲間が集まり、とびっきりの遊びの体験記が集まっていく。たくさんの笑顔に囲まれ、みんなで一つになる感覚を大切にする仲間だからこそ、本気で遊びに悩む。そこにあるのは、マニュアル的で王道のプランではなく、本当に心に残る非日常のサプライズだ。


人生は遊びであり、遊びは人生である。毎日を最高の思い出に変えるため、プレイライフはもっと楽しい遊びの在り方を提案しつづけていく。



1-3. 「遊び」で変わる社会


遊びで人生の大事なことに気づくことができる。同時に、遊びで社会問題を解決することもまた、プレイライフの重要なミッションの一つである。


同社に所属する約200名の「遊びのプランナー」。彼らは日本全国の遊びを実際に体験し、情報として蓄積するだけでなく、より楽しめる遊びのプランを提案していく。「生きた」情報として地方の魅力を再発見し、発信することで、各地のスポットでの体験をブラッシュアップし、地方活性化に貢献していくのだ。


「僕たちはこれを『施設の磨き上げ』と呼んでいます。少し工夫したり切り口を変えることで魅力が増す地域の施設をクローズアップして、流行などに合わせて発信しているんです。単純な記事広告ではなく、一緒に遊びのプランを作ろうという依頼をしてくださるクライアント様をもっと増やしていきたいと思っています」


地方自治体や企業などとタイアップした企画だけでなく、遊びの目利きを得意とするプランナー自ら全国各地に赴き、面白いテーマやスポットを発掘することもあるという。人にとって大事な機能ともいえる「遊び」の種は、日本全国に存在しているのである。種(施設)が磨かれていないだけなのだ。


地方取材(長野県大町市)にて。


現在、同社が展開する「遊びのコーディネート」サービスでは、地方の遊びスポットに詳しいコーディネーターと、遊びを探すユーザーをマッチングさせることで、地方における仕事を創出する取り組みが生まれている。ほかにも、各地でWebマーケティング研修を実施することにより、自治体や地銀の若手人材の発信力育成にも挑戦している。


「実際に、トライアルとして福岡銀行様にWebマーケティング研修一日コースを実施しており、こういった取り組みを行うことで、地方自ら活性化へのアクションを取れるようにし、地方活性化への推進力を高めていこう、そこにプレイライフが貢献していこうという意図を持ったものです」


地方の魅力を再定義し、そこに雇用を生むこと。それだけでなく、そこに暮らす人々が自律的に行動を起こせるようにする。「遊び」をきっかけに、地方活性の循環を生み出すことすら可能になるのだ。


人にとって大切な気づきを生みだす「遊び」。人間の生命機能へも訴える遊びだからこそ、生体由来の強力なエネルギーを生み出し、人の遊び欲に訴えかけ、人々を呼び寄せ、日本中に存在する遊びの種を燃やしてくれる。遊びに駆り立てられた人々の力により、地方の活性すらなし得る。


性別や世代を問わず、多くの人の本能に訴える「遊び」を切り口に、地方経済の課題を解決するサービスを提供する。それは「遊び」を「仕事」にする、プレイライフだからこそできることである。


すべてを遊びに変える。同社のビジョンにより、日本全国の遊びが進化し、経済や社会に資する集合知が創られていく。


見えている景色は「遊び」だけではない。その先に見える人の幸せ、人の幸せを永続的な構造として生み出す力が、ここにはある。



2章 生き方


2-1.  堅実な父の背中


北海道の中西部から日本海へそそぐ石狩川、そのほとりに広がる石狩平野は、開墾の歴史のなかで古く稲作が栄えてきた土地である。なかでも佐藤氏が生まれ育ったのは、のどかな田園風景が広がる空知郡奈井江町(ないえちょう)という街だった。


かつて石炭産業によって栄えた街の人口は、佐藤氏が幼少のころは8000人、いまでは5、6000人ほどにまで減少している。スーパーにヤンキーがたむろしているような、典型的な田舎だったと佐藤氏は振り返る。


炭鉱とガソリンスタンドを経営していた寡黙な父と、おせっかいでおしゃべりな母。自身の幼いころはいたずら好きで、厳しかった両親にはいつも怒られていたという。


「いたずらが何かっていうのは思い出せないんですけど、基本父ちゃん母ちゃんにはひたすら怒られまくっていて。うちは2世帯住宅だったんですけど、3階が父ちゃん母ちゃんちで、2階がじいちゃんばあちゃんちで、怒られたらじいちゃんばあちゃんの所に逃げるんですね」


怒られたときの逃げ場として、祖父母はいつも佐藤氏を優しく迎えてくれた。一緒に夕方のドラマの再放送を見て過ごすうち、いつしか『遠山の金さん』などの時代劇が大好きになっていたという。一人っ子だった佐藤氏は、祖父母や10歳ほど上の従兄弟に遊んでもらうことが多く、年の離れた大人たちに囲まれながら育った。


佐藤氏の実家の炭鉱。


一方、佐藤氏の父は多くを語らない人だった。印象に残っているのは、経営者としての父の背中である。


「父はほぼ何もしゃべらないんですけど、ものすごく慕われているんですよ。お前の父さんについていったら間違いない、っていう絶大なる信頼を受けていました。たしかに誰よりも仕事しているし、誰よりもみんなのことをちゃんと考えていて、石橋を叩きまくって叩きまくって石橋が壊れるんじゃないかっていうくらい、ものすごく慎重な人ですね」


曲がったことが大嫌いで、家庭では明治時代の家制度のように絶対的な存在だった父には、厳しく怒られることが多かった。幼いころ友人と喧嘩したときは、明らかに相手が悪く、一方的に佐藤氏が殴られていたとしても、友人の家に謝りに行かされた。結果的に喧嘩をしたということはお前が悪いということだろうと、すべて自責で考えさせられたという。


「父と接するときは怖いので、表面上あまり笑うこともなくて。でも、へらへらして機嫌を伺うっていうのも自分のプライドが許せなくて……」


家庭では父の言うことが絶対だった。けれど、それには負けたくないという思いもあった。口を開けば何が火種になるかわからない。なるべく波風立てないように、弱みは見せないようにした。厳しい両親にただ従うことは許さない自分。幼い佐藤氏には、いつしか自我やプライドというものが芽生えつつあった。



2-2.  豪快な祖父の背中


親はいつも自分の夢をつぶす人だったと語る佐藤氏。子どものころから、将来は三菱商事に入るか、公務員になれと言われてきた。堅い仕事に就き、角を立てない人生を歩むことを両親は望んでいた。


特に、祖父のような人には絶対になるなと言われて育ったという。


「じいちゃんが父とは真逆だったんですよね、めちゃめちゃな人だったんですよ。炭鉱の初代創業社長で父が2代目なんですけど、あとから聞いたら飲み会で株券を配っていたらしくて、父親が継いでから使途不明株がけっこう出てきて、『それ、じいちゃんが昔飲み屋で配った株券だ』って(笑)」


19歳から会社を経営していた祖父は、はじめは財閥系商社の子会社から1000万円で山を買い、一時は売上100億円を越えるほど会社を成長させていた。とにかく思うがままに周囲を巻き込んでいく豪快な人で、突然ボーリング場をつくろうと言い出すと、一ヶ月後には実家の隣にボーリング場ができているのだ。


「『温泉作るぞ』って言って。うちの地元の奈井江温泉作ったのが、じいちゃんなんですよ。ほんと謎なんです。炭鉱は大成功したんですけど、温泉とボーリング場は大失敗していて、ボーリング場つくっても田舎だから人が入らないじゃないですか。何やったかっていうと、ボーリング場をリノベーションして、いまスーパーになってるんですよ。そんな馬鹿なって」


奇想天外で神出鬼没。思いつきで何でもやる祖父は、佐藤氏にとって、良くも悪くも印象に残っている。


地域を支える人物だったからこそ、祖父のもとには政治家も訪れていた。お金にかかわる付き合いなどは、幼いころにはひどく汚い大人の世界に見えた。それ以来、佐藤氏にはお金に邪悪なイメージがあるという。


さらに、祖父は酒癖がひどかった。祖父はいつも奔放に飲み歩くため、佐藤氏が高校生のときには、金曜と土曜の夜は、街の居酒屋に行って祖父を探しだし、タクシーで連れ帰ってくることが日課となっていた。


「豪快ですね。もう全部おごりが当たり前で、じいちゃんが店入った瞬間に、そこにいる客は全員タダです。(たくさんの町民から慕われていて)町民栄誉賞を何度も受賞してるんですよ」


そんな祖父が亡くなったときの葬儀には、町中から延べ1000人ほどの人が集まり参列していたという。通常の葬儀場では人が入りきらなくなり、隣にあった街のコミュニティセンターを開放したほどである。それだけ祖父は、多くの人の心に残る人だった。


「このままいったら自分も会社を継ぐのが当たり前なのかなっていう思いはありましたね。特にそれがつらいとか面白いとか何の考えもなく、これだけの世界観がある親族だったら、その世界観に気圧されてかわからないですけど、自分もその主人公になるのかなって」


父と祖父の背中を見て育ち、それぞれの良い面も悪い面も見てきた。


父のように真面目で堅実だけれど縛られたような経営者も少し嫌だったが、一方、その反面教師だった祖父のように、豪快で型破りの経営者もはたして良いのだろうかと感じていた。


いずれにせよ、二人がそれぞれの世界観をもって生き、周囲の人々から慕われていたことは明白だった。


「(会社を継ぐことが)心から幸せかとか楽しいかっていうと、そうではなかったんですよ。それよりも、何かしら自分の好きなものに囲まれて生きていきたい、自分だけの世界で生きていきたいなと思っていました」


父の世界観でもなく、祖父の世界観でもない。二人の良くないところは反面教師に、佐藤氏も自分なりの世界を打ち立て、自由に生きていきたいと考えるようになっていた。いつかそんな風に、自分が好きな世界観を創り上げられる人になりたかった。


3歳の誕生日。


2-3.  科学で説明できない世界がある


佐藤氏には、はじめて物心がついた瞬間の記憶がある。3歳の誕生日、ケーキに刺さったロウソクの火を吹き消す家族だんらんの風景。あたかも、乾杯のあとパーティ会場から抜け出してバルコニーで風に当たる人のように、少し疲れて実家の階段を降りていたそのとき目が覚めた。


まるで水面に浮上するかのような覚醒の感覚。それまで早送り映像のようだった記憶が、はじめて形を成し、色彩を得た瞬間である。そこから佐藤氏の世界は動き出した。


佐藤氏の人生は、このときからいつもドラマティックな映像とともにある。


「そこからマセガキになっていって、アニメとか戦隊ものとか普通の子どもの遊びは全然魅力に感じなかったんですよ。小1のときの誕生日プレゼントで仮面ライダーとトランスフォーマーのおもちゃをもらったんですけど、もらった瞬間にゴミ箱に捨てました。そんな感じでひん曲がっていて、中学1年くらいまでは大人の遊びが好きみたいな子どもだったんです」


興味があったのはむしろ、父の職場で目にする、さまざまな機械や重機の部品だった。鍵で油圧ショベルのエンジンをかけ、右のペダルを踏むと動き出す。車のヘッドライトに使う光ファイバーが光る。そのメカニズムが面白かった。なかでも動くものや光るものに魅せられた佐藤氏は、部品をもらって帰っては自分で動かしていた。


「単純に美しいものに興味をひかれて。その理由ってなんですかね、光ったときに、そこの風景がぶわって変わるじゃないですか。これとこれをやったらこれが光って照らされて、今までと違った風景が見えるって、すごく面白いなと思っていたんです」


なぜ電気にはプラスとマイナスがあって光るのか。なぜ機械が動くのか。その理由をどこまでも深掘っていくと、最終的には「そういうものである」としか言えない、どこか科学的には証明できない世界があるような気がしていた。


「漫画の『鋼の錬金術師』でいうと、等価交換じゃないじゃんみたいな。そういう意味では、小学校とか幼稚園のころ、けっこう科学に興味はあったかもしれないです。何か光るものとか動くものとか奇妙なものですね、科学とか普通には証明できないようなもの、そういうものにやたらめったら興味がありました」


幼いころから、論理的には説明できない、超自然的な世界の存在が垣間見える瞬間があった。祖母によく連れられていったお寺では、般若心経を聞くと心が安らぎ、「死」というものを身近で自然なものに感じるようになっていた。


「ご先祖様とか幽霊はちゃんといるんだろうなって感じです。感じるし、たまに見えるし。死に関しては、あの世はあるとか成仏できなかったら現世に漂いつづけるというのは当然なんだろうなと思っていて、怖いと思ったことは一度もないですね」


奇妙なものや、科学的には説明できないもの。その存在を身近に感じていた幼少期。そこには、誰も知らない未知の世界への憧れもあったのかもしれない。科学や論理を越えた、スーパーナチュラルな世界がきっとあると信じていた。



2-4.  部屋に創った自分の世界観


いまここではない夢の世界に行きたい。現実とは別の、どこか光に囲まれた世界に行ってみたいという思いがあった。当時は、夢見心地な少年だったかもしれないと佐藤氏は振り返る。


「週末だいたい親とデパートに買い物に出かけていたんですけど、そのときに綺麗な風景とか、水の揺らぎとかに興味があって。この光り方は一期一会だなとか、再現性のない光り方を示す自然はすごいなぁと思っていました。おもちゃ売り場とかも連れていかれるんですけど全く興味なくて、僕は宝石売り場に直行して、オパールとかサファイアとかをショーケース越しにずっと見ていたんです」


きらめく宝石や、美しい自然の姿に目を奪われた。いま思えば、そこには大好きだった光があった。邪悪なイメージのあったお金の世界への反動からか、なるべくお金の介在しないきれいな世界で好きなことをやっていたいという思いがあった佐藤氏。自由でクリエイティブな世界への憧れがあり、小学2年生のころから音楽に夢中になっていた。


「X JAPANとかですね。一緒に遊んでくれる従兄弟が、北大とか小樽商大とかの大学生でライブに連れ回してくれて。その当時はまだXで、『紅』で紅白に出ていた全盛期の時代です。だから、小2の割には相当マセていて、音楽とかアーティストってすごくいいなと思っていました」


テレビの音楽番組やライブを見ていると、色とりどりの照明やドライアイスがステージ上で使われていて、視覚を楽しませてくれる。非日常の空間で、自分も光に囲まれてみたら面白いかもしれない。自分なりの世界を表現してみたいと、試してみたくなった。


「いまだに覚えてるんですけど、自分の部屋に水を流して、その水に光を当てて反射させてぶわーみたいな感じとか、それにシャボン玉とかをかませてとか。僕の部屋16畳くらいあって、しかも3部屋あるんですけど、そのなかで光とかシャボン玉とか、水流したりとかして実験しまくっていたんです」


現代のメディアアートのように何かと何かを組み合わせ、自分だけの世界観を表現する。子どもながらに初めて生み出したクリエイティブを、大好きだった従兄弟はとても褒めてくれた。それが、幼い佐藤氏にとって何より嬉しかった。


「電球で遊ぶとか、積み木で遊ぶとか、決められたもので遊ぶのは普通じゃないですか。何かと何かを組み合わせて新しいものを作って褒められたっていうところが嬉しくて。自分の作りだしたものが人に認められて、人を感動させるっていう原体験になったのがそこですね。小3のときです」


自分なりに描いた夢の世界。現実とは違い、そこにはただ純粋で美しい光があふれている。何かと何かを組み合わせ、自分の世界観を表現すること。佐藤氏は、それが人の心を動かすことの喜びを知った。



2-5.  遊びの天才「ふたぐち君」


小学2、3年生のころ、生涯忘れられない一人の友人との出会いがあった。塀に向かってサッカーをしていた、怖そうな近所のガキ大将。思いがけず佐藤氏が勇気を出して話しかけてみると、意外にも仲良くなることができた。


3歳年上で「ふたぐち君」という名前だった彼は、その場にあるものでオリジナルの遊びを企画する天才だった。


「ふたぐち君が決める遊びが、めちゃくちゃ面白いんですよ。いきなり『イカダ作って川渡るか』って言って、作ったイカダをよっこいしょって運んできて、『よっしゃ浮かべるぞ』って川に浮かべた瞬間に崩落する(笑)。それで結局みんなで川遊びすることになって」


みんなで材料を集めて作ったイカダ。それが本当に川に浮かぶのかどうか、その瞬間にどれだけわくわくしただろう。晴れた日には外で秘密基地を作り、雨の日は家のなかで碁盤とパチンコ玉、トランプを使った4人対戦のゲームをする。「今日は何をして遊ぶ?」。誰かがそう聞けば、いつも予想もつかない遊びのアイディアが飛び出してきた。


「毎回毎回ふたぐち君が作る遊びがすごくて、みんなそれで驚愕していて。よくあるボードゲームなんかよりも全然面白かったんです。しかも、ふたぐち君はすごいファシリテーターでエンターテイナーだったんですよ。いまでもすごく会いたいですし、あの人みたいになりたいなと思っていました」


それまで学校帰りや週末の遊びといえば、一人で行く映画館や、親に連れられていく札幌のデパートくらいのものだった。ふたぐち君との出会い以来、佐藤氏にとっての遊びの概念が変わった。


「いままで遊びって、毎週車で一時間くらいかけて札幌のデパートに行ってお買い物してみたいな。それが彼らと仲良くなってからは自然のなかで遊ぶようになって。たとえば、街全体を使ってドロケイをやったりとか、近所の野原で遊ぶとか、『これが遊びなんだ』っていうのをはじめて知ったんです」


以来、週末も平日の夜も、小学生時代はいつもふたぐち君のところで遊んでいた。


「自分たちで何もないところから遊びを作っていく。秘密基地もそうですけど、材料から集めて、設計図はただ四角とか。それってもう書かなくていいんですが(笑)。ある意味アートですよね。あのときが一番楽しかったですね」


ゼロから遊びを作り、お金をかけずに自然のなか遊ぶ。森を切りひらき、冒険をしているかのようなわくわく感。あのころの遊びは、何にも勝る思い出として佐藤氏の心に残りつづけている。


いつものメンバーで集まり遊ぶ。そうかと思えば、偶然出くわした別のグループが加わり、仲間が増えていることもある。


「秘密基地を作っていて、『そしたら俺は釘が調達できるから釘は任せろ』とか、『板はあそこに行けばいいんじゃない』とか、いろんな情報が集まってきて。『運ぶのはうちの姉ちゃんが車持ってるからちょっと頼んでみるわ』っていうやつがいて、廃材をトランクに詰め込んで。こうやってみんなを巻き込んでいくと面白いなと思いました」


同じ時間を共有し、同じ楽しさを共有する。仲間が増えていけばいくほど、遊びの可能性は広がっていく。


当時、一足先に中学生になったふたぐち君は、毎日部活に追われるようになり、一緒に遊んでくれなくなっていた。


遊びの主導権が回ってきたのを機に、今度は佐藤氏がふたぐち君の役目を担い、新しい遊びを提案するようになった。


リアル三国志ゲームや秘密基地作り。何かと何かを組み合わせ、まったく新しい何かをつくり出す。自分が考えた遊びでみんなが楽しんでくれることは、たまらなく嬉しかった。楽しさとわくわくが詰まった思い出の数々は、いまも目に浮かぶほどである。それは佐藤氏にとって、一番の遊びの原体験となっている。


「遊び」を支援する制度として、同社がエンジニアにプレゼントしている一体型VRヘッドセット「Oculus Go」(オキュラスゴー)で遊ぶ佐藤氏。


2-6.  スパイになるために


中学生になると、徐々に将来を意識しはじめていた。大好きだった音楽の道に進むのは面白そうだ。あるいは、当時流行していた映画『ミッション:インポッシブルシリーズ』や『007シリーズ』を見て、「スパイになるのもいいな」と考えていた佐藤氏の描いた将来。そこに共通していたのは、自分だけの自由な世界への憧れであった。


「スパイになったら、今は世の中にないような機器、たとえばタイムマシーンとか、空を飛んだりとか、スーパーナチュラルなものとか非現実のものに早く近づけるかもしれないなと思ったんです。人が考えていることの99.9%は現実化してるので、未知の世界に憧れる自分の欲求を満たせるのかもしれないなと思って。単純に音楽の道ではアーティスト。実務としてあるものがスパイかなと思って、両方に興味を持っていましたね」


当時佐藤氏は、スパイになるにはそれなりに学がいるのではないかと考えた。この田舎のなかで圧倒的な一番になり、良い大学に行かなければならない。そう思い立ち、勉強は一番大切なものと捉えていた。


「その中学でめっちゃ勉強頑張ってる人って、部活に入っていないか、入っていてもおとなしめの運動部の人だったんですよ。でも、勉強集中モードって、なんかそれはダサいなぁと思って。小さいプライドですよね。『自分は野球部だし、勉強は一番、しかも音楽もやってるよ』と言えるようにしたいと、そういう謎のプライドがあったんですよ」


小学校から野球の少年団に入っていた延長上で、中学も野球部に入ることにした佐藤氏。練習に明け暮れながら、教科書の隅から隅まで勉強する日々。遊びを企画するガキ大将だった小学校時代から一変、中学からは勉強にあけくれるようになり、いじめられるようになっていたという。


「野球部に入ったんですけど、野球部はヤンキーしかいなくて。学年でもちょっとだけ頭が良かったので、だいたい学年3番以内には必ず入っていたんですけど、そうなるといじめられるんです。僕も『お前らみたいなバカと一緒にすんな』ってずっと言っていて、調子に乗ってたんです」


いまでは実家に帰れば遊ぶほどの仲だが、当時は、佐藤氏も負けたくないという想いから、いじめに対し反撃していたらしい。


野球自体はそれほどうまい方ではなく、好きかと問われれば大好きとは言えない。声を出すことは面倒だったし、なぜ坊主にしなければならないのかわからない。プロを目指すわけでもないのに、なぜこんなに泥まみれにならなければならないのかと常々疑問に思っていた。


それでも3年間の中学校生活で、野球部を辞めることはなかった。佐藤氏には、プライドがあったからだ。


「自分のなかで美学はあるんでしょうね。『負けたくない』っていうのは、やっぱりありますよね。勉強と音楽だけやっていれば良かったのに、なんで野球やる必要あるのって言ったら、負けたくなかった。ガリ勉の連中に負けたくなくて、それでも俺は1位を取れるぜっていうのを証明したかった。単純な負けず嫌いですね」


父との関係でもそうであったように、いつしか佐藤氏の心に芽生えていたプライドがあった。野球部のいじめには屈しない。勉強だけしているガリ勉の同級生にも負けたくはなかった。


勉強も音楽も野球も、すべてこなした上で一番が取れることを証明したかった。自分が信じる世界を証明したい。そこに佐藤氏の信念があった。



2-7.  音楽も大事


音楽を表現するという行為もまた、自分だけの世界やクリエイティブを証明していく作業にほかならない。


XJAPANに憧れた小学生以来、音楽の世界にますますのめり込んでいくきっかけとなったのは、小山田圭吾によるソロユニット「Cornelius(コーネリアス)」の影響が大きかったという。


のちに「渋谷系」と称される音楽の一時代を築いた先駆者。その音楽ジャンルは多岐にわたっており、ロシアの物理学者が発明した電子楽器「テルミン」を楽曲に使用することもあった。


何より、日本で初めてステージ上に総合芸術「VJ(Video Jockey・Visual Jockeyの略)*」を取り入れたのも彼である。想像力を刺激する、前衛的なライブパフォーマンス。映像と音楽をシンクロさせ、既存の概念を打ち破るクリエイティブ。(*曲ごとに作られた映像作品をステージ横のスクリーンに投影するもの)


何かと何かを組み合わせ、自分の世界観を表現する。それにより人の心を動かした、幼いころの記憶を蘇らせてくれるものだった。


「映像と音楽のシンクロ。音楽って音楽として見せていくものだと思ったんですけど、それを映像と組み合わせて違うストーリーにしていたんです」


この人のような音楽を作りたい。中学のころから、シンセサイザーで曲作りをはじめていた佐藤氏。音楽経験はなく独学だったので、曲とも言えないようなものだったかもしれない。しかし、自然と浮かんだ鼻歌から、メロディーラインやリズムを作り自分の世界を形にしていくことは楽しかった。


かと思えば、高校生になるとドラマーとしてバンド活動に手を出したりもした。「Hi-STANDARD」など、パンクバンドのかっこよさに衝撃を受けたことがきっかけである。とにかく音楽が楽しかったのだ。



一方、スパイになるという道も忘れてはいない。


落合信彦やフレデリック・フォーサイスのスパイ小説を読んだり、札幌にあったアメリカ大使館に通ったりもして、スパイになるための方法を模索した。


「国際関係学とか戦争とか、ちょっとインテリジェンスでスパイに繋がるような資料を読んだりしていました。『俺はスパイになりたいんだ』って言っても、みんなぽかーんとしていて、そりゃそうですよね(笑)」


音楽もスパイも。憧れの仕事はある。


けれど、将来のことを考えると、どちらも果てしない道のりのように思えていた。本当になれるのか、不安を抱えながら日々を過ごした高校時代。中途半端な自分の状態と迷いから、不良グループと付き合ったり、勉強をサボって遊んだりもした。


しかし、大学受験が近づくと、音楽とスパイ、どちらの夢も捨てきれないことに気がついた。


「両方できるといったら、青山学院大学かなと思ったんです。青学に国際政治経済学部という学部があって、国家公務員か国際公務員が近いのかなとぼんやり思っていたので、外務省とか留学とかかなと。音楽では『LOVE PSYCHEDELICO』とか『サザンオールスターズ』の母校だったので、安直ですけど、音楽といえば青学かなと思ったんです」


当時まったく勉強していなかった佐藤氏の偏差値は、すべて30台だった。どうすれば第一志望に合格できるのか、先生に相談した。


「先生に『俺青学行きたいです、スパイと音楽やりたいです』と言ったら、『わかった、お前は英語だけやれ』って言われて。国語は感性でやって、数学は暗記でいけると。そこから英語をひたすらやったら、3ヶ月4ヶ月ぐらいで偏差値が35くらいから78くらいまで上がったんです」


小学校時代にそろばんを習っていたので、暗算・暗記は得意だったという佐藤氏。単語帳の英単語を端から端まで覚え、昼休みは外国人の先生のところへ会話を勉強しにいった。高校3年の春からはじめた猛勉強の結果、無事青山学院大学の国際政治経済学部に合格することができた。スパイと音楽という両方の夢が一歩近づいた。


大学時代の音楽活動、青山祭にて。


2-8.  音楽を捨てスパイの道に


自分の描く夢を追う佐藤氏。「堅実に生きてほしい」と願う父や母には、スパイや音楽の道は応援してもらえなかった。自分の世界へのプライドがあった佐藤氏は、応援されないからこそ、ますますその世界にのめり込んでいった。


大学からは夢に向かって本格的にがんばろうと考えていた。まずはスパイになるため、犯罪防止に向けて防犯パトロールや安全教育活動を行うNPO「日本ガーディアン・エンジェルス」に入った。


「結局ジェームス・ボンドとかも、すごくマッチョな敵に勝つじゃないですか。体鍛えなきゃダメだなと思って。交渉力と機転とリーダーシップが大事なんだなと思って。たまたまテレビを見ていたらガーディアンが映っていて、自分で学費を払っていてお金もなかったので、お金かからないし、いろいろ勉強できるからいいなと思ったんです」


ガーディアン・エンジェルスでスパイに必要な能力を鍛えながら、音楽活動にも本気で打ち込んだ。


「バンドをやっていて、町田・下北・原宿・渋谷でライブをやってましたね。けっこう本格的に青学祭に出たりもしていました」


交友関係の広いバンドメンバーが集まっていたため、ライブの集客力は抜群だった。毎回最低100人ほどは集まる観客と仲良くなり、ライブ終わりには彼らと飲み明かした。


当時、音楽活動ではプロの2歩手前まで行くことができたが、最終的にはスパイになる道を選んだという佐藤氏。理由は、スパイの方が、自分の知らない世界を知ることができそうだったこと。音楽のプロに比べると、自分には曲作りの才能が足りていないと感じていたことだった。


ガーディアン・エンジェルス時代の佐藤氏。


卒業後、米国に渡った佐藤氏は、カリフォルニア州モントレーに位置するミドルベリー国際大学院モントレー校(MIIS)へと入学した。国連の安全保障理事会直下にある IAEA(国際原子力機関)の職員養成学校で、紛争処理や『アームズ・コントロール』といわれる武器の不拡散理論を学びはじめたのだ。


「そのまま行けばスパイになれたんですけど、行ってみたらものすごく勉強するんですよ。僕は『ミッション:インポッシブル』のような世界を想像していたんですけど、聞いたら『頭大丈夫か、そんなことやったら国際問題になるだろう』って言われて。『スパイってそういうもんじゃないんですか』って言ったら、『それは軍隊の仕事だ』って、すごい冷静に返されて」


そもそも佐藤氏が見たかったのは、タイムマシーンや空を飛べる装置など、誰もが知らない未知の世界だった。いろいろな人に相談してみると、米国の公的な研究機関であれば描いていたような世界が見つかるかもしれないということがわかった。しかし、同級生と話すうち、一つの重要な事実に気がついた。


「『別にこれ、今じゃなくてもできるじゃん』と思ったんです。僕大学院で最年少だったんですよ。みんな30代とか20代後半とかで、経歴を聞いたら、『証券とか不動産の仕事をしていて、次は国際貢献できる人材になりたいと思ったんだよね』と。みんな自分の仕事のことを自分の言葉でしゃべっているんですよ。僕は音楽も中途半端だし、スパイもイメージだけで来ちゃいましたみたいな感じだった。地に足も何もついてないなと思って、恥ずかしくなってきちゃって」


自分の世界を持っている彼らの姿に憧れ、そんなバックグラウンドを持っていない自分を恥じた。どうやらスパイになるのは、今でなくてもできそうだ。そうであるならば、「今」やりたいことに向き合いたいと考えた。


大学院の同級生のように、地に足をつけ、自分の言葉で語れる世界を20代前半のうちに持たなければならない。自分がいま一番やりたいことは何か。若いうちにしかできないことは何か。それはかつて一度捨てた世界、何かしら自分の世界を創造し、表現していく音楽の世界にあるのではないかと佐藤氏は考えた。


米国の大学院を中退、日本に帰国することを決めた。23歳のときのことだった。


音楽活動でDJをしていたとき。


2-9.  スパイでも音楽でもなく、ビジネス


音楽活動のため、少しのモラトリアムと創作環境を求め、早稲田大学大学院に入学した佐藤氏。メディアアートやITビジネスを学びながら、自分なりの音楽を作ろうと試みていた。


当時佐藤氏が好んでいたテーマは、複数の音声ファイルを混ぜて1つの音楽をつくる「ミックス」という領域である。尊敬するアーティストのもと働かせてもらう機会も得ていたが、思うような音楽は作れていない焦りがあった。


「アイディアを100だとすると、それを具現化すると2になる。音楽を作るにしても、アイディアはあるけど、表現方法とか具現化技術が陳腐すぎると感じていました」


子どものころから音楽をやってきた人や、音楽以外ほかにないようなどん底の人生を歩んできた人。そんな人たちの魂の入れ方には勝てないと感じていた。


「このままだと、自分やばいなと思っていたときに、たまたまイベントを手伝ったんですよね。『ファッションショーをやるから、オーガナイズよろしく』って言われて。赤字のイベントだからって言われていたんですが、僕がオーガナイザーをやったときに過去最高益を出したんです」


結果を出すまでの過程では、これまでの経験からくるアイディアが役立った。


従来通り出演者の知り合いへ声をかけるだけでなく、ガラケーの集客ページを作ったり、mixiなどの集客チャネルを活用。また、初めてクラブを訪れる来場者のことを考え、人を紹介したり、マナーの悪い客をブロックしたりする「もてなし部隊」をつけた。


「ガーディアン・エンジェルスのときに、僕の下に80人ぐらいいて、けっこうケアしてあげていたので、僕が入った瞬間からけっこう辞める率が減ったんですよ。そういったところの気遣いとかコミュニケーションの取り方一つで変わっていくんだなと思っていたことが一つ。あと僕はそんなにクラブが好きじゃなかったんですけど、一方的過ぎるのは良くないなと昔から思っていて。それはお母さんがすごくおせっかいだったから、一方的なのは強引すぎないかなと思っていたんです」


一方的なものは良くない。クラブの作法をわからない初めての人ももてなす。クラブの在り方に対しての、佐藤氏のアンチテーゼだった。


結果、それまで1200人ほどの来場者を迎えていたイベントが、来場者2000人を越えるほど記録を塗り替え、その後のリピート率も向上した。


もしかすると、自分は音楽のセンスよりも、商売の勘の方があるのかもしれない。


そう思わせてくれるほどの大きな成功体験だった。


「僕はクリエイティブよりもビジネスの方が向いているんじゃないかということで、できることとやれることは違うんだな、CanとWillは違うんだなとすごく思いました」


音楽ではなく、自分が得意なビジネスの領域で勝負しよう。自分が好きな音楽業界を良くするビジネスを作ること。音楽やクリエイティブとビジネスを融合する領域で、何か新しい形を作ることができればと考えた。


そのためには、まずはビジネスの力を究める必要がある。佐藤氏は、広くビジネスや経営という力を身につけるため、コンサルティングファームへ就職する道を選んだ。


みんなのウェディング社を退社したとき。

(ビジネスを究める道のなかで、2014年同社の東証マザーズ上場へ貢献した)


2-10.  ホームに飛び込んだ一度目の命日


ビジネスマンとしてのスキルを高めるため、できることは最大限やろうと考えていた。最初は、アクセンチュアからスピンアウトしたチェンジという会社で、3年間業務系ITコンサルとして働いた。のちに移ったDeNAでは、1年間事業戦略や M & A に携わり、起業前最後にアクセンチュアの企業戦略部門で働いた。


「会社員のときは、ひたすら音楽業界でビジネスとプロデュースができるように、ビジネスを極めようと思っていて。良い戦(いくさ)と良い師匠に恵まれようと思って、与えられたことをとにかく200%ぐらいで返そうとしか考えてなかったです。ひたすら仕事していましたね」


仕事に没頭した数年間、起業につながるヒントは見えかけていたが、実際のイメージというものはまったくつかめていなかったと語る佐藤氏。


もらっていた高給も、すべて遊びに使ってしまっていた。コンサルティング能力は少しずつ高くなっている実感があったが、そこから起業のアイディアを思いつくことはなかった。


「既存の課題を解決することだけは、なんとなく手法を身に付けていたんですけど、新しいものを生み出すことはわからない。つまり、ガラケーを直すとか、ガラケーの機能を改善するとか、ガラケーの売上を上げるってことはなんとなくわかったんですけど、ガラケーから iPhone を作るっていうことはよくわからなかったんです」


転機が訪れたのは、アクセンチュアにて大手メーカーの事業戦略策定プロジェクトに携わったときのことである。


1ヶ月間のプロジェクト期間中、連日の睡眠時間は1時間という過労状態をつづけながら働いた。次第に心身に異常が現れるまでになり、1週間で軽い鬱。3、4週間後には興味関心が失われ、さらに5分前の記憶すら残らない状態になっていた。


「本当はその企業の製品が何個売れようと、別にどうでもよかったんです。他社製品もあるし、その製品を使う以外にもほかの手段はあるし、全然魂入らないなって思って。そこで学ぶことって、わかりやすく明確なロジック上で描く戦略の理屈づけと、大量の裏付けデータをひたすら集めてひもづけるっていう作業、ただハードワークに耐えるメンタルとWord・Excel能力で。結局、これって何も起業に関係ないなと思ったんです」


1ヶ月のプロジェクトを終えたとき、佐藤氏の心には、もはや何も残ってはいなかった。大好きだった音楽や遊びへの興味関心も失われ、ただ疲れ切った体を引きずるばかり。生きていても死んでいても、現世をさまようのであれば、今は幽霊とそう変わらないのではないか。生きる意味もわからなくなった佐藤氏は、帰路である新横浜駅のホームで意識を手放した。


線路に向かって飛び込もうとする自分の体。その瞬間、脳裏をよぎった走馬燈。


みんなで廃材を集め作った秘密基地、自然を切り拓く冒険で使ったイカダ。それは、子どものころ夢中になった遊びの数々だった。


「そのとき同時に、結局学生時代にやっていたこととか、音楽とか、全部遊びなんじゃないかなと思ったんです。音楽で遊びたい、起業で遊びたい。遊ぶためにお金がほしかった。結局俺って、遊ぶために生きてるんじゃないかなと思って。世のため人のためのサービスではなくて、あのころに戻って自分が遊べるように、その先にあるタイムマシーンとか夢とかロマンとかを追うようなところに行くまでは、死ねないなと思ったんです」


遊びこそが自分の生きる意味である。具現化したい世界はそこにある。無意識に頭をかわし、線路への転落は免れた。


倒れてから救急車で運ばれるあいだの記憶はない。しかし、生きる意味は映像として見ることができた。人生で大切にしてきたものは、すべて遊びにつながっていたのだ。


あのころに戻って遊べるように、佐藤氏は自分の世界観を表現していく。プレイライフ株式会社が設立されたのは、それから約2年後、2013年6月のことだった。



3章 PLAY SUPER HARD


3-1.  全員を「ふたぐち君」にしたい


無邪気に遊び回っていた子ども時代。プロセスや結果に関係なく、遊ぶこと自体を楽しんでいたころ。なぜ、多くの人は大人になると、そんな遊び心を失ってしまうのだろうか。大人になってからも遊び心を失わない佐藤氏に聞いた。


「どこかに固定概念みたいなものがあって、『自由に遊ぶのは子供だけの特権』っていうのがあるんじゃないですかね。あとは、本人の問題もあると思うんですけど、大人になればなるほど楽な選択をしがちですよね」


大人が焼き芋を食べたいと考えるとき、みんなで薪を集めて焼き芋を作ろうとは思わない。スーパーに並ぶ焼き芋を買ってきたほうが、たしかに手に入れるのは簡単だ。失敗を嫌い、面倒なプロセスを嫌う大人たち。けれど、多少の「面倒くささ」は遊びにはつきものなのかもしれない。


「『面倒くさい』を『楽しい』に変えることは、遊びの本質かもしれないですね。普通だったら面倒くさいと思うこと、『は?』と思うようなことを楽しみに変えることかもしれない」


よく考えてみれば、秘密基地を作るのも、イカダを作るのも面倒くさい。しかし、だからこそ楽しかったのだ。遊び心を失わず、さまざまな遊びのプランを世に届けるプレイライフ。2018年6月に設立5周年を迎えた同社は、スタッフの仕事と遊びのモチベーション強化を図るべく、新たに5つの人事制度を導入したという。


たとえば、社員が大切な人と新しいスポットなどに遊びに行くための補助金として最大5万円を支給する「遊びのお小遣い」制度や、3ヶ月ごとに付与される「旅休暇」。そのほか、1週間のうち10%の業務時間(約4時間)を「仕事を遊ぶ」時間に当てるなど「Work Hard, Play Super Hard」な会社を目指している。


組織づくりにおいて同社が目指すものとは何か、佐藤氏は語る。


「全員をふたぐち君にしたいと思っています。ほんとそうです。みんなをファンタジスタにしたいと思っていて、ただそれだけだとディフェンスがいなくなるので、父のような堅実なタイプも何人か入れなきゃなと思っているんですよね。常に新しい遊びを追求して考えられる、人を楽しませる最高のエンターテイナー。それは別に営業でも編集でも制作でもエンジニアでも、人を楽しませるっていう意味ではみんな共通項だと思うんですよね」


プレイライフでは、社員全員が遊び心を失わない。だからこそ、そこから生まれるクリエイティブは人を楽しませ、ときに感動を生み出す。プレイライフは、誰もが子どものように無邪気に遊べる世界を、社会というキャンパスに自由に描いていく。


一人旅をしたアメリカにて。


4章 おわりに


人はいつから子どものように遊ばなくなってしまうのだろうか。


しゃにむに遊びに向かい、泥にもまみれながら、ただ遊ぶことが楽しかった幼いころの記憶。泥にまみれることも、夢中で遊ぶこともしなくなり(できなくなるというのもあるだろうか)、いつからか人は、遊ばなくなっている。


楽しかった子どものころの記憶もいつしか忘れ、遊びに向かう習慣もどこかに置いてきてしまっているように思える。


大人になるにつれての「遊び」は形を変え、画一的なものになっている。飲みにいくか、映画などの娯楽や商業施設に行くか、あとはせいぜいバーベキューに出向くくらいだろう。大人の遊びの選択肢はいくつかのきれいなテンプレートで構成され、その中身に面倒な過程があることもほとんどない。


ある種、大人という立場を守るポジションプレイとも呼べるような大人の遊びを、遊びとして選択しているように思える。幼いころを思い返せば、遊びは画一的で、煩わしさを避けるものではなかったはずだ。


焼き芋もお店に買いに行けばいいなんて考えない。服が汚れて親に怒られるかもしれないとも考えない。自分の置かれた状況も、前提も、さまざまなことを忘れて一心不乱に誰かとその遊びに熱中していた。ある種のフロー状態の経験。それが楽しくて、翌日もまた遊んでいた。


そして、見ず知らずの人であってもひとたび一緒に遊べば友達になることができた。等身大でなりふり構わず遊ぶから、私たちはそれぞれが身にまとうものも捨てた裸のコミュニケーションが取れていた。自分をありのままの形でぶつけるからこそ、自分がそこにいて、なおかつ等身大の友達ともすぐに仲間になれた。


集う仲間が異なれば、その分あらゆる形へと遊びは変転する。私たちは遊びを通して全個性の投影をし、仲間でそれを融合しあい遊びへと変えていく過程を楽しんでいたのだろう。そして、大人になった今も幼いころの遊びを覚えている。


思い返すことができる大切な記憶。それは、私たちのアイデンティティを形成する因子として、自己生成に遊びが影響している証拠の一つなのかもしれない。


しかし、大人になっての遊びは記憶に残ることも少ない。何か大人としての遊びがあったから、人生が豊かになったという話も多くは聞かないように思える。


ここに、子どものころの遊びで私たちが得られていたものへの研究がある。


園児の関係構築と遊び集合の共存について考察した本編では、園児達は、環境を把握することで、社会性を獲得していることがわかった。他者と関係を構築することで、物理的環境との関係が進展し、その中でさらなる新しい行為が生まれていた。そして、遊び場面は、周りで行われているものと相互比較・競争することで、展開・多様化していた。そのような.遊びの流れの中で、無意識に園全体を把握しているのである。



全体像を把握することは、自分以外の存在を認識することであり、園児達は一連の流れの中で自分達以外の遊びを認識しようとする。これが他の遊びの中の活動を自分たちの遊びの一部の活動として取り入れたり、他の遊び集合の対象となることで他の遊びを活性化させたりすることへとつながるのである。そして時には.呼び掛けあうことで、自他の存在を確認することが、意識の中での関係構築となると同時に、遊びを展開していく上での環境の選択肢となる可能性を保有するようになるのである。―佐藤将之・高橋鷹志


私たち人は、他人の遊びの姿に触れることで、自分たちの遊びを進化させ、私たち個人の人格へも作用し、社会性を強くしていた。


子どものころそうであったのならば、大人になった今でも、遊びをとおして自分と他人の存在を認識し、自己を進化させることができるのではないのだろうか。(ただ、その機会が大人になるとなくなるだけである。)


プレイライフという「大人の遊び場」は、それぞれがただ遊ぶだけではない。そのプラットフォーム上で、隣の大人が何で遊んでるかさえ覗かせてくれる。子どものころの遊び場が再現されているのである。そこで私たちは、しゃにむに遊ぶ楽しみの獲得のみならず、社会性すら無意識にも高めていくことができるだろう。


忘れていた遊びを通して、「自分のため」だけではなく誰かに気遣う人たちが、この日本中に増えていく予感がする。



※参考

佐藤将之・高橋鷹志(2002)「園児の関係構築と共存する遊び集合についての考察〜園児の社会性獲得と空間との相互関係に関する研究その1〜」,『日本建築学会計画系論文集』67(562),pp.151-156,日本建築学会,< https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/67/562/67_KJ00004230590/_article/-char/ja/ >(参照2018-10-3).




プレイライフ株式会社 佐藤太一

代表取締役CEO

1982年生まれ。北海道出身。青山学院大学国際政治経済学部、早稲田大学大学院国際情報通信研究科修了。外資/国内コンサルティングファーム、株式会社DeNA経営企画本部、アクセンチュア株式会社経営コンサルティング本部にて戦略策定などに従事。起業の事業資金とノウハウ獲得のため、2012年より、みんなのウェディングの経営企画部長兼IPO室長として、事業戦略、資本政策、コーポレートガバナンスの責任を担い、2014年の東証マザーズ上場へ貢献した。人生を遊び倒す世界を創るために、2013年にプレイライフ株式会社を設立。

https://playlife.co.jp/