Focus On
廣瀬高志
スタディプラス株式会社  
代表取締役CEO
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orリスペクトする心があるから、好きになる。好きになるから、頑張れる。
海外不動産マーケットを事業ドメインに置くグローバルスタートアップ企業である株式会社BEYOND BORDERS。現在同社は東南アジアを中心とする世界8か国の不動産物件情報が多言語で検索可能なプラットフォーム「SEKAI PROPERTY」を運営するほか、日本・マレーシア・カンボジアに現地法人を設立し、国境を超える不動産取引をワンストップでサポートするエージェント事業を展開。2019年には、不動産業界に特化した人材紹介事業を始動させるなど、不動産×海外×ITを主軸とした事業創出と領域拡張を見据えている。
代表取締役の遠藤忠義は、当時最短で東証一部上場を果たした株式会社ゴールドクレストにて不動産業を経験したのち、創業期の株式会社エス・エム・エスに参画。営業、事業開発、人事マネージャーを経て、海外支社長としてマレーシア現地法人立ち上げに従事した。メディカルツーリズムビジネスや医療・生命保険マッチングサイト立ち上げ等、海外で4年間の事業運営に携わったのち独立。2015年、株式会社BEYOND BORDERSを設立した。同氏が語る「幸せを繋げていく挑戦」とは。
遠藤が初めてビジネスのためマレーシアの地を踏んだのは2011年。創業初期から在籍した株式会社エス・エム・エスの海外支社設立、その責任者に任命されたためだった。
いくつもの民族・宗教・文化が交差する多様性の国マレーシア。首都クアラルンプールは、熱気あふれる近代的都市だ。1990年から2016年、1年あたりの平均経済成長率は約6%を推移するなど、国家主導の経済成長と人口増加により、都市の様相はかつてなく熱を帯びている。中心部に突如そびえ立つ高層マンションは、そんな成長の勢いを象徴しているようでもあった。
遠藤がその地で触れたのは、数々の価値観変化と安定成長を遂げる市場、そして現地での不動産投資の成功体験だ。それらは現在、BEYOND BORDERSの事業に繋がっている。
「元々は『SEKAI PROPERTY(セカイプロパティ)』というサイトを作って、そこにいろいろな海外のディベロッパーさんの広告を載せてもらって、日本人から問い合わせをいただいたときに売買をサポートするというサービスが最初でした。マレーシアのマンションを日本の方に買っていただいたり、既に持っている方のマレーシアのマンションを売ったり」
人口減少に歯止めがかからない日本と違い、右肩上がりの人口増を記録しつづける東南アジアには魅力的な不動産投資の機会が眠っている。実体験ベースで学んだ遠藤だからこそ、そこで感じた負を解消するプラットフォームを構築することに可能性を見出した。
「(日本にいるオーナーさんにとっても海外の不動産会社にとっても、)きちんと通訳が介在しないと取引は成立しづらいものですが、弊社では現地法人を設立したうえで契約書を翻訳したり、現地の物件に入ってもらえるテナントさんを探したり、きちんと銀行口座に入金されているか確認したり。ワンストップで支援させていただけるようになってきています」
国境を超える不動産投資が、より多くの投資家にとって身近な選択肢になる。それだけでも人の幸福に寄与するものではあるが、同社ではさらなる事業展開を進めていく。
「もう1つの事業は、不動産業界に特化した人材紹介事業『リアルエステートWORKS』ですね。ここもゆくゆくは海外に行きたいんですけれど、まずは日本の不動産業界内で転職したい人向けの転職エージェントとしてサービス展開しています」
人材紹介事業は描く未来へ向けた一歩目に過ぎない。大きく不動産という領域をドメインに、次世代に繋がっていくような産業創出や事業運営を重ねていきたいと遠藤は語る。
「僕が不動産で面白いと思うのは、商品が1つの利用方法だけじゃなくてこんなにあるのっていうぐらい可能性が広がっているところ。もちろん前提として目利きができないと損をすることもあるんですけれど、商品としてすごく面白いものだと思っているんです」
単純に住める・貸せるだけでなく、売れば高くなる、自分の子供にも遺せるなど、不動産という商品が持つ機能の豊富さは、それだけ多くのビジネスチャンスが存在することを示唆していると遠藤は考える。
新事業へと踏み出すのは一つひとつの事業モデルをきちんと収益化させてからとしながらも、常に拡張性の高い事業展開を目指している。
理想とするのは、古巣エス・エム・エスのビジネスモデルだという。
「(エス・エム・エスでは)メディカルとか介護とかビジネスとビジネスを近い領域でやって、だんだんそこが繋がっていくんですよ。シナジーが効きはじめてくるので。そうすると勝ちが勝ちを生んで参入障壁が高くなっていく。それを僕の会社もやろうとしています」
新たな事業を創造し、領域を拡張する。はじめは点のようだったサービスが、やがてシナジーを発揮し、線や面となっていく未来を描いている。
不動産という領域には、既得権益や法律、旧来の商習慣など障害となり得るものが多いことも事実。だが、ビジネスとしての面白さ、そして何より多くの人を豊かにできるという確信があるからこそ、遠藤は挑戦せずにはいられない。
2021年10月には、カンボジアをはじめとした開発途上国で教育支援をする国境なき教師団、公益財団法人CIESFの法人サポーターとして連携を開始。これによりBEYOND BORDERS経由で行われた海外不動産取引の資金の一部が、同団体へと寄付されることとなった。
海外不動産投資という行動が、投資国への社会貢献にも繋がる。そこに社会的意義が生まれる。まさに1つの幸せがより多くの人へと波及していく、そんな世界観が実現されている。
不動産×海外×ITでより多くの人を幸せにする。 “幸せでつながる未来”を不動産の領域で、世界中で。まず描く未来があり、そのための変容をBEYOND BORDERSは遂げていく。
経営者だった祖父の人生は、その家によく表れていた。
広くて立派な応接間に、絶え間なく訪ねてくるお客さん。聞こえてくる独特の発音交じりの日本語や、部屋に置かれた壺や掛け軸の意匠は、祖父のルーツが中国にあることを物語っている。
生まれも育ちも中国でありながら、単身日本に移り住んだ祖父。以来、縁もゆかりもない土地で自ら事業を起こし、たくましく生きてきた。そんな祖父の生き様については、当時から母によく聞かされていたと遠藤は語る。
「母親から『じいちゃんは立派なんだよ』っていうのは刷り込まれていましたね。戦前日本に来て、東京大空襲の時も中国人なのになぜか東京で空襲も受けて、生き延びて自分でビジネスして。母親は3姉妹なんですけど、姉妹全員私立に入れてとか」
日本語が片言だった祖父とは、多くの言葉を交わしたわけではない。しかし、母が繰り返し語る話を聞く限り、疑いようもなく立派な人だった。
「今思うと、何かを祖父から教えられたというよりは、見ていたっていう感じですね。子どもながらに素敵だなという風には思っていましたし、いい思い出しかないんですよね」
特に祖父を身近に感じていたのは、小学校に入ったばかりの頃。一歳下の弟が交通事故で足にけがを負い、入院や手術の準備で両親が手一杯になった時期がある。一時的に面倒を見てもらうために、遠藤は祖父母の家に預けられていた。
「もともと僕が初孫だったので、すごく可愛がられていて。祖母がいつもうな重とか中華とか与えるもんですから、完全に肥満になってしまいました(笑)。大量に食べるし、勉強もするし、ゲームもするし。うちではファミコンとかやっちゃいけない家庭だったんですけど、祖父と祖母は僕に甘いので、すぐ『スーパーマリオ』とか買ってくれて、楽しく過ごしてましたね」
2人にとっては、目に入れても痛くないくらい可愛い存在だったのだろう。「いっぱい食べる子はいい子」と、あたたかく見守られながら育った結果、体重はいくらか、というより実際かなり増えていくことになる。
祖父と
体が横に大きい。しかし、それだけじゃなく足が速い。そんな自分を活かせるスポーツがあると、教えてくれたのは父だ。中学からは、父に言われた通りラグビー部に所属する。父にもまた、当時から尊敬の眼差しを向けていた。
「父はもともと歴史の教師をしていたんですが、僕と弟が生まれたのを機に金融系の会社に転職して。そのあと電子機器メーカーのナンバー2をやって、軌道に乗せて上場させたりとか。自分で会社やっていた時期もあったりと、なかなかパワフルなオヤジです。今も超健在ですよ。その父親がまぁまぁ強くて怖い人で」
父はよく、武士道や根性、「男とは」を語る。大学の居合道部で監督を務めていたこともあるらしい。昔から精神的に強くあることについては、教えられることが多かった。
「典型的な昔の父親という感じで。克己心とか石の上にも3年とか、小学生の頃からそんなこと言われたりしていましたね」
「やると言ったらやるんだぞ」と父は言う。尊敬する父が言うならと、とりあえず素直にやってみる。ラグビーもそのうちの1つだ。
最初は上手くできなくても、頑張って続けるうちにできるようになる。それが楽しくさらに頑張ると、もっとできるようになる。小さな成功体験が積み重ねられていくうちに、努力して成長すること自体が良いものだと思えるようになっていく。
もしかしたら祖父もこうして頑張ったからこそ、立派な人物になったのかもしれないとふと思う。いや、きっとそうなのだろう。
「父親の影響は結構強くて、頑張るっていうことに対して全然苦じゃないところがあるんです。あとは、一生懸命何かをするということが美しいというような、頑張るって素晴らしいみたいなところが結構刷り込まれていたところはあって。そこが経営者である今になって自分の良い部分でもあり、嫌な部分でもあるんですけれど」
一生懸命は美しい。頑張ることは美しい。そんな価値観を教えてくれたのは、遠藤にとって身近な家族だった。尊敬やリスペクトの心があるからこそ、自然と気づけるものがある。人や物事の素敵に思える一面から、昔も今も学んできた。
父と弟と
中高一貫の男子校に進学してからは、6年間ひたすらラグビーに打ち込んだ。はじめは父に言われたからやってみたに過ぎない。それでも次第に深くのめり込んでいく自分を発見する。どうやらラグビーは、思っていた以上に奥が深いスポーツだった。
「ラグビーって後ろにしかパスをしちゃいけないというルール以外は、そんなに難しいルールはないんですけど、その制約のもとにいろんな戦術があって。小さくて素早い人もいれば、背が高い人も、体重が重い人もいて、いろんなタイプが混ざって1つのことをやるので深みが半端ないというか、それによって戦術も全部変わってくるんですよね」
攻め方も守り方も、チームの構成によって描ける可能性は広がっていく。強豪チームでもモチベーションや流れが悪ければ敗北を喫することもある。他方、スーパースター1人がいるだけで勝てるスポーツでもない。正解は無数にある。その奥深さに夢中になった。
「好きになりやすいかもしれないですね。良いところが見えてしまうというか、深いなって思うとそれを深堀りしたくなってしまうって感じですね」
考えれば考えるほど、チームの勝利に向けた努力を突き詰められる。ちょうど自由な校風の学校で、部活も生徒の自主性に委ねられていたことも良かったのかもしれない。
監督や顧問の先生はいるものの、チームメイトの得意を伸ばすスタイルで、自分たちで進んで戦術や戦略を作っていくことができた。ラグビー自体が楽しいことはもちろん、そうした過程を通じて、集団というものを初めて意識するきっかけにもなった。
「僕がチームで得意だったのは、チャージっていう特攻隊長みたいな役割があるんですけど。相手方がピンチの時に思いっきりボールをキックして陣地を押し進めるプレーがあって、その蹴る人のところに突っ込んでいってブロックするんです。結構怖いんですが、それが決まるとみんなが喜んでくれるし、自分でも活躍していると実感できて気持ちよかったですね」
相手が全力で蹴り上げるボールに、真っ向から勢いよく身を投げ出す。怪我が多いラグビーの中でも、ひときわ勇気を要するプレーだが、その分上手く決まったときの快感も大きい。
チームのピンチがチャンスに切り替わったり、相手にも大きなプレッシャーを与えることになる。好きになり頑張りがいがあることには、とにかく没頭してしまう。突き詰めること自体が楽しくなってくる。
「恐怖みたいなものに対して向き合う力は、まぁまぁラグビーで育っているんじゃないかなと思います。ものすごいスピードで走ってくる人に、ものすごいスピードでタックルしに行くのってやっぱり怖いんですね。でも、みんなが喜んでくれると思うと、恐れとかはなかったのかもしれなくて」
チームの中では、ムードメーカー的存在だった。みんなが喜ぶ顔を見たかった。ただ上手くなるだけじゃなく、人を喜ばせるためにこそ頑張りたいと思える自分がいた。
中高ラグビー部のメンバーと
高校卒業ぎりぎりまでラグビーに夢中であることは予想できていた。一方で、将来に対する明確なイメージもないまま、高校3年になり進路選択に迫られた。
「当時はそのまま内部進学するよりも、受験する人の方が素敵な人みたいなイメージがあったので大学受験することにしました。その頃から大人とか先輩たちと話していて、経験が少ない人よりも経験が多い人の方がかっこいいと思うようになっていて」
自分はどんな大人になれるのか。何を頑張ることになるのか。高校の部活に来てくれるOBと接するなかでも、自然と考えていた。
幼い頃、身近な家族に尊敬の念を抱いたように、人格的に素晴らしいと思える人、面白い人生を歩んでいると思える人は好きになってしまう。そして、彼らに共通することと言えば、経験豊富であることのように思えたのだ。
さまざまな業界、仕事に携わってきた父のように、味わい深い大人になるには、より多くの経験を積んだ方がいいのではないかと考えるようになっていた。
「父の影響もあるのかもしれないですね。なんなら大学も現役で受かったんですけど、浪人っていう経験は浪人した人にしか分からないから、人生の経験としてはいいんじゃないかという風に思ったり。とにかく大学ではアルバイトも自分の経験値を上げる感覚でいろいろやりました」
家庭教師に新聞社、引越し屋、マクドナルドに中華料理屋の料理人。単発のアルバイトも含め、目についたものは経験と思ってチャレンジしてみる。自分にとって理想となる将来のイメージを探していたのかもしれない。とにかく経験が多いこと自体に価値があると考えて、バイトは常に掛け持ち状態だった。
始まりは深く考えない。嫌なら辞めればいい。そのくらいの気持ちで始めたにもかかわらず、自分の場合、しばらく経つとそのバイトをすっかり好きになっていることも多い。
特に、お客さんとコミュニケーションを取り、喜ぶ顔が見られる接客業は得意だと分かった。好きになることは、そこから新しい何かが始まる予感とともにある。
お金のためじゃない。どちらかと言えば商売活動に関わっていること自体が面白く、もっと深めたいと思える瞬間に夢中になっていた。
***
大学生活のほとんどを占めた部活とアルバイト。当初部活はラグビーを選んだが、人数が足りず試合ができないと分かり、泣く泣くほかに目を向けた。すると、ラグビーの動作も活かせるスポーツにラクロスがあると知り、入部。ここでも中高と同じように、ラクロスを深めるうちに時間はあっという間に過ぎていった。
「就職活動では『何をやりたい』っていう軸がなかったので、好きなことを仕事にすればいいと思って。当時好きだった商品を扱うメーカーの内定をもらったりもしたんですが、それが絶対やりたいとも思えなくて……」
悩んだ末、内定を辞退することを決意。迷いはあったが、後悔はない。
気を取り直して、就職活動を再開するかと腰を上げた頃、家に来ていた1通の就活生向けのDMが目に留まる。それがマンションの分譲・販売などを行う独立系ディベロッパー、ゴールドクレスト社との出会いだった。
「『ほかの会社の10年は、うちでは3年』っていうキャッチコピーがあって。単純にすごく成長できそうだとか、今やりたいことはないけれど、仕事しながら成長してやりたいことが見つかったとき、それをできるような自分に成長していたいなと思って選びました」
将来やりたいことができる自分になるために、今は目の前のことに向け努力して成長したい。そのための経験を積むことが、かっこいい大人になることに近づけるのだろうと思った。
マンション自体にはあまり興味がない。しかし、これまでの経験から不安はなかった。案の定、新卒として就職し数か月後には、不動産が大好きになっていた自分がいた。
モデルルームでお客さんを案内したり、車に乗せて運転しながら雑談したり。いわゆるマンション販売の若手営業マンとして、先輩の前座のような役割をこなすのは、性に合っていたようだ。
明るく話して盛り上がる。ただそれだけで、先輩からは「お前が案内するとお客さんがあったまる」と褒められ、早々に仕事を頑張りたいという気持ちは高まっていた。
「根明で好きになりやすいので、自分たちが扱っているマンションも好きになりやすくて。好きになると自信をもって販売もできるし、良いサイクルに持っていけてる感じですね。だんだん接客もさせてもらえるようになって、すごくたくさん売れて。売れるとまた好きになるっていうのを繰り返していました」
建物の間取りや不動産の市況といった情報は奥が深い。文字や写真、間取り図を見て、実際の建物を想像するだけで楽しかった。見ているだけに飽き足らず、気づけば自分でエクセルにまとめるほど。しかも、それがあるとないとでは営業の成果がまるで変わってくると分かり、ますますハマっていく自分がいた。
1年目の成績は同期で1番。しかし、2年目には違和感に気づく。
「めちゃくちゃ憎たらしい若者だったんですよ。同期で1番売れていたので、たぶんもうこの会社で学ぶことないみたいな、先輩達からすると1番生意気な若手になっていたんですけれど(笑)。だんだん仕事に手を抜きはじめて、なのに売れるんです。その時、ふと我に帰って『こんな若くていい時に、何を俺はサボってるんだろう』って思っちゃって」
仕事や会社に対して、早々に諦めている自分。もっと突き詰めることはできたにもかかわらず、「このぐらいでいいだろう」と勝手に限界を決めていた。それでよかったのだろうか?成長を求めて就職したはずなのに?
そんな気持ちになるくらいなら、もっと違う、どこか厳しい環境に行った方がいいのかもしれない。
転職も視野に入れはじめていた頃、偶然先輩から声をかけられた。株式会社エス・エム・エスの創業者であり初代代表取締役を務めた諸藤周平だ。
「僕が忠義っていう名前なのでチュウって呼ばれていたんですけれど、『チュウ、お前の24歳は楽しいのか』って。せっかく24歳って1番良い時なのにその1年間どうやって過ごすのって詰められて、うちだったらまた成長できるぞと。また成長軸で僕の好きそうなキーワードを並べられて(笑)。来ない?って言われたので、ついていくことにしたんです」
兄のような存在だった諸藤さんは、今でも3本の指に入る尊敬する人だと遠藤は語る。そんな人だからこそ、心動かされた。
「僕が10人目の社員で、普通に20代中盤の若者が集まってやっている会社なので、当時は色々めちゃくちゃな感じだったんですけれど、ベンチャーは楽しかったですよね」
新卒で入ったゴールドクレストは当時100~200名規模。2000年にベンチャー企業として当時最短上場を果たしていたが、既に組織としては出来上がっている体制がある状態だった。創業間もないベンチャー企業というものは、それまでとは真逆の環境だった。しかし、その答えのない問いにぶつかりつづけるような毎日が、面白くもある。
遠藤が参画した当時のエス・エム・エスは設立2期目。始まったばかりの介護系人材紹介業と、求人サイトがようやく形になっていた頃だった。任されたミッションは得意の営業だ。単身兵庫県に乗り込み、初めての1人暮らしをスタートさせた。
寝る間を惜しんで働くうちに、時間が飛ぶように過ぎる。そこで得たものは、人生が変わるくらい大切で意味あるものだった。
「今までの人生で1番面白いっていうか、最も没頭できるものを見つけちゃったみたいな感じでした。ビジネスって面白いとか、会社って面白いっていう風に。自分たちでやっている感も楽しかったですし、もうどんどん会社が成長していくので、その時の仲間とは一生の友達ですね」
はじめは一営業マンから営業責任者へ。それから事業開発や人事、買収した子会社のマネジメントなど、事業と組織が成長するにつれ、必要とされる役割も役職も変化していく。めまぐるしい環境の中で、理念に共感する仲間とともに上場という夢、そして尊敬する経営陣の背中を追いかけていた。
「一社員という目線で言うと、人材紹介とかできあがっているビジネスモデルの成長に貢献すること自体は、そんなに変数は多くない感覚でした。ただ、やっぱり諸藤さんや信長さんをはじめとする経営層は、非常に不確実で複雑なものを複雑なままマネージしているような感じで、当時の僕はそれを作る側ではなかったですね」
さらに同社の創業メンバーにはキーエンス出身者が多く、成果を上げる仕組みが洗練されていた。至るところに高速でPDCAが回されており、学びと実践、成果が出るまでのサイクルのなかにいる実感が何より楽しかった。
これが会社の理想だと思えるくらい素晴らしい環境で、ビジネスの面白さに没入する日々だった。
2008年、エス・エム・エスは念願のマザーズ上場を果たした。ベンチャー企業として1つの節目を迎えたことになる。遠藤もまた、これから目指す地点について改めて考えていた。
「エス・エム・エスももうすぐ東証一部になると分かっていましたし、結構組織も大きくなって、給料も良かったし、居心地も良かったんですよね。でも、ちょっとあれ?と思って。20代後半で、もうアラサーくらいという時に『何、居心地いいって落ち着いてしまってるんだろう』と思ってしまって」
今いる環境で誇れる成績を残す。と同時に、新たな何かを自分に課さなければという焦燥は大きくなる。後輩や同期が独立していく姿を目にしてきた影響もあるのかもしれない。
決して会社が嫌になったわけではなく、むしろ理想的だと思えるほど会社は大好きだ。しかし、だからこそ独立への思いは募っていった。エス・エム・エスのような会社を、自分なりに作ってみたかった。
「転職は全然考えていなかったですね。ロールモデルみたいなものを見てしまって、自分も社員で幸せでしたし、お客さんもどんどん増えて喜んでくれている。そういう会社を作りたいと思うようになったんです」
2009年頃、意を決して諸藤さんに独立の意思を伝えた。すると、ありがたいことに引き止めていただき、代わりに提案されたのが海外支社長というポジションだった。
マレーシアに現地法人を設立し、責任者として医療や介護領域に関する事業の立ち上げを担ってほしいという。
新しい環境で新しい挑戦に乗り出せる。海外というものに触れる機会もこれまでなかった。魅力的な選択肢に思えたことから、引き受けることにした。
エス・エム・エス時代、マレーシア現地法人のメンバーと
「現地に事務所を作ると、なぜか日本から来ている超有名企業の社長さんとかが僕みたいな若僧でも普通に会いに来てくれるんですよね。『マレーシアにいる日本人』っていうそれだけですごい人たちと会いはじめたら、まるで自分ができる人間かのように思いはじめて。実際には能力は上がっていないんですけれど、目線はすごく上がった気がして」
日々出会う人々から刺激を受ける。誰よりオーナーシップを持って自分のビジネスについて語る経営者たちの目は、自信に輝いているように見えた。自分もやはりそんな挑戦がしてみかった。
また、東南アジアという土地の魅力にも惹きつけられる。1社目での知見を活かし、マレーシアで不動産を投資用に購入してみたところ、予想以上の利益が出た。
考えてみれば、それもそのはずである。カンボジアの首都プノンペンなどは、15年で人口が3倍になると言われている。人口増加とともにマーケットは右肩上がりの成長を描き、大きく下がることはない。そこに、事業としてのチャンスが眠っているという思いは強くなっていった。
「せっかくやるんだったら、やっぱりすごく大きくて世の中の多くの人が喜ぶようなことを、それも僕らの会社で働く人も喜ぶようなことがしたいなっていう思いがあって。領域を考えたんですけれど、不動産っていうのは市場も規模も大きいですし、昔からの負が残る古い業界なので、改善できるところもいろいろあるなと」
不動産業界では情報格差が激しい。不動産に詳しい人は利益を得やすい一方で、詳しくない人は騙されることもある。そんな現状をITで打破できないかというイメージは、当初から考えていた。
さらに、自分自身が4年間も海外で事業運営してきた経験がある。せっかくならグローバルも1つのキーワードとしたかった。
不動産×海外×ITという領域で、将来的に何かできないか。そのためにまずは自ら体験していた越境不動産取引での負を解決するサービスを作ることにした。
2015年7月、株式会社BEYOND BORDERSを設立する。
より多くの人に喜んでもらえ、幸せが繋がっていくこと。単発で終わる事業ではなく、そこに価値が介在しつづけ、脈々と受け継がれていく価値ある事業を創りたい。
自分なりに描く理想の会社のはじまりの姿が、形になった。
人に喜んでもらいたい、幸せになってもらいたい。そんな欲求を生き方のコアに持つ遠藤が語るのは、何もお客様やステークホルダーだけの話ではない。社員もその対象として、重要な位置を占めている。
特に、BEYOND BORDERSならではの環境に魅力を感じる人には、同社の門戸を叩いてほしいという。
「海外不動産だけ、人材紹介だけというよりは、その周辺サービスとか新しい事業をいくつも作っていきたいので、将来的に事業部長になるような人に来ていただきたいと思っています」
不動産×海外×ITにおける拡張性の高いビジネスモデルを見据えるからこそ、そこで働くということは、飽きずにいろいろな挑戦に踏み出せる土壌があるということだ。仕事にオーナーシップを持ち、可能性を広げていきたい人にとってはチャンスがあると言えるだろう。
さらに、同社では「海外/グローバル」という軸も大きな特色の1つとなっている。
「海外不動産事業では、もちろんクライアントとのコミュニケーションは英語ですし、現在社内のエンジニアは外国人しかいません。日本人含め海外在住の人はリモートで働いてくれています」
世界を相手に働く。それだけでなく、世界に出て働くという選択肢もあり得る。
物価も安く、1年を通じて気候も温暖な東南アジア。屋上にプールがついた現地のマンションで暮らしながら、平日日中は日本の顧客を相手にし、土日は英語で生活する。そんな世界観をつくりたいと遠藤は語る。
「いろいろな働き方があった方がいいんじゃないかなと思っているんです」
せっかく1度きりの人生。海外で暮らしてみたり、海外で働く経験があった方が、人生は豊かになるのではないか。そう考えるのは、もちろん遠藤自身もマレーシアで暮らした過去があるからだ。
「僕も30過ぎに前職のおかげで海外に行ってから、価値観がだいぶ変わりました。マッキンゼーの役員だった大前研一さんも、自分が変わる方法は3つしかなくて、時間の使い方を変え、住む場所を変え、誰と付き合うかを変えるしかないと語っていますが、結局海外で働くとこれが全部叶っちゃうんですよね。それで今の自分と違う自分になれるっていうのは良いことが多いのかなと」
海外で暮らせば、住む場所だけでなく付き合う人も時間の使い方も強制的に変わる。日本では得難い環境変化と、自己変革の機会が世界にはあるのかもしれない。
一方、現地で働く際には注意すべき点もあると遠藤は語る。東南アジアでは、体感する時間の流れがゆっくりになるため、ビジネスマンとしてのスピード感は失わないように意識する必要があるという。あくまでベンチャー企業であるため、どこで働く場合であれ、きちんと成果を上げつつお客様の満足度を担保することは求められるということだ。
多様な働き方と各人の責任は隣り合わせとも言える。それでもなお、同社の理念や在り方に賛同してもらえる人にとっては、魅力的な選択肢となり得るのでないだろうか。
社員もお客様も、BEYOND BORDERSがあるからこそ豊かになる人たちの輪を広げていきたい。そんな遠藤の思いが、同社には込められている。
BEYOND BORDERSメンバーと
今を生きるお客様や社員のためだけでなく、何世代にも渡り続いていく会社をつくること。提供する価値の時間軸についても重きを置いている同社。そこには、経営者であり尊敬していた祖父の影響があると遠藤は振り返る。
「簡単に言うと、跡取りがいなかったんですね。すごく事業もうまくいっていて、立派な家にも住んでいたのに、娘3人で継ぐ人がいなかったので清算しちゃったんですよ。すごく良かったのに、祖父のビジネスはもうないんですね。親族だから息子だから継いでくれるとかそういう話ではなくて、続いていく会社であるということが1つ価値だと思っていて」
サービスに価値を感じてくれているお客様が多くいる。なおかつ不動産であれば相続なども起こりうる。ただ売って終わりではなく、お客様に対して長期的な責任を持つということ。そのためにも、自分の世代で終わるような経営であってはならないと遠藤は考える。
それは、お客様に対して誠実であることと表裏を成すのかもしれない。
お客様に対する誠実な姿勢として商品に責任を持ち、絶え間なくサポートしつづけるためには会社が長く存続する必要がある。一方で、そもそも長く信頼していただける関係性を築くには、前提として誠実な企業姿勢が不可欠だ。
「弊社のコアバリューの1つに『Be Sincere』というものがあって、誠実であれ、真摯であれという意味ですね。特に不動産はとにかく騙して売ろうとする人も多いものですが、とても嫌悪感がありますね。うちはそれを許さないし、自分も営業を受けて買う側になることもありますが、そういった人からは絶対に買えないですし、うちの社員がそうなっていないかどうかはきちんと商談後にお客様から聞くようにするなど、できないような仕組み作りもしています」
今が良ければいい。お客様への不誠実は、そんな一時の気の緩みから生まれてしまうものなのかもしれない。
あくまで倫理観高く、緊張感と誠実さを保ちながらビジネスを拡大していくことの大切さ。それは前職エス・エム・エス時代、人の生死にかかわる医療・介護領域でのビジネス経験により培われたものでもあるようだ。
さらに、時間軸を長く捉えるからこそ、社員の働き方も長期的なあるべき姿から必要な仕組みを考える。
「先ほどお話しした社員の働き方とか、外国の人も今採用しているんですけれど、やっぱり世代をまたいでいくような経営っていうのは、いろんな多様性にも対応していく必要があると思っていて」
リモートで働ける仕事環境、多彩なバックグラウンドを持つ国籍豊かなメンバー、働く場所の自由度、結婚出産などライフステージが変わっても生き生きと働けること。そのような「多様性」も同社の大切にする価値観の1つであるという。
歴史の長い不動産領域を事業ドメインとしながらも、BEYOND BORDERSが描く未来は既存の枠組みにとどまらない。その挑戦は、もとより1人の人間の一生で終えられるものでもないのだ。
「そもそも自分がこれ以上にやりたいことはあまりないので幸せではあるんですけれど、自分のやりたいことが自分の代で終われないんですね。何十年何百年後にきっと実現できるんじゃないかというところもあるので、そういう挑戦に賛同してくれる仲間たちに繋いでいけるようなことがしたいと思っています」
お客様も従業員もその他のステークホルダーも。そこに人の幸せが生まれ繋がっていく限り、脈々と続いていく会社であること。誠実であり、同時に多様性を大切にする存在として、BEYOND BORDERSから始まる影響力の輪は、次なる世代へと波紋を起こしていくことになるのだろう。
これまでの人生、そして起業してから現在までの道のりを振り返り、最後に遠藤は経営者として内省する「今」についても語る。
「努力とか頑張ることについて父親から強烈な刷りこみがあったとお話ししたように、その影響で、起業前の僕のスタンスは『すぐやる、大量にやる、必ずやる』だったんですよね」
まさにラグビーのプレイスタイルのように、素早く力強く走り出し、反復練習を重ねながらとにかくやりきる。そこでは目の前にあるさまざまな事象を単純化し、努力の量と速さで壁を乗り越えていくことの大切さを意識しつづけてきた。
実際、そうすることで仕事上の目標は達成しやすくなった。一定の成果も得られ、自分の中で小さな成功体験が蓄積されていた。
しかし起業から約6年半、多くの失敗と反省を経て、過去とは比べ物にならないほど自分に向き合うようになったと遠藤は語る。
「そのおかげで一定量うまくいく部分があったし、自分の中でギフトのように感じられるほど父には感謝しているんです。でも、経営者として今何が起きているかというと、ビジネスとしてすごく複雑で解のない領域に挑戦し、かつ時間軸を遠くに伸ばし、自分が死んだ後も続いていくものを残そうとしている。そこに挑戦するときに、今までのやり方をアンラーニングすることが必要だと思っていて」
ただ儲けるだけなら困らなかった。だが、国境や領域を超え事業を拡大し、より多くの人の幸せを創出することを思う時、成し遂げたいことの複雑さや変数の多さを目の当たりにした。同時に、過去の延長線上の自分のままではいられないことにも気づいたという。
「自分は完璧ではないし、営業リーダーみたいな人が経営者になるとこういう風になるんだと思い知らされた感じです。なかなかこういう話は周りにしないんですが、これを悲観的に捉えているわけではなく、今までの成功体験は味わい尽くして、葛藤や内省を経て変容しようとしていることや、それを社員のみんなと一緒にやっていきたいということを伝えたくて」
過去の自分にはなかった考え方の1つに、遠藤は「愛」の存在を挙げた。
人は成果が出ているときほど、自分が正しいと思いがちである。自分が正しく相手が間違っているという思い込み。そこから愛のない厳しさは生まれると、遠藤は過去の失敗から学んできた。
一人ひとりは違う人間であるという前提に立ち、相手に合わせた思いやりや包容を持つこと。ただ強いだけじゃない、強くて優しい在り方を大切にしたいと感じているという。
「たとえば、ビジネスですごくスピードが遅い社員がいたとして、気づくと『スピードだろ!』って言ってしまっているんですよね。自我がやっぱり出てしまう(笑)。 ただ、『ゆっくりでいいよ』って言うのは違うと思っていて。スピードって言いながらもその人ができるポイントまで落としていってあげるというか、一緒にここまでやろうとか、そういう風にどこで交わるのかを探しに行って、諦めたり強く出たりしないことかなと思うんです」
自身の主観は一旦脇に置き、俯瞰して見ることで自分本意はなだらかに薄くなっていく。かつ、自分と相手双方にとって無理のないポイントを探すこと。どちらか片方に比重が傾くでもなく二項対立でもない、共存する思考。そのバランスこそが、愛を持つことに近づくのではないかと遠藤は考える。
自分が深まるほどに、組織もまた成熟していく。それを肌で感じながら、遠藤は今、経営者としての変容のプロセスを楽しんでいる。
2022.3.28
文・引田有佳/Focus On編集部
「頑張る」という言葉から連想するイメージはなんだろうか?
努力や成長、はたまた忍耐や憂鬱といったイメージが浮かぶ人もいるかもしれない。人それぞれ見える側面は違うだろうが、遠藤氏の場合「頑張ることは美しい」という父親からの刷りこみがある。さらに、そこには「好きになる力」が高いからこそ引き出されているエネルギーがあるようだ。
好きになるからこそ、ロールモデルとなり得る人や会社と出会い、好きになるからこそ、その理想に向かって人一倍の努力を重ねることができている。
そんな遠藤氏のルーツを紐解いていくと、前提として他者をリスペクトする心がある。出会う人や物事、価値観の中に素敵だと思える点を見出している。だから、好きになり頑張ることが自然になる。
好きなことにエネルギーを注ぐ。その始まりにあるストーリーは、そんなところから紡ぎ出されていくものなのかもしれない。
文・Focus On編集部
株式会社BEYOND BORDERS 遠藤忠義
CEO, Co-founder
東京都出身。ゴールドクレストにて不動産業を経験し、当時創業後1年経っていたエス・エム・エスに入社。年間最優秀賞等数々の受賞をし、営業・事業開発・人事マネジャーを歴任。その後マレーシア現地法人となるSenior Marketing System Sdn Bhdを設立し代表に就任。メディカルツーリズムビジネスや医療・生命保険マッチングサイト立ち上げ等、海外で4年間の事業運営を経験。その後自身の海外不動産取引の強烈な経験から海外不動産マーケットを事業ドメインに置くBEYOND BORDERSを設立。日本・マレーシア・カンボジアに現地法人を設け活動中。