Focus On
大川祐介
ユニオンテック株式会社  
代表取締役社長
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or世のため人のため、逃げずに自分の成長と向き合っていこう。
物流DXによって物流業界の価値最大化に寄与していくアセンド株式会社。同社が展開する運送管理SaaS「LogiX(ロジックス)」は、これまで業界に眠っていたデータの収集と分析基盤の実装を支援。業務改善と経営分析を叶えるとともに、コンサルティングサービスにより実行面をも支援する。さらに、いまだアナログ業務を多く残す業界を草の根から変革していくことを使命とし、物流DXにまつわる講演を多数行うなど啓蒙活動にも取り組んでいる。
代表取締役の日下瑞貴は、早稲田大学政治学研究科修了後、PwCコンサルティング合同会社にて基幹システムの導入や購買組織改革等、SCM/システム関連のプロジェクトを牽引。2018年からは野村総合研究所にて官庁や業界団体を中心に、物流業界の構造分析・DXプロジェクトなどに従事したのち、2020年にアセンド株式会社(旧 ascend株式会社)を創業した。同氏が語る「変わらない信念」とは。
目次
必要なものを、必要とする人に届ける。あらゆる経済活動に不可欠なインフラでありながら、光が当たることの少ない物流業界。その業界が今、危機に瀕している。
なかでも2024年、働き方改革関連法案が適用され、トラックドライバーの時間外労働の上限規制がはじまる。ただでさえ不足するドライバーは深刻な供給不足に陥る一方で、EC市場の拡大などにより需要はますます増加する。
2030年にはものの3割が運べなくなるとも言われ、いわゆる「物流クライシス」が叫ばれる今、業界の構造的課題解決が求められていると日下は語る。
「業界に根を張るからこそ解決できる問題があって。だからこそ、我々は運送・物流にドメインを絞り、コンサルティングの知見や実行力、ITをもって、徹底的に深く全ての問題を解決していきたいと思っています」
長年IT投資がなされてこなかった業界に、デジタル技術を用いた経営革新をもたらすアセンド株式会社。運送管理SaaS「LogiX(ロジックス)」の開発・導入を進める同社では、配車×データ分析をコンセプトに業務効率の改善と経営分析を実現していく。
「実は、物流ってすごくデータと相性のいいビジネスなんですよね。基本的にアセットビジネスなので、人と車両をどうアロケーションして収益を出していくのかがビジネスの根本になってくる。だいたい人件費はいくらで車両費はいくら、このルートを回ると何回運航できるかなど、リソースを有効活用するためにデジタル技術を組み入れやすい」
アセンドの描く物流DXは、運送業における商流データを可視化し、それをダッシュボードや経営分析レポートへとまとめ、改善へ向けた具体的なアクションを支援する。
ただプロダクトとして導入を促すだけでなく、個別にコンサルティングサービスを提供できるのは、代表の日下をはじめ外資系コンサルティングファーム出身のメンバーが在籍しているからでもある。
「運賃交渉や新しい商談をつくったり、新しいルートを考えたり、実行力を伸ばしていきますということが1つ。それから弊社では国土交通省の案件をいただいたりもしているので、本当にいろいろな会社さんから『こういうことを言ってくださいよ』とご意見をいただくんですね。一ベンチャー企業というより、きちんと政策提言だったり、運送業界としてこうあるべきだと思うというところを発信できる存在として、普及・啓発まで担っていく会社でありたいと思っています」
最終的なゴールは上場ではなく、あくまで物流業界の価値最大化への貢献にある。
行政や業界団体、大手・中小の民間企業と連携しながら、解決すべき課題と向き合う。そのために将来はDXソリューションのみならず、収益改善や営業代行、ハードウェア開発によるデータ補正など必要な打ち手に見合った事業展開が考えられるという。
高い志と変革力をもって、アセンドは業界の未来を描く。物流業界を待ち受けるのは、きっと前途多難な未来ではなく、社会の基幹を担う産業として起こるべき変革なのだろう。
札幌から電車に揺られること約20分。生まれた北海道江別(えべつ)市は、広大な北海道のなかでも、都心へのアクセスの良さが人気のベッドタウンだ。生まれから高校生までを過ごした江別での時間。幼少期は活発な普通の少年だったと日下は語る。
「小学校のときは、ずっとグラウンドでサッカーばっかりしていた気がしますね。土日は友だちと卓球をやって遊んだり。とにかくスポーツが好きで、元気よく動いていたその辺のガキんちょだったんじゃないかと思っています」
最初は柔道をやっていたが、あまり強くもなく1年ほどで辞めてしまった。サッカーの方が友だちが多くいたから楽しかったのかもしれない。地元でもしっかりとした指導者のいる少年団に入り、チームで練習したり試合で勝負することに夢中になっていた。
いつも友だちに囲まれていた当時、小学校のクラスでも中心にいることが多かったという。
「小学校が一番のモテ期だったと思います(笑)。僕ともう一人、今オリックス・バファローズに伏見寅威というキャッチャーがいるんですが、彼も同じ小学校の同級生で。彼と僕がモテる感じになって、2トップでした(笑)」
幼少期、同級生と(最前列、左から3番目が日下)
平和でありふれた日常。変化が訪れたのは小学2、3年の頃、両親の離婚がきっかけだった。
「すごく悲しいなという思いと、家族が別々になって父がいなくなるということはなかなか信じられなかったですね。特に僕は双子の兄がいて、5つ下に弟がいる3兄弟で。全然お金もないなかで、母は1人で3人を育てることになったので、かなりストレスがかかっていたと思います」
家庭内の雰囲気は一転し、不安定になる。もともと男兄弟らしく喧嘩も多かった。
たとえ言葉にはしなくても、両親の離婚という出来事は、自分が思う以上にインパクトが大きかったのかもしれない。そのまま多感な年頃を迎え、地元中学に上がると、いわゆる不良グループでつるむようになっていく。
「兄貴がヤンキーの同級生がいたりして、そういう人は既にヤンキーだったりするんですよね。最初はちょっとそいつらかっこいいなと思って、自分も背伸びして赤いTシャツを着て行ったり、ちょっと腰パンしたり。そうするとだんだんもっと目立ってやると思うようになって、悪目立ちをして、やんちゃになっていく感じですね」
当時好きだった青春ヤンキー漫画『湘南純愛組!』などにも少なからず影響を受けた。かっこいいの代名詞といえば「強い」とか「悪そう」だとか、そういったイメージができている。他校の不良と喧嘩したり、先生も匙を投げるほど反抗したり。そうしていくうちに、せっかく入団できたサッカーのクラブチームも退団になっていた。
やることもなくなり、ますます褒められない方向に振れていくことになる。内から発する若者らしいエネルギーは、完全に行き場を失っていた。
「中学時代は学校も行かずに、喧嘩したり万引きしたりと何度も警察沙汰になりました。その頃のことは今では深く反省しています」
あらゆる大人に心を閉ざしていた当時、何度問題を起こしても見放さず、卒業まで面倒を見てくれた先生が1人だけいたという。
「どんなに荒れている時でも、胸ぐらを掴んで『お前何してるんだよ』みたいな感じで、向き合ってくれたんです。気持ちはすごく伝わってきましたね。そのあと大学受験では教育学部を目指すんですが、それは教師になろうと思ったからで、完全にお世話になった先生のイメージを追いかけてのことでした。本当に人生を変えてくれた、助けてくれたなという記憶がすごく残っていて、とても恩に感じています」
どんな時も全身全霊で相手と向き合う。そんな恩師の在り方には、人生にも、のちの経営にも学ぶものがあった。ほかでもないその重みを身をもって味わったからこそ、自分も人に対してそうありたいと強く思うようになった。
おせっかいとも言えるが、そういう性分なのだろう。放っておくことだってできても、あえてそうしない。どこまでも寄り添い、人に向き合う。今に繋がる信念は、当時の恩師から受け継いだものだ。あの頃自分がそうしてもらったように、人の人生に影響を与えられるようになりたいと思ってきた。
中学の終わりから高校にかけては、大きな変化の中にいた。自分自身の力というよりは、外部環境やタイミングに恵まれたと日下は振り返る。恩師のおかげもあり、不登校状態から更生に向けて歩みはじめただけでなく、その頃から真剣に勉強と向き合うようになった。
「もともと小学校の頃は成績が良かったんですが、高校受験に向けて改めて勉強しはじめた時、知らないことを知るだったり、読めないことを読めるようになることで、すごく世界が豊かになっていくなと感じていました」
特に社会や古文は面白く、自ら進んで吸収するようになる。どちらかと言えば数学は苦手だったが、勉強すること自体が好きだという感覚があった。当時の実力なりに、なんとか市内の高校へと入学する。
「高校でもサッカー部に入っていたんですが1年で辞めました。なんかあまりに適当すぎちゃって。僕は中学までクラブチームにいたこともあるので、それなりに上手くて、ヤンキーだったので負けん気も強い。そういうなかで怠ける先輩とかがいると、ものすごく喧嘩になって」
入部したからには練習に励み、試合で勝ちにいきたかったが、そうは思っていない先輩もいる。納得がいかず、真正面から衝突することもあった。もともと部活全体の士気も低いうえ、ただでさえ少ないメンバーも減っていく。次第に練習もままならなくなってきた。
仕方なく高校1年のうちにサッカー部は辞めることにして、代わりにそのエネルギーを勉強に向けるようになった。
「そのときは推薦で大学に行ければいいかなと考えていて。一応札幌にある偏差値40くらいの大学の推薦枠はあったんですよね。その学校の中では勉強ができたので、まぁやってやろうくらいに思っていたんですが、原付の免許をとって2日くらいでばれて停学になってしまって、それもなくなって。じゃあ、自分で勉強するしかないと思って、バイトしながら勉強する生活を高2からずっと続けていました」
とりあえず道内で偏差値50ほどの私立大学を目標に据え、勉強しはじめた。ところがあるとき模試を受けると、志望者のなかで1位という結果が出る。もう少し上を目指してもいいのかもしれない。そう思い、改めて自分が大学でどんな勉強がしたいかと考えた。浮かんだのは、やはり中学時代の恩師のような先生になりたいという思いだった。
せっかくなら私大の教育学部で一番上を目指してみたい。第一志望は早稲田大学教育学部とすることにした。
「高3の授業で九九が出てくるくらいの高校だったので、そのあいだずっと耳栓して自分の勉強をしたり。あとは図書館と公民館に22時までこもったり、帰宅してからも深夜まで勉強していました。単位を取るのに何回休めるか計算して、ギリギリしか行かなかったですね。体育の授業とかで全力でリフレッシュして、あとはバイトしたお金で予備校に通ったりと、とにかく1人で勉強していました」
底辺高校から健闘はしたが、現役で早稲田大学に合格することはできなかった。
本気で取り組んでいた分、悔しい結果だ。もう1年挑戦したかった。しかし、家庭の経済状況を考えると、浪人にかかる費用を出してもらえる余裕はなさそうだとなんとなく分かっていた。そこで、働きながら奨学金をもらい、学べる制度を調べて使うことにした。
「新聞奨学生という制度があるんですが、それを浪人時代ずっとやっていました。住みこみで新聞配達の仕事を1年やりきると80万円の奨学金が出るというもので」
バイトで貯めた10万円と、最低限の荷物と勉強道具だけ持って東京へ。住み込みで与えられる家は、東京・墨田区の小村井という下町にあった。見るからに古く老朽化したアパートで、ゴキブリやネズミが頻繁に出る。しかし、住める場所があるのはありがたかった。
浪人時代住んでいたアパート
仕事は朝晩の新聞配達と、毎月の集金業務だった。家々が寝静まる夜中の2時頃起きると、配達所へ向かう。よく寝坊していたので怒られつつ、チラシの折り込みや新聞の仕分け作業をしてから配達へ出かけていく。朝6時から7時くらいには仕事が終わり、夕刊配達の仕事が始まる15時頃までは図書館で勉強する。17時頃までに夕刊配達を終えると、21時まで再び図書館で勉強し、22時には寝る生活。
毎日休みなく働いて、週に1日だけは新宿にある予備校に通う。労働と勉強の2択しかない生活に1年間耐えた。仕事仲間にはガラの悪い人も多い。過酷さに心折れ辞めていく学生も多かったが、中学時代不良として負けん気で闘っていた経験があったからか、なんとか続けることができていた。
「(その1年で)やっぱり強くはなりましたね。そんななかでも絶対に勉強はするということは決めていて。作業を早く終わらせるとほかの手伝いをしなければいけなかったりするので、あえてギリギリまでゆっくりやったり、途中でサボって英単語の勉強をしたりして(笑)。配達中も予備校の講義をずっと聞いたりと、本当にずっと勉強していました」
一度北海道に帰省したタイミングで、インフルエンザにかかってしまったことがある。気力が弱まり、ついこのまま辞めようかという考えが頭をよぎった。けれど、なぜだか「やらなければ」という気持ちに駆り立てられて、東京へと戻る便に乗っていた。
「模試の判定はCやDが多かったので、だいぶ切羽詰まっていたと思います。浪人のときは早稲田だけ5個受けて、最後の最後で社学だけ受かったので本当にギリギリでしたね。もう1年同じ生活をするとなったら心が折れていたと思うくらい、合格したときは人生で一番嬉しかった気がします」
やらなければいけないからやる。原動力はシンプルで、それ以上でもそれ以下でもない。もしも逃げだしたらきっと後悔するだろうし、一生自分を許せないのではないかと思う。
何より、限界まで突き詰めるということ。その経験こそが、自分自身を一番成長させてくれるような気がしていた。
念願の早稲田大学に入学し、授業が始まった。限界まで努力してつかみ取った環境だけに、期待はひときわ大きかった。
「頑張って勉強してきて、しかも僕は底辺高校出身なので、みんなすごく頭がいいと思って入ったんですよね。すごいところに来たと思って緊張してガクブルで、事前にいろいろ本を読んでいったし、授業も絶対一番前に座って、教授にもたくさん質問する。そういう感じでふと同級生と話すと、肩透かしを食らったような感覚で」
せっかくここまで来たのだから、より向上心の高い人たちと時間をともにしたい。その一心でサークルを探し、出会ったのは弁論サークル「雄弁会」だった。
学内で100年以上の歴史を持ち、「政治家の登竜門」と言われることもある。これまで5人の内閣総理大臣をはじめ多くの政治家を輩出したことでも知られていた。たしかに優秀で、社会への高い問題意識を持つ人が集まっている。今度は良い意味で衝撃を受け、迷いなく入会を決めていた。
「早稲田で一番厳しいとも言われているサークルで、基本的には演壇でしゃべるんですが、それに対して何時間もヤジを飛ばされたり詰められたり。かなり精神的に追い詰められる感じですね。あのなかを生き抜いてきたというだけでものすごく精神が強くなっていくし、それでもやるんだという良い種になっていくと思っていて。僕は教育格差の問題と、少年非行や民主主義の問題について研究発表していました」
徹夜で激論を交わし、合宿ともなればそれが24時間にも及ぶこともある。体育会系と言えばそれまでだが、ただの気合いと根性のような世界になってしまっては違うと感じていた。
きちんとした論拠に基づき、社会問題について自分なりに提言する。そうでなければ弁論も形骸化してしまう。だからこそ大学2年になると幹事長を務め、会の運営を担った。
「僕が上になってからはすごく厳しかったと思いますね。きちんと文献を読むとか、論理的に考えるというところをすごく求めたので。ロジカルかつ根性をもってやる。僕より上の代のときは、ある種気合いがあればなんとか済んでいたところもあったので、耐えていれば最後は終わるんです。でも、僕はそれを許さなかったので、下の子からすると相当きつかったと思います」
大学時代、雄弁会の活動にて
アルバイトで学費を稼ぎながらの大学生活。あれこれ手を出す時間もないことは分かっていた。サークル活動1本に全力を注ぎ、会の代表として仕事をやりきったあとはサークルを引退。大学3年以降の次なる挑戦を考えていた。
「2年に1回環境を変えることをすごく大事にしているんです。普通は3年かかることを2年間にぐーっと圧縮してやりきって、次にチャレンジする。いわゆるコンフォートゾーンに入るというか、やっぱり慣れてくる感覚があったんですよ。デカルトも『方法序説』の中で同じようなことを言っているんですが、同じ環境にいて変化がないとサボってしまう。だから、次の3、4年ではゼミでの勉強を突き詰めたり、学問の世界に入っていきました」
2年に1回引っ越したり、転職したり。のちにも通じる生き方は、当時から意識しはじめたものだ。ちょうどその頃から、将来は教師よりも学者か政治家になりたいと考えるようになっていた。
「やっぱり学問を修めることが、すごく楽しかったんですよね。本当に世界が豊かになったので。そのあと大学院に進んで政治学の修士までいくことになるんですが、社会により大きなインパクトを与えたいとも思って、そのために当時は勉強が足りないと思っていました」
世の中の根本をより広く包括的に学び、考えたいという思いから、政治哲学や政治思想を専攻した当時。純粋な知的欲求を突き詰める一方で、学問の欺瞞的な側面については目を背けている自覚があったという。
「普遍的認識を得るということは意味があることですし、自分としても好きでしたけど、ただそれだけでは社会は変わらない。学問は基本的に象牙の塔にこもってなんぼですし、それがあるべき姿なんですよね。変に社会に貢献しようとかではなくて、やっぱり純粋に学問を学問として追求していく。それがあることによって世界がよくなっていくことも一部は間違いなくあるんです。ただ、自分はそこにはいられないとも思って。社会の嫌なニュースとかを目にした時に、行き場のない怒りががたまってしまう自分がいるのも分かっていたので、もう学問の世界に進みつづけることはできないなと思って。修士に行くと決めると同時に、出なければとも思っていました」
2年間の修士課程を終えたら、社会に出る。大学4年生の時にはそう決めていた。
自分にとってやる意義があることは、世の中にとって意味があることと重なる。社会に必要不可欠なものであるかどうかが軸になると感じてきた。
将来何をやるにしても、社会により大きなインパクトを与えていくべきであり、与えられる自分になりたかった。そのために、まだまだ突き詰めるべき学びを求めていた。
大学院時代、タイ旅行にて
いつか政治家になりたいという思いは変わらなかった。しかし、社会のことを知らなければ務まる仕事ではない。新卒では一旦就職することを考えはじめる。ただし、今しかできない勉強に集中するためにも、就職活動は早めに切り上げたかった。
「『外資』『就活』みたいな単語で検索したら、最初にPwCコンサルティングが出てきたんです。ちょうど友だちとタイ旅行に行っていて、そのまま帰りに大阪に寄って説明会に参加できそうで。それがディスカッションを含めたグループワークで、たまたま採用直結だったんですよね。そこから何回か面接を受けていったらそのまま通ったので、じゃあいいかなというところで1社しか受けなかったですね。M1の夏には就活は終わっていた感じです」
入社当初は、農協の中の組織にSAPという基幹システムを導入するプロジェクトに従事。システム開発業務のかたわら、農協の歴史や協同組合の存在意義、農業業界全体を理解するための文献にあたるなど勉強を進め、包括的な知識を得る機会としようとした。人より成長するためには、人より仕事し、勉強することが必要になると考えてのことだった。
じきに、より深い知識の探究とディスカッションを求め、同期の有志で集まり土曜日に自主的な勉強会を開催するようになった。そのなかには、現在アセンドでコンサルティングマネージャーを担う加藤隼斗や、取締役プロダクト責任者(CPO)を務める森居康晃の姿もあったという。
「集まったのは、やはり知的誠実さを持つ人たちでしたね。アリストテレスを読んでかっこいいとかではなくて、きちんと文献を読んで理解を深め考察していく姿勢があるということ、あとはそれをやり続けられるところですよね。ちょっと勉強したい人って、ちょこちょこ来るんです。でも、辞めていく人が大半でしたね」
若手だからこそ、土日関係なく仕事と向き合い勉強する。だからこそ高い成長ができると信じていた。基本的なマインドセットや志をともにする仲間と学ぶ時間は有意義だった。
「よくコンサルの世界で言われるのは、本を読んでも意味がないと。実際に仕事でアウトプットがきちんと出せるかどうかが大事だと、これはよく言われますし、一面では正しいんです。つまり、単純に短期的なスパンにおいて業務を遂行するという目線では正しいんですが、中長期的に物事を大きな視点で捉えていくという時にはものすごいマイナスなんですよね」
一方で、迷いや不安もあったと当時の心情を語る。仕事に関しては、得意と苦手がはっきり分かれていたため、厳しく評価されることもあった。未熟さと同時に自分への過信もあり、怒られ萎縮してさらに怒られるという負のループに陥っていた時期もあるという。
「当時は自信がなかったです。上司はすごく仕事ができる人だったので、本当にこの人たちが言うことが正なのかもしれない、自分が勉強してきたことが間違いなのかもしれないと思うこともありました。ただ、あとになって転職してもっと抽象的な思考が必要とされるときに、学んだことがすごく活きたので、学問はビジネスにも通じると改めて自信を持つことができました」
コンサルティング業界での貴重な経験を経て約2年。2年に1回環境を変えるタイミングが訪れ、次なるキャリアを考えていた。
政策立案など、よりマクロの視点を意識した仕事に携わることを志し、野村総合研究所に転職。当時雄弁会時代の仲間であり同社で働く人と飲みながら議論することがよくあり、彼から後押しをもらったことも決断の要因となった。
「世のため、人のためになっているかどうか、そういう産業支援をしたいという思いがあって。やっぱりインフラとかそういうものに対して、自分は仕事をしたいと思っています。その軸だけはずっと変わっていないですね」
野村総合研究所では、大きく2つの軸で経験を積んだ。1つは国際関係で、ロシアへの日系企業参入に向け、現地の法規制やマーケット、商習慣などを調査しビジネス成立までを支援するプロジェクト。もう1つが物流業界への政策提言やDX戦略立案だった。いずれも官公庁と連携しながら、スケールの大きな社会課題へと取り組むことができた。
「ものすごく社会的意義の大きい仕事でしたし、特にシンクタンクの研究員として採用されている方々は、本当に学者レベルの方が多くいて、いろいろなことを学ばせていただきました」
自分を成長させ、よりチャレンジングな環境へと飛び込んでいく。次なる挑戦として、政治家の道も真剣に考えていた。政治塾などにも参加していたが、資金の面でも知識の面でも現状より力をつけた状態で立候補した方がよいと分かってきた。
「それまで起業は全く興味もありませんでした。ただ、やるなら社会全体に意義があることしか興味がなくて。物流業界がいかにひどい状況に陥っているかはそれまでに携わったプロジェクトでも痛感していたので、物流をドメインに決めることを含め、起業という決断をしました」
今後ますます社会へのインパクトが大きくなる領域で、自身が培ってきた専門知識が挑戦の基盤になる。そこでは、大手企業や政府機関を相手にするコンサルティング会社やシンクタンクの中からはできなかった社会へのアプローチが可能になる。
2020年3月、アセンド株式会社を創業。物流DXという切り口から、業界の発展のために尽力することを決意した。
ロジカルさと泥臭さをもって、高い志を組織で成し遂げようとする同社には、特徴的な組織文化が多い。毎晩社員が持ち回りで料理を担当し、全員で食卓を囲む「アセンド食堂」や、3か月に1回の社員合宿「アセンド祭り」、その他部活動など、理想として掲げる「良い昭和な会社」の意図について日下は語る。
「山崎豊子の『不毛地帯』という小説がすごく好きで、要は『人間が一生懸命生きるってああいうことだよな』という感じですよね。本当に真剣に仕事に向き合って命をかけていくという世界観が描かれているんですが、僕はあれが素晴らしいなと思うんです」
仕事に限らず、人それぞれやるべきことと言い換えてもいい。自分にとってのミッションに対し、命がけで取り組む姿は美しい。そんな美徳を、猛烈に働いていた昭和世代の中に見出せると日下は考える。
「今は仕事と労働を切り分けて、いかにプライベートを充実させるかに目が行きがちですよね。たしかに良くない仕事の仕方はあるし、自分にとって嫌なフィールドはあると思います。ただ、それと仕事にしっかり取り組んで、世の中に価値を出し感謝されることは全く別の話であって。本当に価値がある仕事をすること、仕事を頑張ることが尊いという文化や価値観の部分をとても大切にしていきたいと思っています」
たとえば、職場の飲み会や社員旅行がつまらないのは、前提となる人間関係の問題や、参加することへの強制力があるからかもしれない。しかし、ともに過ごす時間を楽しめる関係性があれば、仕事から派生する交流の場は楽しく、ときに互いの心に踏み込める関係醸成の機会になる。
仕事を通じて人生を豊かにしてほしいという思いがあるからこそ、アセンドではメンバーが互いに仲良くなり、心理的安全性を向上させるための機会を意識的に設けているという。
そのような意図を持った行動設計は、交流だけでなく仕事自体にも求められることである。
「とにかくがむしゃらにやることは推奨しません。弊社のバリューに『深く考えて早く走る』というものがありますが、きちんと考えたうえで生産性の高い部分に関してたくさん仕事をしなさいということですね。昭和の全てが良いとは思わないし、生産性の高さも大切にしてほしい。そういう意味で『良い昭和の会社』というメッセージを掲げています」
ただし、本質思考という点では妥協はせず、たとえ社会人1年目の社員であっても、その業務の本質は何か、付加価値はどこにあるのかという問いに真摯に向き合うことを求められる。
「社会課題に関心があり、成長に対して真摯に向き合える人。あとは、みんなで楽しくやっていることが好きな人はぜひ弊社に来てほしいですね。逆にスキルはあとからついてくるものですし、ある程度のレベル以上はマインドの方が余程大事になってくると考えています」
アセンドを100年続く会社にしたいと日下は語る。それは、物流という領域に深く向き合い、より良くしていくためには時間がかかるからだという。そこに求められるのは短期的なスキルセットよりも、中長期的にコミットし業界とともに成長しつづける人材だ。
世のため人のためになる産業、そして仲間とともに豊かな人生を築き上げていきたい人にとっては理想的な環境と言えるだろう。
アセンドオフィスにて、同じ釜の飯をともにする食卓
これまでの人生を振り返り、最も大切にする信念について日下は語る。
「アセンドという社名の通り、成長しつづける大切さですかね。成長ということに対しては誰よりも向き合ってきた自信があります。成長のためならあらゆるチャレンジも続けてきたし、失敗もたくさんしてきましたし、貪欲であり続けられたと思っています。なぜそれができたかというと、正しくビビって正しく学ぶということをすごくしっかり習慣化できているからだと思っていて」
未熟なうちは誰しも失敗したり、怒られ萎縮してしまうことがあるだろう。そんな場面においては、感情や状況を客観視することで次へと繋げる意識を持つという。
「やっぱり意識しないと逃げちゃうじゃないですか。周囲や環境のせいにすることは簡単ですが、それでは自分自身が成長しない。外部環境があることは間違いないとしても、外部環境の影響は何で、自分の選択は何で、なぜそうなったのか、どうすればより良い結果になったのかをきちんと内省し言語化すること。いろんな機会を成長へと繋げることは、自分自身の責任だと思います」
向こう見ずに失敗を重ねても、あるいは成功したとしても得られる学びは限られている。
できないかもしれない、失敗するかもしれないと恐れる気持ちがあるからこそ、人は謙虚になれるし学習できる。誠心誠意考え、検討し、結果を受けて振り返る。自分自身の未熟さにきちんと向き合いつづけることに意味がある。
「あとは、自分にとって新しい課題と出会えるところに身を置く。よく言われる話ですが、やっぱり自分1人でやることには限界があるので、常に自分より高い次元の環境に身を置いておくと、自分も勝手に伸びていくので、そういった環境づくりも含めて成長への投資を惜しまないことかなと思います。結果常にできないことに囲まれているので、生きているだけで一生成長できるとポジティブに捉えています(笑)」
逃げずに向き合うことで得られる成長があり、仲間や信頼がある。それにより、人はさらなる高みを目指すことができるのだろう。
成長に終わりはない。歩みを止めず、人にも社会にも、自分自身にも向き合いつづけることの大切さを日下の人生は物語る。
2022.8.8
「2024年問題」の渦中となった本年、アセンドは一つの節目を迎えた。一般的なSaaSスタートアップの分水嶺とされるARR*1億円を突破したこと、さらに組織としても2倍、3倍という規模の拡大を遂げつつある。事業・組織の両面で新たなフェーズへと足を踏み入れたこのタイミングで、同社はミッションを改定した(* Annual Recurring Revenueの略。年次経常収益を指す)。
新たに掲げられたミッション「物流の真価を開き、あらゆる産業を支える。」には、改めて物流というものの意義や役割に立ち返り、それらを広く社会に訴求していく意図が込められているという。
「ミッションを改定するにあたり一番意識したことは、まず物流というものの価値だったり役割の広さというところをしっかり世の中一般に対して伝えていくことができるようなミッションに変えていきたいということでした」
物流は経済の血管とも言われる。モノが脈々と運ばれてゆき、北から南まで各地をあまねく巡るからこそ成り立つ産業があり、私たちの生活がある。全ての産業の社会基盤であり、人々の日常を支えつづけている。まさに物流は「なくてはならない存在」であることを強調したかったと日下は語る。
同時にその業界を動かしているのは、トラックドライバーをはじめ「人」であることも忘れてはならない。物流の現場で働く人々と向き合うアセンドだからこそ、その血と汗に対し、リスペクトの精神を表現することも重要だった。
結果として、当初の思いや信念は変わらないまま、同社にとってこれまで以上に解像度の高いミッションが定まった。
「『2024年問題』というものが一つありますが、それは表層に過ぎず、むしろ2024年に至るまでの商物分離や荷主との力関係、法律の改正などからくる構造的危機が存在することが大きな問題です。それに対して、社会課題解決を志向するスタートアップとしては、シンプルにSaaSを作って展開したいわけではなく、本当に業界の大きな構造を捉えつつ、この巨大で複雑な物流業界の課題を正面から解決していきたい。ミッション改定は、そんな決意の表れでもあります」
なぜ、アセンドはそこまで物流業界の課題解決に全てを賭すのか。
2024年現在、日本の名目GDP(国内総生産)は600兆円を超えた。そのうち物流市場は単独で約24兆円、一方で残りの576兆円においても物流が関与しない産業はない。まさに物流は「あらゆる産業を支えている」ともいえる。だからこそ、物流業界の衰退は日本のあらゆる経済活動に直結することを意味するのだ。
「物流自体がどこまで高度化していくのか、レベルアップするのかというところが物流業界の成長率だけではなくて、むしろ日本経済と産業全体の成長率に関わってくる。そういった意味で、アセンドは物流業界の発展によりあらゆる産業を支えていく存在であると解釈しています」
物流は決して前面に出てくる業界ではない。特にBtoBともなれば、なおさら見えにくい世界だと言えるだろう。しかし、陰ながら支え、社会を回すことに物流の変わらない真髄があると日下は考える。
だから、アセンドはそのミッションを唯一無二として掲げ、指針とする。事業が成長し、組織が拡大している今だからこそ、企業としての存在理由を一段明確なものとすることに意味があった。
2020年の創業からこれまでの歩みを振り返ってみると、正直なところ想定以上に時間がかかったと日下は語る。その要因として、2点を挙げる。
「まず運送業界に特化したクラウド型のERPを開発するということ、これ自体がやっぱり難しかったですね。これは本当に弊社のCPO森居とCTO丹羽の活躍や、力なくしては絶対に実現できなかったことだったと思っています」
一口に運送業と言っても、その運び方や業態はさまざまだ。それに対し、クラウドという標準化したシステムで課題を解決していくということの難しさ。「ロジックス」は、そんな壁を乗り越え、作り上げられた。
「もう1点は、市場の成熟性を待たなくてはならなかったことです。やっぱり業界的にデジタルやDXというものに馴染みが全くなく、強い抵抗感があった状況だったので、これを2年間かけて啓蒙していったという側面も多分にあると思っています」
北は北海道、南は九州まで、アセンドは全国各地を回りながら物流DXなどをテーマとする講演を行ってきた。夜はともに酒を飲み交わし、時間をかけて現地の運送会社とディープな関係性を築いた。概念としてのDXやSaaSではなく、自社の経営や業務、あるいは意思決定が具体的にどう変わるのか、リアルなイメージを持ってもらえるよう時間をかけて説明してきたことが功を奏した形だ。
業界全体としても、目前に迫ると言われてきた「2024年問題」が目下進行中となり、意識に変化が生まれつつあるという。未来を見据えた経営が求められる今、同社はいかなるアプローチを描いているのか。
「モノの運び方をどう最適化するかということを考えなくてはならなくて、これに対して弊社はどれだけ提案ができるかどうかが重要だと思っています。適正な運賃を取ることや待機時間を削減すること、これらは当然としたうえで、大事にしなければいけないのは『良い物流を提供すること』だと思っているんです」
少子高齢化の進行や生産年齢人口の減少、さらにエネルギー効率の向上が求められつつあるといった日本社会の変化は、おそらく不可逆なものである。その前提の上で考えるならば、これまでのような物流の在り方は到底永続できない。だから、新しい仕組みが求められている。
「結局運送会社さんだけでは変えられる範囲に限界があって、最後は荷主さん含めて改革をしていかなければならないということは間違いないんです。だからこそ、我々としても次なるチャレンジとして新しく荷主さん向けのプロダクトを開発すべく、既に動き出していますし、さらに言うとそこから派生する共同配送や中継輸送のような実物流に関与する在り方までしっかりと模索していきたいと考えています」
たとえば、生鮮食品は翌日に届く必要がある一方で、本なら通常2~3日待ってから届いても問題はない。そんな風に運ぶモノの性質や緊急度に合わせて、サービスを細かく調整していくだけでも全体の輸送効率が変わってくる。
物流全体の最適化には、運送会社と荷主が連携していく物流体系を構築しなければならない。大きな課題を正面から解決し、企業価値をつけていく。そのための事業を、アセンドは生み出しつづける。
「アセンド食堂」をはじめ、こだわりのある組織カルチャーを大切にするアセンド(『3章 組織の価値観 / 3-1.「良い昭和な会社」でありたい』)。一貫して守り育んできた組織としての価値観があるからこそ、現在はハイレイヤー含む採用・オンボ―ディグも順調に進み、一定の強度を保ちつづけたスケールが見えているという。
「採用においては、まず『いい人かどうか』をすごく重視しています。じゃあ何が悪なのかというと、我々の場合は過度な自己主張です。弊社はミッションが全てなので、基本的にはミッションに忠実であれば、あとのことは比較的自由ですとお伝えしています」
あらゆる意思決定において、ミッションを起点として思考できること。同じチームの一員として、ミッションに基づき行動できること。同社のバリューで言うと「組織追求」にも通じる部分でもある。拡大フェーズに入っても、組織づくりの方針は変わらず一貫した思いのもと行われている。
「『アセンド食堂』もいつまでできるのかという話が上がることもあるのですが、私は基本的に一生やるつもりでいて。ただ、食堂という形かどうかは分からなくて、要は全員が同じ釜の飯を食べ、本当に背中を預けられる心理的安全性の高い状態を追求したいと思っているんです」
物流業界の課題をどこよりも深く掘り下げ、真正面から解決していく。そのためには、半端なコミットでは成し得ないと日下は考える。
「やはり熱狂度高く、一体となり、同じ課題を解決しにいく。そういう会社でしか解けるわけがない難問だと思っているので、この熱量を維持しつづけることが何より重要だと思っています。50人、100人になろうが1,000人になろうが、同じ思いや熱量を持って組織が行動できるように導いていきたいですし、能力以上に想いや人柄を最重要視して採用していくことを徹底しています」
法改正など大きな流れの中にある物流業界では、自社組織だけでなくダイナミックな社会の動きも捉えていくことが必須となる。日下個人としても、近年世の中でますます物流への関心が高まりつつあることを肌で感じているという。
「最近はトラック協会だけではなく商工会や県の産業政策課をはじめとする、直接物流に関わりのないところからお声掛けいただく機会もかなり増えてきました。ほかにも運送会社さんや物流会社さんだけではなくて、荷主側の企業さんのコンサルティングや事業に関するご相談をいただいたり、改めていろいろな課題をいただけるようになってきたなと感じています」
2024年7月には、運輸デジタルビジネス協議会(TDBC)の理事に就任したほか、JILS「ロジスティクスイノベーション推進委員会」委員、「ロジスティクス経営指標調査」専門家委員を務めるなど、比較的公共性の高い立場に声がかかることも増えてきたと日下は振り返る。
社外の活動を通じて出会う人からも、「アセンドさんの話を聞いています」と言われる機会が増え、物流業界の中でも一層責任ある立場として認知が広まりつつあるようである。なぜ、一スタートアップという立場でありながら、業界全体を俯瞰する公共から必要とされるのか。
「これは結果論なのですが、おそらく一つは私利私欲で動かないことだと思っていて。本当に業界や世の中のためを意識してやっているからこそ、いろいろとお声がけいただけるんだろうなということと、もう一つはシンプルに知見があるからだと思うんですよね」
熱量高く、一定の時間を投下し物流業界について学びつづける。業界誌には必ず目を通すほか、現場のコンサルティング案件でも1社1社丁寧にヒアリングを重ね、常に知見をアップデートする。そうして自社の利益とは離れた立場から、業界について提言できること。その能力があるからこそ、必要とされるようになった。
「これらの活動が直接社業に関係があるかと言うと、正直ないことも多いのですが、ご依頼いただいたことはどんなに忙しくても断らないと決めているんですよね。業界のためになることで、自分にできることは全てやらせていただこうと決めています。業界からいただいた知見がある以上、それをフェアに社会全体に還元していくべきと思っています」
信頼とは、あとから気づいた時に積み上がっている貯金と等しい。誰より成長と向き合いつづけてきた日下だからこそ、真の意味で「知」を社会のために使い、実装していけるのだろう。
2024.10.22
文・引田有佳/Focus On編集部
機会から逃げずに、学び成長しつづけることは自身の責任と考える日下氏。その人生には中学時代の恩師をはじめとする素晴らしい人や学問との出会いがあり、より豊かな世界へと導かれてきた過去がある。
かつて自分が受けた良き影響を今度は志をともにする仲間、そして社会へと返していくように、自身がやるべきことへと粛々と向き合う。その道のりにおいては、打ちのめされたり苦い思いをすることがあったとしても、自分の弱さを認め、それでも向き合いつづける方を選ぶ。
そのように自分にも他人にも、社会にも逃げずに向き合う人こそ、社会への影響力を持ち、意義あることを成し遂げられるのかもしれない。
アセンドが描く理想は、目先の世界のみならず遠い未来をも内包している。より広く社会に必要不可欠な存在として、ここから足跡を残していくのだろう。
文・Focus On編集部
アセンド株式会社 日下瑞貴
代表取締役社長(CEO/COO)
1990年生まれ。北海道出身。早稲田大学政治学研究科修了後、2016年に外資系のPwCコンサルティング合同会社に入社し、基幹システムの導入や購買組織改革等、SCM/システム関連のプロジェクトをリード。2018年より野村総合研究所に転じ、官庁や業界団体を中心に、物流業界の構造分析・DXプロジェクトに従事。物流クライシスの真因は、多重下請け構造、物流のコストセンター化、商物分離にあるとの認識に至り、DXによる業界変革を志し、2020年3月にアセンド株式会社(旧 ascend株式会社)創業。論文「フィジカルインターネットによる物流課題の解決」、講演「トラック運送業の課題とデータ活用の可能性」。