Focus On
高井淳一郎
株式会社ヒトカラメディア  
代表取締役
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or当たり前として淡々と受け入れてみる。そこから出会える世界がある。
子育て世代の悩みに寄り添うべく、ベビー用品のレンタル・販売事業やベビーカーのシェアリング事業「ShareBuggy」を展開するBabydoor株式会社。「せっかくレンタルして使い心地を試すなら、定番商品だけでなく流行の最新ブランドなど特別な選択肢も試してみたい」「外出先でも気軽にベビーカーを借りたり返したりしたい」など、ユーザーの声に耳を傾けることを大切にする同社では、子育てしやすい地域社会の構築を目指している。
代表取締役の中川阿美は、⽴命館⼤学映像学部を卒業後、グリー株式会社へ⼊社。広告事業部と新規事業部を兼任し、社長直下での新規事業立ち上げなどに従事したのち独立し、2017年にBabydoor株式会社を設立した。女性向けのキャリアセミナーなど講演活動も行う同氏が語る「試しながら知る自分」とは。
目次
子育て世代の悩みは多い。ベビー用品選びもそのうちの一つだ。子どもは日々成長し体格が変わるほか、流行も年単位で移り変わる。高価な商品は購入の意思決定が難しく、失敗した際の後悔も大きい。Babydoorのサービスは、リアルな子育て世代のニーズに応えるべく生まれたと中川は語る。
「弊社では流行りのベビー用品を商品ラインナップとして確実に取り揃え、定番のブランドから他社にはない最新ブランドまでを幅広くレンタルでお試ししたり、購入できるようにしています」
レンタルと言っても無難な選択肢が中心で、数年前の型落ち商品しか扱っていない。そんな市場の常識を覆し、個性のある商品やSNSで話題の最新ブランドなど特別な選択肢も試せるようにする。同社が運営するベビー用品のレンタル・購入サービス「Babydoor」は、実用性とともにトレンドを重視する現代の子育て世代に支持されている。
さらに同社では、ユーザーの声を受けベビーカーのシェアリングサービス「ShareBuggy」を立ち上げた。実証実験を経て、2021年から正式に運用がスタートしている。
「レンタル商品はどうしてもお客様のもとに届くまでにタイムラグがありますし、お客様側でも商品を返却するための手配をしてもらう必要があります。お客様としては必要な時にその場で借りて、その場で手放せるようなサービスがほしいという声が多かったんです。最初に渋谷駅で、次に新宿駅で実証実験を行ったのですが、とにかく良い反響が多くて。もっといろいろな拠点で使えるようにしてほしいという声を本当に多くいただきました」
ちょうど時代も追い風になった。シェアリングという概念が浸透し、所有するよりもシェアする方がスマートだとするような価値観も生まれてきた。
たとえば、電車に乗るときは抱っこ紐を使い、電車を降りてからはベビーカーをレンタルし、使用後は最寄りのポートにそのまま返却する。外出時の荷物が最小化されるだけでなく、移動の選択肢が広がる。同サービスにより、ベビーカーを中心とした新しいライフスタイルや、子ども連れに優しい街づくりが実現されていく。
さらなる利便性の向上を図るべく、設置ポートは全国へ順次拡大されつつあるという。
「将来的には、日本の少子化というものを少しでも解決する手助けにBabydoorという会社がなればいいなと思っています。今はやっぱりみなさんいろいろな状況があるなかで、『子育てって大変だよね』とか『2人目なんて無理』と感じている方も多いと思うんですけれども、何かあったときの駆け込み寺ではないですが、Babydoorが子育てに関する悩みを抱える人の力になっていければと思います」
シェアリング事業がユーザーの声から生まれたように、同社では今後も子育て世代の悩みや課題の解決に資する新サービスを提供し、誠心誠意努めていく。そのために、積極的に意見を寄せてほしいと中川は語る。
さまざまな思いや困難、壁を抱える子育て世代のために、より豊かな子育てライフをともに創る存在としてBabydoorは在りつづける。
親が転勤族だったため各地を転々とした幼少期、2~3年ほどで環境が変わっていくためか、小さい頃から「当たり前」の基準となったのは、友だちよりも身近な兄弟だったと中川は振り返る。
「末っ子だったので上の兄弟を見て育っていて、たとえば大きくなったら幼稚園に行くんだとか、その次は小学校に行くんだとか、全てに対して当たり前のように受け入れていて。身近にロールモデルのような存在がいたので、大きくなったらみんな環境って変わっていくんだなと思いながら歩んでいたと思います」
年の離れた兄弟の存在は、人生の先を行く人のようにも見えていた。兄弟が当たり前のように中学受験をし、勉強と部活を両立している。その様子を見て、誰に言われたわけでもないけれど、そうすることが自然なのだろうと思い、同じように取り組んできた。
「小学校に入った時からもう『私は中学は受験するんだ』ということが頭にあったので、小学校4年生以降は自分から塾に通い出したり、しっかり受験に向けて動いていた記憶があります。そこに違和感だったり好きとか嫌いという感情も特になくて、そういうものなんだと思ってやっていましたね」
先を行く人が当たり前にそうしているのなら、自分もやるべきなのだろう。疑問の余地もなく、実際その通りにしてみて困ることもなかった。むしろ兄弟の背中を追いかけると、いつも新鮮な発見があった。
「兄弟がすごく多趣味だったので、いろいろなものに熱中してはまた違うものに熱中してという姿を見て、大きくなるときっと自分もそういうものを好きになるんだろうな、じゃあ1回やってみようと思う感じです。昔から一つにのめり込むというよりは、結構いろいろなものに何でもトライすることが好きでした」
やってみて直感的に惹かれることもあれば、反対にいまいちハマらないこともある。ただ、男の子の遊びだからとか、女の子の遊びだからという見えない枠組みのようなものも気にせず、なんでも一通りやってみる。とにかくいろいろと試してみるうちに、いつしか新しい世界に飛び込むこと自体に楽しみを見出すようになっていた。
「中学からは吹奏楽部に入ってアルトサックスをやっていたのですが、ハマったもののの一つですね。そもそも朝練というものが今までになかったですし、コンクールに出るとか、コンクールに出るメンバーに選ばれるために練習するとか、全てが初めての経験で楽しかったんです」
耳に残るメロディーを演奏できるよう練習を重ねたり、みんなで曲を作り上げていく過程を味わったり。いわゆる楽器の練習はもちろん、基礎練や腹筋のような地味な時間すらも面白く感じられる。
尻込みせず、まずはやってみる。そうして新しい世界を楽しむうちに、何より心動かされるものと出会い、気づけば毎日を楽しんでいた。どんなときも当たり前として淡々とやる。だからこそ出会えた世界があり、体験があったのかもしれない。
2-2. 「好き」と「直感」を試して磨く
中学では皆勤賞をもらうほど、勉強と部活に明け暮れるうちあっという間に過ぎた。中高一貫で進学した高校では、新しいことに挑戦したくなっていた。
「高校になって中学とは違う部活もちょっと覗きたくなったんですよね。いくつか見に行ったなかで、中学には選択肢としてなかった弓道を選んだんです。団体でやる吹奏楽を経験したので、(団体が嫌だったというわけではないのですが)個人としてやる部活もやってみたいなと思って」
直感的に惹かれた選択ではあったが、すぐに間違いなかったと知ることになる。単純に的に当てられるよう練習するだけでも楽しいが、弓道はそれ以上の奥深さがあった。
「『射法八節』と言われる定められた所作があったり、『礼に始まり礼に終わる』という精神とか『丹田に力を入れる』とか、弓道を通じて知らない言葉を知ることができたし、日本人のルーツのようなものを感じられて。おそらく先輩がそういうことをしっかり教えてくれたからだと思うのですが、新しい文化に触れたような感覚で一つひとつすごく楽しくできましたね」
優秀な先輩後輩に囲まれていたため、試合で積極的に活躍するほどの選手にはなれなかったが、個人で段位を取るなど自分なりに満足のいく結果を残すことができた。
部活が充実していた一方で、当時進路選択にはかなり悩んでいた。昔から「将来これがやりたい」と言えるものがなく、いろいろ調べてはみたもののいまいちよく分からない。そんな状態で、大学をどう選べばよいかが分からなかったのだ。
「自分の中で迷いに迷っていて、文系の方に進んでみたり、理系の方に進んでみたり結構ブレてしまっていたんですよ。それで一旦、自分の『好き』から考えてみたらいいんじゃないかと思って。大学って学問を修める場であると同時に、それ以外の楽しさを追求する場所でもあるのかなという思いがあったんです」
自分が好きなものはなんだろうかと改めて振り返ってみると、当時弓道で触れていた日本の文化や歴史、それから「映画」だった。
「いわゆる『映画オタク』というほど本数で言えば大したものではないのですが、小さい頃から映画は幅広く観ていて。特に『この映画ってどうやって作っているんだろう』とか、役者さんが舞台挨拶したりパンフレットが作られたりしているのを見て、『楽しい映画ってこうやってみんなに知られていくんだ』と思ったり、なぜか作り手目線で映画に興味があったんですよね」
映画に関連した情報から辿っていくと、京都の立命館大学に映像学部があると知る。同学部が提携している「東映太秦映画村」は、時代劇などの撮影地の一部を使ったテーマパークであり、まさに日本の歴史や文化を色濃く残す場所でもあった。
心惹かれる何かがあれば、飛び込んでみる。受験も自分の心に従うことにした。当時は関東圏に住んでいて、周囲は東京の大学を目指す人が多かったため驚かれたが、迷いはなかった。いくつかほかにも関西の大学を受験したが、気合いを入れて臨んだ第一志望に無事合格し、晴れて入学できることになる。
「大学ではやっぱり時間ができたので、ものすごくいろいろなことができるようになって。最初は『こんなにいいの?』と思ったりしたのですが(笑)、自分の思うことを自由にできる大学生活って最高だなと思いましたね」
楽しそうだと思えるものは数えきれないほどあった。特に、学生主体の映画祭では実行委員長を務め、社会人とも連携しながら1年間運営や広報活動に携わるという貴重な経験もした。しかし、当然ながら挑戦した全てが自分に合っていたわけではない。
「いろいろなことに挑戦してみたのですが、なかにはもちろん自分に合わないものや『あれ?』と思うものは結構あった気もします。だから、中学高校のように3年間とか続いたものがあまりなくて。映画祭のように1年という期間が決まっていたり、ハマったものに関しては最後までやりきっていましたが、一方で1~2回顔を出して辞めてしまったものもたくさんありました」
一つにとらわれず、惹かれたものにはなんでもトライする。実際その環境に身を置いて体験するからこそ、自分がどう感じるのかが分かってくる。「好き」と「直感」を頼りに行動するほどに、それらは磨かれ、より信頼できる指針となっていくようだった。
偶然ビジネスに触れるきっかけとなったのは、とある女性起業家の講演会だった。ほかの大学で開催されるものだったが、なぜだか気になるものがあり参加してみると、今までにない衝撃を受けた。
「今となっては『女性の働き方改革』といった言葉も浸透していると思うのですが、その方は何年も前からずっと発信されていて。やっぱり自分が将来どこかの会社に入った時に、女だからという理由で良い役職に就けないんじゃないかとか少し不安はあったので、すごく自分事に思えて」
こんな人の存在が、未来を明るいものに変えるのかもしれない。女性社長の存在は、そう思わせてくれるほど心強く大きなものに感じられた。
「『あぁ、こういう人の力になりたい!』と思って、その日のうちに『インターンをさせてください』とメールを送ったんです。すぐに快く受け入れていただいたので、講義の合間を縫って女性社長のそばで働かせてもらうようになって。それを通じて、やっぱり求められることを仕事にするのっていいなと思えて、そういうことができる人でありたいなと思うようになりました」
あとから思えば、幼少期の自分にとっての兄弟のように、ロールモデルとなる人を探していたのかもしれない。
「周りには医者や弁護士になりたいとか、外交官になりたいとか、みんな明確に目指す職業を言える子が多かったんです。当時の自分は何になるんだろうという漠然とした不安があって。そんな時、自分の手にした職を全うしている女性のロールモデルはやっぱりかっこよく見えて、どうにか学びたい、力になりたいと思っていた気がしますね」
ほかにもインターンは大小さまざまなものを複数経験していった。その過程でいち早くグリー株式会社から内々定をもらい、そのまま就職活動を終えることもできたのだが、せっかくの機会なので幅広い企業の選考を受けてみることにした。
いわゆる有名な大手企業には一通りエントリーしてみるとともに、絶対に無理だろうと予想される会社でも、面白そうな選考があると知れば履歴書を送っていた。
「採用試験の過程でプラスアルファ何か面白そうなことをやっている企業を選んでいた記憶があります。たとえば、女子アナ試験のカメラテストとか、アパレルメーカーでは模擬店舗販売ができたりとか、体験として今後絶対にできないだろうなというものをなるべく選んだりしていました」
今しかない機会があるのなら、やってみたい。さまざまな社風や事業を肌で感じた結果、どうやら自分は何をやるかよりも、どんな環境に身を置くかを大切にした方がよさそうだと分かってきた。
まだまだ未熟な新卒ではあるものの、組織が強く、個の意見を発する機会があまりにも少ない企業は自分には合わなさそうだった。やはりロールモデルとして描いていたのは、お世話になった女性社長の姿だ。自分なりの意思を持ち、人の役に立つことをする。そうして必要とされる人材になりたいと思うようになっていた。
グリーは若手にも機会を与えてくれる会社であり、発言が歓迎される社風だった。当時主力事業だったゲーム領域には疎かったが、社内には新規事業部や広告事業部などさまざまな部署があると知ったこともあり、入社を決めた。
やはり大学生活で幅広い経験を積み重ねたからこそ、すんなりと意思決定できたような感覚がある。おかげで早めに就職活動を終えることができ、その分卒論にも余裕を持って着手することができた。
「当時は『O2O』というマーケティング上の概念が広く話題になっていて、書籍も出版されていたので購読して興味を持って、卒論のテーマとして研究してみたんですよ。CMを見て購買まで至った人がどういう風に気持ちを動かされたのかとか、実際複数人にアンケートを取ってみたりもして。結構労力をかけて取り組んだ研究でしたし、私の中では意味がある内容だったと感じています」
オンラインで行動の動機を得た人が、オフライン(店舗)でどのように購買まで至るのか。いわゆる広告の根源にも迫るような研究だった。今ではあまり使われないマーケティング用語かもしれないが、映像が与える情報の力や、人の心を動かす手段としての映像の可能性を実感することができた。
「自分も映像なのか何かメディアを使って、必要な人に必要な情報を届けたり、人のためになることができるといいなと思いましたね」
偶然だが、グリーに入社してからは広告事業部に配属されることになる。実践に触れながら広告に関して学びを深めたことで、それらはのちに起業してからも役立つ知識となった。
さらに並行し、当時は社内の新規事業コンテストにも手を挙げていた。社長の前でプレゼンし、認められれば晴れて事業として走らせることができるというものだった。
「いの一番に『やりたいです』と言ったのですが、今まではレールが敷かれた道を歩いていたので、新規事業を立ち上げるための知識がなさすぎて、最初はすごく大変でした。事業計画書も引いたことがないので『販管費ってなんですか?』みたいな、今となってはものすごく恥ずかしいのですが、手を挙げたからにはやるしかなくて」
お題は「3年で売上10億規模を見込める事業プランをつくる」こと。10億なんて実感も湧かない数字だが、とにかくがむしゃらに勉強しながら資料を作成していく。数か月間は事業を2つ掛け持ちしているような状態で多忙な日々を過ごした。
最終的には社長の前でプレゼンする機会は得たものの、事業としては認められなかった。自分たちが思い描いたものに、ほかの人を説得して巻き込んでいくことはそう簡単じゃない。新規事業の難しさを実感しつつ、だからこそ、数々の障壁を乗り越え事業として成立させていく人やチームの姿は輝いて見えていた。
新規事業を形にすることはできなかったが、事業をつくりあげるためにはどんな手順を踏めばいいのかを一通り学ぶことができた。その経験は、次なる挑戦へと繋がっていく。
「グリーでは周囲にいた人たちが会社に依存せず、自分自身でキャリアを構築していくことを考えていて。同期が当たり前のように独立していく姿を見たりもするなかで、自分は社内で新規事業を社長にぶつけるだけでいいのかとか、自分にできることってもっとほかにもあるのかなと考えていたんです」
そんな折、当時はちょうど子育てに入った友人が周囲に多かった。話を聞いていると、どうやら子育てには悩みがつきもので、なかでもベビーカーの価格の高さや、選択肢が多すぎて選べないという悩みがあるということだった。
高級化・多様化が進むベビー用品の購入は、初めて子育てする人にとっては難しい意思決定が多いという。友人の話を聞きながら、それなら低価格で気軽に試すことができる仕組みはどうだろうかと考えた。
「友だちに話したら『それはものすごく嬉しいよ』と言われて。これってもしかしてレンタルという形で叶えられるのかな?とか、いろいろなことを頭の中で思いつつ、ちょっと形にしてみようかなと思って事業計画を引いたり、市場規模を調べたりしていったんです」
現代は少子化が進み、ベビー用品の市場も狭くなりつつあると言われていた。しかし、ベビー用品にまつわる情報はあちこちで発信されている。芸能人やアスリートなど影響力のある人のSNS投稿が一つあるだけで、新規メーカーの高級ラインが飛ぶように売れることもあるようだった。
大学で研究していたO2Oにもどこか近しい、流行などの流れが大きく見えやすい領域だった。
「これって事業としてやると、人の役に立てるんじゃないかと思いはじめて。やりたい、しかもそれは会社の中でやるのではなくて、自分自身でやることに意味があるんじゃないかと思えたんです」
周囲で先に独立していた人にも相談するなかで、やはり自分でやるべきだと確信を得たため独立を決意。2017年5月、Babydoor株式会社を設立した。
サービスをリリースすると、思った通り他社にはないトレンド商品に予約が集中した。求められ、人の役に立つ仕事をしたいと思ってきたが、実際にユーザーからの反響をもらうとますますその意義を感じられた。
子育て世代を支え、同時にユーザーに支えられながら、Babydoorは子育てにまつわる課題解決に真摯に取り組んでいく。
自分の先を行くロールモデルの存在は、ある種の安心材料になる。憧れからくる原動力や、目標やゴールが定まりやるべきことが明確になるなどの良い面がある一方で、実際に同じ地点まで到達してみると、想像とは違ったという感覚になる可能性はゼロじゃない。
ロールモデルの必要性は、絶対とは言えないようだと中川は振り返る。
「大学時代はやっぱりインターン先の女性社長がすごくキラキラして見えたので、『あなたみたいに将来なりたいです』とずっと公言していたんです。今、自分もある種同じ女性で起業家になったわけなんですけれども、憧れの人と自分では良い意味で違う部分も多くあるので、結局『人は人、私は私』ではないですが、必ずしもロールモデルを見つけなくてはいけないわけではないのかもしれないですね」
今でも絶対的なロールモデルは見つかっていないと中川は語る。けれど、目の前の課題を一つひとつ乗り越えていく。先人たちも当たり前のようにそうしてきたのだから、自分もそうすべきだろうというスタンスでいる限り、歩みが止まったり不安に駆られてどうしようもなくなるようなことはないという。
「やっぱり目の前に課題があったらそれを乗り越えていくということは、当たり前のように兄弟など先を行く人がやっている姿を見てきたので、それは変わらず今もやっていて。会社を経営しているといろいろなことが起きるものですが、『そういうものだよね』という気持ちでやっています」
独立し、レールの敷かれていない人生を選択した時点で、それはある程度分かっていたことでもある。日々新たな課題や予想外の困りごとが生まれないわけもない。だからこそ、解決策を見つけることにフォーカスすればいい。
「今も何か目に見えるゴールがあって、そこに向かって走っているわけではないのですが、いつか続けていたら何かしらなりたい自分になれているんじゃないかと思うんです。だから、自由度が高い人生のなかでも、その都度自分なりにベストな選択をしつづけようと思っています」
イレギュラーな出来事は、日々当たり前に起きるものである。だから、落ち着いて淡々とやるべきことをやる。「こうなりたい」はなくても、最後にはきっと実を結ぶと信じながら、少しでも周囲や社会により良い影響を与えられるように心がけていく。そんな生き方も一つの道と言えるだろう。
2024.12.13
文・引田有佳/Focus On編集部
先人の歩みというものは、それ自体が道になる。現代ではロールモデルと呼ばれるものがそうだ。しかし、これだけ価値観や生き方が多様化した時代では、自分とぴったり一致するロールモデルに出会うことも難しい。
ただ、そう生きた人がいたという結果に過ぎないもの。その中から完璧な答えを必死に探しても、深みにはまってしまうこともあるだろうし、実際思っていた未来とは違ったということもあり得る。だからこそ、直感を信頼できることの価値が再考されるべき時代が来ているのかもしれない。
心惹かれるものがあれば、固定観念にとらわれずなんでも経験してきたと語る中川氏。伝聞などではなく、ほかでもない自分自身が体験し、どう感じるかを試す。その積み重ねが、直感を「不確かで根拠のない思いつき」などではなく、「信頼の置ける磨き抜かれた嗅覚のようなもの」に変えるのだろう。
いかに社会が移り変わっても、磨かれた直感は自分だけの羅針盤のように機能する。直感に従い、やってみる。人生の岐路はいつやってくるか分からない。いつ必要になってもいいように、直感を信頼できる味方としておくことが良さそうだ。
文・Focus On編集部
Babydoor株式会社 中川阿美
代表取締役社長
⽴命館⼤学映像学部卒業後、2014年4⽉にグリー株式会社に⼊社し広告事業部と新規事業部を兼任。新規事業部では事業責任者として、社⻑直下で新規事業⽴ち上げ等に従事。2016年秋に独⽴のため退社、2017年4⽉にベビー⽤品レンタル・販売事業”Babydoor” をリリース。5⽉にBabydoor株式会社として法⼈化、代表取締役社⻑に就任。⼥性のキャリアセミナー等も⾏い幅広く活躍している。