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サッカー選手になれなかった男の大志 ―「長友佑都」流の自己実現を子どもたちに伝えたい

選んだ道を正解にする力は、意志ある行動の積み重ねにこそ宿る。


日本代表として国内外で活躍しつづけるプロサッカー選手・長友佑都が主宰するYUTO NAGATOMO Football Academyは、U-12を中心とした選手育成アカデミーである。首都圏を中心に全国16か所で展開し、サッカー選手の育成のみならず、未来を担う子どもたちが世界を舞台に羽ばたきつづけるための主体性と行動力を養うべく、実践的な育成メソッドを提供している。


アカデミー代表の平野智史は、大学卒業後、スポーツマネジメントやサッカースクール関連企業などに勤務したのち、2008年より中村俊輔のサッカースクール「ShunsukePark SOCCER SCHOOL」にて指導。2015年、長友佑都とともにYUTO NAGATOMO Football Academyを設立した。日欧3国のライセンスを所持し、20年で1万人以上の選手を指導してきた実績を持つ同氏が語る「原動力としての憧れ」とは。





1章 YUTO NAGATOMO Football Academy


1-1. 世界へ動く、じぶんから。


フィールドに響き渡る、熱のこもった声。真剣に耳を傾ける子どもたち。トレーニングで身体を動かす技術を学び、同時に自身と向き合うマインドセットを吸収する。その眼差しの先にいる存在は、名実ともに日本代表として名を馳せるサッカー選手・長友佑都その人だ。


YUTO NAGATOMO Football Academy(以下、「NAGATOMO ACADEMY」とする)は、長友のように世界で活躍しつづけるサッカー選手を育成するとともに、その精神性を伝えていく場でもあると平野は語る。


「長友佑都って自己実現の象徴なので、ロールモデルとして分かりやすいですよね。自分がこうなりたいというゴールを設定して、そこに向かっていく。長友さんみたいになる、あるいは超えていこうということをメッセージとして伝えています」


どこまでも熱くまっすぐで、努力の人。ポジティブで意志が強い。無名から成功の階段を駆け上がり、左サイドバックとして活躍。あとに続く多くの日本人選手の道を切り拓いた功績については語るまでもない。「自己実現」を学ぶには、これ以上ないほど最適な存在だ。


長友自身が世界で経験して得たものを還元し、人の生き方にも通じる大切な学びを子どもたちに授けるべく、指導の現場はいつも熱量の高いコミュニケーションが交わされているという。


「機会があったらうちの練習を見に来てください。結構コーチがはじけるようにテンション高くやっていて、『指導の中身がいいよね』と言われるだけでなく『指導者が熱くていいよね』とも言われるようになっています」


ただネガティブに叱ったり、恫喝するようなことはしない。あくまでポジティブに褒めながら、子どものモチベーションを引き出す。指導する側も一生懸命であることを示すことで、場の空気は自然と高まっていく。


アカデミーの練習風景


長友佑都の言葉がいつもシンプルであるように、伝えたいことは子どもたちにとって分かりやすく覚えやすい状態であることが望ましい。そのため、大事なメッセージはオリジナルの造語に集約しているという。


「アカデミーのロゴの色を今年に入り赤に変えたのですが、この赤に『パッショナブルレッド』という名前をつけているんです。佑都さんもかなり気に入ってくれているのですが、情熱を持ってやっていれば実現できるぞという意味が込められていて、自己実現とか情熱とかそういうことをこの言葉に集約しています。子どもたちだけじゃなく保護者さんにも『パッショナブルに見学してくださいね』とか、水を飲む時も『パッショナブルに飲んでくださいね』と話したりしています。最近は家でも使っていますと言ってくださるご家庭もあって、『パッショナブルに宿題やりなさい』と(笑)」


プレー以外で日々の過ごし方などを伝える際にも、その言葉があるだけで説明不要になる世界がある。7年半のアカデミー運営で行き着いた言葉だからこそ、平野自身込められた思いがあると語る。


「今って子どもたちが本当に元気がなくて大人しくて、発破をかけることも指導者の仕事の一部のようになっている。子どもが子どもらしくないんですよ。テレビがある、洗濯機や冷蔵庫がある、スマホがある、パソコンがある、YouTubeが見られて、ゲームがある。やっぱり満たされていて、たぶんお腹を空かせた状態がこれ以上ないのかもしれません」


子どもたちの心に火を灯すには、一人ひとりに深くかかわっていく必要がある。


今後NAGATOMO ACADEMYではスクールのみならず、チーム組成に向けた準備を進めているという。任意の生徒が集まるスクールの限界を取り払い、寄せ集めではない1つのチームとしての強さと一体感を備えたトレーニング環境を整えていくためだ。


「究極、自己実現の軸足はサッカーじゃなくてもいいと思うんですよ。その先目指すものがサッカー選手ではなかったとしても、YouTuberでもプロゲーマーでも建築家でも料理人でもいい。自己実現をしていくためにゴールをまず決めて、その道筋を1個1個正解にする努力を積み重ねていく。そのための心を育んでいきたいと思っています」


長友佑都のように世界を舞台に活躍しつづけてほしいという願いを込めて。NAGATOMO ACADEMYは自己実現に必要な心を、サッカーを通じて次世代へと渡していく。物質的に豊かな現代を生きる子どもにとって、それは何より不可欠な人生の道しるべとなるのかもしれない。


長友佑都と子どもたち



2章 生き方


2-1. サッカー愛


休みの日に時間ができたら何をすると問われれば、まずJリーグの日程表をチェックする。近場はもちろん、少しくらい遠くてもこの試合は観ておかなくてはという試合があれば新幹線のチケットを取って、旅行がてら観に行ってしまうこともあるという。年間50試合ほど観戦し、社会人チームでもプレーする。この夏には選手として全国大会出場にも挑戦した。


平野にとって、サッカーは仕事であり遊びでもある。人生そのものとも言える存在との出会いは、意外にも友だちの何気ない一言がきっかけだった。


「転校した初日に話しかけてくれた子が、サッカーをやっていたんですよ。『やるか?』って言われて、よく分からないけど1回行ってみて。サッカーが好きとかそういうことではなくて、こいつがいるならやろうかなという理由でサッカーを始めたのが小学3年生で、神奈川の藤沢にいた頃でした」


転勤族だった父の仕事の関係で、南は沖縄から北は関東あたりまでを転々としていた幼少期。新しい小学校に、新しい人間関係。進んで輪に溶け込んでいける方ではなく、苦労して馴染んだかと思えば、2年ほどでまた環境が変わる。めまぐるしい変化にさらされて、当時はよく吐いてしまっていたと母親に聞かされたことがあると平野は振り返る。


「1歳下に弟がいるんですよ。たぶん母親もそっちに手がかかるじゃないですか。当時は父親も仕事仕事だったので、ほったらかされ気味だったと思うんですよね。そういう寂しさとか環境変化もあった頃なので、(誘われたことは)嬉しかったです。それこそやっぱり緊張するし、自分から行くタイプじゃなかったので。クラスで割と活発な子が話しかけてくれたから、『あ、友だち1人できた』って少しほっとして」


どちらかと言えば、内気で真面目な性格だった。きっかけを作ってくれた友だちに連れられて、小学校の少年団に入ることにする。しかし、思わぬ挫折がすぐにやってきた。


「いわゆる昭和の監督だったので怖かったんですよ。なんで怒られているのか分からないし、怒鳴られるし理不尽で。やっぱりナイーブだったので、練習に行きたくない、試合に出たくないとなってしまったんですよね」


はじめは我慢して練習に参加していたが、そのうち平日5日のうち1日くらいしか行かなくなってしまう。それでも残る1日は憂鬱で、行けばやはり怒鳴られる。サッカーそのものというより、怒られることへの恐怖心が勝ってしまい、結局小学5年生への進級直前で辞めてしまうことになる。


小学校時代、少年団の試合にて


1993年5月15日。小学5年生になった平野は、テレビで歴史の幕開けを目撃した。Jリーグが開幕し、日本中が興奮で渦巻いていた。そのタイミングで、一度は離れたサッカーに再び惹きつけられたのだ。


「これはやばいと思いました。そしたら次の日に父親がチケットを取ってきてくれて、5月16日の横浜フリューゲルス対清水エスパルスの試合を横浜の三ツ沢に観に行ったんです」


当時まだサッカーはマイナースポーツだった。子どもの憧れとして不動の人気を誇っていたのはやはり野球であり、サッカーの試合がテレビで中継されるなんてありえなかった。選手はほぼ無名で、脚光を浴びる機会もない。


しかし、そんな状況は一変する。


超満員のスタジアムは、熱気に満ちていた。揃いのユニフォームをまとった選手たちは、遠目に見てもかっこいい。買ってもらったチアホーンを吹いてみる。その場の一体感を肌で感じながら応援し、気づけば試合終了の笛が鳴っていた。思えばその日から、Jリーグの舞台に魅せられてきた。


「言葉にできないですよね。サッカーの内容もそうですが、自分はあの場の画が好きなんです。緑の芝生で、ユニフォームも綺麗じゃないですか。お客さんの歓声があって、ナイトゲームだったら照明が光っていて」


両親と弟と自分。家族4人で並んで応援したことは、今でも忘れられない思い出となっている。


「三ッ沢のスタジアムは今でも結構行くんですが、たまに同じ席を選んで、同じアングルから試合を観たりしています。当然昔と見え方は違うんですが、このあたりの席でみんなで観たんだなぁと思い出したり。チケットもアルバムにちゃんと挟んでありますし、こうやって話していると、改めて父親に感謝しないといけないなと思いますね(笑)」


辞めてしまったとはいえ一時期でも練習に励もうとしていた子どもの姿を、父は見ていてくれたのかもしれない。思わぬ配慮のおかげで、家族総出のJリーグ観戦が実現し、それは平野にとって間違いなく転機となった。


スタジアムを駆ける選手たちのように、自分もプレーしてみたい。練習して上手くなり、チームの勝利に貢献してみたい。サッカーには、自分を高揚させてくれる何かがあった。


選手、観客、スタジアムを包む熱狂の渦。あの素晴らしい場を生み出すサッカーというスポーツに抱いた感動が、今でもおそらく途切れず続いている。


Jリーグが開幕した頃、国立競技場にて弟と



2-2. サッカーだけで生活が回る


もう一度サッカーをやりたくなったものの、元のチームに戻るかどうかは問題だった。また監督に怒鳴られたりする恐怖心は拭えない。練習前の時間に顔を出したりもしてみたものの、ついに言い出せないまま時間は過ぎてしまい、小学校ではそれっきりになってしまった。


「怒られたくなかったんですよね。いい子ちゃんだったから叱られるとか注意されるとか、そうならないようにうまくやっていた部分は根本にあるのかもしれないです。長男だし母親の手間を掛けないようにとか、先生に目をつけられないようにとか」


両親や先生に何か言われたくないという気持ちは常にある。宿題もテスト勉強も怒られないようにきちんとやる。漢字の小テストは毎週満点だった。おかげで何につけても自分からやる主体性が身についたと平野は語る。


「きちんとやっておけば満点取れるじゃんと思うようになって。やらなければできないけど、やればできる。ならできる方を選べばいいと。その方が自分のためになるから。よく学校のテスト前とかに、『やばい、何もやってない』みたいな会話が飛び交うじゃないですか。それが非常にかっこ悪く感じて。やらないことがかっこいいみたいな、なんかそこじゃないんだろうなと思いながら」


サッカーへの思いはひとまず置いておき、きちんと勉強をこなす日々。中学に上がってやっと、念願のサッカー部に入ることができた。


「小学校のチームのメンバーもいましたし、大きい中学校だったので新しい仲間も増えて面白かったです。やっぱりJリーグもあるし、自分もプレーしているし。同時進行だから、テレビで良いプレーを観たらやってみるとか、何かうまくいかないことがあってもJリーグの試合を観てストレス発散するとか、いいバランスで」


平日は日が暮れるまで練習で、土日も試合がある。あとの時間は勉強をしているうちに1週間が終わる。中高時代は友だちと私服で遊んだ記憶があまりないくらい、自らサッカーと勉強に没頭していたという。


「勉強ができてサッカーもやっていて。だから、高校の部活の仲がいい友だちとかも呼び方が『平野くん』なんですよ。あだ名がなくて。距離置かれちゃって(笑)。当時は考えが堅くて、真面目過ぎたんですよね」


高校時代


日がな一日サッカーについて考えているが、高校は県大会レベル。言うまでもなくプロへの憧れはあったが、選手を目指すには現実が見えてくる時期だった。


「選手としてはプロなんて夢のまた夢のまた夢ぐらいの立ち位置だったから、これは無理だなと思っていました。でも、高校くらいからだんだん観る方が好きだなと思いはじめたんですよ。たまに部活の練習試合を休んで、すっごく行きたい試合を観に行ったりとかしていたから」


特に好きだった浦和レッズの応援は圧巻で、その場にいられること自体が幸せだと感じられるほどだった。選手にはなれなくても、試合はいつまでも観に行きたい。そのためにはチケット代や交通費を稼ぐ必要がある。大学受験が終わった高校3年の終わりから、引越し業者やコンビニなどでアルバイトを始めた。


「大学では友だちの紹介でフットサル場でバイトするようになって。たまたま友だちが『お前サッカーやってたし真面目だからやらない?』と。『横浜ドリームランド』ってご存じですかね。横浜の戸塚にあった遊園地で、もう潰れて20年ぐらいになるんですが、その中にフットサル場があったんですよ」


フットサル場といってもテニスコートにゴールを置いて、無理やりフットサル用にした簡易的ものだ。当時フットサル場はまだ数えるほどしかなく、ちょうど人気が出はじめた頃だった。


とにかくそこで働けることになったことには大きな意味がある。大好きなサッカーにかかわる仕事で稼いで、試合を観に行ける。まさに願ったり叶ったりな環境だったからだ。


さらに、そこでは子ども向けのサッカースクールとして全国に展開する「クーバー・コーチング・サッカースクール」が入っており、熱心に働き社員と仲良くなるうちにコーチの仕事もやらせてもらえることになった。


「子どもたちに教えながらサッカーの試合を観て、指導者とサッカーを観ることの両立が始まって。今もそのパイが大きくなっただけで、やっていることは変わらないですよね。観る・教えるというサイクルになって、そこからもう完璧にサッカーを仕事にしていきたいなと思うようになりましたね」


Jリーグ開幕当時、あの舞台に憧れた同世代の子どもは多かったが、成長するにつれ少しずつほかへと興味が移っていく人は多かった。しかし、自分だけはなぜか情熱が衰えず、むしろ年々増していくようでもある。それもプレーする側から、観る側として燃えている。


仕事はサッカーにかかわることをしていきたい。プロは目指せなくても、当時自分に合った道がそこにあるのではないかと思えていた。


大学時代、サッカー好きな仲間たちと



2-3. 憧れ


サッカーを仕事にしたいと言っても、なんとなくコーチで終わりたくはなかった。とはいえ、いざ就職活動となるとそれが何かは分からない。仕方なく新卒の選択は、当時熱狂していた浦和レッズを応援することを第一に考えた。


「レッズが好きだから浦和で働きたかったんです。浦和にある会社だけ受けて、受かっちゃったんですよね、システムエンジニアの仕事。西浦和に家を借りて、住所に『浦和』って入ってるぞと。それだけで嬉しくて」


そこまで一途になれたのは、ひとえに元日本代表である福田正博の存在が大きいと平野は語る。Jリーグ開幕当初から浦和レッズの象徴的存在であり、チームで唯一日本代表に選ばれた選手でもある。


「当時レッズは弱かったから、『またレッズ負けてるじゃん』とか『福田また怪我したでしょ?』みたいに、結構子どもたちからも馬鹿にされていて。そのなかでも福田さんは孤軍奮闘していたんですよね。チームは勝てないし、日本代表も『ドーハの悲劇*』でワールドカップは行けなかったしでボロボロになっていたんですが、そこから2年経って、僕が中学1年だった1995年にJリーグで日本人初の得点王になったんですよ(*1993年、アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節にて、初の本戦出場に王手をかけていた日本代表が、終了間際イラクに同点ゴールを許し、ワールドカップ出場を逃した。試合会場がカタールの首都・ドーハだったため、その名で日本サッカー史に語り継がれている)


日本中のサッカー関係者、そしてファンが失意の底に落とされた「ドーハの悲劇」から約2年。積もりに積もったであろう雪辱を自ら晴らすかのように、福田は得点を取りつづけた。どんなに苦しくても踏ん張り、再び跳ね上がり栄光をつかみ取る。その姿に何より憧れていた。


数年間欠かさず試合をチェックして、できる限りスタジアムに足を運びつづけてきた。福田をはじめとするチームの活躍を、余すところなく目に収めておきたかった。だからこそ、浦和で就職した。しかし、言うまでもなく仕事との適性は、また別の話だった。


「システムエンジニアとして就職したものの、入って初日で『あ、これだめだ』と思いました。もう2日目くらいにすぐ上司に『辞めたいです』と言いに行って。『まだお前、新入社員研修も終わってないんだから、もうちょっとやってみなよ』と言われて」


上司の言い分にも一理あると思えたので、しぶしぶそのまま働きつづけることにする。1週間ほどで社会人としての基礎的な研修が終わり、より専門的な研修が始まった。テキストが配られ、目指すべき資格について説明される。けれど、1ページ開いただけでテキストの内容が全く頭に入ってこないと分かった。


「ゴールデンウィーク前には辞めていましたね。初任給も4月の1回だけで。もう少し分かるなと思える仕事だったらそのまま働いてしまっていたと思います。でも、そこで辞めることにしたので。本当に多くの方に迷惑をかけてしまいました。そこでもう、こうなったらやっぱりサッカーで生活回すしかないなと思って」


浦和にあるフットサル場のアルバイトに応募し、時給1,000円ほどで働きはじめる。月の手取りは10万円ほどで、そのうち6、7万が家賃で消える。親にも頭を下げて100円のレトルト食品を送ってもらったりとなんとか食いつなぐ生活を送った。


それでも自分なりのリスタートを切ったつもりで、真面目にこつこつ積み上げた。1年ほどで契約社員、1年半経つと正社員へと登用してもらうことができた。


「少しずつ3万、5万と給料も上がってきて。生活できるようになったな、これでスタートラインを立て直したなというところまで行きながら、『もっと先の世界を見てみたい』と思って。今思えば気が急いていましたね。もう少しサッカーのコアなところにいたかったんですよ。選手と直接話ができる、一般に出回る前の情報を知ることができたり動かしているみたいな。当時は選手のエージェントをやりたいと思って、いくつかマネジメント会社に応募したら1社採用してもらえたんです」



任された仕事は選手のマネージャーで、サッカーだけでなく他競技の選手を含めさまざまな調整やカバン持ちのような役割もあった。まさに選手の活躍を間近で支える存在だ。キャリアとして1つステップアップできたように思えたが、働きはじめるとまたもすぐに壁に直面する。


「ちょっとサッカーが好きな兄ちゃんレベルだから、知識はあるけど人脈がなくて。即戦力のような採用をされたので、何もできなかったんですよ。外国人から電話がかかってきても応えられないし。そこからコツコツ下積みに耐えられたらよかったんですが、結局1年くらいで辞めてしまって。俺、何やってんだろうと、25歳になって入って辞めてを繰り返して。サッカーの仕事をやると決めたのに、これかよと思って。また多くの人に迷惑をかけてしまったことに加え、自分自身の不甲斐なさや情けなさに押しつぶされそうでした」


再び転職活動を始めるも、経歴上で厳しいと判断されてしまう。ほかに道もなくなり、元いたフットサル場に頭を下げて、契約社員でもアルバイトでもいいからとなんとか再雇用してもらった。


「その会社が横浜のそごうに『ShunsukePark』という中村俊輔さんがプロデュースするフットサルコートを持っていたんですが、店長が体調が悪くなって抜けるから、お前はそこに行けという話になって。一回り上の人も多い店舗だったので心の中では『無理ですよ』と思ったんだけど、頭下げて入れてもらっているし、会社としても力を入れている店舗だったので困っていると。これで行かなかったら自分はまた同じことの繰り返しだと思って、引き受けることにしたんです。これは本当にサッカー業界でやっていくラストチャンス。もう3度目はないぞと」


フットサルコートとして大会を主催したり、集客に取り組んだ。25歳の若僧なりに店長として懸命に働いた。よくしてくれた人も多かったが、細かな部分で軋轢も生まれてくる。なかには反発する人もいて、職場を去っていく人もいた。


しかし、ここで踏ん張らなければもうあとがない。辞めた人の分まで不眠不休で働いていると、少しずつ周囲の見る目が変わってきた。


「こいつ真面目にやるし、若いけど一生懸命やってるなと。2年3年経つときちんと認めてもらえるようになったんです。少しずつ地位が確立されて気持ちよく自分の力を発揮できるようになってきて、フットサル場のコーチだけじゃなく中村俊輔さん本人ともそのエージェントやマネジメントの方ともたまにですけど会えるし話もできるから、少し選手にも近くて面白い。なんかやっと社会人になれたなと、ようやく27歳くらいの頃に思いはじめました」


フットサルコートでは子どもだけでなく、大人向けのスクールも開催していた。きちんと練習できる環境を整えていくと、次第に「平野さんのスクールは面白いから」と人が集まるようになる。ついにはその場がきっかけで結婚するカップルが3組も生まれるなど、コミュニティとして育っていく手応えがあった。


「仕事選びって、やりたいこととやれることとあって、そのバランスがもちろんありますけど、僕にとってはコーチがやれることだったんですよ。やりたいことは、より選手の近いところにいる、直に話ができるとかそういうことで。やっぱりやれることを積み重ねていかないといけないし、かといって最終目標がなかったら頑張れないしというところで、目標を持ちつづけながらまず自分のやることをやる。たぶんその積み重ねですよね」


憧れを追いつづけた先に何があるかは分からなかった。できることは少なく、経験も伴っていなかった。けれど、大好きな福田選手のようにあきらめず自ら動きつづけた結果、指導者であり選手にも近い、そんな自分なりの仕事を見つけることができたようだった。


憧れは形を変えても生きつづける。ようやく自分に誇れる仕事ができるようになってきたような気がしていた。




2-4. 自己実現の象徴・長友佑都


中村俊輔の「ShunsukePark」と同様に、長友佑都がフットサル場を経営することになったのは、2人が同じ事務所に所属していたことがきっかけだったという。


「横浜市の中山にフットサル場があったんですが、そこの運営主を探しているという話があって。ビジネスモデルもきちんと立てられるしいいんじゃないかということで、佑都さんも始めることになったんですが、店長としてその店を任せられる人がいないと。当時僕はその話を聞いていたので、同じくサッカー業界で働いていたうちの弟を佑都さんに紹介したんですよ」


コーチとして5、6年働いていた弟がフットサル場の店長に、そこから2年後には本格的にスクールの経営を始めることが決まり、平野自身が参画することになった。


「一緒に家族でご飯を食べながら話をして、一発採用でした。佑都さんはポジティブだから、そんなに違和感がなければ結構早くにいいね!いいね!となるんですよ。ただ、その『いいね』を自分の力で本当の『いいね』に持っていくんですよね。自分が選んだ道を正解にするために、パッと決めてあとづけで行動していく。巡り合わせでした」


意思決定は早く、ただしあとづけながらやるべきことにはコツコツ取り組む。明確な目標を立てることで努力を継続し、きちんと結果を残していく。選んだ道を自ら正解にしていく長友佑都の生き方や言動は、至ってシンプルであり共感できるものだった。


間近で働くうちに感化され、せっかく選んでもらったからには「選んでよかった」と思われる存在になろうと努力を続けてきた。


「これだけの人とこれだけ近くにいられるんだったら全部盗もうと思って、全部佑都さんのポジティブなマインドとか言動から学んでやるようにしています。あの人は表も裏もなく、皆さんのイメージのままなので。ここ数年周りの方や古くの友人から考え方が『長友さんっぽいよね』と言われることも増えてきましたね。大人って仕事しながらいろいろ限界が見えてくるもので、『言っても、あの人だからできるんでしょう?』みたいな話もありますが、僕はもう自分が一般人だからできませんとは思わないようにしているんです。サッカーの世界で言うとプロ選手のキャリアもない一般人だけどここまでできるんだという風にしたいと思っています」


選手としてのキャリアがなくても、サッカー業界で活躍し、業界の未来に貢献している。そんな存在になれるようにと行動してきた。明確な憧れを持ちつづけ、選手のそばで学ぶ。夢をあきらめたコンプレックスはいつしか原動力に変わっていた。


より多くの子どもたちが、道を見つけ輝いていってほしい。そんな2人の情熱が形となって、YUTO NAGATOMO Football Academyは2015年に設立された。


アカデミーの練習にて、長友佑都と平野



3章 スポーツする子を持つ人へ


3-1. 子どもが生き生きと楽しめるように応援を


サッカーが好きでも、指導や練習環境が合わずにせっかくの夢をあきらめてしまう子どもがいる。自身も少年時代に一度挫折を体験しているからこそ、スポーツに励もうとする子どもを取り巻く環境について平野は特別思いを持っている。


「子どもはサッカースクールをスマホで検索したりしないので、保護者さんが主導権を持って決められる場合が多いんですよね。スクールを見学していただくと、まず指導者の力量を測られているように感じることもあって。たしかにそれも大切なのですが、あくまで主役は子どもなので、お子さんがどう躍動しているか、生き生きと楽しんでいるかを大切にしていただけたらと思っています。また、スクール形態なので簡単に辞めることができてしまうことについて、もちろん僕らも長く続けていただく努力は怠らない。でもやっぱりその場に長くいることで得ることは、ポンポンとスクールを変えていくよりもあると思っています。最終的には選ぶ側ではなくて選ばれる側になる、そこは若い選手も分かっていないといけない」


せっかくならサッカーに真剣に取り組み、活躍できるようになってほしいという思いからか、大人の目線は各スクールの良い面悪い面を判断することに重きを置きがちになる。


同じ練習環境でも感じ方は人それぞれだ。今一度子どもが楽しんでいるか、充実感を持っているかに立ち返ることの重要性について平野は語る。


「結局スポーツなので、楽しむ気持ちや子どもが輝く姿を大切にして。ゆとりをもってサッカー少年少女を育んでいくことが1番ではないかなと思います。保護者の方も肩ひじ張らず一緒に楽しんでいる、そういうサッカースクール界をつくっていけたらと思っているんです」


U-12年代にこそ得られる経験を重視するNAGATOMO ACADEMYでは、毎年春か夏にヨーロッパ遠征を行っている。


2022年の渡航先はイングランド・ロンドンだ*。世界最高レベルのサッカーを肌で感じてもらうべく、期間中はUEFA公認コーチによる現地トレーニングや、現地クラブ下部組織との強化試合、プレミアリーグ観戦にスタジアムツアーなどが予定されている。(*新型コロナウイルス流行の情勢下では延期し、2023年春に再び催行予定。対象はセレクション合格者のみ)


そこでは現地ならではの光景が見られるという。


「毎回ヨーロッパに行っていいなと思うことが、現地の保護者さんが純粋に自分の子どもを応援しに来ているんですよね。ほかの子がミスしようが、監督がどうあろうが全然眼中になくて。とにかくポジティブだから、シュートを外しても『わー惜しい、ナイスナイス!』だし。パスをミスしたってドリブルを取られたってシュートを空振りしたって応援するんですよ。本来スポーツにおいて大事なことって、そこだと思うんですよね」


子どもたちの最大のサポーターとして、両親や兄弟、祖父母などが一丸となり応援する。それがチーム全員分集まれば、まるでプチワールドカップが行われているかのような熱い空気感が生まれてくる。


「いいね!いいね!という雰囲気になると、子どもたちもやっぱり楽しそうで。空振りしようが、オウンゴールしようが、その場にいること自体が楽しいと思うんですよ。そういう場を日本にももっともっと増やしていきたいんです」


勝っても負けても親はポジティブに応援し、子どもと一緒にチームで楽しむ。家に帰れば良かったプレーを褒めてあげ、美味しいごはんを食べたりしながらサッカーの話もそれ以外の話もする。


保護者の気の持ちようが変わることで、スポーツがよりポジティブな存在として日常に溶け込み、日本のスポーツ界全体の経済的循環にも良い影響がもたらされてくるのではないかと平野は考える。


「NAGATOMO ACADEMYでも自己実現のために頑張りましょうというコンセプトを掲げていますが、保護者さんまで一生懸命になりすぎると義務感になってしまうので。そこは相反するようですが分離して考えていて。お子さんから一歩引いたところで『頑張ってるな』『こういうことができるようになったな』、そして何より『生き生きと躍動しているな』と微笑みながら見ているぐらいがいいと思うんです。一生懸命向き合い、たくさん失敗して少しだけ成功する。それを1番に楽しむのはまず子どもでいいんですよ」


お金を払ってでも体験したいと思える感動。生涯記憶に残りつづける思いや自信。自分自身と向き合い、努力して成長を遂げる機会。どれもスポーツから得られる素晴らしい価値だ。


小さな選手たちがそこに楽しさを見出し、自ら主体的に動いていけること。家族のあたたかいサポートを受けながら自己実現の心を身につけ、可能性に満ちた未来へと巣立って行く姿をNAGATOMO ACADEMYは応援している。10年経っても100年経ってもその思いは変わらないだろう。



2022.8.18

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


憧れの人を「知る」ことはあっても、憧れの人に「知ってもらう」ことはなかなかない。サッカーを愛し、サッカーに人生を捧げるかのようにもがき続けたその先で、少年時代から 心酔してきた福田選手から結婚式のビデオレターを送ってもらえるほど、近しい距離感でいられる自分になれたと語る平野氏。


現状が理想とはほど遠くても目の前のできることを積み重ね、憧れを捨てずにいたからこそ、ほかにない道を切り拓くことができた。


こんなはずじゃなかった、思い通りにならなかったからと、そこで歩みを止めてしまうことは簡単だ。しかし、平野氏の人生が証明しているように、憧れは形を変えても生きつづける。そこに向かうためもがいた時間は無駄にはならず、自分の中にありつづけ、そしていつか何らかの形で花開く。


YUTO NAGATOMO Football Academyから巣立つ子どもたちも、きっとそんな風に憧れを現実に変える力を武器に、これからの社会を強く生き抜いていくのだろう。


文・Focus On編集部





YUTO NAGATOMO Football Academy 平野智史

株式会社INSIEME 代表取締役

1982年生まれ。神奈川県出身。大学卒業後、スポーツマネジメントやサッカースクール関連企業などに勤務。2008年より中村俊輔のサッカースクール「ShunsukePark SOCCER SCHOOL」にて指導したのち、2015年長友佑都と共に同アカデミーを設立した。オランダ・スペイン・日本と各国のライセンスを所持し、育成年代の指導歴は20年、指導選手数は計1万人を超える。国内でも関東・東海・九州の各地でサッカークリニックを開催。また世界各国にも独自のネットワークを持ちスペイン・イタリア・イングランド・アルゼンチン・ブラジルの指導者を招聘し、サッカークリニックの主催や遠征を催行。「NA U-12 PLAY MODEL」独自のメソッドとし育成年代の底上げに尽力。

https://nagatomo-football-academy.com/index.html

  

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