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ウェアラブル心電計が突然死を未然に防ぐ ― すべては身近な人の笑顔のために

命あるからこそ、大切にできる「今」がある。


「病気で後悔しない社会」をつくるため、体とココロの状態を可視化する心電図解析サービスを展開する株式会社ココロミル。同社が提供する「ホーム心臓ドック®」は、国内23の大学病院で活用される高精度ウェアラブル心電計を用いて、不整脈や睡眠時無呼吸症候群 (SAS)、睡眠の質、ストレスの兆候を可視化する。心臓病による突然死など、病気に無自覚な人の潜在的健康リスクに対して早期に対処することを可能にし、大切な人と幸せに過ごせる時間を増やせるようにする。


代表取締役の林大貴は、大学在学中に起業。個人事業主を含め代表取締役3社、取締役4社、顧問として3社の事業に携わる。家業を経て、2019年11月に実母がストレスに起因する病気で亡くなったことから、2021年11月株式会社ココロミルを設立した。同氏が語る「身近な人の幸せを願う心」とは。





1章 ココロミル


1-1. 病気で後悔しない社会へ


医療にまつわるドラマや映画では、しばしば患者の心拍数を伝える心電図の描写が登場する。心電図は多くの人に知られているが、通常は大きな病気や手術で入院したときくらいしか間近で触れる機会はないものだ。


ココロミルはそんな「近くて遠い」心電図を、手軽に扱えるウェアラブルデバイスとして身近なものにする。それにより、人間の命にとって最もクリティカルな臓器である心臓にフォーカスしていくことが可能になると林は語る。


「基本的には僕たちが命を救うことを想定しているのは患者さんではなく、今こうやって普通に働いていて自分が病気だと思っていない方々で、サービスを使っていただいたことで未然に病気に気づくことができて、命を救われるという世界を目指しています」


いわゆる健康診断や人間ドッグでは、約10%の人に心臓の異常が見つかる。対して、ココロミルの心電図解析サービス「ホーム心臓ドック®」では約36%の発見率となり、そのうち18%ほどの人には今すぐ病院を受診することが勧められ、1%が手術に至るという。


数値に差が開く要因は、健康診断という限られた環境下で短い秒数しか検査できないことにある。


「心臓の変な動きって、1日の中でいつ出るか分からないと言われていることと、リラックスしている時の方が素の自分になるので出やすいんですよ。健康診断は採血があったりして、少し緊張したり身構えるじゃないですか。だから、異常が出づらいという風に言われていますね」


もともと現在使用されているウェアラブル心電計という機器が生まれた背景には、東日本大震災があった。津波などで病院にいられなくなり、自宅や避難所での生活を強いられた患者のモニタリングをするために作られたものである。そのため、誰でも扱いやすく長時間装着できるという点が強みになっている。


「心電計自体はありふれたものです。心電図を測ることは誰もが健康診断でやったことがあると思うので。ただ、これに関しては強みがあって、つけた瞬間からリアルタイムで心電図・心拍数が分かるんです。使い捨てシールで胸元に貼り、寝ているだけでiPhoneにリアルタイムで心電図や心拍数が表示される。きちんと測れていることが医療従事者ではなくても簡単に分かるので、より多くの人に自分自身を知っていただきたいと思っています」



病気の自覚がない人に検査の機会を持ってもらえるよう、同社ではさまざまなアプローチを行っている。たとえば、睡眠時無呼吸症候群 (SAS)により事故率が4倍に跳ね上がると言われている運送業従事者や、心身のコンディションが選手生命に直結するアスリート、あるいは健康経営に取り組む企業に向けた新たな施策として導入が進んでいる。


ユニークなところでは、スポーツの推し活とからめた企画もある。どの選手が観客を一番盛り上げたのか、心拍数・心電図を計測することで可視化して、最も観客を沸かせた選手に賞金が贈られるシステムだ。同時に、観客は楽しみながら健康リスクを検査できる。


「今後は心臓病だけでなくほかの病気も発見できるよう、大学病院など専門機関と共同で研究開発を進めています。端的に言うと、鬱病・認知症・パーキンソン病・糖尿病というこの4つの病気の兆候を、心電図や心拍数から割り出せるようにしたいと思い、動いています」


より多くの病気の兆候との相関性が証明されるようになれば、それだけ多くの命が守られることになる。さらに2023年4月には、人だけでなく動物への利用の道も切り拓くべく、麻布大学、東洋紡株式会社、東洋紡STC株式会社との共同研究が開始された。


「犬や猫の心電図・心拍数をきれいに読み取るためには従来だと毛刈りが必要だったのですが、これは毛刈りをせず専用ウエアを装着することで計測できるものになっています。昨年学会発表が終わった段階で、現在は営業もしていませんが、それでも月に7~8件は獣医さんから問合せが来ている状況です」


人にも動物にも、ストレスのない在宅環境での心電図検査が一般化する未来、そこでは健康との向き合い方が変わっているのかもしれない。目に見える兆候を自覚してから対処するのではなく、もっと早い段階の予兆を見逃さず適切な医療を受けられる。


ココロミルは、手のひらサイズの小さなデバイスから無限大に広がる可能性で、健康寿命の延伸に寄与していく。


動物にも負担の少ない専用ウエアで、心電図や呼吸数を測定されている様子



2章 生き方


2-1. 身近な人に笑っていてほしい


若くして上京し27歳で起業した父は、野心に燃える若者だった。最初の起業である喫茶店はうまくいかず、再起をかけて医療機器販売に乗り出すも失敗。一時は借金まみれになり、手狭な2LDKに夫婦と3人の子どもの家族5人で暮らしていた時代もあるらしい。


3兄弟の末っ子として生まれた林がちょうど物心つく頃は、三度目の挑戦である建設・不動産業が軌道に乗り、ようやくお金には困らない生活ができるようになっていたという。


幼少期は年の離れた兄2人にからかわれて泣かされたりもしたものの、自然とその姿や人の顔を見て学んでいたと林は語る。


「世渡り上手だったと思います。兄が10個上と8個上なので、こうやったら人に怒られるんだとか、こうやったら誰かに嫌な思いさせるんだとか、逆にこうやったらお菓子を買ってもらえるんだとかそういうことも含めて、本当に小さい頃から見ていたので」


落ち着いた性格だった兄たちと比べて、明るく活動的な性格だったことも影響したのか、3歳になった時には父が会社で「跡取りが生まれた」と宣言したらしい。それ以来、毎週のように家に社員の誰かがやって来て、不動産に関する知識を教えられたりもした。


空手の段位も持っていた父は、子どもに厳しくスパルタな面があった。


「4~5歳の時の家族旅行で、初めてスキーに行ったのですが、30分くらい滑ったら頂上まで連れて行かれて『一人で降りてこい』と言われるんです(笑)。父親はなんでも全部難しいところからやらせるので。きついと思いながらも挑戦して、きちんと降りきったら家族みんなが喜んでくれて、その日はもう宴会ですよね。それがすごく嬉しかったんです」


特別記憶に残る出来事だったのは、おそらく単純な達成感からだけではなかった。もともと家族に不自由させまいと仕事に邁進していた父は、どうしても家を空けがちだった。物心がついて以来、家族全員で笑ったり団らんするような光景とは馴染みが薄かった。だからこそ、みんなが思いっきり笑っていたその日の光景が、幼いながらに印象的なものとして目に映ったのかもしれない。


「当時は家族仲もあまり良くなくて、家族全員で笑っているシーンをそんなに見たことがなかったのかもしれないですね。でも、その時は家族全員が笑っていて、そのシーンが目に焼きついて、やっぱり笑っている時の方が楽しいよなと思って。じゃあ僕の周りだけでも笑わせたいみたいな思いが昔からありました」


幼少期


幼稚園では昼休みに友だち6人を誘って抜け出して、近くのスーパーで数時間鬼ごっこをして遊んでいたこともある。当然その日のうちに先生や警察に見つかって、親が幼稚園に呼び出されるほど怒られた。今思えばやんちゃすぎたが、当時はただみんなに楽しい時間を過ごしてもらって笑っていたいという一心だった。


いわゆるムードメーカー的な存在として輪の中にいたが、小学2年生で転校することが決まり、誰も知らない環境に放り込まれてからは、突然のことにしばらく人見知りしてしまっていた。


「実は僕ものすごく人見知りをする方で、かつ当時は本当に泣き虫だったので、転校してから1か月間は母親についてきてもらって登校していたんです。毎日校門の前で『行きたくない』と泣いていて。おそらく知っている人が誰もいなかったことが怖くて、母親と離れたくないという思いが強かったのかなと思います」


毎日同じ場所で泣いていると、心配したクラスメイトが話しかけてくれることがある。「一緒に行こうよ」と優しく言ってくれる子もいた。けれど、なかなか動けない。そんな様子を見たクラスメイトはみな少し困ったような表情だった。


「朝のホームルームが終わったぐらいになって、ようやく教室に入れたりとかするわけですよね。そしたらもうみんな暗い感じになっているんですよ。『また泣いてるあの子来た』という雰囲気になっているので、これは僕の周りを誰も幸せにしていないなと思って。どこかで変わらなきゃなと決心したことは覚えています」


勇気を出して、泣かずに教室に入ってみる。すると、みんなの顔は驚きつつも、次第に明るくなっていくのが分かった。周りの優しさを無下にしていた罪悪感もなくなり、元いた環境と同じように自然に輪の中で笑えるようになっていく。1か月ほど経つ頃には、嘘のように学校生活を楽しめていた。


やはり自分の周りにいる人には暗い顔をしていてほしくない。もし暗い顔をしている人がいれば、自分が笑顔にしたいと思ってきた。


転校先の小学校の運動会にて



2-2. 人と違うことを、率先して


気づけば、人を笑わせること自体が好きになっていた。毎晩家に帰ると、テレビのバラエティ番組を噛り付くように見て、どうすれば人は笑うのかと勉強したりする。しかし、いつもムードメーカーであろうと明るく振る舞ううちに、行き過ぎて軋轢が生じてしまうこともあった。


「親族がみんな経営者だったので、当時の僕はサラリーマンがドラマの世界だと思っていたんです。ちょうど『サラリーマン金太郎』のドラマが放映されていて、有名人か何かだと思って。ある日、『僕のお父さんがサラリーマンでさ』と話している友だちがいたので、思わず『え、ちょっと会わせてくれない?』みたいなことを言ったら、おそらく嫌味を言ったと思われたんでしょうね。次の日から無視されて」


翌日学校へ行くと、みんなから無視されるようになっている。これがいじめなのかと実感しつつ、このままでいてもつまらないと思い、帰りのホームルームで手を挙げて先生に自主申告をした。結局いじめと言っても軽いものだったので、その日のうちに解決したのだが、改めて振り返ると自分にも非があると思えた。


「単純に当時は僕もすごくわがままだったと思うんです。自分の言ったことで笑ってもらえるから、小学生なりに調子に乗るんですよね。俺について来いよみたいな感覚になってしまって、煙たがられることがあったりして」


盛り上げ役になったり、いじめられっ子になったり、周囲との関係性は中学高校になっても概ね変わらなかった。できれば好かれる自分でありたいが、一方で周囲に埋没するような自分ではいたくないという思いもあった。


「父親から、よく『人と違うことをやれ』と言われていたんです。人と同じことをやっても人と同じにしかなれないから、違うことを率先してやりなさいと。その中ではおそらくいじめられることもあるだろうけど、社会人になった時にその経験は必ず返ってくるということはすごく言われていました」



部活は幼少期から続けていたサッカーに打ち込んでいたが、中学時代はほかにもユニークなスポーツとの出会いがあった。フライングディスク(いわゆる「フリスビー」として知られる)を使って7対7のチームで試合をする「アルティメット」という競技だ。


「フライングディスクって比較的マイナーなスポーツなので、有名な選手でも食べていけないそうで、偶然僕の担任が30歳以上の『マスターズ』という部門の日本代表だったんですよ。選択体育の授業で体験して以来、ハマってしまって。日本代表に教わるので、その辺の人たちよりは上手くなったんです」


授業だけでは満足できず、もっとこのスポーツを究めてみたいと思った。先生に相談すると、社会人チームの存在を教えてもらい、学生ながら混ぜてもらえることになる。高校に進学し環境が変わっても、変わらず学外でのフライングディスクは続けるほど楽しかった。


そんなある日、かつての担任から「アンダー19のセレクションがあるから受けてみないか」と連絡があった。迷わず参加してみると、結果は合格。カナダで開催される世界大会へ出場する切符を手にした。


出場するには数日間高校を休む必要がある。しかし、そんな競技は聞いたこともないという理由で先生に認めてもらえず、それをきっかけに周囲からまたもいじめられるという経験があった。


「その頃になると、もういじめを科学的に見るようになったんですよね。もちろん僕にも悪い部分があったのですが、一方でこの人たちって家庭環境が悪いのかなと思ったりするようになってきて、実際にいろいろ本で調べたりもして。もしいじめている人が社会人になった時に困ったことがあって、助けを求めてきたら助けられる大人になったら勝ちだなと思っていました」


もし自分が卑屈になったとしても、誰も笑ってはくれないだろう。それならいっそ利他的でいる方がいい。長期的な視点に立つとそう思えたし、何より身近な人の幸せを願う心に従おうと決めていた。


アルティメットのチームメイトと



2-3. 父に対する疑問の答え


小さい頃から「跡継ぎになれ」とは言われていたものの、自分で決めた道を歩みたいという思いがあった。17歳の時、父と衝突したことがある。


「ある時、父親とものすごく喧嘩して。それまで僕は父親からお年玉やお小遣いをもらったことがなかったので、貧乏なんだと思っていたんですよ。それで『お金も持っていないくせに』とか言って強く反発したら、あとで母親に呼ばれて確定申告を見せられて、ものすごく稼いでいると知って。父親に対する見方が変わったのはそこからですね」


経営者とは名ばかりなのではないかとも思ってきたが、大きな誤解をしていたと知った。それならなぜ、父はあんなにも厳しかったのか。すぐに疑問が湧いて、考えるようになっていた。


父の会社を継がないことは自分の自由だが、その先に何も志がないのなら、ただのわがままになってしまうようにも思える。なぜそこまで自分は会社を継ぐ未来を拒否したいのか、そしてそもそも経営をするとはどういうことなのか。大学生になると、自分を見つめ直すために時間を使うようになった。


「大学に入ってから、3か月で経営者100人に会いに行くということをしていました。経営をするって本当に難しいのかとか、サラリーマンの人はなぜサラリーマンを選択しているんだろうとか、もしかしたら経営者にもレベルがあるんじゃないかとか疑問を持って。どうせなら自分で会社を作りたいという思いもあったので、どうやったのか話を聞きたいとも思ったんです」


ベンチャー企業の社長たちが紹介されている本から調べたり、mixiを駆使したり、何も繋がりはなかったが、探せば意外と連絡の当ては見つかるものだった。



実際に会ってくれた100人の中には怪しい人もいれば、今となっては有名になっている人もいる。いずれにせよ、自分にも何かできそうだという手応えは得ることができたので、経験を積むために完全成功報酬の営業代行から始めてみることにした。


「いわゆる当たり前の概念も人によって違いますが、自分が当たり前だと思っていることを当たり前にできれば結果はついてくるんだなとその時思いました。連絡を密にするとか、人として間違ったことをしないとか、それから自分の当たり前のレベルを少しずつ上げていくと売り上げも上がっていって」


個人事業主の登録をして、実業を学んでいく。夢中になって、大学にはほとんど行かなかった。唯一勉強したいと思った英語に関しては、思い切って留学に行ってみたいと思い、休学して半年間米国へと渡ることにする。


ロサンゼルスに2か月とサンフランシスコに4か月滞在し、現地でホームステイをしながら語学学校へと通った。


「留学先では常識のレベル感って人によって違うんだなと、改めて感じる出来事があって。現地に到着すると僕より先に来ていた日本人が2人いて、仲良くなって一緒に飲んでいたんです。そしたら、そのうちの1人がやっぱり車がないと米国じゃ生活できないわとか言って、その場でお父さんに電話して『お金くれよ』みたいなことを言っていたんです」


実際に彼はお金をもらい、翌々月には新車を買っていた。しかし、話を聞くと、どうやら家が大金持ちだったりするわけではないようだった。


「そんな大金を息子にポンと渡すって、甘やかしているか見栄っ張りかのどっちかなんじゃないかとか、教育上いいのかなと思っていたら、案の定その人は常識がずれていると周りからは見られていて。これって自分が苦労していないのに使えるお金があると思っているから、やっぱり発言とかも高飛車になっていく。それを見た時に、父親の育て方って正しかったんだと僕は腑に落ちたんですね。そこで父親への感謝の気持ちがすごく芽生えてきたんです」


地元熊本を出て、一念発起して身を立てた父のことを思う。二度の事業失敗にもめげず、三度目の正直で成功を掴んだ。そうして家族や多くの従業員を養っている。そんな父に対する感謝と尊敬の念が、今までになく湧き上がってきた。


「うちは男3兄弟なので、3人のうち誰も父親の会社を継がないのはちょっと親不孝すぎるなと思って。今までちょっと突っ張ってきましたけど、ここは突っ張るべきじゃないなと思い、半年ぶりに米国から帰国した成田空港で、父親に『会社を継がせてください』と泣きながら話をしたんです。そしたら父親もすごく嬉しそうにしていました」


それまで将来のことはあまり明確に考えていなかったが、父の会社だけは潰したくないと思った。個人事業主としての仕事も一部は残しつつ、父の力になるべく大学を卒業した春から入社することにした。




2-4. 起業


当時は留学を経たことで、「世界から見た日本」というものについても考えさせられた。


語学学校などでの様子を見ている限り、多くの日本人は主張が弱いばかりか、積極性がなく自分から異文化の輪に入っていこうとする人が少ない。授業前後は話しかけられるが、放課後は日本人だけが誘われず取り残されていたりした。どうやら海外では、日本人はシャイで喋らないというイメージがついているようだということも知る。日本人の世界での地位を上げたいという思いは、そこから芽生えたものだった。


「帰国してからは、それまで以上に自分の意見を言うようになりましたね。今の会社もそうですが、自分のやりたいことをずっと一貫して言いつづけるということを意識しています。言わなければ伝わらないですし、分かってもらえない。日本人独特の言わなくても察する文化みたいなものは通用しないなと思ったので」


父の会社に入ってからも、会社をより良くするために気づいたことがあれば、積極的に発信していこうと決めていた。


「たとえば、営業4人に対してパソコンが1台しかないとか、そういう状況だったんですよ。これがいわゆるレガシー産業かと思いつつ、パソコンが1人1台なんて当たり前の時代でもあったので、導入すれば仕事効率が上がるし、それだけで売上が上がるなと思えて」


しかし、変化はそう簡単に受け入れられるものじゃない。長く慣れ親しまれたルールや文化を変えていくことに対しては、強い抵抗感が生じてくる。そのため率先して改革の旗振り役となり、根気強く向き合いつづけた結果、少しずつ会社が変わっていった。


売上も上がり、社員の平均年齢が下がったことで新しい風も入ってきた。一通りのことをやり終えたかに思えた頃、改めて数年間働いてきた会社の未来について考える。


これから会社を主導していく役割は、必ずしも自分でなければならないとも限らないと感じつつあった。


「長年父親についてきたベテラン陣もたくさんいるなかで、23~4歳から必死で勉強する僕よりも、彼らが社長を務める方がいいんじゃないかと思って。そこに至るまでの改革の旗振りはするけれど、社長を引き継ぐのは別に僕じゃなくてもいいなと思って、最終的には父親の会社を出ることにしました」



父の会社で働いた約7年のあいだには、役員として数社の手伝いなどもしていた。生活に困るわけではなかったが、これから何に腰を据えていくかは決まっていなかった。


改めて自分の原点に立ち返りつつ考えた時、思い出されたのは数年前に亡くなった母のことだった。


「2019年11月に母親が突然亡くなりまして、医師から『原因はストレス由来の脳出血です』と言われていたんですね。自分は何をしたいんだっけと思った時に、どうすれば母親の死を未然に防げていたんだろうかという問いを突き詰めたいなというところに行き着いて」


実際、専門家に話を聞きに行ったりと、かねてから行動は始めていた。大学の先生にコンタクトを取っても相手にしてもらえなかったので、最初は行きつけのクリニックの先生に相談し、人を紹介してもらったりもした。


さまざまなアプローチで調べていくと、どうやら同じ脳の病気(脳卒中)のなかでも代表的な脳梗塞は、その原因の1/3が心臓の不調にあると分かってくる。ストレスは、その心臓病の原因にもなるものだという。


ストレスや心臓病、そしてその関連性について勉強していくなかで、やがて心臓の異常を検査する小型キットの存在にたどり着いた。


「現在ココロミルが扱うウェアラブル心電計の開発者と出会って、これなら母親の死を未然に防げていたかもしれないというところからのスタートでした。元はこの機器を扱っていた会社でPoC(概念実証)*を手伝っていて、実証実験のような形でマーケットニーズがあるかなどの検証をして『これならいけるな』と思えたので、ココロミルを設立しました(*Proof of Conceptの略。新しいアイデアや技術の実現可能性を確認するため、試作開発に入る前に行われる検証作業のこと)


2022年11月、株式会社ココロミルを設立。根底にある思いは、自身の人生に一貫するものだ。


「いわゆる半径5mぐらいの人たちが、僕と関わることによってどうやったら幸せになるのかということを僕はずっと考えていて。結局社長だけ得をするとか、お金を持てるみたいなことはしたくない。仮にうちの社員が辞めることになったとしても、(うちに在籍していたことが)次の環境に繋がるキャリアになればいいなと。僕と関わったからには幸せになってほしいということは、ずっと思っていることですね」


家族の中でも、母と最も長い時間をともに過ごしていたのは自分だった。もっと長く母との時間を持っていれば、そのストレスをいくらか軽減することができたのかもしれない。もしかしたら、病に倒れることもなかったかもしれない。そう同じように後悔する人を減らしたいという思いが、ココロミルへと繋がっている。


自分自身が使命感を持ち、誰より熱意を持って取り組める。病気で後悔のない社会をつくるため、ココロミルはその輪を広げ、人を笑顔にする価値を届けていく。




3章 「報われない」という思いがある人へ


3-1. 食わず嫌いせず経験したからこそ、笑い話にできる


子どもの頃なんとなく食べられなかった食べ物が、大人になって食べてみると意外にも美味しかったりするように、自分の想像の範疇で判断して経験しないことが何よりもったいないと林は考える。


「本当に好きなのか嫌いなのかって経験しないと分からないし、なんとなく苦手だと思っていた人と話してみたらすごく仲良くなれることもある。仕事もそうだと思うんです。自分には向いていないとか、苦手だからとか、一旦やってみてから判断することが大切だと思っていますね」


食わず嫌いせず経験することにためらわなくなったのは、振り返れば父の教育のおかげかもしれない。初体験のスキーでいきなり難しいコースを滑らされたり、いろいろな習い事に通わされたり、当時は理解できず嫌だと思いながらやったことが、のちに人より一歩進んだ成果に繋がったことが多くあった。


「やればその先まで行けるし、スポーツだったらレギュラーになって活躍したり、チームを引っ張っていけるようになってくる。なんでもやればできる、やってできないことはないと思えるようになっているので、そういう意味では親の教育は僕に合っていたのかもしれません」


人と同じことをしていても、人と同じにしかなれない。だから、みんながやりたがらないことを率先してやる方がいい。そう言われて、小学校の時から選り好みせずに経験することにしてきた。結果として、頑張った分はいずれ何らかの形で返ってくるものだった。


「たくさん経験しているからこそ、失敗だろうがなんだろうが笑い話にできる。何も経験していなかったら、僕自身おそらく今この場で何も話せないので、そういう意味では『失敗したな』『これダメだったかな』と思う過去でも、こうやって話してみんなが笑ってくれるならいいなというスタンスです」


努力しても報われない、どうせやっても無駄にしかならない。そう思ってしまうなら、とりあえずいろいろやってみて、あとで笑い話にすればいい。誰もが人を笑顔にできる。人は互いに必要とし合い、幸せを紡いでいく。




2024.9.11

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


身近な人が笑顔になり、幸せでいられることを願う林氏。幼少期から一貫するその姿勢は、あるときは自分を変える原動力になり、あるときは人としての在り方の指針となってきた。


多くの人は身近な人に支えられ、生きている。だから、失った時に後悔が生まれる。そう実感を持って語れるからこそ、林氏は思いを事業として形にした。


起業とは、必ずしも広い社会や国など大きなイメージから始める必要はないのだろう。身近な人や世界へ向かう信念を起点に、想像力を広げていく。そこから生まれる事業がある。


いわゆる突然死は、誰の身にも起きる可能性がある。何気ない日常の延長線上にはあり得ないように思えても、実は十分想像しうる未来だ。だからこそ、ココロミルは突然の大切な人との別れや、そこから生まれる後悔を少しでも減らそうとする。事業を通じて、人と病気との向き合い方を変えていく。


文・Focus On編集部





株式会社ココロミル 林大貴

代表取締役CEO

1991年生まれ。東京都出身。大学在学時より起業し、これまで個人事業主を含め代表取締役3社、取締役4社、顧問として3社の経験をもつ。日本のみならず2017年6月にはカンボジアにて会社を起業。社会貢献活動にも尽力。2019年11月に実母がストレスが起因する病気で亡くなったことからストレスというものに興味を持ち、自分のように「病気で後悔する」人がいなくなることを願い、2021年11月株式会社ココロミルを設立。

https://kokoromil.com/

 

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