目次

映像処理技術で知る「顧客インサイト」 ― ユニコーンを経て、2度目の創業へ挑戦する理由

思い描く完成図は自由でいい。挑戦してみることに意味がある。


「データが思いを導く社会へ」というビジョンを掲げ、企業活動の価値創出をテクノロジーとデータの力で支えていくヴィアゲート株式会社。同社が開発・運営するマーケティングリサーチプラットフォーム「エモミル」は、「表情解析技術」や「視線計測技術」を活用し、生体情報に基づく消費者インサイトを提供する。属人的だったクリエイティブを進化させ、企業の合理的な意思決定の基盤となる。


同社代表取締役の下崎守朗は、東京大学情報理工学系研究科を修了(修士)後、ソニー木原研究所及びソニーにて画像処理プロセッサーなどの技術開発に従事。ザイオソフト社、モーションポートレート社を経て、2014年にクラウド録画型映像プラットフォーム事業を展開するセーフィー株式会社(東証グロース上場)を共同創業した。2023年2月、新規事業をスピンアウトし、ヴィアゲート株式会社を創業した同氏が語る「やってみて知る面白さ」とは。





1章 ヴィアゲート


1-1. 価値ある情報により、誰もが閃き、合理的に意思決定できる社会基盤を構築する


製品の企画デザインや広告など、人の感性が生み出す領域に正解はない。そこには属人的な判断やユーザーの声など定性的な情報に基づく意思決定が多くあり、深く正確な情報を集めるにはコストもかかる。


誰もが簡単かつスピーディーに調査・検証できる基盤があれば、企業のマーケティング活動にもっと明確な答えを導けるようになるのではないかと下崎は語る。


「(既存のマーケティングツールでも)計測自体はできるんですよね。なんとなく数字は出てくるんですが、じゃあその数字自体が求められているかというとそうではなくて。必要なものは『じゃあ、どうしたらいいのか』という答えだったり、答えを出す判断に役立つものまで提示できるというところが『エモミル』のポイントだと思っています」


マーケティングリサーチプラットフォーム「エモミルリサーチ」は、「表情解析技術」や「視線計測技術」を活用し、動画や広告、ウェブサイトなどのデジタルコンテンツを観る消費者の感情推移や注目内容といったデータを収集する。それにより、クライアント企業自身がより簡単に、深く確かな顧客インサイトを調査・分析できるサービスだ。


消費者側のアプリは、デジタルコンテンツを観ることでポイントが貯まるポイ活アプリ「エモミル」となっており、プラットフォームとして価値を創出する。


「ミッションに意思決定という言葉が入っていますが、やりたいと思った時に実行できないことが自分も1番嫌なんですよね。だから、やりたいという意思がある人がいれば、それを実現できるようにお手伝いしたいという思いがベースにあるんです」


2023年8月現在、「エモミル」はテストマーケティングを実施しており、同年冬の正式ローンチを予定する。


「今後は評価したコンテンツの改良版を作るとか、その先の広告や運用などアウトプットとしてのコンテンツを作るところまでは少なくとも踏み込んでいきたいと思っています。最近はChatGPTのようなAIも広まりつつありますが、要はAIが作っていようが人が作っていようが、良いコンテンツができあがり、結果的にマーケティングの良い結果に結びつくということが重要で、そこまでお手伝いしたいですね」


ユニコーン企業として注目されたセーフィー社。その取締役ファウンダーでありプロダクト開発責任を担っていた下崎率いるヴィアゲートは、映像を活用した新たなサービスの可能性を模索するべく立ち上げられた。「エモミル」開発は同社の軸ではあるものの、さらなるイノベーションを構想していく企業でもあるという。


「ヴィアゲートにとって『エモミル』はあくまで一事業であり、いろいろな人が新しいアイデアや事業を起こしていって、そのままオーナーシップを持ってもらう。もしかしたらスピンアウト・スピンオフしてもいいですし、そういう風にいろいろなものを生み出す母体のような存在になるといいなと思っています」


誰かの意思ある挑戦こそ、社会を面白くする。ヴィアゲートでは先端テクノロジーとアイデアを掛け合わせ、世に価値あるサービスを生み出しつづける。




2章 生き方


2-1. 気になったらすぐに


見渡せば山々が広がり、田んぼや草むらを覗けば名前も知らない虫たちがいる。両親の故郷である九州で育った幼少期、身の周りにあるのどかな自然が遊び場だったと下崎は語る。


「自然が多かったので、川がどこから流れてくるのか気になって。ひたすら川上の方に1人で自転車で行ってみたり、自転車で進めなくなったら山の中を歩いて、道もないようなところまで行って、最後は怖くなって逃げたり(笑)。兄弟もいなかったので、結構いろいろなところに1人でふらーっと行っていましたね」


生まれは兵庫だが、1歳の頃に父が病気で亡くなって間もなく大分に、のちに鹿児島へと引っ越した。


父や兄弟がいれば一緒にキャッチボールをしたりしたのかもしれない。友だちと遊ぶことはあるものの、比較的1人の時間は長かった。いつも好きにさせてくれていた母のもと、身近な自然や生き物に興味を持って、思い思いの遊びを見つけては自分なりに楽しむことが日常になっていた。


「1人で遊ぶときは外に行くこともあれば、ホームセンターで適当な材料を買ってきていろいろ作ったりするのも好きでしたね。プラモデルとかお金のかかるものはあまりやらなくて、紙とか竹ひごの切れ端みたいなものを組み立ててみたりとか。単純にお小遣いとかもあまりないし、自分でおもちゃを作ってなんとかするという(笑)」


小学校でもスポーツや習い事など特別熱中していたものはない。しかし、工作には夢中になれる何かがあった。もしかしたらそれは両親から受け継いだものでもあったのかもしれない。


「生前父は自衛隊で通信系の仕事をしていたらしく、いわゆるアマチュア無線を趣味で触ったり、母も裁縫が好きだったりして、両親ともに何かを作ることが結構好きで。自分もやはり工作系とか、あと壊すのとか、いろいろなものを分解して面白いねということをやっていて、家中に分解して遊んだものがいっぱい転がっていましたね」


たとえば、少し古い型のデジタル時計が家にある。時間が進むたび、パラパラと数字がめくられていく。そんな様子を見ていると、どうやって動いているのかと気になってきて、気づけば工具を手に取っている。分解してひとしきり中の構造を観察すれば満足するのだが、たいていは元に戻せなくて、よく母を困らせていた。


幼少期、鹿児島の桜島フェリーにて


「好奇心はあると思いますね。自分が知らないものや新しいものを知りたいという思いは、おそらく昔からあって。当時も結構図書館に行って、ずっと本を読んでいました」


生き物が好きだったので、子ども向けの定番書である『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』などは早いうちに目についていた。1冊読みだすと、ついつい続きが気になって止まらない。誰に言われるでもなく、図書館の本棚を端から端まで読み尽くしたりもした。


「基本はやはり一気に読みたい派なんですよね。そういう意味では、子どもって普通テレビで毎週やっているアニメとか見るじゃないですか。自分も見るんですけど毎週見るとかはなくて、逆に本だと読みたい時に全部読める、次の週を待たなくていいところが好きでしたね」


面白そうな本を探し、ほかのジャンルにも目を通したが、歴史ものなど過去を題材にした本にはあまり興味が湧かなかった。代わりに無意識に手に取ったのは、SFやファンタジーなど、今ない世界や未来を題材とする本だった。


物語で活躍する未来の乗り物やロボットたち。まだ見ぬその姿を頭の中で描いては、もしかしたらいつか自分もそんな機械を作れるのかもしれないと心躍らせていた。


「やはり研究的なことだったり何か作ることだったり、そういう仕事がしたいという思いは、漠然とずっとありましたね。少なくとも芸術とか工学、理学的なことをやりたいなと」


未来や新しい世界には、たまらなく好奇心を刺激するものがある。知りたい、やってみたい、作ってみたい。やればやるほど面白さが見つかって、さらなる未知との出会いが待っている。そう経験から学んできたからこそ、心が動いた瞬間すぐに動き出していたかった。




2-2. ロボットよりソフトウェア


勉強には興味がなかったが、住んでいた地域の公立中学があまりにも荒れていたので、家から近い私立中学を受験することにした。勉強の大切さを説いていた母の意向もある。無事ラ・サール学園へ入学することになった。


「鹿児島って予備校とかもあまりないんですよ。その分、学校が頑張って受験勉強とかもやっていて。あまり自分で頑張らなくても学校が宿題とかばーんと出してきて、言われた通りやっていると受験勉強にもなる。ある意味そこに乗っておけばいいという環境は楽だったんだと思います」


入学したものの、当初はあまり熱心に勉強していなかった。中学最初の英語のテストでは、解答をカタカナで書いてしまい怒られた。やはり勉強よりも、本が好きだった。中学高校時代に愛読していたアイザック・アシモフのSF小説などの影響を受け、飛行機を作ってみたいという思いがあった。


「大学は私立は無理だから国公立で、工学部の中でも航空系の学科があるところに行きたいなと考えていました。なかでも東大は、入学時に学科ではなく理科一類二類三類という区分けだけ選べばいいのでいいなと。なんとなく航空系をやりたいと思いつつ、まだほかの可能性もあるかもしれないという思いもあって」


興味のある方向性はありつつも、まだまだ広い世界にも目を向けていたい。そんな風に思っていた矢先のことだ。東大に入学するや否や、あっという間に新入生勧誘の勢いに飲まれ、気づけば体育会アイスホッケー部の一員として氷上での練習に明け暮れていた。


そもそも競技以前に最初は氷の上をじたばたすることしかできないのだが、経験者が少ない分、同じスタートラインに立つ同期が多かったことは幸いだった。チームでスポーツに打ち込み、結束力が生まれていく。練習を工夫して、自分がレベルアップしている実感を得る。その後も続いていく人の繋がりができたりと、アイスホッケー部での活動は得難い経験だった。


これまでとは全く無縁の世界だが、やってみると意外な面白さがある。ただ、大変だったのは、道具やスケートリンク代など何かとお金がかかるスポーツであることだった。


「スケート代を稼ぐためにバイトするような形になって。結構マックとかファミレスとかで働いていましたね。基本部活が中心で、練習日がリンクを借りられる時になるので曜日が決まっていないんですよ。だから、定期的に行く塾講師とかは難しくて。シフトで入れて時給が高いところを探した結果、歌舞伎町のマックで朝の3時か5時くらいまで働いていて。今考えると、もう少しマシなところもあっただろうと思うんですけど(笑)」


部活とバイトで頭がいっぱいで、1年生のときには危うく留年しかけそうになる。それほど充実した日々だった。しかし、3年からは専攻を選択しなければならないし、そのために良い成績を取る必要もある。


このままでは卒業が危ないかもしれないと、部活には2年の途中で区切りをつけることにして、進路について考えはじめた。


大学時代、体育会アイスホッケー部の仲間と


「結局その時は情報系でロボットを作る学科に進学したんですよね。その時に1つの選択肢として航空系というところもありつつ、大学に入ってからプログラミングをやり始めていて。当時ロボット系のSFが好きだったので、その影響があったのかもしれません」


工学部の中でも知能機械情報学といわれる分野を選択。授業でプログラミングなどを習いつつ、やはり実際にロボットを作りたいという思いに駆られ、1学年上の先輩が立ち上げたロボコンの出場チームを引き継いだりもした。


学科からお金を出してもらえるよう交渉したり、有志の仲間を集めたり。ロボットを作るためのチーム作りから始める必要があった。大会では残念ながら1次予選で敗退してしまったが、自分たちで考えながら作っていく過程は面白いものだった。


「結構頑張ったんですが、企画倒れ的なところもあって。敗因としては、やはり完成はしていなかったんです。ずっと出場しているチームはノウハウもあるんでしょうし、しっかり動くものを仕上げてきていて。ただ、お題やルールだけあって、あとは何を作ってもいいというなかで、自分たちでいろいろ好きに作っていくところは楽しかったですね」


やはり座学より、実際に手を動かしながら学んでいく方が面白い。大学4年からは研究室に配属され、ロボットの脳にあたるニューラルネットワークのモデルを考えては作ってを繰り返した。


1年間の研究では物足りなさもあったのでそのまま修士に進学し、同時に企業でプログラミングのアルバイトも始めることにした。


「自分はインターンみたいなものはそんなに好きじゃなくて。やるんだったら仕事としてきちんとやって、その代わり給料ももらってという形が基本的に好きでしたね。あまり就職とかそういう意味では考えていなくて」


今ではもうなくなってしまったサービスだが固定電話の組み込みソフトウェアを作ったり、当時出てきたばかりだったBluetooth技術関連の仕事を手伝ったり。大学ではものを作るといっても所詮研究の域を出なかったが、仕事としてきちんと売れるプロダクトを作る経験ができたことは大きかった。


「ロボットのようにもの自体を作ることも好きではあったんですが、ソフトウェアを書いてプログラミングをしていくことの方が面白いんじゃないかと、アルバイトしながら思いはじめた部分はあって。やはり自由度が全然違ったんですよね」


手触り感があり、リアルに動くものを作っていくことでしか得られない面白さはある。一方で、ソフトウェアにも一定の制約があるとはいえ、やろうと思えばなんでもできる。ちょうど大学に入った頃から世の中にインターネットが普及して、手に入る情報も比べ物にならないほど増えていた。


自分で調べながら一つずつ課題をクリアし、完成へと近づいていく。それだけでも作れる幅が圧倒的に広い。ものそのものではなく、ものの動きを制御したり司るソフトウェアを作っていきたい。アルバイトを通じて、将来への意識が芽生えつつあった。




2-3. ソニー木原研究所


自由闊達な研究開発というソニーの原点を継承し、1988年に設立されたソニー木原研究所。通称・木原研を偶然知ったのは、アルバイト先の社員の紹介だった。


「そのアルバイト先がソニーの半導体の商社だったんですが、就職の相談をしたら『こういうところあるよ』と紹介してもらったのが、ソニーの木原研究所でした。100名くらいの規模で、ソニー本体とは採用も別で、年間2、3名しか採らないんです。当時大きな会社に行っても結局好きなことはできないだろうと思っていたので、小さな会社に行きたくて。その頃からスタートアップが好きだったのかもしれません」


面白そうだと受けてみると、ありがたいことに内定をもらい、就職活動も早々に入社を決めることにした。画像処理系の最先端技術に強みを持つ木原研では、3DCG領域を扱う部署へと配属された。


「面白かったですね。当時は今のようなソフトウェアの開発環境が全然なくて。最初はエクセルみたいなものを使って、コマンドをいろいろ手で書いて。この命令を実行したらどれくらいあとで結果が返ってくるからとか、いろいろ頑張ってパズルのようなことをやらないといけなかったんです。そんなことやってられないからと、自分が今どきのソフトウェア開発環境を作りたいと手を挙げたりしていました」


幸い上司からは背中を押してもらえる環境だった。ゼロからの挑戦ではあったが、試行錯誤しながらなんとか動くものを作り上げていく。比較的自由にやらせてもらえたので良い経験になった。


「良い画像処理のアルゴリズムを作っても、それが動かなかったりするともったいないよなとか、自分が作りたいものがあるのに実現できないことが嫌だなという思いがあって。何かを作って実現することよりも、そもそも実現できるような『環境を整える』方に、おそらくその頃から興味が湧きはじめたんです」


どんなに立派なハードウェアも、それを動かすソフトウェアが弱ければ真価は発揮できない。最終製品そのものよりも、基盤となるような技術や開発環境、いわゆるプラットフォームに目を向ける。


電気自動車などに代表されるように、ソフトウェアが競争力になる時代はすぐあとにやってきた。今振り返れば、それは世界の大きな流れでもあった。


実現を阻む壁があるのなら、誰かがそれを解決できるよう環境を整えることが必要だ。誰もやっていないのなら、自分がやってみる。それは現在まで続いている。


ソニー木原研究所の入社式にて



2-4. 自由と責任


木原研には3年ほど在籍したが、グループの方針により統廃合されることになった。


新たな仕事はグループ内で自分で探すようにとのことだったので、写真のストレージ関連の部署に入れてもらうことにした。開発に携わり、製品も発売されたが、間もなくして部署がなくなってしまう。


「やはり新製品とか新しく少しニッチな領域を狙っていたので、たいてい早くなくなるというか、なくなることの方が多かったですね」


既に確立された製品よりは、ニッチで挑戦的なプロジェクトの方が面白い。新しい技術に触れることで得られるものもある。携わる製品がことごとく世に出ないことが続いたが、それでも自分にとって挑戦しがいのある仕事を渡り歩けることは良い経験だった。


その後、テレビのアーキテクチャ設計や基盤となるソフトウェア開発を担うチームに入ったが、大きな組織ゆえのやりたいことに挑戦しづらい感覚もあり、転職を考えはじめていた。


「探したらザイオソフトという会社が、医療系の画像処理などを扱っていて興味があるし、面白そうだなと。内定をもらったのでじゃあ行きますと言って。当時は開発チームも十数人、会社自体も3、40人くらいの結構こじんまりとしている会社でした」


当時ザイオソフト社は北米進出に力を入れていた。入社して1年と経たずして、北米拠点を手伝ってほしいと頼まれたのもそのためだろう。海外で働くことも1つの経験だと思えたので快諾し、シリコンバレーにあるオフィスへと移る。


初めての海外勤務は、やはり強烈なものがあった。


「ある朝突然会議室に集められて、社長が演説を始めるんですけど、何のことかよく分からないんですよ。周りを見ると、みんなすごく深刻そうな顔をして『頑張るぞ』とか言っていて、なんでそんなに沈んでるのかなと思ったら、会議室の外に手を振りながら去っていく人がいっぱいいるんです。おかしいなと思っていたら、実はそれがリストラで。会議室に呼ばれた人は残る人、そのあいだに荷物をまとめる人はリストラで、そういうことが本当にあるんだなと思いました」


会社の業績や資金状態が厳しければ、数人どころではない社員がリストラされる。話には聞く世界であっても、実際にその光景を目の当たりにすると何とも言えないものがある。


「やはり開発以外のそういうところが強烈だなと思って、すごく印象残っていますね。だから、逆に自分が会社を経営する立場になったとしたらリストラはしたくないし、ある程度責任を持っていなければいけないなと思いました」


もしも将来自分で会社をやることになったなら、きちんと社員をはじめ顧客や社会に対して責任を持つこと。自由に好きなことに挑戦するだけでは終わらない。海外に出たからこそ、文字通り広い世界を垣間見ることができた。




2-5. 起業


ソニー木原研究所の元代表であり、当時同社からスピンアウトしたモーションポートレート社代表を務めていた藤田純一から連絡が舞い込んだのは、転職して4年半ほどが経つ頃だった。なんでも北米拠点を作るための視察に行くので、現地でドライバー代わりになってほしいとのことだった。


「そこで『新規事業をやりたいからどうよ』という話をいただいて。もう少し米国でやってみたい気持ちもありつつ、まぁでも面白いことができるならいいなと思って」


当時モーションポートレートの社員は10名ほど。決して意図していたわけではないのだが、偶然にも働く環境は小規模になっていく。そこでは顔認識技術を使ったスマートフォンやタブレットのアプリ開発を行っていた。


「面白いことができそうな環境を求めていろいろな会社に移っているので、『これやってくれ』と言われたら『じゃあやりますよ』と特に違和感なく必要なことをやっていましたね。特にスマホのアプリはいろいろ勉強しながらでしたけど、やはり動くものができるというのは面白かったですね」


とはいえ、もとは新規事業を作るつもりで転職してきていたので、社内のチームでネタを探しつつ試行錯誤してもいた。現在のセーフィーへと繋がるアイデアが生まれたのも、当時同僚だった佐渡島隆平、森本数馬という共同創業メンバーとの出会いがそこにあったからである。


「自分たちで会社をやることにこだわりはなくて、まぁ手段だからどちらでもいいんじゃないかというところではありましたけど、最終的には資金の援助や製品作りのパートナーの当てができたこともあって、セーフィーとして独立することになりました。アイデアや資金、チームがあって、偶然条件が揃ったというところがありますね」


セーフィー上場の鐘を鳴らした日


「映像から未来を作る」というビジョンを掲げ、カメラの映像データをクラウド化し、誰もが活用できるプラットフォームを提供することを目指して、2014年に創業されたセーフィー。取締役ファウンダーいう肩書きはあるものの、当然ながら当初は3人それぞれが「何でもやる」状態からのスタートだった。


その後は、開発責任者、プロダクト責任者としてクラウドカメラを中心としたメインプロダクトの開発に携わっていく。


「会社が大きくなって人が増えていくことに対して、実はあまり感じることはなくて。まぁでも少ない人数でしかできないことがある一方で、ある程度人数を増やしていかないとできないこともある。幸いプロダクトは多くの人に使っていただけたので、それに比例して人数が増えることは必然ではあるのかなと思っています」


10人、100人と社員が増え、事業も軌道に乗った。喜ばしいことであると同時に、新たな挑戦にも目を向けるようになった。


「ある程度人数が少ないときには、自分で決めてやればすぐにできたことがなかなかそうもいかなくなってきて。それならもっと小さな規模で、もう少し違う映像の領域に入ってみようかとチームを作ってみるというところから、ヴィアゲートは始まりました」


最初は1人、2人というチームから、採用と新規事業の検討を並行して進めていく。アイデアの中から事業化できそうなものを絞り込み、いくつか検証した結果、最後に残った事業がマーケティングリサーチプラットフォーム「エモミル」という形になった。


「やはり面白そうであるだけじゃなく、事業的に成り立つかどうか、ニーズがありそうか、実現したとして事業として継続性があるかなどを見ていましたね。社内のリソースも含めて可能性がありそうだし、これならやってもいいだろうと全員が思えるものでした」


2023年2月、セーフィー社からスピンアウトし、ヴィアゲート株式会社を設立。表情解析技術や視線計測技術を中心としたテクノロジーの力を駆使することで、企業がより簡単に、深く確かな顧客インサイトに辿り着くことのできるマーケティングリサーチプラットフォームの開発に取り組むこととした。


誰もが作りたい時に作りたいものを作れるような社会基盤を整えたい。そんな思いが事業の根幹を流れ、発展させていく。




3章 人生に迷いがある人へ


3-1. やりたい意思があるならやってみる


さまざまなフィールドで、新しくニッチな技術開発への挑戦を意欲的に続けてきた下崎。実現を信じて取り組んだ結果、世に出ないまま終わったプロジェクトは数えきれないほどある。それでも歩みを止めず、一貫していた1つの姿勢について振り返る。


「やはり基本はチャレンジというか、やってみないと分からないことは多いので、やってみたいという意思があって状況が許すのであれば、いろいろ挑戦してみた方が面白いと思うんです」


頭で考えているだけでは分からないことは多い。どれだけ計算や想像を尽くしても、実際に行動を起こしたり、渦中に飛び込んでみることで得られる経験に勝るものはないからだ。


「やってみると解像度が高まりますし、自分が『これだ!』と思える瞬間ってやっぱりあるんですよ。その瞬間までは、いろいろやってそれを探すということが大切だと思っていて」


悩み抜いた末に見つかる閃きや、これまでにない視点からの解決策。人との出会いが思いもよらない選択肢をもたらしてくれることもある。しかし、それらはそう簡単に見つかるものでもないと心得ておく必要があるという。


「当然想定通りいかないこともあります。そんなにうまくいくことばかりではないので、ある程度白黒はっきりするまではとことんやってみる。そうすれば、うまくいかなくても自分が満足感を得られると思うんです。ある程度自分を追い込んだ上でうまくいかなかったのであれば、違うことをやればいいですし」


もちろん挑戦の途中で迷いが生じることもある。


「おそらく自分が『どうしようかな』と迷う段階って、まだまだそんなに解像度が高くない。そもそも意思決定の条件が整っていないということだと思うので、迷うのであればもう少しやってみて、その迷っているポイントをはっきりさせるためにも何か行動してみることですかね。止まるポイントは意外となくて、前に進んでいるといつか見えてくるものがあると思っています」


ヴィアゲートという会社の始まりも、セーフィーの既存事業が軌道に乗り、自分にしかできない新しい挑戦に踏み出すことを試みる小さな一歩だった。そこに偶然集まった人材と、だからこそ実現可能なアイデアという条件が揃い、「エモミル」という形になった。あらかじめ答えが見えていたわけではなく、行動を続けることで見えてきた最適解だった。


行動を起こしつづければ、ふいに答えが見つかる瞬間は存在する。そうなればあとは実行するのみだ。



2023.8.31

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


新卒入社したソニー木原研究所で働いて以来、携わる製品がことごとく世に出なかったり、部署自体がなくなってしまうことが続いたと下崎氏は笑いながら振り返る。新しく挑戦的な技術やプロジェクトには、当然失敗がつきものだ。それでも一貫し、純粋に自分が面白そうだと心動かされる領域に、より自由度高く関わることができる環境を選んできた。


実際、目の前にある仕事が成功するか、あるいは社会に価値を生むどうかは誰にも分からない。どれだけ検証を重ねても、所詮それは仮説でしかないのだ。だから、意思決定に迷うなら、やってみて解像度を高めることが1番の近道になる。


下崎氏の場合も、積み重なった過去の経験や知識、さまざまな価値観が、セーフィーという形となり社会から必要とされる製品の開発に活かされたのかもしれない。


ヴィアゲートは、さらに新たな景色を求めて踏み出された一歩である。そこにはきっと、技術で社会をよりよく変えようとする熱意が集まり、交わりながら面白く創造的な事業が生まれていくのだろう。


文・Focus On編集部





ヴィアゲート株式会社 下崎守朗

代表取締役CEO

1978年生まれ。兵庫県出身。東京大学情報理工学系研究科知能機械情報学修了(修士)後、ソニーの子会社であるソニー木原研究所に入社し、画像処理プロセッサーなどの技術開発に従事。その後、医療系の画像処理を行うザイオソフト株式会社と、顔認識サービスのモーションポートレート株式会社を経て、モーションポートレート社のメンバー3名で2014年にクラウドカメラサービスのセーフィー株式会社を創業。プロダクト責任者として2021年に東証マザーズ(現在の東証グロース)への上場を果たした後に、新規事業責任者として「エモミル」事業を立上げ。事業の可能性を確信し、セーフィー社からスピンアウトにて、2023年2月にヴィアゲート株式会社を創業。

https://www.viagate.com/


X  CLOSE
SHARE