目次

建築家が助け合うプラットフォーム ― 尊敬してやまない存在へ捧げる事業づくり

自分が見ようとしていないだけで、そこに存在する世界はきっとある。


「日本の美しい建築が、より広がる世界に。」というビジョンを掲げ、世界に誇る日本の建築家・設計会社のために必要とされる仕組みを社会に創出していく株式会社青山芸術。同社が展開する設計事務所プラットフォーム「アーキタッグ」は、設計者が会社や事務所の垣根を越えて、案件やタスク単位でタッグを組むことを可能とし、人手不足解消や柔軟な働き方、波が激しい経営の安定化を実現する。


代表取締役の桂竜馬は、慶應義塾大学法学部を卒業後、ドイツ銀行グループ、ゴールドマン・サックス東京支社及びニューヨーク本社にて M&A・ファイナンシングのアドバイザリー業務に従事。のち株式会社メルカリにて創業者直下の会長室、プロダクトマネージャーなどを経て、2020年に株式会社青山芸術を設立した。同氏が語る「視野を広げたきっかけ」とは。





1章 青山芸術


1-1. 日本の美しい建築が、より広がる世界に。


建築家が生み出した仕事の数々は、どれも私たちの生活にごく自然に溶け込んでいる。しかし、完成形としての建物や作品に触れることはあっても、それらを手掛けた建築家という「人」、あるいはその仕事の過程を目にする機会はあまりに少ない。


建築にゆかりのない一般の人からすると、建築家はどこかベールに包まれたような存在とも言える。だからこそ、その実体とイメージの間には大きな乖離があると桂は語る。


「サービスを作るにあたって多くの建築家さんと接したり、現場を見させていただいたりするなかで、建築家さんはまだ誤解されていることも多いなと、人々の理解がまだ建築家さんの本質に追いつけていないなと、世の中を再認識したような感じでした。僕たちは少しでもその誤解が解けていくような活動や、もっと多くの人にとって建築家さんという選択肢が当たり前になる活動ができればと思っています」


芸術肌で取っ付きにくそう、気難しい性格だったらどうしよう、そもそも予算も普通の倍ぐらいかかるのではないかなど、なぜかネガティブなイメージが先行する。


なかにはそんな人もいない訳ではないかもしれないが、あくまでごく少数の話であり、大多数の建築家は卓越したコミュニケーション能力を持ち、決められた予算内で最大限のアウトプットを出すプロフェッショナルであるという。


「建築家さんって少人数で設計事務所を経営されている方が多かったりするので、マーケティングとかPRとかそういった機能がないことが多くて、消費者側から情報を取りにいかないといけないという現状があったりします。僕たちのサービスはそういった方々にプラットフォームを提供して、第三者の立場からマーケティングや営業を担っているような側面がありますね」


青山芸術が展開する「titel(タイテル)」は、こだわりのある建築を実現したい人と最適な建築家を、一級建築士の資格を持つ建築アドバイザーが繋げるプラットフォームとなっている。


さらに、そこから現場の声やニーズをもとに作られたという「アーキタッグ」は、事務所や企業の垣根を越えて設計事務所同士が案件・作業ごとにタッグを組むという、新しい働き方を提案する。


「『アーキタッグ』の主な目的は、建築設計業界の人手不足を解消することと、忙しさの波の激しさを解消することです」


設計事務所が抱える案件は短くて数か月、長ければ数年かかるものもある。それを少数精鋭の組織で抱えていると、忙しすぎて新規の依頼を断らざるを得ないときもあれば、逆に突如数か月間売上が入らなくなったりすることもある。この「波の激しさ」は、長年業界を悩ませてきた課題でもあった。


今は人手が足りない、だからと言ってそう簡単に正社員の採用はできない。一時的に外部の力を借りようにも、大学時代の同級生など属人的な繋がりしか頼る当てもない。そんな現状を打破するために、「アーキタッグ」は設計事務所・建築士ごとのスキルや実績などをデータベース化し、忙しい会社と余裕がある事務所がタッグを組み、仕事を進められるようにする。


「最近ではゼネコンさんや組織設計事務所さんなど、大企業さんのお手伝いをすることも多いのですが、大企業さんは社員育成をしっかりされているので社内の文化や慣例がしっかりとあったりします。そこに『アーキタッグ』を通じて外部の人や新しい風が入ると、若手も刺激や学びを得てくれることもあるなどの声をいただくこともあり、純粋な人手不足解消以上の効果もあったりするようで嬉しいですね」



同社のサービスの根底にあるものは、ほかでもない「建築家へのリスペクトの心」だ。運営側はもちろんのこと、プラットフォームの利用者同士においても、互いへのリスペクトを前提とした設計になっている。


「仕事を依頼する側も受ける側も対等であることは前提と考えています。プロフェッショナルな方々のプラットフォームなので、持ちつ持たれつな関係であり、主従の関係のようにはならないように心がけています。手伝っていただく方も『受注者』などではなく『パートナー』と呼んだりと、即戦力の専門家の方に手伝ってもらえるという実態も踏まえ、リスペクトを持ってサービスを運営していますね」


建築設計業界に合った形で人材やリソースが柔軟になり、流動化していくこと。それは何も突飛な話ではなく、当たり前にあるべきものだと桂は考える。


「僕自身が設計士ではなく、外の業界から来た建築家ファンであるという立場もおそらく影響していると思います。たとえば、業界経験が長い内部の方が同じ仕組みを作ったとすると、良くも悪くも『建築ってこういうものだ』という今までのやり方を踏まえたものになると思うんです。サービス開始当初は『この業界には合わないサービスなのではないか』と言われることもありましたが、おかげさまで開始から2年で2,000社・10,000名以上の方に使っていただけるようになりました。ファン目線で、かつ異業界も踏まえて客観的に必要なサービスを考える。そういう立場の人がおそらく今までいなかっただけで、いつか誰かがやるべきことだったと思っています」


今後も黒子のように建築家を下支えしていくべく、同社ではさらにサービスの価値を磨いていくという。


「僕たちは、建築家さんが建築に向き合う時間をもっと増やせるようにするためのサポートをしていきたいと思っています。経営や採用、営業や経理など、本来一番得意であるはずの建築設計ではなく、ほかのことに頭を悩ませなければならない現場が結構多いんです。僕たちはそういった悩みをできるだけ解消して、建築家さんにしかできないクリエイティブな業務にもっと多くの時間を割いてもらえるようなサポートができればと思います」


現在、日本には建築士が100万人以上いる。建物として美しく、なおかつ実用的な造りを兼ね備える素晴らしい建築を生み出す人々が、その力をいかんなく発揮していくことを青山芸術は願っている。




2章 生き方


2-1. 周りを見てすべきことを考える


6歳の頃まで住んだ福岡県・百道(ももち)では、家から悠然と立つ福岡タワーが見えていた。博物館に図書館、ホテルや商業施設をはじめとし、「世界の建築家通り」と名付けられた一角もあるほど、町には特徴的な建物が多く立ち並ぶ。子どもながらに目を奪われる印象的な建物の数々を、当時はよく絵に描いていたと桂は振り返る。


「絵を描くことが好きだったので、転勤する先々で建物の絵を描いているような子どもだったと思います。小学3年生の時、ドイツに住みはじめてからは、EU内なので週末にヨーロッパ旅行も気軽に行けていましたね。『この建物の絵を描きたい』と思っては描いて、凱旋門をうまく描けなくて現地でぐずって泣いていたみたいな、そういう記憶はあります」


商社で働いていた父は転勤族で、小学校だけでも5回は転校があった。家族であちこちを転々とし、身の周りの風景が変わる。そのたびに行く先々で目に留まる建物を見つけては、自然と絵を描いている。


建築家という職業を知ったのは、いつのことだったか分からない。絵本か何かで知ったのか、物心つく頃から憧れがあった。


「小さい頃から建物が好きでしたし、LEGOで遊んだりするのも好きで、その時の友人とか親の仕事の影響もあったと思います。今となっては恥ずかしいですが、幼稚園の頃、将来の夢は『建築家』と書いていました。『大人になったらこの幼稚園を建て替える』と言って描いた絵を先生に渡したら、職員室に貼って飾ってもらえたことは今でも覚えていますね」


自分なりの楽しみを見つけていた一方で、慣れない土地へと移るということは生活の変化も大きい。特に、異国の地であるドイツにいた頃は、長男としてまだ幼い兄弟を支えなければならないことも多かった。


「兄弟が多くて、下に4人いるんですよ。それがあとあとにも繋がるのですが、自分が何をしたいという意思や欲求よりも、周りを気にしてしまう習性があるというか、自分の欲とかは薄い方かもしれないですね」


英語もドイツ語も喋れないなか、母は末っ子をドイツで生んでいた。生まれたばかりの赤ん坊はなかなか目が離せない。必然的に弟妹たちの面倒を見たり、気に掛ける時間も増えていく。自然の成り行き上、特に何も感じないままいつしかそれが当たり前になっていった。


「向こうの学校では登下校の付き添いを親がやったりするのですが、母親は家で下の子を見なければいけないし、父親は仕事だしで、僕が弟妹を連れて帰るということもよくありました。だから割と小さい頃から、自分がどうしたいというよりこの場では何をしなければいけないかということを考えていた気がしますね」


幼少期、幼稚園にて


ドイツで過ごすあいだは、インターナショナルスクールに通っていた。言語も文化も異なるなかでの転校は初めてで戸惑いつつも、振り返れば新鮮で貴重な経験だった。


「たとえば日本にいたら、子どもにとって宗教とかは接する機会もあまり多くないのではないかと思います。それが向こうに行ったら最初の挨拶で『どこ出身?』の次に『何教なの?』と聞かれたりして、良い悪いとかではなく、キリスト教でもユダヤ教でもそれをアイデンティティとして話している。そういうことにだいぶ早く触れられたのは、今となってはありがたい経験だったなと思います」


いろいろな人がいて、いろいろな考え方がある。どれが正解ということはなく、どんな立場も互いを認め合う。均質的な日本の学校と違い、今で言う多様性のようなものを肌で感じられる環境があった。


影響を受けたのは価値観だけではなく、スポーツもそうだった。シーズン制でサッカーやバスケットボールなどいくつかの競技を経験し、なかでも好きだったバスケに帰国後は熱中していくようになる。


「日本に戻ってきて小学校6年生でバスケを始めてからは、ずっと部活漬けの学生生活でした。休みの日もずっと部活があって、練習がなくてもずっと体育館にいたりしましたね」」


偶然入学した仙台の中学校は、バスケ部の強豪校として名を馳せていた。宮城県では何度も優勝し、東北大会でも上位の常連だ。チームメイトにはその後プロの道に進んだ人が何人もいるほど、練習環境としては恵まれたものがあった。


「僕はバスケは全然うまくなかったですね。中学1年の時には選手兼マネージャーという役割で、先輩が試合に出ているあいだベンチでスコアをつけたり、それを分析したりしているタイプでした。それも苦ではなかった記憶があって、ドイツの授業のおかげで少し早くパソコンを使うことに慣れていたりもしたので、試合中にまとめたデータを家で入力して分析したり、当時はマネージャー業も好きでやっていました」


チームには、バスケの英才教育を受けてきたメンバーが集まっている。比べて自分は試合に出るほどの実力はなかったが、マネージャーとしてチームに貢献できることには自然な喜びがある。気づけば自発的に何をすべきかと考えていた。


「今考えると、組織があって役割があるということが居心地が良かったのかもしれないですね。一人で趣味を見つけるようなタイプではなかったので、組織の中で貢献しようとする方が楽だったのかな。純粋にマネージャーの仕事は楽しかったですしね」


長男だから、マネージャーだから、周りを見て自分が何をしなければいけないのかを常に考える。そうして自分が表に立つよりも、組織や全体の中で役割を全うできれば本望だ。必要なことを成し、ほかの人を支えていくスタンスは、中学時代を通じてより強くなっていったようだった。




2-2. 終わりない好奇心


中学3年で東京に引っ越して以降、父の転勤も落ち着いてきた。間もなく高校受験の時期に差し掛かる。学校の授業は「先生に言われるから」という義務感でしかなかったが、受験勉強は自分のペースでどこまででも深めていけるような感覚があり、新鮮だった。


「能動的に勉強するのは楽しいんだと自覚した記憶があります。学校に決められたことをやるとか暗記を強いられるとかではなく、自分で求めた分だけいくらでも好奇心が満たされていくような、終わりがない感じがおそらく楽しかったのかもしれないですね」


弟妹たちが4人いることもあり、親からはできれば都立の高校に行ってほしいと言われている。それなら都立高校の中できちんと勉強もやりつつ、バスケも弱すぎない学校がいい。実際にバスケ部の練習見学に何校か行ってみて、1学年上にうまい人たちがいる都立国立高校を選ぶことにした。


「中学までは、東京で転校した学校も含めずっと強い部活にいました。最後も東京3位ぐらいだったかな。でも高校になると、東京って私立がたくさんあるので、もう太刀打ちできないんですよね。私立にタレントが集められていて、なかにはアフリカから2メートルのセネガル人を連れてきている学校もあったりするんです」


勉強とスポーツ、どちらも両立できる環境を求めると選択肢は多くない。分かってはいたが、思った以上にスタート地点の差は歴然としたものがある。


そんななか公立高校ではめずらしい身長の高さだったこともあり、選手としては重宝されていく。中学とは違い1年生から試合に出たり、のちにはキャプテンとして責任ある役割を担ったりもした。しかし、思うような結果は残せず、自分の無力さを実感する日々が続いた。


「1年生の頃から試合に出てもいたんですが、試合に出始めて少し勘違いしていたのかもしれない。それまでより相対的に活躍できているというだけで、少し安心して気が抜けてしまったのかもしれないですね。今振り返ると、キャプテンとしてもっとできることはあったと思いますね」


バスケ中心の生活であることに変わりはなかったが、授業はあまり興味が持てず、毎日遅刻して昼休みに登校したりする。校則もなく、厳しい生活指導もあまりない。都立校特有の自由な環境に甘えてしまっていた節がある。


「のちの反省に繋がっていくのですが、自分はやらなくてもいい環境で頑張れる性格ではなくて、厳しい環境に身を置かないと頑張れない面倒くさがりで甘えた性格なんだなということは高校で気がつきました。そのあともなるべく厳しい環境に身を置かないといけないなと、自分の負の面を学んだ高校生活だったかもしれないですね」



部活以外に唯一情熱を注いだものは、国立高校の伝統行事でもある文化祭だった。3年生が毎年クラスごとにお芝居を披露することになっていて、舞台の建設方法や装飾の手順、指導役を引き受けてくれるプロの演出家の人脈など、高校離れしたナレッジが代々8クラスごとに引き継がれている。


3年間クラス替えがないこともあり、2年目の文化祭翌日から次の年の準備が始まり、1年間かけて芝居を研究し一つの舞台を創りあげていく。そんな過程にも惹かれ、脚本とキャストを担当していた。


「国立高校の文化祭って結構な人が来るんですよ。2日間で1万人ぐらいの観客が来て、投票で1位のクラスを決めるんですが、勝つためにみんなでお芝居を観に行ったり、プロの指導も受けさせてもらったりしました。そういう部分は、芸術とかアートとか表現の世界に触れるきっかけになっていた部分もあるのかなと今振り返ると思います」


芸術に終わりはない。だからこそ、どこまでも突き詰められる。プロの世界は素人が想像する以上に奥深く、引き込まれた。その片鱗に触れられたこと自体、意味があると思えるものだった。


高校3年間の集大成として臨む舞台、結果は惜しくも2位に終わったが、青春らしい充実した時間がそこにはあった。


高校時代、文化祭準備の様子



2-3. 視点は一つじゃない


周りの選手がうまくて試合に出られなかった中学時代、試合には出られたが勝てなかった高校時代を経て、いまだバスケは自分の中で中途半端なままだった。どうせならやりきったと思える状態で終わりたいと、大学受験もバスケを軸に考えることにした。


「高校が弱かったので、大学の1部リーグでバスケを続けようと思うと入れる部活がなかったんですよね。全国の有名選手たちがスポーツ推薦で1部の大学に入って、それでも出られない人も多かったりする世界でした。その中で慶應だけは、1部所属かつ一般受験生でも部活に入れてくれる唯一の学校だったんです」


さらに偶然だが、ちょうど慶應大学は全国優勝を果たしたタイミングでもあった。自分も入ることができ、チームも強い。ここしかないと慶應一本に絞って全学部を受験し、部活に専念しやすいと事前に先輩に聞いていた法学部政治学科に入学。晴れて大学の1部リーグで闘うチームに所属して、バスケができることになった。


「入学した時の先輩たちを見て思ったのは、トップレベルのプレイヤーってこういう人たちなんだと、中学時代とも違う、本当にプロの選手たちを見ているような感覚でしたね」


全国優勝した人や、雑誌で見かけたことのある人と肩を並べて練習する。周囲のレベルは格段に上がり、そこから学ぶことも多かった。


「1部の選手としてはレベルの低い話かもしれないですが、こんなに選手自身が考えるんだと思っていましたね。中学は先生の言うことを聞くことが大事で、高校もあまり強くなかったのでそこまで深く追求できているわけではなかった。大学では、選手一人ひとりが自分で考えられる年齢になったのもあると思うのですが、『コーチはこう言っているけど僕はこう思う』みたいなものが学生側にたくさんあるのが初めてだったなと感じたことをよく覚えています」


大学時代、バスケ部の試合にて


大学後半では社会学のゼミに入り、さらなる世界の広がりがあった。


「その先生の授業がものすごく面白かったんです。大学の授業は、先生側もカリキュラムとしてこなしている授業と、何かを伝えたくて伝えている授業が分かれる気がしました。それで言うと社会学の先生は後者で、毎回何かの本やテーマについてすごく熱を持って話しているし、好奇心が伝わってきて、その先生のゼミに入りたいなと思って入ったゼミでした」


ゼミでは「多文化共生」がテーマとして掲げられ、社会のマイノリティや居場所をキーワードに授業が進められていた。


「多文化な社会のなかで『居場所』があるってどういう状態なのか、じゃあそういう居場所とは何かといった教室でする抽象的な概念の議論と、現場に飛びだすフィールドワークを繰り返すゼミでした。週1日部活がオフの日は、神奈川にある外国人就業者が多い地域の小学校にフィールドワークで行って、みんなで日本語を教えたり宿題をサポートしたりする活動をやっていましたね」


日本で暮らす移民の子どもたちは、さまざまなバックグラウンドを抱えている。慣れない言語や文化にとまどう少年少女たち。もしかしたら、幼少期にドイツの環境に馴染むまで苦労した自分を重ねていた部分があったかもしれない。


日本の学校、特に公立校などは、異なる文化圏から来た人にも優しい環境とは言い難い。一方で海外のインターナショナルスクールは、相対的に異文化を受け入れる体制が整っていたと知る。似たような境遇ではあるものの、環境によってこんなにも苦労が変わるのだと気づきもあった。


「このゼミに入ったおかげで、楽しく美しく見える舞台の裏にも違う立場の人たちがいるかもしれないとか、違った考えをする人や恵まれない環境の人たちもいるかもしれないと考えがちな性格にはなったかもしれないですね。たとえば、そのあと金融業界に入って何も考えずにただ恵まれた生活をすることもできたかもしれないですが、その裏にはどういう人たちがいてとか、自分は何ができているのかとか、そういうことを考え過ぎてしまう。大学のゼミがなかったら物事の考え方は違ったかもしれません」


強者や弱者という言葉が適切だとは思わないが、強者の側だけから物事を見ることは好きじゃない。いわゆるマイノリティや立場が弱い人から見た時にはどうなのか、気づけば考えてしまっている。


これまで自分が見ようとしていなかっただけで、実際はそこに存在する世界がたくさんある。それを知るためにも、就職活動では自分の経験の幅を広げていきたいと思うようになっていた。


「ゼミには大学生でもう起業している人とか、志があって就職先を決めている人とか、社会人より先のことを見据えている人たちがたくさんいて、良い刺激を多くもらいました。自分はバスケしかしてこなかった学生だったので、世間知らずにもほどがあると思っていました。一番早く仕事を経験できる場所で、かつ高校の反省もあり、できる限り厳しい環境に行かないといけないと思っていたので、そういう意味で投資銀行を選びました」


当時は「絶対にこれを仕事にしたい」というものがまだ決まっていなかったこともある。建築やバスケなどは好きではあるものの、それが仕事の軸になるのかと問われればよく分からなかった。それならいつか本当にやりたいことが決まった時、なるべく多くのことを経験できている状態がいい。投資銀行への就職は、ある意味「選択しない選択」だった。


ドイツ銀行時代、新卒同期と



2-4. 起業


外資系の投資銀行は景気変動の影響も受けやすい。定期的な人員削減の波は避けられないが、幸いにも内定をもらったドイツ銀行グループの投資銀行部門へと入社した頃は、大規模なリストラが落ち着いたタイミングだった。


「僕が入社した頃は運よく業績が上がるサイクルにある時で、既に社員は減っていて、でも仕事は増えるというタイミングだったので、1年目にしては幸いいろいろ経験させてもらえました。いち早く貪欲に経験を積みたかった思いと環境がすごくマッチしていてありがたかったですね。とても運が良かったと思います」


まさに親鳥雛鳥のように、優秀な先輩の仕事ぶりを間近で吸収すべく働く日々。フラットな実力主義の風土があり、会社の看板ではなく自分が何をやるかで勝負する。最大手の投資銀行ではないからこそ、クライアントに選んでもらうには自社の価値や提案内容を磨き、証明していく必要がある環境だった。


「きちんと自分に力をつけて、組織やクライアントの役に立てていること。今日戦力になっていないと仕事も取れないし、いつクビを切られるかも分からない環境で、良いか悪いかは分からないですが、そういう実力主義の姿勢は身についたのかもしれないです」


1年半ほど働いたのち、個人として一層激しい挑戦や成長ができる環境を求めるようにもなり、ゴールドマン・サックスに転職する。


日本支社で3年、ニューヨーク本社にも1年行かせてもらい、一通りの投資銀行業務は経験できたように感じつつあった頃、メルカリで働く知り合いから声をかけられた。


当時メルカリは上場前後で組織が急拡大しているタイミングだった。それまで創業者である山田進太郎氏が一人で見ていた経営の業務を、数人のチームで見る体制へと変えるべく、新しく直下に作られる会長室で働かないかという誘いを受けた。


「その頃から、建築家さんのための事業ができないかなと思いはじめていました。金融の仕事は楽しかったのですが、事業づくりを考えると金融だけでは経験が狭いなと思い、ちょうどいいタイミングでメルカリにご縁があったので転職したという経緯です」


メルカリ退職時、チームのメンバーと


投資銀行部門で働いていた頃は、業務の一環としてさまざまな業界のリサーチをした。改めてデータで触れると見えてくるものもある。日本のハウスメーカーの強さも、際立つデータの一つだった。


「昔から建築や建築家さんが好きでしたが、日本ってハウスメーカーさんのマーケティングが良い意味で強いし、かつビジネスモデルとしてもすごいと思います。だから、日本の8、9割の人にとってハウスメーカーさんに行くことは合理的だし幸せな選択肢だとも思うのですが、一部の人が建築家を選択肢としてすら知らずに選べていない現状や、逆にその8、9割の人も建築家さんと比較したうえでハウスメーカーを選んでほしいなという思いがありました。まだ多くの人が建築家を比較の俎上にも載せていないという状況が、昔からずっと悔しいというか、なんでなんだろうという思いがあったんです」


学生時代バスケにのめり込んだ期間はありつつも、社会人になり余裕が生まれてからは、一人で建築展を見て回ったり、書籍を手に取ったりと、自然と建築に戻ってくる自分がいる。


理由なく建物に惹かれる心は一貫し、むしろ知れば知るほど建築家という仕事に対するリスペクトは高まっていくようでもあった。


「建築家さんは、右脳と左脳の両方をフルで使える特殊能力を持った方々だと思っています。ただ美しいものを作ればいいわけではなくて、それが建築や暮らしの空間として成り立たなくてはいけないし、その裏には構造や設備といった理系な合理性もあって、でもそれでいて感覚的に美しいもの、それを生み出すってもう神業だと感じるんですよね」


建築家へのリスペクト、そして素晴らしい建築家をもっと知ってもらうために何かしたいという思いは、ぼんやりと心にありつづけた。


「メルカリにいるタイミングでコロナになって、建築家さんをもっと広く知っていただくためだったら、このタイミングで今すぐ事業を始めなければいけないなと思ったことが、起業のきっかけになりました」


メルカリという会社もまた、ずっとここで働きたいと思える本当に良い会社だった。しかし、それ以上に今はやるべきことがある。建築家を裏から支えるサービスを作ること。それが社会に必要とされているという確信が、自分を動かしていた。


2020年、株式会社青山芸術を設立。建築家の手による家づくりの真髄を、もっと多くの人に知ってもらいたい。そのために自分の力と経験を投じ、新しい仕組みを創ることにした。




3章 家を建てようとする人へ


3-1. 建築家との家づくりは「人生を考えること」


家を建てたいのなら、やはり建築家に相談してみるという選択肢を一度は考えてみてほしいと桂は語る。


「こだわった空間を作りたいとか、家づくりのプロセス自体も楽しみたいとか、そもそもモノづくりが大好きという方には絶対に向いていると思います。逆に、家は効率的に安く買いたい、早く建てたいという方にとっては合わないこともあると思うので、そういう方はハウスメーカーに行くことが正解になることも多いと思います。アプローチが全然違うという意味でも相性はあると思いますね」


カタログや展示場でベースのタイプを選び、自分好みにカスタマイズする。ハウスメーカーの家づくりは合理的で、サービスや商品として完成されたものがある。


一方、建築家に家づくりを依頼する場合、商品ありきではなく毎回ゼロから図面を描いていく。そのためにまず、あなたはどんな人なのか、どんな家族でどんな暮らしを将来していきたいのかといった問いや対話が出発点になるという。


「『こういう暮らしがしたい』って、つまりは自分たちの未来のことなので、改めて家族でどういう生き方をしていきたいのか、どういうキャリアを歩み、子どもができたらどうするか、20、30年後の現実的な暮らしを考えていく。それってつまり人生を考えることになるんですよね」


建築家と対話することで、改めて自分たちの未来像が見えてきた。自覚がなかった大切にしている価値観に気づくことができた。そんな声もめずらしくない。興味がある人は、話を聞いてみるだけでも発見があるのではないかと桂は考える。


「普通に暮らしていたら、おそらく多くの人は建築家さんと接することはないと思うのですが、せっかく家を建てるとかオフィスを改装するとか空間デザインの機会があるのなら、一度は建築家さんに相談してみてほしいですね。相談して違うなと感じたら、それはそれでいいと思うんです。こういったプロフェッショナルな人たちがいるんだと知ること自体、その方の人生経験としても絶対プラスになると思いますし、とにかく一度話をしてみるという一歩をより多くの人に踏んで欲しいと思っています」


プロセスを楽しみながら、世界に一つしかない自分たちの家を建てる。知らないだけで諦めるには、あまりにもったいない世界がそこには広がっている。



2024.1.12

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


どんなに社会的に意義ある事業や活動も、その裏側には不利益を被ったり好ましくない状況に立たされることになる人がいるかもしれない。あくまで可能性の話だが、絶対にあり得ないことではない。


一つの視点に捉われず、舞台の裏側にいる違った立場の人たちを想像することを、大学時代のゼミで学んだと桂氏は語る。


しばしば物事には、光の当たりやすい側と当たりにくい側というものがある。それは、何か社会的に善とされることや信じる価値を生み出そうとする人にこそ、盲点となりやすい前提なのではないだろうか。だからこそ、今はまだ全てを俯瞰することはできなかったとしても、その可能性を常に頭に置いておくことには意味があると言えるだろう。


さまざまな立場を踏まえたうえで、必要とされることを考える。青山芸術は、建築業界という領域でその役目を担おうとする。類まれな技術と精神性を持ち、粛々と人の営みと向き合う。けれど、その価値や意義には十分光が当たっていない。そんな建築家や設計会社に敬意を表し、事業として表現していく。


文・Focus On編集部





株式会社青山芸術 桂竜馬

代表取締役

1990年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、ドイツ銀行グループ、ゴールドマン・サックス東京支社及びニューヨーク本社にて M&A・ファイナンシングのアドバイザリー業務に従事。その後株式会社メルカリに入社し、創業者直下の会長室にて M&A や戦略立案の担当を経た後、Head of New Business / 越境 EC 事業 事業責任者 / プロダクトマネージャーとして、プロダクト開発並びに新規事業開発の責任者を担当。金融・インターネットサービス開発の職歴と、建築系の家系で育った経歴から、2020 年に株式会社青山芸術を立ち上げ。

https://aoyama-art.com/

  

X  CLOSE
SHARE