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建物の法令点検管理をアップデートする ― 「安全・安心」という当たり前を守る社会基盤

当たり前を支えることこそ、最も意義ある挑戦だった。


「全ての建物に安全な安心を」というビジョンを掲げ、建物の法令点検プラットフォームを提供する株式会社スマテン。同社は、建物管理者向けWEBツール「スマテンBASE」と点検者向けアプリ「スマテンUP」を展開し、アナログな業務のオンライン化・一元管理による効率化やコストの最適化を実現し、業界全体のDXを推進。「法令点検未実施0%」の社会をつくるべく、防災・減災領域の課題解決に向き合っている。


代表取締役の都築啓一は、大学中退後に飲食店を開業。2011年の東日本大震災の復興支援をきっかけに、太陽光発電の事業に参入し、自然エネルギー普及に務める。のち、防災・消防業界で事業を展開するなかで実感した社会課題を解決すべく、2018年に株式会社スマテンを設立した。同氏が語る「意義ある仕事」とは。






1章 スマテン


1-1. 全ての建物に安全な安心を


普段は意識されなくても、いざというときに人命を守る盾になる――消防設備とは、そんな「備え」の象徴だ。法令点検を怠れば、火災や事故、自然災害が起きた際、避難の遅れや二次災害へとつながるリスクが高くなる。本来助かるはずだった命や、残るはずだった建物を失わないように、建物の安全を守ることは、人が安心して暮らす日常の土台になると都築は語る。


「たとえば、火災が起きてスプリンクラーが作動しなかったら、初期消火ができず被害を最小限に抑えることができません。誘導灯も普段は活躍することはないですが、災害時に停電したら重要な目印になる。だから、消防設備がついていることには絶対に意味があるんです。こういった消防設備と点検の重要性を、より多くの人に知ってもらうことが重要だと思うので、会社を成長させながらメッセージとして発信していきたいと思っています」


定期的な点検が法律で義務づけられている消防設備だが、現状では約50%もの建物が未実施のままになっているという。


「そもそも法律上、定期的に点検しなければいけないことを知らないというケースもありますし、管理する物件が多くなって、点検できている建物・できていない建物の管理に抜け漏れが生じているケースも一定数あります。あとは、点検しなければいけないことは知っていても『今すぐやらなくても大丈夫だろう』と思ってしまうケース、これには罰則が緩いという背景もあると思います」


本来あるべき備えがなされていない建物の点検実施率を上げ、やがては点検実施100%の社会を実現するために、スマテンは法令点検に特化したDXプラットフォームを提供している。


建物管理者向けWEBツール「スマテンBASE」では、煩雑になりがちな管理業務や、現場作業者を探す手間を軽減。さらに、適正価格での点検実施を支援する仕組みを整えている。一方、点検者向けアプリ「スマテンUP」は、出先での報告書作成を可能にし、作業効率を向上させるだけでなく、仕事の斡旋を受けられる機能も備える。



「昔は、飲酒運転も法律で禁止されていたものの、罰則がなく、社会の認識としても寛容な時代がありましたよね。でも、事故が増えて厳罰化されたことで、今ではほとんどが検挙されるようになりました。同じように法令点検の未実施を減らすには、最終的に法律を変えていくしかないんだろうなと思っています。そのためには、弊社が発言権を持たなければ訴えることができないですし、思いだけでなく、信用に足る実績を積み上げていくことが大切だと考えています」


ただ、目先の課題を解決するだけでなく、真にあるべき姿へと業界を変革していく信念を持つ同社だからこそ、今後はさらなるサービス力とプロダクトの強化を見据えている。


「プラットフォーマーとしての介在価値を最大化することが、僕たちの存在意義につながると思っていて。建物管理者と点検者、双方の課題を解決していけるプロダクトやソリューションの開発・提供を一層強化していきたいと思っています。将来的には『点検といえばスマテン』と言われるような、唯一無二の建物管理プラットフォームをつくっていきたいですね。あってもなくてもいい会社ではなく、社会に必要不可欠な会社にしていくことが重要だと考えています」


建物を守ることは、そこで生きる人々の人生を守ることでもある。普段は意識されない「備え」の一つひとつが、いざというとき社会を支える力になる。スマテンは、そんな当たり前を支える存在として、安全で安心な社会基盤を構築していく。




2章 生き方


2-1. 人生で何に情熱を注ぐか


家業である大型トラックの整備会社を経営し、挑戦と失敗を繰り返していた野心的な祖父。そして、その借金をこつこつと返すため、年に数回しか休まず朝から晩まで働きつづけた真面目な努力家の父。どちらかと言えば、自分は祖父の方に似たのかもしれないと都築は振り返る。


幼い頃は、休日に隣の市にある父の会社まで遊びに行き、大型トラックの助手席に乗せてもらったりもした。普段見られない視界から眺める景色は新鮮で、楽しかった思い出が残っているという。


「中学1~2年の頃に、父親から『会社を継ぐ気はあるのか』と聞かれたことがあるんです。当時、トラックに興味がないわけではなかったのですが、町工場で働きつづけるという先の見える未来にはあまりワクワクしなくて。親不孝かもしれませんが、『継ぐ気はない』という意思をはっきり伝えたんです。そしたら父親も、それならそれでいいんじゃないかと。『その代わり、自分で人生を切り拓いて生きていけよ』みたいなことは言われた記憶があります」


両親には自由に育ててもらっていたので、家業を継がなければいけないというわけではなかったが、継がないという選択をした以上、自分なりに頑張って生きていかなければいけないという感覚があった。


とはいえ、将来のイメージはまだおぼろげで、ただ目の前の今を一生懸命生きていた。なんとなく普通に就職するのはつまらなさそうだと感じていたくらいで、当時は周囲の友だちと過ごす時間を楽しむことが、自分にとって何より大切だった。


「周りを巻き込んで楽しみたい、人が喜んだり笑うきっかけを作りたいなと、ずっと思っていたんです。小学生の頃から授業中に学校の先生をいじって、笑いながら怒られたりしていて。基本的には人が好きなので、常に誰かと遊ぶ約束をしているし、一人で家でゆっくりするという概念があまりない。人と共感しあえた方が楽しさは倍になりますし、自分だけが楽しいというものは飽きてしまうんでしょうね。誰かと一緒に何かをやって、楽しいと思える瞬間こそが有意義だなと思いますね」



小学校では6年間野球を続けていたが、中学ではバスケットボール部に入ることにした。野球部は坊主にしなければならないため気が進まず、サッカー部は小学校から始めている人も多いので今さら感がある。バスケ部はシンプルにかっこいいと思えたし、周りと同じスタートラインに立てそうだ。そんな直感的な選択だった。


「フットワークはものすごく軽いですね。興味を持ったら、とりあえずすぐやってみる。好奇心旺盛で、昔からいろいろなことにチャレンジしてみたいというタイプでした」


短距離走が得意だったので、足の速さを活かせるバスケは向いていて楽しかった。ただ、無我夢中で情熱を傾け、没頭するほどの感覚はない。バスケは高校でも続けていたが、突き抜けてうまくなりたいと思うほどではなかった。


自分は何にのめりこみ、夢中になれるのか。高校生くらいから、その答えを探していたが明確なものは見つかっていなかった。


「スポーツも勉強も平均よりは上にいるのですが、突き抜けた人には勝てないという感覚がどこかにあって。頑張って努力をするにしても、物理的に時間が限られているなかでは、どんなに頑張っても勝てないものは勝てないなと思っていたんです。でも、負けず嫌いな性格でもあったので、自分だからこそ活躍できるベストなポジショニングは一体何なのかと、ずっと探しつづけていました」


一度きりの人生を、自分で決めて歩んでいく。そのために何に情熱を注ぐべきかは、自分にとって大きな問いだった。時間と情熱を注いでも、普通と変わらない結果しか残せないのはもったいない。自分だからこそやる意味があると思えるもの、何より夢中になって成し遂げたいと思えるものを、いつも探しつづけていた。


小学校時代、クラブ活動の野球チームにて



2-2. みんなが楽しめる場をつくる


高校時代、特に思い出に残るものといえば文化祭だった。一時期のテレビ番組で人気になった「フィーリングカップル」のようなゲームを企画して、盛り上げ用のうちわを作ったり、クラスが一体となる時間を楽しんだ。


「文化祭でクラスごとにいろいろな出し物をやるじゃないですか。僕たちは『フィーリングカップル』のようなコンテンツを作って。その場にいる男女を5人ずつ並べて質問したりして、最後にそれぞれが選んだ人の紐を引いて、両想いになったらカップル成立というルールにしたんです。当日は本当に超満員でものすごく盛り上がって。ほかにもハロウィンのときには仮装して校舎を走り回ってお菓子を配ったり、そういうイベントごとでは率先して動いていましたね」


みんなが盛り上がって楽しめるなら、やらない理由はない。自分自身もそれが楽しいし、目立ちたいという思いも少なからずあったのかもしれない。そんな毎日が純粋に楽しく、気づけばあっという間に高校3年間は過ぎていた。


日々に全力で、将来についてはあまり考えていなかった。受験が近づいても、これといって学びたいものは見つからず、ひとまず学力的に入れそうな大学を選ぶことにした。


「大学に入って1週間くらいで、もう辞めようかなと悩んでいました。国公立志望の人たちが滑り止めで受けるような私立だったので、やっぱり周りがみんな優秀で。既に差がついているなかで、この分野で4年間一緒に勉強しても、さらに差が開くだけだなと、このフィールドで戦うのは違うなと感じたんです。かといって、いくつか入ったサークルも楽しかったのですが、将来につながる生産性があるかというとそうでもない気がして」


転機となったのは、一つの旅だった。時間を持て余していた頃、偶然Jリーグの応援席で知り合った同じ大学の先輩が、一緒にバックパッカーをやらないかと誘ってくれたのだ。海外には行ったことがなかったし、もともと人からの誘いは断らないタイプだ。その場で「行きたいです」と返事をし、連れて行ってもらえることになった。 


最低限の荷物だけバックパックに詰め込んで、飛行機に乗り込む。約3週間、インドとタイの各地を巡る旅だった。有名なガンジス川のあるバラナシやコルカタ、ほかにも治安の悪い地域にも進んで足を向けた。どうせ行くなら整然とした都市よりも、想像もつかない世界を体感してみたかった。


「本当にご飯なんて食べられないような地域にも行って、こんな世界があるんだなと衝撃を受けました。日本ってものすごく恵まれているなと思った一方で、ずっと日本にいるのは安全だけど、それはそれでもったいないなとも感じて。旅を通じて自分の思考や価値観が拡張して、知らないことを知る大切さを学びましたね」


バックパッカーとして旅したインドにて


旅の楽しさを知ってしまって以来、2か月に一度のペースで海外へ向かうようになった。1か月間、週7日でアルバイトして貯金をし、翌月には3週間ほどの旅を満喫する。インドとタイ以外にも、カンボジアやミャンマー、中国、香港、ラオスなど、アジア各国を訪れた。


「絶対にもっといろいろな国に行ってみた方がいいなと思ったんです。いろいろな地域を回って、いろいろ人種と出会う。その方が日本の良さも分かるし、反対に海外の魅力も実感できて。当時はお金がなかったので安く行ける国が中心でしたが、なんだかんだ1番ハマってしまったのはタイで、よく足を運びましたね」


「眠らない街」と言われる通り、街では夜中まで非日常を楽しめる。当時は今より物価が安かったこともあり、大学生でも気軽に遊ぶことができ、人のあたたかさも気に入っていた。


「ずっと一緒に旅をしていたメンバーが僕以外に2人いたのですが、あるとき3人でタイで飲みながら、『このまま卒業してもろくな就職はできなさそうだから、いっそのことチャレンジしよう』という話になって。当時タイでよく行っていたカジュアルなカフェアンドバーのような店を、日本でやってみようということになったんです」


旅を続けながら、具体的にどんな店にしようかと理想のイメージを語り合い、決めていく。そんな時間そのものが、まるで文化祭の延長のようで楽しかった。


「最初は『仲間が集まる秘密基地』のような空間にしたいよねと、コンセプトだけ決めて。帰国後、繁華街から少し外れた地下の物件を見つけて、半年後に名古屋でバーを立ち上げました。ここなら秘密基地っぽさがあっていいんじゃないかとか、開けてみないと中がどうなっているか分からないワクワクがあっていいよねと話していたのですが、実際は隠れすぎていて、お客さんが誰も来ないという状態でしたけどね(笑)」


店名は「セブンスヘブン」とした。地球上にある6大陸にそれぞれの天国があるとして、自分たちの店を7番目の天国にしようという思いを込めた。


人を楽しませ、笑顔を生み出す空間をつくること。やりたいことがない自分を変えたのは、行動と出会いだった。見知らぬ世界に飛び込むことで、初めて自分の情熱の方向が見えてきた。


名古屋でバーを立ち上げた頃、共同経営していた3人で



2-3. 継続性という価値


意気揚々と開店したものの、3人とも経営に関しては素人なので、全てが手探りだった。お客さんには世界のビールを77種類楽しんでもらおうと、輸入したビールを冷蔵庫に詰め込むと、それぞれ1本ずつ入れるだけで満杯になった。原価率や客単価といった数字感覚もなく、とりあえず学生の価値観で料金を決めていく。


今思えば、9坪にも満たない店内で利益が出るわけがない構造になっていたのだが、そんなことより自分たちの手でゼロから作り上げる高揚感に酔いしれていた。


「『セブンスヘブン』という店名にちなんで、7のつく日には生ビールを1杯7円とかで売っていたんです。意味が分からないですよね(笑)。お客さんはものすごく喜んでくれたのですが、売れれば売れるほど赤字というか、そもそも複雑な心境で。だから、最初の半年から1年くらいは趣味のようなものでしたね」


友人にも声をかけ来てもらうが、学生なので使ってもらえるお金はたかが知れている。家賃は安かったので店の売上で賄うことができたが、生活費はアルバイトで寝ずに働いてどうにかするしかなかった。途中からは共同経営から1人体制になり、体力的にもこのまま永遠に続けることはできないと実感した。


先の未来について悩んでいた頃、ちょうど東日本大震災が起きた。被災地の悲惨な現状についての報道を見ているうちに、何かしなければと体が動き出していた。


「復興支援のボランティアに行ったのは、震災が起きてから2~3日後くらいです。お客さんからトラックを借り、生活に必要な物資を募って2トン分の大きなトラックに載せて、自分で運転しながら目的地を決めずに東北へ向かったんですよ。困っている人がいるなら助けに行かない方がおかしいよなと思って、自分がもし被災した側だったら絶対に助けてほしいと思うはずだと。そのときシンプルに『困ったときに助けてもらえるような人でありたい』と思ったんですよ。本当に困ったときに助けの手を差し伸べてもらえるような自分であれるかどうかが、生きていくうえでは重要なテーマなのかなと思っていたんです」


どうせ行くなら1番困っている地域に行った方がいいだろうと、福島県いわき市に向かうことにした。福島第一原子力発電所から30km圏内にある同市では、緊急避難した住民たちが食べるものにも困っていると聞いたからだ。


道中はひび割れた道路や、昼間なのに誰もいない街など、異様な光景を目にした。物資を届けたあとは、市役所の4畳半の部屋に寝泊まりさせてもらい、1週間ほど現地の人に炊き出しを続けた。


被災した人の中には、ほんの数日前に津波で家族や住まい、あるいは会社を失ったという人も多くいた。それでも、「遠いところから来てくれてありがとう」と感謝や気遣いの言葉をかけてくれる。自分よりもはるかに大変な状況にあるはずなのに、支え合う人のあたたかさを実感し、胸を打たれるものがあった。


「その後も、店の経営をしながら月に一度くらいのペースでボランティアには行っていました。全財産を使って物資を運び、足りない分はブログを書いて義援金を集めたりしていたのですが、これは継続できるものではないなと当時思いましたね。それこそ孫正義さんは何億円と寄付をして、数千人分の住居を賄いましたという話を聞いたりすると、同じ人間なのにこれほどできることに差があるのかと思って。それは築き上げてきた影響力や信用力、資産だったりがあるからで、きちんと目の前のビジネスを成り立たせないと継続性のあることはできないんだと思ったんです」



情熱だけでは続けられないものがある。ボランティアは半年ほどで区切りをつけて、もう一度飲食店経営に本気で向き合うことにした。ちょうど厳しく鍛え上げてくれるコンサルタントにも出会い、退路を断って自分を追い込んだ結果、店は安定的に売上を上げられるようになった。


「お金もない、人脈もない、お酒を作ってもまずいと基本的に何もない状態だったので、コンテンツを作らなければ、どのバーと比べても勝てないと。そうなったとき、何が自分たちの武器になるかといえば『若さ』だと考えたんです。それこそ月に30~40件コンパをセッティングしたり、男女の出会いだけじゃなく、一人で旅行や単身赴任に来ている人と常連さんをつなげたり、ビジネスマッチングをしたりと、人と人が出会うハブのような交流の場にしたんですよ。行けば誰かに出会える、仲良くなれるという価値をつくって、僕たちの店を通じてどんどん輪が広がるようにしたんです」


ほかにも客足が少ない日には街に出て、男女を問わず道行く人に自分で声をかけていた。「1杯おごるので、良かったら来てくださいよ」と誘って仲良くなるということを繰り返せば、30分から1時間で店を満席にする自信があった。


3年ほどが経ち、経営も軌道に乗った頃には、そろそろ次のチャレンジに向けて動き出したいと考えていた。


「飲食店をやっていた頃は、仲間と集まる場所を作りたいという思いと、自分が好きなことを見つけたい、一生やっていけるビジネスを探したいという思いがありました。そのために、いろいろな情報を集め、経営者など人に会い話を聞きながら、模索したいなと思っていたんです。ただ、どれだけ話を聞いても、これといった答えは見つからなくて。結局やってみなければ分からないと思って、営業会社を立ち上げることにしました」


営業なら、商材さえ見つけてくればあとは売っていくだけでいい。まずは取り掛かりやすいビジネスから始めてみることにした。きちんと継続性のあるビジネスをつくるべく、飲食店は仲間に無償で譲渡し、自分の営業会社を立ち上げた。


答えが出ないなら、まず行動を起こしてみる。これまでの経験から、それが最も近道だろうと信じていた。




2-4. 存在意義のある事業


当初は太陽光発電の営業代行を中心に動いていたが、次第に需要に対して供給ペースが追いつかなくなり、発電所そのものをつくって販売する事業へと移行していった。参入を決めたのは、かつて震災の被害を目の当たりにし、自然エネルギーを普及させることへの社会的意義を感じていたからでもあった。


「正直ものすごく利益が出たんです。当時は完全に需要過多で、モノさえ作れば売れるという状況だったので。ただ、国の電力買い取り制度は年々単価が下がっていたので、いずれ限界は来るだろうなと思っていました。だから、参入と同時に、並行して違うビジネスも考えなければと意識していましたね」


先細りが見えている業界では、リスクも取りづらい。さらに当時は、事業の存在意義についても悩んでいた。


「一つは、うちじゃなくても太陽光の発電所はつくれるなら、そもそも自分たちである必要性はあるのかという疑問があって。もう一つは、発電所って基本的に田んぼや畑、山林を買って、木を伐採したり整地したりしてつくるので、自然を破壊している側面もあるんですよね。電力を賄うことはもちろん大切なのですが、一方で自然破壊を進めていることを果たして胸を張って社会貢献と言えるのか。そのあたりは、自分の中でもやもやしていたんです」


太陽光発電事業と並行し、介護福祉事業に参入したこともある。障がい者の就労支援施設やグループホームを複数運営し、安定的な利益も出ていたが、根本的な解決には至れないもどかしさなどがあり事業譲渡することにした。


自分たちがやる意味のある事業、なおかつ真に社会貢献性のある事業を模索しつづけていた当時、「消防設備点検」との出会いが一つの可能性を提示してくれた。


「2015年くらいに、偶然商材の一つとして防犯カメラを売っていたんです。その防犯カメラを設置していた下請けの電気工事会社さんが、消防設備の点検もされていたんですよ。そこで初めて消防点検という仕事が存在すること、建物には法律で定められた点検義務があるということを知ったんです。建物の安全性は震災のときにも重要だと実感していて、安定した収益性もありそうだということで、消防設備の点検事業に参入することにしたんです」



消防点検作業を行う職人を集め、現場へと派遣する。建物の安全を守るという重要な社会的使命を担い、事業としても意義がある。一方で、古くからの慣習が残る業界であり、現場はデジタル化が進んでいないことも分かった。


「まずは社内の効率化をしていこうと考えて、どこが効率化できるか探したときに、点検に際して報告書を必ず作るんです。それを職人さんたちは、現場からオフィスに戻り、いつも夕方から夜にかけて作成していたので、これは変えた方がいいなと思って。じゃあ、パソコンじゃなくてもアプリで報告書を作れるようにすれば、移動時間や現場に早く着いたときの待ち時間でも作業ができて、効率化につながるんじゃないか。そう考えて、アプリの開発に着手したんです」


無事にアプリは完成した。しかし、開発費は当初の想定をはるかに上回り、もはや自社の効率化だけでは投資を回収できないほどだった。それならいっそ、この仕組みを業界全体のために活かそうと考える。


ビルメンテナンス業界をより良く変えていく。そのためにビジネスへと変革していこうと舵を切り、2018年に株式会社スマテンを設立した。


「このビジネスを一生かけてやっていきたいと、心から思っています。当時、防災・消防点検という領域にテクノロジーを掛け合わせようと本気で挑戦している人は、ほとんどいませんでした。というより、やりたくてもできなかったと思うんです。職人さんは、先代から何十年と続いてきた会社を守らなければならない立場にあるので、リスクを負ってまで挑戦しづらい。一方で、テクノロジーに詳しい会社は、この業界をそもそも知らなかったり、現場の知識がない。ここに気づいてしまった自分がいるのであれば、やるしかないなと思いました」


自分たちだからこそできる事業で、社会に価値を還元していく。やる意味があると確信できるなら、迷う理由はない。利益と意義を両立させながら、社会の安心を支える仕組みをつくる挑戦は、ここから始まった。




3章 当たり前に感謝できる心


3-1. 私たちは支えられて生きている


震災のボランティアも、経営も、これまでの経験が教えてくれたのは、当たり前のものなど何一つ存在しないということだった。「諸行無常」という言葉があるように、昨日までの当たり前が、テクノロジーの発展などによって一晩で変わってしまうこともある。


そんな時代に、建物の法令点検がきちんと実施される社会をつくることには、安全・安心を守ること以上の意義があると都築は語る。


「もちろん、点検未実施をなくし建物を安全にすることは必要なのですが、それで終わらせるのではなく、『点検されている』という事実を通じて、たしかに自分たちはいろいろな人に支えられて生きている。そう思えるかどうかが、生き方としては大事だと思うんです」


仮に、明日からビルメンテナンスという仕事がなくなってしまうとしたら、どうだろう。エレベーターに乗るたびに落ちる危険を想像し、火災が起きても初期消火はなされず、一棟丸ごとの全焼が普通になる。見た目にも古い建物に入る瞬間は、毎回不安が頭をよぎるだろう。


今、私たちがどんな建物にも特に何も思わず出入りできている。それ自体、多くの人に支えられて初めて成り立つ「当たり前」なのだと分かる。


「僕は昔から、自分が優秀な能力を持っているわけではないと思っていたんですよ。だから今の会社もそうですが、基本的に優秀な人たちに支えられて生きているという前提を持っていて。大変なこともありましたが、仲間をはじめ、関わってくれたさまざまな人に助けてもらい、支えてもらってきたという感覚はずっとありますね」


支えられているのは、仕事だけではない。少し視野を広げれば、食事や生活用品、あらゆる商品やサービスもまた、多くの人や生き物のおかげで成り立っている。そうしたつながりを意識できることこそ、今後より一層大切になっていくのではないかと都築は考える。


「世の中が本当に便利になっていく反面、それが当たり前になってしまうと、どんどん感謝の気持ちが薄れていって、悪い方向に進んでしまうように思うんです。全てを当たり前と思わず、支えてもらってありがたいと、どれだけの人が思えるかで世界は変わると思っていて。テクノロジーが進化し、いろいろなものがAIに置き換えられていくなかで、本当に重要になるのは人間の心だと思うんです。だからこそ、『当たり前』に感謝できる生き方をしていきたいですし、そうして生きる人が少しでも増えるといいなと思っていますね」


世界は、見えない支えの上に成り立っている。当たり前に囲まれた日々のなかでも、感謝を見失わないこと。それこそが、いつの時代も必要な心の在り方なのかもしれない。




2025.11.18

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


AIやテクノロジーの進化が加速する時代にあっても、社会を支えるのは、人の思いと途切れない仕組みだ。消防設備点検のように、普段は意識されない「備え」が常に万全であることで、いざというとき人命が守られる。社会の安心を根底から支えるインフラとして、派手さはなくとも、そこには確かな責任と役割がある。


どれほど技術が進歩しても、「安心」や「信頼」は、地道な積み重ねの上にしか生まれない。だからこそ、その仕組みを維持し、より良く更新しつづける取り組みには、揺るがない社会的意義がある。


見えない支えを当たり前として終わらせず、その価値を問い直しながら社会に還元していく。スマテンが向き合っているのは、単なる効率化やDXではなく、「安心の構造」を未来へとつなぐ挑戦だ。


文・Focus On編集部



▼コラム|2025.11.19 公開予定

私のきっかけ ― 『論語と算盤』著:渋沢栄一

▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)

全ての建物に安全な安心を|起業家 都築啓一の人生に迫る



株式会社スマテン 都築啓一

代表取締役CEO

1990年生まれ。愛知県出身。大学中退後に飲食店を開業。2011年の東日本大震災の復興支援をきっかけに、太陽光発電の事業に参入し自然エネルギー普及に務める一方で、防災・消防業界に社会課題を感じるように。消防業界のアナログな部分をITの力でアップデートすべく、2018年に株式会社スマテンを設立、代表取締役CEO就任。

https://corp.sumaten.co/


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