目次

不動産取引の利便性・効率性・安全性を向上させる ― 社会インフラ企業への挑戦

自らチャンスを拾いに行くからこそ、景色が変わる。


取引の安全性を担保する社会のインフラとして、唯一無二のビジネスモデルを展開する株式会社エスクロー・エージェント・ジャパン。金融、不動産、建築、士業の4領域を横断する同社では、専門業務のBPaaS*ベンダーとして、専門性の高いBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)サービスとクラウドシステムによるサービスを提供。不動産取引における各種手続きや決済の非対面化・デジタル化・自動化を支援し、2014年には東証JASDAC(現 スタンダード)上場を果たしている(*BPaaS:ビーパース、業務プロセスをクラウドサービスを介して提供するアウトソーシングサービスのこと)


代表取締役の成宮正一郎は、大学卒業後、雪印乳業株式会社(現 雪印メグミルク株式会社)へ入社。司法書士事務所、不動産事務代行会社を経て、2007年に前身の株式会社マザーズエスクローへ入社したのち、2021年に代表取締役社長に就任した。同氏が語る「チャンスとの向き合い方」とは。






1章 エスクロー・エージェント・ジャパン


1-1. 「専門性×革新的サービス」で未来を支える社会インフラ企業へ


取引の安全を守るには、信頼できる中立的な第三者が必要だ。米国ではその役割を「エスクロー」と呼び、9割の不動産取引で使われるほど制度として確立されている。契約内容を確認し、代金を預かる役割などを担う専門職として、エスクローは社会に当たり前のように根付いている。


そんな米国のエスクローの概念や思想に倣いつつ、「いかに日本流のエスクローを実現するか」という問いが、同社の出発点になっていると成宮は語る。


「エスクロー・エージェント・ジャパンという社名には、『日本の中立的な専門家たち』という思いを込めています。日本にエスクローという業種はありませんが、米国のビジネスにヒントをもらい、日本の法律や商習慣にマッチさせるにはどう工夫すべきかを考えつづけてきました。不動産取引における利便性や生産性、安全性を担保する存在として、さまざまなサービスを提供しています」


士業をルーツとする同社では、知識や経験を必要とする高度な専門業務に特化したBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)を軸に、多様なソリューションを開発・提供してきた。現在はEAJグループとして、金融・不動産・建築・士業という領域の横断的サービスを実現し、住宅ローンや相続、不動産売買、住宅建築にかかる各種手続きまで事業を拡張している。


時代のニーズを的確に捉え、必要とされる事業として展開してきた同社の軌跡は、さまざまな社会変化とともにあるものだったという。


「今から20年ほど前、不動産登記法改正をきっかけに、弊社のベースとなる非対面サービスが生まれました。そこからインターネットが普及してからは、主に東京を拠点とするネット専業銀行のバックオフィス業務を支援するモデルをつくり、今ではネット専業銀行内のシェアが約9割に達しています。直近ではコロナ禍で、不動産取引を非対面化・キャッシュレス化するニーズが一気に高まり、事業を大きく伸ばすことができました。やはり大きな社会変化は、法律や商習慣、慣例が変わるタイミングですから、常にチャンスであると考えています」


2025年、同社はその中期経営計画において、新たに「『専門性×革新的サービス』で未来を支える社会インフラ企業へ」という長期ビジョンを掲げた。


「今後の展望としては、現在のBPOをもっと進化させること。つまり24時間365日、時間や場所の制約なく手続きができる環境を提供していきたいと考えています。そのためには、あらゆる領域で無人化、完全自動化を進めていかなければならないですし、専門業務サービスを提供するSaaS事業者のように業態を変革していく。同時に、人の手による事務はゼロにはならないと考えていますので、長年培ってきた強みを維持しながら、社会を下支えしていくことを目指しています」


手続きや決済が、確実に滞りなく終わること。それを当たり前の機能としてやりきる。EAJグループが提供する価値は、シンプルでありながら社会にとって不可欠だ。刻一刻と変化する社会の中で、今ないソリューションを創出しつづけていく同社の挑戦は終わらない。




2章 生き方


2-1. やりきること


生まれは福岡県で、高度経済成長期に建てられた団地の一角に住まいはあった。いわゆる団塊ジュニアに近い世代で、周囲には同世代の子どもがあふれていた。扉を開ければ、隣にも上下にも同級生がいる。ちょっとした茂みに秘密基地を作ったり、中央の大きな公園で遊んだり、大勢の仲間に囲まれ、にぎやかに過ごした子ども時代だったと成宮は振り返る。


「子どもの頃は、ほしいものをなかなか買ってもらえない家でしたね。隣の子と同じおもちゃがほしいと言っても『隣は隣です』と、よくあるじゃないですか。おそらくなんでもほしがるものを買い与えるのはよくないと、我慢をさせたかったんじゃないですかね。それ以降も、『目標があるならほかは我慢しなさい、やるなら本当にやりきりなさい』という教えは、母親から言われることが多かったかもしれません」


博多生まれ博多育ちの母は、いわゆる「博多の女」だった。芯が強く負けず嫌いで、弱音は吐かない。そんな母から見た息子は、ときどき何か突拍子もないことをする子どもだった。


「幼稚園に行って、体操着に着替えて遊んだりするじゃないですか。その時間に僕は何を思ったか、ぱっとロッカーの方に行って、自分だけ制服に着替えて幼稚園を出たんですよ。半日ぐらい家にも帰らず、大騒ぎになって。結局、近所で虫やザリガニを捕ってただ遊んでいたと。ほかにも小学校の授業参観でわざと全く違った答えを大声で言ったりして、母親によく怒られていました」


悪さをしたい、驚かせたいといった思いがあったわけではない。学校ではよく声を上げ、みんなを仕切ったりしていたが、今思えば、どこか「注目されたい」という願望の無意識の表れだったのかもしれない。当時は運動が苦手で体育で目立つようなことはなかったし、家では何でもそつなくこなす姉がいた。


「年子の姉がいて、どこかずっと中学、高校、大学まで、自分は姉より劣っているというコンプレックスはありましたね。姉は本当に何もやらかさないし、勉強もきちんとして、(もちろん本人は大変だったかもしれませんが、)絵に描いたようないい子だったんです。それに比べて当時の僕は、運動神経もよくないし背が低くて太り気味だった。運動会の徒競走では毎年最下位で、いいところを見せられない。自分は周りから劣っている、運動ができないんだという感覚があったことは記憶に残っています」


幼少期


小学校6年生からは父が仕事で転勤になり、家族で大阪へと引っ越した。当たり前ながら周囲は全員関西弁を話すなか、一人めずらしく博多弁を話す存在は目を引いたのだろう。転校早々、グループに屋上に呼び出されたりもしたが、なんだかんだその場にいた7人とは心が通じるようになり、いつしか一緒に遊ぶ仲間になっていた。


1年後、一緒に中学に進学する頃には、その面々に誘われたことがきっかけでラグビー部に入ることになる。


「ラグビー自体は特別興味もなかったのですが、仲の良かった7人が『俺たち全員ラグビー部に入るで』という話だったので、流れで自分も入ることにしたんです。それからは毎日地獄のような練習が始まって(笑)。当時は今ほどルールも整備されていないスポーツだったのでプレーも荒々しいし、先輩との上下関係は圧倒的に厳しいもので、とにかく走らされました」


元々走ることが苦手だったのに、練習は容赦ない。1年目は、ほぼ毎日「辞めたい」という思いが頭をよぎっていたが、仲間の存在もあり言い出すことはできなかった。


「一度『辞めようかな』と母親にこぼしたこともあるんです。そしたら『あぁ、またね』と言われたんですよね。博多弁で『やりきるということを知らんとね』と。まだ試合もろくに出ていないのに、ラグビーの何が分かったのかということを言われて。仕方なく続けていたら、なぜか2年生の途中になって、突然雲を抜けたように『ラグビーって面白いな』と思いはじめたんです」


気づけばその頃には身長も伸び、自然と体も痩せていた。以前と比べて格段に走れるようになり、それなりに試合にも出場するようになった。同期は馬が合う仲間たちだったので、彼らと肩を並べて勝利を追いかける楽しさを知り、さらに3年にもなれば先輩からの圧力もない。のびのびと純粋にラグビーを楽しめる、夢のような日々を送るようになっていた。


「当時大阪でラグビーの強豪校といえば、大阪市内に集中していたんです。そんななか僕たち郊外の市にある学校はラグビー部の数も少なかったから、大会でなめられるわけです。毎年先輩たちもトーナメントの初戦や2回戦で負けていたのですが、3年の春に顧問の先生が何を思ったのか市内のチームと練習試合を組んだんです。そしたら初めて戦う相手に勝つことができて、夏合宿の試合でも市内の強豪校に勝ったり、いい勝負をしたりして、僕たちはものすごく自信をつけたんですよね」


強豪相手でも臆することはなくなった。同時に、なぜ勝てたのかをチームで考えるようにもなった。自分たちの強みは何か、それをどう活かせばいいのか。そんな試行錯誤を重ねるほどに、自信は深まっていく。そうして臨んだ秋の大会は決勝まで勝ち進み、大阪2位という快挙を成し遂げた。


「やはり自信を持つことが大事だなと感じましたね。それもオールラウンドで幅広く自信を持つというより、どこが自分の強みか分かっているということ。土俵という言い方もできますが、自分の強みが遺憾なく発揮できるような戦い方に持っていく。あるいは、そういう場を選ぶということが大事なんだと痛感したのが、中学3年生の1年間でした」


その時初めて、「やりきること」の意味を理解できたのかもしれない。自信は生まれつきあるものではなく、やりきった経験からこそ得られる。仲間とともに掴んだ結果は、それを証明してくれていた。


中学時代、ラグビー部の仲間と



2-2. ラグビーは人生の縮図のように


高校でも引き続き部活に打ち込み、3年生の時にはキャプテンを任された。人を巻き込み動かしていく、いわゆるチームや組織のリーダーを務めるのは初めてだった。


当初は誇らしい気持ちだったが、すぐに壁にぶつかった。やるべき仕事は人より多いにもかかわらず、試合に負けたり何か問題が起きたりするたびに、キャプテンのせいだと責められる。振り返れば、当時はまだまだリーダーとして未熟だった。


「今もある意味『背中を見てついてこい』というタイプではあるかもしれません(笑)。ただ、当時の僕は、今と違って緻密な戦略もなく『テンション上げていこうぜ』くらいの感じだったんです。でも、それでは言語化できていないからチームもまとまりませんよね。なぜ自分と同じようにやってくれないのか、ついてきてくれないのかとばかり考えていて、結局1年間ずっと答えは分からないままでした」


最後の全国大会も予選負け。引退が決まった瞬間は、敗退した悔しさよりも、自分の役目が終わった安堵のような感覚の方が上回っていた。


全力でラグビーをする日々が終わり、ほっとしたのもつかの間、今度は大学受験について考えなければならなくなった。父親が言う一定のレベルを目指そうとするならば、明らかに勉強量が足りていない。一浪はやむを得ない状況のなか、当時精神的に支えてくれた先生がいた。


ほかの先生は「(ほかの大学を)受験だけでもしてはどうか」と勧めてくれるなか、その古典の先生だけは一言「一浪しろ」と言い切って、迷いや憂いのような余計な感情を断ち切ってくれた。


「『お前は今年受けるな、その代わり1年間必死にやれ』と、先生はいい意味で僕の心の中に踏み込んできて、『お前ならできる』と根拠も何も示さずに目で語られたんですよ。ここで踏ん張れなかったら人生変わってしまうぞと、そういう思いが伝わってきて。だからこそ、浪人の1年間は正月も大晦日もなく、1日12時間の勉強を365日続けることができた。今でも恩師だと思っていますね」



無事に合格した大学では、早々にラグビー部に勧誘され入部した。部員は高校までキャプテンを務めていた者など精鋭ばかりで、レギュラー争いは比べ物にならないほど激しい。特に成長期だった中学高校と違い、大学では学年による体格差も小さいため部員全員がライバルだった。


実力があれば試合に出られるし、足りなければ出られない。そんな競争にさらされながら、幸いにも入部直後の試合で活躍することができ、1年生ながら1軍として何度か試合に出場することができていた。


「当時入部を決めた理由の一つは、大学にスポーツ推薦がなかったことでした。自分のような公立高校出身も多く、チームもそこそこ強い。だから、自分にもやれると思ったんです。ところが翌年、2年生になったタイミングでスポーツ推薦制度が始まって、花園常連校でレギュラーをしていたような全国クラスが次々に入ってきた。1年目に天狗になっていた僕は、あっという間に下に抜かされて。結局その年は1試合も出られず、4軍でくすぶっていました」


3年目には、スポーツ推薦の人数もさらに増えていく。偶然だが、自分のポジションは2名の座を15人程度で競い合う激戦となった。なんとか努力を続けたが、3年の秋にようやく2軍の試合に出場することで精一杯。1年目の春以来、1軍に上がることはできていなかった。


そんな現実を、当時はどこか出身高校やキャリアの差のせいにして、正当化させていた。スポーツ推薦組は育ってきた環境が違う。だから、自分が試合に出られないのも仕方ない。そう思い込んでいたが、4年の秋、それらは単なる思い込みだったと知ることになる。


「僕と同じポジションで、同じ一浪の同級生がいたんです。あるとき彼は2軍の補欠として出場して、残り10分でものすごくいいタックルを決めたんですよ。ここぞというチャンスを彼はモノにした。そのプレーが監督の目に留まり、秋の公式戦は全て1軍のレギュラーですからね。そこで僕は、自分の中で作り上げていた『試合に出られない理屈』が打ち砕かれたんです」


おそらく自分にだって、いくらでもチャンスはあった。2軍の試合の出場数でいえば、彼より多かったかもしれない。それなのに理由をつけて「また次がある」と大切にできなかったのは、紛れもなく自分の弱さだった。


80分間の試合のうち、たとえ10分でも「どう爪痕を残せるか」を本気で考え尽くす。きっとその結果が1軍入りに繋がったのだろう。対して自分は、最後の最後まで2軍止まりのまま引退を迎えることになった。


「卒業する時に、自分のポジションの正規ジャージをもらえるんです。普通なら7番か6番になるのですが、僕はあえて補欠の番号である18番をくださいと言ったんですよ。大学ではレギュラーになれなかった、自分のせいだったのに周りや環境のせいにして片付けていた。それに対しての反省と後悔を刻むために、この番号を見たら思い出すだろうと。そして、社会人では決して同じようなことは繰り返すまいと誓ったんです」


結果は他人ではなく、自分の行動が原因となって表れる。弱さを自覚した大学4年間は、まさに人生の縮図のようでもあった。


環境や他人のせいにしないこと。それから、チャンスは品定めせずに掴みにいくこと。そんな姿勢は、仕事や人生の根幹として残るものだった。


大学時代、ラグビー部の仲間と



2-3. 逆境にこそチャンスが眠る


就職したあとは、ラグビーで言うなら「レギュラーを取る」気持ちで働こう。そう意気込んで社会に出たものの、明確にやりたいことがあったわけではなかった。


ちょうど時代は就職氷河期にさしかかり、新卒への門戸は狭かった。体育会のリクルーター制度を使えば、金融や不動産大手に比較的入りやすかったが、当時はそれらの業界で働くイメージも湧かず、メーカー中心に地道に選考を受けていた。


「電機から繊維、食品、飲料とあらゆるメーカーを受けて、おそらく50社ぐらいですかね。当時は大手に入ることができればいいかなと、あまり深くは考えていませんでした。結果的に雪印乳業(現 雪印メグミルク)から内定をもらい、入社を決めました。名だたる大企業でしたから、父親はものすごく喜んでくれたんですよね」


それまで学校ではあまり勉強せず、大学は一浪もして両親には心配をかけた。その分、無事に大手企業への就職が決まったという知らせは、何より喜ばしいものだったのだろう。


いわゆる昭和のサラリーマンとして仕事に邁進していた父は、昔から夜は遅くまで飲みの付き合いをしたり、土日はゴルフに出かけたりと忙しく、決して接点は多くなかった。一時は単身赴任をしていた時期もあり、仕事の話もほとんど聞いたことはなかったが、社会人になるにあたっては一つアドバイスを授けてくれた。


「社会人になる前に父親から、『頼まれた仕事を右から左にパスしてはいけない』という趣旨のことを言われたんです。つまり、一度受けた仕事は、自分の頭で考え付加価値を加えたうえで誰かに渡すか、もしくはお客様に伝えることまで考えなさいと。決してそのまま何も考えずに誰かに振ってはいけないんだと。ほかにもいろいろ言われたことはあったと思うのですが、この言葉が一番記憶に残っていますね」


新卒時代、住み込みで働いた牛乳販売店研修にて


入社して3か月間は、一斉に新入社員研修を受けた。いよいよ営業として現場へ立てるかと思いきや、まさにちょうど研修の最終日、雪印の集団食中毒事件が起こった。


「最初の仕事はお客様に謝りに行くことと、自社の商品を売り場から引き上げることでした。相手は新卒だからと甘く見てくれるわけもなく、そこから1年ほどはお詫び行脚が続きました」


会社は混乱に陥り、業績も一気に下降する。夢を抱いて入社してきた同期たちは次々と退職し、2~3か月後には数十名いた同期が半分ほどに減っていた。


「僕がそこで辞めなかったのは、やはり大学時代の経験があったからですね。すぐ逃げ出すのではなく、こういった機会だからこそチャンスがあるんじゃないかと自分に言い聞かせていました。入社時とは状況が変わってしまったから辞めるのではなく、こういうことが起きたからこそ会社はより良く変わるだろうと。その変化の過程ではきっとチャンスが生まれる、だから僕はここに身を置こうと考えて、すぐには辞めないことにしたんです」


どんな状況も、見方を変えればチャンスになる。逆境の中にこそ、自分を試し成長できる機会がある。社会人としてのキャリアは予期せぬ形でスタートしたが、目の前にあるチャンスをモノにしようと決めていた。




2-4. 走りながら武器を拾う


1年ほどが経ち、売り場にも商品が戻りはじめる。会社の体制もさまざまなことが変わり、新たなスタート地点に立ったかのように思えたが、今度は子会社で牛肉偽装事件が発生した。結局、二度目の不祥事が決定打となり、雪印はグループ全体が再編されていくことになった。


「収益力とブランドが強いチーズとバターの事業だけを本体に残し、あとの事業は全て関連する事業者に身売りされることになったんです。当時僕は飲料部門にいて、本体からお声がけもいただいていたのですが、もう2~3年ここでやってみたいと思って。飲料メーカー3社で事業を切り出して、合併する形で生まれた新会社に行くことにしました」


新会社へ行ってみたはいいものの、変革の機運が高まっていた以前の社風とは対照的に、社内はかなり保守的な雰囲気を感じた。急激な変化にギャップを感じてしまい、自分には合わないかもしれないと転職を考えはじめた。


「その頃は京都支店に配属されていたのですが、取引先の社長さんに相談したら、京都市内に『エスクロー』というサービスを扱おうとしている面白い司法書士がいると教えてもらったんです。一度話を聞きに行って人生相談したらどうだと勧められて、実際に話をしに行って。その場で『一緒にやろう』なんて言われると、当時24、5歳の僕はよく分からないまま気持ちが盛り上がって(笑)。1週間後には辞表を出していました」


日本で未開拓の事業があり、それを先駆者として広めることに携われる。自分にとって全く未知の領域ではあったが、一つのチャンスだと思えた。


「1社目での経験は、自分の武器になると思っていました。一つの輝かしい企業が急降下していって、解体されるまでの過程を中で経験した。そんなことおそらく手を挙げてもなかなかできないと。だからこそ、そこで培ったものは業種や職種に関係なく活かせる、次にチャレンジできるはずだと考えたんです」


現在にも繋がる「エスクロー」との出会いは偶然だった。それがどんなものであるか、日本と米国の制度はどんな風に違うのか、基礎的な知識や概念は転職先の司法書士の先生から学んだ。


それまでにない新しい理念であり、社会的にも意義があると思えていた。しかし、現実的には当然ながら司法書士事務所の経営が優先され、新しい事業にリソースを割くことが難しくなり、やむをえず当時は「エスクロー」という事業から離れる選択をした。


再び目指すべきものは分からなくなったが、ひとまず大阪の不動産事務代行会社に入社し、不動産手続きについて学びながら働くことにする。偶然は重なるもので、当時の代表が現在エスクロー・エージェント・ジャパンの会長を務める本間英明と知り合いだった。どうやら東京で新しく事業を立ち上げるにあたり、がむしゃらに働ける若者を探しているようだという話を聞いた時、迷わず手を挙げていた。


「とにかく今とは違う、よりチャレンジングな環境に身を置きたいという一心でした。当時は河川敷でラグビーをやるのか、国立競技場でやるのかという違いのようなものだとイメージして。ずっと河川敷でプレーしていたら、いつまで経っても誰にも見てもらえないし注目もされない。でも、身を置くフィールドを変えれば、見える景色も違うだろうし、関わる人たちも変わるし、見ていてくれる人も変わってくる。だから、東京で何をするか、どこに住むかなんてどうでもよかったんです」



「4日後に東京に来てほしい」という話だったので、早速荷物をまとめて東京へと引っ越した。身を置いたのは、エスクロー・エージェント・ジャパンの前身となる企業だった。


「当時オフィスは日比谷のペンシルビルに入っていて、最初に代表(現 会長)の本間に挨拶したことを覚えています。はじめは浦和にある銀行の業務センターで、抹消登記*のスペシャリストとして働く仕事からスタートしました(*住宅ローンの担保を消す登記のこと)


司法書士事務所に1年ほど在籍していたとはいえ、スペシャリストと呼ばれるほどの知見はなかったが、求められるまま必死にキャッチアップしながら働いた。1年半後には営業職へと異動し、以来、新規開拓や提案活動、事業開発などに奔走するようになる。


「チャンスはいつ来るか分からない、準備が整ってから動くのでは遅いということは、やはり過去の経験から刻まれていました。だから、営業として駆け出しの頃も、基本的に『走りながら武器を拾う』ということを座右の銘にしていましたね。分からなくてもまずはやってみる、話をしてみる、提案してみる。走りながら考え、完成度にかかわらず行動を続けるスタンスで、10年近く走り抜けてきました」


当時は、あらゆるリソースが足りていなかった。お客様のニーズに一つ一つ応えるべく、できる方法を探していく。そうして少しずつ事業を伸ばすうちに、気づけば組織は数人から数十、数百人にまで増えていた。


2021年、エスクロー・エージェント・ジャパンの代表取締役に就任。偶然にも「エスクロー」というサービスには、人生で二度携わることになり、縁を感じずにはいられなかった。


巡り合わせのように見える出来事も、走りつづけてきたからこそ繋がった今なのかもしれない。チャンスを待たず、選り好みせず、自ら拾いつづける。事業の拡張も、人生も、その延長線上にあるものだった。


本間会長(写真左)・太田取締役(写真右)と、社内イベントにて



3章 組織の価値観の今とこれから


3-1. 「段取り8分」とその先へ


1982年、エスクロー・エージェント・ジャパンの原点となる士業の合同事務所は設立された。以来、少しずつ培われてきた文化は、ときどきで形を変えながら、今なお企業の強固な土台となっている。しかし、次なるステージへ進むためには、新たな価値観も必要になると成宮は考える。


「社内ではよく『段取り8分』という言い方をするのですが、『お客様への提案や商談は段取りでほぼ8割が決まる』と考えて、これまで心掛けてきました。手堅く段取りをする。それ自体は一つのセオリーだと思いますし、お客様の機密情報を扱う以上、会社としても創意工夫より業務の正確性や厳格性を優先してきた側面があります。もちろんその基盤は守るべきですが、一方で掲げた長期ビジョンを実現していくためには、従来のやり方だけでは難しいとも考えているんです」


同社の中期経営計画が示す通り、向こう3年は今までにない変革が求められているという。


「機会やチャンスというものは、往々にして準備が整っていないときに訪れるんですよね。ふとすれば僕自身も準備に走ってしまうことがあるのですが、自分の中でときめくことや心が燃える瞬間があれば、まずアクションを起こした方がいい。日常の中でふといつもと違う思いが芽生えたなら、その感性を大事にしてほしい。そんなマインドを、社員にもぜひ大切にしてほしいんです」


チャンスを掴む行動力の源泉は、必ずしも立派な信念である必要はない。ささいな出来事でも、そこに自分なりの思いが芽生えたなら、できる範囲からすぐに行動に繋げてみる。その一歩が、今までにない仕組みやサービス、あるいは市場への挑戦へと広がっていく可能性を秘めている。


「逆に、経営側としては、よりアクションを起こしやすい環境を整えなければいけないと考えています。心理的安全性はもちろん、失敗を許容する文化を醸成する。年齢や役職に関係なく『こうしたらいいんじゃないか、面白そうだ』と感じたら、進んで発信して行動できる組織にしていきたいですね」


思いがあれば、まず行動してみる。小さなアクションがまだ見ぬチャンスに繋がり、自分自身を少しずつ変えていく。土壌を守りつつ、個の思いを起点とした行動が重なり合い、EAJグループは新たな未来を紡いでいく。




2025.10.30

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


チャンスは最初から形を持っているわけじゃない。それを誰かが「チャンスだ」と見定めた瞬間に、初めて輪郭を持つものだ。だからこそ、外から与えられるのを待っているだけでは掴めない。


中学で学んだ「やりきる」という行為は、努力の美徳というより、逆境の中で意味を見出すための第一歩だった。大学時代、環境のせいにしてチャンスを逃した経験は、「選ぶ前に動く」姿勢へと変わっていく。そして社会人になってからは、「走りながら武器を拾う」という行動哲学に昇華された。


結果ではなくプロセスの中に価値を見出していく。こうした見方は、個人にとどまらず、組織の在り方そのものにも通じているのかもしれない。時代の流れとともに変化する社会を見据えながら、必要とされるサービスの形を探求しつづける。そんな姿勢こそ、前例のない挑戦を下支えしていくのだろう。


文・Focus On編集部



▼コラム|2025.10.31 公開予定

私のきっかけ ― 『仮面の告白』著:三島由紀夫

▼YouTube動画(本取材の様子をダイジェストでご覧いただけます)

チャンスは品定めせず、まずは掴みに行こう|経営者 成宮正一郎の人生に迫る



株式会社エスクロー・エージェント・ジャパン 成宮正一郎

代表取締役社長

1977年生まれ。福岡県出身。大学卒業後、雪印乳業株式会社(現 雪印メグミルク株式会社)に入社した。司法書士事務所、不動産事務代行会社を経て、2007年に前身の株式会社マザーズエスクローへ入社、2021年に代表取締役社長に就任。

https://www.ea-j.jp/


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