すべての人生に限界はない ― 人類とAIの理想的な関係のために

限界に挑戦し、自分を越えていく。人生の意味がそこにある。


介入型人工知能「Corpy」の開発により、人とコンピュータの新しい関係を提示していく株式会社コーピー。東京大学やフランスの国立研究機関InriaのAI研究者が中心となり立ち上げられた同社は、メンバーの8割が修士卒以上である世界トップレベルの研究者集団である。マルチメディア(言語、画像、音声)、ウェブ(UI・UX 最適化、推薦)などの技術を用いたAIシステムの研究開発において先端を走る同社は、2018年7月、米半導体大手エヌビディアのAIスタートアップ支援プログラム「Inception Program」のパートナー企業にも認定されている。研究者としてWWWなど世界最高峰の国際会議にて論文発表を行う一方で、ビジネスとしては先端AIシステムの研究開発やAI技術の教育研修事業も展開する。同社代表取締役の山元浩平が語る「胸を張れる生き方」とは。



目次

1章 私の使命

  1-1.  プロフェッショナルと呼ばれる人たち

  1-2.  コンピュータと人間の関係


2章 生き方

  2-1.  天才の子は天才

  2-2.  勉強ができないー寿司職人でトップを目指す

  2-3.  ヘッドスピンができるようになりたい

  2-4.  早く起業したい

  2-5.  合格するための最短の勉強法

  2-6.  自分の能力の限界に挑戦する

  2-7.  THE大学生活

  2-8.  ミスター慶應 準グランプリ

  2-9.  就職活動の攻略法

  2-10.  内定辞退

  2-11.  シリコンバレーで見えたもの


3章 起業と世界レベルの研究

  3-1.  世界で最も困難な技術

  3-2.  研究実績

  3-3.  世界トップへの到達―フランスInria

  3-4.  世界トップへの到達方法


4章 世界のなかの日本の研究者

  4-1.  日本人はもっと世界で活躍できるはず

  4-2.  日本人が超えるべき壁

  4-3.  絶対に満足する人生の描き方


5章 ALSに寄せる願い―人生に限界はない―

  5-1.  研究者としての使命


編集後記



1章 私の使命


1-1. プロフェッショナルと呼ばれる人たち


世の中には、一流と呼ばれる人々がいる。誰よりもひたむきに努力を重ね、どんな環境でも結果を出す。自分を信じ、ついには誰にもたどり着けない領域へ。成すべきことに向かう、その思いには曇りがない。ものごころついたころから、そんなプロフェッショナルたちの背中に憧れ、ただただ追いかけてきた。


物理空間仮想空間を問わず、世の中のあらゆる非対称・非効率・不合理を最適化していくAI技術。たとえば、ガン検出等の医用画像認識システムや自動走行車用の画像認識システム、Web不正検知システムやWeb UI自動最適化システムなど、株式会社コーピーが研究開発する先端AIシステムは、人間の生活のあらゆる基盤に応用される。同社が展開するAI技術の教育研修事業「AI Dojo」では、2018年8月、文部科学省スーパーサイエンスハイスクール(SSH)指定校とも連携し、AI技術を活用した先進的な課題解決ができる人材の育成にも貢献している。


同社代表取締役の山元氏は、学生時代から起業を志し、大学卒業後はシリコンバレーのスタートアップにて開発者として働いた。世界で戦える専門技術領域をつくるべく、帰国後、東京大学大学院に入学。Yahoo! JAPAN研究所や、フランス国立研究機関であるInriaにて人工知能(AI)に関する共同研究に従事した。


Web・データマイニング分野で最難関とされる世界のトップカンファレンスInternational Conference on World Wide Web(通称WWW)での論文発表や、オンライン広告のクリック率予測の特許取得など実績を残したのち、株式会社コーピーを創業したのは2017年3月のことだった。


「大学院に入ったときに、正直言うと圧倒的な差がありました。でも、自分はほかの人と同じやり方はできないけど、自分のやり方やポリシー、自分のやるべきことを絞って、それを信じてやり抜くことができれば勝負できるなと思っていたんです」


自らが価値を見いだせる領域を見極め、自らの限界に挑戦しつづけてきた、山元氏の人生に迫る。


1-2. コンピュータと人間の関係


人間は機械に命令を与え、機械はそれに応える。産業革命以降に確立された人間と機械の関係性は、人工知能(AI)技術が発展しつつある現代においても変わってはいない。


たとえば、人間に対して機械が受け身でありつづけるのではなく、機械の側から人の五感の機微を理解し、新たな選択肢を提示してくれる未来。そこには、能動的な機械が人の命を救う可能性だってある。


長い歴史のなかで確立されてきた、人類と機械の関係性を追い求め、次なる段階へと進歩させていく。当初、山元氏が研究の道を志した際のモチベーションはそこにあったという。


「人間の感性をコンピュータに理解させたいし、僕もそのメカニズムを理解したい。そういうものの先にしか、コンピュータの理想的なユーザーエクスペリエンスはないと思っているので。コンピュータと人間の理想的な関係というのは、コンピュータに人間の感性をどうやって理解させていくかだと思っています」


日本とフランスの先端AI研究者たちが中心となり設立された株式会社コーピー。現在、同社が開発中である人工知能「Corpy」は、コンピュータと人間の新たな関係を提示する。イヤホンやピアスのようなデバイスから、「Corpy」はユーザーに対して最適な情報介入を行うのだ(特許の関係上、現時点では詳細は非公開とのこと)。


2019年以降の商用化を目指し、プロトタイプを鋭意製作中であるという同社。いままでの人間と機械の関係を超える、新しい理想的な体験を模索する。そこには、山元氏やコーピーが大切にする信念がある。


「僕自身の使命っていうのは、代替案を提示することだと思っているんです」


世の中には、現在のスタンダードといわれるものがある。けれど、スタンダードを享受するだけでは社会の進歩は止まってしまう。それに対して新しい、より理想的になる可能性がある代替案を常に提示していくことが重要であると山元氏は考える。


「たとえば、私たちのあらゆる体験はAI技術を用いてより良いものにできるはずです。それは、医療現場においても、自動車の運転においても、ショッピングにおいてもです。僕たちは、AI技術をあらゆる場面における体験をより良くするために使いたいと思っています。そして、その新しい体験という代替案を提示していくことが、僕たちの使命だと思っています」


正しいとされる常識がある一方で、誰かが思う別の未来がある。本当かどうかわからない。必ずしも世の中に受け入れられるとは限らない。ただ、それを提示してくことで拓ける未来があるはずだ。


当たり前として信じて疑われなくなり、いつしか進歩が止まっていたかもしれない領域に、一石を投じること。機械や人工知能の可能性を信じるコーピーが描く未来、それは人類に対し、常に新しい希望を提案しつづける。



2章 生き方


2-1.  天才の子は天才


転勤族だった父の影響で、日本各地を転々としながら育った山元氏。生まれは母の故郷である京都。そこから、東京、神奈川、愛知県の豊橋、山口県の下関と、小学校6年生になるまでに西から東まで移り住んだ。


次々と新しい環境に移っていくことが当たり前だった幼少期。振り返ってみれば、変わらずそばにいてくれた家族の存在は大きい。そこには感謝があり、リスペクトがあると山元氏は語る。


「自分自身は両親から影響を受けたところが一番多いかなと思いますね。ずっと一緒に生活して支えてくれて、リアルに育ててくれたのはお母さんで、僕の価値観を作ったのは、相当父親の影響が大きいと思います」


生命保険会社のサラリーマンとして働いていた父は、およそ3年ごとに日本中の支店をめぐっていた。新しい土地でゼロからスタートを切る。どんな支店に入っても自分の仕事を全うし、結果を残してきた父。誰よりもストイックに仕事と向き合い、トップへの道を駆け上がろうとしていた人だった。


父は仕事に厳しく、同時に子どもにも厳しい人だった。


中学からは父が単身赴任することとなり、母と1歳上の姉、東京での3人暮らしがはじまった。成績優秀な姉とは真逆で、あまり真面目に勉強はしてこなかった山元氏。勉強に関しては、特に厳しく言われてきた記憶がある。


中学以降、単身赴任で離れて暮らす父と会う機会は限られていたが、会うたびに怒られ、毎回のように家の外に出されていたという。


「何度か反抗したこともあるんですけど、圧倒的な権力者なので『OK、じゃあ出てけ』っていう感じで。会うのは基本的にゴールデンウィークとお盆と正月、それが1年に3回必ず来るイベントで、どうやってディフェンスするか、どうやって父親に対して自分の正当性を主張できるかを常に考えていたんですよ」


山口県下関の田舎で一クラス20人ほどだった小学校時代は、たいして勉強しなくてもそこそこ良い成績が取れていた。対して、東京の中学校に入学すると、平均レベルにまで成績が落ちた。


決して悪い成績ではない。しかし、その成績を見た父は激怒し、ゲームや漫画などの一切を没収してしまうほどだった。


厳しい教育を通じて、父にはトップを取ることの重要性を刷り込まれた。「何かでトップを取れ」という教育方針で、いつしか自然と山元氏も、トップになることへの意識が醸成されていた。


「半分冗談で、ではあると思いますが、父は自分のことを天才だとよく言っていたんですよ。『俺の息子ということはお前も天才だから、努力する限りは絶対にお前は何らかの分野でトップになれる』と言われてきたんです。それは僕にとっては結構良かったかもしれないですね」


転校するごとに異なるコミュニティに飛び込み、そのたびにゼロから自分のイメージを確立させていった。どんな環境でも、自分は努力すればトップになれるはずだ。トップになるためにはどうすればいいのか、そこへ至る道筋を考えるようになっていた。


どこまで意識していたかはわからない。


けれど当時、目立とうとしていたのはその影響かもしれない。小学校では進んでリーダー役などを担い、応援団の団長も務めた。『小学生クラス対抗30人31脚』に出場したときは、チームを代表するキャプテンとして、テレビのインタビューも受けていた。


「転勤族なので、ある意味強制的に、新しい環境には慣れないとやっていけないみたいなところはあったかもしれないですね。比較的活発で、友達はすぐ作れる方だったと思います」


仲良くなった友達と別れ、新しい土地へ。その時期が迫るたび寂しい気持ちになるものの、転校先の学校では、2日もあれば馴染むことができていた。知らない土地で、すでにあるコミュニティに入っていく。自分をどうアピールするか考え、そこで自分なりのポジションを確立していくことは昔から得意だった。


自分の存在をいかに確立していくか。いかにトップになるか。父から教え込まれたトップを志向するマインドは、山元氏の潜在意識へと刷り込まれていった。


2、3歳のころ。


2-2.  勉強ができないー寿司職人でトップを目指す


仕事においてトップであろうとしていた父は、結果を出すことに真剣に向き合っていた。それを子どもにも話し、背中を見せてくれていた。誰よりも努力を重ねる父の姿は、山元氏の印象に残っている。


それは、「プロフェッショナル」という言葉で形容されるものだった。そんな父の影響からか、昔から山元氏はプロフェッショナルな姿勢を持つ人に憧れを抱いてきた。


「将棋棋士の羽生善治さんや宇宙飛行士の若田光一さん、MIT教授で研究者の石井裕さんとかイチローもそうかもしれないですね。(もちろん能力的にも優れていたと思いますけど、)あらゆる環境のなかで自分自身のベストを尽くす。とにかく自分自身のベストを尽くすってことに対して強烈な責任をもっていて、人としてかっこいいと思っていたんです」


自分のやるべきことに対し、圧倒的なまでにプロフェッショナルであること。それを仕事として愚直にやりつづける。生命保険の営業として、どんな環境に行っても結果を出していた父。コンピュータ技術者であった祖父もまた、日本における金融系メインフレーム開発の黎明期に、プロとしてフロンティアに立つ人だった。


プロフェッショナルたちの背中を見て育った山元氏も、いつしか自分自身の人生で何を成していくべきか、一人のプロフェッショナルとしてどんな道を究めていくかを考えるようになっていくようになる。


学生としてであれば、勉強だろうかとはじめは考えた。


進学塾の参考書一式を目の前に並べられ、父から課題を課される。しかし、どうしても真面目にやる気がしない。仕方なく2年間ほどのあいだ、父から課される課題に対し、答えを丸写ししごまかしつづけていた。


「できないんですよ、勉強が。とりあえず面白くなかったのもそうですし、いわゆる授業を真面目に聞いて勉強して、みたいなことができない。それを習慣としてやってこなかったからできないのか、本当にできないのかはわからないんですけど。ノートを真面目に取ったことがほとんどなかったし、予習復習とかもやったことがなかったんです」


中学1年のときゲームや漫画を没収されて以来、学内ではほぼトップの成績を維持していた。しかし、あるときの全国模試での結果はC判定。「トップになれないのであればやめろ」。父から言われた言葉であった。


「『お前はたぶん勉強で生きていくのは無理だから、寿司職人になった方がいい』って言われたんですよ。たぶん父親は寿司職人という仕事自体はあんまり深く考えて言ったわけではないと思うんですけど、少なくとも勉強は無理だっていうことを伝えたくて。勉強は無理だけど、15歳で寿司業界に入って速攻修行はじめればトップになれるからと言われたんです」


トップを取れないのであればやる意味がない。勉強がダメであるなら、確かに父が言うように、寿司の世界であればまだトップをとれるかもしれない。一時は寿司職人の世界でプロフェッショナルになる道も真剣に考えていた。師匠に弟子入りし、皿洗いや出前を手伝いながら技を学ぶ。手に職つけて、いつか自分の店を持つのだろうかと思いをめぐらせた。


しかし、まだまだやってみたいことも出てくるだろう。学生という身分を捨てれば、これから経験できるであろう自分の興味関心の対象には無縁の人生となるかもしれない。まだ、自分がやりたいと一つに決められるものも見つかっていない。


プロフェッショナルとは、自らの本分に真摯に向き合うものである。寿司の道に入れば、それ以外の道へ脇目をふることもできないだろう。


そう考えた山元氏は、まだ見ぬ「やってみたいこと」のために高校へ進学する道を選んだ。


プロフェッショナルとして、どんなときも自分のベストを尽くし、責任を果たしていく。そんな生き方に憧れ、自分がプロとして生きる道を模索しつづけていた。



2-3.  ヘッドスピンができるようになりたい


全力を傾け挑戦することのできる領域を模索していた山元氏。中学時代はバスケットボール部に所属しており、そこでもトップを目指していた。


本気で頑張ればNBA*だって夢ではないかもしれない(*北米のプロバスケットボールリーグ)


練習に明け暮れるも、中学2年の秋、跳び箱から前宙した拍子に着地に失敗した。右足首の骨折。通常の治療では、手術で足にボルトを入れるところ、成長期には足の成長を阻害してしまうからと、半年ほどひたすら安静にして治すしかなかった。


ベッドから見える、固定された自分の足。足が回復したとして、果たしてこのままバスケットボールを続けられるだろうか。山元氏は悩んでいた。


「それで中2のほぼ終わりくらいになっちゃうわけじゃないですか。『高校に行ってバスケでトップ取れるかな、どうだろうな』と思って。でも、結局無理だなと思ったんですよ。足怪我してるし、どう考えてもそこからバスケでトップって無理じゃないですか。そのときほかにもいろいろ見ていたら、ダンスっていいなって思いはじめたんです」


偶然吉祥寺の駅前で目にしたダンスは、かっこよく惹かれるものがあった。当時、テレビで岡村隆史がブレイクダンスを披露しており、ダンスに注目が集まっていた時代でもあった。振り返ってみれば、通っていた中学校にはダンス部がなく、経験者は多くはなさそうだった。ダンスであれば、高校でトップレベルに行けるかもしれない。


そうとなれば、山元氏の切り替えは早い。怪我により夢絶たれたバスケットボールはあきらめ、ブレイクダンスの世界へ身を置くことにした。


「たぶんみんなそうなのかなって思ってるんですけど、ネガティブな感情って長続きしないですよね。10分ぐらいです。1日ネガティブでいつづけるとか、そういう経験はないですね。たぶんそういうことはできないと思います」


環境の変化には慣れている。悪い話にいつまでも悩んでも仕方がない。新しい環境では、新しい出会いが待っている。


特にやりたかったのはヘッドスピンであった。ダンス部の仲間もいないため、一人ダンスの練習をはじめた山元氏。高校時代は授業にも出ず、ひたすら一人、生物室の前でブレイクダンスの練習に励んだ。スクールなどに通っていたわけではない。自分なりにヘッドスピンを研究し、できるようになる練習方法を模索していた。


高校の文化祭で披露したブレイクダンス。


「当時YouTube なんてなかったので、本屋に置いてあった『ダンススタイル』というVHSを見て勉強しました。そのなかにヘッドスピンをやってるシーンが一瞬だけあって、それをずっと何回も何回も擦り切れるまで見つづけて『これがこうなってるから、こうだよなー』って言って、ひたすら一人で三点倒立からやりつづけたら、4、5か月ぐらいでできるようになったんです」


手本にしたのは、ほんの数秒間の映像だけ。自分なりにどうしたらそれができるか考え、練習法も一人で編み出し、体得したヘッドスピンだった。自分のできなかったことができるようになるという感動が、そこにはあった。


たった一人からはじめたダンス。高校1年のとき文化祭でブレイクダンスを披露すると、翌年には2、30人の入部希望者が殺到した。いつしか周囲には、たくさんの仲間が集まっていた。


ダンスを通じて自己を表現したり、難易度の高そうな技に挑戦していくことが楽しかった。自ら目標を立て、自ら道筋を描いて達成する、その過程と結果が楽しかった。そして、そこに人も集まる。


誰かが正解を教えてくれるわけではない。自分で研究し、練習していけばたどり着けるはずだ。自分らしいやり方で挑戦し、結果を残せたことが嬉しかった。


文化祭実行委員長を務めた。ステージ上から観客にダイブする山元氏。


2-4.  早く起業したい


自分らしいやり方でトップを目指したい。小学校のころから将来の夢を描いても、サラリーマンである自分の姿は想像ができなかった。それよりも、なんとなく起業に興味があった。


高校時代は、将来に向けて自分がやりたいと思えることを探していた山元氏。高校卒業後の進路も起業につながるよう考えていた。


「寿司職人もそうなんですけど、起業かどうかはわからないけど、サラリーマンにはならないかもなと少しずつ思っていて。高3のとき、孫さんの自伝の『志高く』を読んだときは、単純に人としてすごいなと思いましたね。(普通な気がして面白くないので)あまり言いたくないですけど」


当時の自分に何かビジョンがあったかはわからない。けれど、自分でビジネスをつくっていくことは面白そうだと思えた。いつかは起業したい。


高校卒業後の進路を選択するにあたっては、当初は文系として経営学部に行こうかと考えていたが、父から反対された。


「高3のときに経営学部を考えてると父に言ったら、『お前が経営学部に行くのは勝手だけど、俺は1円も出さないから勝手に行けよ』って言われて。まじかと思って。父は商学部を出ていて、文系ならではの苦労とか専門性を持つ理系の強みを理解していたみたいで、理系だったら学費を出してくれると言うので、まぁどっちにしろできないし関係ないか、と思って高3で理転したんです」


文系として、当時の花形職業の金融機関に入り、評価基準が理系に比べて不明瞭な文系職に、父なりに苦労もしたらしい。いずれにせよ、そこまで勉強していなかった山元氏にとっては、文理の選択はそこまで気にならず、理系を選択した。


志望大学は、京都の生まれだからという理由で、なんとなく京都大学を選んだ。


しかし、当時の成績は、学年で下から4番目くらい。京大どころかどこにも受かりそうにない。


「どこかに推薦で行けないかなと思って試しに学校の指定校推薦枠を見てみたら、僕の成績で行ける大学が一つもなかったですね。しかも全然惜しくないレベルでなかった(笑)」


高校3年の夏、受験を控え、さすがに勉強を始めなければならないと覚悟を決めた山元氏。頭を坊主にし、京都の山中にある祖母の家に1か月間こもることにした。


「正直ね、僕京都でずっと川で遊んでたんですよ(笑)。全然勉強やらなくて。最悪2週間くらいがんばれば、たぶん大丈夫だろうなと思っていたんですよ。自分のことをやればできるやつだと思っていたんです。おばあちゃんとおばさんはびっくりしたでしょうね。この子毎日無邪気に川で遊んでるけど、何しに来たんだっけって(笑)。たくましく真っ黒に日焼けして東京に戻りました」


覚悟を決めて、丸坊主にしても、勉強にとりかかることはなかった。参考書を開いては閉じる。どこか「自分はやればできる」という精神が、勉強の開始を遅らせていた。


努力すればトップになれるという父の教え。高校受験のときも、第一志望の私立高校が不合格となったが、そこから1週間で理科社会を勉強し、進学率の高い都立西高校に合格することができていた。本当にがんばれば何とかなると信じていた。


京都での1か月の「勉強」生活から戻り、11月に受けた京大模試では、700点満点中90点。350~400点という合格のボーダーラインにはほど遠い。成績は下から2番目で、偏差値は29だった。


さすがに危機を感じ、気持ちを入れ替え勉強をつづけたが、本番の試験でも京都大学へ合格することはなかった。


「落ちたときはやばいって思いましたけど、すぐに『これからどうしようかな』と、切り替えは早いですね。基本的に引きずることはないです」


不合格という事実は変わらない。そこから自分はどう動くか考える。


受験後、大学受験をあきらめて起業しようと考えていた。得意ではない勉強よりも、自分のビジネスを考えたり、実行したりすることに時間を使いたかった。しかし、母親に相談すると許してもらえず、仕方なく受験への意思を固めた。


目指す道が決まれば、迷うことはなかった。



2-5.  合格するための最短の勉強法


2度目の受験は心を入れ替え、真面目に勉強しようと考えていたと語る山元氏。やはり、切り替えてからは真っ直ぐに進む。


大手予備校の河合塾に入り、クラスの半分は東京大学に合格するような進学コースを選択した。当時の山元氏の成績では、当然ながら下から数えた方が早い。いままでの姿勢を反省した山元氏は、いわゆる王道の勉強のやり方を完璧に取り入れることにした。


「一回僕も反省したので、全く人生で初めてですよ。予備校に朝8時半ぐらいから自習室が開いてる夜9時ぐらいまで、予習復習みっちりやって授業を受けて、初めてノートもちゃんと取って。僕、本当自分自身に感動してて、めっちゃ真面目に勉強してたので、これは絶対受かると思ってやりつづけてたんです」


5月はじめの模試の結果は、偏差値63程度。王道の勉強法はさすがである。現役生がまだ伸びていない時期であり、実際より高めの成績になるとはいえ、MARCH程度には合格できそうな手ごたえがあった。希望が見えていた。


意気揚々と受けた夏の模試も自信があった。ここまでやれば必ずできるはずだ。けれど、結果は偏差値58。毎日朝から晩まで勉強していた。授業もサボらずすべて出た。予習復習も完璧であったにもかかわらず成績が下がっていた。絶望だった。


「何かの間違いかと思いましたね。あんだけやって偏差値5下がるって、来年3月には偏差値50以下になってんじゃないかと思いましたね(笑)」


万全を期しても結果がついてこない。いまのやり方をつづけても、望む結果へとたどり着けないことは明白だった。


「それでわかったというか、思い知らされたんですよね。ほかの人と同じやり方でやっても、僕は無理だなって。単純にやっぱり予習復習ノートとか無理なんですよ。授業でも言ってることが耳に入ってこないし、たぶんみんな小学校とかから授業を受けて、人の話を聞いてノートを取ってって、ちゃんとやってるんですよ。僕はやってないから、人の話が全く入ってこないんです。だから無理だと思って、次の日から授業全切りしたんです」


内容が頭に入ってこない授業に出つづけても、もはや成績は上がらない。そうであるならば、みんなと同じように学ぶことはあきらめよう。普通に授業から学んで学力をつけていく、そんな学習の仕方を一から身に付けている時間もない。


受験という戦いの折り返し地点、10月。季節は秋になっていた。


できるだけ薄い問題集を丸暗記しよう。やるべき範囲を限定し、過去問を解く以外の時間をすべてあてた。問題の答えを先に見ては、内容を追う日々。教科ごとに、一日1冊終わらせる。それを毎日繰り返して丸暗記する。


1か月間、自分なりのやり方で勉強した結果、11月の早慶オープン模試では山元氏の成績は志望学科でトップになっていた。その後の東大オープン模試でも、予備校から表彰されるほどの結果を残すことができた。



山元氏の試験問題の解き方はシンプルだった。難問は無視し、完璧に暗記してある簡単な問題だけを一瞬で回答していく。(勉強法を変える前は、難しい問題に時間を割き過ぎて逃していたが、本当は得点源になる問題が実はあったのかもしれない。)結果として、1か月という短期間で好成績をたたき出すことに成功していた。


「簡単な問題はぽんぽん解いていける。だから僕、本当に途中から楽しくなっちゃって、模試もめっちゃ成績良くなるし、めっちゃ簡単に解けるし。12月ぐらいから時間足りないな、もっとやりたいなと思って、朝5時半ぐらいの始発で自習室に行って、6時ぐらいから夜0時くらいの終電までずっと勉強していたんですよ」


最終的には、センター試験も簡単すぎると思えるほどだった。


問題集は薄ければ薄いほどよかったと山元氏は語る。試験に出てくる問題の大半は、どんなに薄くとも問題集1冊に納められている。領域を絞り、それを完全に丸暗記する。始発から終電まで机に向かい、受験日当日まで楽しく、熱中した。


センター試験の前日、本番に備え早く帰宅すると、緊張もあり眠れなくなっていた。普段終電まで勉強していたからなおさら夜に目が覚める。


仕方なく手に取ったのは睡眠改善剤のドリエル。一気に飲み込み、一瞬で眠りについた。逆に朝には、脳みその回転を鈍らせないように、コンビニで一番高い数千円の栄養ドリンクを奮発して飲んだ。


「これで完全に目が覚めるだろと思ってたけど、僕それで意識飛んで、英語の時間ずっと寝てたんですよね(笑)」


不覚の失敗もあったが、英語以外の科目ではおおむね好成績を収めることができた。


第一志望であった東京大学に合格することは叶わなかったが、慶應大学理工学部への入学が決まる(東京大学の不合格は、単純にその年の物理の試験が自分にとって難しく、物理の点が予定より低かったからダメだった。絞って勉強していたため、ある程度仕方ないことだと思うと山元氏は振り返る)。


世の中一般的なやり方でうまくいくこともある。しかし、それが必ずしも全員に当てはまるとは限らない。王道の手法論を踏襲する努力もいいかもしれないが、自分に合ったやり方を見つけ、それを信じぬく方が結果へ最短でつながることもある。


山元氏は浪人時代の受験勉強を通じ、自分らしいやり方の大切さを知ることとなった。



2-6.  自分の能力の限界に挑戦する


大学に入学し、念願かなって自らビジネスをつくることに専念できるようになった山元氏。


学内で活動していた起業サークル「インターネットビジネス研究会」に所属し、当時流行していたmixiのようなSNSサービスの企画など多くのビジネスに携わることができた。


収益はほとんど発生していなかったが、当時のメンバーには、ラクスルCTOを経て現在BitstarCTOを務める山下氏や、カンムCEOの八巻氏など、未来の経営者の卵が集まっていた刺激的な環境であった。ほかにも、現在RebaseのCTOである高畠氏らとビジネスサークルを立ち上げ、自らのビジネスアイディアを試したりもした。


「当時2005、6年ぐらいだったんですけど、『東大TNK』とか起業サークルの走りのころで。与沢翼さんとか保手濱彰人さんとか、若新雄純さんとか光井勇人さんとか、はあちゅうさんとか、僕も同じようなコミュニティにいました。当時は、いわゆる情報系やアフィリエイトみたいなことやったりしてて。まぁビジネスのおままごとみたいなもんなのですが、自分たちでWebサイト作って、そこにアフィリエイト貼って収益化するみたいな。大学1年のときはそればっかりやってて、大学もあんまり行ってなかったんです」


毎日パソコンと向き合い、アフィリエイトを仕込んだりSEO対策をしつづける。儲かるには儲かるが、時間のかかる作業であり、時給換算すればマクドナルドでアルバイトするよりも圧倒的に安かった。


なかには、成功を収めたビジネスアイディアもあった。情報商材を作り、「いまだけ半額かつ再販OK」で売り出した。買い手は一個でも再販で売れれば元が取れるから、飛ぶように売れていく。


どれだけ売れるか試してみよう。気軽な気持ちではじめたものではあったが、2週間で50万円ほどの売上になった。登録していたサイトの注目ランキングも1位になり、そこそこの成功といえる結果を得ることができた。


しかし、情報商材系のビジネスはすぐにすべて辞めることとなる。


大学1年の12月、きっかけは1件の取材依頼だった。


「『情報商材の成功者としてインタビューするので、ぜひ受けてください』って連絡が来て。それに対して、ピュアに載りたくないって思ったんです。それで有名になりたくもなかったし、人に言いたくもなかった。そのとき自分が胸張れないものでやりつづけるって無理だなと思ったんです」


昔からトップを取りたいという思いがあり、自分自身がベストを尽くしてやりぬける領域を探してきた。確かに、情報商材という領域では一定の成果を出すことができた。しかし、自分自身が胸を張れないもの、うしろめたいと思う選択はできないという事実があることにも気づくことができた。トップを取るにも、胸を張れないと意味がない。


かつて、授業をサボってブレイクダンスの練習に明け暮れた高校時代。ダンスを通じ、自分自身を表現することができていた。同じ道を歩む仲間はいなかったが、その選択には自信があった。人に胸を張ることができるものだったのだ。情報商材ビジネスは、自分にとってそうではなかった。


「とにかく自分自身が正々堂々と直球ど真ん中だと思える選択以外をしたくない。もし僕がそれをしたら、自分自身の人生に妥協したことになる。失敗とか、うまくいかないとか負けるとかはいいんですけど、自分自身が胸を張れないとか、うしろめたさを感じる選択はできないっていう思いがあったんですよね」


自分らしいやり方でやれば、何かはできると思っていた。自分を信じることができていた。でも、自分自身に嘘をついていたり、うしろめたさを感じてやったものに対してはそれができない。自分自身が胸を張れるものであるからこそ、信じてやり抜くことができると思えた。


ただビジネスをやる、起業するだけであれば、儲かるだけのビジネスでも良いはずだった。手にした少しの成功を延長線上で広げていくことだってできた。しかし、情報商材ビジネスで得られた成功は、山元氏の心が求めるものではなかった。自分自身が胸を張れない小さな成功を大きくしたとしても、どこまでいってもそれは空虚でしかなかった。



プロフェッショナルとして自身の成すべきことをやり抜くには、どんな領域を選択するのかがとても重要である。そのビジネスによって、他者に何をもたらすのかを山元氏は考えはじめていた。


何のための人生か。限られた人生のなかで自分は何を成すか。山元氏は、高校生のころから考えつづけてきた。とにかく、サラリーマンという選択ではないという思いから、早く起業をしたかった。しかし、ビジネスをはじめて少しの成功と呼べるものを手にしたときに気づくことができた。


起業するだけでいいとは言えない。胸を張れることをしていたい。


多くの人を幸せにするために生きたい。


そのためにはまず自分が幸せにならなければ難しそうだと考えた。自分を幸せにできなければ、誰かを幸せにすることは難しいかもしれない。何よりも、山元氏の幸せは「自分」に胸を張れることである。それは「誰か」に対して胸を張れることと表裏で意味を重ねるものでもあった。


自分を幸せにするということは、自分に嘘をつかず、胸を張れるものである。どんなときに自分は幸せになれるのか、自己の満足が最大化されるのかを考えた。


結論は、自分の能力の限界に挑戦していくことにあった。


「究極言うと、自分にしか興味がないんですよ。自分自身の能力の限界を超えていくことに興味があるというか、それ以外で自分自身が真の意味で満足を得ることはできない。自己満足を最大化させるためには、自分のなかで、いまの時点で難しそう、できなさそうなことをできるようにしていく、それによって自分の限界に挑戦していくことが一番大きな満足だったんです」


現在の自分からすると難しそうなテーマに挑み、限界に挑戦する。自分なりの方法を考え実行し、目標を達成する。ダンスでも、受験勉強でも経験してきたことだった。なおかつ、それは自分に胸を張れるものでなければならない。そこにこそ、山元氏の究極の満足があった。


簡単にできると思えるようなことはやる意味がない。多少の成功は残ったとしても、所詮自分のできる範囲でうまくやっただけに過ぎないからだ。


能力の限界に挑戦しつづけ、自己の満足を最大化させて幸せになる。それにより、自分だけでなく、他者をも幸せにすることだってできる。それこそが、自分に胸を張れることである。山元氏が起業の領域を選択する上での信念が、経験から生まれつつあった。



2-7.  THE大学生活


自分の生き方として人に胸を張れるもの、自分の限界に挑戦できるものを探していた山元氏。政治の世界を考えてみたこともある。起業を志し、流行りの情報系ビジネスで成功し、延長線上を行けば、それなりの売上を上げることができたかもしれない。しかし、その結果はそれ以上でもそれ以下でもなかった。


取材の依頼を断ってすぐ、大学1年の1月にインターネットビジネスは辞めた。山元氏は、まったく真逆の生活へと舵を切ろうとしていた。


「それまではビジネスしてばかりで大学にも行ってなくて。大学生らしいことを何もしてこなかったので、反動ですよね。次の年は一人暮らしするし、バイトもするし、サークル活動もする。自由にTHE大学生活を送ろうと思ったんです」


絵に描いたような大学生活を送ろうと決めた山元氏。厳しかった父は一人暮らしの費用を出してはくれなかったので、大学近くで一番安い家を探して借りた。家賃は2万2千円、風呂無しトイレ共同、築65年。壁を触ると、アスベストのような謎の粉が舞う。


日中は大学の授業を受け。夜はシティホテルのフロントのアルバイトで生活費を稼いだ。同時に、大学生らしい生活を全力で謳歌すべく、週1回の合コンを必ず自分に課した。


「合コンは夏ぐらいまでやったんですけど、知り合いも尽きてくるしお金も払わなくちゃいけないしで、どんどん毎週きつくなって意味がわからなくなってきて。最後は出家したような気持ちで、修行のように続けていたのでやめました。一人暮らしも、冬ぐらいに絶望的な寒さで死にそうになって終わって。その年の終わりに成績表が来て、良かった全部単位取ったと思って見てたら『原級』って書いてあったんです。『原級って何だっけ?』と思って。『原級』って留年のことだったんですよね(笑)」


授業にきちんと出て勉強し、単位も完璧に取れるはずだった。重要である必修の授業は問題ない。一方、残り1単位だった一般教養は、すべて成績評価がE。余裕をもって10単位以上の授業を取ったにもかかわらず、油断して体育の授業すら落としたための留年という結果だった。


自分が成すべきことを定めたら、全力を尽くす。大学生活を毎日フルで楽しむことを自分に誓った山元氏は、遊びも勉強も大学生らしいことはすべてやり抜こうと決めて、つらくともやり抜いた。


自分の生き方には妥協しない。中途半端なうしろめたい選択はできない。バイト、一人暮らし、サークル、合コン。蓋を開けてみれば、勢い余って留年するほど駆け抜けた1年だった。


THE大学生活を満喫していたころ、大道芸サークルにて。


2-8.  ミスター慶應 準グランプリ


留年。ふいに時間が空いてしまった。偶然友人から「ミスター慶應コンテスト」の存在を教えてもらったのは、そのころだった。


「僕が入学したときって、まだミスター慶應コンテストができてから1年か2年くらいしかやってなかったんですよ。だからそんなに知名度もなかったし、知らなかったんです。たまたま友達が『このアナウンサーの人、ミスター慶應らしいよ』って教えてくれて、そういうものがあるんだと知って、出ようと思って」


思い立ったら進むのは早い。大学1年でビジネスを経験した際、当時の自分の知識や技術、人脈では、できることに限界があると感じていた。将来の起業を見据えると、知名度やブランディングは身につけておくべき重要なものであるとも考えた。「ミスター慶應」になることができれば、その実績は将来有効に使えるかもしれない。


とはいえ、応募先が見つからなかったので、友人のつてで運営団体であるサークルに直接コンタクトを取った。


6人の出場者に選ばれるためには審査があるようだった。ライバルはみな、どこかの団体の推薦に支えられていた。山元氏のように、自薦で出場しようとする人はいない。出場者の6人に選ばれることは、絶望的だった。


しかし、やると決めたからには引き下がることはしない。ミスター慶應コンテストでトップにならなければならない。何とかして誰にも負けないほどの他薦を得られれば出場できるのではないかと考えた。


「他薦を究極まで強めるものって何かなと思ったときに、署名だなと思って。審査まで一週間くらいしかなかったので、早稲田とか横国とか各大学の大教室に行って、『大学違いますけど、ミスター慶應になりたいので僕を応援してもいいよという方がいたら署名してください』と声をかけまくったら、最終的に500人分くらいの署名が集まったんです」


正攻法で審査に勝ち抜くためには、時間が足りない。何が審査されるのかもわからない。それでも、圧倒的な数の他薦を集められれば審査を通るかもしれない。自分の道は自分のやり方で切り開く。


他大学から集まった謎の500人分の署名とラジカセを手に、頭にはウルトラマンの被り物。自分なりの万全の態勢を整え、出場者を選ぶ審査会場である渋谷のミヤマカフェに乗り込んだ。できる方法を考え、やれることはすべてやった。結果、なんとか審査に通ることができた。山元氏はミスター慶應コンテストの出場権を獲得した。


「審査員は最初あっけにとられてましたね。こいつ一体何もんなんだと。なんで署名500人分も集めてるんだと(笑)。そしてこの被り物は何だと(笑)。一般的なミスター慶應像とかけ離れていた僕を評価してくれたスタッフの方々には本当に感謝しています」


ミスター慶應候補として、コンテスト運営団体の広報誌に載った。


ここからはじまるのが、トップになるための闘いである。出場さえできてしまえば、いくらでも戦い方はある。戦えると思っていた。


山元氏の攻略法はこうだ。「ミスター慶應」という存在は偶像。だから、真面目に何かを語るよりも、フローに流れていく情報をあらゆるところで大量に発信した方がいい。


「普通に行ったら勝てないので、ブログとかも一日10回ぐらい死ぬほど更新しまくって。クレイジーですけどね。それも内容の無さが尋常じゃない。『ファミチキ食べたら、身長20センチ伸びた。』『さてと、ファミチキでも食べるとするか。』って(笑)。でも、記事上げることが重要なので」


できるだけコンセプトを込めずに投稿をつづける日々。偶然にも、当時女子大生ブロガーとして有名になっていたはあちゅう氏の目に留まった。「このブログが好き」と紹介されたことをきっかけに、アクセス数が1日で100倍以上に跳ね上がった。


勝つために人と同じ戦略はとらなかった山元氏。亜流の道では当然、批判にもさらされた。2ちゃんねる上で激しく叩かれるも、それに対しブログ上ですべてレスを返していると、逆にネット上で爆発的な人気が出たりもした。リア充を批判する「2ちゃんねらー」たちも、リア充を代表するかのようなミスター慶應に真面目に反応されると、嬉しかったようだった。


ほかにも「自分の特集を組んでください」と出版社をプレゼンして回ったり、謎の小説を書きはじめたり、雑誌や広告のモデルをやったり、イベントを開催したり、できうることは何でもやった。キャンパス内では、「ミスター慶應」と書かれたTシャツを着て歩いた。


「いろんな広報活動をしていたら、あるとき電通さんの目に止まったらしく、『コカコーラのWebのモデルをやりませんか』と言われました。『え、なんで僕なんですか?』と聞いたら、『いまどきのモデルさんってみんなかっこいいじゃないですか、山元さんは可もなく不可もなく、どこにでもいそうな感じが逆にいいです』と褒められてるのか貶されてるのかわからない理由でコカ・コーラのモデルをやったりもしました(笑)」


やれることはすべてやる。それらさまざまな広報活動のおかげもあり、最終的に山元氏は準グランプリの座を獲得することができた。後ろ盾は何もなかった(投票の半分くらいは2ちゃんねる票かもしれない)。


自分らしい戦略を考え実行することで、結果がついてきた。多くの人を巻き込み、熱狂を生み出すことができた。やりきると決めたのならば、できる方法を探せばいい。


「ミスター慶應」準グランプリを獲得した。


2-9.  就職活動の攻略法


ミスター慶應コンテストで実績をつくり、歴代のミスターと同様、アナウンサーになるべく就職活動に臨んだ。


30歳までに起業するという目標に向け、自分に足りない要素をどんな順番で、どう揃えていけば、自分が胸を張ってやりたいと思える起業を手にすることができるか。


一生アナウンサーをつづけるつもりはなかったが、知名度やブランディングを向上させるには良い機会となりそうだと考えていた。


準グランプリという実績がある。過去2年の出場者はいずれもアナウンサーになっていたので、自信はあった。しかし、結果はすべて書類審査や一次試験で不採用。話が違う。


特別アナウンサーに思い入れがあるわけでもなかったので、山元氏はほかの就職先を探しはじめた。


大学時代の専攻はエレクトロニクス。起業サークルに所属していたことから、ある程度インターネットビジネスやプログラミングの知識もあったが、コンピュータや技術に関連した仕事に就くという選択肢は山元氏にはなかった。


「もちろんパソコンの速度を早くする、より良いブラウザやアプリケーションを作るのはすごいことなんですけど、その前に世界には水が飲めない人がいて、食べ物が食べられない人がいて、それを見て見ぬふりをして、コンピュータの処理速度を上げていく。そこに対して、自分がやり抜けるかっていう思いがあって、それは無理だなと思ったんですよね」


広い世界を見渡して考えてみる。世界では、一年に800万人もの人が飢餓で命を落とすという。2011年に発生した9.11のテロでは、およそ3000人が亡くなった。アメリカ政府が3000人のためにかけた防衛費と同じだけのお金があれば、飢餓により亡くなる多くの人を救えたはずだが、現実の選択は違っていた。


自分に胸を張れる仕事は何であるか。


コンピュータ技術よりも、もっと根源的な人の命というもの。自分が難しそうだと感じる挑戦しがいのある領域であり、自分に対して嘘をつくことのない領域は、より多くの人の生活を支えるインフラにあるのではないか。自分が正々堂々胸を張って取り組める領域がそこにあると思えていた。


当時は、農業や水にかかわる分野で将来起業することを考え、建設機械やプラントなど、人の生活のインフラを整えるサービスを提供している企業に興味をもった山元氏。


候補となる建設機械やインフラの会社は5社ほどに絞られた。そうとなれば、自分に合う最短ルートを探すのが山元氏だ。就職活動の通例にならい、ESを書いて面接を受けに行っても受かるかはわからない。最終的な決裁権を握るのは、人事部長や役員だろうと考え直接のアプローチを試みた。


「セミナーとかもたくさんあったんですけど、結局決めるの人事部長とか役員だなと思っていたので、最初から人事部長に会いに行った方が早いなって思ったんですよ。それで会社に電話して、『人事部長紹介してください』って」


会ってほしいと電話したが、どこの会社でもまったく同じマニュアル対応で断られる。直接企業の受付に行くも、当然取り次いではもらえなかった。


「『人事の人を紹介してください』って言うとマニュアル対応されるとわかったので、『慶應義塾大学から来ました、人事部の方をお願いします』っていう風に言ったんです。そうするとアポイントがあるように見えて、人事部の方に繋いでもらえて、よくわからないけど一回呼んできてくださいってなるので」


直接自分をアピールする機会さえ得られれば、あとは自信があった。各社の建設機械についての情報をくまなく調べ尽くして丸暗記していたので、それについて自分がどういうことをやっていきたいか、いかに会社に貢献できるかを、自作のプレゼン資料を使って訴えた。


「『御社の機械について自分以上に詳しい就活生はいないので、僕を採用してください』と。それでだいたい人事部長に会って、決まりという感じですね」


無事に内々定を獲得。正規のルートではなくとも、自分が直球ど真ん中と信じる、最も自分をアピールできる方法を考えていた。


目的を達するための道筋は、人と同じである必要はないとわかっていた。



2-10.  内定辞退


内定者として入社を控えていたあるとき、テレビで目にしたものがあった。


盲目のピアニストである辻井伸行氏が、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した際のインタビュー映像を見たのだ。優勝者として、賞賛とカメラを向けられた辻井氏。インタビュアーは、「もし目が見えたら、何が見たいですか」と質問していた。


「『見たいものはたくさんあります。花火が見たいです、海も川も見てみたいです。でも、両親の顔が一番見てみたいです。ただ、いまは自分の心の目で見られているので満足しています。早く両親を安心させてあげたいです』と辻井さんは語っていて、なんか(自分と)違うなと思ったんです」


当時21歳であった辻井氏の姿は、自らの信じる道に胸を張って進むプロフェッショナルの姿だった。


人生をかけて成すべきことに情熱を傾け、誰よりも努力を重ね、盲目でありながらコンクール優勝を果たした辻井氏。対して自分はいま、ライフラインに恵まれず命の危険にさらされる人々を救いたいと言いながら、まずは大企業に就職しようとしている。


それは自分の思いなのだろうか。流されて辿り着いた場所ではないだろうか。


30歳までに起業。果たして自分がその年齢になったとき、辻井さんに対して胸を張っていられるか。内定先の企業に就職し、「僕はこういうことをやっています」と胸を張って言えるだろうかと考えさせられた。


「インターネット速度を早くしたりするよりも、まずはライフラインがない人たちのためにインフラを整えたい。聞こえはいいですけど、じゃあ僕がその先就職して8年間やるところで、どれだけの人が救えるかって考えたら、僕はそれ嘘だなって思っちゃったんですよね。もちろんいろんな人が救われると思うんですけど、自分自身のアプローチとしてそれを選ぶのは、自分らしくやりきれないなと思ったんです」


内定先の会社は素晴らしい会社であり、そこで働く人も素晴らしかった。しかし、辻井さんのように、自分に対して真剣に向き合っている人に対して、自分がその選択をして胸を張れるかどうか。その企業で働く30歳の自分を想像すると、答えは否だった。


自分に嘘をつくことはできなかった。30歳までに起業するという目標を考えると、大企業の昇進のスピードは合わないと感じたこともあり、内定は辞退した。


「やっぱり自分らしくやれてるかっていうところだと思うんですよね。就職活動にしろ、そのあとの就職にしろ、自分らしくやってるつもりではいても、本当にいろいろやっていくなかで『あれ、これ流されているだけだな』とか『これはちょっと自分自身の本当の思いとか、やりたいことに対してごまかしてるな』っていうのは感じてくるんですよね」


心のどこかにズレを感じていた。自分が純粋に信じ切れることでなければ、やり抜くことはできないとわかっていた。それは就職先の選択も、就職後の働く姿においても当てはまる。自分らしい正しいやり方でやり抜けないと感じたものに関しては、その判断にはうしろめたさが伴う。それは、山元氏の人生ではなかった。



2-11.  シリコンバレーで見えたもの


起業したいという思いはあったが、何をすればいいのかはわからなかった。具体的なビジネスアイディアはなく、技術もない。アナウンサーにもなっていないので知名度もない。道がわからないのであれば、実際に見てみるしかない。そう思い立った山元氏は、起業家の聖地・米国シリコンバレーへと向かった。


「世界のトップだといわれている場所がどうなっているのかを知らないと、ジャッジできないなと思って。でも、もちろん就職先があるわけじゃないので、向こうで働くところを探して。向こうのスタートアップとかでちょっと働いていたんです」


数多のスタートアップが生まれ、消えていくシリコンバレー。そこでは挫折もあった。


当時の山元氏は、プログラミング技術が圧倒的にできるわけではなく、英語での会話も3割ほどしか理解できなかった。彼らのなかでトップレベルを目指すためには、技術か口(言語)どちらかの領域で突き抜けるしかないと考えていたが、現実的にどちらも厳しそうだった。


「技術はもしかしたら行けるかもしれないって思ったんですよね。でも、少なくともこの延長線上にはないなっていうのがあって。だから、このまま仕事を続けていくこともできるんだけど、まずは自分の専門をつけて、それで世界のトップを目指そう。それが一番自分に足りていなくて、かつ一番チャレンジできることかなと思って、日本に帰ってきたんです」


やるなら全力で世界のトップを目指さなければ意味がない、父の教えのとおり、山元氏はプロフェッショナルとし自分が成すべき仕事を探していた。なおかつそれは、自分の能力の限界に挑戦するような、困難なものでなければならない。


帰国後は知り合いのウェディング会社を手伝いながら、起業を見据え、どんな領域でトップを目指すかを考えていた。背中を追いかけてきたプロフェッショナルたちのように、自分らしく歩む道を決める。限界に挑戦できる道。自分の心に嘘をついていないか、うしろめたくはないか、向き合いつづけるからこそ答えが得られる。


「当時、シリコンバレーに行ったときに感じました。技術を知らなくて、その世界を変えていくようなものを作れるかって言ったら、無理だなと思ったんです。自分が作れるっていうところまで行って初めて、真の意味でその世界がわかるし、その人たちに対してもチームとしてやっていけるんじゃないかと。それはなかなかハードではあったんですけど」


辿り着いた領域は、研究の世界であった。山元氏がそれまでまったく触れてこなかった世界。同時にそれは、自分にとって最も困難であり、挑戦しがいのある領域でもあることが明らかだった。


研究という道で自分なりの専門領域を究め、いずれ起業する。30歳で起業するという目標に向けて、山元氏の道は形を成しはじめていた。



3章 起業と世界レベルの研究


3-1.  世界で最も困難な技術


起業に向けて、勝負ができる専門領域をつくる。困難で挑戦しがいのある領域であり、人々に貢献する技術を世に生み出すことのできる「研究」という道。研究領域として最初に考えていたのは、ロボットだった。


テクノロジーの進化とは、人間の利便性の獲得である。そう考えると、人が究極に便利な状態が究極のテクノロジーであり、それはロボットが家事も仕事もすべて担ってくれることなのではないだろうかと考えた。


確かに、それは世界中の人類を救ってくれるものである。しかし、当時のロボットのハードウェア研究開発の現場を見ると、実用化まで時間のかかる要素技術に寄りがちな印象を受けていた。


「たとえば、洗濯物を綺麗にたたむとか、アクチュエーターをよりスムーズにするとか、すごく重要な技術だと思うんですけど、それを5年間やって起業はちょっと難しいかなと思ったんですよね。それよりも、より汎用性があるソフトウェアの方をやるべきかなと。ロボットを動かすにもWebにも工場のセンサーにも、あらゆる用途に使える人工知能、機械学習とか画像認識とか、そういうところから入っていったんです」


ソフトウェアの領域であれば、医療や流通をはじめ、すべての領域に適用できる。データからコンピュータに学習させていく技術そのものを抑えれば、高度な汎用性がある。現在だけでなく未来に向けて、広く世界中で活用されていくであろう技術であり、研究においてもビジネスにおいても進化の途上にある。それは、プロフェッショナルとして究めていく道として、ふさわしいものだと思えた。


2013年に東京大学大学院に入学し、26歳で研究の世界に入った山元氏。当時、最初にやりたかったのは「人間の感性をコンピュータに理解させること」だったという。


人間に寄り添い、支援する。真に人間の生活を便利にする人工知能は、言語だけでなく、人間が五感で感じ取る感覚の機微を理解できなければならないはずである。



「いまではマルチメディアデータ*を用いた学習やレコメンドは当たり前になっていますけど、当時はそんなことも全くなくて。たとえば、インターネットもそうですけど、ほとんどメタデータ**ですよね。言語を元にシステムが作られていて、それはわかりやすかった。もちろん人間も言語を通してコミュニケーションをしますけど、世界を認識するときは五感で認識しているので、ビジュアルとか音とか匂いとか、さまざまな状況から世界を認識しているわけですよね。だから、言語ベースだけじゃなくて、あらゆる情報をコンピュータが理解できないといけないと思ったんです(*文字の他に画像や動画などのさまざまな形態の情報を、コンピュータがデジタル化したデータを統合したもの。http://cns-guide.sfc.keio.ac.jp/2002/10/1/1.htmlより)(**あるデータが付随して持つそのデータ自身についての付加的なデータ。https://ja.wikipedia.org/?curid=109150より)


たとえば、YouTube上の動画からターゲット層となる年齢性別を推定したいとする。それまでの技術では、「ゲーム」や「メイク」など言語ベースで動画情報を判定し、ユーザー属性を推定、広告を表示していた。しかし、言語にした時点で抜け落ちた情報が多くある。そうであるならば、人の感性により近い「マルチメディアデータ」こそが、純粋なユーザー属性情報を持っているものといえる。


起業を見据えていたからこそ、山元氏にとってその技術はビジネスになることも重要だった。(いまでは改善されているが、)当時YouTubeのレポートによると、マネタイズできているYouTubeの動画広告は全体の14%ほど。実名登録制のFacebookが普及する以前は、ログイン情報というものが不正確だったことなどから、ほとんどテレビCM並みの広告効果にとどまっていた。


しかし、マルチメディアデータの活用により、動画が投稿されたその瞬間にどんなユーザーにウケるかが正確に予測できれば、動画広告のターゲティングに役立てることができる。その技術には商機があった。いまだ誰も触れぬ市場がそこに広がっていた。


研究を始めて1年半後、山元氏の研究は、推薦システム*における世界のトップカンファレンスで発表された。まさに人の生活を便利にするテクノロジーとして、社会が歓迎するものだった(*情報フィルタリング〔IF〕技法の一種で、特定ユーザーが興味を持つと思われる情報〔映画、音楽、本、ニュース、画像、ウェブページなど〕、すなわち「おすすめ」を提示するもの。レコメンダシステムとも呼ばれる。https://ja.wikipedia.org/?curid=1787429より)


いくつもの行動、そして自問自答の結果、たどり着いた究極のテーマ。人間の感性をコンピュータに理解させること。人工知能の領域。それは、世界中で最も困難な挑戦のうちの一つかもしれない。しかし、だからこそ挑戦しがいがある。山元氏は、テクノロジーの究極の理想を描き現実のものと変えていこうとしていた。


研究室のサーバー。


3-2.  研究実績


人工知能研究は、実データが無ければ学習ができない。当初は、年齢性別などを指定すると過去24時間の視聴ランキングを抽出することができる「YouTube Trends Map」というWebサイトをひたすらクローリングをして、データを集めていた。


研究をより前へと進めるためには、より正確なデータが必要である。Yahoo! JAPAN研究所でのインターンが決まったのは、大学院2年目の夏のことだった。


マルチメディアデータの研究から、ディスプレイ広告のクリック率予測技術の研究に従事した山元氏。従来の技術では、一度も表示されたことがない広告や新規ユーザーについては、クリック率を予測が難しかった。山元氏が研究開発したのは、マルチメディアデータからターゲット層を割り出す技術の応用により、その予測を可能にするものだった。


「広告のクリック率って、元々1パーセント行くか行かないかみたいな話なんですが、YahooとかになるとPVも膨大ですよね。1パーセントが1.1パーセントに変わるだけで、売上ってものすごく変わってきちゃうんですよね。なので、いままで予測できなかった新しい広告のクリック率を予測できるだけで売上としてのインパクトはかなり大きくて」


研究をビジネスにつなげ、ビジネスとしても大きな意味をもたらすことに成功した山元氏。人と違うアプローチから自分なりの方法を考えることは得意だった。それは、人類が不可能だと思うことを可能にする力なのかもしれない。


※注釈
従来、文章しか予測材料にされていなかったのは、画像データは重いため計算コストが大きくなってしまうためだった。それらを高速で処理し、Webのレイテンシ*が重要な領域でも使えるよう、うまく工夫することでやり方を考えたという
(*デバイスに対してデータ転送などを要求してから、その結果が返送されるまでの不顕性の高い遅延時間のこと。https://ja.wikipedia.org/?curid=1025967より)


3か月のインターンで技術は特許を取得し、Yahooと東大での共同研究という形に至った。ほかにも、Yahoo!ニュースのモバイル対応のために記事のヘッドラインやサムネイル生成を自動化するシステムなどを開発した。


Web・データマイニング分野で最難関とされるトップカンファレンスInternational Conference on World Wide Web(通称WWW) などで研究論文発表を行い、さまざまな実績をつくった。起業に向けて足場を固めたい。研究をビジネスへとつなぎ、社会へつなぐ実績と実感を重ねながら、2016年の夏ころまでは研究に明け暮れていた。


2016年から山元氏が研究に従事していた、フランスの国立研究機関Inria。


3-3.  世界トップへの到達―フランスInria


当時はまだ世界最先端でできる自信はなかったと語る山元氏。トップカンファレンスWWWなどでの発表や、世界最高峰の研究所であるフランス国立研究機関Inriaでの共同研究などを経ていくなかで得られたものは大きかった。


フランスに渡り、Inriaでの研究を開始したとき、研究チームのなかで日本人は自分ただ一人だった。海外経験が豊富なわけでもない。それでも、なんとか自らの道を切り開き世界トップレベルといえる自信を重ねることができた。将来の起業に向け、自分に足りない知識や実績、知名度などを積み上げていった山元氏。


「もちろん技術で世界のトップってわけではないですけど、ただもう自分自身がそれを実現する側として、社会に落とし出していく、自分が作って行くことはできるなって自信はついたというところですね。なんだかんだ言って、フランスはかなり大きかったと思います」


フランスでの研究生活は、実績や自信以外にも、時間を手にすることができていた。東大やYahooでの研究中は進捗を報告しなければならず、時間に追われる側面があったが、フランスでは、研究者も9時17時で家に帰る。起業に向けて、整理し考えることができた。


世界のトップレベルで人類を救うビジネスの準備は整った。


「フランスから帰った次の日に休学届をだして、起業しました。創業した日は、僕の30歳の誕生日でした。準備は整ったかなという感じでしたね」


目前に迫っていた、30歳での起業という目標。2017年3月6日、株式会社コーピーは設立された。社名は、大学時代に自分をブランディングするため、「浩平(こうへい)」という名前をもじってつけたあだ名「コーピー」に由来する。


世界トップレベルの技術に触れ、研究の世界で尊敬できる先人たちと出会ってきた。彼らプロフェッショナルたちが見ている世界を垣間見て、自分でもできるという感触を得ることができた。そして、それらを社会へ実装できる。自らの限界に挑戦できる領域で、自分らしいやり方で勝負する。走り出す用意はできていた。



3-4.  世界トップへの到達方法


26歳で研究の道に入ったとき、それまでとは真逆の道を選んだ山元氏。高校も大学も、数学どころかほとんどの教科を真面目に勉強してこなかった。一方で、周囲にいる修士や博士の研究者たちは、灘や開成といった進学校から東京大学に入り、コンピュータやテクノロジーの世界に向き合いつづけてきた人ばかりだった。


「大学院に入ったときに、正直言うと圧倒的な差がありました。でも、そのときやっぱり受験勉強と同じだったかなと思います。自分はほかの人と同じやり方はできないけど、自分のやり方や『人の感性をコンピュータに理解させる』というポリシー、自分のやるべきことに絞ってやれば勝負できるなと思っていたんです」


1冊の参考書を丸暗記し、試験に臨んだ大学受験と同じように、領域を絞り自分らしいやり方で勝負すれば勝つことができる。まったく同じやり方というわけではなかったが、実際に世界のトップカンファレンスや世界最高峰の研究所に行くことができた。そんな自分の姿は、夢にも思い描いてこなかった。


人生の選択肢は無数にある。寿司職人になること、アナウンサー、日本の大手企業への就職、シリコンバレーでのインターン、起業。自分自身がプロフェッショナルとしてベストを尽くす領域を選ぶとき、山元氏が大切にしてきたことがある。


「(自分が日々培っているものとか、そういったものも影響していると思うんですけど、)それに取り組むってことに対して、全身全霊でやり抜くことに価値を見出せるかどうか。見出せるのであれば取り組めるし、見出せないんだったら、うしろめたさを感じながらやることはできないです」


山元氏にとって価値を見い出せること。それは、自分の限界に挑戦できることだった。一度きりの人生、圧倒的に困難な挑戦であるからこそ挑む価値がある。自分自身がやり抜くことができる。


その壁に立ち向かうとき、自らを信じ、自らのやり方を信じぬくことができるかどうか。その答えは、心に聞いてみるしかない。


ほかでもない自身の心の声に導かれ、山元氏の思いは「起業」という形になり結実した。



4章 世界のなかの日本の研究者


4-1.  日本人はもっと世界で活躍できるはず


20歳まで世界へ出たことがなかった。しかし、自分が見据える先は「人類」という枠組みである。そうであるならば、もちろん日本だけでやっても面白くないと思っていたと語る山元氏。世界に行けば行くほど、世界に対する意識は強く感じるようになっていた。


「やっぱりそこは、正直に言ってコンプレックスを感じる部分があると思うんですよね。日本人がコンプレックスを感じているというか、欧米に対してコンプレックスを感じているところもあるし、そういうマインドで育ってるので。でも、それを超えていくっていうところに面白みを感じています」


日本以外の土地での研究経験を通じて、わかったことがある。それは、日本人や東大の研究者たちは、とても優秀だということである。たとえば、日本人はやる量が桁違いだ。朝から晩まで、食事のときでさえ研究の話ばかりしている。幅広い知識があり、実装から研究論文の執筆まで一人でできる。


一方、海外では分業が進んでいる。自分の領域についてはとても詳しいが、ほかの領域はわからないという場合もある。


「(もちろん僕がいたところしか知らないのですけど、)それが生産性の高さなんです。分業がかなり切り分けられてるというところで、一人がカバーする領域が少ないので生産性は高くなるんですけど、勤勉さでいうと圧倒的に日本人は勤勉だと思います」


幅広い知識と、圧倒的な知的体力。技術があり能力があるにもかかわらず、世界的にはプレゼンスが低い。


それは、評価されるポイントが、国際会議できちんと発表しているかどうかにあるからだという。日本人が圧倒的にできていないことであり、山元氏自身、それこそが越えていきたいと考えている壁でもある。


日本人は、もっと世界で戦えるはずである。新たなる価値を発揮し、影響力をもつことができる。そう山元氏は信じている。世界の研究機関や国際会議の場を踏んできたからこそ持てた確信だった。



4-2.  日本人が超えるべき壁


日本人が立ち向かわなければならないもの、それは多様性の壁であると山元氏は考える。島国であることや歴史的背景もあるが、どうしても積極的に多様性を受け入れることが苦手な国民性がある。


日本とフランスの研究環境を比べると、以前から海外の研究コミュニティで話を聞いていた通りの環境があった。フランスではすべてが「awesome!(最高だね!、それいいね!などの意味をもつ英語のスラング)」で迎えられる。上司や部下といった関係を越え、それまでと異なる新しい意見やアイディアはまず歓迎され、そこから詳細の議論に移っていく。対して日本は、秩序を乱すものには批判的であり、排他的な面も生じうる。


「日本人はそういう多様性の中でベストを探っていく、多様性を受け入れるっていう経験がなさすぎて、そこに対する恐怖感もあるんだけど、そこを越えていくことができれば、日本人はもっと価値を提供できていくはずだと思っています」


世界に名だたる大手企業であっても、日本では役員が全員日本人であることは珍しくない。海外では、国内の企業だから役員も全員自国の人から選ぶという発想は存在しない。何人であるかは重要ではないのだ。


「そこは大変なんですけど、積極的に多様性を受け入れていくっていうことをやっていかないと結構厳しいかなとも思ってます。組織づくりにおいても、本当にグローバルに打って出ようとするなら、(たとえ日本語がしゃべれなくても)役員に外国人を入れていくことになるんじゃないかと」


世界のなかで、ポテンシャルを出し切れていない日本人。恐怖に打ち勝ち、多様性を受容すること。多様性のなかで価値を出していくやり方に慣れること。そうすれば、もっともっと日本人は価値を出せるはずである。


パリ第6大学にて研究発表を行う山元氏。


4-3.  絶対に満足する人生の描き方


幸せのあり方が多様化し、敷かれたレールに乗った人生を歩んだとしても、必ずしも満足のいく人生が手に入るとは限らない現代。そんな時代を生きる私たちに、山元氏は一つの生き方を提示してくれる。


「一番重要なのは、自己の満足は何なのかに向き合うというところですよね。自己が満足することに対して向き合わなければ、絶対に満足する人生はないと思っています」


自己の満足はどこにあるのか見極めること。もしあるのなら、そこに対して妥協しないこと。なぜなら、人はうしろめたさを感じながらやり抜くことはできないし、自分に嘘をつきとおすことはできない。


「宇宙飛行士の若田光一さんも言っていたんですけど、彼は宇宙飛行士っていう世界に入って、もちろん彼自身が才能があるとは思わなかった、向いているかわからなかったらしいんですけど、ただ彼自身は『いくらでも人をだますことはできるけど、自分自身をだますことできない。そこに対しては、ひたすら向き合ってやってきた自信がある』ということを言ってたんですね。それが彼のプロフェッショナルと責任感なんだと感じています」


何が正しいと思うのか、何が満足なのかは、自分が自分で決めることである。たとえ人と違っていたとしても、そこに対して自分が真剣に考え、自分の満足がそこにあるのであれば、真剣に取り組んでいく価値がある。絶対に抜きんでることができる。逆に、うしろめたさを感じているのならば幸せへの到達は遠ざかるかもしれない。


目の前に立ちふさがる壁に圧倒されるとき、恐怖を感じることもある。何かの道に入ることや、起業するという決断。成否を決するのは、自分のやり方を信じぬくことができるかどうかにかかっている。


山元氏自身、20代では道筋を探し求めながら、専門性を獲得していった。自らに足りないものを少しずつ集めてきた。29歳でフランスの地を踏んだときも、すべてがきれいに整っている状態であったわけではなかった。それでも、自分自身が考えるベストを信じぬくことで道を開いてきた。


「よく言われることですけど、ベストを探していく作業より、自分の選んで行く道をベストに近づけていくことが大事だなと思いますね」


これまでの人生で見てきた世界。『こういうやり方がいい』と信じられるものであれば、そのやり方で自分のベストに近づけていく。誰にとっても、正解が道端に転がっていることはあり得ない。満足のいく人生の歩み方、その方法は、自己と向き合うことで初めて見えてくる。



5章 ALSに寄せる願い―人生に限界はない―


5-1.  研究者としての使命


ビジネスとアカデミアの境界を歩む者として、山元氏には人生をかけて成すべきことと定めるものがある。


「教育と医療に関しては、本当にビジネスにできなかったとしてもやりたいなと思っているんです」


ビジネスマンだけでなく中高生も対象に、AI技術の教育研修を行う事業「AI Dojo」。そして、医用画像処理の技術を用いてCTやMRIなどの医用画像から精度良く病変の検出を行うシステムの研究開発。人工知能研究という領域に軸足を置きながら、さまざまなアプローチで人類への貢献を模索する山元氏。


「AI Dojo for Youth」にて、中高生に向けてAI技術の教育研修を行う山元氏。


何より原動力となっているのは、難病に指定される病「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」と闘う友人・武藤将胤(まさたね)氏の存在が大きい。


体を動かす運動ニューロン(神経系)が変性し壊れていくことで、手や足、呼吸器に至るまで徐々に運動機能が失われていくその病気は、現代においても、いまだ原因はおろか有効な治療法も解明されていない。


ALS患者は、手足の麻痺などの運動障害からはじまり、病が進行すると、声を発することや呼吸すら難しくなっていく。かゆみや痛みといった体の感覚、そして意識や思考はそのままであるにもかかわらず、体だけが徐々に動かなくなる。意識があるのに意志を伝えることができなくなる恐怖。昨日までできたことが明日もできるとは限らない。彼らは、自らの命の意味と闘っている。


発症してからの平均的な余命は3~5年だという。診断から4年以上が経過している武藤氏は、闘病をつづけるかたわら「WITH ALS」という一つの団体を立ち上げた。


「彼の活動の目的は、世の中のALSに対する認知を広めて、『セリカ基金*』とかに募金を集めてもらうことであったり、難病を患う患者やその家族、非患者のQOL(Quality of Life)の向上に貢献することです(*2050年までにALSの治療方法を見つけるための研究開発費を集める活動。https://landing-page.koyamachuya.com/serikafund/#fundより)


世界に35万人、日本には1万人いるといわれているALS患者。その病気の謎を解明する研究は、人工知能技術をもってしても簡単ではない。しかし、未来ではゲノムなど人間の身体に関するあらゆる情報がデータ化され解析できるようになっていくことで、少しずつ原因がわかってくるはずであると山元氏は信じて疑わない。


「人の命を救える、それってすごいことじゃないですか。この技術があれば亡くなった命を救えたかもしれないとか、研究者も自分の研究がそういうリアルな体験と結びつくと、自分の技術が社会に対して貢献できるというところをより実感できると思うんです」


「全ての人の人生にきっと限界はない」。武藤氏はその生き様を通じ、強く社会や私たちにメッセージを訴えかけてくれている。その存在は、山元氏が研究や事業に向かう思いを強くしてきた。


「技術に携わっている者の使命として、解決できるはずのこと、やればできることをやらなくちゃいけないなと思います」


研究は人々の生活を便利にするのみならず、誰かの命を救うことができる。そこに研究者の価値がある。技術を社会のために、人類のために使える喜びがある。それはまた、誰かの人生の満足につながっていく。


ほかの誰でもない自分がやるべきであると、情熱という火を燃やすもの。人はそれを「使命」と呼ぶのだろう。テクノロジーは人の命を救うことができる。誰かの未来を支えていくことができる。


限界などない。限界と思えることこそ、挑む価値のあるものである。


朝起きた瞬間から、自分が目にする世界。誰一人、同じ毎日は来ない。刻一刻と過ぎていく限られた時間のなかで、それでもその手で世界を変えることができる。自分を信じ、未来を信じる山元氏は、行動することを止めない。


「WITH ALS」代表の武藤氏による、眼で奏でる世界初のMUSIC FILM。「KEEP MOVING」をスローガンに、20年後の東京を舞台にした映像でALSの認知・理解を広げるため制作された。https://www.youtube.com/watch?v=QMc0HedyhKk


編集後記


人は誰しも嘘をつく。人に対しての嘘。冗談としての嘘。方便としての嘘。自分に対しての嘘。良い嘘があることも、悪い嘘があることも、幼いころから人は実践を通して学んできた。


いつしか、大人になるにつれて、嘘の総量が増えてきてはいないだろうか。


意識してつく嘘は、冗談や方便や、悪意といった目的があり自己の内部で表出する。自覚的に嘘をついているからこそ、その結果を回収できる。だから、嘘の程度やその結果に検証を重ね、目的に合致する嘘を意識的に表現できる。


しかし、意識的にする嘘だけが嘘ではないことも事実だ。無意識になされる嘘については自覚しようがない。ついた無意識の嘘は自分や他人にどんな意味をもたらしたか検証のしようもないから余計にたちが悪い。


人は、気づかずに自分で自分をだましている。


自分の今の立ち位置、進路、社会的な賞賛。それを守るために、社会的によく見られようと思ったり、社会的な安全を目指し、自分の歩む道や日々の行動を選んでいく。そこでは、自分の実態や本心から無意識に離れる意思決定をしてはいないだろうか。


気づけば自分の本心と異なる道に進んでしまい、数年経ったあとでふと立ち返る。「ああ、本当はこんなことが大事だったのか……」。誰しも経験したことがあるのではないだろうか。それは、長い年月をかけた自分の本心への嘘ともいえよう。


たしかに、嘘によって私たちの「明日」は守られるのである。しかし、守られるのは「明日」だけであり、本当のところは、その先の未来、人生のためになっているわけではない場合も生まれているのが現実である。


社会のなかで生きる私たちは、無意識に自分の本心に対する嘘をついてしまう。そこには人の可能性すら阻んでしまう要素がひそんでいる。そして数年後ある日突然気づくのだ。ああ本心でなかったのか、と。


In weeks when participants told fewer lies, they reported that their close personal relationships had improved and that their social interactions overall had gone more smoothly that week, the study revealed. "Statistical analyses showed that this improvement in relationships significantly accounted for the improvement in health that was associated with less lying," said Wang, who is a statistician.(被験者たちが嘘をつく回数を少なくしてから数週間後、彼らは近しい交友関係が改善し、社会的な相互作用がより円滑になったと報告したと、研究は示している。統計学者のワン氏は、「この人間関係の改善は、より少ない嘘をつくようになったことによる健康の改善の理由を明らかに説明していると、統計的な分析は示している」と語った。)

―American Psychological Association (アメリカ心理学会)


他人への嘘の話であるが、それはイコール自分への嘘も当然含まれる。嘘をつかなければ、精神的・身体的な健康を手にすることができ、他人との関係が円滑となる。これは、自分と自分が認識する「自分」の関係にも言えよう。自分に嘘をつかないから、自分は自分が認識する「自分」に対して円滑な状態となる。それにより、自分がもたらす行為と自分の本心との乖離がなくなり、胸を張った生き方ができてくる。


「他人(社会)にも自分に対しても嘘をつかない」という姿勢があってこそ、自分にも社会にも純粋にいることができる。困難な道であろうと自分の本心に向き合いつづけられる。「社会」「自分」「自分の本心」の間に歪みがなくなる。だからこそ、自分の思考と行動に生まれる溝で立ち止まること、思考と行動の連携における無駄がなくなり、自分の能力は最大化されていく。


自分がやるべきこと、やれること、そしてこれから挑戦していき自分の力にできることに対し、正味の「自分」でぶつかっていくことができる。その偽りなき姿、山元氏の思いの結晶がコーピー社と言えよう。


世界レベルの技術をもった山元氏が生み出す人類救済の道筋は、「自分に嘘をつかない」という精神から導かれるものなのかもしれない。



※参考

American Psychological Association (APA)(2012)「Lying less linked to better health」『ScienceDaily』,< https://www.sciencedaily.com/releases/2012/08/120806093944.htm >(参照2018-11-2).




株式会社コーピー 山元浩平

代表取締役CEO

1987年生まれ。京都府出身。慶應義塾大学理工学部電子工学科を卒業後、シリコンバレーのスタートアップ、ウェディングプランナーなどを経て、東京大学大学院情報理工学系研究科に入学。その後、共同研究としてYahoo! JAPAN研究所、フランスの研究機関Inriaなど

で人工知能に関する研究を行い、2017年、人工知能の研究開発を行う株式会社コーピー(英語表記:Corpy&Co., Inc.)を創業した。

https://corpy.co.jp/