Focus On 朴貴頌(パク・キソン)

中古トラック流通の仕組みを変え、挑戦者の明日を変える ー 時代は自分の手でつくるもの


前例や過去にとらわれない誰かの意志ある挑戦が、新しい時代をつくる。


「次世代に、新たな選択肢と可能性を。」をミッションに、人や企業の新たな選択肢を創造し挑戦を後押ししていく株式会社Azoop。目下、物流領域をファーストステップとする同社では、運送業界向けに商用車売買プラットフォーム「トラッカーズオークション」やDX支援SaaS「トラッカーズマネージャー」などを展開。同業界の利益最大化と業務効率化に向けた変革の旗手として注目されている。


代表取締役の朴貴頌(パク・キソン)は、慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、リクルートに入社。HR領域にてコンサルティング営業に従事し、中小から大手企業まで約200社に対し採用・育成の企画設計および運用支援を行い、在籍5年間で全社MVPなど25回の受賞歴がある。2015年からは、中古トラック売買業などを営む家業での取締役を経て、2017年に株式会社Azoopを設立した。同氏が語る「挑戦する人を助ける信念」とは。





1章 Azoop


1-1. 次世代に、新たな選択肢と可能性を。


近年、未曽有のパンデミックが浮き彫りにしたものの1つに、非常に重要な社会インフラの存在がある。人々が家から出なくなっても変わらずものを運び、経済を回す物流業界だ。


「我々が対峙しているのは物流業界のなかでも実運送を担っている運送会社の方々で、日本に6万社強あるんですが、現状虐げられているというか構造的に儲からないビジネスになってしまっているんですね。にもかかわらず、社会インフラとしては大切というパラドックスがそこにあって。Azoopではそれを解決していきたいと考えています」


トラック運送といえば多くの人は宅配を思い浮かべるかもしれない。しかし実際は、約85%をBtoBでの輸送を担う事業者が占めている。その数国内に約6.2万社、大半が中小企業である。私たちの生活を下支えしている社会の血脈ともいえる産業だが、抱える問題は多岐にわたり根深い。


低賃金で長時間労働、高齢化と不人気ゆえの労働力不足。加えて、いまだアナログな商習慣が健在で、生産性が低いままになっている。


Azoopは、トラック運送会社の利益最大化と業務効率化を支援する「トラッカーズ」ブランドにて複数サービスを展開。中古トラック売買プラットフォームでは、オンライン上で中古車販売店と運送会社をマッチングするとともに、出品から購入・売却に至る包括的な作業の効率化を実現する。同時に、運送業務そのもののDX支援SaaSをも提供し、運送会社の経営を時代に合わせた形へと変革していく。


今後東京のみならず、全国への拠点拡大も視野に入れる同社だが、当初はユーザーからの強い抵抗感に直面する時期が続いたと朴は語る。


現在のサービス・組織設計に至るまでにはあらゆる選択肢を試しつつ、ユーザーに対しては地道なフィールド営業やセミナー開催による啓蒙活動が必要だった。


「僕たちがこの業界と長く付き合って、変えていくんだと腹決めしたことは結構大きかったかもしれないですね。BtoCのように一気にスケールする事業ではないので、この事業ドメインを選ぶという覚悟ですね。マネタイズも難しい領域ですが、我々としては我々がやらなくて誰がやるんだと、変な当事者意識があるので(笑)。ある意味そこでやっていくと競合がいないので勝てるし、インフラとしても大切、ビジネスモデル上もマネタイズポイントを持てているという点で、稀有な存在だと思っています」


中長期的には現状のビジネスモデルを海外へと移植し、マーケットを開拓していくという。オークションに越境で入札できる仕組みを構築し、世界中どの国にいても中古トラックが購入できるようにする。日本から世界への輸出のみならず、フランスからドイツなど世界の国同士での取引を実現させる。


Azoopは新たなマーケットを切り拓き、運送業の新たな時代をつくる。




2章 生き方


2-1. 自由な意思、自分の責任


友だちとサッカーをしたり、流行りの仮面ライダーや戦隊ごっこをしたり。家の中にこもるよりは外に飛び出して、腕白に遊びまわることが楽しかった少年時代。負けず嫌いで、いつも闘争心のようなものに駆り立てられてきたと朴は振り返る。


「3つ上と5つ上に姉がいたんですが、姉が習っていたピアノとか、見てるとやりたくなるじゃないですか。そういうものを全部追いかけてやっていました。歳が近かったからか、当時は次女にすごくライバル心を抱いていて。運動神経もよかったし、頭もよかったし、結構男勝りでなんでもできるタイプの姉だったので、小学校くらいまでは『打倒姉』みたいな感じでしたね(笑)」


当時は姉が1番のライバルだったかもしれない。その背中を追いかけ真似るうち、自然と興味の幅は広がっていく。幸いにも両親は自由な教育方針で、習い事など興味があることにはなんでも挑戦させてもらえる環境があった。サッカーにアイスホッケー、スイミング、習字に公文式と、気づけば1週間がまるまる習い事で埋まるほど忙しい毎日になっていたという。


「小学校か幼稚園ぐらいの頃、1回スイミングを辞めたいとか駄々をこねたときがあるんです。その時すごく母に怒られて、『一度決めたことをそんなにすぐ放棄するな。自分で言ったんだろう』みたいな問われ方をされたことが幼いながらすごく衝撃的で。やる・やらないという選択は自由ではあるけれども、やると言ったからには責任を持っていなければいけないと教えられたことはすごく覚えています」


かつては教師として働いていた母は教育熱心で、道を外れないようにと生き方や考え方の面でおおいに影響を受けた。


「母に『文武両道』とずっと言われていたんですよ。スポーツもやって当たり前。勉強もできて当たり前。そうじゃないとかっこ悪いみたいに言われて、たしかになぁと。それを真に受けてずっと育ってきました」


負けず嫌いもあいまって、母の教えは自分の中でもしっくりときた。人に負けることは悔しいし、かっこ悪い。かっこいい自分になるためにはやはり努力が必要だ。もともと勉強もスポーツも嫌いではなかったので、それ自体苦に感じることもなく、1位目指して奮闘することが自分の中で当たり前になっていった。


特に、小学校の部活動でやっていたサッカーと、学外のチームで始めたアイスホッケーは好きで力を入れて取り組むようになる。小学校の弁論大会も前に出てスピーチする姿がかっこよかったので、母のサポートを受けながら何度か出場した。


自分でゴールを設定し、ゴールに向かって努力する。それにより得られる喜びや達成感を知るほどに、自分を駆り立てるベースになっていった。


幼少期



2-2. 時代はつくることができる


7人兄弟の末っ子だった父の家系は経営者一族で、ほぼ全員が起業をしている。当時父や叔父から経営の話を聞くことはなかったが、その生活ぶりを見ていればなんとなく良い生活ができる仕事なのだろうとは感じていた。まだサラリーマンという概念も知らない子どもだった頃、むしろ働くとはそういうものなのだと感じていた節もある。


経営者として中古車販売業などを営んでいた父からは、いつも自分の意思を問われてきたという。


「父はゴーイング・マイ・ウェイな性格で、結構そこは僕も似ているなと思うんですが、『他人は他人、自分は自分』という考え方がすごく強かったです。だから、友達がこうだから自分もこうしたいとかは基本的にやらなかったというか、そういう風にすると『お前はどうしたいんだ』とすごく怒られていました」


他人には他人の当たり前が、自分には自分の当たり前がある。それぞれ尊重されるべきだし、無思考に同調させるような力には抗うべきだと考える。たとえば、幼少期から身近にあった朝鮮学校での教育もそうだった。


「僕たちって祖父母の時代に日本に来ていたので、両親も日本生まれなんです。家庭内では100%日本語だし、文化の違いといえば食卓にキムチが毎日出るくらい。でも、韓国籍で日本に住んでいる我々が受けてきた教育って、語弊もありますが反日教育とか反米教育とか、なぜ我々が日本にいるのかという教育があったりするのですが、僕からすれば世代も全然違うしそれは過去の話だなという思いが根底にあって」


かつて祖父母が朝鮮半島から日本へと渡った時代があり、両親が日本で生まれ育った時代がある。そして今、自分が生きる時代、2002年には小泉元首相が北朝鮮を訪問し、金正日総書記と握手をする歴史的な一幕がテレビで繰り返し映し出されていた。


中学生だった当時、音楽でいえば少し古いが尾崎豊やTHE 虎舞竜のロックンロール精神に惹かれる自分がいて、そこには「自由に生きる」ことへの言い知れぬ憧れがあった。


「未来は自分たちで切り拓いていけるとか、時代は自分たちでつくるものという思いが根底としてあるのかもしれないです。だから、こうしなさいああしなさいとか、レールが決まっている環境がすごく苦手で。世代は変わっていくものだし、歴史は変えていける。自分たちがつくっていくものだから、あるものに乗っかるということが昔から自分の中で気持ち悪いんですよね」



中学時代、入学した当初は勉強もせず思春期らしい反骨心の赴くままに過ごしていたが、好きだったサッカーとアイスホッケーだけは続けていた。特に2年生の後半からは、所属していたサッカー部に偶然技術があるメンバーが揃ったことをきっかけに、少しずつサッカーに熱中する時間が増えていった。


「中学2年の後半から中学3年まではサッカーに全精力を注いでいましたね。黄金世代と言われていて、県大会や全国大会に出ることを目標に頑張っていました。チームとしては技術はあるけど努力しない人が多かったので、声を出すとか朝練一緒にやるとか、みんなのモチベーションを上げることを結構意識していました」


やると決めたことは真剣にやりたいし、中途半端は嫌いだった。県大会を目指すという明確な目標を掲げたからには、そこに向けて全力でやりたい。副キャプテンとして役割を全うすべく、チーム全体を鼓舞しつづけた。


「中学3年か高校1年の時に、韓国の学校のサッカーチームが日本に親善試合をしに来たことがあったんです。日本の高校と我々の朝鮮学校と韓国の3チームで試合をしたあと、みんなで焼肉を食べるみたいな会があって。歴史的な問題はいろいろあれど時代は変わっていくんだろうなと感じて、自分がその架け橋になりたいと当時は1番思っていましたね」


ちょうどその頃、日本の映画館では歴史上初めて韓国映画が上映されていた。人や社会の認識は年月とともに移り行く。こと東アジアに関しては、まさに時代が変わっていく足音が聞こえてくるようでもあった。


もともと母方は北朝鮮に、父方は韓国にルーツがある。当然血の繋がった親族がそこで暮らしているという事実もあり、否が応でも世界には目が向いてくる。


日本、韓国、北朝鮮の架け橋になることは、自分という存在を活かすことでもあり、歴史を変えることでもある。自由に未来を切り拓いていきたい自分にとって、目指すべき道がそこにあるのではないかという思いが当時湧き上がっていた。


「とはいえ、生き方を真剣に考えはじめたのは高校1年の夏休みからですね。その頃、高校のサッカー部所属だったんですが、コーチと合わなくてほぼ行っていなかったんです。アイスホッケーも中途半端で、エネルギーを注ぐ先をなくして。高校卒業も視野に入るわけじゃないですか。自分は将来何をしていくんだろうとすごく考えたんですよね」


改めて考えてみると、やりたい職業のイメージはない。漠然とお金は稼げた方がいいだろうとは思っていたものの、いわゆる高給取りと言われる仕事、医者や弁護士はその将来像がある程度決まっていそうで自分には違和感があった。


もっとやることにクリエイティビティがあり、人生を自分の手で切り拓いていけそうな仕事は何か。頭に浮かんだのは、やはり父のような経営者だった。グローバルで活躍し、きちんとお金も稼ぐ。経営者ならそれが叶う。


先の見えない未来を楽しみ、自ら時代をつくる。起業という選択肢が、次第に目標へと変わっていった。


高校の友だちと、卒業旅行にて



2-3. 物事を動かす方法


将来について真剣に考えはじめていた高校時代、同時期クラブチームに所属していたアイスホッケーに対しても次第に熱量が増しつつあった。


「(県内に数チームしかないんですが、)常勝クラブチームがいて、僕の所属したチームは万年2位か3位という感じのチームだったんです。僕たちの世代はここでも黄金世代と言われて、唯一僕が所属していた高校3年間は、その常勝クラブチームからずっと優勝を奪い取っていたんですよね」


目標は明確で、同じ目的意識を共有するチームがある。それだけでも熱く楽しい環境だが、加えて人生でも大きな意味を持つ経験をすることになる。


「高校1年の時に、アイスホッケーの国体選手に選ばれたんですが、国籍が理由で出場できなかったんです。当時の規定だと出れないという話で、2年連続で出場できないことが続いて」


しかし、現実は嘆いても変わらない。もともと日本で暮らすうえで、韓国籍であることの不便はなんだかんだ多かった。


「当時も『またか』という感じでしたね。でも、それが僕の中でのモチベーションというか結構エネルギーに変わっていく人間なので、じゃあ新しい事例をつくりに行こうと、その後2年間の闘いが始まっていきました」


前例がないなら新しくつくればいい。そう言って、主催団体などへの働きかけを主導してくれたのは、ほかでもない母だった。


署名を募ったり、日本弁護士連合会から支援を得たり。さまざまな形で人を巻き込んで、ついには高校3度目の冬、国体の舞台に息子を立たせてくれたのだ。


「こういう感じでテーマを設定して、みんなを巻き込んでいって物事を動かすんだなと、1番目の当たりにした経験はそこかもしれないですね。挑戦の仕方のようなものを、母の姿を見て学んだように思います」


掲げたゴールを達成することへの執着心と行動力。人を巻き込み、1つのチームをつくることで大きな物事を動かしていくというやり方。なんならその延長に、自分が憧れる経営者像もあるように思われた。


もしもあの時あきらめていたら、決して得られなかった結果が目の前にある。2年越しに出場が叶った瞬間は感慨深いものがあった。


「ようやくだなと、嬉しかったかな。1番覚えていることは、リンクに立った時、やっぱり自分の人生って人に支えられて生きているなとすごく感じたことですね。のちに、今Azoopで掲げているミッションにも繋がるんですが、そういう風に何かをしたい人を助けられるような人間になりたいと当時すごく思っていたんですよ」


高校3年生、国体の試合でリンクに立った日


起業や経営は、人の挑戦を後押ししていく手段になる。


自分のように選択肢がなく挑戦できない状況にある人のため、選択肢や可能性を広げるようなことがしたいと、なんとなく思いを描きはじめていた。


「大学受験ではとりあえずなんでもできる学部に行って、経営者になりたいと思って。総合政策学という学部絞りで、慶應と同志社、立命館を受けました。なかでも慶應SFCは第1志望で、初めてオープンキャンパスに行った時に衝撃を受けたんです。それ以来もう1回あの空気を吸いたいなと思って、高校3年生のときには計4回くらい名古屋から通ったのかな」


1990年に設立されて以来、常に時代の最先端を行く学問を提供し、個性豊かな起業家やイノベーターを数多く輩出しつづけてきた慶應SFC。「24時間キャンパス」と掲げられたキャッチフレーズに嘘偽りはなく、学生たちは昼夜を問わず校内で課題に勤しむことができる。特に、インターネット環境の先進性はめざましく、2005年当時、既に地球の裏側にあるブラジルの学校とネットを繋いで一緒に授業を受けられたりもした。


合格という結果を得て、迷わず入学を決める。


「入学してからはすごく楽しかったです。自分の中では『東アジア』と『経営』というテーマがあったので、まず語学を頑張ろうと思って。海外留学やインターンシップをすることにして、短期留学に6、7回行ったり、海外生活は結構長かったかもしれないですね」


巷では「BRICs*」という言葉が話題になりつつあった。グローバルに活躍する人材になるうえで、語学は避けて通れない。当時日本語と韓国語が話せたので、ならば次は中国だと中国語の勉強を始めることにする(*2000年代に著しい経済発展を遂げたブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字を取った造語)


まずは、上海にキャンパスを置く復旦大学に留学。初めての中国では、毎日を必死に生きる現地の人々の熱量に感銘を受けた。道端で商売をする人の金銭交渉も客寄せも、何気ない日常に日本にはない活力や熱気が満ちている。それが何より素晴らしいものであるように感じて、一気に中国が大好きになっていく自分がいた。


そこから「次に来る」と言われていたインドへと旅立つ。食生活や宗教上の理由からくるカルチャーギャップは想像以上にきつかったが、新しい世界に触れる刺激は十分だった。その後は英語を勉強すべく、米国東海岸の街・ボストンへ。1年間英語をみっちり勉強したあとは、海外で現地企業のインターンシップに参加すべくインドにある絨毯メーカーの門戸を叩いた。


インド、絨毯メーカーでのインターンにて


「インド絨毯ってルーツをたどるとペルシャ絨毯なんですよ。その網目の違いによって、インド絨毯なのかペルシャ絨毯なのかが決まるんですが、そのインド絨毯を日本と韓国に売りこむセールスをやっていました。現地の人と一緒に働く経験ってないじゃないですか。毎日お弁当はカレーだし、インド英語にもやっぱり慣れなくて。最初は結構衝撃でしたね」


朝の始業は9時からと意外と早く、食事はカレーばかりで変わり映えがしない。砂漠地帯だったので、気候は日中熱く、夜は極寒になる。にもかかわらず泊まっていた宿がオンボロで、お湯が出ない。何より1日働き、疲れ果てた体を横たえるベッドは机みたいに固いのだ。4か月フルタイムで働いて、気づけば体重は10kgほど落ちていた。


「大変でしたけど、フルタイムで働く経験がそれまでなかったので、その時にもらった給料のありがたさはすごく覚えています。給料日にはホテルに泊まりに行った記憶がありますね。タンドリーチキンを食べてビールを飲む、それがすごく至福だったことを覚えています。あと、トイレも流れるじゃんと思って(笑)」


世界を知り、働くということを知った4年間。もちろん海外生活だけでなく、日本にいるあいだは友達と過ごす時間が何より楽しかった。今でも親しく付き合いがある仲間とは、大学3年から一緒にフットサルチームをつくり、大会目指して練習した仲だったりもする。


さまざまな国の文化、人、生活に触れ、日本では新しい友人たちと挑戦もした。大学4年間を経て、結果として将来への思いや関心は、よりビジネスの世界へと強く向いていた。


「東アジアの架け橋になる。当時はそれを文化を通じてやりたかったんですが、マネタイズ方法が全然分からなかったんですよ。今だったら当たり前にコスメだったりいろいろありますが、当時はビジネスとして成り立つイメージがつかなくて。文化交流は文化交流、ビジネスはビジネスとかけ離れたものだと思っていました」


テーマを掲げ、チームをつくり物事を動かしていく起業がしたい。それを実現する具体的プロセスや事業領域は、広い世界を垣間見てもなお見えていない。しかし、目指す方向に迷いはなかった。


中国留学、北京オリンピックのスタジアムにて



2-4. 起業


商売をいかに成り立たせるか。そのための成長を遂げるに適切な環境はどこか。新卒としての就職先は、やはり起業を意識した選択となっていく。


「当時僕はビジネスマンというか、商売人になりたかったんですよ。『スーパー商人(あきんど)になる』と言っていて。やっぱり父とかを見ていると、ビジネスマンというより家族を支えるために商いをやっている人に憧れていたんですよね」


もともと就職活動を始めた当初は外資金融1本に絞っていた。いわゆる就職偏差値の高い企業であれば成長できるだろうと、リーマン・ブラザーズでサマーインターンに参加したものの、翌月に会社が経営破綻。インターンで経験したトレーディング業務も、経営に意味あるケイパビリティが得られるかという点では疑問が生まれていた。


そこから外資メーカーや総合商社などに切り替えて、いくつか内定を得る。しかし、偶然先輩から教えてもらったリクルートのインターンに参加したことが転機となった。


「参加したインターンがビジネスコンテストのように新規事業を提案する形式だったんですが、何か社会の課題があって、それをどう解決するか、マネタイズするのかを考える。それが初めての経験で面白かったことと。働いている社員の方たちに聞く、汗をかきながら社長と膝をつきあわせて商売する営業スタイルがかっこいいなと思ったんですよね」


海外エリートとして若くして世界を舞台に働くのか、商売人になるのか。自問した結果、雑多な人と交わりながら商売をしていく世界への憧れが勝った。20代で起業すると決め、リクルートへと入社することにした。


「リクルートではお客様に出会う機会も非常に多かったですし、経験としてすごくよかったです。僕はHRの領域だったので、いろいろな業種業態の企業さんを見させていただいて、企業研究をすごくするんですよね。人を採用するという前提に立ったときに、事業戦略やなぜこの会社は業界1位なのかを調べたりするので、ビジネスモデルが鮮明に見えてきて。その会社の価値の源泉は何なんだろうということをすごく見させてもらえたので、非常に勉強になりました」


当初は3年目に起業するつもりでいたが、仕事が想像した以上に楽しくなっていた。25、6歳の自分が、業界大手といわれる企業と対峙する。そこで見られる世界が刺激にあふれ面白く、もう少し続けることにして結果的には丸5年働いた。


起業するつもりで、以前から事業アイデアの構想はいくつか準備していた。だが、偶然帰省したタイミングで父と会話したことをきっかけに家業を手伝うという選択肢が生まれた。


「父は愛知でずっと会社を経営しているんですが、東京にも営業所を出そうと過去5回くらいチャレンジしたものの結局撤退してきたと。それをやりたいんだよねという話を聞いて、じゃあやってみようかなと思ったんです。自分ならできるだろうと。父の姿は家庭内でしか見たことがなかったので、長い人生の中で一度父と働いてみたいなという思いもあって、1~2年だけ働くことにして」


家業の会社で働いていた頃、父、そして父の会社の社員と


父の会社では、地域に根差したトラックの中古車売買と、そのかたわらで運送業を行っていた。リクルートでの経験から、マネタイズポイントなどを考えれば難しくはないだろうと思える。のちにAzoop創業メンバーにもなる大学の同級生、同級生の弟、リクルート時代の先輩の弟とともに、東京営業所をスタートさせた。


「働いてみると、父に対する見方がだいぶ変わりましたよね。会話の質も変わりましたし、やっぱりすごいなと思いました。父は19、20歳くらいから自分の会社を始めて、よくここまで持ってきたなと。すごく尊敬しましたね」


ほかにも運送業というレガシーな業界に身を置いてみて、初めて目の当たりにした古い商習慣には衝撃を受けた。


「連絡はファックスが普通だし。1番衝撃だった経験は、『車の写真をファックスしてくれ』と言われて、白黒でつぶれるし絶対分からないだろうと思いながら送ったら、それで買ってくれたりして。ものすごくカルチャーショックでしたね。あまりにも古いからビジネスオポチュニティしかないなと思いました」


近年需要は拡大する一方で、深刻な労働力不足に直面する物流業界。半年ほど働く頃には、この業界の課題を解決するような新たなビジネスをつくれないかと構想を始めていた。そこでは、いつか父の築き上げた会社を継いで存続させたいという思いも芽生え、家業と競合せず、かつ家業にも利益になる事業体を考えた。


「父は『争わずして勝つ』を地で行く人で、それは今僕の中でも大事にしているテーマだったりします。起業するにあたっても、基本的に競合がいなかったり入ってこれないであろう領域を選んでいて、ポジショニングで勝つというところを目指しています」


2017年5月、株式会社Azoopを設立。はじめはトラックに商材を絞り、オークションサービスを立ち上げるところから今に続く道のりをスタートさせる。


かつていろいろな人に支えられ、アイスホッケーで国体出場を果たした日。リンクに立った瞬間抱いた思いと以来大切にするテーマは変わらない。AからZまであらゆる人々の可能性を無限大にしていきたい、そんな意志を社名に込めた。


何か挑戦したい人を阻む構造上の問題があれば、Azoopが取り払う。選択肢と可能性を広げ、より挑戦しやすい環境をつくりだす。次世代が生きる時代が、今より明るく希望に満ちたものであるように、Azoopは成すべきことに向かいつづける。


起業した頃、創業メンバーと



3章 挑戦したいことがある人へ


3-1. 人生に迷っている暇はない


これまでの人生を振り返り、最大の後悔と言えるものがあると朴は語る。


「やっぱり僕は人生で1番の後悔といえば、早く起業しなかったことなんですよ。(もちろん就職したからこそ得られたものもあり感謝があるのですが、)もっと早くチャレンジしておけばよかったなと思っていて。思い立ったら吉日ではないですが、挑戦したいことがあるならすぐにやった方がいい。人生に迷っている暇なんてないと思っています」


事業を営む家族の姿が身近にあり、昔から起業意欲がある方だった。しかし、本当の意味で企業経営の面白さを知ることができたのは、やはり実際に起業してからだったという。


「経営は常に問題が起きているんですよね。それをチームで乗り越えていく楽しさもありますし、僕はやっぱりリクルーティングとかチームをつくっていくことがすごく好きなので、自分が描く未来観に対してどういったチームを編成するかと考えることはすごく楽しいですね」


起業は1人でもできるが、チームで挑戦するからこそ、より迅速により大きな物事を動かせる。不確実な未来でも、チームで切り拓いていくからこそ苦痛を苦痛とせず乗り越えていける。Azoopには、そんな仲間が着実に集まりつつある。


「弊社の場合、入社時に事業ドメインに魅力を感じている人はほぼいません。どちらかといえば、カルチャーや人となりに惹かれて入ってくださる方が多いですね。成長意欲が高く、自分のキャリアの幅を広げたい人などが集まっています」


挑戦の渦中に身を置いてこそ、より鮮明に描くことができる未来がある。そこで試しにゴールから逆算してみれば、どれだけ時間が足りないか気づくことになるだろう。中途半端な到達点を思うからこそ、人は時間の大切さを思うことができる。


やりたいことの面白さを知るうえでも、より遠くの到達点を目指すうえでも、迷わず挑戦を始めるに越したことはない。


2022.12.26

文・引田有佳/Focus On編集部





編集後記


前例がないなら新しく作ればいいのだと、力強い母の背中に学んだ朴氏。移り行く時代のなかで、これまでの常識やルールを変えなければならない瞬間はいつか訪れるもの。


「とはいえ、人は影響を受けやすい。過去や歴史の存在を思うと、意識的にも無意識的にも意思決定がぶれてしまうことは十分起こりうる。今と未来をフラットに見据え、口火を切って変化を起こすには、ときに強い信念と勇気、行動力などが必要になる。


朴氏の人生が物語るように、その際忘れてはならない教訓がある。たった1人で挑むには力不足に思えるかもしれないが、人々が集まれば大きなうねりが生まれる。変えたい未来があるのなら、人を巻き込みチームを作り挑めばいい。それこそが不確実な未来を、確実に近づける方法だ。


やAzoopが向かう先、きっとそこではこれまでの延長線上にはない運送業の可能性が拓かれる。結果的に、それが古き良き価値をも未来へと繋いでいくことになるのだろう。


文・Focus On編集部





株式会社Azoop 朴貴頌(パク・キソン)

代表取締役社長/CEO
1986年生まれ。愛知県出身。慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、2010年に株式会社リクルートに新卒入社し、コンサルティング営業として中小から大手企業まで約200社の採用・育成の企画設計及び運用を支援。その後、家業(トラック運送業および商用車流通業)での取締役を経て、2017年5月に株式会社Azoopを設立。
https://azoop.co.jp/