Focus On
小林亮太
一般社団法人IXSIA  
代表理事
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orやりたいことは臆せずやってみる。それ自体が自信になっていく。
AIインフラを創造し、日本を再び「世界レベル」へ押し上げるべく、来たるAI時代に必要不可欠な教師データを作成するアノテーションという工程を軸に事業を展開するFastLabel株式会社。同社の開発・提供するAIデータプラットフォームは、労働集約的でテクノロジーの恩恵が及んでいなかった領域を自動化するだけでなく、AIの開発から運用までを一気通貫でサポート。国内アノテーション市場の先駆者として、自動運転からドローン、小売・EC、建設・不動産まで業界も幅広い大手企業100社以上に導入されてきた。
代表取締役の上田英介は、九州大学理学部物理学科を卒業後、株式会社ワークスアプリケーションズへ入社。ソフトウェアエンジニアとして会計製品の開発に従事したのち、2年目からは米国ロサンゼルス支社へと赴任し、AI-OCR請求書管理サービスの設計・開発に携わる。のちイギリスのAIベンチャーであるNexus FrontierTechにて、MLOpsのアーキテクチャ設計・開発を経て、2020年にFastLabel株式会社を設立した。同氏が語る「ブレない自分」とは。
目次
1991年のバブル崩壊以降、低迷する日本経済。「失われた30年」による負の遺産は大きく、いまだ浮上の兆しは見えない。そんな日本の産業を憂い、事業によって後押ししていきたいと上田は語る。
「ソフトウェアの30年ではもう負けているので、今後30年でAIが浸透していくなか、ここでもう一度ビハインドを取ると日本はなかなか厳しい状況になる。まだまだ製造業が強いとはいえ、観光立国になるしかないという話にもなりかねないので、日本の産業全体を再興するためにも頑張っていきたいと思っています」
AIモデルがその真価を発揮するためには、学習用に処理・作成された教師データが不可欠だ。優れた性能を持つ高級車があっても燃料となるガソリンがなかったり、エンジンがボロボロであれば動かせないように、せっかく作ったはいいもののうまく使いこなせない。そんなAIが急増している現状があるという。
FastLabelが提供するAIデータプラットフォームは、アノテーションと呼ばれる教師データの準備工程に焦点を当てている。それまでエンジニアが膨大な時間をかけて作業していた工程を自動化し、同時に品質を担保するプロダクトとなっている。
「今まではAIエンジニアの人が一つひとつ手作業で教師データを作っていたんですよ。それが、AI開発プロセス全体で3か月かかるプロジェクトのうち、当たり前のように2か月とか2か月半という時間が使われていて。しかも彼らは別にそこにスペシャリティがあるわけでもなくて、いわゆるアルゴリズムの方に強みがあるわけで、やりたい仕事でもないことにすごく時間を費やさなければならない状況があったんです」
品質とコストを両立しながら作業を自動化し、さらにモデルの学習/評価機能を有したSaaS型システムとして、エンジニアたちがコアな業務に集中できる環境を整える。ただ教師データの作成を代行するだけではなく、インフラとして機能する。
データの収集からアノテーション、データコンサルティング、モデル開発まで一気通貫で支援することで、同社はAI開発プロセスの迅速化、効率化、高品質化に貢献している。
「2012年にディープラーニング分野の技術革新が起こって以来、AIにはすごく注目が集まっていますが、もう少し俯瞰して現状を見ると、アルゴリズム自体はコモディティ化してきているんです。結局これに与えるデータの方が、実ビジネスとか実社会で肝になってきているという流れがあり、弊社はその大きな変化の中に入って、ニーズに応えるサービスを提供しています」
昨今、OpenAI社が開発し一躍注目されているLLM(大規模言語モデル)も、裏側では大量の高品質なデータセットが作成され、それにより優れたパフォーマンスが担保されている。アルゴリズム自体はオープンソース化される動きもあるなかで、他の追随を許さないAI競争力の源泉には、もはや効果的なアノテーションが不可欠と言っても過言ではない。
さらに同社では、その先も見据えた事業を展開していくという。
「今、弊社がアプローチしているのは、AI開発のなかでもごく一部のアノテーションという領域だけなのですが、これだと課題を解決できる範囲も一部になってしまうと思っていて。AIインフラを作り日本の産業を押し上げていくために、今後はAI開発のプロセス全体を後ろ支えしていけるよう、プロダクトの範囲を広げていきたいと考えています」
作ったAIをいかに高い精度で社会実装していくか。さらに、日夜進化するAI業界で生じる新たな障壁をいかに解消できるか。技術の進歩に伴い尽きない難問に、FastLabelは挑みつづけていく。
同社アノテーションツールのイメージ画面
見渡せば山々が連なり、そのあいだの谷を流れる川は広くて深い。四国地方は徳島県のなかでも特に田舎で、大自然に恵まれたエリアで生まれ育ったと上田は語る。
「1つ上の姉がいて、私が長男で、3つ下に弟がいます。真ん中なので、変な期待は全くなかったですね。自由度は高かったかなと思います。放任と言えば放任だった記憶がありますね」
両親はともに中学校の教師だった。祖父も地元にある中学校の校長先生で、校長室に入れば祖父の顔写真がある。仕事は部活の顧問などがあれば忙しくなるものの、2人とも比較的趣味を楽しみつつ自由に生きているようだった。
「父は温和で、趣味にすごくベットするタイプですかね。フランスが好きなので、仕事を辞めてからはフランス語を勉強したり、もう一度大学に入りなおしていたり。母は韓国ドラマが好きでずっと観ていたり、自由に生きていますね。どちらかと言うと2人ともマイペースなタイプだと思います」
惜しまずやりたいと思えることを子どもにも見つけてほしかったのか、幼少期は両親の意向でいろいろな習い事に通っていた。ピアノや水泳、スキーにはじまり、キャンプや山登りなど、単に両親の趣味だったものもある。
こだわりなくいろいろ経験していくうちに、なんでもやればある程度はできるものだと分かってくる。小学校3、4年からは、友達に誘われて始めた野球に力を注いでいった。
「特別好きでのめり込んでいたというよりは、結構やり始めたらやるタイプと言った方が正しいかなと思っていて。当たり前ながら最初は野球も下手くそだったのですが、自分ができるようになっていくとか、最後の方は弱小だったチームも少しずつ勝てるようになっていったので、そういったところは楽しかったですよね」
小学生時代は周りより体が大きかったこともあり、自然な流れでキャッチャーを任された。試合中は投球のサインや守備の指示を出す。全体を見渡して、勝つために必要なことを考える。頼まれて引き受けた役割だったが、自由に考えていくことは面白く、向いているとも思えるものだった。
「人生のターニングポイントと言っても過言ではない出来事として、小学校1年くらいの頃、初めて家族で海外旅行に行ったんですよ。行き先がモンゴルだったのですが、1週間か10日くらいの旅行のうち、2日目に盲腸になって緊急手術をすることになったんです。でも、当時のモンゴルは医療設備も整っていなくて」
ただでさえ病気で不安な気持ちになるなか、異国の地で手術を受ける。何とか無事に終わったと束の間の安堵もむなしく、点滴がないからと毎日何本も注射を打たれる日々が待っていた。
看護師さんが何を言っているのかも分からなければ、急遽教えられた「Yes」と「No」も伝わっている気がしない。しかも、家族は日中旅行を楽しんでいて、夜だけ病院にお見舞いにやってくる。たしかに病院に1日いても仕方ないとはいえ、楽しい思い出話に耳を傾けるしかできないという状況は堪えるものがある。結局、ろくに旅行も楽しめないまま帰国した。
「その時に、最後に頼れるのは自分だなと感じました。1週間ほぼ水しか飲めなくて、最後だけゼリーを食べる許可が出て、その時の甘さと言ったらもう、今までで最も美味しいスイーツでした(笑)」
周囲の人や環境がどうであれ、最後に頼れるのは自分。つらい状況を耐え忍び、乗り越えていくには、どうやらそんな前提が必要になるようだ。当時学んだスタンスは、中学の野球部に入って以降、役立っていったのかもしれない。
「地元に1つしかない中学校は野球部がものすごく強かったんですよ。四国大会に出場したこともあるチームで、最初の1年はきつかったですね。冬はとりあえず10キロ走ってから練習がスタートするし、ノックは永遠に終わらないし。でも、それが当たり前の環境で、大変な思い出もすごくありますが、やっぱり勝つから楽しかったですね」
最初はファーストやキャッチャーをやっていたが、チームに足りていないからとピッチャーやセンターも、ポジションは必要とされるままなんでもやった。自分が特別器用なタイプだとは思わない。けれど、やればできるとは思っていたので進んで引き受けた。
「そこに対して特にプレッシャーも感じず、やればできるという根拠のない自信と、まぁできないものはできないしという割り切りですね。体育会系なこともあり理不尽な指示が飛んでくることもありましたが、まぁそんなに気にしてもしょうがないと。物怖じしない性格は、中学校で鍛えられたんじゃないかと思います」
過酷な練習に音を上げず、死にそうになるまで疲れても、みんなが辞めずに頑張っているから頑張れる。共通の目標に向かい、チームが1つになる。そうして掴んだ勝利の喜びは、何より代えがたいものだった。
田舎なので地元の進学先の選択肢はあまり多くない。学力で選んだ高校は進学校で、中学とは一転、野球部はあまり強くないようだった。悩んだが野球部には入らないことにした数か月後、クラスの友達から部員不足に陥っているというラグビー部へと誘われた。
「ラグビーは未経験で、高校1年の秋か冬くらいに入ったんですが、1週間後にはもう試合に出ていましたね。それくらい人が足りていなくて。試合は1チーム15人でやるのに14人しかいなかったので、1人は陸上部から無理やり引っ張って来たり。ルールも分からないなか、『とりあえずボールを持ったら前に走って!』と言われて(笑)」
最初は数人だった学年に、自分を含む10名ほどの部員が勧誘されて集まった。まさに先輩たちの努力によって作られた世代は、個性豊かな顔ぶれだった。
「野球はピッチャーとかバッターとか役割や攻守がきっぱり分かれて試合が進むんですが、ラグビーは役割やポジションが同時に入り乱れて。しかも高校生なので選手の能力も体型もバラバラなんですよ。走りが速くてキックが上手いサッカータイプの人もいるし、足が遅いけれど体格が良くてタックルが強いタイプもいる。それがトライを取るために1つになって闘うところは、すごく面白かったですね」
自由にやらせてくれる監督だったので、練習メニューや戦術も自分たちで考えた。バラバラな個性が集まるチームだからこそ、役割を固定せずに幅広い戦術を描く余地がある。
目指す勝利を思えば、自然と熱くなる。試合中は意見が飛び交うこともあるものの、試合が終われば変に引きずらず、謝るべきところでは素直に謝罪し合う。チーム全体でそんな空気感を作りつつ、一筋縄ではいかないメンバーを取りまとめてくれていた先輩は、尊敬する存在だった。
「やっぱりキャプテンである先輩のリーダーシップが素晴らしかったですね。よくこんなにわがままな世代を取りまとめていたなというくらい、面倒くさい世代で。能力は高くて先輩にも意見を言うし、普段の練習はサボることもあるけど、なぜか勝ちにはこだわるみたいな、そんな世代で。個々の能力はバラバラななかで、1つになって勝ちに向かって行く。そのために誰が何をやって、何をどう補うのかと思考する経験は、今にも活きるほどインパクトとしては大きかったのかなと思います」
ゼロから自分たちの手で勝ち筋を見出して、上下を問わず意見する。バラバラな個性も持ち味として、チーム内で互いに補い合っていく。そんなフラットな環境は、心地よいものだった。
ラグビーありきの毎日を過ごすうち、気づけば高校3年の冬だった。引退前、最後の大会は惜しくも準優勝に終わったが、そこにはかけがえのない時間が詰まっていた。
一方で、差し迫った問題といえば近づきつつある大学受験だった。部活が冬まであったので、本格的に受験勉強を始めたのは最後の1、2か月。なんとか今から自分の学力で間に合いそうな難易度かつ、自信のある物理で勝負できるAO入試で受験できるという理由から、九州大学の理学部物理学科へと進学した。
「大学に入ってみて、ここが1番カルチャーショックが大きかったですね。学力である程度選別されているのでバックグラウンドの近い方が割合として多いなという第一印象があって。それから九州特有の文化や価値観が大きく、そのギャップはすごく感じましたね」
さらに、出身校という環境1つとっても違いが見えてきた。通っていた高校は進学校とはいえ田舎なので授業の進度も遅く、受験直前まで範囲が終わっていなかった。しかし、都会の進学校から来た友達に話を聞けば、高校2年のうちには全範囲を終わらせて、早々に受験対策が始まっていたという。
付け焼き刃の対策だけで乗り切った自分と違い、基礎がしっかり身についている同級生は難解になっていく物理の授業にもついていけている。環境の差を目の当たりにしたようだった。
「あと感じたことは、大学に入ったら留学生など海外の方が多くいて。そのようなコミュニティにいる日本人の方がよくグローバルな視点を持ちたいとか、多様性を大事にしたいと言いながら、海外の人と日本の人とで接し方が違ったりする。多様性ってどういうことだろうと疑問に思って」
フラットに接しない理由はよく分からない。けれど、その人たちと同じフェーズに立たなければ分からないことがあるかもしれないと、海外のコミュニティや英語を学んでみようかと思い立つ。ちょうど小中高と部活ばかりの生活だったので、大学では新しいことを始めてみたいと思っていた。
早速1年目は大学が主催する日韓交流プログラムへ1週間、2年目は米国で1か月ほどスタートアップ文化に触れつつホームステイなどをするプログラムに参加した。10年以上経った今でも付き合いが続くほどの得がたい出会いがありつつも、やはり短期ゆえの物足りなさがあったので、3年目は長期の交換留学に応募することにした。
「もともと米国の大学に行きたかったのですがGPAが低かったため学内の選考で勝てなくて、じゃあどうしようかと考えて。どうせ行くなら日本と全く違う文化圏がいいなと思い、九大から行ける留学先で1番遠かった国がブラジルかスウェーデンだったんですよ。その2択から(モンゴルのことがあったので)先進国がいいなと思って、スウェーデンを選びました」
国際線の飛行機を乗り継いで半日以上、日本から遠く離れたスウェーデンの空港に到着し、大学から寮を案内された頃には既に日が暮れつつあった。
長旅の疲れや時差もあり早々に自室で休んでいると、部屋の外から大音量の音楽と歓声が聞こえて目が覚めた。何事かと思い外に出てみると、天井にミラーボールが輝いている。どうやら月1で行われる寮のパーティの日に当たったらしい。あとから聞いた話だが、数ある寮の中でも最も激しいパーティが行われる寮でもあった。
翌朝は至るところにソースなどがぶちまけられて、まさに大惨事である。衝撃的な初日だが、始まってみれば現地での生活は楽しいものだった。
「スウェーデンは楽しかったですね。九大よりも感覚的には全然合いました。スウェーデンの人は日本人に結構近いとも言われていて、最初は人見知りなんですが、1回仲良くなるとものすごく距離感が近くなる感じがあって」
寮に住んでいる留学生たちは国籍もさまざまだ。イギリス、フランス、クロアチアなど欧州圏だけでなく、米国やオーストラリアから来たという人もいる。
アジア出身は少数派で、当初4人いたほかのアジア系の学生たちはいつの間にかほかの寮へと移っていた。自分は気にしなかったが、居心地が悪かったのかもしれない。文化的、環境的な違いは至るところで目に入ってきた。
「スウェーデンは男女の垣根がそんなになかったですかね。たとえば、日本の大学だと物理学科全体が60人くらいいて、女性は5人しかいなかったんですよ。でも、スウェーデンで受けていたコンピュータサイエンスの授業は半分が女性だったんです。日本だとそんなことにはならないじゃないですか。この差はなんなんだろうということは、やっぱり思ったりしましたね」
ほかにも仲良くなった友人から聞いた話では、スウェーデンの博士課程は給料がもらえるという。日本の博士課程では給料なんてもらえない。働き方やキャリアにおいても大きな違いがあるようだった。
「日本だと新卒一括採用のように学部4年で卒業の方が多いですが、スウェーデンってみんな30歳ぐらいになるまで働かないんですよ。大学に行ったあと、だいたい修士号を取って留学をして、また別の修士号を取ってもう1回留学して、ようやくやりたい方向性を定めて就職するという人も結構多くて。そんな風に自由度が高いのは結構いいなと思いましたね。やっぱりそのあたり今の価値観にも活きていて、自分がやりたいことはやってみるべきだし、それは後押しされるべきものだと思っています」
人それぞれやりたいことが違うのは当たり前。それが見つかるタイミングも、そこに至るまでの過程にも「普通」というものは存在しない。だから、それらはフラットに尊重されるべきであり、誰もが物怖じせず自由に挑戦していいはずだ。
誰かに否定されたり何か言われても、諦めたりする必要なんてない。焦らず自分の意思に従って、自由に描いていけばいい。スウェーデンの人のキャリアや人生の描き方は、そう教えてくれているようだった。
院に進むか、就職するか。帰国後は悩んだが、より早く社会に出られる就職の方に魅力を感じ、就職活動へと舵を切ることにした。最初は選り好みせず、とにかく幅広くインターンシップに参加してみる。そのうちの1社が、のちの就職先となるワークスアプリケーションズだった。
「最終的に選んだ理由は、やはり新しい未来を作る仕事に携わっていきたいという思いでした。今このタイミングでこれができると面白いなと思えたのが、当時のワークスアプリケーションズで。今でこそ一部のバックオフィス領域でもAIを使ったSaaSが伸びていますが、あの当時AIを搭載した統合型のERPパッケージを打ち出していたんですよね。結局そのあと失敗に終わってしまいましたが、これはたしかに世の中を前に進めると感じて。親や、大企業などほかの内定先の方からはキャリア的なところで引き止められましたけど、自分の人生ということもあり飛び込む形で選びました」
当時から明確なキャリアプランを描けていたわけではなかったが、自分の興味のある方向には従っていたかった。AIは大学の研究分野だったアルゴリズムの理論とも重なるものがあり、面白そうだったため迷いはなかった。
入社後は配属前研修に参加する。千人ほどいる同期と一斉開始で課題に取り組んで、クリアした人から順に現場へ配属されることになっていた。正直少しでも早く実務に触れたかったので、万全の事前準備をして臨んだ結果、同期の中で1番に突破することができた。
「完全に事前準備の差ですね。これは受験勉強から学んだことでもありますが、九大に来ている人たちが高校2年で全ての範囲が終わっていたように、ほかの人より早く準備すればいいんだと。入社までに何回か社員の人と話す機会があったので、1つ前の世代はどんなことをやっていましたかと聞いて、それに合わせて必要なものを準備していったんです」
配属先では開発職として仕事に身を投じていくことになる。1番に配属されたこともあり、期待を込めてか人並み以上に仕事を振られる日々が始まった。
「今では考えられないですが、リリース前などは二、三徹くらい普通にありましたね。(もちろん一部の方だけですが)まず自分の場合、仕事がほかの人の3倍くらいあって。それを終わらせて『よし、今日は寝られる』と思っていたら、偉い人たちが遠くからやってきて、『お、上田行ける?』と(笑)。『行けますよ』と言ったら、『ここのチームのタスクお願い』みたいな感じで、そこからほかのチームを手伝いに行ってということが日常的にありました」
ハードな環境ではあるものの、その分必死にやればやるほど力がついていく実感もある。どんな仕事が舞い込んできても、動じずこなしていける耐性が磨かれていくようでもあった。
2年目からは米国支社で働けることになり、一路ロサンゼルス行きの飛行機へと乗り込んだ。海外赴任はかねてからの希望でもあった。
「もともと留学もして、その強みを継続できるようなキャリアの方が幅が広がっていいと思っていたんです。選択肢としては持っておきたいなと。だから、海外に転勤できるチャンスがあるなら、自分は海外で働きたいとはずっと言っていて」
現地では1人目の開発職として、米国向けのAI-OCR請求書管理サービスを作るプロジェクトに携わった。日本では千人、二千人規模の組織に身を置いていたが、一転して米国支社は全体でも10人にも満たない。それまで自分と同じ開発職ばかりと接してきたが、営業やコンサルといった職種の人とも言葉を交わすようになる。
「視点は広がりましたね。開発をやっていると開発なりの視点があったりするのですが、営業の人はお客さんに対して全然その粒度で話していないなとか。コンサルの人はコンサルの人であいだに立っているから、やっぱり具体と抽象の行き来がうまいなとか。一方でそういう視点に立つと、開発は開発で良いところも悪いところも見えますし、幅が広がったと思います」
1年半ほど働いたのち、新天地としてロンドンに本社を置くAIソリューションプロバイダー、Nexus FrontierTechへと転職。今まで通りのソフトウェア開発に加え、より専門的なAI領域の実務をキャッチアップしながら機械学習モデルの開発にも取り組んだ。
「そこでおそらく2年弱くらい働いたのかな。日本と海外で2社経験して、エンジニアとしてのキャリアはどうにでもなるなということを思いはじめて。もう少し世の中にインパクトを与えることをやりたいなと考えはじめていた時期だったんですよね」
ほかのスタートアップ企業への転職も視野にはあったが、あまりピンと来ていなかった。国内マーケットで閉じてしまっていたり、便利ではあるもののそれ以上でもそれ以下でもなかったり。どうせなら、もっと世の中を前に進めるような何かがしたかった。
そんな折、日本で働いていた頃の先輩である鈴木健史(現 FastLabelの取締役)と連絡を取り合い、やりたいことが一致していたことをきっかけに、新しく何か始めてみようと意気投合していくことになる。
「自分たちが強みとしてできるところと、あとは市場として芽があるところはどこかと探していったんです。だいたい日本より米国の方が少し早いので、海外のVCが投資していて今シードだかシリーズAくらいの企業を集めて。そこからこれはできそう、できなさそうとチェックしていって、3つくらいに選択肢を絞り込んで。お互い空いた時間にニーズを探っていたところ、どうもアノテーションが最も可能性がありそうだと分かってきたんです」
サービスの輪郭を固めつつ、国内100社ほどの企業に対し問い合わせフォームから連絡を入れてみる。まだ登記もしておらず、とりあえず形だけホームページを作った状態だ。にもかかわらず、5件ほどの返信があり、うち2件が上場企業だったのだ。ニーズは確実にあると確信できた。
2020年、鈴木とFastLabel株式会社を共同創業する。アノテーションは、今後ますます進化が見込まれるAI開発において必要不可欠な領域であることは言うまでもない。加えて、国内はもちろんのこと世界的に見ても未成熟だ。いち早くその市場を押さえ、世の中を前に進める価値を生み出していこうと決めた。
FastLabelは次世代のAIインフラとなるべく、まだ誰も進んだことのない道を泰然と行く。
自由に思い描いた人生を送りたい。そう思っても、進む道の途中で迷いが生じることもあるだろう。臆せず人生を歩む人に共通するものはあるのだろうか。上田は自身の人生を振り返り、やりたいことは素直に表明してきた方だという。
「『やりたいことは素直にやりたいと言った方がいい』とよく言っています。もちろんそれが全て叶うわけではないと思うのですが、やっぱり言った方が現実になる可能性は上がると思うんですよね」
周囲にやりたいことを明らかにしておけば、自身へのコミットにもなるし、それを知って助けてくれる人がいたりする。うちに秘めて終わってしまうより、チャンスを掴める確率が上がったり、選択肢が広がる可能性が高い。上田自身、初めての海外赴任が叶った背景には、当初から希望を表明していたことが大きかったと振り返る。
一方で、今はまだやりたいことが明確にないという人もいる。その場合も臆する必要はないのではないかと上田は考える。
「やりたいことがない、私の性格的にはそれでもまぁいいんじゃないと思ってしまうんですよね。そんなに永遠にやりたいことがない人はいないと思うし、そのうち嫌と言うほど出てくると思うので、そういう時期があってもいいんじゃないかなと。私も数年単位だと仕事を変えたりしていますが、その間ものすごくやりたいことがあったわけでもなかったりするので。逆に言うとまだ見つかっていないだけで、そんなに悲観的になる必要性はないとは思います」
今はまだ見つかっていない時期にいる。だから、それだけで歩みを止める必要はない。
それでも危機感を覚えるのであれば、とりあえず目の前のことをやりきってみることが助けになる。
「やりたくないことだとしても、きちんと目の前のことをやりきる。そしたらなんか楽しくなって、道は開けてくるんじゃないかなと。やりきると、周りからはやっぱり信頼してもらえますし、やったことがないことでもとりあえず取り組んでみたらなんとかなるもので。そうした経験が、根拠のない自信になっていくんじゃないかと思います」
学生時代の野球やラグビー、それから留学や就職活動も、深く考えずとにかく飛び込んでやってみたことで見えてくるものがあった。
長い人生の中で一つひとつは小さくても、積み重なれば揺るぎない自信となる。自分自身の起こした行動こそが、いずれ自分を助け、支えてくれるのだろう。
2024.1.30
文・引田有佳/Focus On編集部
多様性とはどういうことだろう。そう疑問に思ったら、同じ土俵に立ってみてから考えることを選んだ上田氏。英語を勉強し、留学などの機会を通じて広い世界とそこに生きる人々に触れた時代があったからこそ、現在があるとも言える。
今の自分には合わないと感じる人や世界を遠ざけることは簡単だ。しかし、必要以上に悩まずに、まずは行動して確かめることで新たに見えてくるものがあるかもしれない。その瞬間の自分の感情も、他者の声も、一旦は受け止めつつも行動してみることの大切さを上田氏の人生は物語る。
自然と心が動くことや、気になることがあるならば物怖じする必要はない。できることもあれば、できないこともある。それ自体は当たり前のことであり、正しく自分を見つめていれば過剰に一喜一憂することもなく、集中すべきことに集中できる。
日本の産業の未来を見据えるFastLabelも、高まるAIニーズの最前線に飛び込んでいく。今はまだ未成熟な領域だからこそ、一歩一歩進みつつ、世の中を前進させる事業の真髄へと近づいていくのだろう。
文・Focus On編集部
FastLabel株式会社 上田英介
代表取締役CEO
1992年生まれ。徳島県出身。九州大学理学部物理学科情報理学出身。株式会社ワークスアプリケーションズでソフトウェアエンジニアとして会計製品の開発に2年間従事。2年目に開発者として初めてロサンゼルス支社へ赴任。アメリカの商習慣に合わせたAI-OCR請求書管理サービスを設計・開発。その後、イギリスのAI企業でMLOpsのアーキテクチャ設計や開発を行い、大手銀行のDXプロジェクトを推進。AIの社会実装をする中で感じた原体験をもとにFastLabelを創業。